多様性の中の統一性(Bhinneka Tungal Ika) 203・
多様性の中の統一性(Bhinneka Tungal Ika)
一インドネシア民族国家建設の場合一
坂 口 幹 生
1.インドネシアの国家的表象 Garuda 2.インドネシアの地理的多様性 3.その民族的,種族的構成と複雑性 4.歴史的,文化的,多様性と植民地分割統治 5.独立後における社会構造の崩壊と現代的複雑化 6.インドネシアの統一性を支える主体的条件の成育 7.その客観的条件の生成
1
1945年8月17日,初めて独立国家としての宣言を行ったインドネシアは,その後23年対 外的,対内的に幾多の困難な問題に遭遇しながらも,今日仔々営々としてその民族国家建 設の途を歩みつつある。しかしながら,この国の民族国家建設は,単に300年の植民地的 支配をうけたオランダからの栓桔を断ちきり,後進国より近代的国民国家にテーク・オフ するために,必要な制度や資本や技術を投下しさえずれば事足りると云ったような簡単な ものではなく,その建設の前提条件ないしは基盤たる地勢的,人種的,文化的,社会的,
経済的,政治的に持っている複雑な多様性,異質性の中に,如何、に統一性を見出していく かと云う点にその根本課題が横たわっている。
勿論これら前提的基盤の多様性は,インドネシアがこれまで民族的に経験してきた過去 の政治的,経済的,社会的,文化的諸事情,とりわけ植民地支配国の分割統治政策に基因 するものがきわめて多いであろう。従ってこれらに関する多様性は,今後インドネシアが 独立国家として自主的に建設されていく場合,その民族的な努力によって統一し,あるい は改善していかなければならない大きな課題をなすものと云ってよい。しかしながら尚こ の場合においても,凡そ民族が,その過去において体験し,形成してきた政治的,経済的,
社会的,文化的遺産と云うものは,特に慣習(adat)として根強い社会構造の連続性を持 っていくものであり,一朝にしてこれを改変し,新しい統…性に導くことはきわめて困難 な性質を有することを知らねばならない。いわんやインドネシアにおける多様性がこれら 歴史的,社会的なものに基づくものでなく,たとえばその多島性,海洋性,熱帯性,地形 性などのごとく,自然的条件に基づくものである場合には,それらはほとんどが不可避的
な与件として解決されていかなければならないものと云ってよい。
否,今日東南ア;ジアにおいては独り:インドネシアに限らず,植民地民族主義の旗印のも とに,民族国家として独立の意図に燃えている新興国は,ひとしくその国家的統一性の必 要を前にして,その現実的な多様性の問題に苦しみつつあるのであるが,インドネシアの 場合はその複雑性が甚だ大であると云ってよいであろう。
然しながらこう』したインドネシアの多様性にもかかわらず,観点を異にすればそこには 又幾つもの共通性,統一性が存在することを見落してはならない。すなわちまず第一に今 日インドネシアにおいては,その住民は人種的には43以上もの種族より構成ぎれているの であるが,その大部分の種族は人口的にその数も少なく,その中心的勢力と人口数を占め
るものは,前期マレー人,後期マレー人を合せたマレー種族となりつつある。
第二にその言語についてみるに,インドネシア住民の使用している言語は,すべてマラ ヤ・ポリネシア系に属するオストロネシア語である。而してこのオストロネシア語の中,
例えば北部スマトラ(アチエ人)ボルネオ,セレベス等の内陸高地に住む前期マレニ人は,
僅かに特殊のものを使用しているが,ジャバ,パリー,ボルネオ,スマトラ,バタク等平 地沿岸に住む後期マレー人の間には,本来のマレー語に新たにオランダ語,英語,フランス 語等の語彙を加えたインドネシア語が全国的な統一語として次第に広まりつつある。(註D ■
㌧第三にこれを宗教的にみれば,今日インドネシアにおいてばアニミズム,ヒンズー教,
新旧キリズト教,仏教,回教など各種の宗教が随所に信奉せられているが,結局回教がイ ンドネジア総人口の94%によって信じられ,回教的文化の共通性が絶対的に大きい。尤も こうした回教文化の共通性が,たとえば東,西パキスタンの如く,直ちに民族国家の政治 的統一性にまで発展しうるか否かについては容易に即断しがたいところであろう。 しかし 非宗教国家の建設を希求したスカルノさえもが1945年宣明した「パンチャ・シラ」の五大 原則の中に二神への信仰」の一項目を加えざるをえなかったのは,西部ジャバや北部スマ トラを中心とするダルル・イスラム(回教国家)の建設がきわめて根強いものがあるごと に対する政治的配慮に外ならない。
『第四にインドネシア社会には,農村と都市,沿岸と内陸,下層農民と上層貴族とを問わ ず,今日も尚強く伝統的な慣習が普遍的に支配している。かかる伝統,慣習の多くのもの は,むしろ因襲的なものに属し,それだけインドネシア民族社会の非合理性,後進性を意 味じ,単位集団における伝統と慣習の異質性や現状維持性は,かえってイゾドネシア社会 の統一性と近代化を阻害する要因をなしている。しかしかかる伝統,慣習の中にも,たと
えば村落協同体における合議制や相互扶助のごとく,インドネシアの近代化にとってその 精神や仕組みが積極的な促進要因となりうるものが共通的に存在している。
第五にこれを経済の領:域についてみるに,歴史上古くより海上貿易に従事していた沿岸 マレー人は勿論のこと,住民の90%を占めると云われる自給自足的経済を営んできた農民 社会にも,植民地開発政策の遺産として,漸く貨幣的流通経済の侵透が一般化されてきて
多様性の中の統一一性(Bhinneka Tungal Ika) 205
いる。貨幣的流通経済の侵透はそれ自体物資の普遍的な流通を促進することによって,封 鎖経済的に孤立していた村落協同体に共通の物資を享受せしめ,又身分的,慣習的に首長 や土地に縛り付けられていた農民を,貨幣の支払を通じて自由に解放する:dそレて流通経 済の発達が同時に文化,ゴムミユニケーションの発達を促進することと相倹って,やがて そ・れらは統・一的な近代的国民経済成立への前提条件となっていくのである。
第六にこれを政治の領域そのものについてみるに,古代よ,りインドネシア各地に政治的 統一一性を維持して・きたものは,MalayU, ShriVijaya, Shailan.dra, Bantam, Majaわah it, I Maccasar等の王朝,土侯国であった。そしてこれらの封建的王朝」土侯国は,オラ
ンダの植民地時代には,その分割統治政策によって分断され,=相互に反目,抗争するこ,と によってインドネシア地域全体としては混乱を繰りかえし,.その利害,反目を巧みに操縦 することによって,オランダは植民地的秩序と平和を確保してきた。 しかるに植民地民族 主義の拾頭は,今や植民地支配国の権威に対する反抗と不信観をすべての国民におしなべ て懐かしめており,それは米,ソ,中共を問わずXenophobia的共通観念にまで駆りた
てている。
.しかもこれら大衆の感情的な民族主義に対して,ζれを民族国家の統一的建設にまで指 導しているものは,旧支配者に・とって替って新レく勃興してきた新知識階級である。彼等 は植民地時代西欧ゴア凶リカに学び,あるいはジゼバ,ミナンカバウ,マカツ,サルに発展
した,近代的教育施設の中に育ってパ今や統一的な新国家建設の新指導階級となりつつiあ るのである。(註2)
1きて今日インドネシアが新しき民族国家として独立を実現していくためには,以上のご とき統一性を基盤としてその多様性,異質性を克服していかなければならないのである。
勿論こケした多様性の中には不可避的なもの.あるいはそれを受認しながらも新しき秩序 と統一を創造していかなければならないものも多分に存するであろう。1しかし新しきもの は必ずしも直ちに古きものに取うて替るものではなく,常にその傍に生ずると云う意味に おいてゾこの多様性の申に新しき統一性を確立していくためには,今後かなり長い歳月と 不断の努力とを必要とするであろう。
今日独立国家としてのインドネシアは,ーヒンズ一国の神ヴィシュヌ(V1shnu)の乗っ,
ている霊鷲ガルーダ(Garuda)を以てこ.の国の表象としている。ヒ/ズ四教においてヴ ィシュヌは「世界を護る神」とされているが,この世界の守護神の乗っているかルーダが その二本の強い足の爪で,しっかりと地球を掴んでいる姿こそは,正に独立国家としての イン ,ドネシアの建国モットたる「多様性の中の統一性」 (Bhinneka Tungal Ika)を最
も単的に表現しているものと云えるであろう。(註3)
以下われわれは,今日独立国家としてのインドネシアの統一を困難ならしめている,地 勢的,人種的,文化的,社会的,経済的,政治的多様性を,その一つ一つについて吟味し,
次いでこの多様性の申に存在する新しき統一性について分析していくこととレたい。 .
皿
1.地理的多様性
インドネシアはアジア大陸とオーストラリア大陸との中 問,東径95度より135度,北緯 206度より南緯11度,赤道に跨って東西約3,200哩,スマトラ,ジャバ,パリー,ロンボッ
ク,チモール,西イリアン,にかけて弧を描く大スンダ列島,小スンダ列島を稜線として,
それを以て包まれるようにカリマンタン(ボルネオ),スラウエジ(セレベス)モルツカ,
セラム等を抱えた大小3,℃00余におよぶ多数の島喚よりなる東南アジア最大の独立共和国で
ある。
すなわちまずこの国の多様性は,それが海上に散在する無数の島町より構成せられてい ると云う,最も基本的な事実に出発する。けだし,たとえばタイ,ビルマ,のごとく一国 が陸続きの集塊状をなした国である場合には,国内交通は比較的野であり,それだけに地 域問の文化的,経済的交流も容易であり,結果として地域間の較差,異質性は少なく,行 政上の統一も比較的容易であるに対し,インドネシアのごとく海上比較的交通の不便な無 数の島喚の集合体である場合には,各半旗の文化的,経済的交流も比較的頻度を阻害きれ,
夫々の島嬢は孤立化,封鎖化してその較差,異質性は益々増大するからである。尤もこれ ら諸島峨の申,ジャバは歴史的に最も早くひらけ,文化,産業も高度に発達,人口の集中
も世界的に最も稠密であるから,植民地時代ジャバ本島に対し,その他の島々は「二二」
(Outer province)と称せられていた。
次にごれを地形的にみるに,これらの島喚の多くは,中央に左程高くない山または高地 を有し,それからの傾斜地はゆるやかに延びて,海岸に接近するところでは,沖積土の広 いヰ野もしくは湿地帯を展開している。又これらの島喚は赤道直下にあるため,年間を通
じて気温は高く,春夏秋冬の区別は勿論ない。しかし毎年11月より翌年3月頃にかけては 西季節風,5月より10月にかけては東季節風が吹き,40インチないし140インチに達する 豪雨をもたらし,排水施設の発達したジャバ,スマトラの東南部を除いては,毎年甚大な
る豪雨による被害を引起している。しかしこれら東,西季節風の来ない乾期には,たとえ ばズラウエジのごとく降雨量の殆んどない島懊または地域も存在する。
かくの如くインドネシアにおいては,一つの国に属するとは云え,これを構成する召喚,
地域の地形,気温,降雨量等自然的条件がきわめて千差万別であり,それだげに居住民の 生活様式にも大きな差異を生ぜしめている。Pしかしこうした地形,気温,降雨量の差異の
もたらす影響として更に重要なことは,こうした差異がインドネシア各地における植物の 生育を異にせしめ,これを利用する産業に多様性を与えていると云うことである。すなわ
ち東部ジャバ,東部スマトラ,西南部カリマンタン等に見るごとく中央高地より海辺地帯 に向って押し流された沖積土の肥沃な平野には,適度の気温と降雨量とが相侯って豊か米 作地帯を展開し,東部スマトラ,東部ジャバ,南部カリマンタン,西部スラウエジにはゴ
多様性の申の統一性(Bhinneka Tungal Ika) 207
ゴム,コーヒー,茶,東部ジャバ,南部スマトラには煙草, パーム椰子,モルツカ,チモ ール,フローレス,スンバワ等の諸島には香料,ジャバ,バンカ,西部カリマンタンには 胡椒等古来東印度諸島をして西欧人最大の関心の的たらしめ,又今なお世界市場に最大の
シエアーを占める熱帯性植物第一次産晶の豊庫たらしめている。
否それのみではない。このインドネシア各島填には,殆んど無尽蔵と見られる各種の鉱 物資源が未開発のまま地下に埋蔵されている。すなわち東部スマトラより西部スマトラに かけてのマラッカ海峡沿岸, ジャバ北部(テプー)カリマンタン東部一帯(タンジュン,
バリックパパン)タリカン,イリアン北部等に湧出する石油をはじめ,ビリトン,バンカ,
シンケップ諸島の錫,南部スマトラ,西部ジャバ,バリ島,チモール島の銅,パレンバン,
南カリマンタンの鉄磯,南部スマトラ,西部ジャバ,東西カリマンタン沿岸の金磧,ジャ バ全島にわたる燐酸磯,ビリトン島のボーキサイド,スマトラ,カリマンタン,北部イリ アンの石炭,その他マンガン,ニッケル,硫黄,銀,プラチナ,ダイヤモンド等あらゆる 二物資源が産出されている。しかしその生産は錫,石油等を除いては殆んど近代化されな いままに放置されているのである。
かつてオランダの情熱的な一作家は, 「インドネシア諸島こそは赤道に向って投げられ た無数の宝石をちりばめた一大王冠である」と称したが,正にこの王冠こそその多様性を 以って近代的開発を待ちつつあるインドネシアの豊かな姿であると云うことができるであ ろう。(註4)
2.住民の人ロ分布とその多様性
しからばこれら複雑なる3,000以上に上る大小の島嗅には一体いかなる民族,種族がい かなる人口構成と分布を以て居住しているのであろうか。
インドネシアの人口調査は,特に外領地域の調査が困難であるために,全体として精密 な数字はえがたい事情にあるが,1961年の人口調査によればインドネシアの総人口は9ゴ590 万とされている。而してこの国の人口増加率は従来年々2.3%とされているから,第2次 大戦後の欧米人,三国人の帰国を考慮:に入れても,1968年の現在では,すでに1億を突破
していることであろう。而して1961年の人口調査は,これら総人口の島填別分布として次 のごとき統計を発表している。(註・5)
インドネシア島町別人口調査q961年)
島 填 別 総 人 口 密 度(1平方哩)
ジ ャ バ(マズラを含む)
ス マ ト ラ
スラウエジ (セレベス)
バリ及び小スンダ諸島
カリマンタン (ボルネオ)
モルツカ及び西イリァン
6,270万 1,540 660 580 410 160
1,216人
80 90 190 19
構成比
65%
16
6.9 5.7
4.311・6
100.一ヤ 〒一晒
又,Rossal J・Gohnsonは1930年と1961年の人口調査を基礎とし,人口増加推計率を 用いて,この間31年間のインドネシア総人口およびジャバ(マズラを含む)と外領地の人 口動態を次のごとく示している。
インドネシアの人口成長 1930−1961 年 度敬到外副インドネシア
人口調査
人口調査 1930 1940 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 10月 1961 1961
41,718 48,416 50,456 51,430 52,437 53,480 54,560 55,679 56,837 58,037 59,280
60,56了
61,90163,059 63,289
19,009 22,060 26,751 27,311 27,892 28,493 29,116 29,716 30,430 31,123 31,842 32,586 33,358
34,026 34,161
60,727 70,476 77,207 78,741 80,329 81,973
83,6了6
85,440 87,267 89,160 91,122 93,153 95,25997,085 97,450
日インドネシア民族の太宗として中心勢力をなしているものである。
きくもないジャバ島に,何故かくのごとく人口が過密に集中したのであるか。インドネシア 研究の権威シャール・ロブクエーンはその理由として次のごとき事情をあげている。(註6)
q)ジャバには島内に約121に及ぶ火山が存するが,その多くはスマトラ島における火 山のごとく山脈又は高台地に噴出したものではなく,低地に噴出したものであるから,そ の噴出した火山灰,火山土壌は広く且つゆるやかな傾斜面を形成し,且つ古い火山土壌は 更に適度の豪雨によって流されて低坤に広く且つ肥沃な平地を展開している。又こうした 肥沃な平地に米作の適したことを知った移民は,古くより陸続として来住し,彼等のアジ ア大陸殊に中国より輸入した伝統的な一概排水の技術,施設を発達せしめたから,その後 オランダの近代的技術,施設と相撃って,この島を世界的に有名なジャバ米の産地たらし め,又オランダは輸出農作物としての砂糖,ゴム,茶,玉蜀黍,胡椒,煙草,キャッサバ 等の近代的農園を初めてジャバ島に導入,かかる熱帯産業の発達が又逆に数多くの移民を 吸収した。
(2)ジャバ島はその地形が,スマトラやカリマンタンのごとく巾広,または塊状に丸く 出来上っている島ではなく,東西約600哩,巾120哩〜60哩にすぎない細長い島であり,且つ
・スマトラ島のごとく島内を低地と高地にハッキリわける縦貫せる山脈又は高い台地もない。
従って海岸線から内陸に進むにも,又内陸から海岸線に出るにも距離は近く,且つ交通は便 この表は1930年と1961年10月に行 われた人口調査の数が,前記Palm ierのそれと若干差があるが,大体 の傾向は知りうるであろう。
ともあれ,この人:口調査表によっ て知りうる驚異的事実は,インドネ シア晶出のわずか「いか砿さ
を持たぬジャバ島だけに,インドネ シア総人・の辱までの人・が密集
していると云うことである。後に詳 述するごとくこれらジャバ島の住民 は,古くより幾度か繰り返えし来住 した移民が混血同質化したものであ り,その文化の程度も比較的高く,今 しからばこの余り大
多様性の申の統一性(Bhinneka Tungal Ika) 209
利である。今この自然的条件はひとり経済的便益を増大したのみならず,ここに来住した 各国,各地からの移民,土着人,移民と移民との交流,混血を容易ならしめ,この長い歴 史的結果として,スマトラ島内にみるような各種族間のとぎすましたような対立,抗争も なく,ジャバ島を一丸として文化的,経済的,社会的に同質化した居住の楽土たらしめた。
(3)ジャバ島は1869年スエズ運河が開通され,マラッカ海峡が航行されるまでは,スン ダ海峡を通る古来よりの東西船舶交通の要衝に当り,5,6世紀頃には今日もなお有名な
「ボロブデュール遺蹟」を残している仏教王国Shailendra,さらに下ってはヒンズー・
ジャバ教王国としてのMataraln, Singhasari, Madjapahit等強大な王朝を栄えしめ,
植民地時代に入ってはオランダ政庁の所在地となったから,宗教的,文化的,政治的にも 早くより高い水準を開けしめ,来住者の土着を益々増加せしめた。
ジャバに次いで人口密度の高い島はバリ島,および小スンダ列島中のロンボック島であ る。前掲の人口調査表は人口密度の梢おとる小スンダ列島の他の島々をも入れて平均して あるから,1961年の平均密度は190人となっているが,バリ島,ロンボック島だけをみると,
すでに1930年の人口調査で443人と云う密度を示している。これら二つの島の地勢はジャ バ島に似て高い山もなく,産業は米作農業を営んでいる。こうした島にこれ程の人口密度
を示しているのは他の事情によるものである。すなわちバリ島,ロンボック島にはジャバ 島の延長としてすでに9世紀の頃より多数のジャバ人の移住を見たのであるが,特に15世 紀の初頭ジャバにおいてヒンズー・仏教王国Madjapahitがイスラムの勢力に敗北する や,この新来の宗教に反抗したジャバ人は大量がこのBali島に移民として薄れ,ここを 仏教の避難所としたのである。従ってこの島は今日もなお強くヒンズー・ブデイズムの文 化を保存し,多くの人口をこれに吸収して,オランダ植民地支配下にあっても容易にこれ に服従しなかったのである。(註7)
島懊としてではないが以ニヒの外,地方的に人口密度の高いのは,スマトラ島のミナンカ バウ二一域,オーストクスト地域,スラウエジ島のマカッサル地域,カリマンタンの南部バ
ンジェルマシン地域である。
ミナンカバウ地域はスマトラの申部,バリサン山脈の南海岸に迫る火山台地に展開する 高台地域である。この地域にはさしたる都市もない農村地域であるが,1930年すでにその 人口密度は一平方趣当り524人に達した。東部ジャバ同様農村そのものに人口が密集して いるのである。しからば海辺の平野でなく火山台地の高原に,古くより何故かくのごとく 多くの人口が密集したのであるかと云えば,それはこれら高原台地の地味が肥沃であって 生計的な農業を営むに最も好適の楽天地をなしていたからである。すなわちバリサン山脈 にはいたるところ火山を噴出しているのであるが,ミナンカバウ高原台地においてその中 心をなす火山は,今から100年前までは激しい活火山であったMerapi山である。すでに 指摘せるごとく,ジャバにおける火山は低地に噴出するものが多いから,その火山灰は容 易に海岸に押し流され,肥沃な沖積;ヒの平原を展開せしめるが,メラピ山のぐとく高地1ζ
噴出する火山の火山灰は海岸線に達することが出来ず高地等時に押し流されてそこに肥沃 なる台地を形成する。そしてこの肥沃な高原台地に発達し,そζに密度の高い生活農民を 密集せしめたのが,ミナンカバウの水田農業である。この地域にはすでに12世紀か13世紀 頃建てられたヒンズー教の寺院の痕跡が今日もなお残っているところを見れば,可成り古 い時代から人口が密集し,これら農民を基盤とした封建王朝が成立していたことも窺われ,
農業や内陸商業の外に,文化もまたこの地域の人口密集に大きな影響力を持ってきたこと 知りうる。まことにスマトラでは,その文化の中心地は,他地方におけるがごとく交通便 利な低地海岸線にあるのではなく,内陸特に高原台地に存在すると云われているが,ミナ ンカバウは正にその好個の一例をなすものと云えるであろう。しかしながら人口密度の加 重とともに,最近ではミナンカバウ人は高原台地のすぐ下にある海港ペダンの低地に移住 するものも増加し,農業も水田稲作,玉蜀黍,キャッサバ等の生活食品より落花生・ココ ナツ,繊維麻,コーヒー等の金作農業に発展しつつある。(註8)
ベナンカバウ人の文化,牲格については,後にインドネシアの種族的構成を論ずる際に 考察する。
スマトラにおいて次に人口密度の高いのは,今世紀G910)以来頓に人口を増加しつつ ある,スマトラ東海岸メダンを中心としたオーストクスト(Oostkust)一帯である。す なわちこの地域の人口は1880年には僅かに11万6千にすぎなかったものが,1930年置は ユ67万5千即ち14倍以上にも膨張し,一平方寸当り人口密度は538人前達した。それは何故
であるか。
一・体にスァトラの東側沿岸は,西側沿岸のごとくバリサン山脈が海岸線近くにまで追っ ているのではなく,同山脈からゆるやかな傾斜をなして東に広い低地を形成しているとζ ろである。而して到るところに噴出するバリサン山脈の火山土壌や火山灰は,パリ河,ム シ河,カンパア河,ロカン河,ビラ河,タミアン河,アサカン河等の豪雨水流,あるいは 火山爆発,塵風などによって低地に押し出され,本来は肥沃な平野を展開すべき地形なの である。しかるにこのスマトラ東沿岸は低地にも拘わらず,前世紀の半ば頃糞で土着人は 勿論,西欧人によっても開発されずr、特にリーオー地域,ジャンビー地域は人跡未踏のま
ま放貴されて幣た・何故なればこれらの低地の殆んど大部分は湿地でありう密林におぢわ れ熱帯樹木はその半ばを,ドロドロした油状の河流に没し,・開拓するにもマラリアの危険 がきわめて大きかったからである。
しかしこうした低地もスマトラ西北部と東部は比較的湿地も少なく,特にオ甲ストクス ト地域には丘稜地と平地に富んでいた。
かくてスエズ運河の開通によってマラッカ海峡及びマラヤ半島が,にわかに男盛をきわ るめや,1863年オランダの煙草仲買人の息子ヤコブ・ニエンフイ(Gacobus:Nienhuys)
は,回教土侯の所領申心地であったメダン周辺に煙草の近代的農園を初めて開拓, この成 功に後を続くもの続出し,これらの農園は後にオランダ東印度煙草会社の設立によって一
多様性の中の統一性(Bhinneka Tungal Ika) 211
手に吸収経営され,その技術的,経営的発展と相侯って「Deli煙草」の名声を世界市場に 檀にした。
かくてDeli煙草はオーストクスト地域の近代的開拓にとってパ・イオニア的産業であっ たが,こうした近代的,科学的な農業技術,農園の発展は,次第に他の近代的な金作農業,
輸出品農業の発展を促した。すなわち1907年にはジャバより繊維麻,サイザル麻が移植さ れ,その後,コーヒー,ゴム,椰子油,茶,ココナツ等がオーストクスト地域に数哩に及 ぶ近代的農園を展開せしめた。
否それのみではない。1884年には,この地域の北部アル内湾およびアチンとの境界に豊 富なる石油資源が埋蔵されていることが,オランダの王立バタビヤ石油会社によって発見,
開拓され,1937年その原油生産量は80万トンに達した。
しからばオーストクスト地域における近代的農園,近代産業の開拓に当って,その労働 を担当した労働者,苦力は何人であったか。開拓当初海岸河口地点には極く少数のマラヤ 人が居住していたが,これらのマラヤ人のみを以ってしては労働力の確保は重大問題であ
った。そこで先ず最初この地域に到来したものは,マラヤ半島の開拓と同様中国人苦力で あった。しかしながら彼等の多くは→時的な出稼ぎ労働者であり,この地域に定着する者 が少なかったから,やがて1910〜1913年頃より内国移民としてのジャバ人労働者がこれに
とって替った。1937年オーストクスト地域への移民労働者は総計22万5=臼こ達したが,こ の中の大多数はジャバ人であり,中国人苦力は僅かに1万人に過ぎなくなった。かくてオ ーストクスト地域へのインドネシア人の内国移民は次第に増加し,巧きに指摘せるぞとく,
1930年167万5千人に膨脹したオーストクスト地域の総人口中,44%がジャバ人,26%が 人,22%が土着の沿岸マラヤ人,2%がミナンカバウ人と云う統計を示し,バタク最も典 型的な混血地帯をなしているのである。
かくてスマトラ高地におけるがごとく,歴史や文化の伝統もないこのオーストクスト低 地に,過密な人口が集申したのは,全く近代農園,近代産業の発展によるものであり,そ の際これら産業の資本と経営はオランダ人の掌握するところであったが,その労働はイン
ドネシア内国移民の手によるものであったことを知らねばならない。(註9)
スマトラにおいてオーストクスト地域ほど密集はしていないが,近時頓にその人口を増 しつつあるのは,スマトラ東部パレンバン地域とバンドン地域である。パレンバンはムシ 河の河口より50哩を治る所に,河にまたがって発達した人口10万8千(1930年)のスマ剛ト
ラ最大の町である。パレンバンは7世紀から14世紀(A・D・650−1350)にかけて舟船を 以て海上権を掌握し殿盛をきわめたShrivijaya王国の首都であり,当時よりすでに中国 人との間に海上貿易が盛んに行われた。今日この都市を有名ならしめ,人口を集積してい
るのは,王立バタビヤ石油会社によって開発された豊富なる石油及び石炭の産出量である。
しかしパレンバンよりムシ河を回る上流のジャムビー地域の丘稜,平地には,「公益農民 制度」によってジャバ,マレー半島より出稼ぎに来た失業労働者によって2小規模ながら
多数のゴム,サゴ椰子,麻などの農園が開拓されている。
パレンバンの東,ランポン地域はスマトラの北端アチン地域と共に,古来香料の産地と して知られて来た所であるが,今日では西欧人によって近代的なコーヒー栽培園が開拓さ れ第2のオーストクスト地域とならんとしている。
このランポン地域の開拓は,もとインドウ・ヨーロッパ人協会がジャバにおける混血人 ユーラシアの失業者救済のために,自由移民志願制度の下に,コタ・アリンの近くに開拓 農村を建設したことに始まるものである。不幸にしてこの混血人の開拓農…村は失敗に帰し たが,更に1905年にオランダ政庁の手によって,人口過剰な中部及び東部ジャバよりの開 拓移民が企てられ,これが成功して1927年には2万5千人の移民が定着,1937年半は6万 3千人に膨脹,この地域をして第2のジャバたらしめんとする傾向が進み,次第に人口も 増加し,新インドネシア共和国の建設計画上その一一環として重要な意味を投げかけている。
けだし移民の至題ま.農村社会の人口過密,失業者の救済と云った,慈善的,社会事業的 目的よりも,もっと経済開発と云う,世代的な完成を目的とするものでなければならない からである。(註10)
人口密度よりみるとき,パレンバン,バンドン地域よりもより・過密な地域にスラウエジ の南端マカッサル地域とカリマンタンの東南部にバンジェルマシン地域がある。一体にス
ラウエジはカリマンタンに比し面積も小さいが,その総人口は660万,カリマンタンの410 万に比すればはるかに多くの人口を擁している。中でもその南部マカッサル地域では一平 平等当りの人口325人である。マカッサルはその地理的位置よりして,香料を求めて来航
した西欧人と早くより接触し,又14世紀頃にはヒンズー・ジャバ教王国マジヤパイトの支 配下にあって,ジャバよりの移民とその影響をうけ,歴史的,文化的に早くより開けた所 である。今日では人口8万5千その半島一帯に産する林産晶,コーヒー,玉蜀黍の輸出港
として近代的港湾設備を持ち,文化的,歴史的,経済的に人口を集申せしめている。
カリセンタンの南東部バリトー河とメラツ誉田との間に展開するパンジェルマシン地域 は,カリマンタン第1の人口密集地域で,一平方哩当り130人を示している。申心都市パ ンジェルマシンはマカッサル同様,マジヤパイト王国の支配下にあった都市で,古くより ジャバとの交流繁くその影響を受けて発達したカリマンタン最大の都市である。バンジェ ル 字シン地域は古くより香料の産地として有名で,近年はゴムの栽培も盛んに行われ,付 近には又金鉱,銀鉱も産し,スマトラのバンドン地域に類するものがある。(劃D
さて以上のごとく重インドネシアの人・はその纐積の働青しか占めていないジャ 6.3
即ち6,270万に及ぶ絶対数が密集し,以下バリ島,ロンボバ島だけに,実に総人口の 10
ック島,ミナンカバウ地域,オーストクスト北部地域,パレンバン地域,マカッサル地域,
バンジェルマシン地域が比較的人口密度の高さを示している。しからばこれらの島,地域 以外の島懊は如何と云うに,いずれも前記島嗅および地域に比較すると次第に人口密度は 稀薄となり,たとえばカリマンタンはグリーンランドに次いで世界最大の島でありながら,
多様性の申の統一性(Bhinneka Tungal Ika) 213
その総人口は,小さいバリ島,ロンボック島の総人口に及ばず,人口密度は僅かに19人である。
かくてインドネシアの人口分布は3,000以上に及ぶ鳥総,地域によって複雑な多様性を 示すものであるが,こうした人口密度の高低は,基本的にはその土地の肥沃性その他自然 的条件によるものであることは否定できない。しかし又さらにその土地の歴史的,文化的,
社会的,政治的条件によっても左右されたものと見ねばならない。従ってたとえばモルッ カ島のごとく,その土地はあまり肥沃でないにも拘わらず,歴史的な事情で繁栄を極め,
多くの人口を吸収していたものが,歴史の変遷と共に衰徴したり,又その土地は本来肥沃 でありながら,一文化,交通,移民の歴史的本流の外に「溜り水」の如く置かれていたため 開発がおくれ,漸く近年に入って新開発のため人口密度を増したところもある。オースト
クスト北部,パレンパン,バンドン地域がすなわちそれである。
しかしながらインドネシアの人口分布の多様性,較差において,何を措いても最も重大 なる較差,ひいては問題を提供するものは,ジャバ本島とそれ以外の外領とのあまりにも 隔った差異であろう。かつてジャバはその王朝時代有名なる米の産地としてその他の東印 度諸島に輸出され,その販売権と収益権を掌握した王朝の重大な財政収入源となっていた。
しかるに今日ではジャバはその人口の過剰,過密のため島内産米は島内人口を養うに不足 し かえって外領その他タイ,ビルマ,マレーシアから輸入している状態である。そしてこの ジャバの外領諸島への依存は今日インドネシアに複雑な政治的反抗と問題を引起している。
皿
3.インドネシブ民族の種族的構成
1961年9,590万と聴せられたインドネシア住民の民族的,種族的構成はまたきわめて複 雑である。いまこの構成はまずこれを民族的構成と種族的構成の二つにわけて考察するの が便利である。ここに民族的構成とは,インドネシアに居住するインドネシア民族と他の 国籍を有する外国民族との間に形成せられている構成関係であり,種族的構成とは同じイ
ンドネシア国民,民族に属するが種族を異にする住民と住民の間に形成せられる構成関係 である。便宜上まずインドネシア民族の種族的構成から考察することとする。
インドネシア民族は,学者のいわゆるマラヤ・ポリネシアに属する人種であるが,その 構成は純粋な一種族によって単純に出来上っているものではなく,多くの種族の混成した ものである。インドネシア原住民の発祥地が, いずれの土地であったかはきわめて曖昧で あるが,ゲルデルンやケルン鼠輩会人類学者の研究によれば,眺それは今日のベトナム,カ ンボジア等アジア大陸の南部であると推定されている。次いでこれらインドネシア諸群島 に来住したものは,今日もなおアジア南部,オセアニア,アフリカ等に稀に見られるネグ リト(Negrito)族である。そして原始移住者として第3番に来住したものは,不毛の土 地雲南等の南支那から遂次流れてきた中国人であった。
以上のζとき各方面よりの来住者は7すでに土着していたインドネシア諸島の旧来住者
を,殺獄するか,吸収するか,あるいは海岸線より山地奥地に逃避せしめるか,こうした 移住,侵略の歴史の波を幾度となく繰り返すことによって,今日のインドネシア民族の原 住民は成立したものと見られる。
而してこれら原住民は,キリスト紀元前,すでに可成り進歩した鉄器を使用し,米作技 術を持って土地肥沃,気候高温,降雨多量のジャバに来住し,平地には水田(Sawa)稲 作農法」土地,気候不適な丘稜,高地には焼畑(Ladang)農法を移植発達せしめた。而 して技術的,組織的に比較的単純であった焼畑農法においてはそうでなかったが,灌溜i,
排水,耕転,作物において多数人の協同,協力を必要としたSawa農法においては,多 くの労働とそれを統率管理する支配者が必要であったから,これを基盤として相互扶助的 にして而かも階層的な社会構造と慣習法を発達せしめ,移住者のもたらした各方面からの 知識,文明によって混成文化を早くより発達せしめた。
キリスト紀元1世紀頃には,ジャバのみならずスマトラまでが文化的に可成り発達して いたものの如く,国国ハン皇帝王庁の年代記には,その頃特使をスマトラのアチンに送り,
又インドネシアやインドの公使が中国に駐在していたことが記録され,又同時代申国との 盛んな貿易によって得た陶器の破片が,無数にジャバ西部,スマトラ南部,ボルネオ東部
より出土している。 (註12)
かくて当時の文化的先進国,申国,印度と交流することによって,インドネシアの精神 的,経済的文化は次第に高められ,又かかる交流を通じて,更に多くの移民が幾世代もの 波をなしてその後も来住した。
こうした混成移民およびその純血,混血子孫が今日・のインドネシア原住民族を形成して いるのであるが,1930年に実施せられた人口調査は,インドネシア民族の種族的構成を次 のごとく示している。(註13)
インドネシア民族の種族別構成q930年)
種 族 別 1人哺戯率
ジャバ人(中部,東部ジャバ)
スンダ人(西部ジャバ)
マズラ人(西部ジャバ,マズラ島)
沿岸マレー人(三部スマトラ,ボルネオ)
マカッサル人,ブギニ網人 ミナンカバウ人(申部スマトラ)
バ リ 人
バタク人(北部スマトラ)
アチエ人(北部スマトラ)
45%
14 8 8 4 3 2 2 1
計 87
多様性の中の統一性(Bhinneka Tungal lka)
尚この表には出ていない残りの13%の中に,次のごとき小種族が含まれている。
ス マ ト ラ 島
ジャバ西端,山雪
小スンダ列島
チモール島
西イ リ ア ン カ リマンタ・ン ス ラ ウ エ ジ
ア ンボン島 モルツ カ島
セ ラ ム 島
215
さて総人1コ9,590万と算せられるインドネシア民族は,
多数の種族より構成せられているものである。
1も及ぶ長いインドネシアの歴史的発展の過程において,
に来住し,夫々によって全然孤立的に生存すか,
をうけて,各自の今日までの地位と能力を培養iしてきたものである。従ってそれだけにこ れら各種族は夫々において異る性格,能力1思想,生活態度,利害を持つようになっている。
今その重なる種族の性格を考察すれば次のごとくである。
(a)ジヤバ人(Javanese)
隣接のマズラ島をも含めてジャバ島には,今日インドネシアの総人口9,590万(1930年)
の65%に当る6,270万人の人口が住んでいる。しかし,これらジャバ島の住民のすべてを ジャバ人と云うのではない。ジャバ島には尚この外にスンダ人,マズラ人,バリ人,バト ィ族などが住んで居り,これらを総計したものが6,270万の住民である。しかしこの中ジ ャバ人は矢張り最も多いので,その総人口は2,800万人を占めている。ここでジャバ人と 云うのは,太古アジア大陸南部より水由稲作技術と灌概排水技術を持ってこの島に来住し,
肥沃な土地を開拓して,ジャバ島をインドネシア諸島,否東南アジアの穀倉地たらしめた,
云わば垂統ジャバ人(Javanese Proper)の子孫である。尤も すでに若干触れたごとく,,
ジャバ島は比較的平地,丘稜に富み東西南北の交通も便であったから,その後学千年,繰 り返しこの島に来住した各地からの種族と混血,融合し,純粋のジャバ人を種族として捉 えることは困難である。しかし比較的静的な,伝統的農村協同体を保持して,今もなおそ の特性を発揮している正統ジャバ人は,必ずしも識別するに困難でない。1930年の人口調 査によれば正統ジャバ人は約2,800万人,彼等の大部分は中部諮よび東部ジャバ,西部ジ
(註14)
ガヨー族i,アラス族,ニアサン族,メンタウエイ族,レジアン族,
エンガヌ族,ネグリト族
クブ族,ルブ族,オランウルー族, ママック族,バドウイ族,バ ンタム族 ・1
サカイ族,マンガライ族,シが族,ララントカ族,ネグリト族 クパン族,アト幽暗
パフ。ア:族,ネグリト族
ダイアク族,ウンガジュ族,イバン族,バハウ族,ブナン族 サダン族,トラジや族,ミナハサ族;ゴロンタロ族,モリ・ラキ
:族, トアラ族,ロイナン;族 アンボン族 聖 テルナテ族
ボンフイア族
以上のごとく40以上にものぼる そしてこれらの種族の一つ一つは数千年に 何時の時代かにこれら無数の珊珊 あるいは幾つもの外来勢力と文化の影響
ヤバ東沿岸に居住し,農村そのものが都市同様の高度の人口密集地帯を形成している。す なわち,たとえば中部ジャバのウイラデサ(Wiradesa)地区では1平方哩当り2,780人,
アヂウエルノ(Adiwerno)地区では4,210人,ジョクジャカルタ(Jogyakarta):地区で は1,270人の密度である。
彼等の大部分は,このように密度のきわめて高い農村集落を基盤として,農業に従事し,
中部ジャバ等においては,全面積の68.1%までが耕地面積となっている。否,スラカルタ やジョクジャカルタにおいては,76.2%から81.6%までが耕され,灌概施設の発達した水 田(Sawa)稲作が最大面積を誇っている。しかし第2作物としての玉蜀黍,キャッサバ,
馬鈴薯,大豆,落花生等も多く畑地(:Ladan9)においてジャバ人によって栽培されて居 る。かくのごとく水田稲作と畑:地皆野とを同時に,而かも高度経営しているのは,土地の 肥沃にもよるが,インドネシア中ジャバ人だけである。
それのみではない。かくのごとく地域的,家庭的な生計食料品の生産に大昔より伝統的 に生きてきたジャバ人も,1870年頃より,輸出作物としての砂糖と煙草の近代的な農園栽 培に接し,益々この地域への人口集中を盛んならしめた。それはオランダ資本の政策に基 づくものとも云えるが,同時にまた砂糖や煙草の栽培を以て,米作,疎菜作物の裏作とし,
季節的に最も効率的に土地を利用せんとするジャバ人の英知に出ずるものと云ってよい。
かくて西欧式の農園がジャバに出現するや,少なからざるジャバ人はこの農園の雇傭労働 者として生活をかえ,伝統的なジャバ人の農村協同体にも,近代的な変革が起りつつある
ことを注目せねばならない。
かつてシギイレンドラ,マジヤパイト王朝盛んなりし頃,ヒンズー・仏教徒として信心 あつかったジャバ人も,今日では殆んどが回教徒となっている。ジャバ人の特性を網野に 把握することは甚だ困難とされているが,彼等はα)冷静沈着と云うことに曇高の価値をお いた武士道精神を尊び,(ロ)繊細慎重にして,の謙遜的に礼儀正し・く,(⇒隷属的従順的な性 格を持っているとされ,外領地の住民が一般に,粗野にして自己過信的であり,人間の平.
等を強く主張するのとよき対照をなすと云われている。(註15)今日のジャバ人を特徴づけ るこれらの性格は,ジャバ人本来の性格と云うよりも,むしろ彼等が,歴史的,文化的,
政治的に長い間経験してきた複雑な環境の影響に基づくものが多いと云えるであろう。ジ ャバ島は農村の協同体的社会構造と,生産を基盤にして発達した階級性の強いシャイレド ラ,マジヤパイト王国繁栄の地であり,オランダ植民地政庁の根拠地でもあったからであ る。今日も尚ジャバの街頭で多く見られる「影芝居」 (Wayang)は,ジャバ農民は子供・
の頃より屡々これを興味深く見たであろうし,これを通じて植えつけられた武士道の精神 は,広くジャバ人大衆の中に刻みこまれていったに違いない。常に被支配的地位に立たさ れて来たジャバ人の間に,今もなお礼儀,謙遜,服従の性格の残っているのは,彼等が受 けてきた歴史的環境から生れた精神的遺産でなければならない。(謝6)
しかしながらそれと共に同時に見落してはならないことは,同じ歴史的,文化的,政治
多様性の中の統一性(Bhinneka Tungal Ika) 2旧
婚環境から,ジャバ人が受とった高い知的,精神的影響である。かくて今日とのジャバ人 の中からは,教育を尊び,向学心に燃える人間が数多く続出し,彼等は都市に進出して学 者,教育者,政治家,宗教家となって,知識階級として新インドネシア社会構造の中核た らんとしつつある。同じ東部ジャバ出身のスカルノ大統領の支持層となった者が又彼等で あったことは興味深い。
(b)スンダ人(Sundanese)
スンダ人はジャバ島の西部,南沿岸高地に住む人種で,その人口数はジャバ人についで 最も多く,1,300万人と算せられている。一体にジャバ島の西南地帯は,スマトラ島に類 似し,火山も多く高地と低地の区別がはっきりしている地域である。低地においては勿論,
水田稲作が試みられたがマラリア蚊の発生が多く,スンダ人の多くは丘稜又は高原台地で 焼畑農業を営んでいる。しかし更に高地となるところは,イギリス人によって近代的な茶 の栽培が企てられ,その輸出茶は世界市場でも有名であるが,スンダ人の少なからざる者 はこの茶園で働いている。スンダ人は顔面広く,頑強な体格ど黒い頭髪の持ち主であるが,
あまり精神的な教養もなく,言葉は粗野である。しかし彼等はジャバ人に比較すると,は るかに多分で解放的であり,率直にしてよく学びとる性質を持っている。彼等は又回教の 戒律に対しては,厳格にこれを守っていないが熱狂的な回教信者で,インドネシア独立後,
「回教国家」の建設を暴力を以て企てんとし,幾多のトラブルを引起したダルル・イスラ ム運動の中核となったことを見のがしてはならない。(註17)1
(c)沿岸マレー人(Coastal Malays)
沿岸マレー人は今日のマレー半島,マラッカ海峡に面するスマトラ東沿岸一帯,カリマ ンタンの西,南,東沿岸一帯およびこれらの地域にはさまれて海上に散在する無数の小島 喚に住む人種である。尤も学者によっては,このマレー人の範囲を言語学的立場より,更 に広く理解し,これをその移住の前,後に係わらしめて「前期マレー人」と「後期マレー 人」とに二大別している者も少なくない。
α)前期マレー人
ここではマレー人はその用いる言語より判断してオセアニアやポリネシア系の海洋民族 の系統であると理解されているが,彼等は有史以前より早くインドネシア諸島に来住し,
その後幾千年もの長い期間にわたって各島懊, 各地域に移住定着を繰り返し,今日に至っ ている。而してその定着した島娯,地域の性格から,相互に文化,人類学的特性を持つに 至ったものと考えられる。ここに前期マレー人とは早くよりインドネシア諸島の孤立化し た地点に定着し,歴史時代に入ってからも,インド,申国,アラブ,西欧など外来文化の 影響を受けず,そのまま今日まで生存している未開民族である。たとえばスマトラ島のア チン族,ガヨ一族,アラス族,バタック族,スラウエジ島のトラジや族i,カリマンタン、奥 地のダイヤク族などがこれである。彼等は後期マレー人に比すれば人口数も少ないが,し かしインドネシア全域では総計500万人と推計され,殆んど大部分の者が山間,孤島で採
取,狩猟生活をするか,原始的な栽培農業を営んで生活している。
(ロ)後期マレー人
歴史時代に入って外来文化の影響をうけ,固有の文化との間に独自の文化を発達させて きた人種であって,ジャバ人,バリ人,マカッサル人,ブキ人,モルツカ島のテルナテ人,
スマトラ島のミナンカバウ人がこれに属する。彼等の殆んど大部分は海岸近くに居住し,
船舶の操行が巧みであって,古来海上による通商貿易に活躍,自然そンド,中国,アラブ,
西欧などの文化に接触し,独自の高い文化を保有するに至っている。
かくのごとくマレー人の範囲を広く把握するときは,今日のインドネシア民族の重要な 構成員は殆んどがマレー系人種であり,インドネシア民族の原民は海洋民族としてのオセ アニア,ポリネシアに発するものと理解せねばならない。しかしながら今日のインドネシ ア民族の原民を以て,ひたすら海洋民族としてのオセアニア人,ポリネシア人のみに限定 することはあまりにも性急であり,矢張りこうした,海上の東西交通の接点に当っている インドネシア諸島には,揚子江沿岸に起源すると云う水田稲作技術を持った農耕民族とし ての南アジア大陸人も原民として古代すでに来住したであろうし,海洋民族としてのオセ アニア,ポリネシアの人種も航海技術を以てここに来住し,各方面から来住した複雑な人 種の集合が,今日のインドネシア民族を構成しているものと見た方がより妥当であろうσ ここで云う沿岸マレー人が,前述の二大別からすれば後期マレー人に属することは明ら
かである。彼等は体躯比較的倭字であるが,インドネシアに定着するに当っては,海洋民族 として当時比較的文明の発達した先進外国人から手に入れた武器を有し,これを以て河口 にすでに定着していた先住民を奥地に追払い,交通便なる河口地帯を占拠して,生計物資と しての漁業と若干の農業を営む傍,主として海上貿易に従事し,決して奥地に進入すること はせず,随所に占拠した河口または港湾に「土侯国」Principality)を建設した。しかしこ れ等土侯国の特徴とするところは,土侯(Rajah)の権力が, あくまでも沿岸の狭小な地点 にのみ限られ,決して広い背後地にまで政治的に拡大されず,背後地の焼畑において生産さ れるものを集めて海上貿易に出し,又貿易によって得ためずらしい物資を背後地に送ると 云うように,経済的に先住民を支配すると云う点にあった。この点は農耕民族として来住し た南アジア大陸からの原住民が,農村協同体の組織原理の上に,隣接せる背後地を政治的に 直ちに併合,支配じ,一つの封建王国を建設したのとは大いに異るところである。(劃8)
ともあれ今かくの如くにして定着マレー人は,この土侯国を拠点とし,その得意とする航 海力と通商貿易力を以て巨万の富を蓄積し,スマトラ 沿岸,カリマンタン南沿岸,ジャバ北 西沿岸,マレー半島南沿岸に,いくつもの拠点としての土侯国を建設した。就中その最も古 く且つ強大であったのは,スマトラ東部,ムシ丁々ロパレンバンを首都として,すでにして 7,8世紀頃栄えた仏教王国Shrivilaya,同じくスマトラ東部ジャムビー河口に発達し た王国M『alayu等は,その最も典型的なものであろう。当時これらの土侯王国の中特にス
リヴイジャヤは,7世紀後半から14世紀(650−1350)にかけて最も股盛をきわめ,スマト
多様性の中の統一性(Bhinneka Tungal Ika) 219
ラ沿岸,ミナンカバヴ,バタク,ジャバ島,カリマンタンのブルネイ,バンジェルマシン,ス ラウエジのマカッサルは勿論のこと,遠く印度の南海岸コロマンデル一帯,セイロン島,
シャム.,カンボジヤ,中国等とも広ぐ貿易を行い,経済文化の一大中心地として,スマト ケを当時のインドネシア諸島中最も繁栄の地たらしめた仏教王国であった。(註20)
マレー人が対岸マレー半島に初めて移民したのも,このスリヴイジャや王朝の時代であ り,今日マレーシア国家の建設に昇進しつつあるマレーシア人は,実にスマトラ,カリマ ンタン等より移住したマレー人及びその子孫に外ならない。
今日沿岸マレー人は所謂マレー語を使用し,それは同時に東南アジア貿易上重要な国際 的商業用語となっている。しかしこのマレー語は沿岸マレー人固有の言語ではなく,マレ ー半島やスマトラ島において新しく生れた混合語と云うべきものである。即ち貿易が盛ん
となるにつれ,このマレー半島やスマトラの港には,各地より多くの人種が貿易のため来 集し,かくして混合語として生成されたマレー語がインドネシア沿岸各地に拡まったも の である。そして今日インドネシアにおいて公用語となりつつある,インドネシア語は,こ のマレー語に更に,タミール語,オランダ語,英語,フランス語の語彙が加わったものに 外ならない。(註2D・ 「
(d)「アデン人(Achinese)
アチン人はマレー人系に属する一種族であって,スマトラの最:北端アチン地域に居住し
・ている。このアチン地域殊に最北端の突出部は,インドに最も近く,又西欧人がインド洋 を わたって東印度諸島に来航する場合,何人もの眼に最も早く映つる東印度諸島の入り口 である。さればこそすでに1292年には,マルコ・ボーロも中国よりベネチアに帰る途申,
この地に上陸していることが記されている。
その地理的位置よりして,アチンはインド人や西欧人との交易を早くより行い,アチン 大による土侯国が首都:Kutarajaに建設せられた。17世紀の終りには,その首都クタラジ
ャにはイギリス,オランダ,デンマーク,ポルトガル,ユダヤ等の商人が来集し,土侯資 本の下に,同じくこの地に出張して来るインド・グジャラート入,中国大商人との間に盛 んな高取引が行われた。
Snouck Hurgronjcの研究によれば,アチン人は賭博,阿片を好み,気の変り易い労働 者が多いが,根は利巧で自由を愛し,ユダヤ人のごとき精力を持ち,マレー人系種族の中,
中国人に対抗しうる唯一つの能力者であるとされている。さればこそ彼等は古くより西欧 と接触し,貿易によって多くの利益をあげて来たが,西欧人置にオランダ人に対しては最も 長期にわたって純血を守り,鋭い敵碍心を有し,彼等との貿易はアチン人自らこれを行わず,
インド人,中国大を通じて行うと云う方法をとって来た。そしてアチンはまたインド・グ ジャラート貿易商人によって,インドネシア諸島中初めて,回教が植付けられた所である。
従ってアチン人は狂信的な回教信者であって,これをキリスト旧教に改宗せしめんとした オランダ政庁に対しては,徹底的に抵抗し血を見る斗争を繰り返して来た。(註19)