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物ができる ということになってきたらしい やはりここも 実利 の世界 3 月 22 日 ( 木 ) 朝 ホテルの6 階で朝食をすませて バルコニーに出ると 遠く海辺に何やら海苔の養殖場のようなものが見える あれが 1958 年の金門島をめぐる攻防戦の際 中共軍の上陸を阻止するために作られた海中の杭の

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三通を体験し、両岸の企業・大学と交流する

三通を体験し、両岸の企業・大学と交流する

三通を体験し、両岸の企業・大学と交流する

三通を体験し、両岸の企業・大学と交流する

2012年3月20日(火)~3月25日(日) 第12次日中友好経済懇話会訪中団

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関西空港発に7時15分に集合、今回は総計24人、福岡、東京からの直行便の人や 現地で合流という人もいる。 JAL813便は9時15分離陸、台北着は11時40分。京 都を出かけるときはまだ寒かったので重ね着をしてきたが、さすがに台湾は温暖で、 特に台湾高鐵(日本の新幹線と同じ規格)で台南に着くと暑いくらい。国立成功大学 博物館を訪問し、日本支配時代からの展示を見せていただいたが、4代目までの校長 は日本人。お話をお聞きして、日本への親しみを持っておられることが感じられる。 東建安股扮有限公司(オー トランド)の総経理郭さん が随行してくれたが、オートランド訪問は明日にして、 鄭成功記念碑を訪問、その後ホテルへ向かう。

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今日はオートランド(東建安股分有限公司)工場の見学。社長の郭さんによると、 開発中のハイテク工業団地に新社屋と工場を建設中ということで、建設現場に案内し てもらった。その後、台南市科学園区視察。聞けば「台湾で最大規模のハイテク工業 団地になる」という。意気込みが感じられる。 昼食は海鮮料理、午後高雄へ。高雄港につくと 岸壁は立ち入り禁止、近くのビルの2階から大 型船の停泊している姿を見るだけに終わった。 波止場の岸壁のFisherMansWarfは客が誰もこ ないためシャッターが降りたままで残念。しか しガイドさんの話では「以前には倉庫だった建 物を改修し観光客を受け入れるようになってか らかなりにぎやかになってきているという。 写真のフェリーの奥に停泊しているのは海軍の輸送艦艇か?地図では新濱海軍基地と ある。 18:40 高雄空港から小型のターボプロペラ機に搭乗して金門島へ。1時間足らず で金門島に到着。夕食の前に繁華街を散歩。私は今回の旅行で、以前の中国旅行での 人民元の残り20元あまりしか持っていなかったので心配していたが、ガイドさんの 話によると「人民元も使えますよ」とのこと。「大三通」(物流・郵便・人の交流)が 進んで、今や大陸からの観光客は大切な収入源。したがって「毛沢東の紙幣でも買い 鄭成功 鄭成功 鄭成功 鄭成功(1624―1662) 清に滅ぼされようとしてい る 明 を 擁 護 し 抵 抗 運 動 を 続 け 、 台 湾に 渡 り 、1661 年 に 台 湾 を 占 拠 し て い た オランダ人を追放し、鄭氏 政権の祖となった。俗称を 国姓爺。台湾・中国では民 族的英雄として描かれる。

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物ができる」ということになってきたらしい。やはりここも「実利」の世界。

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朝、ホテルの6階で朝食をすませて、バルコ ニーに出ると、遠く海辺に何やら海苔の養殖場 のようなものが見える。「あれが1958年の金門 島をめぐる攻防戦の際、中共軍の上陸を阻止す るために作られた海中の杭の名残ではないか」 と大西先生。 午前中、まずは、莒光楼。ところが、中共軍 との砲撃戦や上陸阻止のための海岸線バリケー ドの記録など一切見られない。訪れる観光客の 大部分が中国本土からの観光客であり、観光に よって島の経済が支えられている以上、「かって、 50年以上も前に、にっくき中共軍との交戦があ ったが撃退した」といった記述の掲示を「自粛」 するようになったとしても不思議ではない。と ころが、バスの駐車場近くの路肩のフェンスに 女性が何やらパネルのようなものを取り付け始 めた。よく見ると「中共悪党活摘法輪功学院器 官販売」とあり、あるパネルでは、「中共建政 60 年殺害八千万中国人」とある。その 下には数々の証拠写真があった。「確信右翼」のような団体があり、中国本土からの観 光客にアピールしているのだろうか。 次は瓊林戦門坑道へ。地下トンネルは南ベトナム旅行でも入ったが、住民の避難壕 としても使われたことだろう。その後、最前線となった馬山観測台へ。現在も軍隊が 基地をもっていて立ち入り禁止。アモイとの距離は約6kmという。砲撃を繰り返して いる時期には双方大型スピーカーで宣伝合戦をしたというがそれが設置された要塞と いうこと。海辺に出ると大きな岩の表面に無数の穴があけられている。上陸を阻止す るための杭なのか、パラシュート部隊を阻止するための槍を取り付けた跡なのか。 その後、刃物製造の店に。社長さんが砲弾から鉄を切り取ってコークス炉で加熱し、 自動ハンマーで薄く伸ばして包丁に仕上げていく作業を実演してくれたが、工場には 内部をぬかれた砲弾(40cmくらい)が無数においてあったが、材料費は中共軍提供で 只。昼食後、翟山坑道(地下要塞)に入る。海に続くかなりの深さの坑道(水路)で、 上陸用舟艇を砲撃から守るために掘られたものらしい。 いよいよフェリーに乗船して台湾出国(三通を体験)、高速船で中国福建省アモイへ。

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約1時間でアモイに上陸=入国手続きをして、アモイ大学へ直行。アモイ大学MBA コースを訪問、教員や学生(院生)と交流。大学側の招待で近くの南普陀寺(のレス トラン)で精進料理、テーブルについた 2 人の院生と交流。ホテルの金雁酒店へ。と ころがホテルに着くと入り口で何やらカードをくれたので、ホテルに入ってからよく 見ると、かわいいお姉さんが微笑んでいて、下には電話番号が入れてある。「ここは社

金門島をめぐる戦争

金門島をめぐる戦争

金門島をめぐる戦争

金門島をめぐる戦争

第一次戦役 第一次戦役第一次戦役 第一次戦役 1949年10月24日、人民解放軍の二個師団(約2万人)が厦門周辺から渡海し て金門島攻略作戦を発動した。第一陣の8千人は、夜半に出航、翌25日午前1時 40 分に金門島に上陸を開始。ところが、上陸に時間がかかり過ぎたため、引き潮 で船団は次々と坐礁、結局、百数十隻の船は、夜明け後、国府側の空軍、海軍と砲 撃部隊によって全部破壊され、一隻も対岸へ戻ることができなかった。 上陸した 解放軍は後続部隊が断たれたため、当時金門にいた4万を超える国府軍の陸・海・ 空軍および戦車部隊の連合作戦のもとで27日に全滅。3千余人が捕虜となり、5 千余人は戦死した。 第二次戦争 第二次戦争第二次戦争 第二次戦争 朝鮮戦争が停戦を迎えると、中華人民共和国は東南沿岸での鷹厦鉄道、軍事道路、 飛行場などを1955年から1956年にかけて完成させた。 1958年8月23日午後6時に中国人民解放軍は、中華民国の大金門島・小金門島 に対し砲撃を開始。戦闘開始2時間で4万発、1日では5万7千発のも砲弾が使用 された。この攻撃で金門島で 440 余名の死傷者がでた。この攻撃に対してアメリ カは、第7艦隊を台湾海峡周辺に派遣し、中華民国軍への物資補給支援、空軍、海 兵隊、陸軍の3軍による共同演習を実施し中国人民解放軍側に警告、更にロッキー ドF-104A戦闘機などを中華民国に急派するなどの支援策を実施している。ジェッ ト戦闘機を発艦させることができる蒸気カタパルトを備えた初のアメリカ空母ハン コックを中心に強力な空母機動部隊が急派された。 9月18日以降にアメリカより8インチ(約20㎝)榴弾砲が金門島の中華民国軍に 提供されると、26 日以降中華民国軍は対岸のアモイの大嶝、二嶝の中国人民解放 軍砲兵陣地を攻撃し大きなダメージを与えた。9月24日の中国軍と台湾軍との空 軍同士の衝突では中国空軍はMig15とMig17、台湾軍はF-86Fだった。中国空軍 機の装備は23mm機関砲と37mm機関砲だけ、台湾軍のF-86Fは通常の12.7mm 機銃に加えサイドワインダー空対空ミサイルを搭載していた。結果は台湾軍の圧勝 となった。 これを受けて劣勢となった中国人民解放軍は、10月5日に中華人民共和国国防部 長の彭徳懐が「人道的な見地より金門への砲撃を7日間停止する」と一方的に発表、 10月13日には再度2週間の攻撃中止を発表、中国人民解放軍による積極的な攻撃 とその後の金門島への侵略作戦は転換を余儀なくされ、10月28日に中国人民解放 軍は一方的に隔日攻撃の方針を発表し、戦闘は次第に終息化していく。その後も中 国人民解放軍による定期的な砲撃は継続されたが、砲撃は毎週月・水・金曜日に限 られ、しかも無人の山地を標的とした形だけのものだった。最終的に中国人民解放 軍による砲撃が停止されたのは1979年の米中国交樹立時である。

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会主義中国じゃないのか」と思ったが、時代の流れには逆らえないのだろうか。

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今日は午前中はコロンス島観光。早速フェ リーで向いのコロンス島に渡る。島内は自動 車・バイクなど一切禁止で、利用できるのは 公共交通機関の電動カート(10人乗り)だ けで、料金は20元。各国の旧領事館や富豪 の別荘などが観光施設として公開されている。 入場した海天堂構には人形劇場があり、中国 京劇が上演されていた。続いて歩いていくと、海鮮料理のレストランがあちこちにあ り、店先でワタリガニやシャコ、鯛や車海老、ウツボや大きな貝などがイケスの中 にいる。おいしそう。丘をこえて海辺に出て、林氏の邸宅だったという「ピアノ博物 館に入場した。 再びフェリーでアモイ側にもどり、胡里山砲台に行 く。アヘン戦争のころドイツ(クルップ製)から輸入 して設置した当時としては最新鋭の砲台で、直径24cm の砲弾を毎分 2 発発射できたという。昼食後、福州へ 向う。途中から雨になる。午後 6 時過ぎに福州の陽光 暇日大酒店ホテル着。夕食はホテル内で、明日帰国さ れる大西先生とは今日でお別れとなるので、全員の自 己紹介で交流会。来年の規格も提案される。

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福州市 午前中の企業訪問は福州協多吉精機有限公司(トキワグループ)、わざわざ日本から 副社長の北川正彦氏が来て説明をしていただいた。隣の台湾企業では蛍光灯(欧州向 け)の製造工程を視察。蛍光灯一つにしても電極の製造にしてもかなり複雑な作業の 積み重ねであることがわかる。 昼食は北川氏を招いての懇談となったが、テーブルの海鮮料理で盛り上がる。午後 は、林則徐(1838年阿片禁輸の欽差大臣に任命され、翌年、イギリス商人が持ってい る阿片を全て没収処分し、阿片戦争を引き起こすことになった)の記念館を訪問、そ の後、福州沖縄事務所を訪問するが、土曜日で休み、誰もいない。その後琉球墓に行 くが、地元の人だろうか、線香をあげていた。ホテルに帰って外出。 近くの店で鮮やかな正月用の「喜」を2つあしらったお飾りを買う、 10元。バスで夕食のレストランへ。あすは帰国組みと台北ツアー組 に分かれるので今日が最後の旅行団としての夕食となる。

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福州から台北へ。オプショナルツアー組は帰国組 と台北空港で分かれて、台北市内観光。昼食後、時 間を合わせて忠烈祠衛兵の交代を見に行く。 台北オプショナルツアーの目玉、故宮博物院は、 とても短時間で鑑賞できる規模の博物館ではなかっ たが、駆け足で全館の展示室をまわった。

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故宮博物院: 故宮博物院: 故宮博物院: 故宮博物院:蒋介石の中華民国政府が1937 年に南京に向けて進軍してきた日本軍から所 蔵品を守るために運び出し四川省の巴県・峨 嵋山・楽山の3カ所に避難させた。 第二次世界大戦後、所蔵品は重慶を経て再び 南京・北京に戻されたが、国共内戦が激化す るにつれて中華民国政府の形勢が不利になっ たため、1948年の秋に中華民国政府は故宮博物院から2,972箱に及ぶ所蔵品を精選し て台北へと運んだ。その数が合計60万8985件冊にも及ぶことから世界四大博物館の ひとつに数えられている。膨大な所蔵量のために、全ての所蔵品を見るためには 8年 余りもかかると言われている。 夕食の前、中正紀念堂、道教寺院に立ち寄る。 夜は台北名物の夜市へ。格安の商品(時計、装飾 品、繊維製品など)と、食べ物の屋台も並ぶ。 翌朝、空港までの途中、スーパーマーケットに 立ち寄って、最後の買い物。その後、関西空港へ、 午後3時過ぎに帰国。

三通:中台経済関係の歴史的考察

三通:中台経済関係の歴史的考察

三通:中台経済関係の歴史的考察

三通:中台経済関係の歴史的考察

「金門島をめぐって戦争までした中台関係が、現在のような“三通”関係を深める ようになった歴史的要因は何か?」今回の旅行を通じて私の思いの1つだった。旅 行を終えて、調べていくうちに、「中台経済関係の進展と台湾の自立性」「中台経済関係の進展と台湾の自立性」「中台経済関係の進展と台湾の自立性」「中台経済関係の進展と台湾の自立性」(2010/3 神 戸大学国際協力研究科:大嶋英一氏 2009 年度 財団法人交流協会日台交流センタ ー 日台研究支援事業報告書)という論文にであった。 この論文によると 1979年以前の両岸関係は軍事的敵対関係にあり、経済関係も隔絶されていた。大陸 が1979年1月、全人代常務委員会が「台湾同胞に告げる書」で平和統一を打ちだ し、“三通”(通郵、通航、通商)と“四流”(学術、文化、体育、科学技術交流)を 呼びかけたことから中台間の貿易と投資が開始された。台湾側は、蒋経国政権時代 の80年代半ばに大陸との中継貿易を黙認し、87年7月に戒厳令の廃止、11月の一 般民衆の大陸への“里帰り解禁”、更に91年からは大陸への間接投資も解禁した。 その後、中継貿易による商品と資本(ケイマンなどタックス・ヘイブンを経由)の 交流に見られる中台経済交流は急速な進展を見せた。大陸への投資は、2006年でみ ると台湾の対外投資全体の86%を占めるに至っている。 台湾の対中経済政策は、李登輝政権の「戒急用忍」政策(1996-2000年)、陳水 扁政権の「積極開放、有効管理」政策(2001-2005年)、同じく「積極管理、有効 開放」政策(2006-2008年)、そして馬英九政権の全面的な開放政策(2008年-) と、規制と緩和の間で大きく振れて来た。 台湾統一を目標とする大陸は、台湾との経済的関係を深めることにより統一を促 す政策を意識的にとっており、2005年3月には「反国家分裂法」を制定、陳水扁政 権への圧力をかけるとともに、「台独」支持の中国進出台湾企業への工作を強化して いる。(許文龍事件) また、大陸進出台湾企業への優遇策や、毎年 2~3000 名の 台湾学生を大陸に招待するなど攻勢を強めている。 こうした両岸関係の下で、見逃せないことは経済交流の進展が必然的にもたらす

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「中国共産党」

「中国共産党」

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「中国共産党」

昨年、「中国共産党 支配者たちの秘密の世界」(リチャード・マ グレガー 草思社)という本が出版された。著者は英『フィナンシ ャル・タイムス』誌記者、元北京支局長。最近、話題の焦点とな っている元重慶市長の薄熙来氏の失脚をめぐって、汚職、権力闘 争‥と憶測が憶測をよんでいるが、中国共産党の権力支配の一側 面を知る上で参考になる本である(あくまで一側面にすぎないが)。 私が注目したのは以下の2点: ①「中国は台湾を武力で奪還すべきだ」と強く提言してきた閻学 通清華大学教授(国際関係研究院長)は、戦わずにバルト3国を失ったソ連の例を あげて、国民は当然、台湾の再統一を求めて立ち上がるものと信じていた。だが実 際は誰も気に留めなかった。「中国の国民はそれほど愛国的ではない」と彼は言う。 「現在、政府と国民が共有している唯一のイデオロギーは、拝金主義だ。わが国の 軍事予算はロシアの 1.6倍、にもかかわらず、ロシアと同規模の軍事力を築いては いない。教育予算もインドよりはるかに多いが、ノーベル賞を受賞した中国人は1 人もいない。インドはすでに10人も受賞している。」と枚挙にいとまがない。胡錦 濤の新たな台湾政策は、「台湾を手に入れるには、まず島に入り、次に彼らの家に入 り、それから彼らの心に入ること」という。 ②黒龍江省でおきた馬徳事件。伝統的な汚職では、役人が便宜をはかる見返りに金 品を要求する。馬徳が、牡丹江市の副市長に赴任したときのこと、見返りが欲しい とほのめかしもしないのに、多くの人から金品を受け取ってくれと迫られたという。 1988年に副市長に就任したばかりのころ、馬夫妻は、贈り物を持ってくる人がいて も明りを消しドアを開けなかった。まもなくそのことで、同僚に非難された。「あな た方が贈り物を受け取らなかったら、その人は、あなた方から信用されていないの だと思います。他の人たちはみんな受け取っています。人の上に立つ者が周囲から 孤立して、仕事ができると思っているのですか。贈り物を拒否するのなら、これか らの仕事はうまくいきませんよ」といわれ、汚職に手を染める。やがて逮捕される が、彼は「政治腐敗の本質的誘因は人事システムそのものにある」と言明している。 同行の小林さんに「この本は中国国内で発売されていますか」とたずねると「とて も無理でしょう」との答えだった。 台湾社会の変化である。大陸との経済の一体化は大陸に居住する台湾人口を急増さ せ、大陸の中国人との婚姻も増大している。また、台湾の若者たちの就職先として 大陸の重要性が高まっている現実もある。他方、台湾が民主化されてから間もなく 20年になり、民主社会しか知らない若者の大陸観は上の世代とは異なって来ている ようである。このような社会的変化はゆっくりではあるが、台湾の自立性に確実に 影響を与えていくであろう。 以上、示唆に富んだ内容の論文である。 福州のホテルにあった「福州市旅游局」の「大陸居民赴台旅游注意事項提示」には 以下の記載があった。団体を組むこと、公安への届出をせよという指示らしい。

参照

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