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李洪林著『中国における四種の主義』

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(1)

翻 訳

訳者のまえがき

 

ここ に翻訳 るのは

、李洪林著

『四種主義在中国』

(三聯書店

(北京)

、一九八九年六月刊

(一+)二+三+

一三八頁)う、日本式にいえばほぼ新書版に相当る紙型の小冊子ある。なお、訳者が入手した本書は奥付に

「一九八九年六月刊」あるが「一九八八年一二月刊」う奥付の版本もある。おそらく後者が初版なのだろう

が、訳者の底本に第二版明記されていない事情は不明ある。訳者が本書の内容紹介しようと考えた理由

る前に、著者の李洪林についる。

1.李洪林について

 李洪林う人物は、改革・開放期、特に一九八〇年代の中国る専門家けば、日本著名

ないだろう(例えば、ノーベル平和賞受賞した劉暁波中国政治研究し一九八九年の天安門事件後に亡命し

家其などとれば)。また、訳者が手許使用できる彼の人物紹介に関る資料もおよそ以下の三点しかな

い。すなわち

李洪林著『中国における四種の主義』

翻訳

・ 解説

 

小   竹   一  

(2)

李洪林著『中国における四種の主義』(小竹)

.矢吹晋「李洪林――イデロギー戦線の風雲児」中国開放のブレーントラスト』蒼蒼社、一九八七年刊)

六六~七九頁(なお初出は『日中経済協会報』一九八六年四月号)

2.『岩波現代中国辞典』(岩波書店、一九九九年刊)一二六七頁掲載の「李洪林」の項(天児慧執筆)

.李洪林『中国思想(一九四九

-一九八九年)

(天地図書(香港)、一九九九年刊、二+四+四四七頁)の

表紙裏の著者紹介。

これらを、李洪林の略歴る。

 

彼は一九二五年遼寧省に生ま

。一九四六年に西北農

卒業した後

、西北師範

務めた

一九五六年から中共中央理論研究工作に従事るようになった文化大革命に際し打倒さために下放し

た。一九七七年から一九七八年には中国歴史博物館党史研究室主任務めた後、中共中央宣伝部理論局副局長に任命

(李洪林の上司にあたる当時の中共中央宣伝部長は胡耀邦だった)の時期には改革・開放理論面から推

る多くの著作発表した。それらがいゆる保守派の攻撃け一九八二年に理論局副局長解任さ

一九八四年に福建省社会科院院長に任命さた。一九八九年の天安門事件に際し支持し当局か

ら批判さ下獄した。一九九〇年に出獄しらは現代中国の歴史発展に関る著述研究に従事してきたが、中国

国内研究成果きない状態に置かれていた。二〇一六年六月一日に北京没した。

 、李洪林の公刊さた著書げる、訳者が入手しいる範囲、以下の三点がある。

 『理論風雲』、三聯書店(北京)、一九八五年六月刊、(一+)五+五六五頁。

   文化大革命以前のいくつかの文章一九七〇年代末以降の多くの文章からなる論文集。その内容色は、矢

吹晋、前掲書、詳しく紹介されている。

(3)

翻 訳  『四種主義在中国』

   最初に掲げたようにの翻訳の底本ある。

 『中国思想動史(一九四九

-一九八九年)

(出版要目は前掲)

   本書が中国国内なく香港出版さことに注意べきだろう。その内容は『四種主義在中国』提起し

た枠組み基礎にした現代中国に関る歴史記述ある。

 これらの著作に表されている李洪林の言論活動の特徴は、中国一九七〇年代末に始まったいゆる改革・開放

積極的に支持ものえる。しろ、一九七〇年代末から八〇年代前半にかけ中国政治質的に指導し

た胡耀邦の活動、マル主義理論の見直し支え評価できる。ただし、李洪林の立場

によれば、見直しく、歪曲さ極左的傾向からマルス主義理論救出し本来のあり方回復し

になるはずある。ただし、訳者は李洪林のマル主義に対る理解そのもの面的に適切だと評価しいる

はないとを付言しおく。

 しかし、彼の言論活動のもっとも注目すべき、矢吹晋(前掲書、七五頁)が指摘るように知的誠

実さ」げることがる。苛烈な政治変動びることを優先してきた現代中国の著述家のなか貴重な

態度だといえる(毛沢東在世中のみずからの言動みずに一九七〇年代末以降に著述活動行った人物は少なくな

い)の特徴に関る限り、先にあげた劉暁波上まいるのないか訳者は考えいる。しか

も、彼が知的誠実さによっるばかりく、彼る側にも知的誠実さいることは、以下

の翻訳の冒頭にある「著者の声明」からも読みことがる。知的誠実さにもとづく批判論がきわ不足

いる現代中国め続けた李洪林の姿勢は、現在の日本におい学ぶべきところがある。

(4)

李洪林著『中国における四種の主義』(小竹)

2.翻訳を行う理由

 訳者が本書に注目ようになったのは一九八〇年代末頃のことなの、本書の出版から間もない時期だった

一九八〇年代後半、つまり改革・開放の開始から約一〇年経過した中国の思想的・文化的状況、本書の表題

りに四種の主義の混在とらえようという着想に引けられからある。訳者も中共党内の改革・開放に

積極的な理論家だと理解しいた李洪林は、改革・開放一〇年の成果手放し価せず、ろその混迷率直に

分析る姿勢明らかにしいた。

 しかも、本書の出版ぼ同時期に起天安門事件の前段成した民主化動(一九八九年四月~六月)の際

には、本書の着想似した現状るスローガンが現いた。ことも訳者が本書に注目ことになっ

た理由ある。すなわち

 的共産主義[かしまった共産主義]

 的社会主義[いいかげんな社会主義]

 的資本主義[はずかしそうな資本主義]

 的封建主義[正真正銘の封建主義]

  *小竹一彰「天安門事件『社会主義』中国の危機」岡部・毛利編『現代中国論二:改革・開放時代の中国』(日本国際問題研

究所、一九九一年)一一八~一一九頁、に引用しいる。

 李洪林が示した四種の主義の議論共通した発想は天安門事件当時にかなり拡がっいたことが推測る。ある

いは李洪林の本書が以上の標語の起源になった可能性もある。彼が天安門事件後に下獄したことも、した可能性

(5)

翻 訳

づけるのかもしれない。

 しかし、一九八〇年代末頃の中国の状況への関心だけから、本書翻訳しようとしたのない。近年の中国の状

況にも、およそ三〇年前に李洪林が指摘した四種の主義の混在同質の問題が依然存在し考え

いるからある。確かにの三〇年間の中国の変化はめざましい。だが、表面的な変化にもかからず、中国の基

本的なあり方は改革・開放が開始した時期から変いないいう視点も欠かことはきない訳者は考え

る。これが今時期に本書の翻訳公表しようとすもっとも大な理由ある。

3.凡例(翻訳にのぞむ方針)

 翻訳に際し、以下の方針ぞんだ。

(1)原文が横書だが、翻訳は縦書にした(本誌編集委員会の要請による)

(2)原文中の数字はすべ漢字表記なの、翻訳そのまま漢字表記にした。

(3)文中の( )は原文のままある。訳者による用語の説明は[ ]に入

(4)原文は引用文の典拠脚注形式すが、翻訳引用さた文節の後に*印た。

(5)上記引用文の翻訳は、李洪林の文意に反しない判断した場合には、入手できる限り既存の翻訳使用し、そ

の旨上記注記に補足した。

(6)

李洪林著『中国における四種の主義』(小竹)

中国における四種の主義

李洪林

目次 著者の声明

 四種の主義が並存る――中国のある国情(序に代え

 1.封建主義

   革命のそのものの烙印

   自然経済

   専制主義

   義を重んじ利んじ、思想

 2.資本主義

   発展の不足

   過早な消滅

   資本主義の再認識

   二つの制度の関係[以上、本号]

 3.社会主義

   古いモデル新しい試み

   普遍的な貧窮、永遠の闘争

   中国の特色ある社会主義

   歴史が必ず通るき道

   社会主義の再認識

 4.共産主義

(7)

翻 訳    空想から科

   歴史の教訓

   現実

   身辺

 5.中国改革の背景

 後記

(翻訳本文)

著者の声明

 これは一人の言論、九十九人の批評歓迎しま

 もし内部報告したなら、作者に一部ください。

 益な教訓るなら、釈明こともありえま

四種の主義が並存する――中国のある国情(序に代えて)

 中国は新旧交代の時代にある。

 すでに新しい時期になったが、過去になるべきものが完全に過去になっない。

 一九八六年十月、私は瀋陽から鞍山への高速道路疾走したことがあった。広く平坦な路面、時速は百キロ

えるはずだったが、まったくそ達しなかった。自動車に入り混じっつんざくばかりのトラクターのほか

に、自転車車もいるし、さらにロバが引く荷台の平らな三輪自転車まいた。それらが高速走行車線いばり

(8)

李洪林著『中国における四種の主義』(小竹)

、自動車もどうしようもなかった。そのほかにも、一部の車は常に逆走しいた。真っ向から

込んくる英雄豪傑に出く、自動車は甘んじがるしかなかった。

 なぜいうことになるのか?一説による成したばかり交通管理が追いついない。淘汰すべき交通手段

がまだ淘汰されず、実行すべき則がまだ実行されていない。

 道路はなにほの国家のようある。現代化の路線はすで確定しいるのに、それでも歴史の舞台か

らとっくに退出すべき多くのものがまだ道いる。当然、社会生活はいかなる道路よりもずっ雑だろう。

もし中国が大きな舞台だとすなら、の舞台に以下のものが見つけられる。

  すでに過去になった封建主義、

  いまだ経験しない資本主義、

  まさに建設しいる社会主義、

  はるかな光景となった共産主義、

 そのどれもがあらこち活動しいる。四種の主義が並存しいるのが、国情のすべてではないにし、中

国のひとつの国情だとなければならない。中国理解したい人はの国情理解しなければならない。

 いう見方が生またのは比較的早かったが、研究に手けたのは比較的遅く、二年前のことである。

 一九八四年九月に中共中央十二期三中全会が経済体制改革の決定採択し、中国の経済生活をこれなく活気

づけた。の活気は同時に多くの問題ももたらした。改革はまっこれ蔽されていた矛盾が明らか

になった。改革の歩調が加速、抵抗も増大した。これは元来改革にあたっ避けがたいとで、その到来が

遅いか早いか、緩なのか急なのかが異なるだけある。

(9)

翻 訳  の現象子細に観察のは、その背後に四種の主義が作用しとである。の四種の主義

の並存は、当面の多くの問題の根源るばかりく、きわな程度中国の改革の前途るだろう。

 当然いう四種の主義の並存とは、当面の中国社会に四種の制度が同時に存在しいうのはない

し、またそれらに同等の地位用があるうのない。その中のあるものは現実の社会制度あり、あるもの

はいくつかの思想に過ぎない。ただ、たえある思想にし、その背後になんらかの力が作用しとを見い

だせるし、また中国の社会生活に影響しいるのある。

 私は現実生活に促されてこの問題の研究に着手したのある。本書は二年来の観察思考の初歩的な結果あり、

問題るだけ、まだ研究は言えず、せいぜい研究の開始うものある。

著者 一九八六年十二月北京

1.封建主義

 中国は世界封建の歴史が最も長い国家ある。数千年の封建社会は、光り輝く古代文化生み出し、人類にきわ

な貢献行った。現在にいたるまこれらの豊かな文化遺産は中国世界(特に東方)に対し

きな作用果たしいる。けれども、中国の封建社会は同時に後世の人に甚大な重荷残しいる。封建の

重荷の甚大さはおそらく世界一ある。以下ろうとする封建主義が示ものは、の伝統の重荷なのある。

 中国の人民革命が勝利しら、全国的な規模土地改革めた。封建制度の基礎は破砕さた。また、匪賊討

地方ボス反対、反革命の鎮圧民主改革封建の政治的な力量も破砕さ。けれども、人の思想

(10)

李洪林著『中国における四種の主義』(小竹)

る封建主義の伝統は、その思想含めかえっ揺り動かされていない。

 新民主主義革命の発端となった五四は、封建主義に対し烈な攻撃いた。これは現代中国の歴史

も偉大な思想解放ある。の思想解放が無ければ、新民主主義革命も無かった。

 けれども、封建の重荷がかくも甚大な中国は一度の五四だけ不十分だった。革命戦争の時代に全国的規

あらため行うのが不可能だったすれば、建国以後にそ胸中にる[原語:]封建主

義に反対る思想解放発動しなければならず、また発動できたはずだった。残念ながらこいうことは行われ

ないままだった。その時期に非常に大きな力のは、ブルジョア階級思想の批判だった。批判

のが本当に批判しなければならないブルジョア階級思想[訳者注記:ここは前後の文脈から判断、「封建主義」

または「封建支配階級思想」いった用語だとが、原文のままにした]だとすれば、ろ放棄ししまっ

た。問題はその時期に進めたのがしばしば誤った思想闘争だっにある。さらに、うした思想闘争は実際には

すべ大規模な政治動だった。結局、思想界の戦闘は連綿絶えなかったが、封建主義の伝統はかえっ穏無事

なうえに、社会生活作用発揮し続けたのある。

   革命のそのものの烙印

 封建主義が今の中国大な作用発生させいる理由は、ただ単にその歴史が長く基礎が根ことによるばか

なく、さらに中国革命のいくつかの特徴切り離せないからある。

 中国の新民主主義革命は実質的に中国共産党が指導る新式の農民戦争だった。新式とはいえ、結局は農民戦争

(11)

翻 訳

ある。だから不可避的にある程度の伝統の特徴びるだろうし、革命そのものの烙印だといえる。

 革命の主力の中国農民には、あらゆる農民じく、勤労や勇敢などの長所、社会的条件が生み

だした欠点が存在した。彼らはみずからの文化たず、封建主義の文化け入るしかなかった。分散し遅

個人経営の農民経済のせい、新しい生産様式の創造は不可能だった。それが自然経済のただ中にあった際には封建

社会の細胞かなかった。それが商品経済へ入った際にも別の生産様式に従属しいた。いう社会は農民に自

らの思想体系たせないまま存在しいた。歴史上の農民の要求表現した声もしばしば、原始的なコミューンの

平均主義への郷愁か、それとも自給自足の田園経済への憧れである。しかしこれらはすべ空虚なものある。新し

い生産様式がまだ出現しない、あるいは古い生産様式に強大になっない限り、農民の

頭脳を支配しいたのは封建主義の思想体系かない。の状況、農民革命が古い王朝転覆させも、そ

るのは新しい王朝にすぎないし、また農民革命の指導者た新しい皇帝王侯大臣になるだけだった。

うした現象は単純に個人の「堕落」「変質」きない。これらの農民指導者の堕落の程度はく驚かせる

ものあるが。すべてを決定る根本原因は社会の物質的生活条件に探し求めるべきである。

 新民主主義革命の過程におい、中国共産党は革命の隊列の主力が農民ある早くから識したから、思想教育

に特に注意した。の隊列が共産党に指導さ、マル主義を指導思想したからこそ、人民共和国る勝

取ったのだろう。だが、革命戦争が猛烈に発展は、すべ武装闘争の要請に服従ことになっ

た。思想工作はまっさ目的に奉仕ししまい、系統的な啓蒙教育める時間がなくなった。同時に、社会

的存在が社会意識定し、思想は結局のところ二義的なものきないいう、より重要な要素が

さらにあった。中国の社会経済的発展がいまだに後進的状態抜けことがないすれば、封建主義に避難港が生

(12)

李洪林著『中国における四種の主義』(小竹)

じ、繁殖る土壌が生じたのある。

 さらに別の要素が封建主義の活躍促した。それは中国共産党の理論的準備の不足ある。党は成立し

に実際の革命闘争に入り、マル主義を深る機会はほ無く、当然そ以外の広く研究

間はいっそう無かった。当時んだ理論はほロシアから紹介さもの、ロシアの特徴、特にスターリンの

特徴びることが避けられなかった。そしターリンが語ったことが決しすべス主義なかった。抗

日戦争時代の延安整風は、中国共産党教条主義から解放し、実事求是の思想方法確立し、民主革命の勝利のため

に理論的な準備行った。けれども、民主革命が勝利した後、社会主義をどように建設しなければならないかにつ

はり十分な理論的準備が無く、社会主義が何かさえもそ明白かった。いう状況社会主義を

建設の意識に潜んいた封建主義の伝統が自然に作用みだすうになっいった。

 当然ながら、理論的準備の不足はり中国の問題い。の国家にもの問題がある。マル主義の創始者

後継者は誰もがった社会主義建設の方策さなかった。またいう方策すことは不可能

各国の共産党員自身が探索るしかなかった。

 中国の特徴は封建主義の伝統がきわて深、しかも左」傾の誤り合流したあげく革命」の仮面ぶっ

神聖不可侵の原則にましまった。

 封建主義的伝統の影響が当初から普遍的に悟られてなかった「文化大革命」にいたっ態は明瞭

になった。あらゆるものが極端な方へ向かのだから。の時、封建主義の余毒の中国社会生活における重大

な破壊作用は人のいっそうの注意をやした。うのは、その影響はもはや経済、政治、文化の各方

面に行渡り、解決しないわけにいかなくなっいる。

(13)

翻 訳    自然経済を崇拝する

 封建制度の立脚点は自給自足の自然経済ある。封建支配者が自然経済ぶのは、そが最も安定し、さらにま

た人身従属の社会関係土地に固定、社会の長期安定に有利だからある。彼らが商品経済

のは、それが自然経済解体させ、そにより自らの支配の基礎掘り崩しまうからある。同様に、農民が商

品経済のも、れが自分代も依存した土地から切り離し、伝統的な生活様式るからある。

 いう安定にある長所とは、社会的生産段取りに応じ進め、絶えず循環し、動揺がもたらす回避でき

とである。だが、ういう安定は単純再生産に有利なだけ、その代価は経済的停滞ある。

 商品経済が自然経済に取っのは歴史的進歩ある。それが自然経済瓦解させるのは、社会に分化

の痛苦経験させるとはいえ、生産力の迅速な発展推進。だが中国は、の過程は非常に緩慢だった。封建

支配者は商業の繁栄がいっそう多くの奢侈品らに提供させるんだものの、商売の利益をやはり白眼視し、

飛な技巧」眼視した。歴代の支配者はすべ「農んじ商抑える」政策実行し商品経済の発展制限し

た。「士農工商」商人が常に最後に配されていた。

 中国経済の商品化害した主な原因は封建的搾取が重、農民に衣食の充足維持させるのがきわ困難

、拡大再生産など話題にもならなかったからある。さらに搾取者支配者が占有した財産も生産にはほ

入されず、基本的にすべ食の限り享楽浪費ししまった。さらに、中国の手工業業が小農の家庭

体的に固く結合したことが、分業の発展をひど妨害しれも中国の自然経済が頑強な生命力え、

商品経済の発展が緩慢だった重要な原因のひとある。

(14)

李洪林著『中国における四種の主義』(小竹) 以上の原因以外に、アヘン戦争の開始から、次に出現した以下にあげる要素も自然経済の地位強化し、ある程

度ま商品経済の発展害した。

 第一の要素は外国の侵略ある。

 中国社会に商品経済の衝撃らかにあたえたのは「洋貨」[西洋の物資]だった。その国際貿易えば、

当時の「シルード」「海のシルード」中国に到来した洋貨はずかな奢侈品か国民の生計に関

りの小さい商品ばかりだった。ところが十九世紀半ばになる、状況は変しまった。機械が製造した紡織品

その他の日用品が中国市場に到来し、中国の自然経済に生死の瀬戸際の挑戦をもたらした。洋布[外来の布]は土布

[国内の布]負かし、洋火[舶来のマッチ]は国内のマッチ[原語:「取灯」負かし、洋油[外来の石油]

が明かりをともす植物油負かし、洋碱[外来の石鹸]が洗濯用の土碱[国内の石鹸]サイカチの実

かした。これは進歩の過程ある。だが、その受益者は外国の資本家あり、したのは中国の一般民衆ある。

これはまだ、人に受け入せられなかったのが「洋煙」つまりアヘンだととを取りあげいない。

ヘン貿易は中国人の財物うけたばかり中国人の心身損ねたの「洋煙」の後についてきたのは

「洋銃」洋砲」だった。これは商売なく、直接に虐殺し略奪したのある。

 るに、の自給自足の古い文明国が初め受けた商品経済の衝撃は外国によるものだった。の衝撃がもたら

したものは民族の屈辱社会の災難だった。だからそれは強烈な民族意識した。の民族意識は国家

急存亡から救いだす大な精神力ある。しかしながら、同じ事物にはまた別の異なる一面があった。つまり、

の大規模な商品経済の衝撃が外国によるものだったために、外国の侮りともに、閉門自守自給自足

の傾向も強まったのある。

(15)

翻 訳  第二の要素は革命戦争の根拠地が長期的に分割さ包囲さ環境ある。

 新民主主義革命の期間に、中国共産党が指導した革命根拠地は重大な作用発揮した。それは、の新式の農民戦

争にもはや歴史上の流賊主義という前車の轍ませなかった。根拠地により革命武装は立脚点

なった。根拠地が人民の政権、みずからの財政さらに多少なりとも可能な経済文化の建

展開した。だが、うした根拠地は敵の分割包囲の中にずっ、外界常な商品交易以外の経

済的往来まったく行えなかった。いう状況、封鎖に対抗し革命戦争の必要るために、自力更生の

方針堅持しなければならなかった。自力更生とは本来はいかなる時放棄できない立脚点なのだが、その時期に

はそれが自給自足義語に変ったのある。自給自足は本来は分業の趨勢に反した後退なのだが、封鎖さ

拠地いう後進的なものがまさしく革命の勝利の条件に変しまった。当時は機関部隊生産をや

るべきだった自ら手つけて、衣食いうのが大生産[一九四〇年代前半に中共の根拠地だった

延安などで実施さた経済建設の大衆動]の有名なスローガンだった。方は非常に有効、敵の封鎖

負かし、多くの機関部隊の供給解決し、戦士幹部の生活善したばかりく、根拠地の財政収入

し、人民の負担大幅に軽減した。

 革命戦争の中樹立さ地方政権には自らの財政経済工作があった。戦争の勝利にともない全国政権樹立し、

一団のできあがった機構擁し、全国の経済建設とができた。これは中国の新民主主義革命の

つの長所ある。けれども、戦争の時代の根拠地は面積も限られ、工業農業の生産量もずか、商業はと

け発達しなかった。した経験は、建国以後の全国規模の経済建設には、実ははなはだ不十分だったの

ある。さらに、戦争の時期の機関事務部隊の後勤工作の管理和な時期の国家全体の財政経済工作は、まった

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