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国語科教育における道徳教育

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Academic year: 2021

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(1)

国語科教育における道徳教育

 国語科教育と道徳教育との関係についての論議は︑すでに久しく

日を経ている︒ところが︑最近︑小︒中学校における特設時間の設

定による道徳教育の問題が︑世上に大きく取りあげられている現状

を反映してか︑各地の小︒中学校国語科教育研究会などで︑必ずと

いってよい程この問題か取りあげられ︑討議されている︒昭和三十

三年秋実施の当大学附属中学校研究発表会め国語科部会でも︑この

問題について質問を受けた︒会の性質上時間の制約があり︑十分な

説明を行うことが出来なかったので︑これを明らかにするためと︑

もう一つは︑今もってこの問題がこのような研究会で繰り返されて

いるのは︑国語科教育における道徳教育の正しい在り方の認識が現

場にある国語科教師の一入一入に確立されていないと見て︑その認

識の確立に役立てるため︑ここにこの問題を取りあげることとした︒

 小・中学校の国語科教育研究会などで︑この間男が取りあげられ

た際に︑文学教育と︑道徳を内容とした教材︵資料︶を用意するこ

とによって︑この問題を解決しようと少る論議がある︒丈学教育は        ユ  国語教育の重要な一面であり︑文学作品を読解鑑賞させることが︑

児童生徒の入間としての品性を高め︑とりもなおさず国語科として

の道徳教育になることは論をまたないところである︒しかしながら

問題は︑道徳を内容とした教材を使用することによって︑国語科とし

ての道徳教育を果たそうとする論議の相当にあることである︒なる

ほど︑ ﹁朱に染まれば赤くなる︒﹂と言われるように︑道徳性の豊 かな教材を読ませると︑児童生徒はその感化を受けて︑道徳性を高 めて行くであろう︒この点︑数学・理科のように︑それ自体内容と して道徳的なものを持たない教科に比べて︑国語科が戦前戦後を 通じて道徳教育の場と決められやすいのももっともである︒戦前の 国語科が修身︒地理・歴史と並んで国民科として︑国民道徳の育成 を担わせられたのもこの観点からであった︒この観点からすると︑ 国語科としての道徳教育は︑その負荷せられる道徳内容の時代的な 変化に伴なって変化し︑国語科としての不易なものを求めることが 出来なくなり︑戦前は忠君愛国を主軸とする道徳教育が国語科とし ての道徳教育であり︑戦後の国語科は平和・国際協調・民主的な道 徳内容を養うことが国語科における道徳教育と考えられるのは無理 からぬところである︒このような観点からすると︑将来もしも政治 的な変革が起るとまた国語科における道徳教育が変更されてくるこ とになり︑国語科教師はまたもやその指導領域を変更しなけれぼな らなくなるのは当然であろう︒  戦前はそれでも読み方を中心とした国語教育であったから︑文 章の読み書きのための手段として︑あるいは読み書きのための内容 としてこれらの道徳内容を位置づけ得たであろうが︑今日の︑話題 を︑あるいは生活経験をめぐって︑総合的な言語活動を展開させよ うとする学習指導においては︑国語科としての主体性があいまいに 成って︑社会科と区別のつかない危険が生まれてくる︒  もちろん︑国語科は全人教育を目標とする学校教育の目的を達成 する教科の一つであるから︑児童生徒の入間教育に貢献するのは当 然のことである︒しかしながら︑前述のような意味における道徳教育 が国語科の果たすべき道徳教育でないとするならば︑国語科の当然 果たさなければならない道徳教育とはどのようなものであろうか︒

このためには︑ 一体国語科教育とはどういう教科であり︑さらに

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言語とは何かの根本問題に遡って考えなければならないことに成っ

てくる︒        二

 言語とは言語主体を離れて存在する社会的実在ではなくて︑人間

のあらゆる行為と同様に︑音声・文字を手段とした︑入間の主体的

な表現理解行為の一つである︒今日︑言語活動という言い方が行わ

れているが︑活動という語は目的活動と無目的活動との反対概念を        へ 分岐するので︑目的活動を主とした﹁行為﹂という語をもってする

のである︒言語活動という語は広く流通しているが︑その場合でも       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 言語活動の他にコ言呈胴﹂という実在的なものを考えている場合が多

い︒しかしながら︑何か資料的な﹁言語﹂を使って言語活動を営む

のではなく︑言語活動そのものの上にわれわれの言語が成り立つの

である︒資料的な﹁言語﹂と考えられるものも︑われわれの言語行

為の循行によって︑脳裡に種的等暇な概念と音声表象の連合作用が

成り立つに過ぎない︒

 もしも言語を資料的なものと考え︑それを生理的に運用するとこ

ろに言語活動を位置づけるならば︑言語自体に道徳との関連を見出

すことは出来ず︑言語によって表現しようとする内容的なものに道

徳の問題を取り上げなければならないこととなってくるであろう︒

また︑言語活動の中に道徳を考えようとしても︑厳密には言語自体

とは切り離して︑資料であり道具である言語の運用者その人の道徳

の問題となり︑必ずしも言語教育において取り上げなくてもよいこ

ととなるであろう︒

 われわれのいう言語は国語を問題としているのであるから︑国語

とは話すこと・聞くこと・書くこと・読むことという主体の表現理

解の行為それ自体である︒その行為として国語が成立するから︑国

語は主体の実践によってのみ存在するといわなけれぼならない︒言 語活動︑言語経験︑言語生活と言うのは︑それぞれ活動︑経験︑生 活という面から一つの人間的事実である言語を把えたのであって︑ つまり︑言語とは言語行為︑言語活動のことである︒  国語教育は︑児童生徒の聞き・話し・読み・書く国語表現・理解 の行為︑言い換えると︑国語実践を訓練し高めて行くことである︒ 国語科教育は学校の教科の一つとして︑具案的︑組織的な国語教育 を行うことをいうのである︒  聞くことに例をとると︑聞くことの教育とは︑児童生徒に対し て︑いろいろな場面においていろいろな話題について語られる話し 手の話を︑﹁話し手の表現のままに理解し聞き取る﹂能力を高め育 てて行くことである︒人間が﹁聞く﹂という⁝機能を最高度に発揮す るにはどのようにあらねぼならないか︒ここに聞くことの機能を十 分に果たすための︑言語行為としての技術的なものと︑言語態度に 関するものとの両面が考えられてくるであろう︒聞くという入間の 働きは全一的な主体の行為であるから︑どこまでを技術的なもの︑ どこまでを態度的なものと戴然と分け難いものもあるが︑主として この言語態度に属するものが︑国語科教育における道徳教育の問題 となってくる・        三  言語とは具体的な人間の聞き︑話し︑読み︑書く行為であるか ら︑主体なくしては言語は成立しない︒また︑言語現象を考えるに は主体の問題から出発するとも言えるであろう︒  言語は入間が生活目的達成のたあに︑音声・文字を手立として価 値意識および技術によって推進する統一的な主体活動であるから︑ 言語主体の表現︒理解における態度・心構えは絶えずその言語に制 約を与え︑色合いをつけていく︒言語は具体的な細入の行為として

成立するが︑一個人の表現または理解の単一な孤立的な行為だけと

12 一

(3)

して考えるべきではなく︑社会生活の場において︑表現者と理解者

の人間関係として行われ︑言語行為によって刻々入間関係を変化さ

せていく︒話し手が相手に対して︑どのような表現上の心構えや態

度をもって対処していくかということは︑言語表現にあたり絶えず

話し手の意識に浮かぶ事実である︒このような意識における倫理性

の屈伸が︑言語の機能の効果を上下させ︑入間関係の親疎を生み出

してくる︒

 言語主体のこのような態度は言語表現・理解の行為のあらゆる面

に交渉を持つ︒一体︑態度とは入間の心から出発し︑行動・表情に

現象する主体的な志向性として成り立つから︑言語態度においても

心的なものから出発して︑発声・発音︒文字記載の末にまで及んで

くる︒  このような言語態度の倫理性を伸張させることが︑とりもなおさ

ず言語表現・理解の効果を高めていくことになる︒国語科教育とい

うのは結局︑日本語として聞き︑話し︑読み︑書く国語実践者とし

ての完成を期しての計画的営為で︑その中に当然道徳教育の一半を

分担して行くことが出来るし︑またそれに対する留意の足らない国

語科教育は︑正しい言語教育とは言えないことは自明のことであろ

う︒他人に案内状を出すにしても︑書き手の意のあるところが的確

に相手に通ずるよう︑誠実に丁寧に︑しかも手落しなく記述する態

度の育成は国語科教育における書くことの重要な務めであり︑それ

がとりもなおさず道徳教育である︒

 また︑他人から受け取った文書は︑その書き手に対する好悪の気

持の有無に関係なく︑また自分と主義主張が異なろうとも︑その文

意を誤りなく理解しようとする態度をもって読むことが︑ ﹁読む﹂

という言語機能を発揮することであり︑そのような読みを育成して

いくことが道徳教育となるのである︒  国語科教育を正しく進めて行くなかに︑相手に対する寛容の態 度︑相手への尊敬の念︑相手と自分とを対等と見る公平な精神︑聞 き手としての謙遜な態度のような基本的な民主道徳は︑前述したよ うな国語実践人としての完成を期する国語科教育のうちに︑おのず から育成されてくる︒言語はもともと入間相互が自分の内なるもの を相手に向かって表出し理解を求める︑対等の水平的な疏通伝達と して生まれたのであり︑上下の階級や身分︑その他の差別的な因子 は︑言語行為としての伝達を完成させる上に本質的な条件や要素で はない︒民主的な社会は政治社会制度やその他いろいろの条件が具 備しなければ達成されないが︑言語は対等な入間相互の思想伝達の 手︑段として生まれたのであり︑言語の機能を高度に発揮させること が民主的社会道徳を具現するとも言い得るのである︒  しかしながら︑国語科教育はあらゆる道徳教育を︑国語科教育の 本質的領域として分担することは出来ない︒前述したような最も基 本的民主道徳を育成することは︑国語科教育においても当然果たさ れて行かなければならないが︑質素・倹約・孝行などという道徳は たとえ普遍的な道徳であっても︑それの育成は国語科教育において 分担すべき領域てはない︒これはそれぞれ内容的な道徳であって︑ 社会科あるいは倫理道徳科というべき教科の担当すべきものであ る︒もちろん言語行為は何等かの話題あるいは内容について行われ るから︑例えば読むことの教育にあたり︑高尚な道徳内容について の文章を読ませることによって︑その内容から感銘を受け︑それに よって道徳件を高めることが出来るが︑それは第一義的な国語科と しての道徳教育ではなく︑国語科教育に附随して道徳教育が行われ るのであって︑国語科教育の本質的な領域ではない︒  国語科教育の本質的な領域としての適徳教育は︑その場面を聞く ︒話す.読む︒書くの全面にわたって見出すことが出来る︒しかし

13 一

(4)

ながら読む︑書く言語行為は棺手を目の前にしないのが原則であり ︑伝達も一方的であるから︑言語態度が刻々に相互に反映し制約を

及ぼすことが少ない︒ところが︑話し︑聞く言語行為は常時相手を

目前にし︑絶えざる言語行為の相互的な交渉の中に︑一方の言語態

度が相手に反映し︑刻4相互的に新しい人間関係を構成していく︒

国語科教育における道徳教育の場面の濃厚な言語行為と言わなけれ

ぼならない︒

       四

 聞き・話すことの教育において取りあげなけれぼならないのは︑

今話すことに例をとれば︑はっきりと︑正しく︑わかりやすく話す

という技術的なものと︑語いの選択︑姿勢︑話すべき時と聞くべき

時を弁えるとか︑相手がいかなる入か考えてそれに応じた敬語を用

いるとか︑というような言葉の躾の閥題や︑相手とその場に適切な

話題を選ぶとか︑このことは言ってよいことであるが︑このことは

言ってはならないことであると弁別することなど︑言葉の嘆以上に

その入の知識教養品性が︑話すことに関連してくる場合がある︒後

者は技術的なものに対して言語熊度の方面であり︑この両者は徴然

と区別出来ないもので︑相互に関連しており︑また︑今挙げた言語

態度的なものも︑どこまでが国語科教育の領域であり︑どこから他

の教科の領域であるか︑区別し難いものもある︒しかし︑今挙げた

ものの中でも︑これらの教育は国語科教育から全く離れて考えるこ

とは出来ず︑ ﹁言葉を話す﹂ということの中にだけ生起する事実で

あるから︑基礎的段階における﹁国語の効果的使用﹂の教育として

の話すことの教育はさておいて︑高度の話すことの教育としては︑

これらの指導は十分に達成されなければならない︒

 ﹁国語の効果的使用﹂ということを︑ただ技術的な面や言葉の躾の

面の教育で果たされるとすれば問題は少ないが︑その場と相手と話 題に即応して︑真に効果的な話をするということは︑深くその入の 人格︑教養︑情操といった全入的な人間性に交渉し︑もはや教科と しての国語のみの任務とするに堪えないところである︒しかしなが ら︑ ﹁国語の効果的使用﹂とはこのように果てしなく深く広いもの であることを考えておくべきであろう︒  いまは聞き・話す教育における道徳教育の領域を小学校学習指導 要領国語科編︵伽年度版︶によって見ると︑  聞くこと  聞く機能を最高度に発揮するということはどういうことであろう か︒音声を契機として︑相手の言語三陸をいわばそのままに遡源し て︑相手の心的状態と同じような状態に到達し了解することであ る︒このためには︑聞唐手は自己の立場を捨てて︑自己の成心を捨 てて︑白紙の立場にならなければならない︒比喩的に言えば︑聞き 手は心の中を真空の状態にしなければならない︒そこに話し手の話 はそのまま全部流れ込んでくる︒この時完全な聞く行為が成立する のである︒このような聞く働きの完成を目ざして一年では︑        ︵数字は項目番号︶  1仲間にはいって聞くことができる︒  2いたずらをしたり︑姿勢をくずしたりしないで聞くことができ   る︒  3相手の顔をみながら静かに聞くことができる︒ という聞くことのもっとも基礎的な態度習慣の確立をはかり︑二年 三年になると︑それぞれ︑  1話を楽んで聞くことができる︒  1相手が話しやすいような態度で聞くことができる︒ という聞く働きを高め︑話し手に十分にその意のあるところを尽く させ︑聞き手は自分を謙虚にして話し手に同化し︑話の中に浸る態

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(5)

度の育成をねらって︑聞く機能を高めようとする︒このような聞く

機能を発揮するためには︑このような言語態度が磨かれなければな

らず︑そのような言語態度をもって言語行為にのぞむことが︑その

まま対人関係に倫理性を伸張させるのである︒このような聞く態度

が確立すれば三年︑四年にそれぞれ配当されている︑

 3話の荒筋をつかむことができる

 4話の荒筋を順序立てて聞くことができる︒

という聞く働きを高めることが出来てくるのである︒また︑四年の

 2相手の気持をのみこんで聞く︒

 3相手の意見を尊重して聞く︒

などの聞く態度が身につき習慣となれば︑聞く働きはいよいよその

効果をあげてくる︒真に相手の意のあるところをそのまま聞き取る

には︑相手に対する何等かの先入感を持って︑あるいは色眼鏡をか

けてしてはならない︒相手が目下であろうと︑対等の立場で相対

し︑自分も相手も一個の人格として尊敬の念をもってその言い分を

聞き入れなければならない︒

 また相手によってそれぞれ意見が異なることを当然のことと認

め︑それぞれの話を己を空しくして受け取らなければ︑聞く働きが

完成したとは言い難い︒このような聞きによって︑相手の意見を素

直に受け取り︑そこに今までの自己に新しいものを加えることが出

来︑自己の成長が可能となってくる︒五年には︑

 4要点をまとめながら聞く︒

 5聞いたことをうのみにしないで︑疑問の点は聞き返すことがで

  きる︒

を磨いて行くことにより︑相手の話の主旨をつかみ︑誤解に陥らず

に理解が達成される︒このような聞く働きを伸ばして行けば︑聞く

という言語行為の機能が高まり︑聞き手の人間成長が果たされて行 く︒聞くは聞き手を生かすと同時に︑話し手の心を十分に尽くさ せ︑話し手も生かすのである︒伝達が成立するとともに︑話し手聞 き手の間の入間関係に公平・平等・信頼・着敬といった基本的にし て普遍的な民主道徳が育てられていく︒また逆にそのような倫理 性に支えられた入間関係なしには︑聞く機能は発揮出来ないとも言 えるであろう︒このような聞くことの学習によって︑真に民主的な 社会が成り立って行くのである︒民主的な社会は明かるい信愛に充 ちた入間関係のことで︑それには一入一入がいわゆる聞き上手にな らなければならない︒六年になると︑  1どんな場合でも注意深く聞くことができる︒  4話の内容を批判しながら聞くことができる︒ 段階に到達する︒いやしくも人の話を聞かなけれぼならない場合に は︑話し手の話に注意を集中し︑相手の発言を押さえたり無視する ことなく︑寛容の心をもって相接し︑粗手の心中を十分に言いおわ せ︑それを正しく聞きとどけなければならない︒でなければ︑聞き 手の聞くという言語行為は無意味であり︑その役割を果たしたこと にはならないであろう︒  このような聞く働きの習熟によって︑話し手の話を聞き分け︑聞 きさばく批判的な聞きが育成されて行く︒批判的とは聞き手の利害 や︑話し手に対する主観的な感情を先入主とするものでなく︑真実 なるもの︑普遍的なものを求めようとする心の向け方から生まれ る︒そのような正しい理解に立って批判的に相手の話を聞く態度 は︑一年生以来の前述のような国語実践の指導努力によって育成さ れるのである︒  中学校・高等学校における聞くことの教育については︑学習指導 要領国語科編︵26年度第二章︒第四章に︑それぞれ聞くことの実態

の中で触れている︒中学校では小学校の聞く教育の発展の上に︑聞

15 戸

(6)

く態度の向上をはかっていかなげればならないが︑特にこの年令で

の特異なものは︑大勢で話を聞くとき群集心理でわざと騒いだり︑

まじめな講演を静かに聞き入る態度を持続することが出来ないこと

が多い︒この時期の心理的な特徴ではあるが︑伝達の成立という言

語機能を全く無意味なものとすることであり︑話し手と聞き手との

入間関係に悪結果を及ぼし︑聞くことによる入間の成長を不可能に

するものであるから国語教室で︑十分な指導をするとともに︑学校

内外のあらゆる場で正しい聞き振りの指導が徹底されなければなら

ない︒高等学校生徒のこの年令の聞く態度の特徴は︑親しい仲間で

はわれ勝手に語り︑相手の話をしばしば中断し︑しかがって相手の

話を誤解するという傾向が見られる︒個性の伸張とそれの生硬なた

め︑相手に対して主観的な好悪の感情が先行し︑相手の話を公平に

理解しようとする態度の欠けるものが多い︒静かに正確忙相手の言

い分を聞くべきときも︑感情を表現︑態度にあらわに表出し︑正し

い伝達に障害を与え︑相手との人間関係を不円滑なものとすること

が多いし︑その一方でなげやりな無関心な聞く態度のものも多い︒

高等学校の国語科教育は︑特に文学作品の読みを主軸とした国語教

育が大きな領域を占めるのは当然であろうが︑読みを主軸としなが

りも話し合いに発展し︑あるいはホームルーム︑クラブ活動︑各教 科を通じての全学校生活の中で︑高次の︑洗練された聞く生活を達

成させ︑文学作品によって磨かれる語感ニュアンス︑ユーモアを聞

き分けるような聞くことの成熟を図るべきであろう︒

 以上述べたところを要約すれば︑国語科の分担しなければならな

い道徳教育というの溶︑聞くことの教育で言えば︑聞くという言語

行為の機能を磨3︒ごあげていくこと自体に含まれると言わなけれぼな

らない︒このような面は聞くことの教育︑広く国語科教育の本質的

領域である︒  文学教育は国語科教育の重要な領域であり︑これが広く人間教育 に関連することは申すまでもない︒文学的表現を聞くことにより︑ 人間の倫理性を高める効果の大きなことは︑放送劇︑レコードによ      ︵2︶ る詩の朗読によって聞き手を感銘させ︑汚れた心を洗う効果は周知 のことであろう︒文学教育も国語実践として︑聞き︑話し︑読み︑ 書く言語行為の中に位置づけることが可能である︒話すことの教育 における道徳教育については︑紙面の関係上別個に述べることとす る︒  注︵1︶長崎大学学芸三部人文科学研回報告第八号拙稿︑言四過一説に     おける文学教育論︒    ︵2︶実践国語教育︑昭和三十三年十月号︑高ド正人氏が原爆詩集掲     載﹁峠三吉作・墓標﹂の朗読をテープコーダーで聞いた効果を述     べておられる︒

緬 一

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