ヴ ィ ル ケ ン の 資 本 課 税 論 と 其 の 批 判
松野賢吾
特異 な財 政改 革論 を提 唱す る者 にヴ ィル ケγ があ る︒ 彼は 二つ の論 文則 ち Or ga ni sc he F in an zr ef
︒r m, in :F in an za rc hi v
N.V.B.3.H.1.とDieBesteuerung derEinkommens‑undKapitalverwendung.NeueMethodenzur Vermeidungwirtschaftswidriger
St eu er wi rk un ge n, in :F in an za rc hi vN .F .B .3 .H .4 に 於て 自己 の見 解を 披遮 して いる ので ある が︑
﹁経 済の 過去 と現 在の 状
態に対して注意を払うのみならず︑経済的本質の円的なるものに認識を導き入れる所の見通し︑そして経済の理念よ
‑して将来必要であり﹂経済の将淡を形成するカとして存寮し︑過去と現在の状態を異った状態に変化せしめ得る所
のも のを 考慮 する 所の 見通 し﹂ ( F. Wi ll
?e n. Or ga ni sc he 喜' an zr ef
︒r m, a. a. 0. ,S .8 2) とし て特 色あ る経 済政 策的 資本 課税
論を主張する︒此処に坑を厭はず彼の主張を前掲二つの論文に従って詳述して︑之を批判する︒
一︑
(1)
国家収入の終局的な経済的埠泉に関する問題︑則ち税源の問題が提起せらるゝ場合︑既に早くスタインの主張した
る﹁所得︵或場合貯於ては財産も︶は︑凡ての租税の本来的にして唯一の源泉である﹂との命題は︑資本主義的精神に依
って形成せらる1所の電済生活に取って︑大いに正しいと云\チ事が出来る︒乍然︑経済の生産性の根源や︑経済価値
を形成するカを充分深く洞察する時は︑スタイソの主張は︑一般的顛理たるを得たい︒経済価倍は必ずしも︑所得の
ヴィルケンの資本課税論と其の批判七七
経 営 と 経 済
七r
‑ .
、
型を取るに適当しているものでは友い︒資本主義経済時代に於て︑所得の型を取クた所の若干の経済価値は︑実は所
得の型を取るべきではなかったのであって︑所得の型を取った事は︑経済生活其ものに取クて︑そして人間の社会生
活に取って︑最も重大な影響を及ぼしたのである︒時
資本主義経済の時代は︑人間の労働より生やる所の経済価値と︑創造的な精神力より生やる所の経済価値とを︑正
しい方法で区別する事は出来なかった︒換一一目すればA理論的にも実際的にも正しい方法に依って︑労働力に基く生産
的結果と︑商業的技術的在進歩に基く生産的結果とを区別する事は出来なかった︒仮令︑或程度迄︑之を概念上区別
したにしても︑両者の対立的た佐賀と実際的重要性とを看破し得たかった︒労働給付に対する対価のみが所得の型を
取るべきであって︑経済的進歩に対する対価は︑社会的決定を加える事なくしては︑個人所得たるべきではない︒之
をより良く諒解する為には︑経済生活に於て︑精神的例造カに依って生やる所の経済価値に対しては︑斯の種価値の
本質を純粋に表示するに適当なる表現︑則ち﹁資本﹂と一式う表現在用うるを可とする︒国家需要を充足する為にはー
所得の型を取るに至るべき﹁労働価値﹂(3
﹀ろ
2 2 2 E ) e
と︑在会的決定を経やしては︑個人的反所得の型を取り得た
い所の﹁資本価値﹂
(
同是正三円三との間の区別を設ける事は︑剖期的危重要性を有する︒以下に於ては︑資本と︑J
国家需要
r取りての其の重要性とを︑研究の主点とする︒
芳し国民経済を見渡し︑国民経済に於て︑価値が如何にして形成せられ︑此の価値が如何なる過程を辿るやを考察
する場合︑先づ第一に考察の対象とたるものは︑人間労働である︒人間の労働は︑物の形を作るカや物を動かすカを
以て︑地上の物質に法透するのである︒乍然︑生産せられたる凡ての物は︑之を生産したる人の手中に止まる事注く︑
之を入手する為に貨幣を支払う所の他の人に移濁する︒此の貸幣は︑物
ll
交換に於て商品と︑なった物ーーを生産し.
たる人の所得となるのであって︑此の過程乙そは︑経済過程の基礎となるものである︒労働は長き期間に一且る迂回を
経て︑貨幣所得に変化する︒経済的危人間は︑所得に依クて生存を維持する為に︑斯る方法で労働し︑他方︑国家は︑
自己の需要を充足する為に︑此の所得に近づき︑直接︑叉は間援に︑乙れに課税を行うのである︒
乍然︑右の事態のみの鮮明に依つては︑経済生活と共の可能性とは︑明かになり得ない︒芳し人間労働は︑商品や
貨幣所得に転換せられると云う事実のみが経済生活であっ
Eて︑乙れ以外に経済生活はあり得たい守とすれば︑経済生活
は永久K
進歩する事のないものとたるであろうロ斯る経済生活は人口の増加する場合︑乙れに比例して成長するであ
ろうけれ共︑華覚︑永久に変る事なき形に於て存在し︑
11
等動物の生活と何等異友る所は友い︒斯る生活は人間の行
う径済の実態ではない︒
永久に不変たる弧を画く所の︑右の様た沈滞したる生活過程は︑精神的創造カが参加する場合︑換一一目すれば経済的
.労働に﹁形成カ﹂が這入り込む場合︑直ちに打破せられ︑﹁発展﹂に向い︑新たろものが作り出される事と友る︒此
処に
所謂
﹁形
成力
﹂(
(u
mu
t‑
Z口問的f p p )
は︑只単に物質に対する生産的労働たるに止まちゃ︑労働に対立する所の精神 力として︑創造的なる活動と指ヰとを包合し︑労働其ものをも上り高級友る方式に発展せしめるカである︒経済生活 を次第に高級なる段階に引上げる所の斯る倒進力は︑労働過程の経易化
ε完成化に導くのみたら
‑A
y︑流通過程に於け
る経済価依の形成・従クて所特形成の方法・金融組織・資本投下の指導@生産者と消費者との聞の商品移勃の方式に
も作用するものである︒是等の内︑長一初に掲げたる労働の形成@労働過程の受くる作用を此処に取扱い︑共の他の経演
の全組識に及ぼす作用は︑本稿に於ては取扱わ友い草とする︒若し主リ等が︑人間の精神的側造力が︑如何にして︑そ
して如何なる結果を以て︑生産的危経済的労働ずを形成じ︑之をより高級に組織化し︑之を経済発展の原動力たらし めるかを把握する時は︑苦等の必要とする所の認識に到達するおのである︒凡ての倒語的精神力の人間労働に関して 目棋とする所は︑人間の為に労働を軽自沼化する事に在る︒此の日棋は或は労働北ハもの1・A
方法を軽易化し︑或は自然力
f
や自然過程をして︑労働に代位せしめ叉或は労働を援助せしめる事に凶って達せられる︒常に労働其のものを組織化
し︑之を止揚し︑之を自然過程に変化せしめる五とたる︒斯くじて精神力は人間の為に労働伶一節約するの努力を続け
る︒機械は掛る根拠より突出せられたものであづて︑労働の方式は絶えや将官化する白技術や組織に関する発明者や
発見者の天才は︑経済的過程に於ける人間労働のハザ萱を小たらしめる︒とれば商品伺慌の中に於ける努働佃偵を小た
らしめる必然的結果を涜らす事とたる︒此の場合︑一時的な行動に関係するのでは伝くして︑永久的危影響を与える 所の溌長に関係するものである事は︑主要性を有する事である︒何となれば人間の精神は︑静止するものではたくし
JV 4
ルケシの資本線税論と其の批判
七 九
経 蛍 と 経 済
^ O
て︑如何にして人間の労働を簡易化し︑人間の重荷を軽易にし得るやに就き︑常広苦慮しているものだからであるロ
故に技術を挿入して生産せらるふ所の商品の中に於て︑労働価値は絶えやノ小となり︑商品の弁量は増加する白人は此
の事実を﹁大量生産の法則﹂と呼ぶ︒継続的に低下する安換侃依を有する所の商品の令量の増加は︑精神が労働過程
に影山制いする場合︑商品側に坐宇る結呆であると云わねばならたい︒
右の様た交換価偵の低での中に︑資本形成の奥義が存する︒若し如何にして資本形成が此処に生子るものであるか
を︑精細に理解しようと欲するならば︑流通過程に於て生産者の販売する所の商品に対しては︑他の生産者工り購入
する所の商品が対立しているものである事を想起したければたらない︒販売せらる
‑ A商品の貨幣的牧溢は︑此の商品
と︑購入せらる
1 λ商品との差益に外ならない︒収益は貨幣より成り︑此の貨幣の中に︑購買力が商品に対立して︑水ハ伍
する@そして生産を安直
r r する所には︑換一一目すれば労働節約過程の存する所には︑直ちに交換価値(価格)の低下が
生十るものではなくして︑交換価値の低下は漸次的に生宇る︒安発明や発見に依り︑そして生産を安直にして活動す る所の経営は︑此の安直になク売事に正比例して︑価格を直ちに引下げるのではたくして︑出来る丈長さ期間に一
A
‑U
︑一般的市場価格で販売するのである︒此の結果︑此の企業に於て︑絶えや賀川市額が蓄積せられる︒此の苔積せら
れたる貨幣額以︑生産的たる労働に対する報償ではたくして︑︑生声的労働の節約せられた事に対ケる報償である町国
民経済の認識に取っては︑此の特色ある過程に注目する事が最も重要である︒何とたれば乙れは時え生起する事では
なくして︑生きたる経済生活の凡ての場所に於て︑或は犬規模に︑或は小規模に︑間断たく生起する事だからであ
る︒マルクスの用いたる意義とは具たクた意義に於て︑此処に︑絶えざる価航増荊行程が見られるのである︒宮︑人
間の労働力が搾取せられるからではたくして︑人間の労助力が節約せられるからである︒此の増殖せられたる伺偵
は︑国民経済に於て︑九ゆる場所に於て堆積し︑とれが央本とたるのである︒此の資本の堆積は︑資本主義的経済組
織に於て生起するものであクて︑共の為に︑企業守は資本に関して絶えや競争する︒此の事実に依り︑企業者に於け
る所特形成は︑彼の給付したる生産的労働に対する報償たるのみたら宇︑国民経済の全性本形成たるものである︒
右ω
如き資本形成課程左突例記以て解明する︒従来多くの人的労働に依クて思を製造し来った一の企業が︑新に発
明せられたる機械を使用して︑全く自効的に起一を製造し得るに至クたものと仮定する︒最初は企業者の山設置したる桜
村は︑多くの労働者を失業せしめ︑企業者は莫大なる利溢を得るであろうロ此の利益は技術的進歩に対する報償とし て出現したるものであクて︑失業したる労働者の失クた所の所得に相応十るものである
D
此の利溢の一部は戯械費の 支弁の為に使用せられ︑他の一部は利潤として企業者の所得とたる︒但此の企業者の所得は︑決して企業者の労働給
付に対ずる報伎ではない︒此の所持は純然たる経済的所得ではなくして︑謂わぼ偽所得
(3
2a
ot
ロE
g g s )
であp︑実
際に於ては資本を一不すものである︒此の浜本は暫くの問は企業煮に流入するであろうけれ共︑礁で此の犬︑取る牧誌が
減少するの時期が来るであろう︒別ち他の企業者が同一の機械を用いて同じ程を製造するに到り︑理の伺格が低下す
る時は︑此の牧誌は減少する︒結局・に於て価格は適当なる所得形成の生やる点ピ迄低下し︑資本形成は停止する︒ー乍
然︑場合に依クては︑技術的進歩に対する報償として形成せらる
L資本は︑企業に残凶する所の労働者の所得が引上
山げられ︑又は一昨符不変にして労働時間が短縮せらるふが如き事に依って︑吸牧せられるであろう︒此の場合に於ては︑
・侃粍低下は生じたい︒蓋価格低下は資本形成の必然的結果ではなくして︑可能的結呆に過ぎ伝い︒件一本の使用方怯に
従クて︑週一世は自ら複雑化する︒此の事は此処に詳論すべき限りではないが只此処に所得と務︑本との対立的関係を
銘一叫すべきである︒所得の使用方法正資本の使用方法とは︑全く異なった法則の下K
在るのであって︑形成せられる 資本が無雑作に企業者所得とたるが如き事は︑経済法則として不可能である筈である︒
以上の解明に依って︑個人所得は生産的労働の上に基礎付けられ得るものであクて︑若し国民経済に於ける一般的 粘神生活の結果として生じたる資本額が︑個人の利益の為に使用せられ︑﹁所得利己主義﹂
?h
zE
52
5m
mC
UB
EE
) に陥入る時は︑経済の論理と生産性法則に対する重大たる背反と︑社会的不主義を結果するものである事が明白であ るロとれが特に経済の論理に対する背反である事は︑最も重要である︒吾等は更に之を︑次の如き思考より解明し良
いと
思う
︒ 精神力の加えられたる機械や︑商業的才斡を︑有印たる企業者が利用する事に依クで生やる所の資本形成の内︑笹
グィルケンの資本引税誌と誌の批判
Y¥
4 /
経 営 と 経 済
人
かに共の一部分のみが︑個人の創造的給付に帰せられ得るのである︒例えば数学研究上の小怒る進歩も︑多くの頭間に
悶クて更に進展して︑結局に於て一人の天才の精神に依クて︑現実との接触が見出され︑実際.上利用可能たる発明が
兵体佑するに至るのである︒精神的給付は請わぼ一の霊感であクて︑物質的成果と在って現わる
L場合︑私有財産と
なるべきではない︒そしで精神的側迭の究極の根源は︑一般的精神生活
K在るのであって︑時代精神や同家観念乃至
宗教的信念が共の有力なる茨吹力となるのである︒従って精神的創造物は︑全国民︑否人類に帰属すべきものである︒
ペ
1 T 11ヴェシの音楽やグテの詩に依クて︑物質的た商品に依るよりも︑工り多くの貨幣が︑過土一忙於て狩得せられ
来り︑将来にが︑ても角獲得せられるであろうけれ共︑此の賀川市はベ
1 T 1ヴ
ェシ
やや
ケ
1テと一式う個人の杓神に帰す可き
ものでは勿論ょなく︑又是等の人々の収入となる可きものでもない︒勿論︑斯く云えばとて︑斯'る精神的側造の物質的
結果よりして︑是等の創造者の生活性金が取上げらるべき立でを主張するのではたい︒閉山一γ
ろ精神的たるものは︑人間的
利己主義に触れる場合︑退歩するものである事は︑精神生活の一般的法別であるがら︑(精神的例造力に必要たる前提
条件は確保せられねばなら友いと云う最も高き実践的論理と洞察を芸礎として﹀︑例造カある人々の要求格は︑
111
生命に対する要求に関係なさ限り
il
誌の物質的ない将来工りは区別して取扱わる可きであると一式う要請が生やる︒明
くして︑資本は︑如何たる見地に於ても︑創造的給付に肉って共の成立に貢献した人次に対して引渡さ'る河きもので
はない︒斯る人々に引渡す事は︑一方に於ては創造的精神の絶滅︑他方に於ては次八木の誤専を苦味する︒それは︑セ
シチメシグリズムの問題ではなくして︑経済的現実の問題であるの乍然︑浜本主義の時代にが︑ては︑院本は単に自由・
競争の原理に凶って合法化せられ︑少しも共の成立に貢献したかった人々が︑犬たる範回に於て︑之を取上げている
と云う︑著しく誤まった現象が見られるのである︒叉︑浜本主義の時代に於ては︑多くの安本が私有財虎一と化する事
も亦︑より多ぐ見られる事実である︒今日吾等は自由競争なる仮面の下に出来る丈多くの空木を自己に取上げ︑之を
自己ω判断に従クて使用じている事︑換一一一目すれば安本の助けに依って︑多くの性本を市場上り取上げるの一自由が各人
に与えられている事は︑如何に経済に反し︑如何に不道徳な主であるかを自覚し怠ければ注ら友い︒
資本は決して直ちに所得の型を採り得るものでは友い︒換言すれば︑所得として現われ符ない︒注目本が所得として
現われるが如き事は︑所得の概念に矛盾する事である︒一体︑経済の精神より理解せられたる所得とは何ぞや?一フ ンベはh
次の如く定義している︒日く﹁所得とは︑自己の需要充足(此の語を最も広く解釈して﹀の目的の為に︑一
定期間内に︑自然人の処分し得る貸幣額を一式う︒各租税は此の源泉工り汲み取られねばたちたいい
( E g o
‑
同Z
Z
= 8
ユ 巾 仏
3 2 ロ5 N H O
町23 主 ヨ ロ SB oy
‑司
戸司
・戸
凶・
出
‑M w∞ ・
MM H1 1M MM )
と︒此の定義に於て︑最も豆要な点は︑自然人の
お現充足と一式う目的が表現せられている事である︒只﹁此の語を最も広く解釈して﹂なる文一一一一口が附加せられてい︑る︒
若し所得に伏クて充足せらる
L所の﹁需要﹂の内に︑泊費者の家計に於て使用せらる
L所のものが這入るのみたら
やノ︑大企業者の
t ‑
フス
Tを創設しようとする需要︑競争者主排除しようとする需要︑全国の資本を自己に牧め工う とする需要等が這入るものとすれば︑所得なる概念は本質を夫う事となるであろう︒所得の本質は︑経済循環中の特
色ある一場面︑換言すれば︑経済の生産極より泊費︑極に動く所の賀川悦の流れの内の一段階を︑表示グるに在る︒所得
なる
一品
開は
l従って︑家計と︑家計の窮乏たる見地の上に置かるふ場合にのみ生執る所の牧符の事態一ど表示するもので
あクて︑所得怠る事実を︑泊費の分野に迄拡大して掲げようとし︑叉或は企業活動則ち資本蓄積の目標を所得と云う
事実の中に混入せしめる事は︑凡ての場合に於て区別せらる可きものを拭治せしめるものであって︑無意義で〆ある︒
プ一フイデレルは﹁所得が家計に従属する範的である事は︑ラγ
ベの定義に於ても︑明捨に表現せられている﹂
会ご
巳号
EH wg O5 23 Z5
5仏
gF zt zo rち に の ] H 2
同2ZS♂
E 3
ロ5N
P E
ペE Z
・ 同 ‑
H w h ‑ z p ω
・色町)と云クているけれ共︑ラ
ジベの見解は︑プ一ブイデレルの解釈しているが如きものではない口何となれば︑ラγ
ベは︑﹁個ムの資本形成と治安
の唯一の源泉は︑経済主体の所符である﹂
( H S H F M E B
己 戸 市 O H H
・・・O ppc
・ ‑ ∞ ・
MMH)と一式い︑そして法人の金利潤は︑
(とれは最日て資本以外のものではたい)︑配当せらるLと︑経営内に予備金として残るとは︑之を問わやノ︑﹁自然人
の所得の一部として課税する事﹂︑従クて之を擬制的に所得とする事を︑主張しているのである︒ラジベは浜本と所得
の概念を︑正しくは把握して居らデ︑換言すれば︑経済の精神に矛盾して把握しているか
b i
役の単一所得税の観念 は︑当を得て居たいD若しラγ︒への如く︑所得の概念を誤解する時は︑現実を全く認識し怠いものと評せざるを得な
い︒此の故に︑彼に従えば︑国家牧入の最大の財源の一が拭治せらるふ事と怠るのみならやノ︑彼は大たる所符を免税
J7 4'
ルケンの資本課税論と其の批判
^
経 営 と 経 済
^ 四
すべしとの一方的なる要請をなすに至クたのである︒
(F 33
・35
︑ 口 戸 内
耳 目
ow
n‑
"
・0・w
∞ ・
MMO町内・)乍然︑役は︑此の
要請に困って所得税を謂わぼ倒壊せしめたものに等しい︒何となれば斯る仮定の下に於ける所得税は︑決して国家経
費左支弁するに充分では注いと一式う事は︑数字上︑明白であるからであるロ浜本左︑租税上︑保護する事︑殊に犬たる個
人所得の型に於て︑資本を保護する事が如何に大たる誤謬であるかは︑以下の考察に於て︑解明するつもりである︒
此の解明に這入る前に︑資本形成に就て︑少しく説明な加えて置き度いと思う︒
(2)
若し国民経済的過程に於て︑増加し旦選別せられたる浜本的貸幣が︑直ち忙個人所得の方式に移劫するとすれば︑
貯蓄過程は大なる重要性を有するロ何と︑なれば貯答過程は所得になクた資本が︑再び社会のものとたる過程であるか︐
らである︒若し前述の資本成立の原因を容認するとすれば︑次八木は貯苔K悶クて︑始めて形成せられるのではなくし
て︑共れ以前に既K形成せられているのであクて︑日灯苔を通じて︑再び所得より区別せられるのであると一式う事が出
来る︒此の過程は資本形成
ll
所得
li
貯蓄︑怒る三クの段階を通じて生起し︑所得となって治茨したるや(木は︑貯替に国クて︑再び明確なる型左取クて現われる︒利子と利潤とを犯って絶えや資本に飢えたる資本主義の時代に於て︑
常に貯蓄が呉励せられ︑貯蓄が最上の国民道徳と考えられ来クた事は︑此の故に理解し得る事である︒国民経済の見一
地よりして︑自己目的としての貯蓄心の生成は︑資本形成を個人の行うものと考える社会的誤謬を訂疋するものとも
一疋い得るのである︒貯苔の問題は︑可なり複雑なものである︒故に前述の資本の成立が誤解せられぬように︑そして
本来の資本現象が︑これと類似する現象と対比して︑工り明白となるどうに︑次に若干の解明をして泣くロ
若し生産の進歩は直ちに其の進歩化相応して︑生産物の価格引下を生ぜしめるものであるとすれば︑企業者所得は
絶無となり︑共の代りに治費者の所得は︑相応なる大さに於て貯蓄せられるであろう︒何と‑なれば治費者は商品を低
取に購入する事にたるから︑生活程度を引下げる事無くして︑実際上︑此の程度に於て︑貯蓄を一行い符る筈だからで
ある︒然る時は︑此の方法に伏クて︑資本形成は出現する︒新る方法K
依る鈴木形成も亦︑前述の企業者の行う安本
の奪取と全く同様に︑反社会的なものである事は︑多一一一日を要しないであろう︒生活過程は︑前述の起源を有する所の
生此の安直化が︑担当たる期間を経たる後︑国民経済に於ける物価の引下を賢らす事を︑欲求しているのであり︑これは実際に於ても亦︑生起している辛実である︒生産の進歩は永久に資本形成の根源たり符るものではなく︑只若干
の期間︑其の根源とゑる︒此の期間の長さに就ては五日等は此処に論やノる限りではないが︑只此処に注意すべき事は︑
生産安直化の後︑若干期間を経て生宇る所の価格低下は︑泊費者所得の中に於て︑資本を菩積せしめると云う定義を有
するものではなくして︑治費者の生活程度を引上げる場合に於てのみ︑国民経済的烹告訴を有するものである事是であ
る︒資本が企業者所符叉は泊費者所符に這入り込む場合︑其の資本は単に生活程度の引上の為に使用せられ︑共の結 果︑浜本であるとの自覚に於ては処介せられたいのである︒資本を合む所の犬伝る所得を︑租税上︑保護せんとする
主張に反対する租税公正の主張も︑斯る根拠より是認せられ得る︒
弘通の経済学は︑主として貯蓄の見地より︑資本形成を考察する︒所得の牧得者は︑此処に貯警の勧奨を受けた様
¥に感十るのである︒そして此の場合︑貯者の不可避的怠る前提としての利子︑従って所謂資本形成
1 1
此の場合には
全く不適当な表現ではあるがーーに想到する︒ライへナウは︑消費者の貯蓄の心理を可たり詳細に研究じ︑泊費者は
利子の存在せざる場合と雄︑無条件忙貯蓄を行うものである事を明かにしている︒
( C H M・
︿・
同市
山岳
gg Eo F1 E
門g
E2
68
阿古生出
L c s ‑ )
此の場合は︑資本が蓄積せられるのではなくして︑貯蓄者が消費を断念し︑後任に於て泊費を行わ
んとする貯者過程である口例えぽ養老啓一金・生命保険の為に︑叉或は窮乏・病気に対して備えをする為K︑現在忙於
ける治安の断念が必要である︒従って国民経済並に資本市川切に於て︑五口等が前述したる定義とは呉れたる意義のち本
である所の貨幣が出現する︒此の精斡怠る区別は︑実際上犬怠る重要性を有するものたるに拘わちゃノ︑弘通の経済学
は︑之左明かにし℃いない口此の泊費の断念に因る貯蓄が行わる
時は︑其の貯苔行為は︑会く旦(った見地の不に於‑ A
てのみ﹁資本﹂と称せらるべき資本を形成する︒此の種の資本は︑実際に於て︑所得者の創造物としての所符より生
やる資本であクて︑吾等は︑前述の客観的浜本
(Cぷ 伺
WE
ar
‑Z
H)
に対
して
︑之
を主
観的
資本
(日
ロゲ
古内
仲間
︿g円
P 1
2 H
)
と.
呼ぶ︒此の主観的浜本は︑課税に取って問題とはなら扱い︒何とたれば斯の訴の浜本は︑本質的に︑所相刊に外ならな
ず4ルケンの資本棋税論と英の批判人五
経 告 と 経 済
入六
いからである︒経済並に財政に於て生宇る大怠る混乱の原因品︑客観的資本が主観的資本形成の方式に依クて︑換‑一訂
すれば貯蓄に依クて︑形成せられている事に在る︒
(3)
、
、
一前符の形成せらるふのは︑請わば所得の根源たる生定的労働と︑所得の終局的目的たる家計との問に於てどある︒
所得は此の両者の中間に立ち︑そして︑有機的循環の中忙於て︑両者を結び付ける︒然るK︑客観的安本形成の根源
は︑創造的精神の活動の中忙在る︒此処Kは特K︑国家々計が国民経済忙於て形成せらるふ所の次八木に対して︑要求
権を有するや否や在︑問題として取り上げて見変いと思う︒
国民経済に於て形成せらるL所の資本は︑国家の所有となり符るのみならや'︑国家の所有となる可きであるεの見
解がある︒乍然︑所謂純粋経済学の節減内に閉箔
p︑専ら競争経済の視角より︑財政問題を芳察する時は︑斯る見鮮
は︑基礎付けられ得ない︒若し資本は国家の任務遂行に役立つ可きものであるか︑叉如何なる程度に於て役立ク可き
ものであるかを︑知ろうと欲するならば︑全社会的有機休
l!
経済は共の一部を成すーーを洞察し符る安立場を選
択する事が必要である︒然らざれば制限せられたる見地の下に於ては︑論理的であクても︑実践的現実に取クては︑
役に立たないのみならや︑電つろ混誌を惹起する様友一結論に到達するであろう︒
経済は社会の僅かに一部分を占めるものであクて︑経済生活は人間生活の全部ではない︒乍然︑廿世紀K
於て
は︑
経済的利益に対する欲求が人間生活の凡ての全領域を占め︑全文化︑苔国家をも経済生活の附帯物の如き外観を呈し
ており︑そして仮令︑唯物論は勿論誤まクたものであるとは一四え v蕊済の資本主義的現実を描写している︒故に今日︑
経済左社会に於ける其の宜当な︑位置に︑再び引戻す事が必要である︒之常認識する為には︑人間の本性を考えなけれ
ばたらたい︒人間の本性は︑¥経済的需要を有し︑此の経済的需要は社会的需要と名付けらるL所のものとは︑全く兵
/宇クた領域に属するのである︒人聞が家庭を持ち︑社会と国家の桔成員たる事を自料品︑し︑法的秩序を作り上げるのは︑
人間の這入る特別怒る非経済的世界である口社会生活殊に法的秩序は︑人間と自然との問の関係より生やるのではな
くして︑人間と人間との問の関係上り生やるのである︒そして人間が学問や芸術に依クて精神的教義を求め︑或は宗 教的信仰に依って現世の人間的存在を超越する所の絶対的な力に目を向ける場合︑人間は此の﹁社会的﹂存在図以上
に︑引上げられる︒ゲーテのフアウストは︑経済より生れたものでも怠ければ︑政治上り生れたものでもたく︑ゲー
テの人格と︑人格の中に鼓動する所の精神力より生れた精神的産物である︒︐
入閣の存在は︑社・会的現象として構成せらる
場合︑三クの次元に及ぶものである︒人間の存在は党づ︐第一に現世‑ A
に向い︑従クて経済生活を有する︒第二に隣人に向い︑従クて社会生活特に国家を有するe
第三に工り高き超現世的
たる世見に向い︑従クて精神生活を有する︒是等三つの生活領域は︑社会の肢体をほ成し各々夫々の方法忙従って︑
相互に詞和し︑相互に浸透し︑各唱え特色ある方法にて︑肢体たる社会の存立を助けている︒右の三つの自在有する肢
体の枯造のやにて︑経済生活は共の一部として減り込まれているのであるから︑此の肢体工りして︑五日等は︑経済生
活を包括的にのみ研究する事が出来︑そして経済と国家との財政的関係の桔造r関Lて︑実際上︑役r立つ見解に到
達する事が出来る︒
以上の如く︑社会的有機体は︑経済史活・社会生活・精神坐活工り成る肢体でaあクて︑其の一一は行動と苦悩とに困
って︑有機的な社会的法則に従クて他のこっと結び付いている︒斯くして経済﹀一国家乃至社会と精神生活との協同操
作は︑社会的有機体なる形像に肉って特色付けられたるものとたるロ芳し五口比一寸が国家と精神生活に対する経済の依置
を詳細に考察する時は︑例えば資本の成立方法よりして︑次の草花容易に知る一事が出来るであろう︒別ち発明や発見︑
乃至︑人間的仰神の理想に基く所の絶えざる結実阜︑成果無くしては︑人間の経済生活は禽獣の生活水準以上に出でるも
のでは注く︑従クて︑単に程校的木能より営まれ︑全く千篇一律紅︑隠史の友い経過を辿るであろう︒斯る低級た牛'
活に於ては︑資本は存在したいであろうし︑知性の上に芸礎付けられたる次民本主義的経済秩序も亦成立したいである
ち︒凡ての経済的施設︑凡ての経済的進歩は︑人間の精神生話に挟を卸すものである︒精神生活は経済の活動を促し︑
経済を発展せしめ︑従クて経済をして限史的事象の中に於て最も鮮明たものたらしめる︒斯くしで経済は精神生活工り
無肢の岡山蕊を受ける︒経済を正しく号絞応しようと欲する人は︑最大の生産性の要素として︑生産的労働や自然カよりも︑
グィルゲンの資本映税論と其の批判
入 七
経 営 と 経 済
ノ
,
人 Y¥
創造的な人間精神を︑先づ認識しなけれぽならない口此の故に経済は絶えや受ける所のものを︑再び返済したければ 友らない︒換言すれば適当なる方法に依クて︑精神生活に償却を行わねばならない︒経済は決して精神生活が経済主 促進する様な方法に於て︑精神生活を促進し得るものではないけれ共︑乍然︑経済け精神生活を支え︑精神生活の為 に物質的基礎を創造する事が出来る筈である︒経済に依って︑精神生活を活設たものたらしめる所の学校ぞ研究所が
立てられ︑書籍が印刷せられるのである︒
経済は精神生活を財政的に支える手段を有するものであるか?此の問題に対しては︑著しく具体的に︑次の如く
解答し得る︒別ち﹁経済が正しく運営せらる
‑ L時は︑経済は如何なる場合に於ても︑此の手段を有する筈である﹂E︒ 此の手段は︑精神的生産力に国クて生産せられて︑者積せらる
1A
に至りたる資本より与えられる︒生産的労働の成果
を越える所の余剰則ち資本は︑昨日本の呉の創出者たる精神生活に負うものである︒そして精神生活に対する経済の立
場は︑次の様に考える事が出来る︒
ー︑経済生活は精神生活に負う事︑極めて大であるザ何'どなれば経済坐活は︑精神坐活に肉って︑共の隠史的存在
を受取るものだからである︒此の故に︑経済は精神生活を支夫ねばならない︒2︑︑経済上︑精神生活を支えねばならない所の価値は︑客観的資本の型に於て存在する口客観的資本の根源は︑精
神力が生産部面に参加する事に在る口此の故に経済は精神生活を支えねばたら友い︒3
︑経済が資本在︑精神生活の処介する所に任せる事は︑最も生産的であり︑経済に取クてより以上生産的なる資
本投下方法は存しない︒乙れは︑利子を得る為の貸附︑叉'は利刊を得る為の投資の方式に依って︑生起し得るも
のではなく︑アメリカの経済生活に於て︑弘く行わる
tA様汝贈与や寄附行為に依クて︑生起し得るものである︒
経演は無償にて︑精神生活を支える可きである︒
以上三クの命題の内︑最後の命題に対しては︑二つの限定を加える必要がある︒一は.精神生活が実際に於て必要と
する以上の資本を︑精神生活に与う可きではないと云う事︑二は︑若し余りに英犬なる寄附行為に依クて︑過大なる
︐物質的手段が与えられ︑精神生括が余りにも飽満となる時は︑院本は却って精神生活其ものを段損するに至る事︑是
である︒芳し精神生活の功を過大評価して︑凡ての資本を精神生活に供する時は︑精神生活は却クて破壊せらるLで
あろう︒此の事は︑利己心と精神力とが関連している事に就て︑前にも述べたる所である︒
資本主義経済原理に従えば︑国民経済の資本は︑他の投資方法に使用せらるふ前に︑先づ経済共のものに再び投資
せらる主宰に定まクており︑そして此れが︑最上にして最も生産的なる資本使用の方法であると考えられている︒浜
本家の利潤に対する欲求に取クては︑差当クては︑此の教理は正しい様に見える︒(何とたれば︑精神生活の為に提
供せらる可き件(本は︑経済の全体を富裕たらしめ︑経済を全体として促進するものであクて︑各個えの資本提供者ι
相応なる利潤在︑佃唱えの資本提供者に与えるものではたいからである)︒乍然︑斯る教理程︑自由競争の理論の非妥当
性を曝露するものは︑見出されたいであろう︒若し浜本が私有財産としてのみ成立し︑そして私経済的に利益を濁ら
すが如き使用にのみ供せらるふ時は︑より高き見地に取クて︑最も生産的で怠る所の資本使用
!l
l最も生産的である
と云うのは︑此の資本使用が凡ての経済的進歩の根源であり︑経済的進歩を支えるものであるからーーは成就するもの
ではない︒結神生活の為の充分なる給与は︑資本使用が単に個人的たる利子上の利訴のみより等かれる限りは︑与え
られ得たい︒利子上の利益の追求は︑経済が凡ての院本を︑自己中心に保有し︑経済的目標の為にのみ︑収利的に使
用するの結呆を生ぜしめる口資本使用に於ける斯る不秩序の結来︑浜本に依る慢性的︑営義過多が生じ︑投松戸︑過剰とな
り︑恐慌が到ちされる︒恐慌を解明する凡ての理論の内︑資本過剰の理論は最も深い根拠を有する︒
通常解明せらるふ様た資本の処理方法︑則ち利子と利潤の利誌に従う所の資本の管理は︑弘通の経済学の構想する
様に︑経済生活が社会生活や桁神生活とは別個に︑全く拡立的に営まれる場合に於てのみ︑正当である口乍然︑上り広
き見地よりすれば︑九ての経済的生産性の京も強き源泉は︑経済の外に存するのであって︑此の故に︑経済は余りに
多くを生産しクtAあるのであクて︑経済が精神生活に対して︑佃似の相応たる部分を摂供じたい様た事
1!
とれは資
本主義時代の一特色をなすのであるーーがあれば︑余りに多くの資本が経済生活の中に存する事とたり︑乙れが直ち
に所謂景気を刺戟するけれ共︑総て法則的に︑経済生活の按誌が溺らεれ︑此の為に性本は︑当然︑破壊せられるで
あろう.
グ41wケンの資本
mM一
川沿
とサ
⁝ハ
の批
判
人 九
経 営 と 経 済
九O
利子と利潤の見地の下に行わるふ所の︑取日本主義時代の資本処理の方法は︑精神生活に対して何等の給与をも行わ
ないのであるから︑共の聞に国家が這入クて︑精神生活の為に財政的な責任を負わねばたちたい草地引を生やる︒別ち
国家は︑各種の教育持設を設け︑叉尚一J者に研究開試を供し︑研究所を設備するのである町
(4)
以上︑苦等は可怒り詳細に経済坐活と精神坐活との関係な説明
' u k
円他方に於て︑経済と図表との関係恥亦︑多く
の点に於て反省を必要とするものがある口此処に先づ社会生活乃玄関家生活の︑経済に対して有する六︐記長問問とし¥
て見ょう︒之を精細に検討する時は︑国家より出る所の力官︑経済の生産的括劾を促すものではなくし声︑精神生活 工り放射する所の新なる刺戟を供するものである事が諒解せられるであろう︒軍ろ国家自らが︑一般的友る精神文化
工り形成せられ︑此の精神文化を通じて︑歴史的発展の中に詮かれるのである︒乍然︑此の事免研究する事は︑本一相
の領域外である︒社会坐活の一種たる国家盆活工りして経済の中に這入り込む力は︑常に其の稲類に於て唯一つある
のみである︒臼く︑﹁社会的な力﹂
(3
mo
NE
HO
HK
山内
Zt
)
目だである︒此の社会的な力の中には︑﹁公恭一は私誌に侭一先す
る﹂との道徳が内在し︑経済は此のカな九ゆる場所に於て用いるのであクて︑此のカたくしては︑怒済は社会的汎引
を溺らすのみなら子︑経済自らの目標に達し得ざるに至るのである︒得一本主義的企業は凡ての社会的友るカ左労働関
係より排除し︑絶えや之を遠ざける事に閃って︑労働者の問にマルクシズムと一式う社会的不幸を作り出し︑所得形成
の問題を費用の問題に迄引下げ︑過少たる所得を形成せしめ︑﹁生産過剰ーーー治安︑過少﹂たる概念に伏って捺語的に
表現せられている特殊の恐慌現象を出現せしめるに至るのである︒
経済盆話は凡ての場合に於て︑労働に依クて完成するものであクて︑労働が経済生活に一一込入り来る場合︑社会問題
が直ちに生起する︒そして凡ての経済的労働が最高の生産性に到達せんが為には︑組合的危組識を必要とし︑乙れが為
に︑経営の倒の見地よりすれば︑直接的には牧利的で注い事が生起する訳である︒従て此の領域に於ては︑国家の援 助なくしては︑充介なものは何弘達成せられ得るものではない︒故に国民の労働を規正する為の法律が会布せらる
t λ
場合︑それは経済問題に対する国家の是認し難き介入であると見るべきものではたくして︑経済生活を社会的に形成 する為の己むを得たい規正であると見る可きである︒国家は経済生活を社会的に形成する最高の権能を有するもので
ある
経済生話に対する国家の介入に取汐て︑同じ程度に重要なる八ザ野は︑所得八万配と呼ばるL ︒
所の令野である︒資本主
義ω
時代に於ては︑所得の形成は︑殆んど全く︑市場法則に委ねられ︑此の為に︑所得の形成は必ヂしも公正の原則 に合致するものに非ざるのみ友らや︑労働する人えの人格を商品化せしめた︒此処に社会的事物
r対する国家の介入 なくしては解決し待ない社会問題が棋たはるのである︒労働に対して貨幣的た対価を受取る事は︑先づ第一に経済的 た問題ではあるが︑伊然︑利益が所得として︑公正たる方法にて分配せられるように配慮し︑そして此の所得分配の
為に準則な造り上げ︑之を保護する事は︑社会的乃至国家的な問題である口此の点に就ては︑角後に述べる︒
山中に労働過程と所得分間のみが︑社会的な力を必要とするものではない︒経済在全体として見る時は︑そして凡て
の労働の相関也元民祢
ω役割を研究する時は)此の場合に於ても
li
貨幣の制度や発行等を想起せよ
li
︑経済が広
汎に個人の利己より取上げられて︑社会的な原則に従クて制約せられねばならない事が諒併せられ得る口凡ての過程 や凡ての必買に於て︑関家は法律・命令を通じて︑経済に関与し経済を保護している︒経済概念比同時に法律概念と して存荘するものであクて︑買主と売主とは法体的には債務者と債権者であり︑経済的には交投の行為者である口且 はえ︑世見訟済に迄払大する所の国民経済が︑国家の保護と同際法的制約なくしては︑安全たり得るものではない事
に考え及ぶ時は︑社会的な力を通じて経済生話を生起せしめる一品が︑如何に重要であるかを知り得るであろう︒経済
に対する国家の介入を許容する所の斯る力たくしては︑経済は元気な呼吸をたし待ない所の単なる肉体︑又は一の絞
械に等しい︒
同八訟の江比一併に対して及ぼす所の作用に関する以上の鮮明に依クて︑此の作用は創造的た粕神力より出る所の作用と
は具なる杭郊のものである哀が明かとなるであろう︒創・造的精神力は労倒過程と流通過程を形成する為の理念を供す
るものであるが︑ね神的刺戟や創造的理念は︑社会生話を形成する為にも亦︑必要なものである口経済的現実も社ム科
ザイルケンの資本課税論と其の批判
九
経 蛍 と 経 済
九
的現実も︑共に精神に依クて形成せられる︒只精神の形成する所のものが︑両ずの場合︑根本的に具たるのみであるQ
社会生活に這入り来る所の精神は︑人間的・社会的な力の啓発者として作用するものであって︑斯く精神的に形成せ
らるL所の社会的なカは︑特に国家を通じて︑経済生活に一一混入り込むのである︒社会的な力が経済生活に這入り込む
のは︑国より資本を形成する為にではなく︑換一一目すれば︑本来経済的なる八万野を形成する為にではなく︑人と人との
正しい関係︑別ち人間性の真価在︑経済に於て実現する為である︒経済に対する同家の真の使命は︑経済r
於て
︑
λ
問の生存を保障し︑(例えば婦女子が迫害せられぬ工うに))そして良き労働条件と社会的平和とを作り出す主うに
努力するに在る︒社会的な力は︑人間の中に具体化せられたる経済的生産力の存続を保障するに役立クものであク
て︑精神的な刺戟又は生産的労働の様に︑本来的た経済価値を作り出し得るものではない︒
以上論デる所工りして︑国家の任務遂行に必要なる費用を支弁する事に関してu次の事が結論として云える︒則ち︑
国家は国民経済に於ける財政力に訴えようとす石場合︑性本のみなら示︑又同様に所得をも一史話しなければたらない︑と︒♂浜本と所得とは︑従クて︑国家需要充見の為の正しい源泉である︒乍然︑此処に次の問題が提起せられる︒日く
﹁国家の必要とする大さに於て︑資本価値と所得価杭とが経済に存在するか?そして資本侃他と所得価依とは︑精神
生活の作り出したる大さ丈︑精神生活に対しで与えられたか7﹂の問題是である︒此ω
問題は一の比喰に依って︑僻
答する事が出来る口若し﹁国家の必要とする所の佃佑は︑国家が明白に︑そして直接に︑生起せしめたものではない
から︑国民経済の中には存しない﹄
ik
云う人があるとすれば︑共の人は︑労働に伏クて︑自己のみなら十一誌や子供を
扶養しクLある一家の戸主に対して︑恐らく次の様に云うに等しいであろう口則ち﹁安や子供は戸主に協力して労働
したものではなく︑単に快適なる家庭生活を供したのであるから︑戸主は妻や子供を扶養し符友い﹂と︒一古等は此処
に生存と有機的生活との法則を︑明かにする事が出来る1
共の法則に日く﹁各機関は︑他の税関をも扶恭し得る場合
陀於て︑自己を扶養する力を獲得するに止まらやノ︑斯くする事に依クてのみ︑生存の権能が与えられ︑生存し得るも
のである﹂と︒自己のみを扶養する者は死滅し︑自己の力を犠牲にして他人の生存を促進する者のみが︑活淡に︑そし
て強く︑活動する事が出来る口此の事実は︑戸主の義務に関し︑そして経済生活に閃る同家需要一の充足に関し︑立脚
力J
.時
、
経 営 と 経 済
九四
る資本使用を是認する弘通の経済学の教理とは︑若しく対立的たものである︒ーは等の見解は要するに︑経済に於て形
成せられたる客観的資本の再投資は︑資本使用方法として不生産的たる方式であると云ろに在る︒之を理解したる人
は︑資本の管理は個人所得の使用を支配する所の利己的関心に従って行はる可きでは泣いと一式う事も亦︑理解し符る
仕一円円である︒此の事は︑次の様な財政学的な主要な問題に導く︒別ち件(本が個人所得として生起しない場合︑そして資
本が直接的又は間接的な所得税に依って徴牧し得られ友い場合︑如何たる方法に依って︑浜本は同家経費の支弁の為
に引入れられ符るやの問題是であるロ
(5)
財政学は︑久しく資本課税の問題と戦い来った︒﹂フγ︒へフリヅケ︑プライヂレルの前掲論文も亦︑此の問題に触れ
ている︒此の問題に関して特に大なる困難は︑件目配せられなわ企業者利潤︑従って個人の所得形︒戒とならない所の︑
株式会社の浜本形成に於て見られる︒一アγ
ベは︑前述の如く︑所得税の万能を主張し︑経済は企業者利潤の全部在所
得たらしめなかクたにも拘わらやノ︑伎は命︑所得税の将力的なる功呆を述べるに醇践したかった口別ち彼は配当ぜら
れない利潤を単に株主の所得として探制し︑之を課税する事を主張した
Dブリヅグと.フライヂレルの批判的論文に於
ては︑資本が企業者所得として現われると一式う事の為に︑資本課税の困難が伺われる︒特にプライヂレルに於ては︑
. ︐
所得と資本とが如何に具たるかは月明瞭に説かれてゐり
(3
02
22
pp
・c・‑∞・おご︑企業者に於げる所得形成が︑径営 の成果とは別個に︑行われる事を注目している︒企業者は︑一年の問に︑貸借対照表に於ては損夫を生じていて︑然 かも此の期間中︑裕福に坐話オる事がある︒彼は損失の生じたる年度に於ても向︑自己の経営上り所得を得る︒経営 が利潤なる見地よりすれば︑価値を供しない場合と殿︑企業者は所得の標識である所の自己の家計の為に︑経営工
‑ P
価伎を取ムげるのである︒乙れは所得形成の論理より是認せられ得る事である︒乍然︑若し大怒る利潤の生・ずる年皮
に於ても︑単に家計の需要なる見地の下に企業者所得どしての所得のみを牧得し︑性一本額を企業者所得に這入らしめ
友いとすれば︑所得形成の論理は更に徹底するであろう口経営に於て活動する所の企業者・使用人・労働者は︑所得