可きではない﹂︹
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との主張は︑﹁経済の過去と現在に対して注意左払うのみたらや︑
経済的本質の内部に認識を導く様な洞察︑そして経済の理想よりして将来必要であり︑将来を形成する力として経済
に於て活動し︑経済の過去と現在の状態を変化変支せしめ得る様︑な洞察﹂
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3
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∞凶)より引出されたる結論であるが︑斯る見解は飽く迄もナチス的怒るものである︒(註)
註︑
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ルケ
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乍然︑更に立入クて考えるに︑経済の進歩を涜らし︑次氏本を生︑ぜしめる力を有する所の経済余剰は︑個人的なる貯
苦に図って再生昆的怒る施設を可能ならじめる為の個人所得たるべきではないとの主張は︑ナチス的支思にさえも合
致し得︑ないのではないかの疑問が生やる︒ヴィルケγも一式うが如く︑国家は﹁利拾を公正なる方法で︑所得として分
間する﹂と一氏う﹁社会的又は商家的任務﹂(づと
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を有するのせあって︑国家自ら経済を行
う事色欲するものでは伝く︑一定の限界と条件の下に︑私企業者の創意に余地を与えんとするものである︒
(3)
此処に次の問題を提供しなければならない︒別ち資本化せられ得る企業の余剰︑
は︑何故に所得となってはならないかの問題是である︒
所得とは︑現在の経済よりして︑自己の物的供給施設に依る単なる再生産を越えて獲得せられ︑市場に於て実現し︑省
自己の需要充足の為に使用せらる
L所の投入を一式う︒此の限定は資本主義的な充当に導かるtA所の凡ての貨幣牧設や
商品を包合する︒ヴィルヶγは︑企業者は﹁長年月に一且つて其の貸借対照表にて損失を表明じ︑然かも良︿生活し﹂得
るものであり︑﹁企業者は損犬年度に於ても︑自己の経営上り所得を収得する﹂(司王
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去一民クているが︑新る見解は全く誤認である︒何人も損失を生じたる経営工り所得を収得するものではたい︒利益な 別ちヴィルケγ
の所謂客観的資本
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会﹂市川には︑所得は生じたい︒元も企業者は借金をして生活する事が出来山特に恐慌時に於ては借金をたすであろうけ
れ共︑只倍金左往す場合は︑底火︑其の企業の漸次的崩壊を生ぜしめる事を覚悟しなければならない︒此の場合︑消'
費的目的の為の貸幣量は増加するけれ共︑如何怒る意義に於ても之在所得と呼ぶ事は不可解である︒
右の所得概念に包含せらるふ所の﹁客観的資本﹂が︑所得に成る事に図クて︑私的処分に委ねられる時は︑ヴィル
ケγの見鮮に従えば︑必然的に資本の誤専が溜らされる︒英の理屈とする所は︑﹁今日︑私的利益に関する原始的論
理は︑国民経済に伏クて形成せらるL資本の運命を︑殆んど会︿決定し︑そして此の故に︑利子と利潤を得んとする
日総立以て︑資本を
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に経済的使用にのみ過剰に投下する﹂(当日
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と云うに在る︒乍然︑
凡そ原価計算なくしては︑経済秩序は容し得ない︒生産せらるL生産手段や︑販売せらるふ共他の商品の為には価格
が成立し︑企山謀者利潤が残高として成立する場合に於てのみ︑市場経済的組織は英の任務を呆たし得るのである︒斯
る前提の下に於てのみ︑価格関係の綱は巧妙に結ぼれるものである︒消費者の意思に依クて︑売買の行われる機会が
生じ︑此
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売買の機会は︑最も合理的に活効する所の企業者なして経済情勢に適合したる価格を決定せしめる事に丙.クて︑伯仲怜の変動に影響を与える︒価格の変動に伴クて変化する所の牧溢性に対する見込みが︑企業者の行動左決定
するのであクて︑企業者は生産手段と生産力とを検討し︑資本主投下すべきか否かを判断するのである︒此処に再び
所作形成従クて需要が影響左受ける︒最も有能なる令一業者と雄︑此の解明と異たる行勃をなし得るものではたい︒謂
う所の客観的資本が所得'となクている為に︑常に過剰に投下せられるとは云い得ないであろう︒
(4) .より霊安次事は︑個人的な資本処理よりして︑﹁経済が資本に依る栄養過多﹂
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生やるとの非雑である︒ア般的なる資本過剰は︑生産過剰を結果する︒乍然︑世界経済的に見るも︑叉国民経済的に
見るも︑役作一巡剰は部分的に現われるものであって︑そして共の原図は︑一は企業者の過犬︑こは無分別なる信用創
出政策に点る︒此のニクの根源は︑市場経済の向上別ち金融政策・より良さ判断力等K依クて克服せらる可きもので
グィルケンの資本線税論と英の批判
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九ての有効なる資本投下が商品供給量を増加せしめる事は明瞭である︒同様に信用創出が巧妙に行われ・干して﹁貨 ︒
幣の被援﹂が経済発達に適合したい時は︑ヂフν1yヨγ類畝の恐慌現象を生子バき事も明瞭で老る︒ヴィルグγ
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ぃ低八木主義的企業は﹂﹁余りにも少き所得左形成し﹂︑従クて﹁消費過少﹂を成立せしめる事を述べている︒(JJ
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町 田 口
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︒此処に彼は明かに内的矛盾に陥入クている︒何と友れぼ性本主義経済に対する不満の点とし
て︑過大なる所得形成と過少友る所得形成とを同時に掲げる事にたるからである︒﹁凡ての社会的な力が労働関係主
り﹂﹁排除せられている﹂との理由主り︑金経済に於て過少なる所得が成立すると断一一一一目する事は出来ない︒
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ヴィ
ルケ
γは社会的有機体に対して︑具体的なる洞祭をなす事の必要を述べ︑此の洞察は﹁経済坐話・国家生活・
府神生活の種えなる領域内に於て︑専門的にして判断力ある﹂人々の協力に依クて獲得せらる可きであるとたし︑
戸 当 ロ
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・88︑将来の経済指導者に対して︑﹁如何なる方向に現在の資本を使用すべきかに
就き︑現実に合致寸る判断に到達する為に﹂︑﹁共の経験を集め︑之を相互に調整する﹂事を勧めている︒
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︒乍然︑過去に対する主観的なる考察に基礎を置く所の経験知識よりも︑より深き洞察を以
てしなければ︑現在の経済秩序と﹁全く異なれる﹂経済秩序の形成は不可能である筈である︒
右の点は姑く之を措くとしても︑更に生産性の一般的なる尺度は︑如何にして定めるのであるか
7
﹁創造的なる人間精神は﹂﹁経済生活に於て︑蔭に在る生産力である﹂円三日正ロ・︒品目宮
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と云い︑叉﹁資本佃航の
国家への移設は︑資本が精神生活に捧げらるえ場合よりも小である程度の︑そして資本が経済共ものに投下せらる入
場合上りも大である程度の生産性包有する﹂(弓口
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E g z ‑ ω ‑ P C
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・
53
と一式う場合︑生産性の一般的尺度は︑不明裕である︒
右の場合に於て︑先づ第一に注意しなければ散らない事は︑比較し符ないものが比較せられている事︑是である︒
精神生活並に国家用役の為の多くの手段使用は︑共の性質上︑経済的尺度を当絞める事は出来ない口そして叉精神生
活や国家生活に於ける﹁誤訟投資﹂・︑例えば何等かの研究領域に於ける空想的危椅想に対して莫大なる研究費を交付
するが如き︑試は経済生活に於て大たる茸一要性を有する資本使用方法の存するにも拘わらやノ︑間家え計に於て重要怯
たさ資本投下在行うが如き場合の存すお筈である口何が生産的であるかは︑給付を受くる者の如何に依クて判断せら
れ得るものではなく︑給付の結田市如何に依つてのみ判断せられ得るものである口品十究︑何が生産的なりやを明昔一目する
事位︑勿論不可能であクて︑旬ろ所与の選択可能性に於て︑何が比較的に最も生向的たりやが明かに決定せられねば
注らない︒之を決定する為には︑正硲たる基準を必要とするのであるが︑MVィルグシは此の根本問題に就き︑方策立
供する事を断念し︑﹁経験﹂に凡てを託している口市場経済に於て︑人格低いき多くの人えが貨幣を獲得し符る事は︑事実である日乍然︑他方に於て︑企業者の市場経
済に対する給付無くしては︑永続的たる成果が達し得られない事も亦確かである︒正に此の故に︑大なる利潤を収得
し得る企業者除︑然らざる以企業者よりも︑﹁客観的﹂に形成せらるふ資本の広汎なる処理在︑より良く行い得るので
ある
経済生話と精神生括とは全く区分せらる可き領故に尻オるものであるに拘わら子︑ずィルケンに於ては︑特設なる ︒
結合と混沿とが見られる︒﹁資本使用が殆んE全く個人の利子上の利益のみ上り派生せられる限りに於て︑精神生活
への克介︑なる給与は::・可能ではない﹂つA・4
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・O・噂切・ミ)との命題は現実に合致したい︒﹁資本主
義時代に於ても﹂︑資本の管理は︑﹁利子と利潤の見地の下に於て﹂つご
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ものではない︒ヴィルケンすら︑﹁アメリ知の経済生活に於て︑大なる範囲に於て通行山行わる与が如き﹂(弓
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学問的目的の為の寄附一行為を挙げている︒アメ?刀以外の国家に於ても︑精神的目的の為
に︑個人的なる手段が﹁無償にて﹂(づと
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提供せられている専は珍らしき事ではない︒
之を不問に附するとしても︑﹁利子と利潤の利益が結υ卸住括に対して何も供しない﹂と云う事は︑是認し得たい0
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ろ利潤は︑私法済をして︑研究の自由を以て活動する一昨の研究所e突験所の維持に貢献せしめている︒企業者の行う
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