モンテヴェルディにおける声楽的時間から器楽的時 間への移行
著者 上利 博規
雑誌名 人文論集
巻 67
号 1
ページ A1‑A20
発行年 2016‑08‑31
出版者 静岡大学人文社会科学部
URL http://doi.org/10.14945/00009826
モ ンテヴェル ィにお ける 声楽的時間か ら器│ 的時間への移行
上
利
博 規
はじめに
本論文は、広 く「近代化による文化の変質」と考えられる事象の一例 として、
自然魔術の流行を見たルネサンスから自然科学が誕生するバロックヘの移行期 において、声楽的時間から器楽的時間への移行 による音楽の質的変化があった と考え、その移行過程をモンテヴェルディ
(ClaudiO Giovanni Antonio Mont"erdk
1567〜
1643)の作品の中に見 ようとするものである。音楽は時間の芸術だといわれることが多いが、その場合呼吸 と言葉に従 う声楽的時間 と、メ トロノーム のように計測可能で均質的な器楽的時間 とは質的に違 うものと考えられる。そ して、声楽的時間から器楽的時間への移行は、既に中世後期の定量記譜法の発 達にも見てとれるが、 これが決定的な移行を見せることによってルネサンス音 楽 とは異なる弦楽器や鍵盤楽器によるバロック音楽への発展があった。
このルネサンス音楽からバロック音楽への移行において決定的に重要な働 き をした人物 としてモンテヴェルディの名を挙げることに異論をさしはさむ人は いないであろう。象徴的にいえば、モンテヴェルディはルネサンス後期 に流行 したマ ドリガーンの最後の作曲家であ り、バロック時代に始まるオペラの最初 の作山家の一人でもある。 したがって、モンテヴェルディの作品の数々は、ま さにルネサンス音楽からバロック音楽へ、あるいは声楽的音楽から器楽的音楽 への移行の様子をわれわれに提供するものである。
そこで、モンテヴェルディのマ ドリガーレ第5巻から第8巻の作品において 音楽的時間の変化を彼の代表作でもあるオペラ『オルフェオJと共に具体的に 検討したいと考えるが
(第
3章)、
その準備 として音楽的時間の定量化 という質 的変化がどのようにして起 こっていたのかについて中世後期の定量記譜法の発 達 と、 自然科学が発達 し始めるバロック時代前半における音の物理的計測など の新 しい定量化 と当時の音楽理論などがどのようなものであったかを確認 し(第
アい 楽
1章)、 続いて
15011T代
後半のルネサンス後期 において次第にポリフォニー音楽 から器楽を中心 とするリズムの明確な音楽への移行が始 まってお り、それがモ ンテヴェルディにおいて総合されてゆ くことになる様子を、①1500年
代後半の マ ドリガーンの流行、②ヴァイオリンなどの弦楽器の流行、③インテルメーディ オからオ人ラヘの道におけるシジフォニアの位置づけ、などの観点から確認し ておきたい(第
2章)。第1章 音楽的時間 とその定量化の2つの試み 第1節 音楽的時間の定量化の動き
ミサの言葉を中心 とした中世音楽が定量化の動 きを示すのは、アルス・ アン ティクアと呼ばれることになる
1200年
前後のノー トルダム楽派におけるモー ド 記譜法を経て、フランコ・デ・コローニア(FrancO de Colorua、 c.1215〜 c1270)、
フィリップ・ ド・ ヴィ トリ
(Philppe de
Ⅵty、 1291〜 1361)、
あるいはヨハネ ス・ デ・ ムリス(Johannes de Muris、
c1300〜c1350)たちの頃である。アル ス・ ノゾァという呼υ防 の文の親でもあるヴイ トリの「新 しい技法』(Ars nova、
c1320)や ヨハネス・デ・ムリスの「定量音楽の書』
(Lお e■ us cmtus mensurab施
、 c1340)は、アルス・ ノヴァの定量記譜法についてまとめたものである。その 経緯の概略を示せば次のようになる。まず、ノー トルダム楽派であるが、彼 らの使用 したモー ド記譜法では、 リガ トゥラと呼ばれる連結譜を用いた角型ネウマによって6つの リズーム・ パター ンを記 していた。 しかし、 この方法はおおよその リズムについて示すにとどま り、様々なパターンの リズムを明確に示すわけではなかったので、フランコ 。 デ・ コローニアは『定量音楽技法
J(Ars cantus mensuraЫ Is、 c.1260)に
よっ て、長音ロンガと短音プンヴィスなどを用いて、それぞれの音の長さを定量的 比率関係 (mensura)と して示そうとした。この記譜法では、短音プンプィ不をさらに短い音に分割するときには、2分 割は不完全な分割 と考えられていたために基本的には3分割を行 っていたが、
アルス・ ノヴァでは2分割も多様 されるようにな り、 したがつて3分割法 と
2
分割法の組み合わせにより、3分割 ×3分割(今
日では9/8拍
子になるが、一般 的には3連符による3/4と
して演奏される)、 3分割 ×2分割(今
日の8分音符による
3/4)、
2分割X3分割(今
日の8分音符による6/8)、
2分割 ×2分割(今
日の8分音符 による
27/4拍
子)という4つの リズム・ パターンが生 じることになった。
こうした音の長さの細分化は基準 となる音の長さの変化 ももたらした。すな わち、アルス・ アンティクアにおいては長音であるコンガが基準であったが、
次第に短音のプレツィス、そしてブレヴィスを分割 したセ ミプレツィスになり、
ルネサンス後期にはミニマに、バロック時代に入るとセ ミミニマになり今 日の ように4分音符が基本単位 となった。
4分音符は4つに分割 した音符 という意味であ り、もともとはその4倍の長 さの、今 日でい う全音符であるセ ミブレツィスが基本であったことを示 してい る。小節 とい う単位は、全音符1つ分を示 してお り、小節の内に書かれた音符 と休符は基本単位である全音符の分割方法を示 している。そして全音符は一回 分の腕の上げおろしによって示され、 この腕の上げおろしは、
tangere(打
つ こ と)を語源 ととしてtactus(拍
)と呼ばれ、それは打つこと、すなわち「ビー ト」(beat)で あった。tacttls(拍
)の基本は、複数の人に拍を示すために腕 を up downす ることである。そして、音楽がより細分化されるに連れて、 この腕 の動 き(tactus)は
、upと
downが同 じ速度で行われる場合 には2拍子 を形成 し、downがupの2倍の場合 には合計3拍子を形成することになった。音の長 さの基本単位、かつてはセ ミブレヴィスと呼ばれ今 日では全音符 と呼ばれる音 の長さを示す 「腕の上げおろし」 とい う1単位 (mensura)は、2分割(し
た がって2/411子
)と 3分割(3/4拍
子)を示すことになる。 これが今 日の指揮者 の「タク ト」であ り、2/4を
示す「タク ト」とは全音符を基本単位 として示 しな がら、同時にそれを2分割する動 きとして示すものであるLこのように、中世からルネサンスにかけて今 日の音楽に近い定量化への道を 歩み、音の長短から音の長さの基準 としての拍節
(tactus)へ
と発展 したが、し かし他方では近代音楽のような小節 ごとに繰 り返される強弱アクセントの考え、4拍子の場合には「強・弱 。中・弱」などの リズムの形成には至っていない。
1な お、 この 「打つ こと」 を ̀the hea is beaung'と ぃ う場合の心臓 の脈拍の beatと 考 えるのは、
フランキヌス・ ガ ッフ リウス (Pranchinus Catu● us、 1451〜 1522)の 「音楽の実践 J(Prttlca
ml181cae、 1496)の 中の、 1分 間の脈拍数∞ くらいがセ ミプレツィスであるとい う記述 に由来す
るものである。 しか し、脈拍 によっては腕の上げおろしのような 2分 割や 3分 割 を示す ことがで
きないか ら、脈拍 としての beatの 説明はあ くまで副次的なものである。また、脈拍
6tlは1分 間に
おける全音符の数であ り、メ トロノームによる 1分 間の 4分 音符の数 60と は異 なるとい うことに
ついても混乱がないように しなければならない。
第2節 ルネサンスにおける比例への関心 と音楽理論
ルネサンス時代の遠近法は、消失点からの相似的関係によって空間を等質的 に分割 しようとする。個々の物体は(その絶対的空間形式に配分 され、比例関 係 によって大 きさが規定される。そもそも比例への関心は、古代エジプトの幾 何学 と測量術がギリシアに輸入され
logosと
して規定されてギリシアの学問的志 向を導 き、ギリシア彫刻ではポ リュタレイ トスのFカ
ノン』において諸部分の 理想的な比率(pЮ por
n)での結合 とい う考えを生んだが、それは古代ロー マにおいてはウィトルウィウスが「建築についてJで建築における比例問題 と して問題 とした。それが、ルネサンス時代 にブルネレスキ(Brtlnelleschi、 1377
〜1446)の建築や レオナル ド・ グ・ ヴィンチの
Fウ
ィトルウィウス的人体図J
(Uomo vitrunano、 c1487)2と
して甦 り、ルネサンス時代 には比例への関心が高 まっていた。音楽においても、既にピタゴラスが音の高さを比例 として捉えて以来、比例 の問題は古代、中世の音楽論の中心に置かれ、そのため自由七科において音楽 は数学の仲間 として扱われた りもした。そして、ルネサンス時代 においては、
建築における可視的比例関係は時に音楽における不可視的音程の比例関係 と対 応させ られることもあ り、たとえば畜程における完全性
(完
全4度、完全5度、 完全8度)を空間の完全性のたとえとされた りもしたのであった。ルネサンス時代において書かれた音の比例関係 については、ヨハネス・ ティ ンク トリス
(Johallnぃ
■n ms、
c1435〜 1511)のF音
楽の比率J(PrOportiOnale
mぃた
es、 c1475)、
ピエ トロ・ アーロン(Pietro Aron、 1480〜 15
)のFハ
ル モニア教程J(HbJ tres de hsitutione harmttca、 1516)、
ニコラ・ ヴィチェン ティーノ 〈Nicola Viこ entho、 1511〜 c1576)、
ザル リーノ (Ciosefo Z"ho、1517〜
1590)の「ハルモニア綱(Le lstitudom Harlntlniche、
1558)な どが、ピュタゴラスやボエティウスなどの音の比例 と和音論について述べているが、
それは複雑化 したポ リフォニーから脱却 し、ルネサンス的人文主義における言 葉 と語 りの重視へ、そしてその際に声を支える和音のあ り方を追求 しようとす るルネサンス時代の急速な音楽の変化がもたらしたものであつた。
2「 ウィ トルウィウス的人体図』は、ラィ トル ウィクスの「建築 について Jの 中の第 3巻 第 1章 「神
殿 と人体 における対称 について」の第 2節 から第 3節 の記述 を絵画 にしたものである。 そこで
は、人体の話部分が どのような比例関係 にあるかが記述 してあ り、神殿建築 も人体 と同様 に対称
的で均整が取れた比例関係 にあること力埋 ましい、そして人体 を宇宙全体 と対応 させ、へそを中
心 に円を描 くことがで き、同時に延 ばした両手 と足先によって正方形 を描 くことがで きる、 と述
べている。
ルネサンス時代に続 くバロック時代には、もューつの新 しい問題が生じた。
それは、音を物理的現象 として扱 う自然科学的アプローチである。その先頭を 切った人物 として、フランシス・ ベーコン
(Francis Bacon、 1561〜
1626)を あ げることができる。彼は1627年
に『森の森J(SYLVA SYLVARUM)の中で、音 速をill定
する方法にういて書いた。その方法は、寺院の尖塔にヴェールをかぶ せたろうそくを置いて、ヴェールを取ると同時に鐘を打ち、 1マイル離れた観 測者がろうそくの光が見えた時間と鐘の音が聴 こえた時間の差を測ることによっ て音速が計算できるというものである。その際、時間を測るのに使われたもの は脈拍であった。 このように、「実験 と観察」を重んじたペーコンにあっても、なお時間の測定には人体の脈拍 を利用 していたのである。
時間の測定が時計にかわるのは(ルネサンスからバロックヘの移行期 におい て、ガ リンオ・ ガ リレイ
(Gttleo Camei、 1564〜 1642)、
そしてメルセンメ神 父(1588〜 1648)力
̀振
り子の等時性を発見 し、1657年
前後にオランダのホイヘ ンス(1629〜 1695)力 S振
り子時計を発明して以降のことである。すなわち、確 かにベーコンは「実験 と観察」の重要さを指摘 し、自らも場合 によっては肺炎 によって死亡するに至るほど実験 を行ったが、様々な科学的実験 を具体的に展 開 したのは、1657年
にガ リレオ・ ガ リレイの弟子たちがメディチ家の援助 を受 けながらフィレンツェに作った「アカデミア・ デル・チメント」(Accademia del Cimento、
実験アカデミー)、 そして1660年
に設立されたイギリスの王立協会、1666年
に創立されたフランス科学アカデミー三立などによってであった。メルセンメ神父は『普遍的和声J(1636)において、大砲の音を使って音速を 測る方法について述べている。そのや り方はベーコンのものと同 じであるが、
メルセンメは実際に測定 して音速を
448m/secと
した。また、振 り子の周期に関 する実験を応用 して、弦楽器の音程が弦の長さ、材質、張力などによって決定 されることを明らかにし、さらに12音
の平均律 を計算 してチェンバロ製作など にも言及 している。そのメルセンヌ神父 と関わ りが深かったデカル ト
(1596〜
1650)は、ォラン グでの入隊時の22歳
で『音楽提要J〈 Compendiuln Musicae、 1618、
公刊は死後 の1650)を 書いた。 この書は全部で13の
章からなり、和音論が主であるが、そ れらに先だって第3章で音の長さについて述べている。その前半では音の3分 割 と2分割の問題に触れ、後半では拍の問題に触れられている。デカル トは、拍感は、「声楽では息の強さ」
(sPiritus intensione h vocali musica)、
「器楽ではビー ト」
(tactus in mstrumentis)に
よってそれを示すことになるという3。
すな わち先述のように、定量記譜法においては各音の長さが比例関係に置かれるよ うになったが、強弱アクセントの繰 り返 しによる小節 という概念はまだ生 じて いなかったが、デカル トはここで「息の強さ」または楽器の「ビー ト」による 均質化された時間の進行の単位 として小節の成立について言及 してゼヽるのであ る。ルネサンス時代に入 り教会から解放された新 しい音楽が増えたために、定量 記譜法
(mensural notation)│こ
おける音の高さのみならず、音の長さについて の記譜法が必要 とされていたが、パロック時代に入つて、デカル トは「音楽提 要Jにおいて音の高さと長さに関する数学的で原理的な理解の仕方を求めたの である。デカル トのこうした態度は、やがてF精
神指導の法則J(遺情、1701出
版)における原理的な探求方法 としての「普遍数学」(Mathesis un市 crsaLs)の
提唱へと結びつ くことになる。すなわち、聰誠J4
事物の真理を探求するには 方法が必要である」において、「何 ら特殊な質料に関わ りなく、順序 (ordO)と 計量的関係 (mensura)とについて求められ うるすべてのことを、説明するところの或る一般的な学問がなければならぬこと」
(野
田又夫訳、岩波文庫、P30) と述べる。 こうして、音楽において具体化 された個 々の時間の経過ではなく、カン トが超越論的感性論において述べるような時間への道が、デカル トによっ て個々の時間の比例関係 としてのmensuraで はなく、そのような個別的な比例 関係 をも可能にするような絶対的で計量可能性を与える原理的基準
(mensura)
としての「普遍数学」 として開かれるのである。そして、デカル トのこのよう な考え方は、ニュー トンの「プリンキピア』
(1687)、
プォルフ『普遍数学原論』(1713)、
ヘルマン『物体の力の尺度について」(De Mensura宙 五um cOrporum、
1728)、
ビュルフィンガー『運動物体の固有力 とその尺度について』(1728)な ど、バロック時代の科学的思考の誕生へとつながるのである。第2章 マン トヴァ時代のモンテヴェルディと器楽的時間への移行の背景 第1節 マ ドリガー レとモンテヴェルデイ
1500年
代前半にはフランドルの作曲家によって世俗多声声楽曲であるマ ドリ ガーンが作 られるようになった。初期のマ ドリガーン作曲者 としては、教皇庁3R帥 に Dcscartes:洒 イ ね″ a開 ヮa″軌 najeCtuln ad Rhenun,16観 P9
礼拝堂のイタ リア人コスタンツォ 。フェスタ
(Costanzo Festa、
c1490〜1545)
や、彼 と並んで「マ ドリガーレの父」 と呼ばれているフランス出身のフィリップ 。ヴェル ドロ (PШい
pe verde10t、 c.1480〜
c1540)力れヽる。 ヴェル ドロは1520年
代にフィレンツェの大聖堂の楽長をつ とめた後、1530年
代に多数のマ ドリガーンを残 している。同 じ頃、 プェネツィアではフラン ドル出身のア ドリア ン・ プィラール ト
(Addan Wiuaert、
c1490〜1562)がマ ドリガーンなどを作 曲していた。彼は1527年
から1562年
の死亡 まで長い期間にわたってサン・ マル コ大聖堂の楽長をつとめブェネツィア楽派を形成 し、特に1550年
の「分割合唱 のための詩篇集」(S山
置spezz
)はヴェネツィアの交唱形式4の
始まりを象徴 するものである。彼 らに少 し遅れて、「アプェ・マ リア」(偽
作)で有名なフラン ドル楽派のジャック・ ァルカデル ト(」 acques AFCadelt、 1504〜
1568)も 多数の マ ドリガーンを作曲した。このように、
1500年
代半ばまでの初期マ ドリガーンはフランドル地方などの 北方の音楽家たちが主導 していたが、イタ リア内における彼 らの活動により、1500年
代半ば以降には北イタリアを中心としてイタリアの諸都市でもイタリア人によるマ ドリガーレが作曲されるようになり、宗教多声声楽曲であるモテッ トと並んで、世俗多声声楽曲としてのマ ドリガーレが社会的浸透を見せるよう になった。こうして、
16世
紀後半にはイタリア人のマ ドリガーン作曲家、ルカ・マ レンツィオ (Luca Marenzio、 1553〜 1599)、 ル ッツァス コ・ ル ッツァスキ (Luzzasco Luzzasc日 、c1545〜 1607)、 アン ドレア・ガプリエ リ (Andrea Cabie上 、 c1510〜 1586)、 そ してモンテヴェルデ と彼の同時代人であるカル ロ・ ジェズア ル ド (Carlo Gesualdo、 c.1566〜 1613)、 ジ ョヴァンニ・ ガブリエー リ (Glovanni
Gab ■、c1553〜
161の
、ジローラモ・フレスコバルディ〈Clr机
帥ЮFrescobaldi、
c.1583〜
1643)たちが次々とマ ドリガーン曲集 を出版する。この頃、フェラーラのエステ家では女性だけの合唱隊 「コンチェル ト・デッ レ・ ドンネ」〈
concertO delle donne)力 S設
立 され人々を驚かせたようであるが、エステ家に限 らずマントヴァのゴンザーガ家やフィレンツェのメディチ家など でも、競争するようにマ ドリガーンを中心 とした合唱隊が組織され、作曲家た ちはそれらの合唱隊を念頭に置 きながらマ ドリガーレを作山していったのであ
4ッ ェネツィアの聖マルコ大寺院は聖歌陶幣が左右 2つ に分割されているために、響き力鯉 れて層
いて音楽の進行がずれるという音楽的問題を抱えていた力ヽ 互い違いに歌う交唱様式によってこ れを解決 し、その対比的競合的スタイルがステレオ効果のみならま 協奏形式へと発展 し、モー
,
ツァル トなど多 くの作山家の関心をひいたことは広 く知られているところである。
る。
1567年 に北 イタ リアのクレモナ に生 まれたモンテヴェルディも、 1587年 に初 のマ ドリガー レ集 を、1590年 にマ ドリガー ン第
2巻を出版 したが、 その年彼 は マ ン トツ ァのゴンザーガ家のヴィンチェンツォ
1世の官廷 に歌手 とブィオラ・
ダ・ ガンバ奏者 として仕 えることになる。マン トヴアでは彼 は 1602年 には官廷
楽長 とな り、マ ドリガーレ第3巻(1592)、
第4巻 〈1603)、
第5巻 (1605)を 出版 し、1607年
にはオペラ『オルフェオJを作曲するなどの活躍を見せた。その後、
1613年
にモンテヴェルディはプェネツィアのサン・ マルコ寺院の楽長に任命 され、死に至るまでブエネツィアにとどまったが、マシトヴァ時代に 続 きヴェネツィア時代にもマ ドリガーン第6巻
(1614)、
第7巻 〈1619)(第8
巻 (1638)を 出版 した。第9巻 (1651)は 遺構である。以上のように、
16世
紀前半に誕生 した世俗多声声楽曲マ ドリガーレは、16世
紀後半に大 きな流行を見せ、1600年
をまたいでモンテヴェルディらが発展させ た。モンテヴェルディによるマ ドリガーンの発展は、一般に、ァ ドリガーン集 第5巻の序文 に相当する̀SЪ
DIOSI LETrORI'で宣言 された「第2作法」(SECODIDA PRATICA、 またはPERFETT10NE DELLA MODERNA MUSICA)
の問題 として取 りあげられることが多い。「第2の作法」 という以上「第 1の 作 法」が予測されるが、それはモンテブェルディ自身が名前 を挙 げている通 り、
先述のプェネツィア楽派のザル リーノの音楽論を指 している。ヴェネツィア近 くで生まれたザル リーノは、
1541年
にヴェネツィアに行 きブィラール トに師事し、
1565年
か ら聖マルコ大寺院の楽長 をつ とめたが、彼は「ハルモニア教程』によって音楽理論家 としても有名であり、その著書はフランスや ドイツでも出 版され、
16世
紀後半の西ヨーロッパで広 く読 まれていた。彼のもとには、「カメ ラータ」の一員 としても有名なヴィンチェンツォ・ ガ リレイがいたが、1600年
の著書の中でモンテヴェルディを批判 したジョヴァンニ・ アル トゥージもいた。つまり、アル トゥージは師のザル リーニの音楽理論から逸脱 していると思われ るモンテヴェルディのマ ドリガーレを批判 したわけである
5。
そして、モンテ6ザ ル リー′の音楽理論 は、その著書名が示唆 しているように和声論 に特徴があ り、中世 までの完
全・ 不完全青程 とヽヽう基準 に対 し、ジャンヌ・ グルクも関わった百年戦争の際 にイギ リスか らダ
ンスタプルたち力特 ち込んだ 3度 音程 を導入することによって作 られる近代的和声 について考察
した人物の一人であったが、同時 にマ ドリガーンの作 曲についてはモテ ットと同様 なポ ソフォ
ニ ックな手法 を用 いてお り、 16世 紀後半のマ ドリガー ンのバ●ック音楽への展開、一般的にはモ
ノディー様式への発展 といわれているがヽ そのような新 しい流れに対応 していなかった。生 まれ
たばか りヽ なお発展途上にあつたマ ドリガー 1/に ついて、 1610年 の段階でアル トウージはなお
ザル リー′●吉い基準をもってモンテツェルディらのマ ドリガーンを批判 したのであ り、そのた
ヴ■ルディはマ ドリガーン第5巻の序文で、アル トゥージの批判にザル リーニ やアル トゥ‐ジの方法 とは異なる新 しい方法 として 「第2の作法」 という言葉′ で答えたわけである。
したがって、モンテヴェルディに即 していえヤム「第2の作法」 と呼ばれる新 しい、おそらくはバロック音楽 とつながる道はマ ドリガーン第5巻以降のマ ド リガーレの作品の中に見 られるのである。すなわち、マ ドリガーン第5巻から 第 ё著 まをあ尭農あ串たとを〔ルネ,シス書薬
'、
ら六=;″普薬人L歩を進あ
る新 しい歩みがあったと考えられる。その歩みは、アカペラの世俗的多声声楽 曲であったマ ドリガーレが通奏低音や弦楽器などによる楽器 を伴 う声楽山への 移行 ともいえるし、それによってオペラ『オルフェオJに代表されるような劇 的音楽への移行であったともいえよう。
そこで次に、まず
1550年
頃登場するといわれる弦楽器が16世
紀後半にどのよ うに使用されていたかについて、続いて同 じく16世
紀後半におけるオペラ前史 について検討 し、モンテヴェルディの後期マ ドリガーンの発展 についての考察 の準備 としたい。第2節 弦楽器 とモンテヴェルディ
ボエティウスの「音楽綱要』〈
De insutu■
。ne musica)の ̀musica instnlmenta聰 '
を持ちだすまでもなく、教会内においてはォルガン以外の楽器の使用が禁 じら れていたが、ルネサンス時代に入ると宮廷における行事やダンスに楽器が使用 され、さらには声部を楽器によって置き換える例 もあらわれ、
̀ca12oie da sOnar'
と呼ばれる声楽を模倣 した独奏楽器の曲も書かれるようになった。それらは声 楽あるいは歌 (canzone)を模倣する曲であったが、次第にそれぞれの楽器の 特徴を生かした作山がされるようになる。ルネサンス後期 における器楽の発達 は、アン ドレア・ ガプリエ リ
(c1510〜
1586)と ジョヴァンニ・ ガプリエ リ親子をはじめとするヴェネツィア楽派の人 たちによる「ソナタ」
(sonata、
器楽曲)に見 られるが、特にジョバンこの1597
年のF聖
なるシンフォニア集』(Sacrae symphoniae)が 有名である。 これらの 曲は、オルガンなどの鍵盤楽器6、
リュー ト、管楽器などのために書かれたものめ逆 にアル トウージの批判 はザル リーノの古い基準では測れない「酬 と思われた方法 力河 で あったかを我 々に教えて くれるものになっている。
̀鍵 盤楽器にういては、クラツディォ・ メール ロ (Claudlo Memo、 1533〜 1614)や その影響 を受 けたヤン・ ピーテルス ゾーン・ スウェー リンク (1562〜 1621)、 ジローラモ・ フレスコバルディ (1583〜 1643)ら の名を挙 げてお くべ きであろ う。
‑ 9 ‑
で ある。
当時使用されていた楽器がどのようなものであるかは、たとえばマルティン・
アグリコーラ
0江 artin AgncoЦ
1486‑1550の楽器論であるMパκ̀Jパ
レ ″″お"″ "(1529)の 楽器分類が参考になるLアグリコーラはその著書において、
楽器を以下のように
14に
分類 している(表
題は論者 による)。第1章 リコーダや金管楽器など息による管楽器
第2章 オ
71/ガ
ンのようにふいごなどを使用する管楽器(whd instrlment)
第3章 声の音符を鍵盤楽器譜に移すや り方第4章 ヴァージナルなど鍵盤を用いる馨楽器 第5章 リュー トのようなフレットのある弦楽器 第6章 声の音符をリュー ト諧に移すや り方 第7章 リュー トの弦の調整
第8章 フィドルの第1のタイプ
第9章 フィ ドルの第 2の タイプ 第
10章
フィドルの第3のタイプ第
11章
声の音符をフィドルなどに移すや り方 第12章
ハープのような鍵盤 もフンットもない弦楽器 第13章
ヴァイオ リンのような鍵盤 もフレットもない弦楽器 第14章
金属などによる打楽器のような類今 日ではフィドルをヴァイオ リンと同じ楽器 とみなすことがあるが、中世以 来用いられてきたフィドルは画一的な形態をもっていたわけではな く、弦の数 も3〜 5本と一定ではなかった。アグ リコーラの著作では多数のイメージ図が 紹介されているが、第8事のフィドルの図にはフレットが書 きこまれてお り、
フレットをもたないヴァイオ リンと異なる楽器 として考えられていることがわ かる
3。
そして、フレットのあるブィオール族 は駒が平であるために早いパ ッ セージを演奏することに困難があ り、 また音も弱 く繊細だったので、演奏会場 が広が り力強 く華やかな演奏が求められるようになるとヴァイオリンの方か適7当 時の楽論 については、そのほかハシス・ グルレ (Hans cene、 c150tl〜 1570)rド イツ音楽
J(Musica teuScll、 lr。
32)、ジョバンニ・ マ リア・ ランフランコ (Cll anni Marla L田 ■ 8nCO、 C1490
〜1545)の 『音楽論 J(Schtuに di musta、 1533)な どがある。
3カ スティリオーネは「富廷刈 (152め の中でブィオール、ツイオラ・ ダ・ ガンパの音色を賞讚 している
oツィオールはノィオラ・ グ・ プラッチョ α のツィオラ )と ツィオラ・ グ・ ガンパ 御 のツィオラ )の 総称であ り、タィオールの特徴 としては、 フレットが着いている、 C字 ■、
現代のコン トラバス式の弓の持ち方などがある。
していると考えられるようになる。モンテヴェルディが作山を始めたのは、 ま さにルネサンス前期のプィオール族からルネサンス後期 のプァイオ リンヘの移 行を始める時期であり、ヴァイオリン奏法の様々な試みが端緒についた時代だら たのである。
モンテヴェルディとヴァイオリンとの関係 といえば、 まず彼がクレモナの出 身であることに注 目する必要があろう。クレモナはいうまでもなくアマティ、
グァルネ リ、ス トラディヴァリたちによる弦楽器製作の中心地 として今 日でも 有名であるが、モンテヴェルディの生 きた時代は、アマティらによるヴァイオ
リン製作の開始時期 と重なっている
'。
官廷においてヴァイオ リンが使用され始めた頃の器楽曲は、ダンス音楽以外 ではシンフォニアとソナタがある。器楽合奏 としてのシンフォニアの始 まりは、
1589年
のメディチ家のフェルディナン ド1世とアンリ2世の孫娘であるク リス ティーメとの結婚式における宴に催された『女巡礼』における間奏であると見 られている。弦楽器が関わるソナタについては、ジョツァンニ・ パオロ・ チー マ(Giovanni Paolo Cima、
c1570〜 1622)が1610年
に出版 した教会音楽集Concem Ecclesiastici"に
含 まれる「ヴァイオ リンとブィオローネのためのソ ナタ」「ヴァイオリンとコルネットとヴィオローネのためのソナタ」などがある。1589年
のイジテルメーディオ『女巡ネL』 は、バロック・ オペラの始 まりとも密接に関係 しているため、モンテヴェルディのオペラ『オルフェオ』 との比較 の意味も含め、そのシンフォニアなどについては節を改めて検討 したい。
'こ れ らの著名 な弦楽器製作者 をその系譜か ら考 えるならばヽ アン ドレア・ アマティ (c1514〜
c1577)が その始 ま りであ り、 アン トニオ (c1538〜 1595)と ジローラモ (c1561〜 1630)の 息 子兄弟 を経て、 ジローラモρ息子であ リアン ドレアの孫であるこコロ (lro96〜 1683)の もとに、
アン ドレア・ グァルネ ツ (Andrea CuarneH、 c1626〜 1698)力 ` 弟子入 りし、 その孫であるパル トロメオ・ ジュゼ ッペ・ アン トーニオ・ グ ァルネ ツ (Bartolomeo Ciuseppe A oniO Cuarncn、
1698〜 1744)で 頂点 を迎える。 また、アン トニオ・ ス トラディクァリ (Alltonlo stradlvarl、 16
,1737)も ニコロ 。アマティの 0と に弟子入 りし (1667〜 1679)、 その後工房を構 え、晩年に傑 作 を製作 する。
したがって、モンテツェルディのク レモナの時代 (1567〜 1590)、 彼 が目にしていたツァイオ リン製作 は、主 としてアン トニオ、ジローラモのアマティ兄弟であった と考え られ る。
ところで、 この時期 に作 られたツァイオ リンの中にアランスのシャルル 9世 (1550〜 1574Dの
紋章 が入 っているものがある。彼 の母 は 15 年 にアンソ 2世 の もとに嫁いだカ トリーヌ・ ド・ メ
デイシスである。彼女 は 1555年 にフィレンツェからダンス教師であるボジョフイユ (?〜 c1587)
をフランスに呼 υ育 せ た。ボジ ョフイユはフランス官廷で『工妃のバ ンエ・ コミック Jを 振 り付
けたことで知 られているム ダンスの振 り付けを担当するばか りでな く、作曲もノァイオ リン演
奏 も行い、宮廷の音楽教師 としても活躍 している。
第3節 オペラにおけるシンフォニアとモンテヴェルディ
ルネサンス時代には、その始 まりからローマ演劇がしばしば上演されていた。
たとえは フェラーラのエステ家での、プラウ トウス「モチエクム兄弟」
(1486u、
「アンフィトルオ」
(1487)、
テレンティウス「アンドロス島の女」(1491)な どで ある。 このような演劇は5幕が基本であったが、幕 と幕の間は、今 日のように 幕が降ろされ観客 は自由にくつろぐのではなく、幕間にも音楽や踊 りが催され ていた。 これがインテルメーディオであ り、1502年
にはプラウ トゥスの 「ロバ 物帝」(AsinaJa)が ィンテルメーディオとして上演されたことがわからている撃。水谷彰良『イタ リア・ オペラ史』〈音楽之友社、
2∞
6)によれは1500年
代に はエステ家やメディチ家などで何度 も結婚祝賀の際に劇 と音楽が上演されてい たが(p221)、
特に1539年
にメディチ家で催された喜劇『気楽な男Jにおける フランチェスコ・ コルテッチャ(Francesco Cortecda、 1502〜
1571)によるイ ンテルメーディオでは、「歌の伴奏に、チエンバロ、オルガン、ハァプ、二つの リュー ト、二つのフルー ト、四つのサ ックパ ット、ヴィオローネ、ヴィオラ・ダ・・ ガンパが曲ごとに編成を変えて使われている」
(p.23)と
いう。中でも
1589年
のメディチ家での結婚の祝祭劇「女巡ネLJ(La pellegrlna)に
お ける6つのインテルメーディオはオペラとの直接的関係を有する重要なもので ある:それぞれのインテルメーディオはい くつかの曲から成 り立っているが、その中に次のような5声部 または6声部による器楽合奏のシンフォニアと題さ れた曲が 5曲 入っている。第
1イ
ンテルメーディオ第3曲のクリス トファーノ・マルヴェッツィ
(CustofanO Malvezzi、 1547〜
1599)のシンフォニア、第2イ
ンテルメーディオ第 1曲 はルカ 。マレンツィオ(Luca Marenzゎ
、1553〜 1599)
のシンフオニア、第3イ
ンテルメニディオ第1曲はマルヴェ'ツ
ィのシンフォ ニア、第 4イ ンテルメーディオ第2山のマルヴェッツィのシンフォニア、第
5
インテルメーディオ第3曲のマルプェッツィのシンフォニアである。オペラの始 まりは
1598年
の「ダフネJであるとされることが多いが11、
その 台本はr女
巡礼Jでも台本を手掛けたリメッチーニであり、作曲はマルヴェッ ツィに学んだペーリであつたが、楽譜は失われている。16004に はベー リとカッ チーニがそれぞれ『エウリディーチェJを作曲した。2つの曲は、台本 も同 じЮ インテルメーディオの作曲者は不詳であるが、 「西洋音楽の歴史 lJ〈
Mカッロッツォロ患 川 西麻理沢 シーライ トパプリッシン久 2009Dで は、パル トロメオ・ トロンボンチーノ (BartolomeO nOmbOncu10、 1470〜 153つ の名があげられている (p259)。
・ 1∞ 0年 の 2つ の「エウリディーチェ Jと する人 もある。
であ り、音楽 も似ている。 そして、共にシンフォニアのような器楽合奏部分を もたず、通奏低音 と独唱、そして時々合唱 という形態をとっている。
ところが、モンテプェルディの場合、
1607年
の「オルフェオJでは声のない 器楽合奏が重要な役割を果たしている。すなわち、①冒頭の序奏部分の トッカー タ2、
②随所に繰 り返 しあらわれるリトルネロ、③o幕の間をつなぐシンフォ ニアである。 これら3つの器楽合奏の特徴は以下のようなものである。まず トッカータについてであるが、この曲は5声部による
4/2拍
子の9小節 し かない合奏である。実際の演奏にあたっては、 この9小節を何度か繰 り返すこ とがしばしば見 られる。大変印象的な曲であるが、主 として付点などを伴 う金 管楽器によるファンファーンのような部分 と、弦楽器による同一音を4つの16
分音符に分割 して演奏する弦楽器 らしい奏法による部分、そして ドローンのような低音による持続音によって構成されている。
次にリトルネロであるが、わずか数小節の
(時
にはもう少 し長い)器楽合奏 による リトルネロ部分は歌 と歌をつな ぐ役割を果たし、 リトルネロによって劇 が進行する。音楽の内容からすれば、声楽合唱のマ ドリガーレに似てぃるが、和声進行が劇の進行を促す役割を担っている。
幕間に置かれる4つのシンフォニアは、
1589年
の「女巡ネLJにおけるマル ヴエッツィやマレンツィオによるシンフォニアを継承するものである。第1幕 と第2幕の間に置かれる第 1シ ンフォニアは5声部による9小節、次の幕間の 第2シンフォニアは8声部の12小
節、同様に第3シンフォニアは8声部による13小
節、第4シンフォニアは8声部による15小
節 となっている。これらシンフォ ニアは著 しく器楽化が進んでいるとい うわけではない。第5幕の、 したがって『オルフェオ』全体の終わ りには、5声部による
17小
節の声なしの器楽合奏の軽 やかなmOresca(ム ーア人の踊 り)が置かれている。この15小
節のmorescaも
繰り返 し演奏されることがある。
以上のように、マントツァ時代
(1590〜
1613)の モンテヴェルディが作曲し た『オルフェオ』(1607)は 、ルネサンス時代の幕間劇を継承すると共に次の時 代に向かおうとするものであったが、ヴェネツィアに移って作 られた音楽劇「タ ンクレディとクロリンダの問い」(1624)は 、明らかにバロック的なものになっ ている。そこで章を改め、「タンクレディとクロリングの闘い」、そしてマ ドリ12こ の トッカータは、 「聖母マ リアのタベの祈 り J(1610)の 冒頭にも使用 されてお り、当時宗教山 と世俗 曲が互いに信用 関係 にあったことの一つの象徴であるが、この問題に関する詳論は本論文 では避 ける。
‑13‑
ガー ン第
5巻か ら第
8巻までの流れを追 うことによって、モンテゾェルデイに おいて どの ように してバ ロ ック的な器楽的奏法が確立 されていったかを検討し たい。
第
3章ヴェネツィア時代 のモンテヴェルディと器楽19時間への移行 の実際 16世 紀後半のプェネ ツィアの音楽の中心 はサ ン・マル コ大聖堂 にあった。既 に述べたよ うに、ルネサ ンス時代 のサ ン・ マル コ聖堂 は1527年 か ら 1562年 の間 楽長 をつ とめたブィラール トと彼 のもとで形成 された ヴェネ ツィア楽派 の活動 の場であった。 この ゾェネ ツィア楽派 には、 ヴィラール トの後 に楽長 をつ とめ たザル リー ノをは じめ、アン ドレア・ ガプ リエ リ、ジ ョィヽンニ・ ガプ リエ リた ちがいた ことも先 に述べた通 りである。 しか し、 16世 紀 も末 になる とサ ン・ マ ル コ大聖堂 の音楽 も生彩 を欠 くようにな り、 その後 は次第 に衰退 し、 その立て 直 しのためにモ ンテヴェル ディがゾェネ ツィアに招聘 された。
第
1節マ ドリガー レ第
5巻か ら第
8巻ヘ
マ ドリガー ン第
5巻はSV 94〜 SV 106の 13曲 を含 むマ ドリガー ン集で ある。
これ らマ ドリガー ンは「ク ラヴィチェンパ ロ、 キタローネ、 あるいはその他 の 同様 の楽器 のための通奏低音付 き」の合唱を中心 とす る声楽 曲であ り、通奏低 音 と旋律 的声部 に よる和声 を重ん じたいわゆるモノディ様式への志 向を示 して いる。また、複合 IIEに なっている終曲の ̀Questi vatti conceni clle gi augeleti
intomo'SV 106の前 にはシンフォニア と題 された器楽合奏部分 が付 け られてぃ
るが、楽器 の使用方法 はルネサ ンス的な簡単 なものであ り、弦楽器特有 な奏法 によるものではない。したがって、マ ドリガーン第
5巻は、序文 ̀Studosi LettoJ' において新 しい作 曲法 について言及 してはいるものの、ルネサ ンス時代のマ ド
リガー ンの延長 として見 ることが可能である。
「オル フェオ』 が作 られた1607年 と同 じ年 に公刊 された Scherzi musica■ a
tre Ю
ci"(3声の諧譴音楽
)をはさんで 1614年 に公刊 されたマ ドリガー ン第
6巻になると、第
1曲日の
̀Lasdatei mOire'の冒頭 か ら和音の使 い方の新 しさが 感 じられ、さ らには ̀Una Donlla fra l'aitre hOnesta e bela宙 d'、 ■
Dh FbidaBena'、
̀Qui ise,0■rs'な ど Concertatoと い う副題が付 されてい るマ ドリガー
ンは、その声部の動きや単声による動き、あるいは同じく
oonCertatoと
いう副題がつ く終 曲の ̀Presso un tume tranquilo'の 16分 音符 の声 の動 きは、 その名
の通 リバロック時代の協奏的音楽の始 まりとみなすことができる。 また、終曲 の
̀a le guerre'と
いう言葉の反復部分は、オペラ的劇的効果を与えている。モンテヴェルディはマ ドリガーレ第7巻において明 らかに新 しい方向に歩み だしていることがわかる。まず、冒頭はシンフォニアから始 まるという初の試 みを見せている。続 く
̀Temprclla ceta'で
は単声 とリトルネロが3度反復さ れ、シンフォニアでしめ くくられる。 これら2曲はあたかもオペラのような構 成になっている。次の曲からは、 しばらく合唱部分が2声部の曲が続 き、3声 部、4声部 と増えてゆ く。̀Con che sOavlta'に
なると再 び単声になるが、 この 曲は̀Concerto a una voce e 9 1strumentrと
ぃぅ副題をもち、通奏低音の第一 合奏のほかに、プィオラ・ ダ・ プラッチョなどの中高音を担当する弦楽器によ る第二合奏、ヴィォラ・ ダ・ ガンバなどの低音を担当する弦楽器 による第二合 奏を伴い、充実 した「ォーヶス トレーション」 と言える。̀ChomeごOrO'は 、歌の前に2台のヴァイオ リンによる短いリトルネロが
3
種類示され、続いて2声の歌 と2声のプァイオ リンとの掛け合いになっている。そして、曲の中で3種類の リトルネロがプァイオ リンによって奏される。続 く
̀Amor che deggiO farse mn mi glova amar'も
ほぼ同 じような構成 になってお り、はじめにヴァイオ リンによって3つの リトルネロが示され、続いて声 と楽 器 によるリトルネロが交替 しながら奏される。最後の̀Tlrsi e Clo●
'は、■■i
とClぬ の対話が続いた後 に2人が ̀banhm'と 歌 うのに続いて5声部の合唱 のTuttに
よるBallo、
すなわち舞踏歌 となる。 これはオペラ『オルフェオ』の 最後 にmoresca(ムーア人の踊 り)力S置
かれていることに対応 してお り、シン フォニア(『オルフェオJでは トッカータと呼ばれていた)に始まりt舞踊で終 わるというオペラのスタイルを踏襲しているといえる。1638年
に公刊されたマ ドリガーレ第8巻は主 としてヴェネツィア時代に書きためたものをまとめたものである。前半は「戦いの歌」集、後半は「愛の歌」
集であ り、「タンクンディとクロリンダの闘いJは前半に含 まれる。「戦いの歌」
は、まずシニフォニアから始まるが、シンフォニアは際立って新 しい特徴をもっ ているわけではな く、マ ドリガーレ第7巻の延長上にあるといえる。続いて 鶴
td cand d'Amot tenero arciero'SV 146が
歌われる。「戦いの歌」の後半は「タ ンクレディとクロリンダの関い」、続いて終曲はBa10と
なってお り、『オルフェ ォ』やマドリガーン第7巻 と同じ構成である。これら「戦いの歌」同様に、「愛 の歌」も器楽によるシンフォニアから始まり、Balloで
終わっている:
上記 の
̀Ald血 d'Amo■ tenero arckro'SV 146は 、次の ような点 で注 目に
値する。すなわち、第一には豊かな弦楽合奏を伴 うこと、第二には4部 から構 成されるこの曲の第 1部 は美 しい旋律を軸に展開されること、第二には
̀Di
Varte iO Canto'か
ら始まる声楽部分が16分
音符を多用し極めて器楽的なもめになってお り、弦楽合奏 と協奏的であること
(協
奏様式、sdや
∞nCe■
ato)な ど、劇的で表情豊かな音楽内容になっている。すなわち、声楽 と器楽の関係が、か つては声楽の補助 としての器楽であったものが、次には声楽を模倣する器楽ヘ と発展 し、続いて演奏が声楽でも器楽でもよいものという同等な関係へと発展 してきたが、 ここでは劇的な音楽全体 を構成する一部 として声楽が位置づけら れるようになっていることがわかる。すなわち、「新 しい音楽」の中で声楽や言 葉のもつ優位性が失われていったのである。これがモンテゾェルディによる「音 楽による劇」
(dranlma per musica)と
いうことであろうが、それは単にオペラ『オルフェオ』にあてはまるだけでなく、むしろ一層 このマ ドリガーレ第8巻で 具体化されている。そして、われわれはこのような音楽に、ダンテやペ トラル カから始まる聖書 とは異なる言葉や文学の力の発見 としてのユマニスムの伝統 が終わ り、
instrumentと
数量化による新 しい時代の始 まりを見ることができる のである。第2節 「タンクレディとクロリングの問い」の弦楽合奏、そして合奏協奏曲ヘ
「タンクレディとクロリンダの問い」はタツソ 〈
TOrquato Tasso、 1544〜 1595)
の叙事詩『解放されたエルサレムJ(La Certlsalelnme Liberata、
1575)に題材 をとったものである。フ■ラーラのエステ家に仕えていたタッソは、既にカプァリエ リが音楽を付けた牧歌劇『アミンタ』(1573)な どで知 られていた。十字軍 におけるキ リス ト教徒のタンクレディとムス リムのクロリンダたちの恋愛を軸 に描かれた8行連詩の『解放されたエルサレム』は、既に多数のマ ドリガ=レ 曲を作 り、エステ家にも仕えたことがあるジャケス・ デ・ ヴェル ト
(Giaches de We■
、c1535〜 1「 o96)力
'15%年頃にマ ドリガーンとしていた13。
こうした流れを受け、モンテヴェルディもマ ドリガーン第8巻でこの題材を 取 りあげ、
20編
(canto)あ るうちの中頃に出て くる1編 (canto)を20分
余 り のマ ドリガーレとした。 この場面は、恋仲であったタンクレディとクロリンダ が夜の暗闇の中0相手が誰かわらないままに死闘を演 じ、ついにタンクレディ螂 ′ランドル出身の彼は 1565年 からずっとマントツァのゴンザーガ家で宮廷楽長をつとめてお り、
1590年 にモンテヴェルディがマント′ァに移って来た時には、既にマント′ァの中心人物となっ
ていた。モンテツェルデイは彼から影響を受けたと述べている。
がクロ リングを殺 して しま うとい う悲劇である。編成 は、タンクレディとクロ リンダのほかにナ レーシ ョンの
3人の声 と弦楽合奏 であ り、歌の多 くはナレー シ ョンによる。
曲は、前半が夜の二人の戦いの場面、後半か互いが誰かがわかる愛の悲劇の 場面で構成されている。順を追って山の特徴的な場面を見てゆけば、まずナレー ションに続 く「馬のテーマ」で、6拍子のややゆっくりした馬の歩行を表わす 箇所に続いて2倍の速度の速い馬の走 りの拍子が続 き、さらに8分音符が
16音
符に分割 され、分散和音 になる(以
上譜例1、
楽譜 はIMSLPの IMSLP38083PML82381‐
MonteverdLMad̀gal1 8FS PML pdfによる
)。これ はタ ンク レディ がクロ リンダを男剣士 と勘違 い して馬で追いかける場面である (詩 の第
1連)。二人の短 い会話 が終わ り、二人 は戦 いを始め、全弦楽器が 16分 音符 を刻 む (第
2連)。
G durか ら
g molにかわ って楽器 のみ によるシンフォニアが 15小 節が続 き、その後 のナ レーシ ョンによって二人の争いの とりかえ しのつかない悲劇的
結末を暗示する(第
3連)。 次ヽ合奏が戦いの音楽を始める。この合奏は、3拍 子の3拍 目に16分
音符が入るもの(譜
例2)、
次に4拍 子により合奏による強拍と歌による弱拍の交替
(譜
例3)、
合奏による裏打ち(譜
例4)、
そして付点の 連続(譜
例5)、
分散和音、交差する16分
音符によるスケール(譜
例6)、 16分
音符による連続 した刻み
(ト
レモロ)など、弦楽合奏の様々な演奏法の変化に よって戦いが刻々と変化する様子を伝える(第
4連)。 第 5連 が始まると、16分
音符の連続による弦楽器の トレモロは歌でも模倣される