〈研究ノート〉
カンボジア・ラオスを廻って 一仏教文化の視点を通して一※
三友量川頁※※
「生きとし生けるものが 正しい理法(ダルマ)に生かされ やすらかに命をまっとうするこ とができますように」
May all the living beings ful丘ll their lives blissfully, being made to live by the Righteous
Dharmal
はじめに
東南・南アジアには,戦前の植民地時代から戦後の様々な動乱をへて今日をむかえた仏教諸 国がある。すでに本紀要(第28号,2014年)で紹介した,マウリや王朝の時代に初めて仏教が インドから伝えられたスリランカもその一つである1。仏教の故郷インドは釈尊にちなむ遺跡を 多く残し,ベンガル仏教徒や戦後のネオブッディスト,あるいはチベット仏教徒たちはいても,
明確な意味での仏教国ではない。今回,カンボジアとアオスを訪問する機会をえた。共に一党 支配体制をしきながらもテーラヴァーダを奉ずる仏教国である。こうした国々にたいして感謝 と慰霊の気持ちを日本人の一人として筆者は懐いている。戦後のアジアの独立は日本人の払っ た大きな犠牲のうえに実現できたと語ったのは,インドの第2代大統領・哲学者ラーダ・クリ シュナン博士(1888−1975)である。戦争では勝者も敗者も傷つき,亡くなった入々の家族の 悲しみは失せることはない。終戦後70年を経た現在,アジアの国々からのわが国にたいする評 価は周知のように一様ではない。
世界宗教は残念ながら今日に至るまで,仏教も含めて戦争を抑止・回避するための努力に心 血を注いでこなかった。多くの宗教者は時代社会の要請に応えることによってかれらの地位を たもってきた。この点は,明らかに自の姿を振り返って真摯に反省しなければならないだろう。
その反省を踏まえながらも,あらゆる武器を放棄することを今日,世界の人々に真に訴えるこ
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※※Ryojun MITOMO 立正大学社会福祉学部社会福祉学科教授
キーワード:仏教文化普遍思想,カンボジア・ラオス
とが出来るのは仏教国としての日本である。M・ガンディー(1869−1958)が描いた平和実現 のためのまったきアヒンサー(非暴力)に勇気をもって踏み出すことの出来る国が,今日の我 が国ではなかろうか2。
武器はアームスやウイポンとしての兵器だけではない。仏教の三業に含まれる,他者を傷つ けるすべての言動を放棄しなければ,真の世界平和はおとずれない。そのことを今日の世界情 勢が如実に示している。こうした単純な平和思考は現実の社会では通用しないと言われるかも しれない。そうだろうか。巧みな戦術を駆使するよりも,単純な思考による世界平和の実現こ そがこれからの人類社会に望まれるべきではないだろうか。人間もしくは選ばれた共同体や民 族のみが生きることを許された,あるいは生きる価値のある生類ではない。戦争は山川草木を ふくむ生けるものすべてを傷つける。生きるための環境を自らの手で破壊し,人類を滅亡に追 いやろうとしている。地球の美しい自然環境を,これから生まれるであろうもの達に継がせる ために非暴力の理想をたかく掲げ実現に向かわなければならないと切に思うのである。
1980年9月,中国の文化革命後,第1回・日中東洋思想学術交流団が中国を訪問した3。代表 団の組織に先立って,石橋湛山総理秘書以来の室伏等厚師(三島,性行寺)の多年に渡る中国 との交流が活かされた。同年3月,当時の中国商業部の招聰で,北京大学ほかを初めて訪ねる 機会があった。北京大学構内の未習湖に隣接する,竹林の中の接待所で季下林博士(1911−
2001)に面会することができた。その時に北京大学を訪問したのは筆者と高橋法子女史(旧姓・
室伏,現・高橋発英本学副学長夫人)の二人である。帰国後直ちに中村元†専士(1911−1999)
を団長とする代表団が組織されて9月には中国を訪問した。その時の秘書長を筆者がつとめる ことになった。続いて中国からは北京大学の季羨門博士を団長とする訪日代表団をお迎えする 機会があった。文革後の中国の東洋思想,特に戦後の仏教学の現状は研究者の大きな関心事で あった。
中国からの代表団が訪日のおり,滞在中の世話係を任された筆者は,季博士一行を関東・関 西と案内・同行した折りに,借越の感はあったが,日本人の一人としてかつての日本の過ちを 謝罪した。終戦の翌年に生まれた筆者も,戦時中の出来事は,大陸で少年兵として過ごした体 験をもつ男性から,当時の切り抜き写真とともに少年時代に身近に灰聞していた。学問上の交 流であっても,どうしても謝罪せずにはいられなかったのである。「将来にむかってよりよい関 係を築き上げればよいのです。」。中国を代表する東洋学者であり文化人でもある季博士の応え であった。戦前のドイツでインド哲学を修めた季博士は,英語もドイツ語も堪能であった。仏 教学界でも戦後その所在がまったく判らなかった貴重なサンスクリット仏典資料が,北京の民 族文化宮に保存されていることを知ったのは季博士の愛弟子・蒋忠新氏(1942−2002)の案内
によってである。彼と筆者は同年代であった。彼もすでに亡くなった。
「百年河清をまつ(挨)」,当時の北京郊外によくみられた標語である。孔子の時代まで遡れる
『春秋左門伝』にある言葉である。百年単位でものを考える彼らの歳月感に筆者は畏敬の念を感 じた。綿製品などにまだ配給券を利用していた頃の当時の北京大学のキャンパスでは,光源の
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乏しい夜聞に大学の教室を利用して真剣に遅くまで勉学に励む学生たちの姿に逞しい躍進感を 感じていた。外国語として日本語を履修し,学部を終えるころの北京大学の学生たちの語学力 は,当時,案内役の青年が「約2万語」の語彙を習得していると語っていたことによっても想 像できた。
文化革命後まもない北京郊外の仏教寺院を,当時の商業部のつてで観察することができた。
まだ一般には開放されていない寺院には文革の嵐に打ち壊された仏像が無惨に並んでいた。そ うした悲惨な仏像の姿は仏教徒であれば誰でもこころを傷めるはずである。ところが滞在中一 度も,本来は感じるはずの悲しみが筆者のこころには迫ってこなかった。その理由は明らかで ある。イデオロギーによる教育や指導が人々のこころを宗教(精神文化)から引き離してしまっ たのである。宗教的な信仰の対象や,宗教そのものが人々のこころから離れていたのである。
もちろん内的な要因(ヘートゥ)としては宗教の使命を伝える力が弱体化していたこともある だろう。人間をとりまく環境はかれらの熱いおもいに呼応している。おもいを向けられない礼 拝の対象はたんなる偶像でしかない。但し,首都北京とは異なり広大な中国では揚子江以南の 緑と水の豊かな風土には篤い仏教信仰が連綿と受け継がれていることを後に体験した4。
かつての立正短大の時代に,当時の田賀龍彦理事長(短期大学部学長)に招聰されて赴任し た海原保憲先生は,中国の古典や東洋思想に通じていた。終戦を迎えた時に,中国からの引き 上げに際して,現地の中国人たちが別れを惜しんで彼の小隊を安全な場所まで見送ってくれた と語っていた。現地の人々に農業や生活指導をもっぱら行っていたという。現地の人々に愛さ れていた兵隊たちもいる。海原先生は椰楡する声を一蹴するほどの風格をそなえた中国の理解 者の一人であった。
風土自然環境はそこに暮らす人々のおもいや願いに呼応している。画家・堀文子氏(1918〜)
が言うように現風景はその国の民族の思想が造り上げたものである。今日では日本の何処にで も小鳥のさえずりが聞こえる。都心でもわずかな緑があれば必ず小鳥が飛来してくる。今回の カンボジアの旅で気づいた。数日問のシェムリアップの滞在中,小鳥のさえずりを耳にするこ とが無かった。こころよく同行してくれた畏兄・三友健容博士がつぶやいているのを聞いて気 づいた。滞在先のホテル周辺のみならず,アンコールワットほかの世界遺産を巡ってもそれは 同じであった。かつての民主カンボジアいわゆるポル・ポト時代(1970年代)は,ガンボジア の人々には暗黒時代であった。
人口の9割をしめるクメール人たちの宗教は伝統的な上座仏教(テーラヴァーダ)である。
当時の政権をにぎったクメール・ルージュの行った残虐な行為は国土も国民にも深い傷痕をつ
けた5。国民の三分の一ともいわれる人々が虐殺された。誤った史観による破壊と暴力は生類の
世界をすべて傷つけ,道徳的行為主体となるべき人間の生存まで危うくしてしまう。通訳にあ
たった現地の純朴な若い女性に,こころからの笑顔をかいま見たのは,来月に結婚をすると語っ
た時である。傷痕はいまだ癒えていないように感じた。隣国との相違はラオスのルアンパバー
ンに入って感じた。ラオスでは犬も猫も町では小鳥を飼う人も,早朝の僧侶の托鉢を待って信
徒だちがこぞって路上で施食をする姿も,何の違和感もなく風土に溶け込んでいた。
世界遺産センター(The World Heritage Centre)はパリのユネスコ本部にある。カンボジア もラオスも,隣国ヴェトナムもフランスの植民地時代を経験している。世界遺産に登録されて いる街や建造物にはかつての植民地への郷愁があり,それが彼らを訪問させるのかもしれない。
かつて訪問したヴェトナムで,一行の世話をしてくれた青年が笑って語っていた。「中国千年,
フランス百年,アメリカたったの二十年です」と。ヴェトナムはもともと漢字文化圏内に属す る大乗仏教国である6。彼のことばがアジアの人々の不屈の強さをよく示している。かつての宗 主国にたいする評価は,現在では観光に携わるかれら通訳諸氏に尋ねると良い。ヴェトナムで
もラオスでもアメリカ人の評価は高い。「アメリカ人は明るく,チップをはずむ」という単純な 理由もある。こうしたアジアの国々は旅行の際にチップ(心付け)を払う習慣が概ねない。余 談となるがその点,インドの都会で「わたしどものサーヴィスはこれ位のものですか?」とあ からさまにチップの額に不満を言われたことがある。こちらは滞在も長く現地のインド人のつ
もりでいたのが心得違いであった。
フランス人はかつての植民地の領主としてプライドが高く,近年増えた中国人の団体の評価 はわれわれが今日感じているとおりである。その他,訪問者が多い国々の順に彼らの評価をラ オスで案内をしてくれた青年がわらって話してくれた。何処に行っても世界遺産巡りには我々 と姿形が似た東アジアの人々に出会う。韓国からの観光客をふくめその数は日本人を凌ぐ。海 外に出て,改めて日本人が整然と秩序を重んじる国民であることに気づく。おそらく我々にた いする外国からの評価もそうしたところにあるのだろう。以下には滞在の日をおって手帳に記 したものの幾つかを専任奉職最後の年の学部『紀要』に留めておきたい。今回もスポットリポー トのように楽しく読んでもらい,仏教文化と福祉に関心を懐いてもらうことを主旨としている。
☆平成28年2月26日(金)成田〜ハノイ〜シェリムアップへ。
成田空港10:00発・ヴェトナム航空(VN>0311便に搭乗するために定刻の2時間前(朝8 時)の集合となると,かろうじて羽田空港からのリムジンバスの始発(06:25)が問に合うこ
とを事前に調べておいた。実習先訪問でも,大田区の小庵から朝早の時間帯に千葉・市原方面 に行くのにはリムジンバスが便利である。昨年は淑徳大学の千葉キャンパスに学会の所用ぞ行 くこともあって3度ほどバスを利用したが,所要時間や料金だけではなくゆったりした座席の 面でも勧められる。
今回は限られた日程からJTBに手配をお願いした。最低でも2人の申し込みがないと,旅行 が催行できないとのことなので畏兄・三友健容博士に話したところ,こころよく同行してくれ ることになった。中国やネパールを含め,これまでも海外には兄弟二人で出掛けたことが幾度 かある。UCLAには,客員教授として家族と滞在していた兄のもとにインドから訪問した。中 村元博士も好物であったと聞くアップルパイをカフェテリアで注文し,その大きさと量感に驚 いたことも懐かしい思い出である。古稀をむかえる歳になって,兄弟が二人で仲良く旅をする,
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或いはもうそうした機会はないだろうという双方の思いもあった。健容博士は帰国後の3月8 日には記念論集の出版記念祝賀会が東京のホテルで開催されることになっている。幼年時代か ら,兄は面倒をよくみてくれた。努力家の兄は何事にも興味関心をいだき,関心を寄せたもの はかならず修得し目的をなし遂げる。それを近くで筆者や妹が尊敬の念をもって感じていた。
畏兄の研究成果は大著『アビダルマ・ディーパの研究』となって出版された7。
成田空港での搭乗受けつけを済まし,傍らにいたヴェトナム航空の職員とおぼしき女性に聞 くと両替は5$と!$がよいとのアドヴァイスがあった。旅行手引き書にも小額のドルが使い やすいと記されている。カンボジア・ラオス滞在中はその通りであった。途中ハノイのノイバ イ空港でトランジットがある。現地時間は東京とは一2時間。14:10にハノイ着。ノイバイ空 港からは15:30発のVN9837便でシェリムアップに向かう。
トランジットの間にも,中国や韓国からの団体が多いことに気づく。上座仏教の僧侶の一団 が待合ロビーにいた。信徒とおぼしき人たちと買い物をしている光景が東南アジアの仏教国ら しい。ちなみに上座仏教の国タイでは厳格な戒律をまもる出家僧は金銭に触れることはない。
付き添が旅行の際の手助けをしてくれる。若い僧侶がロビーの店舗で新しいiPhoneを手に取っ て眺めている。ハノイの空港からは携帯電話が日本に直接通じた。成田からのVN便とハノイ からラオスに向かうVN便では,すべてにおいて国際線とローカル線の違いがある。
17:10シェムリアップ空港に到着。到着便の時問帯もあって比較的通関もスムーズである。
入国者への問い掛けは特にない。但し,入国証には通関職員が手際よくデスクに備えられた小 型カメラで写真を撮ってヴィザに貼り付けている。これはアンコールワットなどの世界遺産も 訪問する際のパスの発券も同様で,知らぬ問に撮られた写真がIDのようにパスカードに写さ れている。全員が揃うのを待っている韓国からの一団を除いてすべて短時間のうちに通関をお えた。空港出口では現地の若い女性係員が出迎えてくれた。もの静かなカンボジアの二十代の 女性である。我々二人を乗せた日本製の小型ワゴン車は宿泊先のBOREI ANGKOR RESIORT
&SPA(NO.0369, BANTREY CHAS, SLORKRAMMSIEM REAP, CAMBODIA)に向かう。
空港から15分ほどの距離に建つ立派な新しいリゾートホテルである。
部屋は324号室。バスタブとシャワー室が別になる近代的な室内である。利用者のために部屋 にはガウンが備えられている。ホテルのフロント広間中央に,蓮花の浮かぶ水溜まりが設けら れている。蓮花はどれも小さく造花にみえた。しかしそれは翌朝,女性従業員たち数入が手間 隙をかけて,生花のパドマ(赤い睡蓮)の花弁を一つ一つ緩るようにまるめて小さくしたもの であることが判った。伝統的な蓮の生け方なのだろうか。シェムリアップの町は夕闇のなかに 静かに暮れていった。
☆2月27日(土)この日は5:30に昨日と同じ女性ガイド氏の出迎えがある。アンコールワッ ト(大きな寺院の意)の夜明けの晴景の見学である。時差がともなう海外であっても筆者の起 床時間は変わらない。3時前には起きて日課である朝の読経(勤行)と瞑想を部屋で静かにお
こなった。3.11(平成23年)の東日本大震災の日以来,被災して亡くなられた方々・行方不
明の方々の慰霊のための読経は何処にいても朝勤の最後に欠かすことはない。今回のカンボジ ア・ラオスの訪問では,滞在中は現地の方々への慰霊の読経を行うことも目的の一つである。
東日本大震災の時に単身被災地におもむいた。還暦を過ぎた仏教者として応えることが出来る のは,生ある限りの慰霊のための読経供養であることを身に沁みて感じた。世界に誇る日本の 医療で最も欠如しているのが末期の患者のスピリチュアル・ペインにたいすケアーであると僧 籍を持つわが国のある医師が語っていた。そのペインは魂の痛みと訳されている。慰霊の必要 性は改めて述べることもない。東日本大震災を契機に,科学者でもある宗教学者がこのことを 口にするようになった。
前夜バスタブの温水が出ないのも仕方がないと思っていたところ,湯水調整ハンドルの扱い が間違っていたのに気づいたのは翌朝である。早朝入浴を済ませた健溶博士が,お湯がちゃん と出ることを教えてくれた。
アンコールワットは12世紀初めのクメール王朝の時代に建造された。日本では平安時代にあ たり,同じ時代に海を隔てて仏教文化が開花している。アンコールワットの周囲は環濠が取り 囲む。そこでは遺跡建造物が西向きに建てられている。東西の二元方位でみるとインドでは建 物,特に寺院は西を背にして東向きに建てられている。東を表すプールヴァは前方,西を意味 するパスティマは後方の意味がある。朝未だき,海外からの多くの観光客が遺跡背後に昇る日 の出を待っている。遺構内にある蓮池は自然の形で方形ではない。浄土経典に説く西方極楽世 界の蓮池の姿は,今日南アジアに見かける方形の沐浴池に重なっている。振り返ると広い遺構 境内に建つ小さな建造物の周囲にも未明に関わらず観光客がかたまっている。観光コースの定 番となっている日の出の情景は,早朝の暗闇の人込みのなかで旅行者たちにはどのように感じ られたであろうか。朝焼けの雲間に追える遺跡全体に漂う周囲の大気の重たさは,カンボジア の暗い歴史の一場面のように筆者には感じられてしまった。
早朝の散策をおえてホテルに戻ると,ビュッフェスタイルの朝食がまっている。洋食・中華 に混じって特色ある郷土料理も並ぶ。どれも質的レヴェルが高い。ヴェトナムのフォーに似た スープ麺が我々の口にあった。キムチが置かれているのも韓国からの旅行者を配慮したもので ある。特に贔屓することはないが,今回はJTBが仕立てた旅行だと感じさせることが多かっ た。この日の午前は郊外にあるヒンドゥーの神々を祀るパンティアイ・スレイ遺跡とジャヤヴァ ルマン7世が母のために造ったという仏教僧院跡(後にヒンドゥー寺院に改造)タ・プローム を手際よく案内された。
南アジアに多く見られる椿樹が遺跡を包むかのように巨大に成長している。椿樹は仏典に登 場する尼拘丸心(ニヤグローダ,ニグローダ)である。釈尊はこの樹の下でも瞑想を行ってい る8。「椿樹に押しつぶされながらかろうじて寺院の体裁をたもっている」,と旅行解説書には記 されていた。筆者にはそう見えない。「かつて栄えた文化を自然が力強くいだいている。」「文化 をまもり継承しているのは人間だけではないのだ。」強くそう感じた。
パンティアイ・スレイでは地雷で傷ついた人の姿を見かけた。特に物乞いをしている様子は
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ない。タ・プロームでは遺跡に続く参道に,かつて戦後の日本でしばらく見かけた傷疲軍人の 一団のような人々が,通りすぎる外国人を観てそれぞれの国の音楽を即興で奏でていた。僅か な喜捨をしたところ,筆者の姿をみて即座にアリランを奏でてくれた。往路・帰路ともに日本 の音楽が聞こえることはなかった。感謝の気持ちから奏でられた音楽に国の相違はない。わが 国の唱導軍人会が60周年記念式典後に解散されたのは平成25(2013)年である。日本では戦闘 帽・マスク・白衣がかれらのコスチュームであった。戦後しばらくはJR蒲田駅の踏切地下通 路や,池上本門寺のお会式裏手参道に必ず幾人かの姿を見かけた。
ガイド氏が東洋のモナリザと紹介したヒンドゥー寺院遺跡の彫像があった。かすかに微笑み を浮かべる彫像はその場所に限らずどの遺跡でも見られる。自分で確認した彫像の微笑みも新 鮮な発見である。女人に法を説く際に「歯を見せて笑まざれ(若爲女人説法不治歯笑)」とい う。大乗経典『法華経』にも登場する出家ボサツの真面目な姿である。アンコールワットの遺 跡入り口内部の壁面に歯をのぞかせて微笑む女性の彫像が一体ある。マザーテレサの「Let us always meet each other with smile.(いつも笑顔で会いましょう)」ということばがよぎった9。
その国の物価を知るのにガソリンの価格を知ることも役立つ。ガイド氏によれば1Lあたり 1$前後であるという。現在(訪問時)の日本とほぼ同様である。これは筆者が何十年も前に インド留学のおりでも大体日本と同じであった。但し収入は日本と大きく隔たるから決して安 い価格ではない。旅行者や現地の人々がタクシーのように利用する三輪車は,カンボジアでは オートバイが牽いている。タ・プロームで軍人(警察官)がオートバイを木陰に停めていた。
話しかけると,ホンダのファントムと記されたエンプレムを誇らしげに指さしてくれた。訪問 時の2月下旬から3月は観光にもっともよい季節である。日中は30度を超え日差しは強いが朝 方は涼しい。
シェムリアップでは建物の高さが規制されているという。遺跡の1青豆を損なわない配慮であ る。1992年生まれのガイド女史によると,月収はおよそ250$とのこと。国民の80%が農業に従 事していることからもその月収が一般的なものではない。因みにカンボジアの建設現場に働く 女性たちの姿を近刊の写真週刊誌が紹介している〔Newsweek,2016,4,19〕。首都プノンペンで
は建設ブームが続いている事を紹介し,彼ら(彼女ら)に福利厚生も設けられておらず労働者 保護法が適用されるかも怪しいと記事は述べている。
午前の遺跡巡りを済ませて,賑やかな町中の小さなクメール料理店がこの日の昼食の場所で
ある。通りには外国からの若い旅行者たちが大勢行き来する。店内に我々二人だけが座る昼ど
きのレストランに,日本語のガイドブックを手にした一人の若い女性が入ってきた。聞くと関
西に住む若者らしい。両親の心配?を余所に,ヨーロッパや中東,アジアと何処へでも一人で
旅をするという。今回もシェムリアップに住む日本人夫妻が経営するロッジに滞在していると
語った。「何の不安もありません。」と彼女は快活に応えた。海外からの若い人々は,自転車を
駆ったり三輪タクシーに乗って遺跡や町中を自由に散策し滞在を楽しんでいる。しかし海外へ
の一人旅はこれまでの筆者の見聞からしても娘をもつ親としては勧められない。
午後は夕刻のアンコールワットの情景見学とクメール料理を味わいながらの伝統舞踊の鑑賞 が待っている。ホテルまでの道すがら途中のクッキー菓子店で試食とマンゴーシェイクのサー ヴィスがある。マンゴーは日本でも最近よく見かける。インド滞在の折り,上手なマンゴーの 食べ方を現地の友人が教えてくれた。忘れがたい味である。マンゴーはガンボジアではスヴァー イ,ヒンディ一語でアーム(サンスクリット語ではアームラ,パーリ語ではアンバ)という。
ちなみに,有り難うはカンボジアでは「オーブン」,さようならは「リーハル」とガイド氏から 教わった。
3時にホテルから再びアンコールワットの夕刻の情景の見学に向かう。寺院内部に登るため に午後の強い日差しの中で1時間ほど列の後方に並んで待つことになる。待っている人たちの 姿や服装の色にも国柄がうかがえて楽しい。寺院内には大小の仏像(立像・座像)が処々に点 在している。その中の一体は右手を高く挙げた大きな立像である。彫像的にもめずらしい。大 乗経典『法華経』方便品95偶には「一手を挙げて(挙一手,サンスクリット本には「ほんの少 し片手を挙げて」とある)」仏塔を拝しても功徳があることが説かれている。僅かな宗教的行為 も成仏の因になることを述べる。こうした連想が右手を高く挙げた立像になったものか。或い はヨーガ行者のポーズに関連があるものか。寺院内部の壁面にはインドの叙事詩の物語も彫ら れている。閻魔(ヤマ)の裁判・地獄の光景,舌を抜かれる様子,そうした光景に往時の人々 の宗教心をかいま見ることができる。
夕食は日程表にカタカナで標記されたレストラン「ボー・クイジーン」の予約席でクメール 料理(前菜・スープ・メインディッシュには白米が添えられている)をいただく。フランス語 のCusine(キュジーヌ,料理)を店名に採り入れていることがかつてのフランス領を感じさせ る。レストランはほぼ満席。オーストラリアからの一行がいて,初老の男性が我々に親しげに 話しかけてきた。同年配の旅行者には話しかけやすいのだろう。クメール伝統舞踊はポル・ポ ト政権時代に壊滅的な状態となった。わずかに難を逃れた舞踊家によって1989年に復活したと いう。ヒンドゥー文化の影響をうけたクメール舞踊はアプサラの踊りとして知られている。ア プサラ(ス)は仏典に登場する「天女」で,もとは「天上界の水の妖精」のことである。解説 書には,15世紀にアンコール王国が滅ぼされた時に宮廷舞踊団がシャムに連れてこられアユタ ヤ朝の娯楽となったという。インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に伝えられる物語が演目に採り 入れられている。アンコールワットの彫刻にも物語が浮き彫りされている。因みに,初めに述 べた季羨林博士がこの叙事詩『ラーマーヤナ』をサンスクリト・テキストから初めて中国語に 翻訳された。夕食を済ませてからの鑑賞であるが伝統的な舞踊は静かな農耕民族の文化を感じ
させた。演目には荒々しさはなく和やかな雰囲気の舞踊が印象的である。
ホテルに戻ってロビーに隣接する半屋外のテラスでひとときを過ごした。女性歌手と数種の 楽器を独りでこなす男性とのペアーが笑顔で奏でる西洋音楽に耳を傾けながら,現地のビール と想像以上?に美味なショートケーキを楽しんだ(ホテルでは大瓶ビール1本5$,町中で3
$ほど)。夜8時までの演奏という時間帯もあって,この日はインド系夫妻の他は我々の二組だ
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けである。この時期,有り難いことに屋外でも蚊に特に悩まされることはなかった。
☆2月28日(日) 2時起床。朝食を済ませると,この日は午前中アンコールトム(大きな都市 の意)の観光である。南大門,バイヨン寺院四方に巨大な平面を刻む象のテラスほかが名高 い観光スポットになっている。遺跡の壁面に彫られた彫刻にはガンボジアの軍隊に混ざって当 時の傭兵(中国・チャンパ)たちの姿もうかがえる。往時の民衆の日常生活をかいま見ること のできる彫刻は興味深い。何の失態であろうか,亀に腎部を噛まれている男性,女性の出産の 光景,運搬風景など時間があれば眺めて厭きることはない。約2時間,炎天下,急勾配の遺跡
を巡って早足で見学散策するのは多少疲れを感じさせる。ガイドの習熟差にもよるだろうが,
関心をもって期待していたライ王のテラスなどが説明もなく過ぎてしまったことが残念であっ
た。