﹃関
東
往
還
記
﹄
に
つ
い
て
高
橋
秀
栄
一 ﹃ 関 東 往 還 記 ﹄ は 奈 良 西 大 寺 の 思 円 房 叡 尊 が、 弘 長 二 年 ( 一 二 六 二) 二 月 四 日 か ら 八 月 十 五 日 ま で、 鎌 倉 に 下 向 し、 興 法 利 生 の 教 化 を 垂 れ た 時 の 旅 行 記 で、 随 僧 の 一 人、 性 海 が 書 き 綴 っ た も の で あ る。 そ の こ と は、 叡 尊 の 自 叙 伝 で あ る ﹁ 金 剛 仏 子 叡 尊 感 身 学 正 記 ﹂ ( 弘 安 八 i 九 年 成 立) の 弘 長 二 年 の 条 に ノ 自 二 月 四 日 進 発、 至 八 月 十 五 日 帰 寺、 八 ケ 月 日 々 事、 性 海 比 丘 往 還 記 両 巻 粗 載 之 と 明 記 さ れ て い る こ と か ら も 明 ら か で あ る。 し か し な が ら、 性 海 の 自 筆 を と ど め る ﹃ 関 東 往 還 記 ﹄ の 原 本、 な い し は 草 稿 本 は 早 く に 失 な わ れ た よ う で、 今 日 に 伝 わ ら ず、 そ の 成 立 事 情 は も と よ り、 そ の 書 名 に つ い て も、 ま た 巻 数 に つ い て も、 確 か な こ と は 不 明 で あ る。 例 え ば、 そ の 書 名 は、 今 日、 ﹃ 関 東 往 還 記 ﹄ で 丁 般 に 知 ら れ て い る と こ ろ で あ る が、 そ の 呼 称 は、 現 存 す る 唯 一 の 写 本 で あ る 尊 経 閣 文 庫 所 蔵 本 ( 古 く は 北 ( 1) 条 実 時 一 族 の 菩 提 寺 で あ る 称 名 寺 の 蔵 書 で あ っ た) の 尾 題 に も と つ く も の で あ つ て、 そ れ を そ の ま ま 成 立 当 初 の 原 題 と み な し て い い か ど う か、 私 は い さ さ か 疑 問 を も つ て い る。 卑 見 を い え ば、 そ の 書 名 は 実 は 叡 尊 に 随 行 し て 鎌 倉 に 下 り、 一 夏 の 化 導 ぶ り を 目 の あ た り に し て い た 門 人 性 海 の つ け た も の で な く、 後 代 の 人 に よ っ て 仮 に つ け ら れ た 可 能 性 が 考 え ら れ る の で あ る。 で は、 そ れ は、 い つ、 何 人 に よ つ て 名 づ け ら れ た も の な の で あ ろ う か。 結 論 を 先 に い え ば、 そ れ は、 天 正 年 間 に、 こ の 一 巻 の 書 物 を 発 見 し た 僧 侶、 す な わ ち、 称 名 寺 の 子 院 の 一 つ で あ っ た 大 宝 院 の 住 僧、 秀 波 房 祐 芳 に よ っ て、 新 た に 書 き 加 え ら れ た 形 跡 が き わ め て 濃 い の で あ る。 そ の こ と は、 尊 経 閣 文 庫 所 蔵 本 の 尾 題 と 奥 書 の 筆 跡 が 同 筆 で あ り な が ら、 本 文 と は 全 く 別 筆 で あ る と い う 点 か ら 明 白 に う か が わ れ ( 2) る の で あ る。 さ い わ い、 秀 波 房 祐 芳 の 筆 跡 は 他 に も 二、 三 残 つ て い て、 同 筆 か 異 筆 か 照 合 す る こ と が で き、 そ の 比 較 を 通 ﹃ 関 東 往 還 記 ﹄ に つ い て ( 高 橋) 二 一 九-720-﹃ 関 東 往 還 記 ﹄ に つ い て ( 高 橋) 二 二 〇 じ て、 そ の 人 の 筆 跡 に ま ぎ れ も な い こ と が 確 認 ず み で あ る。 そ う し た 書 誌 学 的 作 業 を へ て 確 か め ら れ る こ と は、 尾 題 と、 そ の 後 に 書 か れ て い る 二 行 分 の 奥 書 と は、 天 正 五 年 に 秀 波 房 祐 芳 に よ つ て、 新 た に 書 き 加 え ら れ た も の で あ っ て、 本 文 が 書 写 さ れ た 当 初 に は も と も と 存 在 し な か っ た も の で あ る と い う こ と な の で あ る。 そ れ で は い つ た い 本 文 は い つ 頃 書 き 写 さ れ た も の な の で あ ろ う か。 こ れ も 結 論 を 先 に い え ぱ、 そ れ は 鎌 倉 時 代 の 後 期 ご ろ と 推 定 さ れ る の で あ る。 そ の 有 力 な 根 拠 は、 も ち ろ ん 本 文 の 書 風 に う か が わ れ る の で あ る が、 加 え て、 同 書 の 紙 背 に、 建 武 五 年 ( 一 三 三 八) に 七 十 八 才 で 入 滅 し た 称 名 寺 二 代 長 老。 明 忍 房 劔 阿 の 筆 跡 が 混 在 し て い る こ と が 確 認 さ れ る か ら で あ る。 す な わ ち、 十 五 種 を 数 え る 律 系 譜 の う ち、 第 十 三 番 目 に あ た る 招 提 寺 窮 情 房 の 血 豚 相 承 譜 の う ち ( 3) の、 大 悲 菩 薩 覚 盛 伝 の 傍 注 そ の 他 四 ケ 処 に 劔 阿 の 筆 跡 に よ る 書 き 入 れ が 認 め ら れ る ば か り か、 覚 盛 伝 の 傍 注 に ﹁ 元 徳 二 年 八 月 三 日 ﹂ の 日 付 を と も な っ た 事 項 が み え る こ と、 ま た 称 名 寺 の 明 忍 房 劔 阿 が、 鎌 倉 東 栄 寺 の 開 山 顕 律 房 を 通 じ て、 覚 盛 系 の 戒 脈 を 稟 け て い る こ と が 示 さ れ る と と も に 傍 注 に ﹁ 武 州 金 沢 称 名 寺 長 老 ﹂ と 明 記 さ れ て い る こ と か ら、 紙 背 の 律 系 譜 は、 劔 阿 が 称 名 寺 の 二 代 長 老 に 就 任 し た 延 慶 元 年 ( 一 三 〇 八) 以 後、 劔 阿 が 入 滅 し た 建 武 五 年 ( 一 一三 二 八) ま で の 間 に 書 写 さ れ た も の と 推 定 さ れ る の で あ る。 し か し、 劔 阿 が 細 字 で 本 文 の 行 間 な ど に 傍 注 や 脚 注 を 書 い て い る 例 は 北 条 氏 一 族 が 滅 亡 し た 元 弘 三 年 ( 一 三 三 三) か ら 建 武 五 年 ( 一 三 三 八) ま で の 間 に は 全 く み る こ と が で き な い の で、 覚 盛 伝 の 傍 注 に み ら れ る 元 徳 二 年 ( 一 三 三 〇) 八 月 三 日 ⋮ ⋮ 以 下 の 書 き 入 れ は 最 末 期 に 属 す も の と 考 え ら れ る。 以 上 の よ う な 理 由 に よ り、 本 文 は 鎌 倉 後 期 ご ろ の 書 写 と 推 定 さ れ る の で あ る。 尊 経 閣 に 所 蔵 さ れ る 写 本 の 書 写 年 代 に つ い て、 ﹃ 図 録 茶 道 史 ﹄ や 茶 道 関 係 の 図 録 で は、 天 正 五 年 の 写 本 と 記 載 さ れ て い る が、 そ れ は 訂 正 さ れ る 必 要 が あ ろ う。 そ れ で は 一 体、 こ の 叡 尊 の 在 鎌 中 の 化 導 記 録 の 原 題 は 何 ん で あ つ た の だ ろ う か。 こ の 点 に 関 し て は、 正 直 の と こ ろ、 不 明 と い わ ざ る を え な い。 既 存 唯 一 の 写 本 と し て 珍 重 さ れ て い る 尊 経 閣 所 蔵 本 は、 不 幸 に も、 表 紙 お よ び 初 丁 の 一 紙 を 失 な っ て い る た め、 そ の 外 題、 内 題 を 確 か め る こ と が で き な い か ら で あ る。 他 か ら 転 写 本 が 出 現 す る の を 期 待 す る も の で あ る が、 し か し、 ﹃ 感 身 学 正 記 ﹄ に は ﹁ 性 海 比 丘 往 還 記 粗 載 之 ﹂ と あ っ て、 " 関 東 " の 二 字 が つ け ら れ て い な い。 あ る い は ﹃ 往 還 記 ﹄ と い う の が、 も と も と の 書 名、 原 題 で あ つ た の で は あ る ま い か。 一 考 を 要 す と 私 は 考 え て い る。 と も あ れ 今 日 一 般 に 知 ら れ て い る ﹃ 関 東 往 還 記 ﹄ と い う 書 名 は、 称 名 寺 の 住 僧 秀 波 房 祐 芳 が 天 正 五 年 に 新 た に 書 き 加 え た も の で あ つ て、 叡 尊 の 門 弟 の 性 海 の 原 本 に 由 来 す る も の で は な い と い う こ と を 指 摘 し て お き た い と 思 う。
-721-二 と こ ろ で、 鎌 倉 に 幕 府 が 開 か れ て よ り、 実 に 多 く の 人 々 が、 京 都 や 奈 良 か ら ⋮鎌 倉 に 下 り、 政 治。 経 済 ・ 芸 術 ・ 宗 教 そ の 他 あ ら ゆ る 分 野 に さ ま ざ ま な 足 跡 を 残 し て い る。 私 は こ こ 数 年、 鎌 倉 地 方 の 仏 教 の 形 成 あ る い は 興 隆 に 貢 献 の あ っ た 下 向 僧 に つ い て 関 心 を も ち つ づ け て い る が、 多 く の 下 向 僧 の 中 で、 西 大 寺 の 長 老 叡 尊 は、 文 筆 の 才 あ る 門 弟 に め ぐ ま れ た こ と も あ る が、 下 向 の あ ら ま し、 そ し て 在 鎌 中 の 日 々 の 出 来 事 を 詳 し く 書 き 綴 つ た 記 録 を 今 日 に 残 し 伝 え て い る 点 で、 き わ め て 幸 福 な 存 在 で あ る と い つ て い い。 こ の 鎌 倉 下 向 に 関 す る 旅 行 記 が 遺 存 し て い る こ と に よ つ て、 当 時 六 十 二 才 の 老 令 で あ つ た 叡 尊 が、 な ぜ に 鎌 倉 に 下 向 す る こ と を 決 意 し た か。 旅 行 に 費 し た 日 数 や 路 次 の あ り さ ま、 鎌 倉 入 り し て か ら の 日 々 の 化 導 の 様 子、 鎌 倉 幕 府 の 為 政 者 と 対 面 し た 時 々 の 会 話 の や り と り、 な ど ま で も か な り 詳 し く 知 る こ と が で き る わ け で、 そ の 点、 道 元 と は 全 く 対 照 的 で あ る。 し か し、 往 還 記 は た だ 叡 尊 の 鎌 倉 下 向 の あ ら ま し や 化 導 の 日 々 の 様 子 を 知 る だ け の 価 値 に と ど ま る も の で は な く、 例 え ば、 茶 道 研 究 の 上 か ら も、 ま た 医 学 研 究 や 交 通 史 研 究、 気 候 史 研 究 の 方 面 か ら も 注 目 さ れ る 内 容 を 帯 び て い る も の で、 そ の 資 料 的 価 値 は 頗 る 高 い も の が あ る。 か つ て、 関 靖 氏 は、 そ の 中 に は 当 時 の 公 卿、 武 士、 僧 侶、 女 房、 其 他 の 人 名 や、 社 寺 名、 地 名、 所 領 名、 薬 種 名、 仏 事、 其 他 が 沢 山 に 記 さ れ て い る の で、 ⋮鎌 倉 時 代 の 歴 史 を 研 究 す る 人 に と つ て は 非 常 に 大 切 な 文 献 と な る も の と 指 摘 さ れ た が、 そ の 意 見 は 十 分 に 尊 重 さ る べ き も の で あ る。 関 氏 は ご く 大 雑 把 に 述 べ ら れ て い る だ け で あ る が、 実 は、 こ の ﹃ 往 還 記 ﹄ は ﹁ 鎌 倉 幕 府 の 創 始 期 か ら 中 期 ま で の 事 蹟 を、 幕 府 自 身 で 編 纂 し た 歴 史 書 ﹂ ( 国 史 大 辞 典) で あ る ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ の 弘 長 二 年 の 条 を 補 な う 有 力 な 材 料 の 一 つ で も あ る と い う こ と に 注 目 し た い と 思 う。 現 在 ま で に 知 ら れ て い る ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ の 伝 本 ( テ キ ス ト) と し て は、 吉 川 本 ・ 島 津 本 ・ 毛 利 本。 北 条 本 と よ ば れ る 諸 本 が あ る が、 そ れ ら の い つ れ に も 弘 長 二 年 の 記 録 は 欠 逸 し て お り、 当 時 の 幕 府 に お け る 出 来 事、 鎌 倉 を 中 心 と す る 東 国 で 起 つ た 事 柄 に つ い て は 皆 目 知 る こ と が で き な い。 ﹃ 往 還 記 ﹄ に は 五 ヶ 月 余 り ( 二 月 四 日 か ら 七 月 晦 日 ま で) の 記 録 を 書 き 綴 つ た だ け で あ る が、 時 の 執 権 北 条 長 時、 前 執 権 北 条 時 頼 を は じ め と す る 幕 府 政 治 に か か わ り の あ つ た 武 士 た ち の 名 前 が 頗 出 し て い る こ と か ら み て も、 ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ の 補 助 的 資 料 に あ て る こ と は 十 分 可 能 で あ ろ う。 そ の 意 味 か ら も、 関 氏 が い う よ う に ﹁ 鎌 倉 時 代 の 歴 史 研 究 に と つ て の 大 切 な 文 献 ﹂ で あ り、 貴 重 な 資 料 と い う こ と が で き る わ け で あ る。 ﹃ 関 東 往 還 記 ﹄ に つ い て ( 高 橋) 二 一 二
-722-﹃ 関 東 往 還 記 ﹄ に つ い て ( 高 橋) 二 二 二 三 と こ ろ で、 ﹃ 往 還 記 ﹄ の 筆 録 を 手 が け た 性 海 に つ い て は、 従 来、 そ の 行 実 の 検 討 が 看 過 さ れ て い る よ う で あ る が、 種 々 の 資 料 か ら 一 応 次 の よ う な こ と が 知 ら れ る。 ま ず 生 没 で あ る が、 没 年 は 未 詳 で あ る が、 生 年 に つ い て ( 5 ) は、 六 波 羅 蜜 寺 所 蔵 の ﹃ 雑 々 悉 曇 抄 ﹄ の 奥 書、 お よ び、 唐 招 ( 6) 提 寺。 西 明 寺 所 蔵 本 の ﹃ 西 大 寺 興 正 菩 薩 御 入 滅 記 ﹄ の 奥 書 に 記 載 さ れ て い る 世 寿 と 法 膿 ( 夏 騰) を 逆 算 し て、 嘉 禎 元 年 ( 一 二 一二 五) の 生 れ で あ つ た こ と が 確 認 で き、 加 え て、 十 八 才 ご ろ 出 家、 そ し て 叡 尊 に 随 つ て 鎌 倉 に 下 向 し た 弘 長 二 年 に は 廿 八 才 の 青 年 僧 の と き で あ つ た こ と が 知 ら れ る。 ま た、 叡 尊 が 遷 化 し た 正 応 三 年 ( 一 二 九 〇) に は、 五 十 六 才 で、 な お 建 在 で あ つ た こ と も わ か る。 性 海 が 四 天 王 寺 ( 大 坂) の 出 身 の 人 で、 房 号 を 覚 証 坊 と 称 し、 叡 尊 か ら 菩 薩 戒 を 受 け た こ と は 西 大 寺 所 蔵 ﹁ 叡 尊 像 ﹂ の き よ う み よ う 像 内 に 納 入 さ れ て い た 文 書 の 一 つ ﹁ 援 菩 薩 戒 弟 子 交 名 ﹂ か ら 知 ら れ る が、 さ ら に ﹃ 律 苑 僧 宝 伝 ﹄ 巻 13 お よ び ﹃ 本 朝 高 僧 伝 ﹄ 巻 61 に 収 め る 極 楽 寺 栄 真 伝 の 文 中 か ら、 和 州 善 光 寺 に 往 し た こ と、 円 真 坊 栄 真。 了 願 坊 智 忍 ら と 共 に、 叡 尊 の 法 嗣 で 砒 尼 に 精 し く、 当 時 " 翅 楚 " と 推 賞 さ れ て い た こ と な ど も 知 ら れ る。 著 作 と し て は、 次 の よ う な も の が あ る。 ○ 西 大 寺 毎 年 七 日 七 夜 不 断 光 明 真 言 勤 行 式 ( 文 永 元 年) ○ 大 神 宮 参 詣 に ち な む 日 記 ( 弘 安 三 年) ○ 西 大 寺 興 正 菩 薩 御 入 滅 記 ( 正 応 三 年) 晩 年 は 和 州 善 光 寺 に て す ご し、 そ こ で 入 滅 し た も の か と 推 定 さ れ る が、 性 海 の 行 実 に つ い て は 今 後 さ ら に 追 求 し 明 ら か に す る 必 要 が あ ろ う。 1 尊 経 閣 所 蔵 本 に は 次 の よ う な 尾 題 と 奥 書 が み え る。 ヒ 関 東 往 還 忌 記 是 者 上 下 候 へ 共 分 失 候 悉 破 壊 申 候 天 正 五 丁 丑 九 月 十 五 日 付 申 者 也 金 沢 称 名 寺 大 宝 院 祐秀 芳波 房 五 十 六 2 金 沢 文 庫 保 管 ﹁ 百 光 遍 照 ﹂ (永 禄 二 年 四 月 二 日 書 写 の 奥 書 あ り) ﹁ 文 殊 菩 薩 摺 仏 ﹂ ( 永 禄 六 年 二 月 九 日 の 年 紀 あ り) 3 ﹁ 遁 世 以 前 称 学 律 房 住 興 福 寺 常 喜 院 / 自 誓 受 戒 以 後 名 窮 情 坊 実 名 覚 盛 / 依 律 造 無 口 坊 妖 世 号 / 応 量 坊 元 徳 二 年 八 月 / 三 日 過 長 被 憲 / 大 徳 畢 ﹂ 4 ﹁ 関 東 往 還 記 の 裏 注 の 発 見 に 就 い て ﹂ ( 神 奈 川 県 図 書 館 協 会 報) 5 弘 安 六 年 九 月 日 是 類 集 之 了 / 同 十 一 月 廿 三 日 是 清 書 詑 / 小 比 丘 性 海 通四 受 計 十 九 二歳 反 (涙) 6 正 応 三 年 十 月 日 為 備 廃 忘 拭 懐 旧 之 儀 記 之 了。 ⋮ ⋮ ︹ 金 剛 仏 子 性 海 夏生 臨年 三五 十十 九六 ︺ (金 沢 文 庫 主 任 学 芸 員)