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Reconsideration of Japanese Traditional Music

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Academic year: 2021

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(1)

日本音楽の再考

Reconsideration of Japanese Traditional Music

沢 信

Nobuyoshi YANAGISAWA

(平成11年10月4日 受理)

I.はじめに

現在、我々の生活 を取 り巻 く音楽 は実 に多種多様である。そ こで本論では、音楽 と生活、又、

言語 との関連性や国民性等 について述べ ることに始 まり、 日本の伝統 に基づ くもの、 とりわけ わ らべ うたや民謡の音階構造か らなるものを取 り上 げて日本音楽 について考 え、且つ実際にそ のような音階構造 に依 って作曲されたピアノ曲について考察 をしたい と思 う。

それではまず、人間に とって音楽 とは何か、 ということであるが、 この答 えがなかなか見つ か らない。バーンスタインもこの ことについて述べているが、結局答 えは出ない と結論づけて いる。 しかしなが ら、我々の日常生活 をみて も、諸外国の様子 をみて も、人間の住む ところに は必ず音楽が存在 している。 ところで、我々 日本人が音楽 と言 うとき、それは往々にして西洋 の音楽 を意味 しているのであって、そこには日本の音楽や、 ましてや近隣諸国の中国や他のア ジアの国々の音楽 は入 ってきていないのが実状であろう。た とえばt身近 にある伝統的な音楽 や、歌謡曲、 ロックというような ものは古 くさい とか大衆的な音楽、 として学校音楽や教養の ある音楽 とい うことか ら除外 されてきてしまっている。 ところで、 ここで忘れてはな らない こ とに、国民性、又 は民族性の意識、 とい うことがある。先 日のテレビでデザイン家の稲川淳二 がやは り、パ リ留学中に日本人 とは、 ということに気がついた と述べていた。 この当然の こと を何 とな くぼやか して しまっているところに問題 はないだろうか。 しか しなが ら時代の流れの 変化 といった らよいのだろうか、「音楽」といえばクラシック音楽、西洋音楽で しかなかった時 代か ら、現代ではそれ まで音楽 とされて こなかった もの、 日本で言 えば日本の音楽の存在の意 味が見つめ直 されはじめてきていることも確かである。それ と共 に、音楽の価値観の多様性や 混迷が生 じて くることにもなった。最近 は音楽学の分野 に民族音楽学が取 り入れ られて、教員 養成大学で も日本音楽のカ リキュラムが組 まれるようになってきているの もこのような動 きの 表れだ と思 う。

ところで、 ここで留意 しなければな らないのは、 日本の音楽 を見なおそう、 という動 きに対 して何 も昔なが らの民謡や邦楽曲をこれか らみんなが行 なえばいい、 とい うような ことではな く、そのような伝統音楽 を基礎 として今 までになかった未知の ものを生み出す こと、その原動 力 として見なおそうとい うことであろう。 とにか く今 までは西洋音楽が世界 に通づ る唯一のイ ンターナショナルな音楽、 という認識の基 に我々一生懸命 にやってきているわけであるが。た しかに17〜 19世紀 にかけて輝か しい作品を残 しているヨーロッパ音楽 は、その合理性、整備 さ

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れた理論体系、洗練 された技法や豊かな表現力 をもって世界の人々に愛 される存在 となってい る。 しか し、そのヨーロッパ音楽 をもってそれだけが音楽 としてよいのであろうか。時代の流 れ といってよいのであろうか、近年の音楽事情 をみるとそこの認識 に変化が生 じているのが実 情 と思われ る。それは、 ヨーロッパ 自らが 自分たちの芸術文化の停滞 と混迷 を認 めつつあ り、

再生の道 を模索 している様子な どみて も伺 うことがで きる。た とえばウィーン出身のピアニス トにフリー ドリッヒ・ グルダがいるが、彼 はアメ リカのジャズを取 り入れることにより自らの クラシックの演奏 に活力 をもた らしているように思 える。 日本で も以前に比べるとラジオやテ レビのクラシック番組が短縮 されている傾向にあるのがみられる。それに引き替 え、歌番組や ポピュラー音楽の分野が増 えていることも事実である。又、過去にはクラシックしか演奏 しな かった交響楽団 も近年 はポピュラーな音楽 を演奏するようになってきている。 このようにみて くると、 クラシック音楽のみが音楽、 とされていた日本の音楽事情 に変化が始 まった といえそ うである。

Ⅱ。日本人の音の感覚について

それではここで音 について考 えてみたい と思 う。音 による芸術である音楽をみるとき、 ヨー ロッパ人の音の世界 と日本人の音の世界 に相違点があるのではないか、と何気な く思っていた。

日本人の音の感覚 をみると、た とえば江戸時代 は貴族 は雅楽、武士は能楽、町民は三味線 を愛 好 していた ようである。 ところで、 これ らの楽器の音 は我々が 日常使 っている日本語 と共通点 があるようだ。言葉 は音楽の始 まり、 とか言葉の向こうに音楽がある、 ということがあるが こ

こで 日本語の もつ感性 について、言葉 と脳の関係 を医学博士の角田忠信の研究に基づいて述べ たい と思 う。に1)

まず、 日本人の特徴 とか 日本文化の特徴 は日本語の感性でできているとのことである。た と えば、「 日本人の心」という言葉があるが、心 は胸 にあるようでいて実は脳 に在 ることは周知の とお り。 ところで今、 日本語で文章 を書いているとする。弦楽四重奏の音楽が隣の部屋か ら聴 こえて くる。そこで しばらく室内楽に聴 く入 る。 この時の脳の中の活動 をみると、文章 を書い ているときは言語半球の左脳が感知するが、室内楽が聴 こえると音楽半球の右脳 に感知能力が 移動するとの ことである。 もしこの場合、琴の曲が聴 こえてきた らどうであろうか。西洋人や ほ とん どの東洋人が琴のような邦楽器の音 を室内楽 と同じ右脳で聴 くのに対 し、 日本人だけが 左脳で聴 くとい うことなのである。また、西洋人やほとん どの東洋人が右脳で聴いている母音、

ハ ミング、泣 き声、笑い声 といった感情音や動物、虫、鳥の鳴き声を日本人だけが左脳で聴い ているとい うことである。ではなぜ、そのような違いが 日本人 と外国の人たちとの間に生 じた のであろうか。左の耳 と右の耳に交互 に補聴器 をあてなが らどういう音 を左右の脳で感知 して いるかを調べた結果、母音の「あ、い、 う、え、お」が 日本人では西洋人 と逆の左脳で扱われ ていることがわかった というのである。不思議なことに、同 じ日本人の遺伝子 を受 け継 ぐ日系

2世の人たちは西洋人 と同じように右脳で聴いていることがわかっている。さらなる研究 によ り、脳 の情報処理能力 は6才か ら9才位迄の言葉の環境で決定 されてしまうとの ことである。

つ まり、9才まで欧米で育 った人 は欧米型の脳 に、9才まで 日本 に育 った人 は西欧人で も日本 型の脳 になってしまう、 ということなのである。ではなぜ、 日本人 は母音 を左の脳で聴 き、外 国人 は右の脳で聴 くのであろうか。 この ことについてはまだ正確には解明されていないようで あるが、だいたい次の ことが考 えられる。 日本語 においては母音の役割が非常に大 きい。つま

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り、「 あ、い、 う、 え、お」に始 まる50音 はすべて子音 十母音で成 っている。 ここで大事 なこと は母音 にはそれぞれいろいろな意味が含 まれていることなのである。た とえば筆者の手持 ちの ワープロで調べ ると次のような漢字が出て くる。

あ…合開会逢空有明編在遇遭飽亜唖娃阿吾亜

い…異胃井亥猪位医委言行入居意射要謂位往忌去鋳炒逝 う…売打生射撃鵜産膿兎討得卯俗

え…江絵画得獲笑柄餌枝

お…御夫男尾押追捺置推負置折居措逐織圧

  

外国語 にはこのように母音 に多彩 な意味 を持たせ ることはないのである。 これは日本語独特 の もの といえそうである。西洋の言語では子音の役割が大 きいので、子音 を含む音節な どは左 脳 の言語半球で処理 されるが、母音 は音声 として、情緒性 を受 け持つ もの として、音楽の音 と

して右の脳で扱われているとの ことである。

このようなことか ら、母音 は日本人では言語 として左脳で処理 されるのに対 して西洋人では 音楽の音 として右の脳で処理 されている。 ところでふつ うは言語半球である左脳で論理的な仕 事 を受 け持 ち、音楽半球である右脳が感情的な仕事 を受 け持 っているが、我々 日本人の場合 は、

論理的なことを受 け持つ左脳で感情的な ことも受 け持 っているとの ことである。 この論理 と感 情 をひ とつにして「 日本人の心」 と呼んで きた ようである。我々がそれでは右の脳で聴いてい

るもの といえば、西洋音楽、物の音 というわけである。

以上の ことをまとめてみると、 日本人が右脳で西洋音楽や物の音 を処理するのに対 し、西洋 人 は右脳で感情 を処理 してお り、 日本人が左脳で論理 と感情 (言い換 えると心)をつかさどっ

ているのに対 し、西洋人 は左脳では論理 をつかさどっている、 ということになる。

このようにみて くると、 日本人の感′性とい うものが どうや ら日本語の性格、特徴か ら生 まれ ているといえそうである。 日本文化 とか、 日本音楽 というものを考 えるとき、 この ことは心 に 留めておかなければな らないであろう。 日本語の持つあいまいさ、などもあげられると思 う。

た とえば、「結構です」に代表 されるように承諾 にもとれるし、断 りの言葉 として も受 け取れる ものがある。 また、「〜でな くもない」という言い回 しも日本語独特の もの といえる。 このよう な言い回 しは西洋人 にはなかなか理解 されないのである。西洋人が このような場面 に直面する と、 日本人 は不可解だ と言い、更 には ミステ リアスだ、 となって しまうのである。西洋人の場 合 は論理 は論理 (左)、 感情 は感情 (右)と はっきりしているので、西洋人 と接する時はイ エス、ノーが明確 に表現できる。論理 に感情が入 らないだけにわだかまりがない、 といった ら

よいか、そうい うつ きあいができるのである。 しか し、 日本人の場合 にははっきりさせ ること をあまり好 まないようである。そうい うことが実 は日本の文化 をつ くり上 げてきているわけで ある。論理 と感情の渾然一体化。そういうものが 日本文化の特徴 と言ってよいのではないだろ うか。能面 にみるように喜怒哀楽 をひ とつの面で表す技法な ども我々の国民性の象徴 といえる。

「 日本の音」 に関 して も同 じことが言 えると思 う。 日本の楽器 (三味線や琴、尺八)の音 を外 国の楽器 と比べてみると、①音 に幅がある

 

②濁 っている

 

③ こもっている

 

④含みがある、

等の特徴があげられる。このような ことか ら日本の音 はひ とつの音で もいろいろに感 じとれる。

ひ とつの音のなかにいろいろな世界 を表現 している、 といってよいであろう。西洋の楽器の場 合 はひ とつの音 はひ とつの音で しかない。 きれいに澄んだひ とつの音。だか らこそ協和音 とか 不協和音 ということが成 り立つのであろうと思 う。 このようにみて くると、 日常用いている日

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沢 信 芳

本語 に始 まり、邦楽の音や 自然界の鳥の声な ど、 また歌謡番組で行 なっている演歌 な どは左脳 で処理 している、 とい うことになる。

だか らわれわれ 日本人の生活環境では左脳 を使 うことが多い。そのために、左 と右の脳の働 きのバ ランスをとるためにも西洋音楽や西洋の楽器 を使 った音楽が役に立って くるというわけ である。つ まり、右脳 を使 うことで感性の成長 をうながす ことになるわけである。

以上 日本語の特性の面か ら我々 日本人の持つ感性 について述べてきた。他 にも生活様式の相 違な どか らあげることがで きる。た とえば、 日本人 は農耕民族、西洋人 は狩猟騎馬民族 と言わ れている。 日本 は近代化 によって もう農耕民族ではな くなったではないか、 と思われ るが、実 はそうで もないようである。農耕社会のパター ンが現代の企業や生活にそのまま受け継がれて いる。た とえば、「みんなの和」とか「協調性」を重んじる精神や、教育 における「偏差値」な

どは農耕社会か ら受 け継がれた典型的な もの と思われる。

,日本人の笑いについて

教育者兼作曲家である永井彰 は平成11年 3月 発行の「たにし通信」の中で、 ヨーロッパ視察 旅行での ことを次のようなエ ッセイに載せている。「〜前略。 ウィーンのフォルクス・オーパー でレハールの歌劇 『メ リーウィ ドー』 を観劇 した時の事である。劇 中、舞台で歌手が無言でお か しな仕草 をした。すると隣席の客が小声で くす くす"と笑 った。暫 くして又無言の動作 に 反対側の客 も小声で笑 った。私 には、何故笑 うのか理解で きなかった。授業ではすでに、劇中 の有名なワルツを教材 にし、歌劇全曲 もレコー ドで何回 も聴いてきていたのに。〜後略」 日本 人 には別 におか しくもない ところで西洋の人たちは くす くす笑 う、 ということである。 ここで 感情表現の「笑い」 について少 し触れてみたい。 ここにも日本人 と西洋人の違いが認 められ る か らである。日本人 も笑いが好 きであることに変わ りはないのあるが、た とえば日本人の場合、

「大笑い」が許 されるのは落語や寄席の場、 または若い女性達が数人でお しゃべ りしていると か ごく限 られた場合であって、 日常生活の中ではあまりみられないようである。それは日本の 社会の中に大笑いを抑制するものがあるか らであろう。普段 その大笑いをすると、「バカ笑い」

とか「バ カ騒 ぎ」 とい うことで非難の対象になってしまうわけである。 また、笑い方 もいろい ろな区別が認 め られる。一般的には「ハ ッ、ハ ッ、ハ ッ」の音であるが、他 に「 ヒ、 フ、へ、

ホ」がある。更 に「力、キ、ク、ケ」の擬音語、 また、漫画や小説の中ではいかに笑 ったかを

「ニヤ リ」、「ニタ」、「ニコ」 とい う風 に表現 している。 これ らも先程述べてきた ように日本語 の母音の性格 に通づ るものがあるいのではないだろうか。西欧人の場合 は「ア」の母音がそれ ほど強 くな く「ハ、ハ、ハ」で笑 うが、それ以外 には大声で笑 うか小声で笑 うかの違い ぐらい しかないように思 う。 このようにみて も我々 日本人 は笑 いについてフト常な使い分 けをしている ようである。 この ことも、 日本人の感性 に関連するもの と思われる。にa

ここまで、 日本人の感性 について言語 を中心に述べてきたが、 この事 に関連 して、 日本語の イン トネーションと音楽のフレーズ感 について考察 してみる。

譜例1はモーツァル トの ソナタ KV、 545の 冒頭の部分である。この ところを多 くの学習者 は 譜例2のようなアクセン トをつけるように弾いて くる。そこで、 フレーズの始 まりの弾 き方 と か まとめ方について譜例3のような ドュナー ミクのニュアンスについての説明 をす るのである が、暫 くす るとまた元 に戻 って しまう。

(5)

譜例 1

(Allegro)

劣粥

12

課祁可3

1Allegro)

これは言葉のイン トネーションと少なか らず関係 あるように思 う。た とえば「わた しは、がっ こうへいってきました。」と言 う場合、「わた しは、がっこうへ、

 

いってきました。」(下線 は強 調 して言 うところ)と発音する傾向がある。 このような話 し言葉のイン トネーションがそのま

ま音楽のフレーズ感 となってしまうのではないだろうか。

Ⅳ。日本の特性 と国際性

ところで、現代の国際社会 を迎 える時代 において、いかにこの日本の特性 を生か してい くか、

とい うことが課題 となって くる。真の国際性 とは何か、 とい うことが問われ るわけであるが、

日本人 における国際性 とは往々にして相手の国 (主 として欧米の国)の生活様式な り文化 に自 分 をはめこもうとしてい くことだ と思っているようである。 しか し、外国人 の場合 はどうか と いうと、た とえばウィー ンにいた頃留学生の交歓会があっていろいろな国の人が集 まった こと があった。余興の時間にな り、自分たちのPRを始めるのであるが、そういうときに、自分の国 の踊 りな どを自分の国の仲間 と自分の国の言葉で しゃべ り、笑 い、唄 っておおいに興 にのって 表現 している姿がみ られたのを覚 えている。おおいにはじゃいでいるわけである。「郷 に入 って は郷 に従 え」式の日本人 にとっては圧倒 されんばか りの集団誇示 をしているのである。 日本人 はこうい う態度 をみて「我々 日本人 はあんないや らしい ことはしない」 とい うわけである。確 かに我々 日本人 は一般的に性格的にお となしく、辛抱強 く、見事 といえる適応能力 をもって西 欧の諸国に接 してきたのである。そうい う中で 日本文化のひ とつである「〜 らしさ」 というも のをつ くってきた ことも事実であろう。 しか し現代、 ここまで交通が発達 し、情報 も手 に取 る

(6)

沢 信 芳

ようにわかって くる時代 にあって、た とえば音楽ならば西欧 と日本の相違点を認識 し、そのう えに共通の ものをもって行 なってい く、 ということが我々にとって真の国際化ではないだろう か。 ここでい う相違点 とは、音階、それを基 とした和声である。共通の もの としては、 ピアノ やオーケス トラ楽器 という国際 コンクールで使われている楽器 を用いての演奏形態などであろ

う。

V。 日本音階、和声について

それではここで、 日本音楽 についてその音階や和声について考察 をすすめることにする。木 挽唄や檜山節考の作曲で知 られる小山清茂の主催する作曲集団「たにしの会」 は、 日本のわ ら べ うたや民謡の中に音階のルーツを探 り、そこか ら和声 を組み立てて創作 をしている。この「た にしの会」の作品か ら、 ここでは「 ピアノのわ らべ うた第4巻」に収 められている「ほたるこ い変奏曲」 を取 り上 げて、その音階構造 について考察 したい と思 う。

その前 にここで音階、和声の基本 について述べておきたい。

音階 音階には 譜例4

「陽旋法」 と「陰旋法」がある。

①「陽旋法」

譜例5

(0で示 したのが音階音 で(● )は上下 に広 がる場合 の音で ある。)

には「陽旋法第 1」 と「陽旋法第 2」 が あ る。

(0で

示 した の が音 階音 で

(● )は

上 下 に広 が る場 合 の音 で あ る。

)

②「陰旋法」には「陰旋法第1」 と「陰旋法第2」 と「陰旋法第3」 がある。

 

これらの音階は基礎的音階 と呼ばれるが、この音階で短3度を残 し、他を経過音および 指向音でうめた り広げた りしてできた音階が派生的音階である。「派生的陽旋(1)」 「派 生的陰旋 (1)」 がある。儒卿16)

(7)

譜例6

上記の音階はそれぞれ

12の

調 をもつ。

このような音階の中で も最初の音 を「第1核音」(1核)、 それ より完全5度上方の音 を「第

2核音」(2核)と呼ぶ。核音 はそれぞれの音階の中で、旋律および和声構成上最 も重要な働 き をす る音である。西洋音階の「主音」、「属音」 と上ヒ較 して考 えられるだろう。ほとん どの曲は

1核または2核で終止す る。譜例7に二調陽旋法第 1と 二調陰旋法第1の核音 を示す。

譜例

7       1核       2核

和声

上記で述べた「陽旋法」、「陰旋法」、「派生的陽旋」、「派生的陰旋」の各音階構成音の中で2 音以上の音が組み合わされてできる音の集団を和声 と呼ぶ。

上記 の音 階構造 に基づいて、藤城稔作 曲「 ほた る こい変奏 曲」について考察 をしたい と思 う。

(譜12)

Themaは イ長 陽旋法第1で ある。なお ここに見 るようにピアノ曲で も歌詞がついてい る もの は西洋音楽 にも珍 し くない。例 えば、譜例 9はブラームスの ソナタ第1番2楽章 の冒頭 である。

"別

9      Andante      a)

CNach ohem altaeutschen lllmeliedoD

Ver

.

stoh.len

geht rler

Monil

auf,

blau,.blau

rlurob

Sll.ber-wblk-ohen

Variation lも イ長陽旋法第1である。下声部 に派生音階が使われている

Variation 2も イ長陽旋法第1である。下声部の冒頭の和音のホ音 は第2核音 に当た り、続 く上声部 に第1核音が用い られている。まず第1核音か ら始 まるThemaや Variation lと

緯過音

(以

下各音階 各調 とも省略

)

(基

礎 的 音 階 は 白玉,派生 音 は 黒 玉 で 示 した。)

陽旋11}

ここで は1例として二調陽旋第1に基づ く和音 の基本型 を提示 してお く。

(8)

な り、変化 を持たせている。

Variation 3も イ長陽旋法第1である。 ここでは上声部 と同時に始 まる下声部 に第2核音が 使われてお り、派生音階が巧みに使われている。

Variation 4も イ長陽旋法第1である。上声部、下声部共第1核音か ら始 まり、明確な構成 となっている。

Variation 5も イ長陽旋法第1である。下声部 は太鼓 の リズムである。第1核音 と第2核 を交互 に用いている。第5小節の上声部 にある嬰へ音 はイ長陽旋法第2の5音である。 した がってここでは、イ長陽旋法第 1と 第2が用い られている。

Variation 6は イ長陰旋法第1である。西洋音楽の変奏曲で も終わ りのほうで同名調が使わ れているの と似ている。なお第3小節の上声部 にへ音があるのでイ長陰旋法第 2も 使われてい

る。

Variation 7は主調 に戻 ってイ長陽旋法第1である。西洋音楽では数少ない5拍子が使われ ている。第8小節以降に派生音階が使われて装飾的効果 を持たせている。

.考察の まとめ

「 ピアノのわ らべ うた」の曲集 を演奏 して強 く感ずることは、音階や和声の響 きに自然 に入 っ ていけることであった。 これは筆者の感想だけでな く、聴衆の批評で もあった。和声的短音階 を除いて、全音 と半音か らなる西洋音階に慣れ親 しんできた我々にとって、2全音、1全半音、

全音 そして半音か らなるこれ らの旋法 による作品は、何か真新 しい響 きにも感 じられ よう。 し か し、実 はその中に我々 日本人が忘れてはならないもの、捨ててはならない ものがあるように 思 う。例 えば日本古謡の「 さ くらさ くら」に今 までは譜例

10の

ような和声 をつけることが多かっ た。

需普3110

しか し、

譜例11

本来 は譜例

11の

ようにつけるのが よいであろう。

引用・ 参考文献

(注 1)日本人 と感性

 

片岡輝編

 

音楽の友社

 

昭和59年 PP.39‑53

(注2)日本人の笑い

 

深作光貞著

 

玉川大学出版部 1978年 PP。 15‑32

ピアノのわ らべ うた第2巻 たにしの会編

 

音楽之友社

 

昭和50年 PP.82‑85

ピアノのわ らべ うた第4巻 たにしの会編

 

音楽之友社

 

昭和50年 PP.15‑21

モーツァル ト

 

ピアノ・ ソナタ集

音楽之友社

 P。 110

ブラームス

 

ピアノ曲集

音楽之友社

 P。 13

l l イ

l t

(9)

譜例12

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(10)

沢 信 芳

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参照

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