̲●ー ■ 福 岡 旦 展 支 配 ・ 大 鹿 適
旦展 高 屋 喜 平 次 に つ い て
藤村潤二郎
九州大学九州文化史研究所蔵「福岡市森田家旧蔵文畜」は'天保九年三月‑琴氷六年二月「御用日記こ1冊と
有余通の番付から成立っている。森田家は万屋と称して福岡の日梶支配を勤め'また大坂川西組通日屈でもあった。
この文書については既に近藤典二「福岡の日雇人足請負人」福岡地方史談話会会報一〇号があり'本稿はその教示
を受けた事を銘記してお‑。
l「福岡蒲の宿駅
筑前国は享保五年以降その大部分は五二万三100石の福岡津と'その支封五万石秋月潜の保地で両者は縫ってい
る。その他には国の西北部に若干の中枠藩'対席津'天領がある。地域については筋1回をみられたい。むしゆく福岡藩の交通については長崎道(冷水迫)の領内分として筑前六宿がある。糸崎'木尾轍'飯塚'内野'山家'原
田がそれである。黒崎から豊前国の小倉、大里に、原田から肥前国長崎に至る。又途中の山家から筑後国松崎'府中
を経て肥後国に連絡している。
つぎに国内の交通として二十一宿がある。これは「福岡'博多'箱崎'青柳'畝町、赤間'芦屋'若松」が東に向
福岡日雇支配・大坂通日磁万民喜平次について(藤村)111
史料館研究紀要第八号
第1図 筑 前 国 関 係 地 名 図
一 一 二 っ
て 黒
崎に
連ならり'
途中の博多から
「
二日
市' 宰 府 ( 節 田 )
」を
経て
筑 後'
肥前に'
更に
二日
市か「ら
甘 木' 志
波'
久 喜 官
」と
秋月'田に向又日う。
箱
崎から
「 篠 栗
」'
飯塚を
経て
「 大 隈' 小 石 原
」から
秋
月'田に日
至る。
福岡
から
「 姪 浜、
今 宿' 前 原
」通てをっ
肥
前の
唐拝に'
途中の
姪 浜
から
「 金
武'飯場
」を
経て
肥
前佐賀にの
至る。
篠
栗の
(1
)
代り
に 金
出と
ある
場
合も
ある.
こ の 交 通
路を
支てえるのもとし
夫
役が
課せれてらいる。
(〕2
即
ち「
福岡
藩 郡 役 所 記 録
」によると'
寛 保 三 年 六 月
二〇に日
一 御
国中
宿々
諸 通 之 節' 人 馬
差出
方 之 儀 に 付 御 達 之
○ 事
若 松 烈 崎 木 星 瀬 飯 塚 内 野 山
家一
原田
前 原 箱 崎 青 柳
赤 間
二日
市
甘木篠栗宰府
小 石 原
姪浜
右之
宿人々
柄
共御代官支配御
通万引
請
可相勤
供'宿
人馬以を
相 仕 廻
可申
侯' 不 足 分 大 庄 星
へ申付'
郡 人 馬 寄 召 仕'
追て入
切 払 帳' 郡 革 行 え 可
差出
慎 一 郡 役 宿
役之勤方'
只今
迄
1御通之節'人馬追方之儀は'元文二巳年相触位侯通之事
一長崎奉行阿蘭陀通之節'長崎に御掛合有之管に峡間'過て可相触焼串
とあり'宿駅の人馬役所の人馬と'郡の大庄足の人馬仕組加役所による人馬が使用される。郡役としての人馬は明(3)和七年「御国中郡夫村夫取分定番」の四三ヵ条の内で
郡夫可相立定
1'御参勤御上下船人馬之事
一'長崎御往来継人馬之事
1'御遊猟二付御描座御日帰ともこ継人馬御休所御猟椅仕調'御舗菰仕調夫'共外品々御用夫之串
一'右御往来之節、品々郡寄物持送夫'共外'内夫'御休所仕調掃除夫之串
1'御大名方江戸御上下'阿蘭陀'長崎御奉行御上下'御茶鼠'町茶近事入掃除夫'御茶屋入用之夫'宿内掃
除'御先払川越夫'継人馬之事(但S:略)
T'(略)(中略)
1'相定侯宿駅'其村而役二而年中間通勤切不申分'郡丘加勢人馬之串(但凹略)(以下略)
とある。即ち福岡津の参勤交替'出猟'巡視以外に'長崎道を通過する長崎奉行、日田郡代'御領代官'巡見位'(4)上位'測量方等の幕府役人、及びオランダ商館長参府紀行'他に九州諸藩の参勤交替である。
つぎに宿場には雲助がいる。彼等は迅日雇に似た性格を持っているが'木下誤大郎によると筑前六宿の内で山家に
福岡日雇支配・大坂通日旋万屋苗平次について(藤村)
1
二二史料館研究紀要第八号
昭和九年頃には問屋場の後に雲助部屋の跡があり、
諸国諸大名が封地の国名で'其氏名の代りに呼び合っているのに倣って'賭博と酒で終生を暮す雲助も'薩摩か
ら流れ込んだ雲助を﹃薩州﹄と呼び、加賀から流れ込んだのを「加州」と呼んで'何れも大名気取をなして居rQ
から豪気なものだ。仏さんの位階ではないが'上品の雲助は長持を担ぎ、中品の雲助は駕篭を穿き'下品の者は
タダの荷物を運ぶが'若し夫れ上品上生の雲助に至っては'雲助部屋から1歩も出でず'多くの雲助を顎の先で(5)こき使う。夫れに雲助は荷造りが上手の上に'長持唄が巧妙でなくては其の資格がないのだから(下略)
とあるOこれは東海道の雲助と似ているが'彼等が長持'駕寵'荷物を運ぶ事が注目されるoただ木下讃大即が何
者かは知らないので'実際に山家での事か'それとも単に昭和初期の研究を反映しているかは今後にまちたい。(6)つぎに具体的な姿を「投手郡誌」に記載されている文化五年辰四月「木巨額宿開通人馬賃建前」により考えたい。
これは木星柿宿問屋'同庄屋から遠賀鞍手御免方御役所に宛てた木尾瀬宿間通人馬継方を御建前で請ける請書である
が'文化五辰年四月'同十年酉五月'同十1年戊十二月'天保十年亥三月と講書が雷継がれている。原文書をみてい
ないから断定は出来ないが'恐らく文化十1年・天保十年の内容と解釈したい。
木星轍宿は筑前六宿では'登りは黒崎に'下りは飯塚に連らなり'二十一宿の赤間にも遵らなっている。
内容は第1・二表の通りであるが、第1表ではAは幕府関係分でありtBは鹿児島藩関係tcは恐らく九州諸藩関
係tDは主として福岡帝関係であるが'正確には「福岡御役人様御飛脚御上下宿々御代官様若松御船方御用御下り御
銀御献上御荷物御登り其外他国寺社御証拠付の分共」とあるから'他国の寺社関係が含まれている。Eは福岡藩の御
状箱持夫、御用物送り夫、諸飛脚と'御茶毘の詩維持費及びA‑Dの諸通行に際しての延引による手当人足の待費で
あるO以上は旧来からの項目であるがF・Gは以前は商人であるから賃銭雇による通行であったが'近来御絵府使用
項 目
A 盃志紀 宇窒猛悪琵人御絵府御 薩州御家中御通路仰上下分送入 馬術建前
諸国御家中御通路御上下分送人 馬御建前
御国御家中御証拠付分御上下分 送人馬建前
御茶屋 ・御状箱 ・諮飛脚 ・他御 廻前
B C D E
A〜E 小 計
F 禁 管掌謂 詔 盃詔 謡 穿 G 京大阪呉服屋通路抑絵肘持参分
F〜G 小 計
給 計
,第1衣 文化 ・天伴親木員淑招間通人馬貿建前表 (Ⅰ)
になり御定賃銭による通行となったものでtFは素
など糸割符関係tGは京大阪の呉服屋である。なお
数字は若干合計と異なるものもあるが表記の位にし
てある。
結局人足九八五三人'馬二六〇九疋'賃銭1二一
五貿四三五文'御定賃銭六八六文三I四文になる。
侶銭は足銭三四1文1三文'増賃銭七八四冥〇二二
文に分かれる。後者は増兵無賃銭のため御定賃銭は
附かない。御定貨鈍は先方から討取るから御役所と
は無関係である。
さて福岡辞には六拾文銭'六銭と表現されている
匁銭がある。これは藤本陸士「近世西南地域におけ(7)る銀銭勘定」によると'「銭の流通が秤畳貨幣とし
ての銀と同様に行なわれているのである」'六銭は
「決して銭鋳貨としては存在せず」'一文銭が単に
六〇枚を1縫めに「1米と考えられた計井上の単
位」であり「六十文銭一匁という定位貨幣は存在せ
ず'一文銭貨の六〇枚を一匁とするということによって'貨幣の価値尺度の機能は'実質的に果たしているが'それ
福岡日雇支配・大坂通日屈万屋菩乎次について(藤村)
史料館研究紀要第八号
■H 御役人様 泊入用夜具借立損料建前 六銭150.匁00
Ⅰ 御代百様御役所定小便昼夜講切泊 360人 864.
00
J 御茶屋定 仕番 給践 22
0.00 K 宿用 当次式人給銭
800.00 L 問屋 定語御壱人給践
400.00 M 問屋 抱人高小指
給銭 363.00
N 問屋給銭
十二月渡 700.00
0
人馬給銭 1,000.00
p 右 同断 (文化1
0酉年増通) 1,500.00
Q 福岡御家
中様御交代送 り夫 1,000.00
R 間通
臨時通分賃銭被仰 付分 4,486.30
S 年 中入用 .卸通方鹿相 出来 の節他領宿迄 断席代 .其外雑用共
783.00 H〜S 小 計 12,266.30 T 臨時御通路間
通現人足 1100人賃銭御建前増分 2,933.33 U 間通建前増 .御 国若殿様御用 に付家 中江戸御上下御建 前増現
2,000.00 夫750人 総 計 17,199.63 第2表文化・天保期木屋蔽宿間通 人馬質建前表(Ⅱ)
一
一六が表示され仕切られても'支払手段は'必Lも銭貨ではないことからも計算貨幣と捉えてよいと考える」
とされている。さて前記賃銭は六銭7八貫七五七
匁二分とある。次に第二表は六銭が単位で'大略通
常維持経費と臨時増分と考えられるO後者では人足1
八五〇人となっているo合計は六銭一七貫1九九匁六
分三厘であり'前記賃銭との集計
を六銭三五貫九五九匁五分四厘としており計算より二匁六
分六厘多い。この金筋の内でⅠ‑Nを正'七㌧十
二月にt
o p
を七'十二月に問屋に渡される。この六銭五貫八四七匁を除いた残額六銭三〇貫11二匁五分四厘は7
二カ月に分割して一カ月六銭二貫五〇九匁三分七厘が渡
されている。しかし成年(文化71年)から辰
年迄七カ年御救按分としてこの外に問屋人馬賃銭建前
増六銭三文六〇〇日'問屋給米十俵代六銭五〇〇日'
れた。(8)この九州諸藩等の詳細について文化五年四月「木庭瀬本通人馬賃銭建前帳写」により考える。これは木星輔宿問
屋'同庄匿'直方町大庄良から永田清十郎様御役所に宛てた木尾淑宿本通人馬親方をこの御建前で請けた請書であ
る.内容は第三・四表の通りでありt.先ず九州諸大名は秋月帯など筑前'筑後tr肥前'肥後'薩摩の1五藩である。
第3衣 文化5咋本屋淑本通人椙ff践姐Tl'u表 (l
史料館研究紀要第八号二人
合計を六銭二七貫八八〇日として'両年に割って1カ年分を六銭1三文九四〇日とLtこれが九州諸大名分である。
つぎに長崎奉行'阿蘭陀人'長崎御勘定方御普請方(これは二度往来)'長崎御下向日付'及び唐津銀送と経常費
があり小計は六銭一五貫四九五匁である。前記大名分と合計して六銭二九箕四三五匁が1カ年御建前分であるが'こ
れと第一・二表との関係は明らかでない。ここでは単に福岡藩の宿駅制度'夫役の概略を示したに留める。
二日雇頭'日雇支配
万屋森田氏は福岡の日雇支配であるから、これに関係した日雇頭'日雇支配についてみる。この点についても前記
近藤典二「福岡の日雇人足請負人」から教示をうけた。(9)原田安信撰「博多搾要録」によると'寛文一二年千九月に「町々より人足出シ申事」として
1町々β出申人足之儀'先年より申触侯通り、其町々出人足高二応し三度二出シ切申様二任侠得と触状街中'井会†マ所二而人馬御取被成侯御侍衆中二而'枠中丘出申人足ともこ、少も寄端仕間数触状街中焼串
とある。会所とは恐らく人馬次所ではないだろうか。福岡は二十1宿の1つであるから宿駅としての一種の歩役が
課せられていたと推測される。(10)のこ貞享五年反四月には「人足受方へ被仰付供事」として'陣中人足受方に帯屋与三左衛門'残良七右衛門'小田徳左
衛門が御仰けちれた。宝永三年成九月二一日付高木又五郎他宛阿部久兵衛・平戸屋「人足銭取立支配者取立置侯札銀()焼付二付弁申受合一巻之事」によると'宝永元年申七月に阿部長兵衛が枠中人足銀取立支配に仰付けられたが'取立
てた銀札焼失により同三年に平戸良弥兵衛も指加えられている。前記の人足受方との関係は明らかでない.(12)正徳五年末三月二七日付「鴨井善兵衛枠中人足話方之事」として同未年四月朔日から成(享保三)年四月二九日迄