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183921_総合教育センター紀要.indb

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(1)

   心中之通、一筆申入候、 一従元就承候する儀、一人にも申聞間敷事、 一 お と な 衆 并 も り 衆、 奉 行 以 下 之 近 習 共、 何 た る 儀 申 候 共、 大 小事共ニ、伺可申事、 一此段者、雖不及申儀候、元就に、誰々にても候へ存替申間敷 事、 若此旨偽候者、可罷蒙 日本国中大小神祇、八幡大菩薩、祇薗牛頭天皇、殊厳島両大 明神、杵築大明神御罸者也、仍神文如件、        少輔太郎        永禄十年正月十日         輝元(花押)          桂左衛門大夫殿 誰に何と言われようと、どんなことでも元就の意向を伺い、その指 示に従うと誓っている。また、元就は、発信年不明の九月二十日付 輝 元 宛 自 筆 書 状 で、 「 御 状、 殊 御 神 文 給 候、 誠 々 祝 着 此 事 候 〳〵、 さりなから、御方我等半におゐてハ、かやうの御心遣も不入候、何 し に 少 も 疑 心 を 存 候 ハ ん 哉 と 存 計 候 〳〵、 ( 中 略 ) 何 事 ニ 付 而 も、 此 御状のことく、可成其心得候〳〵、少も隔心申間敷候、神も御照覧 候 へ、 偽 あ る ま し く 候 〳〵」 (『 毛 』 五 六 八 号 ) と、 我 々 の 間 で は、 このような気遣いは無用としている。この時も、 輝元は、 書状と「神 文」を元就に届けているようである。これらのやりとりから、 万事、 元就に「申談」し、その意向に従うのだという輝元の姿勢を看取で きる。 9   岸田裕之『毛利元就』 (ミネルヴァ書房、平成 26) 10   注 9 同書 11   『山口県史』 「史料編中世 4 」所収。 12   吉川広家の小笠原家入嗣に関係する諸家の動向や、輝元の吉川広 家への評価等については、光成準治「総論   吉川広家をめぐる三つ の転機」 (『吉川広家』光成準治編著、戎光祥出版、平成 28)に詳し い。 13   『広島県史』 「古代中世資料編 Ⅴ 」 所収、 山口県文書館所蔵文書 (毛 利家文庫新整理分)一〇号。堅田元慶宛、六月二十四日付書状。 14   『 毛 利 家 文 書 』、 『 吉 川 家 文 書 』 に は、 関 ヶ 原 以 後 の 毛 利 家 の 処 遇 に係る書状が数多く収載されている。徳川家康家臣の黒田如水、長 政父子、井伊直政、本多忠勝、福島正則等の吉川広家、福原広俊宛 起請文や輝元の起請文などから、毛利家存続を図る動きが確認でき る。関ヶ原前夜からの輝元及び吉川広家、福原広俊等の動きについ て は、 光 成 準 治『 毛 利 輝 元 』( ミ ネ ル ヴ ァ 書 房、 平 成 28) に 詳 し い 分析がある。 15   岸田裕之氏は、前掲 書(注 9 )において、関ヶ原の戦いから大坂 夏の陣を経て、 毛利家が断絶を免れたことについて、 「毛利氏一門・ 一族は、元就のいわゆる三子教訓状の精神をもって家の危機をのり 切 っ た。 ( 中 略 ) 激 動 の な か、 し か も 緊 迫 し た ギ リ ギ リ の 時 宜 で、 元 就の遺訓は孫たちの結束を果たす最高の指針として機能し、毛利氏 を救ったといえる」としておられる。

(2)

元への家督譲与についての協議が行われ、それから約一年の間に家 督相続が行われたこととは確実であろう」とされている(注 2 拙稿 〈注 1 〉を再掲) 。 5   この書状の「ひかしかた」を、 『大日本古文書』は、 「元就側室小 幡 氏 」( 中 の 丸 ) に 比 定 し て い る が、 「 小 幡 氏 」 が、 「 東 の 大 方 」 と 呼 ば れ る の は、 『 児 玉 党 嫡 宗 藤 原 氏 小 幡 家 系 』( 「 萩 市 郷 土 博 物 館 」 寄託)によると、元就卒去後、中の丸が桜尾城に移居した後のこと であるため、本状発信の時点で「ひかしかた」と呼ばれる可能性は 低い。事項の性質上、生母尾崎局であれば最もふさわしいが、管見 の及ぶところ、隆元が室尾崎局を「ひかしかた」と呼んだ事例を見 いだせていない。 6   輝元の元服は、永禄八年二月十六日であった。    『毛利家文書』三一九号の毛利元就書状には次のようにある。 御元服、 誠千秋万歳候、 我等満足此事候、 仍太刀一振、 刀一腰、 馬 一 疋 進 之 候、 長 久 表 御 祝 儀 計 候、 帰 陣 之 時、 弥 吉 事 可 申 候、 猶宮靏可申候、恐々謹言、  (永禄八年 )     二月十六日         元就(花押)    (輝   元)     少輔太郎殿          進之候   ま た、 『 小 早 川 家 文 書 』 一 五 四 号、 桂 元 澄 の 弟 桂 元 忠( 左 太 ) 宛書状案にも次のような記載がある(抄出) 。 御 ( 輝 元 ) 曹司 様御元服、一昨日十六日、御祝言相調申候、御元服之 次第、 前々承見申候よりも、 殊外御造作御六ヶ敷御座候ツる、 一御 伇 者多々入申候、 り ( 理 髪 ) はツ の御 伇 者と候て、元澄を被   仰付 候、 是 ハ 御 上 使 之 御 名 代 ま て に て 候、 ( 中 略 ) 今 日 御 上 使 御 請 待にて候間、 御祝言御隙明、 公私目出度候、 其表弥御竸之由、 申も疎候、猶期来慶候、恐々謹言、         (永禄八年)           二月十八日           元澄        元忠 まいる            毛利家家訓の継承(二) 御陳所 元 澄 は、 元 服 の 次 第 に つ い て 詳 述 し た 上、 「 御 上 使 之 御 名 代 と ハ 乍申、御くしをつめ申、御烏帽子をめさセそめ申候事、七十ニ罷 成候まてなからへ候て、如此之御祝言相調申候事、元澄冥伽と存 候」と感激している。   なお、この元澄の書状から、左太(元忠)は、元就に同行して 陣中にあることがわかる。 7   西尾和美氏は、この書状の「お ほ せきかせられ候御事」は、宍戸 隆 家 女 と 輝 元 の 縁 辺 の こ と で は な い か と 推 断 し て お ら れ る。 「 戦 国 時代毛利氏の女性― 毛利家家訓の継承(二) 尾崎局の生涯― 毛利家家訓の継承(二) 」(『生・成長・老い・死』 〈生 活と文化の歴史学七〉竹林舎、平成 28)所収。 8   例えば、輝元は、次のような起請文を元就に発信している( 『毛』 二四〇号) 。

(3)

元への家督譲与についての協議が行われ、それから約一年の間に家 督相続が行われたこととは確実であろう」とされている(注 2 拙稿 〈注 1 〉を再掲) 。 5   この書状の「ひかしかた」を、 『大日本古文書』は、 「元就側室小 幡 氏 」( 中 の 丸 ) に 比 定 し て い る が、 「 小 幡 氏 」 が、 「 東 の 大 方 」 と 呼 ば れ る の は、 『 児 玉 党 嫡 宗 藤 原 氏 小 幡 家 系 』( 「 萩 市 郷 土 博 物 館 」 寄託)によると、元就卒去後、中の丸が桜尾城に移居した後のこと であるため、本状発信の時点で「ひかしかた」と呼ばれる可能性は 低い。事項の性質上、生母尾崎局であれば最もふさわしいが、管見 の及ぶところ、隆元が室尾崎局を「ひかしかた」と呼んだ事例を見 いだせていない。 6   輝元の元服は、永禄八年二月十六日であった。    『毛利家文書』三一九号の毛利元就書状には次のようにある。 御元服、 誠千秋万歳候、 我等満足此事候、 仍太刀一振、 刀一腰、 馬 一 疋 進 之 候、 長 久 表 御 祝 儀 計 候、 帰 陣 之 時、 弥 吉 事 可 申 候、 猶宮靏可申候、恐々謹言、  (永禄八年 )     二月十六日         元就(花押)    (輝   元)     少輔太郎殿          進之候   ま た、 『 小 早 川 家 文 書 』 一 五 四 号、 桂 元 澄 の 弟 桂 元 忠( 左 太 ) 宛書状案にも次のような記載がある(抄出) 。 御 ( 輝 元 ) 曹司 様御元服、一昨日十六日、御祝言相調申候、御元服之 次第、 前々承見申候よりも、 殊外御造作御六ヶ敷御座候ツる、 一御 伇 者多々入申候、 り ( 理 髪 ) はツ の御 伇 者と候て、元澄を被   仰付 候、 是 ハ 御 上 使 之 御 名 代 ま て に て 候、 ( 中 略 ) 今 日 御 上 使 御 請 待にて候間、 御祝言御隙明、 公私目出度候、 其表弥御竸之由、 申も疎候、猶期来慶候、恐々謹言、         (永禄八年)           二月十八日           元澄        元忠 まいる            毛利家家訓の継承(二) 御陳所 元 澄 は、 元 服 の 次 第 に つ い て 詳 述 し た 上、 「 御 上 使 之 御 名 代 と ハ 乍申、御くしをつめ申、御烏帽子をめさセそめ申候事、七十ニ罷 成候まてなからへ候て、如此之御祝言相調申候事、元澄冥伽と存 候」と感激している。   なお、この元澄の書状から、左太(元忠)は、元就に同行して 陣中にあることがわかる。 7   西尾和美氏は、この書状の「お ほ せきかせられ候御事」は、宍戸 隆 家 女 と 輝 元 の 縁 辺 の こ と で は な い か と 推 断 し て お ら れ る。 「 戦 国 時代毛利氏の女性― 毛利家家訓の継承(二) 尾崎局の生涯― 毛利家家訓の継承(二) 」(『生・成長・老い・死』 〈生 活と文化の歴史学七〉竹林舎、平成 28)所収。 8   例えば、輝元は、次のような起請文を元就に発信している( 『毛』 二四〇号) 。 趨勢により、毛利家は存続の危機に直面することになる。しかし、輝 元代の様々な書状を検証することで、元就の訓戒は、形を変えながら も、その主旨は変質することなく受け継がれていったことを確認でき たのではないかと考える。   すでに先学が諸々指摘するところではあるが、 「日頼様御一通」 、「日 頼様御書之辻」といった表現に焦点をあて、隆元卒去後の毛利一族の 中 で、 元 就 の 訓 戒 が 家 訓 と し て 何 度 も 確 認 さ れ て い っ た 道 筋 を 辿 り、 輝元世代にどのように根付いていったのか、家訓の継承の実態を探っ てみた次第である。   〈注〉 1   東京大学史料編纂所編 『大日本古文書』 家わけ第八 『毛利家文書』 所収。引用に際し、漢字は、一部を除き新字体に統一した。書状の 番 号 は、 本 書 に よ る。 以 下 同 じ。 ま た、 『 吉 川 家 文 書 』( 以 下『 吉 』 と略記)は、同書、家わけ第九、 『小早川家文書』 (以下『小』と略 記)は家わけ第十一による。 2   拙稿 「毛利家家訓の継承 (一) 」( 『県立広島大学総合教育センター 紀要』第 2 号、平成 29) 3   隆元は、己の器量不足ゆえに、毛利家を自分の代で滅亡に追い込 むのではないかと危惧していたと思われる。具体的には、次のよう な記述が『毛利家文書』所載の書状中に散見されることを、前掲注 2 拙 稿 で 指 摘 し た。 「 生 得 ぬ か り ふ か い な く 候 て、 不 申 儀 も あ る へ く候、又一円得存知不当儀も、不申儀もあるへく候、とかく当家之 儀ハ我々代にてはたと相果候すると存迄候、諸事我々代ニ悪成候て は て 候 す る と 相 定 り た る 趣 と 存 候 く 」( 六 四 五 号 )、 「 隆 元 長 男 と ハ 乍申、無才覚無器用之身ヲ以可連続仕儀、誠努々あるましき事、身 ノ不肖を不顧事の第一たるへき事」 、「剰元就数年之百慮之案を尽し、 武功自国他国ニ無其隠之家名にて候を、隆元以無器量至極之身、可 持 崩 事 者、 名 利 共 ニ 失 念 候 事 と 存 置 候 事 」( 六 四 六 号 )、 「 隆 元 事、 無 器 用 無 才 覚 事 候 間、 ( 中 略 ) 悪 仕 候 て、 我 々 代 ニ 家 を 持 崩 候 へ ハ、 不 及 是 非、 隆 元 一 身 之 不 足 に て 候、 ( 中 略 ) 元 就 如 此 被 仕 立 候 を 持 崩 候てハ、不及是非候、これ程ニ存当候て、わか身をかへりみ候事候 間、一覚悟仕候て、幸鶴ニ家を申付候へハ、我々か難を被遁候と存 候」 、「当家儀、御方なとも御聞つたへたるへく候、豊元、弘元、興 元、元就迄儀、何之代の人体も、おとりまさりハなく候、何も器量 人 迄 候、 然 処、 唯 今 隆 元 ニ 至 無 器 用 至 極 候 事、 当 家 之 時 節 と 存 事 」 (六五六号) 、「名将之子ニハ必不運之者か生候と申候事、存知当候」 (七六二号)など。 4   秋山伸隆「毛利隆元の家督相続をめぐって」 (『毛利隆元―名将の 子の生涯と死をめぐって―』 、安芸高田市歴史民俗博物館、 平成 25)。 氏 は、 四 月 六 日 志 道 広 良 言 上 状( 『 毛 利 家 文 書 』 五 九 二 号 ) で、 広 良 が、 「 某 八 十 罷 成 候 」 と し て い る こ と か ら、 年 未 詳 の 本 状 を 天 文 十五年のものと推断され、元就からの意向「自今以後之事、大小事 共 ニ、 何 事 も 不 可 有 御 存 知 候、 諸 篇   若 殿 よ り 可 仰 操 之 由 」 を 聞 か さ れ た と 記 し て い る 四 月 十 二 日 志 道 広 良 言 上 状( 同 五 九 〇 号 ) も、 その内容から、同年のものと考えておられる。その他、五月二十七 日 毛 利 元 就 自 筆 書 状( 広 良 宛、 同 五 八 七 号 )、 五 月 二 十 八 日 毛 利 元 就自筆書状 (広良宛、 同五八八号) 、五月二十八日志道広良言上状 (国 司 就 信 経 由 で 隆 元 宛、 同 五 九 三 号 ) 等 か ら、 「 元 就 と 志 道 広 良 に 隆 元を加えた三者で、天文十五年四月から五月にかけて、元就から隆

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訓としての「三家無二」の意識があったといえよう (注 14)   慶 長 二 十 年( 元 和 元 年 ) 四 月 に は、 宗 瑞、 秀 就、 秀 元、 吉 川 広 家、 息広正など一族総勢十二人で以下のような起請文を発している。 『毛』一〇三八      毛利宗瑞 輝元 外十一名連署起請文 一 日頼様守御書置之辻 、各無二ニ申談、対毛利御家不可存別心之 事 、 一自然連判之内、対御家不所存之仁候者、及三ヶ度令異見之、以 其上、於無同心者、為残衆、此内へ 入 レ 申間敷候、何様ニも可有 其沙汰候事、 一 何事ニ付候而も、悪儀候者、互顕心底を、不残申候而、直し可 申候事 、   梵 天、 帝 釈、 四 大 天 王、 日 本 国 中 大 小 神 祇、 厳 島 両 社 大 明 神、 熊 野 三 社 大 権 現、 愛 宕 地 蔵 大 権 現、 住 吉 大 明 神、 春 日 大 明 神、 殊氏之神、八幡大菩薩、天満大自在、可蒙罷御罸者也、仍誓紙 如件、       慶長廿年卯月十四日     [傘連判] ※(裏書 )「右筆者吉川蔵人」 第 一 条 に、 「 日 頼 様 守 御 書 置 之 辻 」 と あ る。 大 坂 夏 の 陣 に あ た り、 元就遺訓を冒頭に据え、それを意識することで一族の団結を図って いるのである。本起請文の筆者である吉川広家を始め、毛利家の一 族が元就の訓戒を十分に尊重し、その思いを受け継ごうとしている ことが明らかである (注 15)   以 上 の よ う に、 「 日 頼 様 被 仰 置 御 一 通 」、 「 日 頼 様 御 一 通 」、 「 日 頼 様御書」などと共に何度も確認されているのは、異見も遠慮せずに 申し談じ、互いの意思疎通を図ることが毛利家を長久存続させる極 意 で あ る と い う こ と で あ る。 こ れ ら に お い て は、 元 就 が、 「 三 子 教 訓状」 (『毛』四〇五号)で説いた、毛利家の力があってこそ、吉川 家、小早川家も治められる、毛利家なくしては他の二家は存続しが たいという毛利家第一を根底とした「三家無二」は、決して表立っ て は 語 ら れ な い。 し か し、 元 就 が、 「 三 人 之 半、 少 ニ て も か け こ へ たても候ハゝ、 たゝ〳〵三人御滅亡と可被思召候〳〵」 (同状) 、「三 人之間、露塵 ほ ともあしさまニ成行、わるくお ほ しめし候者、はや 〳〵めツ ほ うと可被思召候〳〵」 、「露程も兄弟間わるきめくみも候 者、めつ ほ うの基と可被思召候〳〵」 (『毛』四〇六号)と何度も繰 り返している、隔意のない間柄こそが家を保つ「辻」なのだという ことについての確認は、しばしばなされていることがわかる。   先に触れた広家の小笠原家入嗣問題の折に元春宛に発信された輝 元の書状に、 「日頼   御一通のことく、三家之内一人かけも候へは、 何も三家滅亡まて候」と、明示されるのは、その幾たびの確認の根 底には、元就の「三子教訓状」の主意が常に意識されていたことの 証左といえるのではないだろうか。

おわりに

  毛 利 元 就 が「 三 子 教 訓 状 」 を 発 信 し た の は、 嫡 男 隆 元 の 危 機 感 と、 隆元、元春、隆景の三人の意を汲んでのものであった。時の経過と共 に、毛利家を取り巻く情勢は、元就の想定外の変化を遂げた。時代の

(5)

訓としての「三家無二」の意識があったといえよう (注 14)   慶 長 二 十 年( 元 和 元 年 ) 四 月 に は、 宗 瑞、 秀 就、 秀 元、 吉 川 広 家、 息広正など一族総勢十二人で以下のような起請文を発している。 『毛』一〇三八      毛利宗瑞 輝元 外十一名連署起請文 一 日頼様守御書置之辻 、各無二ニ申談、対毛利御家不可存別心之 事 、 一自然連判之内、対御家不所存之仁候者、及三ヶ度令異見之、以 其上、於無同心者、為残衆、此内へ 入 レ 申間敷候、何様ニも可有 其沙汰候事、 一 何事ニ付候而も、悪儀候者、互顕心底を、不残申候而、直し可 申候事 、   梵 天、 帝 釈、 四 大 天 王、 日 本 国 中 大 小 神 祇、 厳 島 両 社 大 明 神、 熊 野 三 社 大 権 現、 愛 宕 地 蔵 大 権 現、 住 吉 大 明 神、 春 日 大 明 神、 殊氏之神、八幡大菩薩、天満大自在、可蒙罷御罸者也、仍誓紙 如件、       慶長廿年卯月十四日     [傘連判] ※(裏書 )「右筆者吉川蔵人」 第 一 条 に、 「 日 頼 様 守 御 書 置 之 辻 」 と あ る。 大 坂 夏 の 陣 に あ た り、 元就遺訓を冒頭に据え、それを意識することで一族の団結を図って いるのである。本起請文の筆者である吉川広家を始め、毛利家の一 族が元就の訓戒を十分に尊重し、その思いを受け継ごうとしている ことが明らかである (注 15)   以 上 の よ う に、 「 日 頼 様 被 仰 置 御 一 通 」、 「 日 頼 様 御 一 通 」、 「 日 頼 様御書」などと共に何度も確認されているのは、異見も遠慮せずに 申し談じ、互いの意思疎通を図ることが毛利家を長久存続させる極 意 で あ る と い う こ と で あ る。 こ れ ら に お い て は、 元 就 が、 「 三 子 教 訓状」 (『毛』四〇五号)で説いた、毛利家の力があってこそ、吉川 家、小早川家も治められる、毛利家なくしては他の二家は存続しが たいという毛利家第一を根底とした「三家無二」は、決して表立っ て は 語 ら れ な い。 し か し、 元 就 が、 「 三 人 之 半、 少 ニ て も か け こ へ たても候ハゝ、 たゝ〳〵三人御滅亡と可被思召候〳〵」 (同状) 、「三 人之間、露塵 ほ ともあしさまニ成行、わるくお ほ しめし候者、はや 〳〵めツ ほ うと可被思召候〳〵」 、「露程も兄弟間わるきめくみも候 者、めつ ほ うの基と可被思召候〳〵」 (『毛』四〇六号)と何度も繰 り返している、隔意のない間柄こそが家を保つ「辻」なのだという ことについての確認は、しばしばなされていることがわかる。   先に触れた広家の小笠原家入嗣問題の折に元春宛に発信された輝 元の書状に、 「日頼   御一通のことく、三家之内一人かけも候へは、 何も三家滅亡まて候」と、明示されるのは、その幾たびの確認の根 底には、元就の「三子教訓状」の主意が常に意識されていたことの 証左といえるのではないだろうか。

おわりに

  毛 利 元 就 が「 三 子 教 訓 状 」 を 発 信 し た の は、 嫡 男 隆 元 の 危 機 感 と、 隆元、元春、隆景の三人の意を汲んでのものであった。時の経過と共 に、毛利家を取り巻く情勢は、元就の想定外の変化を遂げた。時代の 返〳〵、偏〳〵    日頼え之御届此節候、常栄所不及申候、 彼 (小笠原) 家 之儀付而、以 下 (口羽通良) 野守 被仰聞候、此条三家善悪之所候、其子細 者、諸国衆礑無曲被存、弥不慮眼前候、其上銀山無正儀成行可申 候、 左 候 時 は、 弓 矢 も 成 申 間 敷 候、 猶 以 有 か ひ な き 我 等 ニ 罷 成、 一身之無力迄候、 当家外聞実相失候ハゝ、 やかて又可為御手前候、   日頼   御一通のことく 、三家之内一人かけも候へは、何も三家 滅亡まて候 、是非共此時   日頼御一通之御届 ニ被成御堪忍、 二 (経言) 郎 五郎殿へも御異見候而、三家之御再興偏只今ニ相極候、元春思惟 此時候、 さりとてハ御忘却有間敷候、 委細此者可申候、 恐々謹言、   (天正九年)    六月三日            輝元(花押) (切封ウハ書)   「      (墨引)           右馬頭     元春 まいる      人々申給へ       輝元 」   また、後の事になるが、輝元女と広家嫡男広正の縁談の際には、広 家 に 対 し て は、 「 善 に も 悪 ニ も、 御 方 御 家 之 儀、 日 頼 被 仰 置 候 辻、 毛 頭無忘却候之条、其段者可御心安候事」 (『毛』一一八四号、元和二年 七 月 十 七 日 付 毛 利 宗 瑞 輝 元 覚 書 ) と 言 い、 嫁 ぐ 娘 へ の 教 訓 書 に は、 「 此 ゑ (縁) ん のこと、ふそくのやうにおもひ候すると存候、 か ( 家 中 ) ちう のものゝな かにもさやう存候ものもあるへく候へとも、われ〳〵存候むねハそれ にはちかひ候、此まへ に ( 日 頼 ) ちらい 様お ほ せきかせられ候、又そのゝちは 御しよ様御ものかたりうけ給候も、すこしもちかひ候ハす候、さては め ( 名 人 ) いじん のお ほ しめし候ことはよき事にて候すると存候て、われ〳〵 かやう ゑ ( 縁 辺 ) んへん 申だんし候」 、「 と ( 当 家 ) うけ にてハ ひ ( 秀 元 ) てもと き ( 吉 川 ) つかわ かんに や う に 候 ニ つ き、 か く の こ と く 申 だ ん じ 候 」( 『 毛 』 一 一 八 六 号 ) と、 重ねて毛利家と吉川家の間柄について日頼(元就)を引き合いに出し て説いている。輝元の、三家の内の一つである吉川家に対する認識が うかがえる。   輝元と同様に、広家に関わる書状中にも、直截に「三子教訓状」の 主旨を記したものは確認できていないが、小笠原氏への入嗣を断念す る よ う 父 元 春 か ら 説 得 さ れ る 際 に、 こ の 書 状 の 輝 元 の 意 向 と と も に、 元就の遺訓が引き合いに出された可能性はあろう。   ま た、 広 家 は、 慶 長 二 年 六 月 の 小 早 川 隆 景 の 薨 去 に あ た り、 「 い つ も 申 上 候、 私 事 成 次 第 ニ 存、 も (元) と 春 一 円 か ま ひ 候 ハ て 置 申 候 つ る 間、 助言請候人も無御座候、隆景如此御事候上ハ、乍勿論   御主又ハ親ニ も奉頼候て在之御事候、万事弁も人の上さへことによりあやまり御座 候よし申候、ものこと是非共〳〵被成御意被下候儀、千万之申分も不 入、 是 ニ 相 極 申 候 事 」 と 述 懐 し て い る ( 注 13) 広 家 が、 隆 景 に も 誘 掖 を乞うていたとすれば、元就の願いについて聞かされる機会もあった と思われ、広家にも、元就の毛利家第一の「三家無二」が認知されて いたと考えることは可能ではないだろうか。   慶長五年九月、関ヶ原での敗戦後、吉川家は吉川家として独立独歩 で、 徳川政権の中での生き残り策を図る選択肢もあったはずであるが、 広家や福原広俊等は、 戦前から徳川方と内々に通じていた誼をもって、 毛利家の存続を願い、 動いた。 輝元が西軍の総大将として大坂城にあっ たにもかかわらず、減封ながらも毛利家を存続させることができたの も、徳川方の思惑があったとはいえ、広家他の毛利一族の動きに負う ところも大きい。この一連の動きの背景には、元就の遺訓、つまり家

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度両人ヘ無残所申而候、定而底意ニ者腹立も候すれとも、 はや家 之儀も相極此時にて候条 、更努 〻 抧 可申事も無之、申尽候、事多 申而も、 辻者両人何篇打とけて被申談、万被相調、秀就外実之儀 者不及申、家相続申候様ニと申迄ニ而候 、 此 " 条 " 一、秀元 福 (広俊) 原 あハ ひ、是又悪候、以外不可然候 ◦ 秀元 広家 秀 " 元 " 福原事者、一身之様ニ被 存候ハてハ不叶儀候、よくも悪も、毛利之家 自 " 昔 ◦ 福 " 原 " 頭 " を " も " 仕 " 候 " 事 " ニ " 而 " 候 " 先 " 年 " 者 " 聞 " 伝 " 申 " 所 " 者 " 中 " 者 親類之中間と申もの 頭 " を仕候つれとも、 無 " 叛謀を仕 候つる故、其 以 彼家相絶 来 、 ハ " 親 よりハ福原 類之頭をも仕事にて候間、其筋目御忘却候 而ハ、一円之事ニ而候、兎角 ◦ 両三人之 御身 上 " も を 何 " も " 捨ニ被仕、 大体可然 家相続候やうにとの覚悟ならてハ、当家長久不可有之候 、こゝ之 儀を段々申而、長門事者不及申、其以下之三人衆無残所合点ニ而 候、於其上、其方罷上候者、此条胸中ニ持候而、是非共秀元無忘 却様ニ可申事、 対家而之大忠たるへく候、 勿論秀元之儀不及申候、 此節身上をおしミ、如何之用捨ためらい候而者、其方数代之一紋 之不可有専候、分別此時にて候、右之条、召寄具口上可申と存候 處、 煩 故、 無 其 儀、 千 万 口 惜 候、 併 淵 底 井 四 郎 右 存 候 条、 相 尋、 今度之次第相聞候而、気遣頼入候、是者誠ニ大形之儀候、書中ニ 者左様も不書候之条、可得其心候、 為 " 心 " 得 " 為分別候、かしく、   (慶長十九年)    十二月廿一日          (椙杜元縁)         椙下 ここで輝元が縷々述べているのは、 「日頼様被仰置候所も此時之儀候」 (二重傍線部)であること、秀就のため、そして毛利家のため、秀元、 広 家 が 堪 忍 し て、 「 日 夜 双 方 談 合 被 仕 」 こ と が 大 事、 福 原 を 含 め た 三 人が己を捨て、家が続くように覚悟することが不可欠であるというこ とである。元就(日頼)が家訓として説いた「三家無二」を十分に意 識しての叙述であろう。      これらの書状から、輝元が、明確な意志をもって次代へ元就の訓戒 を相承しようとしていることがわかる。   先に指摘したように、ここまで掲げてきた書状からうかがわれる毛 利一族の動きの中で、各書状中に「日頼様御書之辻」として記される のは、隔意なき意見交換によって意思疎通を図ることであり、元就が 「 三 子 教 訓 状 」 で 強 調 し た、 毛 利 の 力 が あ っ て こ そ、 他 の 家 も 存 続 で きるのだという毛利家を第一と考える「三家無二」は、直截には語ら れず、それとして、表出することはない。しかし、書状中に頻出する 「 日 頼 様 御 書 」、 「 日 頼 被 仰 置 御 一 通 」 は、 元 就 の「 三 子 教 訓 状 」 を 指 し示している場合が多いと思われ、 輝元を始めとする毛利一族の中で、 家 訓 と し て 、十 分 に 意 識 さ れ 続 け て き た と い え る の で は な い だ ろ う か 。   輝元と同世代といえる吉川元春の息男経言(後、広家)が、天正八 年頃から、小笠原氏からの要請を受け、継嗣として吉川を離れようと 動いた折には、輝元は、小笠原が信用できないことを理由として、断 固 と し て 許 さ な か っ た ( 注 12) こ の 問 題 の 解 決 に 向 け、 元 春、 広 家 と 輝元の間に幾通も書状が交わされたが、今は、その一つを掲げる。左 の 書 状 に は、 「 三 子 教 訓 状 」 及 び そ の 添 状 と い え る『 毛 』 四 〇 六 号 に 見られる元就の主張が明示されている。このことから、輝元には、元 就 の 意 向 が 、か な り 明 確 に 意 識 せ ら れ て い た と い う こ と が 看 取 で き る 。 『吉』一九六      毛利輝元自筆書状

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度両人ヘ無残所申而候、定而底意ニ者腹立も候すれとも、 はや家 之儀も相極此時にて候条 、更努 〻 抧 可申事も無之、申尽候、事多 申而も、 辻者両人何篇打とけて被申談、万被相調、秀就外実之儀 者不及申、家相続申候様ニと申迄ニ而候 、 此 " 条 " 一、秀元 福 (広俊) 原 あハ ひ、是又悪候、以外不可然候 ◦ 秀元 広家 秀 " 元 " 福原事者、一身之様ニ被 存候ハてハ不叶儀候、よくも悪も、毛利之家 自 " 昔 ◦ 福 " 原 " 頭 " を " も " 仕 " 候 " 事 " ニ " 而 " 候 " 先 " 年 " 者 " 聞 " 伝 " 申 " 所 " 者 " 中 " 者 親類之中間と申もの 頭 " を仕候つれとも、 無 " 叛謀を仕 候つる故、其 以 彼家相絶 来 、 ハ " 親 よりハ福原 類之頭をも仕事にて候間、其筋目御忘却候 而ハ、一円之事ニ而候、兎角 ◦ 両三人之 御身 上 " も を 何 " も " 捨ニ被仕、 大体可然 家相続候やうにとの覚悟ならてハ、当家長久不可有之候 、こゝ之 儀を段々申而、長門事者不及申、其以下之三人衆無残所合点ニ而 候、於其上、其方罷上候者、此条胸中ニ持候而、是非共秀元無忘 却様ニ可申事、 対家而之大忠たるへく候、 勿論秀元之儀不及申候、 此節身上をおしミ、如何之用捨ためらい候而者、其方数代之一紋 之不可有専候、分別此時にて候、右之条、召寄具口上可申と存候 處、 煩 故、 無 其 儀、 千 万 口 惜 候、 併 淵 底 井 四 郎 右 存 候 条、 相 尋、 今度之次第相聞候而、気遣頼入候、是者誠ニ大形之儀候、書中ニ 者左様も不書候之条、可得其心候、 為 " 心 " 得 " 為分別候、かしく、   (慶長十九年)    十二月廿一日          (椙杜元縁)         椙下 ここで輝元が縷々述べているのは、 「日頼様被仰置候所も此時之儀候」 (二重傍線部)であること、秀就のため、そして毛利家のため、秀元、 広 家 が 堪 忍 し て、 「 日 夜 双 方 談 合 被 仕 」 こ と が 大 事、 福 原 を 含 め た 三 人が己を捨て、家が続くように覚悟することが不可欠であるというこ とである。元就(日頼)が家訓として説いた「三家無二」を十分に意 識しての叙述であろう。      これらの書状から、輝元が、明確な意志をもって次代へ元就の訓戒 を相承しようとしていることがわかる。   先に指摘したように、ここまで掲げてきた書状からうかがわれる毛 利一族の動きの中で、各書状中に「日頼様御書之辻」として記される のは、隔意なき意見交換によって意思疎通を図ることであり、元就が 「 三 子 教 訓 状 」 で 強 調 し た、 毛 利 の 力 が あ っ て こ そ、 他 の 家 も 存 続 で きるのだという毛利家を第一と考える「三家無二」は、直截には語ら れず、それとして、表出することはない。しかし、書状中に頻出する 「 日 頼 様 御 書 」、 「 日 頼 被 仰 置 御 一 通 」 は、 元 就 の「 三 子 教 訓 状 」 を 指 し示している場合が多いと思われ、 輝元を始めとする毛利一族の中で、 家 訓 と し て 、十 分 に 意 識 さ れ 続 け て き た と い え る の で は な い だ ろ う か 。   輝元と同世代といえる吉川元春の息男経言(後、広家)が、天正八 年頃から、小笠原氏からの要請を受け、継嗣として吉川を離れようと 動いた折には、輝元は、小笠原が信用できないことを理由として、断 固 と し て 許 さ な か っ た ( 注 12) こ の 問 題 の 解 決 に 向 け、 元 春、 広 家 と 輝元の間に幾通も書状が交わされたが、今は、その一つを掲げる。左 の 書 状 に は、 「 三 子 教 訓 状 」 及 び そ の 添 状 と い え る『 毛 』 四 〇 六 号 に 見られる元就の主張が明示されている。このことから、輝元には、元 就 の 意 向 が 、か な り 明 確 に 意 識 せ ら れ て い た と い う こ と が 看 取 で き る 。 『吉』一九六      毛利輝元自筆書状 分別候、猶重畳可申承候、恐々謹言、 (慶長十八年)    十二月        宗瑞      秀元      広 (福原) 俊   まいる        申給へ 宛名は、秀元、福原広俊であるが、この二人は、長州藩主となってい た秀就の補佐役を仰せつかっていたので、実質的には、秀就への訓戒 といってよい。この中で、輝元は自身の境遇を、十一歳で隆元が卒去 し、十三歳で島根に出陣、それからは十九歳まで、元就(日頼様)の 側から離れず奉公してきた、とにかく元就の意向をうかがい、厳しく 説諭されてきた、だからこそ、利根も才覚もない身で、ここまで国主 として何とかやってこられたのだ (傍線部①) と述懐している。また、 元就だけではなく、隆景も元春も同様に様々に異見をなされ、この身 が持たないと思ったことがどれ ほ どあったことか (傍線部②) とも言っ ている。この書状は、秀就の素行に対する二十一ヶ条に及ぶ訓戒であ るから、やや誇張して言っているのかもしれないが、自分が、祖父や 叔父達に、どれ ほ ど厳しく育てられたのかを言って聞かせている。本 状 で も、 「 御 異 見 是 非 と も 頼 申 候 」 と、 秀 元 や、 譜 代 の 家 臣 で あ る 広 俊の判断を、 それがどのように長門(秀就)の意に添わないことでも、 直諫して欲しい、それが、家のため、世を無事にわたるための心得と して肝要なのだと重ねて依頼している。本状の表現からも、輝元への 訓育の有り様が推量できよう。   そ の 翌 年 の 発 信 と 考 え ら れ る 宗 瑞 の 書 状 案 に は、 「 隆 景 元 春、 我 等 若輩之時被仕立候手本有之事ニ而候条、 長門所、 秀元広家 被 " 押 取 立候事、 先祖又者毛利之家御届此時にて候」 (波線部) とある。この表現からも、 若き日、隆景、元春に補佐、教導された輝元の姿が浮かび上がる。 『毛』一一六〇     毛利宗瑞 輝元 書状案 (端裏書)   「 宗瑞様     椙杜下総所へ之御書之写 」 長門罷上候付而、御暇被下候条、罷下候、惣別者、親子なからも 可 相 誥 (詰) 儀 本 意 候 へ と も、 気 分 何 と も 悪 候 而、 私 不 成 儀 候、 其 上、 今度被入御念、国之仕置等此節別而可申付之由被   仰下付而、如 此 候、 ( 中 略 ) 一、 右 之 条 ニ 付 而 我 等 存 所 者、 秀 元 広 家 半 無 子 細 候へとも、家中之ものとも何かと申相候之条、無題目候而も、人 之見かけ又人之申さま色々候へハ、 外実不及是非儀候条、 就何篇、 双方縦聊之不合気色儀候共、 堪忍候而、 一分之身上をは捨ニ被仕、 太体無忘却、何篇日夜双方談合被仕、心底おく底被申相候而、短 束気遣此時候 、初而長門出陣之儀と申、前後之家之大事此時にて 候条、大形ニ被存候而ハ、礑各之御不覚たるへく候、 日頼様被仰 置候所も此時之儀候 条、彼衆中被守御一通、一度毛利之家御再興 ニ極候 、取分此御弓箭中肝要之所ニ候、聊も両人 ◦ 之 間大形之儀に てハ、礑不可有曲之通申縮候、 隆景元春、我等若輩之時被仕立候 手本有之事ニ而候条、長門所、秀元広家 被 " 押 取 立候事、先祖又者毛 利之家御届此時にて候 、併御両所之ためにて候之条、是者此方一 分之非申事ニも候、勿論我等事者、今日迄如此罷居候へは、本願 ニ罷成 候 " ニ ハて 不叶候付而、少も用捨ためらいもなく、まつすくニ今

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かるのであるが、重ねて、輝元、秀就に対して、疎意などなくお仕え する覚悟であり、また、何か疑義があれば、直接問い糾していただき たい、それが、 「日頼様御書之辻」であると誓っているのである。   これまで見てきたように、輝元は、一族の者と様々な場面で、書状 をやりとりし、お互いの隔意なき意見交換によって意思疎通を図るこ とが、 「日頼様御書之辻」であると確認しあっているのである。   ここで輝元の述懐を見てみたい。 『毛』一一五七      毛利宗瑞 輝元 書状案 (端裏書) 「御異見之御ヶ条[ 秀元/広俊 ]え一通」 去年長門罷上節、彼是申聞候ツ、然者、其元罷下候而之趣いかゝ 候哉、   (中略) 一於爰元長門ニ行規之儀堅不申聞やうに、世上ニ申けニ候、尤之 儀候、是ニ付而、我等存所も候、其趣者、其元にて別而知音之 上方衆之被申事ニ者、国入之時者、手あらく行規だかに物毎申 付可然候、近年宗瑞家中之申付様余緩様候而、不可然候、手あ ら く 申 候 ヘ ハ、 人 か お そ れ 可 然 な と ゝ、 被 申 た る や う に 承 候、 爰元ニも、少々か様あらく申付候而社、若き者ニ似相、人之驚 も候なとゝ、下々申たる者も有けに候、それにのり候て、さや う 心 得 た る 趣 に て 候 つ る、 然 者、 あ ま り ま た 下 々 之 者 迷 惑 仕、 すくミ候之由、聞及候間、不可然之通申候へハ、合点仕、其後 ニ ハ よ く 候 ツ る、 惣 別 若 候 間、 礼 儀 も 善 悪 も 万 不 存 候 故 ニ 候、 乍 ① 去、我々なとハ人けになき者にて候之間申儀にてハなく候へ とも、十一にて親にはなれ、十三にて島根陣へ被召寄、罷出候 而、   日 頼 様 御 そ は に 相   (詰) 、 十 九 ニ 成 候 ま て、 御 そ は は な れ す 御奉公申て候、終ニ人体達毛頭不仕、よくもあしくも   日頼様 御意うかゝい ほ うそんをおき、親子之間、是こそうへなし之振 舞 な と ゝ 被 思 召 候 ハ ん こ と 不 仕 候、   日 頼 様 御 折 檻 者、 内 々 大 形ならぬ事ニ候ツる、今存候者も可有之候、尋可被聞候、其故 此歳まて世上うやまい、当世之りこん才覚無之上、大事 〳〵 と 朝夕存候而罷過候間、国之主なとに成候 、今時之趣にハ以外ち か い た る 儀 た る へ く 候 条、 一 ツ と し て 我 等 申 事 毛 頭 無 之 儀 候、    (中略) 一自慢心とも候而ハ、 一円事候、 (中略) いかにも長門其所へ心不 行候之間、 千万ゝゝ不可然候、 それと申ハ、 異見申ものハなく、 おそれ候ふり仕、あかめ申はかりにて、人の上結構又者達なる 事迄を、かりそめも人申聞、目にも見候故、大事も遠慮も不存 候、 是者尤候、 然間、 偏縦気ニ不合候とも、 一筋之御分別を以、 御異見是非とも頼申候 、影にての御くやミハ更以不入候、 先祖 家への御届候 、併御分別之前候、右申候様、 我 ② 等事   日頼様余 御折檻候上ニ、隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にて ハ身上続ましきなとゝ存 ほ との事、幾重も候つる 、長門事遠国 罷居、其上身之 ほ とハ不存、自満達も有之儀候、わるき分別も なき分候、折檻異見申ものも無之、生なから之分別にてハ、聖 人賢人ならてハ、今之世にもよき事あるましく候、たゝ思案思 惟肝要候、とかく異見ニ極候間、とても旁於家儀者御はつしも 不成御身上之事候条、無二無三一筋之御覚悟不叶候からハ、御 ためらい御用捨、乍勿論不可有之候、あたりはつれ御異見頼存 候、それにて長門分別悪候者、互之御時刻と可被思召候、為御

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かるのであるが、重ねて、輝元、秀就に対して、疎意などなくお仕え する覚悟であり、また、何か疑義があれば、直接問い糾していただき たい、それが、 「日頼様御書之辻」であると誓っているのである。   これまで見てきたように、輝元は、一族の者と様々な場面で、書状 をやりとりし、お互いの隔意なき意見交換によって意思疎通を図るこ とが、 「日頼様御書之辻」であると確認しあっているのである。   ここで輝元の述懐を見てみたい。 『毛』一一五七      毛利宗瑞 輝元 書状案 (端裏書) 「御異見之御ヶ条[ 秀元/広俊 ]え一通」 去年長門罷上節、彼是申聞候ツ、然者、其元罷下候而之趣いかゝ 候哉、   (中略) 一於爰元長門ニ行規之儀堅不申聞やうに、世上ニ申けニ候、尤之 儀候、是ニ付而、我等存所も候、其趣者、其元にて別而知音之 上方衆之被申事ニ者、国入之時者、手あらく行規だかに物毎申 付可然候、近年宗瑞家中之申付様余緩様候而、不可然候、手あ ら く 申 候 ヘ ハ、 人 か お そ れ 可 然 な と ゝ、 被 申 た る や う に 承 候、 爰元ニも、少々か様あらく申付候而社、若き者ニ似相、人之驚 も候なとゝ、下々申たる者も有けに候、それにのり候て、さや う 心 得 た る 趣 に て 候 つ る、 然 者、 あ ま り ま た 下 々 之 者 迷 惑 仕、 すくミ候之由、聞及候間、不可然之通申候へハ、合点仕、其後 ニ ハ よ く 候 ツ る、 惣 別 若 候 間、 礼 儀 も 善 悪 も 万 不 存 候 故 ニ 候、 乍 ① 去、我々なとハ人けになき者にて候之間申儀にてハなく候へ とも、十一にて親にはなれ、十三にて島根陣へ被召寄、罷出候 而、   日 頼 様 御 そ は に 相   (詰) 、 十 九 ニ 成 候 ま て、 御 そ は は な れ す 御奉公申て候、終ニ人体達毛頭不仕、よくもあしくも   日頼様 御意うかゝい ほ うそんをおき、親子之間、是こそうへなし之振 舞 な と ゝ 被 思 召 候 ハ ん こ と 不 仕 候、   日 頼 様 御 折 檻 者、 内 々 大 形ならぬ事ニ候ツる、今存候者も可有之候、尋可被聞候、其故 此歳まて世上うやまい、当世之りこん才覚無之上、大事 〳〵 と 朝夕存候而罷過候間、国之主なとに成候 、今時之趣にハ以外ち か い た る 儀 た る へ く 候 条、 一 ツ と し て 我 等 申 事 毛 頭 無 之 儀 候、    (中略) 一自慢心とも候而ハ、 一円事候、 (中略) いかにも長門其所へ心不 行候之間、 千万ゝゝ不可然候、 それと申ハ、 異見申ものハなく、 おそれ候ふり仕、あかめ申はかりにて、人の上結構又者達なる 事迄を、かりそめも人申聞、目にも見候故、大事も遠慮も不存 候、 是者尤候、 然間、 偏縦気ニ不合候とも、 一筋之御分別を以、 御異見是非とも頼申候 、影にての御くやミハ更以不入候、 先祖 家への御届候 、併御分別之前候、右申候様、 我 ② 等事   日頼様余 御折檻候上ニ、隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にて ハ身上続ましきなとゝ存 ほ との事、幾重も候つる 、長門事遠国 罷居、其上身之 ほ とハ不存、自満達も有之儀候、わるき分別も なき分候、折檻異見申ものも無之、生なから之分別にてハ、聖 人賢人ならてハ、今之世にもよき事あるましく候、たゝ思案思 惟肝要候、とかく異見ニ極候間、とても旁於家儀者御はつしも 不成御身上之事候条、無二無三一筋之御覚悟不叶候からハ、御 ためらい御用捨、乍勿論不可有之候、あたりはつれ御異見頼存 候、それにて長門分別悪候者、互之御時刻と可被思召候、為御              元春(花押)       粟内蔵   御申之 輝元の内意のとおり、何事も遠慮せずに異見すると言っている。この 書状にも、 「誠   日頼様御一通之ことく、御上又両人御三人之事」 (二 重傍線部)とある。   次は、輝元から秀元(元就四男穂田元清の息男で、一時、輝元養子 となり嗣子であったが、文禄四年に輝元に実子秀就が生誕したため継 嗣を辞す、後、長府藩祖)に宛てた書状である(下関市立長府博物館 蔵『長府毛利家文書』 注 11)。 『長』一四二      毛利輝元書状 呉々長久之基此事候、本望候〳〵、 先度御神文給候、誠御方我等半、如此之不及御心遣儀候へ共、吉 例 も 候 条、 悦 存 候、 御 懇 意 無 申 計 候、 乍 勿 論 此 方 無 二 之 心 底 候、 何も以一通可申候、 今朝も御状本望候、 万一以来不審之儀共候者、 直に尋可申候、 御方も可承候 、此分へ者、   日 ( 毛 利 元 就 ) 頼様 被仰置辻無相違 、 大慶不可過之候、猶重畳可申談候、万吉、恐々謹言、    六月十七日           輝元(花押) (切封ウハ書)     「(墨引)             右馬        秀 ( 毛 利 ) 元          まいる申給へ       輝元」 発 信 年 は 確 定 で き な い が、 秀 元 か ら の「 神 文 」( 起 請 文 ) と、 重 ね て 書状を受け取ったことへの返信である。 私との間に気遣いは無用とし、 万一尋ねたいことが出来すれば直接確認するから、そちらもそのつも りでいよ、これは、 「日頼様被仰置辻」 (二重傍線部)に相違はないと 断 言 し て い る も の で あ る。 秀 元 の 輝 元 宛 起 請 文 が ど の よ う な 内 容 で あったのか、この時のものは確認できていないが、次に掲げる起請文 から、おおよそは推測できよう。 『毛』一〇三七      毛利秀元自筆起請文   先年心底之趣、以誓帋申上候之處、為御返事、御書、忝致頂戴 候、 一 重々如申上候、 対   殿様   秀就様、 乍勿論、 毛頭不可存疎意候、 弥無二之覚悟候事 、 一 殿様と私御半 、自然讒人申隔候共、被聞召付次第、 直ニ被遂御 糺明 、 日 (元就) 頼 様御書之辻 可被成御届之通 、不及も尤ニ奉存、忝御 事ニ候、 何ヶ度申上候而も、 不被残御心底被仰聞、 忝之段、 生々 世々不可致忘却候事、   右於偽申候者、可罷蒙 日本国中大小之神祇、八幡大菩薩、摩 利 " 尊 支 尊天、天満大自在 天神、殊ニハ厳島両大明神御罸者也、   仍起請如件、    慶長六年         宰相      十月廿日         秀元(花押)      宗瑞様 文面から、秀元が何度も同様な起請文や書状を発信していることがわ

(10)

謹言、 三月十八日           輝元(花押) 隆景   まいる人々 元春     申給へ 隆 景 と 元 春 の 両 名 に、 「 世 上 一 大 事 時 分 」 で あ る か ら、 互 い の 覚 悟 の た め と 思 い 申 し 上 げ る の だ( 波 線 部 ) と し て、 己 の 不 才 覚( 「 我 等 無 気 根 」、 「 不 調 法 」) ゆ え に ご 両 人 の「 御 指 南 」 を 仰 ぎ た い、 事 が 起 こ れば何事も「申談」する所存である、隔心もなくご両人を粗略に扱う などという気は毛頭ないが、行き届かず意に添わないこともあるかも しれない、しかし、どんなときでも、私に異見を頂戴したいと言って い る。 「 日 (元就) 頼 被 仰 置 御 一 通 之 こ と く、 誠 隆 景 元 春、 唯 今 ハ 我 等 三 人 之 儀者」 (二重傍線部)とあり、 また、 末尾でも「日頼、 常栄被仰置筋目、 致忘却間敷候」としている。   このような輝元の態度に対する元春、隆景の反応をうかがい知るこ とのできる書状を次に掲げる。輝元の出陣を促す書状であるが、第二 項の表現を見ると、この輝元書状を念頭に置いてのものと思われる。 『毛』八四五      吉川元春小早川隆景連署状 (端裏切封ウハ書)    「   (墨引)           佐衛        駿河      粟内蔵         御申之         隆景」   追而之御内意之通、重畳被仰聞候、一々存其旨候、 一当時世上之趣、一大事ニ被懸御覧之由、被仰下候、於両人も其 申事候、近年之御弓矢、今年ニ相極申候之条、何と様ニも被成 御短息、於両人も無緩可致気遣候、此御弓矢御心遣之儀、誰ニ 御はねなされ候するや、のかれさる御事候条、被閣諸事を、明 日よりハ御出張之御催御支度可被仰付御事、専一存計候、左候 而、敵打出候ハん方角え則ニ被張合、御防可被成御覚悟肝要存 候、弥被仰下、両人も存寄候處可申上候、 一 世上之事、御一大事ニ被思召候付而、弥御心中之通、重畳具ニ 被仰聞候、承知申候、 誠   日頼様御一通之ことく、御上又両人 御三人之事 、乍勿論、御一具の覚悟不及申候、其段を被思召候 へハ、 万内々大小事共ニ、無御隔心可被仰下候、両人も無用捨 存寄候段可申上之由、被成御意候、尤之被仰聞様ニ候 、御弓矢 む き に お ゐ て ハ、 取 分 存 通 ハ 毎 事 申 上 候、 於 其 上 も、 後 之 儀、 猶 以 存 寄 趣 少 も 不 残 可 申 上 候 、 弥 可 被 仰 下 候、 如 此 被 成 御 意、 申上候からハ、 少も無用捨可申上候、於向後者、御内儀御心遣 之段も、対両人無御   可被仰聞候、存寄儀ハ、不致用捨可申上 候 、 右之分ニ両人儀定仕候間、 乍恐御心安被思召、 可被仰聞候、 雖不及申候、御弓矢如此御心遣ニ罷成候御事候間、別条之事ハ はたと被指置候て、 何之口へ成共上勢罷出、 其方角及難儀候者、 則御加勢可被成   御覚悟御支度、日夜被仰付可然奉存候、少も 御出張御弓矢かたの御催御緩候者、御一大事迄候、両人存当申 御事候者、弥可得御意候、猶御吉事重畳可申上候、恐惶謹言、 (天正十年)       卯月二日           隆景(花押)

(11)

謹言、 三月十八日           輝元(花押) 隆景   まいる人々 元春     申給へ 隆 景 と 元 春 の 両 名 に、 「 世 上 一 大 事 時 分 」 で あ る か ら、 互 い の 覚 悟 の た め と 思 い 申 し 上 げ る の だ( 波 線 部 ) と し て、 己 の 不 才 覚( 「 我 等 無 気 根 」、 「 不 調 法 」) ゆ え に ご 両 人 の「 御 指 南 」 を 仰 ぎ た い、 事 が 起 こ れば何事も「申談」する所存である、隔心もなくご両人を粗略に扱う などという気は毛頭ないが、行き届かず意に添わないこともあるかも しれない、しかし、どんなときでも、私に異見を頂戴したいと言って い る。 「 日 (元就) 頼 被 仰 置 御 一 通 之 こ と く、 誠 隆 景 元 春、 唯 今 ハ 我 等 三 人 之 儀者」 (二重傍線部)とあり、 また、 末尾でも「日頼、 常栄被仰置筋目、 致忘却間敷候」としている。   このような輝元の態度に対する元春、隆景の反応をうかがい知るこ とのできる書状を次に掲げる。輝元の出陣を促す書状であるが、第二 項の表現を見ると、この輝元書状を念頭に置いてのものと思われる。 『毛』八四五      吉川元春小早川隆景連署状 (端裏切封ウハ書)    「   (墨引)           佐衛        駿河      粟内蔵         御申之         隆景」   追而之御内意之通、重畳被仰聞候、一々存其旨候、 一当時世上之趣、一大事ニ被懸御覧之由、被仰下候、於両人も其 申事候、近年之御弓矢、今年ニ相極申候之条、何と様ニも被成 御短息、於両人も無緩可致気遣候、此御弓矢御心遣之儀、誰ニ 御はねなされ候するや、のかれさる御事候条、被閣諸事を、明 日よりハ御出張之御催御支度可被仰付御事、専一存計候、左候 而、敵打出候ハん方角え則ニ被張合、御防可被成御覚悟肝要存 候、弥被仰下、両人も存寄候處可申上候、 一 世上之事、御一大事ニ被思召候付而、弥御心中之通、重畳具ニ 被仰聞候、承知申候、 誠   日頼様御一通之ことく、御上又両人 御三人之事 、乍勿論、御一具の覚悟不及申候、其段を被思召候 へハ、 万内々大小事共ニ、無御隔心可被仰下候、両人も無用捨 存寄候段可申上之由、被成御意候、尤之被仰聞様ニ候 、御弓矢 む き に お ゐ て ハ、 取 分 存 通 ハ 毎 事 申 上 候、 於 其 上 も、 後 之 儀、 猶 以 存 寄 趣 少 も 不 残 可 申 上 候 、 弥 可 被 仰 下 候、 如 此 被 成 御 意、 申上候からハ、 少も無用捨可申上候、於向後者、御内儀御心遣 之段も、対両人無御   可被仰聞候、存寄儀ハ、不致用捨可申上 候 、 右之分ニ両人儀定仕候間、 乍恐御心安被思召、 可被仰聞候、 雖不及申候、御弓矢如此御心遣ニ罷成候御事候間、別条之事ハ はたと被指置候て、 何之口へ成共上勢罷出、 其方角及難儀候者、 則御加勢可被成   御覚悟御支度、日夜被仰付可然奉存候、少も 御出張御弓矢かたの御催御緩候者、御一大事迄候、両人存当申 御事候者、弥可得御意候、猶御吉事重畳可申上候、恐惶謹言、 (天正十年)       卯月二日           隆景(花押) 〳〵 そ れ さ ま と、 た か 景 さ ま と た の ミ 申 候、 お や に 御 な り 候 て、 御ちからにも御なり候て   かしく (切封ウハ書)     「     (墨引)          より      も ( 元 春 ) とはる 様 まいる   人々      つ ほ ね         申給へ        」 この書状で、尾崎局は、父元就を喪った元春を弔慰するとともに、輝 元のため、 元春と隆景との支援を乞うている。 「申まてハ候ハねとも」 、 元就の意向を側近くで察していたと思われる局には、今更の感があっ たのだろうが、それでも頼まずにはおられない母親の情が込められて いる。元就の卒去は、毛利家一族に計り知れない衝撃と不安とをもた らしたはずである。やがて、毛利家は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家 康といった勢力との力関係の中で、領国の拡大や支配といったことと は別の問題に巻き込まれていくことになる。   次に掲げる書状は、発信年は不明であるが、輝元が「右馬」と称し ていることから、輝元が右馬頭に叙された天正元年( 『毛』三三三号) 以降、元就卒去後のものであることがわかる。書状中でも、元就を法 名の「日頼」と呼んでいる。 『吉』一九五      毛利輝元自筆書状 (端裏切封ウハ書) 「    (墨引)   隆景   まいる人々        右馬   元春      申給へ        輝元 」   於我等内存者申旧候、 一雖不及申候、当時世上之趣、一大事相極候、左候からハ、とか く申ても不相成儀候条、存寄所をも申候而、今少短息仕見候度 候、如此申而も、更々 我等無気根者 、可 届 " ハ 儀 一円御座有間敷候 へとも、さ様申而も、只今何にとも非別条候間、 うちくつし申 談、御指南次第、善悪ニ致気遣見可申候 、今分にてハ、又何を 申ても、はたと成間敷候、其段々ハ、口上ニ申候、 一事新申様と可被思召候へ共、 世上一大事時分候条、弥互之覚悟 ためにて御座候間、申事候 、 日 (元就) 頼 被仰置御一通之ことく、誠隆 景元春、唯今ハ我等三人之儀 者、自然時ハ乍勿論、一具ニ罷成 御事候条、其段存候へは、内々万申談儀、大小少も用捨 非 可 申 儀 候、我等存所をも申、別而内外共ニ被付御心、御指南候者、か い分可成其心得候、只今とて隔心申儀もなく、御両所対我等疎 之 御 あ つ か い、 毛 頭 無 之 候 へ 共、 こ と に よ り 御 用 捨 も 候 へ は、 可澄御事も相滞申様候、又内儀、我等気遣之所を、ゑ申候ハて 罷居候、当輪〳〵弓矢之儀まて被仰談候条、何にとも我等一分 気遣さね〳〵迷惑仕候、 其上我等事、無調法候へは、心底疎不 存候而も、依事御両所御気色ニ不合儀 も のミ 有へく候 、此条ハ、向 後とても其分たるへく候間、 幾よりも 〳〵 被仰聞、 又申談候而 、 悪事をハなをし申、互ニ外聞実可然相調候て、事新罷成、令安 堵、きおい候而、今少もかい分かない候ハぬまても、たしなミ 申候て、短息仕可見候、是非共御儀定之一儀ニ相極候条、御内 証承可得其心候、 以其上条々可申入候、 我等事、 善ニも悪ニも、 日頼、常栄被仰置筋目、致忘却間敷候 、万吉重畳可申候、恐々

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   (永禄十一年)     六月八日           隆景(花押)      内蔵丞殿 輝元の書状に対して、自分は子どもも居らず縁者もいないため輝元の みを偏に頼りにすると言い、また、 「上」 (元就)もお歳を召している 故に、今のうちに何事もよくよく聞いておくのがよいと助言している ( 波 線 部 )。 こ の 書 状 か ら、 隆 景 が「 御 当 家 長 久 之 念 願 計 ニ 候 」( 二 重 傍線部) との思いを抱き、 毛利家当主輝元に接していたことがわかる。   これらの書状に直截的な表現はないにしても、各々の思いの根底に は、毛利家第一の「三家無二」があるのではないかと読み取ることは 許されるのではないだろうか。   この時期の元就は、 「高齢で病気がちのなか、 輝元の時代を見すえて、 内外の不穏な勢力を取り除くとともに、新たな領国支配機構を構築す る必要に迫られ」 、「死没する前に輝元を補佐する『御四人』制を創出 し た 」 と 考 え ら れ て い る ( 注 9 ) 。 他 家 を 嗣 い だ 吉 川 元 春・ 小 早 川 隆 景 に福原貞俊・口羽通良という譜代の家臣を加えた構成である。元春と 隆 景 は、 「 毛 利 氏 の 支 配 機 構 中 枢 に 明 確 に 位 置 づ け ら れ、 法 的 機 構 的 に一体となって運営を担う形」 (注 10)になったことになり、 ここに至り、 吉川家、小早川家は、毛利家と対等に近い別の家という立場というよ りも、家臣団の中に取り込まれたような扱いになったということであ ろ う。 と す れ ば、 隆 元 存 命 中、 「 三 子 教 訓 状 」 に 元 就 が 表 明 し た 毛 利 家第一の「三家無二」の内実も、変質していったと言わざるを得ない ことになる。しかし、元就が隆元を喪い、晩年となって構想したその 領国支配の構造と、彼らの意識の中にある三家の関係とは必ずしも完 全に一致していたわけでもないように思われる。しかも、毛利家と吉 川家、 小早川家との関係がどう変化しようとも、 目標とするのは、 「毛 利家の存続」であることに変わりはないことも確かである。毛利家を 取り巻く政情   “外”の変化、そして、毛利家内の事情   “ 内”の変化 の中、毛利家家訓は、どのような形をとって、次の世代に受け継がれ ていったのであろうか。   次項では、元就卒去後の毛利一族の変化を追いながら、輝元世代に 受け継がれていった家訓のあり方を確認してみたい。

  元就卒去後の毛利家と輝元

 

日頼様御一通

  元就は、後顧の憂いを断つための方策として、輝元を補佐する執行 組 織 を 作 っ た。 譜 代 の 家 臣 と と も に 毛 利 家 の 中 枢 に 参 画 す る こ と に なった元春と隆景は、隆元代とはやや異なった立場となったと考えら れているが、輝元の叔父であるからには、元就卒去後は、血族として も輝元を支えることに、一層腐心したと思われる。毛利家には、元就 卒去の折、尾崎局から吉川元春に発信された書状が残されている。 『毛』一三二六      毛利隆元夫人 大内氏 消息 くたされ候へく候、うちたのミ申候 〳〵 、申まてハ候ハね とも、申事ニて候、御悦かさね〳〵申候へく候、 さても〳〵 ち ( 元 就 ) いさま の事、御としよりとハ申なから、かやうにふ との事とハおもひまいらせ候ハぬニ、ふしきに御かくれ候て、中 〳〵ちからおとし、申もおろかニて候、をなし御事に、さそ〳〵 と、御しん中おしハかりまいらせ候、 てるもとの御事、ひとへに

(13)

   (永禄十一年)     六月八日           隆景(花押)      内蔵丞殿 輝元の書状に対して、自分は子どもも居らず縁者もいないため輝元の みを偏に頼りにすると言い、また、 「上」 (元就)もお歳を召している 故に、今のうちに何事もよくよく聞いておくのがよいと助言している ( 波 線 部 )。 こ の 書 状 か ら、 隆 景 が「 御 当 家 長 久 之 念 願 計 ニ 候 」( 二 重 傍線部) との思いを抱き、 毛利家当主輝元に接していたことがわかる。   これらの書状に直截的な表現はないにしても、各々の思いの根底に は、毛利家第一の「三家無二」があるのではないかと読み取ることは 許されるのではないだろうか。   この時期の元就は、 「高齢で病気がちのなか、 輝元の時代を見すえて、 内外の不穏な勢力を取り除くとともに、新たな領国支配機構を構築す る必要に迫られ」 、「死没する前に輝元を補佐する『御四人』制を創出 し た 」 と 考 え ら れ て い る ( 注 9 ) 。 他 家 を 嗣 い だ 吉 川 元 春・ 小 早 川 隆 景 に福原貞俊・口羽通良という譜代の家臣を加えた構成である。元春と 隆 景 は、 「 毛 利 氏 の 支 配 機 構 中 枢 に 明 確 に 位 置 づ け ら れ、 法 的 機 構 的 に一体となって運営を担う形」 (注 10)になったことになり、 ここに至り、 吉川家、小早川家は、毛利家と対等に近い別の家という立場というよ りも、家臣団の中に取り込まれたような扱いになったということであ ろ う。 と す れ ば、 隆 元 存 命 中、 「 三 子 教 訓 状 」 に 元 就 が 表 明 し た 毛 利 家第一の「三家無二」の内実も、変質していったと言わざるを得ない ことになる。しかし、元就が隆元を喪い、晩年となって構想したその 領国支配の構造と、彼らの意識の中にある三家の関係とは必ずしも完 全に一致していたわけでもないように思われる。しかも、毛利家と吉 川家、 小早川家との関係がどう変化しようとも、 目標とするのは、 「毛 利家の存続」であることに変わりはないことも確かである。毛利家を 取り巻く政情   “外”の変化、そして、毛利家内の事情   “ 内”の変化 の中、毛利家家訓は、どのような形をとって、次の世代に受け継がれ ていったのであろうか。   次項では、元就卒去後の毛利一族の変化を追いながら、輝元世代に 受け継がれていった家訓のあり方を確認してみたい。

  元就卒去後の毛利家と輝元

 

日頼様御一通

  元就は、後顧の憂いを断つための方策として、輝元を補佐する執行 組 織 を 作 っ た。 譜 代 の 家 臣 と と も に 毛 利 家 の 中 枢 に 参 画 す る こ と に なった元春と隆景は、隆元代とはやや異なった立場となったと考えら れているが、輝元の叔父であるからには、元就卒去後は、血族として も輝元を支えることに、一層腐心したと思われる。毛利家には、元就 卒去の折、尾崎局から吉川元春に発信された書状が残されている。 『毛』一三二六      毛利隆元夫人 大内氏 消息 くたされ候へく候、うちたのミ申候 〳〵 、申まてハ候ハね とも、申事ニて候、御悦かさね〳〵申候へく候、 さても〳〵 ち ( 元 就 ) いさま の事、御としよりとハ申なから、かやうにふ との事とハおもひまいらせ候ハぬニ、ふしきに御かくれ候て、中 〳〵ちからおとし、申もおろかニて候、をなし御事に、さそ〳〵 と、御しん中おしハかりまいらせ候、 てるもとの御事、ひとへに 今度之種々忝段、申疎候、恐惶謹言、     六月九日           元春(花押) 輝元様   まいる   御返 人々御申 隆元の恩義を思い輝元に奉公しているのだから、余計な心配は無用で あ る と い い、 隆 元 の 名 を 頻 り に 出 し て い る( 傍 線 部 )。 そ し て、 隆 元 に対していた時と同じ心持ちでいるのだ、自分も輝元と同じ心持ちで どこまでも奉公する、どのようなことでも率直に隔心なく言い合おう ( 二 重 傍 線 部 ) と 認 め て い る の で あ る。 隆 元 時 代 に 変 わ ら ぬ 心 持 ち で 輝元に対するという態度は、元就の訓戒を念頭に置いてのことではな かろうか。   では、隆景はどのように接していたのであろうか。隆景の輝元に対 する直截な訓戒も見いだせていないが、次の書状から、その思いをう か が い 知 る こ と が で き よ う。 宛 名 は、 輝 元 側 近 の 内 蔵 丞( 粟 屋 元 種 ) であるが、これも実質的には輝元宛であろう。 『毛』八二〇     小早川隆景自筆書状      (端裏切封ウハ書)   「   (墨引)           佐衛      内 (粟屋元種) 蔵丞 殿           隆景」 返々、御懇書忝候 〳〵 、又立雪にての御あらましも、以前そ と〳〵物語被仕之条、承候、又彼心持御推量尤ニ候〳〵、   御書具致拝見候 、 一下口之儀、如御意、 長 ( 兵 部 少 輔 ) 野不慮 之儀付而相破、既被成御出張儀ニ 候、 元春我等事、御意次第、 関表可罷下との申事ニ候、其付而 御懇ニ被仰聞通、誠ニ目出度候、涯分可致短足之条、軈而可為 御本意候、 一 別而向後之儀可致馳走之通、被仰聞候、殊御心底之程こま 〳〵 被成御意候、一段難有存計ニ候、御意こそ疎ニ候へ、 御当家長 久之念願計ニ候 、御家諸事之御操御大儀ニ被思召候よし、誠々 無 余 儀 御 事 ニ 候、 前 々 ニ 替 候 て、 大 篇 之 国 数 御 裁 判 之 儀 候 處、 可然人ハ無之候て、何共御心遣なる事まてとの、内々も申事ニ 候、 一今程ハ 諸篇   上との御内談細々被召候而見へ申候条、 于心ニ候、 彼是人之心持共、よく 〳〵 御尋候ておかせられ候ハん事専一ニ 候 、六かしき様ニ   上ニハ被思召、御事繁キ時共ハ、しか〳〵 無御返事候共、 切々何事も尋御申干要候 、彼御一命之内、御家 来六かしき事共、 其外何事も御定候ハてハ、 後之御太儀にて候、 何篇御分別参候間、目出度候、 一是ハ次而之申事ニ候、 正月にて御座候ツる、 くたされゑい候て、 おうへにて申上候様ニ、 我等事ハ、取分   輝元様御一身を、勿 論なから頼存計にて候、上ニハ御年寄られ候、又子共一 人 も も ち 候ハす候、縁者なとも無之候、唯一身之事ニ候へハ、別而被懸 御目候ハてハ、少も無頼方候、我等於覚悟者、ゆニも水ニも一 篇之儀不及申候、更々無他事候 、 一似相之儀ハ、存寄所可申上候、御内状にて御用之儀共可被仰聞 候〳〵、 呉々御懇ニ被思召寄、 種々被仰聞候事、 行末も御頼敷、 安堵、忝さ、更々無申計候 〳〵 、何れもくハしく又々従是可申 上候〳〵、恐々謹言、

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