• 検索結果がありません。

イ ン ド 論 理 学 の 理 解 の た め に

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "イ ン ド 論 理 学 の 理 解 の た め に"

Copied!
178
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

インド論理学の理解のために

ー ダルマキールティ﹃論理学小論﹄︵Z冨吉−ひぎ合︶

中  村

(2)

しがき

インド論理学の研究はむつかしいo絶壁をよじのぽるようなもの

ある︒しばらく試みたあとで休んでいると︑またすべって落ちて

しまう︒わたくしはこういうことを︑今までに何遍もくりかえし

が︑今︑自分なりに理解しようとして︑ともかくまがりなりにも

まとめてみたのが︑この論稿である︒

Z葛︸︑巳︾三︵三の訳であり︑後編は︑ この書の中にある用

を検討したのであるが︑そのほかの方面とも関連をつけて︑

1

インド論理学術語集成になった︒

幅の関係でこの号では︑前編すなわちZ尾sジ竺三︵ごの邦訳だ

けを掲載されることになった︒この書の訳として︑すぐれた邦訳が

すでに幾つか刊行されているが︑今は旧稿にもとついて︑自分なり

をつけて見た︒先人の業績との対比検討は将来にゆずりたい︒

(3)

1

ダルマキールティ﹃論理学小論﹄︵Z吉巻−昆a已︶

吉︐

Y,

は し が き

Z>︑3.︹二︾=三cおよびそれに対するI︶harmott2tKt

疏︵TiklLl︶をl.h. S︐ teherbatsky ︵︸出版︵一由il︶lietl︶eca B=dt﹇hiea

VII︶にしたがって訳出する︒ スートラの番号はそれによる︒ ただ

し参照の便宜を慮ってン言フ.p三製の校訂本におけるスートラの番号

を︹ ︺の中に示しておいた︒またスチェルバツキー本の11云口の悪

ところは︑マルヴァニア本にしたがって訂正しておいた︒

    イント...⑪理学の理解のたいに︵叩杓︶

ーヤ・ビンドゥ﹄については︑すでに内外に立派な訳があ

るので︑ことさらに労する要もないわけではあるが︑自分なりに納

く訳にしたいと思った︒

この翻訳の一つの方針は︑ 一般の国語辞典や哲学辞典に出ている

な語を用いて翻訳したことである︒平易な語で簡単に表現し難

       も  パ

ときには若干の語を複合して用いることにした︒したがって単

当然長くなるので︑1つの語であることを示すためには︑︿ ﹀

印を用いて括ることにした︒このしかたを採ることによって︑イ

ド論理学を構造的にまた普遍的な基盤の上で理解する道を開く

ことになると思う︒

クリットの原語をたびたび挿入したわけは︑研究老の理解

を便ならしめるためである︒たといわたくしの訳語が不適切であっ

たとしても︑研究者は原語をたよりにして趣旨を理解し得るであろ

lつo

      三

(4)

    法華文化研先︵じ旦つ︶

法華文化研究一誌が貴屯な紙面を提供されたことを感謝するが︑

たびたび筆者を督励して稿をまとめさせたのは伊藤瑞叡氏であった

ことを記しておこう︒

この邦訳は︑今から十数年前に︑わたくしが東京大学に在職中に

演習で読んだときのノ−トである︒昨年から自分で少しつつ清書を

が︑とても﹃法華文化研究﹄のこのuゲの期限に間に合いそう

もなかったので︑松本史朗氏にノートの一部を清書してもらって︑

と期限に間に合わせることができた︒同氏の助力に感謝する︒

この邦訳は︑いちおうの翻訳であって︑個々の立論の論理学的あ

るいはインド学的な解釈は他の機会にゆずることにしたoわたくし

自身も今後さらに検討するし︑また諸方面の叱正を受けて︑さらに

を進めたいと願っている︒

      ︵1︶幸あるダル↓︑キールティ師の著した

論﹄

ダルモ:ッタラ師のつくった﹃論理学小論註釈﹄をともなう︒

Hム︒全知者に敬礼したてまつる︒

第一章 知

第一節 この書の主題︵p三三ゴ2・p︶と目的︵三p笥三p二p︶︺

      ︵2︶

1

1 人間の目的はすべて正しい知識に基づいて達成される︒

それ故にその︹知識︺が解明される︒︹一・一︺

 この世の苫難の連続を生ずる原因である世界に打ち克った人︑

貧欲などの敵である幸ある人︵善逝・ブヅダ︶のことばは︑

を次第に稀薄ならしめて︑勝利を得る︒

 ︵P. !.︑.6︶ I人間の目的は︑すべて﹂云々によって︑この綱要書

述の主題の日的が述べられているのである︒そもそも綱要書の

構成内容は二種ある︒すなわち語と意味とである︒このうちで︑︿語﹀

目的は︑語それ自体の言い表わす意味を人に理解させることであ

      はう て︑それ以外には有り得ない︒それ故に語については考究しない

く︒ 一方︑語の言い表わす︿意味﹀の方は︑もしもそれが日的の無

(5)

をいものであるならば︑その場合︑言表わす意味を理解させるため

綴って著作をなすこともまた為さるべきではないであろう︒それ

はあたかも日の牙について考究することは何の日的︵⁝川︶もない

ことであるから︑思慮ある人はそれについての考究をする要かない

と同様である︒︵7一︑︑°O︶それ故に︑著者はこの綱要︑☆か作られ

はならない所以を示して︑この書の主題のU的を述べるのである︒

p. !︐ t. Iこ︶人間の目的は︑すべて正しい知識に基づいて達成される︒

それ故に︑そのことを人々に理解させるために︑この綱要書が作られ

るのである︑というのが︑この場合における︵本文の︶文章の意味なの

でS︿︶︒ ︵p. 2︐ X. 2︶こういうわけで︑ここにおいて︑この書の主題で

ある正しい知識が︑人間の一切の目的を達成する原因であるという

が︑この書の目的であるとして既に説かれた︒そうしてこの趣

るので︵目的と主題との︶適合性と口的と主題とが︑すで

述べられたことになる︒︵二゜2︐ i. 3︶何となれぱ︑すなわち﹁人間の

目的を達成するのに役立つ︿正しい知識﹀が︑この綱要書によって解

明されねばならない﹂と説くならば︑それによって一正しい知識が︑

語を綴った ︵本書︶の主題であり︑正しい知識を解明することが︑

目的であり︑そしてこの編要吉は︑その解明のための手段で

ある﹂ということが説かれたことになるからである︒︵p. 2︐ 1︐ 5︶以      へ3︶

よって︑主題の一部分か﹇的をも述べ表わすことができるので︑

両者の︶適合性〃・和︒も説かれたことになるu Q︐. 2︐ l°6︶しかしながら︑

    イント言理与の刊解のために︵叩゜伺︶

ートラ﹂一・一の︶一文だけで︑適合性と主題と目的を

直接述べることはできない︒そうではなくて︑直接には一つの︵文︶

を語ることによって︑川接的に︵適合性︑主題︑口的の︶三者が︑

意味上語られているのであるJ ︵1︐. 2︐ ︷. 7︶さて前掲の一文の中で︑

その︵ー正しい知識︶Lというのが主題を示す語であり︑﹁解明さ

れる﹂というのが11的を示す語である︒︵この場台︑U的には二種類

ある︶すなわち一つは︑綱要書作製という活動をなす説者︵著者︶

U的であり︑他の一つは︑それを聴聞する側の学習者︵読老︶の

目的であると考えられる︑︵二ぷSO︶そのわけは︑およそ思慮ある

て︑行動の目的を探し求めてから行動するものである︒

あるから︑﹁師がこの綱要書を作η︑たのは何のためであるのか︑ま

習者がそれを学ぶのは何のためであるのか﹂という疑惑が起こ

た場合に︑その日的は﹇解明すること﹂であると説かれるのであ

る︒正しい知識の教示を受ける人々のために︑師は自分を解説者た

らしめようとして︑この書を作ったのである︒また弟子たちは︑師      ︵4︶

述べた解説を︑白分のために理解しようと望んで︑この綱要書

を学習するのである︒それ故に 解明する﹂ということが︑この綱

書を作製し︑また学習することの目的なの−t−Srsa︒ ︵p. 2︐ t. 13︶︵本

文・一の文中には︑主題と日的との︶適合関係を示す語は存在しな

が︑前後関係から︵趣意の上で︶それを補って理解しなければな

らない︒要するに︑正しい知識を解明するためには︑この綱.要書を

      五

(6)

    声ば.芦又化研究︵ヒHlノ︶

作製した思慮ある人は﹁この喰口のみが︵日的を達成するための︶手

あり︑他のものはそうではない﹂ということを示したのである︒

すなわちこの綱要川とその目的との適合関係は︑ ︿手段﹀と︿そ

よって逢成される日的﹀との関係にほかならないo

 ︵P°2︐l°16︶ ︵反対者いわく︺︐Jの.±t:を学習するよりも以前におい

ては︑たとえ主題等が説かれていても︑思慮ある人々は︑ ︵主題な

どを知るための︶認識恨拠がないから︑その主題を把握しないであ

ろう︒しからば︑書物の冒頭で主題などが述べられたとしても︑そ

何の役に立つのであろうか︒

 ︵p. 2︐ i°17︶ ︵答えていわく︺確かに︑そのとおりである︒未だこ

書を学習しないうちには︑︵主題などが︶述べられても︑確認され

ることがない︒そうして︑そこに述べられた主題などは︑それらを確

実に知る認識根拠がないから︑それらに関して疑い︵.咋考究心︶が起

こる︒そしてこの疑いに店ついて研究活動が始まる︒︵P. 2.︑°lつ︶実

また︑利益をもたらすのではないかという疑いは︑思慮ある人々

とって活動を起こさせる手段となり 小利益をもたらすのではな

という疑いは︑活動を停止させる手段となる︒︵二Pべ゜19.︶それ

故に論典の作者白身が先づ最初に︵主題と日的との︶適合閉係など

を述べているのは︑正当なことである︒︵p. 2︐ l. 20︶そもそも物語作

者たちのことばは︑戯れのためのものであるから︑事情は異ってい

ると考えられる︒しかし論典作者たちが洞要書の冒頭に実際とは       六

対の主題などを述べることを11的としているとは︑われわれは認

ることはできないし︑また実際にそのよう六︑ことを11っていると

も思われない︒それ故に︑それら主題などについて疑い︵考究心︶

起こるのは当然である︒︵二〇>B︶しかるにもしも︵主題など

が︶述べられないならば学習者古11ちは︑ この綱要世口の主題は︑ ﹁日

歯をぢ究すること﹂という︵主題と﹀同様に︑無目的︵効果のな

こと︶であると想像するであろう︒或はまた︑ 一タクシ﹄︑力龍王

髪の上にある熱病を癒す宝石でもって飾るべし﹂という教示と

同様に︑ ︵この時の主題は︶実現不可能のものである︒或いはまた︑

その目的は︑母の新たな婚礼儀式の次第を誰かが教示することと同

様に︑望ましくないものである︒或いはまた︑目的︵達成︶のため

に︑この綱要書よりももっと容易な手段があるのではないかとか︑

この綱要書は︵日的達成のための︶手段とはなり得ないのではないか︑

と想像するかもしれない︒三゜3︐l°!︶以上に列挙したような︑刊益

をもたらすものではないという想像のうちの一つでも生じて︵主題

は︶刊益をもたらすものではないと考えた時には︑思慮ある人々は︑

研究の行動を起こさない︒ところが︵今の場合には︶主題竿が語ら

ているのであるから︑ ﹁.利益をもたらさない﹂という考えとは矛

盾している︑ ﹁利益をもたらす﹂という想像が生ずるのである︒そ

してその想像に基づいて︑思慮ある人々は研究活動を起こすのであ

る︒以上に述べた如く︑思慮ある人々に︑研究活動を起こさせる手

(7)

ある﹁利益をもたらすであろうという想像﹂を作りだすために︑

と目的との︶適合関係などが説かれるのである︑ということ

確定したo

〔第二節 正しい知識の定義︑一

 ︵p. 3︐ l. 5︶正しい知識︵エ︹三づ︑︹完言劉;︶とは︑現実の経験と矛盾

しない知識である︒世間の日常生活においても︑かつて以前に示し

てくれた物を︵われわれに︶得させてくれる人が︑ ︿矛盾偽りのな

人﹀と言われる︒知識の場合もこれと同様で︑すでに示された物

を︵われわれに︶得させてくれる知識が︿矛盾偽りのない知識﹀で

あると言われる︒﹁われわれに得させてくれる﹂ということは︑す

された物に向って活動を起こさせるということにほかならず︑

それ以外の何物でもない︒つまり知識は物︵対象︶を生みだして︵わ

われにそれを︶得させるのではなくて︑人を物に向って行動せし

めて︑物︵対象︶を得させるのである︒ラω.︑︒︒︶また行動の対象

を示すということが︑即ち︵人に︶行動を起こさせるということで       ︵5︶もある︒そのわけは︑知識は人間を︵人間の意表に反してまでも︶

強いて行動を起こさせることができないからである︒︵p. 3︐ l. 9︶以

上よりして︑1 Jい認識作用の±SEK ︵prainru﹈a−phala︶は︑物︵対

象︶の理解に他ならない︒そして物︵対象︶が理解された時︑人間

動を促され︑かくして物︵対象︶が得られるのである︒そうい

    インド論理学の理解のために︵中村︶ うわけであるから︑物︵対象︶が理解された後で︑正しい認識の作用︵役割︶は完了するのである︒それ故に︑正しい認識︵三〇∋昌但︶は︑未だ理解されていないものを対象としている︒先づ最初に物︵対象︶が認識作用によって理解されるが︑それと同じ認識作用によっ

行動を促され︑そうして物︵対象︶が得られるのである︒

p. 3︐ L 12︶その同じ物︵対象︶に対して︑余分の他の認識作用はさ

らに何をなし得ようか︒ ︵余分の認識作用を想定する必要はない︒︶

それ故に︑すでに理解されたものを対象としているようなものは︑

しい認識作用ではない︒

 ︵p. 3︐ l°12︶ ︵さて認識の種々なる種類を検討しよう︒さて様々な

象の︶うちで︑現に直接に経験されたものとして知られている対

象は︑直接知覚︵pratyaksa︶によってLPas ︵pravytti︶ Q対象とさ

ているのである︒或る対象に対して直接知覚が直接に働きかける

作用を起し︑その作用がついで思考作用︵vikalpa︶により理解され      ︵6︶た時︑直接知覚はその対象を明示するのである︒それ故に︑現に直

されたものとして知られたものは︑直接知覚によって明示

されたものなのでS QO ︵p. 3︐ l. 15︶ところが推理︵11間接的認識︶

は︑特徴︵証因︶を認めることにもとついて︑ ︵その特徴を所有す

る事物の存在することを︶確知して︑行動の対象を提示するのであ

yto ︵p. 3︐ t°15︶こういうわけであるから︑直接知覚は現に顕現し

あり︑かつ︵時間的空間的に︶定まっている対象を提示する︒

      七

(8)

     法華文化研究︵七号︶

方︑推論は︑特徴︵証因︶と結びついていて︑かつ︵時間的空問

に︶定まっている対象を提示する︒︵︸・° 3︐ l. 16︶ 5たがってこの二

認識方法︶は︑ ︵時間的にも空間的にも︶定まっている対象

を提示するものである︒故に︑この両者は︿正しい認識K法﹀ ︵pra−       へ7︶巳習p︶︳iag?︿︶O ︵l︶. 3︐ t. 17︶この両者の他には︵正しい︶認識力法

存在しない︒ ︵われわれが︶到達することのできる対象を提示す

るものが︑すなわち到達せしめるものであり︑そうして到迂せしめる

ものであるが故に︑正しい認識方法なのである︒上に述べた二つの

しい認識方法以外の知識によって提示される対象のうち︑或るも

       かげろう

く虚偽のもの︵〜TiPal︐.YEIStl︐︶である︒例えば︑陽炎の中にあ

らわれる水のようなものである︒それは実際には存在しないもので

あるから︑︵われわれはそこに︶到達することはできない︒︵7ωへ゜

19また或る︵対象︶は有るとも無いとも定まっていない︒例え

とされている対象である︒ところで︑同時に有と無との両者

に結合している対象は︑世界に存在していない︒したがって︑その

ように︵有と⁝︑無とも定められらいような対象︶には︑ ︵われわれ

は︶到達することができK5 C. O ︵1︐. 3︐ l. 21︶特徴︵証因︶に基づか

なけれごいかなる思考作用も︑ ︵有であるか︑無であるかを︶決定

する素因を認めることなしに活動するのであるから︑そのような思

用によっては︑有るとも無いとも定められない対象のみが提示

されるにすぎない︒その︵ような対象もわれわれの︶到達すること        八

きないもの−−︵i︸tQO ︵p. 3︐ 1. 22︶それ故に︵直接知覚と推理以外

の︶他の知識は︑ ︵われわれが︶到達することができないような全

くの虚偽︵xriparlta︶である対象とか︑右るとも無いとも決定でき

ないような対象を提示するものであるから正しい知識ではない︒

 ︵P.3︐ l. 23︶ ︵対象の︶効果的作用を求める人々はその効果的作

用を可能に至らしめる原因である知識︵jnalla︶を求める︒そうして︑

この︑かれらの求めている︵知識︶こそが︑この論書において考究

されるのである︒こういうわけであるから︑︿正しい知識﹀とは︑効

的作用を可能にする事物︵ぐ︐IS. tU︶を提示するものであるといえる︒

p. 4︐ l°1︶そしてその一︐正しい知識︶によって提示されたものだけ

が︑︵われわれの︶到達できるものである︒︵﹁われわれを対象に︶到達

させること﹂というのは︑対象の理解を本質としているもののこと

ある︒このことは︑すでに述べたところである︒︵︸︐. t・i︐ l. 2︶以上

されたものと異なる事物 ︵vastu︶というのは︑様相︵形相

ttkitl︑a︶を異にしているか︑場所を異にしているか︑時間を異にし

ているかのいずれかである︒何となれば︑事物が︵提示されたもの

と︶異なっているのは︑︵提示されたものと︶矛盾した特性︵^=三三三︶

と結合しているからである︒そしてこの矛后した特性との結合とい

うことは︑場所︑時問︑様相︵形相︶を異にしていることにほかなら

ない︑それ故に︵実際とは︶異った様相︵形相︶を有する事物︵の如

くに︶把捉する認識は︑それとは別の様相︵形相︶を有する︵実際の︶

(9)

事物についての正しい認識ではない︒例えば︑ ︵黄疽︑で眼を害われ とって起こる︶﹁これは黄色の螺日ハである﹂と把捉する認識は︑

実際の︶﹁白い螺貝﹂に対しての︵正しい認識ではない︶また︵実

ある場所とは︶異った場所にあるものとして認識把握するは︑

      ︵8︶ の︶別の場所に存在するものについての正しい認識ではない︒

えば︑鍵穴のところに見える宝石の輝きをみて宝石であると把捉

する知識は︑ ︵実際には︶室内にある宝石についての︵正しい認識

ない︑︶ ︵二吉ぺ゜6︶また︵実際とは︶異なった時間にあるかの

如くに認識把捉するは︑ ︵実際には︶別の時間に存在する事物につ

しい認識ではない︒例えば︑真夜中に︑あたかも真昼に起

きたことであるかの如くに把捉する夢の中の知識は︑ ︵実際には︶

真夜中に起きていることについての正しい認識ではない︒

 ︵1︶. il︐L 8︶ ︵反問︺場所の定まっているもの及び形相︵勢日ρ︶の

定まっているものへ到達すること︵⁝認諒︶は可能であろう︒しか

しながら︑特定の時間における対象を︑その時間におけるものとし      ︵9︶

することは不可能ではないか.︑

えていわく︺そうではない︒ ︵ある対象が︶特定の時間内に

定されている時︑正にその時間において︵その対象に︶到達︵ー

すべきであると︑われわれは主張しているのではない︒何と

なれば︑ ︵対象を︶感覚する時間と ︵対象に︶到達︵認識︶する

時間は︑異っているからである︒むしろ︑ 一定の時同内に限定され

    インド論理学の理解のたUに︵中村︶

る︵対象に︶到達︵認識︶すべきなのである︒そして︵感覚し

た時の対象と到達認識した時の対象とは︶別のものではないと解す

る統覚作川︵ρ︵=プ.mプ.︹享日.乙にもとついているのであるから︑ ︵異

なった諸瞬間を通じて存在する︶同l性は︑ ︵個人の︶同一の瞬間

11個人存在︶に属するものであると見なすべきである︒

 ︵ロrL 12︶︿正しい知識﹀は︑それ︵・h人間の目的すべての達成︶

先行する原因であるが︑NY﹈れ ︵−.人間の目的すべての達成︶は︑

この書の最初において︶述べたとおりである︒原因は結果よ

りも前に存在するものであるから一先行する﹂ ︵−二ξ︑ロ目︶と言わ

るのである︒ もし︵本文中に︶ ﹁原因﹂︵冨日日︶という語が用

られたとしたら︑︵正しい知識は︶人間の目的辻成の直接の原因

巴︵る芽︹言三をであると︵いう意味に︶理解されてしまう︒ とこ

ろが︵実際の本文には︶一先行する﹂という語が用いられているの

間的に︶前にある﹂ということだけを表示しているにすぎ

ない︒ ︵p. 4︐ X. 13︶ところで︑この︿正しい知識﹀には二種類がある︒

すなわち︑効果的作用を︵直接に︶顕現せしめるものと︑効果的作

用を現わすことが可能な︵対象︶に向って働きかけるものとである︒

この両老のうちの後老︑すなわち︵効果的作用を現わすことが可能

な対象に向って︶働きかけるものが︑ここで考察される︒さてこの

働きかける知識︶は︵口的迂成に︶先行しているだけであって︑

      九

(10)

    法華ξ化研究︵七ロゲ︶

直接の原因ではない︒

 ︵︸︶°︐1︐l. 15︶ ︵実にわれわれに︶正しい知識が生じた時には︑︵われわ

は︶以前に経験したものを想起する︒この想l#1 ︵sinaraiJa︶から

p三三鍵o︶が生じ︑さらに意欲から行動︵三日︑二εが生ずる︒

そして行動にもとついて目的が達成される︒それ故に︵正しい知識

目的達成の︶直接の原因ではないのでagQO ︵1︶. 4︐t°17︶たとえ効

用が顕現することにもとついて直接に目的が達成されたとし

ても︑その︵知識︶は特に批判的に考察しなくてもよい︒思慮ある

象を求めていて︑しかも或る知識に関して疑惑があるかも

しれない場合にのみ︑その知識が批判的に考察されねばならない︒

I 4︐ l°1︐g︶すなわち︑効果的作用を顕現せしめる知識がある時に

は︑ ︵すでに︶人間の目的は達成されているのである︒こうである

ならば︑ ︵知識を︶求める人々にも︑疑惑の起こる余地はないであ

ろう︒したがって︑ ︵効果的作用を顕現せしめる知識︶は特に考察

しなくてもよい︒以上により︑考察に値するのは︑直接の原囚では

ない方の︿正しい知識﹀であるということを明示せむがために︑︵本

中に︶﹁原因一という語を用いないで︑﹁先行する﹂という語を用

ているのである︒

 ︵P. 4︐︑. 21︶ ︿人間の目的﹀というのは︑﹁求められる︵もの︶﹂と

う意味である︒あるいは﹁望まれる︵もの︶﹂というほどの意味

ある︒ ︵目的は︶避けるべきか採るべきかのいずれかである︒        一〇

われは︶避けるべき目的は避けようと望み︑採るべきU的は

りたいと望む︒このく避けるべきものVと︿採るべきもの﹀との

両老とは異なる種.類のものは存在しない︒何となれば︵どちらでも

ないとして無関心に︶無視さるべきものは︑採るべきものではない

で︑避けるべきものにほかならないからである︒

 ︵p. 4︐ l. 23︶人間の目的の達成は︑︵或る対象を︶回避することと

用することである︒実はその達成が原因三乃﹇三にもとついて起

る時には﹁生起﹂︵二与ρ丁三と呼ばれ︑また︑その達成が知識に基      ︵10︶

て起る時には﹁実践一と呼ばれる︒この実践は︑避けるべきも

を避け︑採るべきものを採ることである︒︵p. r︶°Ll︶そういうわ

けで︑避けるべきものを避け採るべきものを採ることを特徴とし

ている実践が︑ ︵人間の︶目的達成と呼ばれるのである︒

 ︵p. 5︐ i. 2︶また︵本文の最初に︶ ﹇人間の口的はすべて正しい知

もとついて遥成される﹂と説かれているが︑この場合﹁すべて﹂

という語は︑対象としての事物︵dl−a二・p︶の総体を意味しているの

あって種類︵マ﹁︹二臼﹁p︶の総体を意味しているのではない︒し

たがって︵本文︶は︐.F︵回避・採用の︶二種の目的達成が共に︿正

しい知識﹀に基づいて起る一という趣意を伝えているのではなくて︑

よそ目的達成なるものは︑それがどんなものであってもすべて

しい知識﹀に基づいているのにほかならない︑という趣意を述

ているのである︒何となれば︑誤った知識に基づいていては︑た

(11)

       ︵1︶とえ偶然によっても日的の達成はあり得ないからである︒

 ︵p. 5︐ l°口︶何故そうであるかと言うと︑もしも感覚によって提示

された対象にかくの如くに到達させるのであるならご︑では︑次の

ようにして︵人間の︶R的達成が成立する︒︵ニロへ二︶提示された

象︶に到達させるものは︑正しい知識にほかならないが︑提示

された︵対象︶に到達させないものは誤った知識である︒︵対象に︶

到達させないものが︑どうして︵人間の︶日的達成の原因三三p〒

dh

ana︶となり得るだろうか︒それ故に誤った知識なるものからは︑

の︶目的達成は起こらない︒ ︵人間の︶口的遥成が成立する

のは︑ 正しい知識からなのである︒ ︵p. 5︐ l°8︶まさにこの故に︑

しい知識は努めて解明されねばならない︒この︵正しい知識︶こ

そが人間の目的達成の原因なのであるから︑ ︵本書の著者は︶ ﹁人

間の目的達成は︑正しい知識に基づいているにほかならない一とい

うだけの意味を説くべく︑﹁︵人間の目的︶の達成はすべて︑正しい

もとついている﹂と述べたのである︒ ︵本文中の︶ ﹁それ故

Lg ︵iti︶﹂という語は﹁以上の理由からしXv ︵tag. m﹇td︶という意味 用いられており︑ ﹇︐のところの︵宅pe﹂と﹁それ︵︹三︶﹂という

相関辞として用いられる︒こういうわけで︹本文一・一

の︺意味は次の如くに解せられる  人間の目的の達成は︑すべて

しい知識にもとついている︒そうであるからこそ︑その︹正しい

識︺が解明されるのである︑と︒ ︵本文中の︶合成語の中で一正

    インド論理学の理解のために︵ーf−垣1°r︶ しい知識一︹ヒいう語︺は二次的なものではあるが︵孜zコニ壬葺三︑しかしこの洞要潜にあっては解明されねばならないものであるから︑

要なもの︵一・﹁ハ三三三三である..従ってこのL正しい知識︺は﹇そ

af. ︵t a︷1︶ という語で示されているのである.︑

ラρ︑ご︶﹁解明される一ということについて説明するならば︑

異論を排斥することによって︑ ︵真の意義を︶明らかにすることが

68

明すること一である︒ところでこの点に関して四種類の誤まっ

た見解が仔する︒すなわち︵正しい知識の︶数︑定義︑対象︑結果

関してである︒

1︶ ン^︑コ﹁乙↑一−一︶=甲≡Mukirti少しあとでは︑ンc.;−i﹁y;t−l︶1uLrniottaraという呼称が

 出て来るが︑ oら芸巨という呼称がつねに先に来N−・いろ︒ 例えば﹀弓コ﹁ぺ二

  言三^三=Z三.三一三一﹁二・占oン﹁︸べ一とは言わないっわたくしは挨拶のときにこのよ

 うな表現三し/︑日︑三︐﹀︑﹁ニゲ︶らとに付けたので︑..ハンデットがら直イeれたこと

  があろ− たしかに後代の表51ではiLei﹈ rvIlが後につく例もあろが ︵例えご︑

ぬLiikn﹁5bc﹇Lrya. B﹈uLg:icitryaなど︶.︑しかしその場合には考葺ン︑Pという語

 か名の一部を構成しているのであろ︒ これに対してただS;Li!karaと呼ぶの

 ば︑略称なのイ︑あろ︒ ︵イソド人の英語で﹁博士田中は⁝⁝﹂ ﹁センセイ中村

 は⁝⁝﹂し三11﹇うことがある︒ま二現代のサンスクリソトヨ川およびヒンディー語

  な三では︑つねt.1 pixLI︶I︶esor Tan︵L﹈caと書くが︑これは西洋の言語の影響で

 膓ろうー︑表現の問題としてしるしておく︒

2︶ 直訳−ー﹁人間の日的すべての達戎は︑正しい知識か先行+る︒﹂

3︶ チベノト訳に︑ごつと︑﹁以上によ/ttて主⁝題の目的を表わすことができるので﹂

  ︵de 1︶ns nn t︶rjod pur 1︶ーu 1︾nl.︶i dr.:g pa bst;︶﹈i pal.﹈i C. ugs kyis︐ p. 31 IL

       11

(12)

   法華文化研究︵ヒ;︐ノ︶

 9.10︶°ご=コ欠二とい・ユ語を欠く.

4︶ チベット引小1! −︐︷1o .t︶ r︐t芦ヲか・らer解fi︶nfi︐り.二::t tし i︐ y﹂ ︵一 ︐ttu s ﹇︶=LkhgA du

ch

ud pa二﹂︵lod nits︐ p. 4︐ l. 2︶

5︶ 人間を.チベット訳には︑r人間どもR.Jr︵pl・ tkyes bu rnnnis︐ p. 6︐ t. 6︶

6︶ チベット訳にようと︑ 丁以乙対象に︷川接知パ見か働﹂・こかけたと田心定︑作⁚川川にょリ 理解ごれたとき︑その対象に直接にはたらきかげて明示+二つ○が︑⁚肛接知覧て

 あろ J ︵I︶. 6︐ tl. 17︳18︶

7︶ <ごコ己≦°

8︶ 鍵穴のところに︒ご輌コn二吟O.フ︑arado.SastltiLy;L﹈二チベット訳には﹇− : tJアの穴

  のE−!!﹂ ︵.sgo﹈.ii bu gal.ii gseb kyi yul ria︐ p. 8︑t. 12︶

9︶直訳︒ ー

   r或うものの時同が限定されていろ場合︑その時間を・もっていろIt﹈?二しー︑

理解丁ろことは不可能ではないか.︑﹂ζ三に男陸名詞でち.るひら︑ yatkiilam

  ⁝⁝ド・F二5写三μは7二三くユ三と解すべきであ乙.︑ この占2︑チベノト訳は不明

 確てあろ︒むしろチベット訳文をそのまま訳すと︑誤解を生じる︒

ハ 1︶ 口た絵政︒ ヂ;cヴニ三二竺 チベット訳に﹁白兀遂﹂︵rjes su s:srul︶ l︶;L︶とい︶r語を

  当てていろ︒

1︶ 原文にに︑k.lk:︷t−i+5︑^与pとな・︑ているo r烏・二芦.〃欄・二の停..−.︑パ♪︑示ご︑71ろ﹂

  の意︒鳥が椋欄の木にと三った履日に︑綜□制の史ピへが落ちて来/︑烏を殺すとい

 う場合のL︵うに︑偶然の︑予期せざろことん三.口う.︑

第三節 正しい認識の二種類︵︵7︑ividham pr:ui︶︐u︶:Lm︶︺

 ︵p. 5︐ t. 15︶その中で︵正しい認識の種類の︶

斥するために説いていわ・\ 数に関する異論を =一

1

 正しい認識は二種類である︒︹一・11︶

 ︵p. 5︐ i. 17︶﹇二種類である﹂ということについて言うと︑ それ

ー正しい知識︶には︑二種の下位区分︵一︶﹁ρ百日︶があるというこ

とが一二種類﹂と表現されているのである︒数を挙げることによっ

て︑個別的なもの︵〆︑ソ︑巳吟εとしての区別が示されているのである︒

すなわち︑正しい知識には二つの区分があるということである︒個

別的なものとしての区分の区別が提示されていれば︑それぞれの区

まっている正しい知識の定義を語ることができるが︑これに

して︑区分の区別が示されていなければ︑すべての区分に共通し

る正しい知識の唯lの定義を述べることができない︒故に︑数

により区別を語ることは︑ ︵正しい知識の下位区分のそれぞれの︶

質に区別があることを語る一助にほかならない︒そのわけは︑区

別を本質としている数の区別が示されないならば︑ ︵正しい

それぞれの︶特質の区別を示すことができないか

らである︒定義を述べるための一助となり得るからこそ︑まず初め

区別﹀が語られるのである︒

 ︵p. 5︐ t.. 23︶問うていわくーそれでは︑その二種類とは何であ

るのかっ・

答えていわく︑ー1

(13)

1

直接知覚と推理とである︒︹一・三︺

 ︵1︶. 6︐ l°2︶ ﹇直接知覚﹂ということについて説明すると︑感官に      ︵1︶

て︑依存したもののことである︒ この合成語は﹇pご等の接

越した ︵︵ati−︶ kr︐−anta︶等の意味で用いられる時︑対格

      へ2︶

a

cc

us

ative︶ Q語と複合語を造る﹂という合成語の規則に基づいて      ︵3︶

る︒しかも言閂︼浮ぶ考pコ奏ウp一p三及びgati語と複合語が造ら

る時︑﹁−︵並列複合語及び限定複合語の︶性は︑後分の語の性に一致 する﹂という規則は効力を持たないので︑直接知覚︵Pl︐ρロ︑alρ6︶と 4︶       ︵5︶

       ︵6︶ う語は表示される︵対象︶の性と一致して︑すべての性を採ること

あると認められる︒そこでこの次第によってpratyaksaと

う語が成立しているのである︒ ﹁感官に依存したもの﹂というの

は︑この語の語源的解釈に基づくものであって︑実際の用例に基づ

vものではない︒しかしながらこの﹁感官に依存した﹂という表現

よって︑同一の対象に内在する︑対象への直証的働iv ft b ︵arth a−

・・呉窃巳畠ユ古ぐa︶ということが暗示されている︒このことが︵直接知

覚という︶語の実際の用法である︒以上により対象に直証的に働

きかける認識は︑どんなものでも ︿直接知覚﹀と呼ばれるのであ

Qs︒ ︵p. 6︐ t. 6︶ところで︑もしも感官に依存するということだけが

その語の︶実際に用いられる意義であるならば︑感覚器官からの

知覚だけが直接知覚と称せられて︑意等からの知︷︐s ︵miulasitcli︶は

    インド論理学の理解のために︵中付︶

外されることになってしまう︒例えば︑r行くものである︵質p∋−

ga

ce

hati︶1 Sでlel ︵gc︶−gaur︶1であるというように︑﹁牛﹂とい

う語は・行く﹂という動作に結びつけて︵通俗︶語源解釈がなされ

るが︑ ︵一方では︶行く動作という付随的特徴を有する︵対象︶と

同1の対象に内属する﹁.牛性﹂というのが実際の用法の意義なので

ある︒こういうわけであるから︑行く牛に対して︑行かない牛に対

しても︑適用されるものとして︑ ﹁牛﹂という語が確立しているの

ある︒

 ︵p. 6︐ l. 10︶ ︵anun﹈.Mina推理︶の∋割︒辞とは ﹁それによって量

Q .1という意味である︒ ︵量るという︶動作を手段としている﹁推

量﹂という語によって︑対応関係︵sarupya︶をその特質としている

根拠︵plalllarpa︶が意味されている︒ ﹁推論﹂︵pコ三昌剖コp︶とは︑

標徴︵証因︑相︑しるし︑中概念︶を把握し︑ ︵それと主張命題の

すなわち大概念との︶結合関係を想起した後で︑推し量ること

する手段である中概念が結合された時に︑推論は成立するのである        ︵7︶ ある︒主張命題と大概念が把捉され︑定立さるべき大概念と定立

ら︑ ︵推論は︶後の時に生ずるものであると言われる︒

 ︵p. 6︐ I. !2︶ ︵本文中の︶﹁と﹂という文字は︑直接知覚と推論とが

等しい力関係において並置されていることを示すものである︒ ︵等

しい力関係というのは︶直接知覚は対象と不可分の関係にあって対

象に到達させるものであるから︑正しい認識方法である︒これと同

      =二

(14)

    法華文化研究︵ヒ号︶

に︑推論も対象と不可分の関係にあって限定された対象に到達さ

るものであるから︑ ︹やはり︺正しい認識力法である︑というこ

とである︒

1︶ たたしチベット訳では﹁感官に依うという意味は︑直接知覚ではない﹂とい

 JcxO ︵dbaii po la brtcn pul.ii don=i 1﹈lf︶OTI sull︸≡a Yill IIO=dbmu! po la

 brten pa yurh sgra 1︶g;Ld p︷二ご芸ぺ已≡tsh^Ln yi gyi 1 1.i jug pal︶i rgyu

 nitshi≡11i111:t Yill IIO=︶

c﹈︶ Cf°﹂︶三二三︐ I︐ 4︐ gJr:−atir atikru≡三﹂cε層

3︶ 動詞の時制もしくは動詞派生形に直接に前接する前置詞および副詞的接辞を

 意味する文法用語︒

4︶︼.ξ三i JI° 4︐ 26.

5︶ マ.ミこwぎ⁚三声︶喜三﹂二︑ふ 2︵s°

6︶ 以上に終ろかなり長文の=即は︑チベット訳には訳出これていない︒

7︶ 結合が想起されたときに︵一︑二︸・︶︒

節 直接知覚の定義︺

       ︵1︶

1・四 そのうち直接知覚︵pratyaksa︶とは︑構想作用 ︵kal−

 ︵2︶pa

na︶を離れ︑錯乱のない︵認識︶である︒︹二四︺

 ︵p. 6. l. 16︶ rそのうち﹂という語は︑第七語尾︵於格ぎ︹三7.5︶      ︵3︶

用いられており︑ ︵ここでは特に︶ 一選出﹂の意味である︒

くして本文の意味は︑以下の如くである︒﹁そのうち﹂つまり﹁直       一四

覚と推理との二老のうちで﹂と言って︑集合の全体を挙げてい

るのである︒﹁直接知覚﹂というのは︑そのうちの一部分である︒そ

体の中から︑直接知覚という類に従って一部分を個別的に

り挙げることが﹁選出すること﹂である︒その中から直接知覚に

て再び論究して︑ ﹁構想作用を離れ︑錯乱のないものである﹂

と規定されるのである︒あなたがたもわれわれもともに承認するよ

うな対象に直接働きかける︵直証的︶認識は︑構想作用を離れ︑錯

乱のないものであると見なさなくてはならない︒ ﹁もしも︿構想作

用を離れ︑錯乱のないという性質﹀が一般に承認されない場合には︑

直接知覚という認識には︑何か或る他の性質がまだ残っていて︑そ

知覚という語で表示されているので︑それがここで再論究

されねばならない﹂と考えてはならない︒︵7ρ︑°21︶何故ならば︑

的にせよ︑否定的にせよ︑感官に従って働き︑対象に直接働き

ける︵直証的な︶認識は︑ 一直接知覚﹂という語で表示されるこ

とが︑すべての人々によって承認されているからである︒

 ︵p. 6︐ l. 22︶それを再び論究して F︵直接知覚は︶構想作用を離れ︑

ないものである﹂と規定したのである︒ 一構想作用を離れ﹂

とは︑構想作用︵概ム・心による把捉︶を離れていて︑それを具有して

ない︑即ち措想作用の本性を欠いている︑という意味である︒︵︸三

7︐ l. 1︶ r錯乱のない﹂とは︑効果的作用を可能にする事物の性質

vasturul︶a︶に対して矛盾していない︑ということを述べたもので

(15)

ある︒ ﹁効果的作用を可能にする事物の性質﹂とは︑ ︵一つの事物

うちに諸の部分が︶外的な形に排置されて形成されることの制限

となる︹いろいろな﹂色彩?胃屋︶を本質とするものである︒

そこにあって錯乱していないもののことを﹁錯乱のない﹂と述べた

ある︒

 ︵p. 7︐ l. 3︶︵﹁構想作用を離れた﹂と﹁錯乱のない﹂という︶この

質は︑誤った見解を排除するために述ぺられているのであ

て︑推理と区別するためのものではない︒何故ならば﹁構想作用

念による把捉︶を離れた﹂という句だけによっても︑推理から

され得るからである︒︵p. 7︐ l4︶その場合もしも﹁錯乱してい

ない﹂という︵もう一つの︶句が付加されなかったならば ︵例え

走行中の船に乗っている人が︑岸の︶樹木が動いているかの如く

覚することなども︑構想作用︵概念による把捉︶を離れている

しい︶直接知覚であるということになってしまうであろう︒

p. 7︐ l. 5︶こういうわけで﹁︵以上のような誤った認識に基づいて︶

している人が樹木だけ︵ー樹木自体︶に到達するということは︑

と合致しているから正しい知識であり︑しかも構想作用︵概念

よる把捉︶を離れているので︵正しい︶直接知覚なのではなかろ

うか﹂という疑いが生ずる︒ ︵p. 7︐ l°7︶  その疑いを排除するた

めに︑ ﹁錯乱していない﹂という句が付加されているのである︒実

その様な︵認識︶は錯乱しているから︑直接知覚ではない︒また

    インド論理学の理解のために︵中村︶ それは︑理由概念としての三つの特性を具えた標徴︵証因・中概念︶

ら生じたものではないから︑推理でもない︒且つ︵直接知覚と推

とは異なった︶他の認識方法は存在しない︒︵︼・°7︐ l. 8︶それ故に︑

F木を動いているかの如く知覚すること﹂などは︑誤った知識で

あると言われているのである︒︵一・°7︐ l. 8︶

者いわくーもしも︵﹁動く樹木﹂を知覚することが︶誤った

あるならば︑どうしてそれにもとついて樹木に到達すること

きるのであろうか︑答えていわく︑その︵﹁動く樹木﹂︶にもと

て樹木への到達が起ることはない︒何故ならば︑その︵誤まっ

識︶により限定されるのは︑方々へ動き廻る樹木であるが︑実

際に到達されるのは一箇処に静止している樹木である︒︵I︸. 7︐ l. 10︶

したがって︑各場所を動いているかの如くに見える樹木は︑その

それぞれの場所にあるものとして到達されるのではない︒また︵逆

実際に︶或る一定の場所に︵静止しているものとして︶到達され

る樹木は︑見られてはいない︒その︵誤った観念︶にもとついては︑

なる対象にも到達できない︒樹木などの対象は︑全く別の知識

よって到達されるのである︒以上の事情により︑誤った見解を排

するために︑ 一錯乱のない﹂という句が付加されているのである︒

 ︵p. 7︐ t. 12︶また同様に︑ 一錯乱のない﹂という句が︵直接知覚

を︶推理と区別するものであったとしても︑ ﹁構想作用︵概念によ

る把捉︶を離れた﹂という句は誤った見解を排除するためのもので

      一五

(16)

    法華文化研究︵七号︶

 ︵4︶ある︒実に︑推理は錯乱したものである︒何となれば︵推論は︑対

象︶自身に似てはいるが対象ではないものを対象として認めること

より︑はたらきを起すものであるからである︒他方︑直接知覚の

は把捉されるべき形象に矛盾することはない︒

 ︵p. 7︐ l. 13︶しかしながらこの場合︑﹁錯乱のない﹂ということを

と矛盾しない﹂︵avisamぐ副︹laka︶という意味に理解してはな

らない︒何となれば︑直接知覚はまさに正しい知識にほかならない

らである︒その際︑ ︿正しい知識であるということ﹀を言うだけ

も︑︵そのうちに︶︿経験と矛盾しないということ﹀が包含されて

るので︑その上さらに一経験と矛盾しないものである﹂と付け加

えて言うのは︑全く無用なことである︒以上の如くであるから︑本

文の意味は以下のとおりとなろう  直接知覚と名付けられた︑経

と矛盾しない知識は︑構想作用︵概念による把捉︶を離れ︑経験

と矛盾しないものである︑と︒このように﹁経験と矛盾しない.一と

う句が二度も使われていることに何の意義があろうか︒ ︵ニメへ゜

17︶それ故にここでは︑﹁錯乱のない﹂というのは︑効果的作用を可

する把捉されるべき事物の形象︵z9言﹁三x〆︶に矛盾していない︑

という意味に理解せねばならない︒

1︶ 術語集成参照.

2︶ 術語集成参照︒

,1{、

1川

A4 Vy

r

L

2

㌫、

3

B

f:

選出

J

 ︵p. 7︐ l°21︶ところで︑この構想作用︵概念による把捉︶とは︑

この場合いかなるものとして理解されるのであるのかり・

答えていわく︑

       へー︶

・五 構想作用︵概念による把捉︑思考︶とは︑言語表現と

することの可能な︵言語で表現することの可能な︶心的

 ︵2︶      ︵3︶

象︶を理解することである︒︹丁吾

 ︵p. 7︐ l. 2一︶三=口語表現﹂について言うと︑或るものをことばで表

する手段が︑言語表現である︒ 即ち意味を表示する語である︒

現との結合﹂とは︑ある一つの観念のうちにおいて︑表現

されるもの︵ー対象たるもの︶の形相が︑表現するもののNX相 ︵=

概念規定︶と結合して認識さるべきものの形相として合致するこ

.v ︵milaiia︶である︒それ故に︑或る1つの観念の中で︑表現され

るものの形相と表現するものの形相とが合致している時︑表現され

るもの︵ことば︶と表現されるもの︵対象︶とが合致している︵エヨ当

三プ言︶のである︒

参照

関連したドキュメント

「原因論」にはプロクロスのような綴密で洗練きれた哲学的理論とは程遠い点も確かに

[r]

計算で求めた理論値と比較検討した。その結果をFig・3‑12に示す。図中の実線は

3He の超流動は非 s 波 (P 波ー 3 重項)である。この非等方ペアリングを理解する

名の下に、アプリオリとアポステリオリの対を分析性と綜合性の対に解消しようとする論理実証主義の  

D-1:イ 自施設に「常勤または非常勤の実地指導

 当図書室は、専門図書館として数学、応用数学、計算機科学、理論物理学の分野の文