角
著者 ?木 展郎
雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 教科教育学篇
巻 26
ページ 1‑22
発行年 1995‑03‑24
出版者 静岡大学教育学部
URL http://doi.org/10.14945/00008292
静岡大学教育学部研究報告 (教科教育学篇)第26号 (1995.3) 1〜22
授業パ ラダイム転換期 にお ける 国語科授業研究の視角
A Perspective of Classroom Research in Teaching Japanese as
Ll
in the Age of Paradigmatic Change高 木 展 郎
Nobuo TAKAGI
(平成6年10月 11日 受理)
I。 授業パ ラダイム転換期 としての今 日の教育改革
1.授業パラダイムの転換の意味
今 日の日本の教育の出発を明治5年の学制の発布 とすると,それ以降の日本の教育における 授業のあ り方は,一部に例外はあるものの,多くは「教授」ということばに象徴 されるように,
指導者による知識の伝達 とその伝達方法の工夫に重点が置かれ,それを具現するものとしての 指導過程に授業の中心があったということがいえよう。
その教育状況の中で,学校教育が担ってきたものは,「知」の獲得であ り,学力 としての「知」
の再生であった。 この「知」ということに対するパラダイムの転換は,「学校知」ということば によって象徴されるように,学校 という社会のみに関して有効な「知」の獲得に対する問い直 しでもある。
平成元年度「小学校学習指導要領」の「第1章 総則」「第1 教育課程編成の一般方針 1」
に示された教育方針によって,平成3年に改訂 された指導要録の評価項 目に観点別学習状況評 価が導入された「新 しい学力観」という名の下に,これまで学校教育が担ってきた「知の獲得」
という学校教育の中心的な役割の見直 しが行われようとしている。そこには,学校教育が これ からの時代にどのような人材の育成を行 うか ということをその視角に入れているとも考えられ る。
そのために,いかなる人材の育成 をこれか らの 日本社会のあ り方 として描 いているか という ことを,文部省が どの ように捉えているか とい うことは,今回の指導要録の改訂の中で基礎・
基本 とす る事項 を「 自ら学ぶ意欲・ 思考力・ 判断力・ 表現力」 とした ところに見 ることができ よう。
この文部省の主導 による指導要録の改訂 によって,これ まで学力 として評価の行 いに くかっ た情意面の評価 を,「知」の獲得 とい う面か ら考 え直 そうとしていることを見 ることがで きる。
その ことは,実際の授業 において も,「関心・意欲・態度」 とい う情意面の評価 を行お うとして いることに も認 め られ る。
この ような授業観 の転換 は,これ までの 日本 で行われて きた授業 その ものへの見直 しとも
なっている。
2.授業観の転換
「新 しい学力観」 に対応 した授業観の転換が,小学校や中学校で現実の問題 として,具体的 な授業の現れ として行われ始めている。 それは,個別化・個性化 に対す る対応す る授業 として,
具体的な授業 として実践 されてきている。
その例 を,富士宮市立富士宮東小学校の国語科の実践や藤枝市立広幡中学校国語科の実践 に 認 めることがで きる。
この小学校 と中学校では,これ までの指導者である教師中心の一斉学習か ら,学習者一人 ひ とりの認識・ 思考のあ り方を,学習過程 において学習者 自らが納得 による自覚 を通 して,自ら
の学習の意味 を充実 させ ることを授業 として組織・ 構成 している。
例 えば,富士宮市立富士宮東小学校証1では,「ペア学習」「00R(相互 に意見交換)」 とい う 一斉学習指導の中での個別学習の時間 を学習者 に保証 し,学習者一人 ひ とりが 自らの読 みの検 討 を学級の中の他者の読 みを くぐらせ ることにより,一人 ひ とりの読みの自覚化 を行 っている。
また,藤枝市立広幡中学校註2では,学習の個性化・ 個別化 を図 るための教材構成 を行 ってい る。中学校2年生の古典では,教科書教材の「敦盛 の最期」 を共通学習 として学習の方法 を身 につけた後,選択学習 として「木曾最期」「坂落」「那須与一」賄旨登殿最期」の4つの教材 を用 いて「個人学習」 を通 した読みを行 い,次に「小集団学習」 によって個人追究 した ものをもと に学習者相互 によって自己相対化 を通 した学習の深化 を行 った上で,学級全体 として一斉学習 を行い,学級全体 としての読 みに高めている。
このような学習の意味 を,研修 主任である朝比奈義典教諭 は,次のように考 えている。
(1)系統的な学習 による基礎 0基本の定着 (2)個に応 じた指導
(3)リフンクションによる自己評価
この二つの学校 に共通するものは,学習者 の個別化・ 個性化が学級集団を構成す る学習者間 での切 り離 された個ではな く,学級 を構成す る個 と他者 との相対関係の中で,個の確立 を目指 しているところに意味がある。
しか し,こ の ような学校 はまれで,個と集団 との関係 を十分 に捉 えず,切り離 された個 を持 っ て個別化・ 個性化 を行 っていると錯覚 している事例が多いの も事実である。
そこで,授業観 その ものの転換が図 られな くてはな らない と考 える。
3.これ までの国語科の授業の実態 とこれか らの方向
昭和33年版学習指導要領か ら,国語科 においては,文種の指定が行われ,それによって学習 方法 と学習内容の開発が行われて きた。 しか し,それに伴 う国語科の指導過程 に見 られ るよう に,説明的文章の読解指導で典型 となった「段落分 けと要 旨の まとめ」や,文学・ 物語 におけ る「主題把握 と心情理解」 といった固定化 した読解中心の授業方法 と授業内容 とを生み出 して きたのである。
その ことに対す る見直 しは,例えば,森田信義註3の提案 をきっかけ とし,国語科教育 におい て今 日もその見直 しが図 られている。 しか し,その見直 しも,説明的文章のジャンル とい う枠 を超 えての ものではない。それは,文学のジャンル にも言 えることであ り,文学教育 とい うこ
授業パラダイム転換期 における国語科授業研究の視角
とばがあるように,第二次世界大戦敗戦後の1950年代 に,国語科教育の中心的な役割 と働 きを 担 って きた ものが,今日も国語科教育の中心 に位置づいている。文学教育や説明的文章の指導 のそれぞれは,国語科教育の中で意味のあることである。 しか し,国語科教育全体 の中での位 置づけすることな しに,文種別 の読解指導 としてのみの学習であることが多 く,国語科教育の 全体的な教育 目標 と学習 目標 とに結びつ くものではない面 もある。
これか らの国語科の授業 における学習者の学習内容の違いを生み出す ものは,文種 による学 習指導の違いではな く,学習者の学習行為 による学習指導の展開 を,学習過程 の中でいろいろ な角度か ら図ってい くことにあると考 える。 それ は,鑑賞 としての国語科教育 とい う面 を切 り 捨てるのではな く, トータルな人間力の育成 とい うことに言語教育が直接的に関わっていると い うことか らの,教科構造 の再検討 ということに もなる。 そ こでは,文種 による学習の違 いで はな く,さ まざまな文種 を総合的に,かつ,有機的に取 り入れた授業展開 となる。
近年の単元学習の再興隆や総合単元学習の提唱 は,文種別の読解のみが行われてきた国語科 の授業 に対す る再検討 を迫 るものであるとい う捉 え方がで きる。それは,昭和20年代 の経験主 義教育の中での国語科の単元学習 とは,その意味が異 なって くる。
これか らの単元学習 を取 り入れ る方向 として,言語経験 を積 む ことのみでな く,こ とばを獲 得す る学習 を通 して,その学習行為 を再構成す ることのプロセスの中で,こ とばの意味の充実
を図ってい くことに意味 を見い出 したい。
この ような場合,国語科の教材 は,学習者 の学習行為 を成立 させ るために,これ までの国語 科の授業 にお けるものよりも,さ らに重要な意味 を持 って くる。
4.教材研究の意味の変化
これ までの教材研究 は,指導者が学習者 に何 を教 えるか とい う,授業 にお ける伝達の内容の 検討・ 吟味 と学習者の学習活動 を刺激 し起 こさせ るための発間の準備 とい うことが,その大 き
な目的であった駐4。
しか し,これか らの教材研究 は,学習者の学習活動 をいかに支 えるか とい うことがその中心 とな り,そのための授業組織・構成 を教材編成 によって行 うことが意味 を持って くると考 える。
この ことは,前述 した単元学習の方向 とも通 じるものがある。教材編成や教材構成 を行 うのに,
教材一つひ とつを単一的に取 り扱 うのではな く,長いスパ ンの授業 を見通 した中で,各教材が 関連 を持 った文脈性 を有す る単元 としての意味 を持つ方向にある。
義務教育の学校での教材 は,その主たるもの として教科書教材 を用いている。国語科におい ては,小学校6社,中学校5社の教科書が出版 されている。 その中で,各社 に共通す る教材の 数 は少ない。 その共通教材 は,文学の分野の もののみで,説明的文章や表現 においては,共通 する教材 はない。その ことは,教科書教材 において も,教材数が多数 ある ということにもなる。
この ような教科書教材の状態 は,国語科 における教材研究の困難 さをも生んでいる。
その困難 さとは,以下の ことによるもの と考 えられ る。
本来,教材の違 いが学習内容の違いになるとい うことか ら,教材 によって学習内容が異なっ て こなければならない。 しか も,各教材の有す る学習内容 を,学習者の実態 を把握 し照 らし合 わせて,授業 を行 う各指導者が教室実態 にあった もの として教材化 を図っていかな くてはな ら ない。
そうなるとた とえ同 じ教材であって も,教室実態の数だけ指導のあ り方が異なって くるとい
うことになる。それはある意味では当然の ことであるのだが,現実 はそ うで はない ことが多 く ある。指導者 は,それぞれの教材 に固定的によ り添 った指導過程や発間 を用いた授業 を行 うこ とがある。 この ことの生 まれてきた要因 に,教科書教材 とい う固定化 された教材のイメージが あると考 える。教科書教材 は,教材 として既 に与 えられた ものであ り,指導者が学習者の実態 を見極 めて発掘 した ものではない。 そこに,指導者 と学習者の教材 に対す る主体性の欠如が生 まれる。 この教材 に対する主体性の欠如 は,国語科 の学習 において も,読む とい うことに対す る受動性 を生 む こととなる。
教材が既 に与 えた ものの中にある とい うことか ら,教材 は教室 の実態の中か ら生 み出す とい うことへの発想の転換が行われた とき,指導者の教材研究の意味 に変化が生 じる。
教科書 とい う主たる教材があることによって,指導者の教材観の固定化が生 じている今 日の 現状か ら,学習者の学習行為 によつて,教材が生 まれる とい う教材観 を生成す ることには,未
だ至 っていない。 これ までの教 えるための材料 としての教材 とい うことの意味 を,これか らは 学習者 の学習行為 を支 える学習材 と捉 えることか ら,これか らの国語科の授業 を考 えて行かな
くてはな らない。
5.学.ζミとい うことの文脈性
教育 において,生涯学習 とい うことがいわれている。それは,日本人の平均寿命の伸び とも 関わつてはいるものの,これ までの学習 とい うことが,その多 くの部分 において学校教育のみ に担わされて きた ことへの反省で もある。学校 を卒業す ることが「学び」の終了 とい うことで ない とす ることか ら,生涯 に渡 る学習 を行 うことので きる力の育成が求 め られて きた。今 日, 学校教育 において自己教育力の育成 とい うことがいわれ るようになったの も,この ことと無関 係 ではない。
ここに,生涯 に渡 る学習 とい うことの文脈性が生 まれて くる。学ぶ とい うことが,学校教育 のみに閉塞 されて きた これ までの現状 を転換 し,人間の一生 とい うスパ ンの中に学ぶ とい うこ
とが位置づけられ ようとしている。
この ことは,何も生涯教育 という学びの中に学校教育が拡散 され ることではない。生涯教育 の中で,今日の学校教育がいかなる位置 にあ り,いかなる意味があるのか とい うことを,明確 に捉 えていかな くては,学校教育 の焦点がぼや けて しまう。
学校教育 には,その中で自己完結す る部分が多 くある。 また,現実の社会生活 に直接的に関 係 しない学習 もある。だか らといって,学校教育 に意味がない とは言 えない。国語科の授業 に 関 して も,例えば,説明的文章 におけるいわゆる典型的な説明的文章 といわれ る,問題解決の 順序性 と謎解 きを内容 に持 った文章 な どは,現実の生活の中ではほ とん ど眼 に触れ ることがな いにも関わ らず,基本的学習事項 として読解が行われているし,指導者 にも人気がある。
そ こにおいては,学校生活 を離れての文脈性 は,意識 されていない。 しか し,そこに学校教
育の意味 を見い出す ことは可能 であるが,そこの所 に,逆に,これ までの学校教育の自己完結 性 と閉塞性 とが象徴化 されて もいる。
学習者一人ひ とりの これ までの学びが,現在 までの学 びにいかに関わ り,そこにいかなる文
脈が生 まれているのか とい うことへの問いか けが,学習者一人ひ とりに生 まれた とき,学びの 文脈性 を獲得することとなる。
その ことは,学習 に対する評価 とい うことに も見 ることがで きる。今 日多 く行われている評
授業パラダイム転換期における国語科授業研究の視角
価 は,総括的評価か ら形成的評価へ と変わろうとしている。 その こと自体 は,学習者 のプロセ スの中での評価 を行 うことになるので意味あることい うことがで きる。 しか し,その形成的評 価 も,評価 を行 うことが目的的 となって しまっていることがある。評価 とは,評価することに よって完結す るのではな く,評価 それ 自体 をも学習者の学習過程 における学習行為の中に位置 づける必要があると考 える。それは,学びにおける終末がないの と同様 に,評価す ることによっ て学習行為が終わ るわ けではないか らである。 そこに学ぶ とい うことの文脈性が生 まれるので ある。
Ⅱ。国語科授 業研 究 の地 平
1.戦後の国語科教育 における授業研究
戦後の国語科教育 における授業研究 については,次の ものにまとめた。
飛田多喜雄・野地潤家監修 『国語教育基本論文集成』「00国語科授業論 (1)授業研究」長谷 川孝士,高木展郎編集・ 解説,明治図書,1993年,全505ページ.
国語科授業研究 は,国語科 とい う教科の教科内容 と授業の具体物 となる教材の内容 とが大 き く関わってきている。 そのために,授業の一般化 とい う教育科学への方向性 には,馴染 めない ところがある。
学習者の学習活動 は,学習者一人ひ とりの数だけ存在 している。 さらに指導者 における個人 差 は,国語科の授業 においては人間性 の問題 となって学習者 との関係 を作 り上 げている。 ここ か らも,国語科の授業研究 は,科学化 とい う方向性 には馴染みに くい。
これ までの国語科授業研究 は,戦後,教育学 における授業研究 を,その内容的な支 えとして いた。 しか し,そこには,教科内容 としての授業研究の切 り回はなかった と言 えよう。教育学 における授業研究の方法 をその まま移入 し,それを国語科の授業 において検証 してきたのが実 態である。
国語科の授業 は,授業の構成要素 としての,学習者・ 指導者・ 教材の有機的関係の上 に成立 しているが,そのいずれをとって も,国語科 とい う教科独 自の内容 を抜 きに研究す ることはで きない。 しか し,現在 の ところ,その ような研究の視角は未だ国語科授業研究 として成立 して いない。
2.国語科授業研究の研究領域 における授業研究の位置 国語科教育学の研究領域註5を,次の ように考 えている。
① 国語科教育学理論研究 A。 国語教育史学
(a)近代国語教育史 (明治・ 大正・ 昭和 〈戦前・ 戦後〉0平成
)
(b)古典国語教育史 (上古・ 中古 0中 世・ 近世)
イ。(aXb)の内容分類 に)理論史
lul 実践史 い 教材史
0 学習史 (教授史)
口.イ)0190の領域
読解・ 読書,綴り方・ 作文,聞くこと・ 話すこと,文法,文学の歴史的研究 (C)国語教育個体史
(d)国語学習個体史
(e)地方国語教育史研究 (通史・ 特殊史)
(f)国語教育学説史研究 (目的・ 内容・ 方法・評価/本質・ 意義・ 価値・構造・ 機能・
役割・ あり方)
B。 国語教育学原論
(a)国語教育の本質・ 構造・ 内容・ 方法の原理・ 原論 (b)国語科教育課程の原理・ 原論
(C)国語の学力論・評価論
(d)国語の学習心理・ 発達心理の原理 │
(e)国語教材の原理・ 原論
(f)国語科学習の原理・ 原論 (学習者論・ 学習過程論・ 学習内容論)
(0 国語科指導の原理・原論 (指導者論・指導過程論・指導内容論・ ライフコース研究・
学習指導計画論・ 学習指導方法論・ 学習指導技術論)
(h)国語科授業論
② 国語科教育実践研究
A.学習指導の内容研究 (a)「表現」の領域 (b)「理解」の領域 (C)言語事項
B.教材研究
(a)歴史的研究 (教材の変遷・ 特質)
(b)構成的研究 (教育課程・ 教科書・ 単元・ 教材の組織化 と位置づけ)
(C)素材的研究 (作品論・ 作家論・ 作品分析)
(d)指導的研究 (教材 と指導過程・ 指導方法 との関係)
C.授業研究
(a)授業過程研究 (学習者,指導者,教材 との有機的な関わ りについて)
(b)授業分析・ 実態研究
(C)指導研究 (指導過程・ 指導方法) (d)学習者研究 (学習過程・学習行為)
(e)指導者研究 (指導行為・ 指導技術)
③ 比較国語教育学
USA・ フランス・ ドイツ・ ソビエ ト0イギ リス・ 中国
(今日研究が行われているのは,上記の国であるが,それは先進諸国のみであ り,他の
国々の研究 も行われな くてはならないと考えている。)
授業パ ラダイム転換期 における国語科授業研究の視角
④ 国語科教育のための諸学
教育学・ 心理学・ 認知心理学・ 言語学・ 国語学・ 国文学・ 児童文学・ 漢文学・解釈学・
表現学・ 書道
上記のような国語科教育研究の領域から国語科授業研究の位置を捉えると,実践研究 として の位置に重心を置 く必要があると考える。
国語科の授業そのものの意味づけを行 うならば,「①国語科教育学理論研究 B。国語教育学 原論」を基礎 とする国語科授業論を構築 しな くてはならないが,日々の授業の中から国語科の 授業についての考察を行おうとすると,「②国語科教育実践研究 B.教材研究 C.授業研究」
の項目にあげた事実 としての授業そのものをいかに捉えるかという実践研究を積み重ねなくて はならないと考える。
3.国語科授業観形成の拠点を探ることの意味
今 日までの授業研究の歩みは,授業分析のためのテープンコーダーからビデオ,さ らにコン ピユーターヘの機器の発展に伴って移 り変わってきたともいえよう。それによって,授業研究 そのものが,授業を学習者 と指導者の発言や表情 という外観可能な面からのアプローチが主に 行われ,学習者や指導者の内面における思いや考えといった,日に見えない学習活動や学習行 為を捨象 してきた。
授業の構成要素 としては,学習者・ 指導者・ 学習材 (教材)の三つがあげられる。国語科に おける授業研究では,このうち,学習材 (教材)の内容論の研究 とその指導についての研究が 比較的多 く行われてきた。 また,近年,学習者を中心 とする「読み」からの授業研究 も行われ てきている。
上越教育大学言語系教育研究系国語 コースの研究では,学習者 に焦点 を当てた授業研究 を 行ってきている註6。 そして,『国語科教育実践場面の研究Ⅶ』において,指導者に焦点を当てた
「研究カンファレンス」を行っている。
国語科の授業研究については,平成5年度の第 85回 全国大学国語教育学会での課題研究「授 業研究の試み―研究法を中心に」でも取 り上げられ,有沢俊太郎が「国語科教育実践研究」 と いう立場から整理されている註7。
教育学においては,近年,教師教育 とともに教師の力量形成についての研究が行われている。
教育学において,教師の力量形成の研究が行われるようになってきた今 日的状況は,これまで のカリキュラム研究が,教育内容研究の理論的構造によって成立 してきたものが,学習者一人 ひとりを育てることに学習の焦点が当てられてきたとき,その学習者を育てるべき教育の現実 態の主たる要素 となる指導者に焦点を当てて,教育 という事実の中から教育を捉え直そうとい うことから,カ リキュラム研究から教師教育研究へ と,教育研究のスタンスがシフ トしてきて いるのである。学習の個別化・個性化 という角度からの教育の転換が図られようとする今日,
授業を組織・構成する指導者 としての教師註8そのもののあり方についての研究は,毎日の授業 という学校教育における主要な位置を担っている教師 とは何か ということの追究にもなる。教 育学におけるカリキュラム研究が,教育の目的 と方向性,到達点を規定 してい くことに対 して,
学習者の学習のあ り方を支える指導者のあり方 としての教師研究に,教師の力量研究が意味を 持って くる。それは,学習者 としての一人ひとりの子 どもの学びのあり方を支えるために,教
師 はいかなるスタンスを取 るか とい うことにもつながる。
教師の力量形成 について,山崎準二 は,「ライフコース0アプローチにもとづ く教師の力量形 成 に関す る研究」註9を行 っている。教師のライフコース研究の目的 を,山崎 は次の ように述べ ている。
教師 (こ こでは主 に小・中学校の教師 を念頭 に置いている)は,教師 としての専門力量 を, いかなる場 において,いかなることを契機 として,いかなる具体内容の もの としてそれを自 覚 しなが ら,獲得 してい くのであ ろうか?一 筆者の「教師のライフコース研究」の目的 は, 一貫 してその点 にある。従 って,「教師のライフコース」それ自体の トータルな解明 というよ
りは,あ くまで「教師 としての力量形成過程」 を解明す るとい う焦点化 された 目的のために
「教師のライフコース」 を研究するのである。
これ まで授業研究 は,その研究対象 としての授業 を,一教材や一単元 とい う比較的短いスパ ンの中で取 り上 げてきた。学習者の成長 と共 に,指導者の教師 としての変化や成長 は,比較的 緩やかに形成 されているし,また,ライフコースの中でのあるきっかけによって も大 きな変化 や成長 をもた らす。一人ひ とりの教師が,変化や成長の拠点 をどのように捉 え自覚 しているか は,長いスパ ンの授業研究 による教師の力量形成 を見てい くよりほかにない。国語科授業研究 において も,その項 目の一つ として,教師のあ り方その ものを問 うことを行 うことが必要 となっ ているのである。
教育学の教師研究では,国語科授業の内容論 にまで立 ち入 らない ことが多い。一般性 の追究 とい う角度か ら,仕方のない ことで はあるが,国語科 とい う教科の特性 を考 えると,国語科の 授業 に独 自にかかわ る教師の姿勢や内容 の追究が必要 となる。 しか しその こととは逆 に,これ までの多 くの国語科授業研究 における指導者 についての研究では,その指導方法 と指導内容の 追究がほ とん どであった。そこで,国語科授業研究 の一つの視角 として,国語科教師の力量形 成 についての追究 を行 いたい。
そのための研究手法 として,統計処理 を行 わない一人 ひ とりの教師 に対す るア ンケー ト調査 が意味 を持つ と考 える。
教育科学への志向が,教育 の科学化 ということのために,その研究方法 に「仮説―実験一検 証」とい うプロセスを通過することが科学であると,1960年代以降,今日まで されて きた。 そ れは,人間 を対象 とす る教育学 において も,普遍 の追究方法 と考 えられた。 しか し,教育が学 習者 とい う「個」 とい う人間 に回帰す る以上,普遍だけでな く特殊 をも対象 にした事例研究 を 行 うことは,総体 としての教育 の追究 と同時 に,個別の人間の教育の追究 となろう。教育の現 実態 を明 らかにす るには,統計的に処理 した数値 より,生の声の集積 を行 うことの方が,事実
をあ りの ままに捉 えることがで きる場合 もある。
授業研究が仮説の検証 という収束化 をはか り結果 を求める研究だけでな く,オープ ンエ ン ド
の授業研究 として,プロセスの中で事例研究 として授業の現実態 を捉 えてい く研究への積 み重 ねが必要である。 そこには一人ひ とりの指導者 としての教師 としての文脈性が存在 しているの である。
これ までに高本 は,国語科教育の立場か ら,教師の力量形成 と国語科の授業研究 との関わ り について考察 してきた註Ю。そこでは,主に授業内容 としての学習材 (教材)と授業の組織・構
授業パラダイム転換期における国語科授業研究の視角
成 との関係 を,指導者 としての教師 に焦点 を当てて捉 えて きた。
国語科の授業 を,教師 として どの ように捉 え,どのように考 えているか とい うことが,授業 の具現化 とい うこととどのように関わ るのか。 それが,教師一人ひ とりの力量 ともどの ように 関わ るのか。 その ような教師が これ までにどの ような文脈 を一人 ひ とりが辿 って きたのか。 と い うことの追究 は,教師の力量形成 のあ り方 を問 うこととなる。その ことは,教師の経験的, 体験的 に裏付 けられた国語科の授業観 を見 ることとなる。教師が 自分の授業 を意識化す ること
により,授業 を自覚的 に リフレク ト(自省)してい くことは,教師の力量形成 に とって欠 くこ とので きない自己組織性の拠点 を見 ることとなる。
一人 ひ とりの教師が国語科の授業 をどのように対象化 し,その中で どのような授業 を行お う としているのかをアンケー トに回答することによ り, リフレク ト(自省)することを通 した 自 覚化 を図 ることに,教師の力量形成の意味がある註n。
Ⅲ 。国語科授 業研 究 の視 角
1。 これか らの国語科の授業の方向性
国語科の授業のパ ラダイム転換 を図 るための視角 として,授業の構成要素である学習者・ 指 導者・ 学習材 とい う二つか ら考察 をする。
(1)学習者か ら
国語科の授業 において,これ まで,学習者 は学び手 とい う受動的な立場であることが多かっ た。それは,これ までの国語科の授業が,指導者の教材研究 によって準備 された解答 に収束す るとい う授業方法 と授業内容,授業形態であったか らで もある。
近年,学習者主体 ということか ら,学習者の学 びのあ り方が重要視 され るようになって きた。
それは,授業 の主役の座が学習者 とい うように言われ出 してか ら,授業 における学習者が,い
かに学んでいるか とい うことを,それ まであまりに も視野 に入れて こなかった ことに対す る気 づ きか らで もある。
学習者主体 とい うことは,国語科の授業では,例えば生活綴方な どにも見 られ るように,こ れ までに も多 く行われてお り,他の教科の授業 に比較するとどち らか とい うと,指導者 に もよ るが,比較的早 い時期か ら柔軟 に行われて きている。
この ことは,「子 どもの地平」とい うことばに も見 られ るように,学習者 の立場や立脚点 をしっ か りと見据 えた学習者理解 を行お うとす る姿勢の現れで もある。
そのような学習のあ り方 として,国語科では,次の ような具体化が図 られてきている。
① 調べた り,話し合 った りす る授業
この「調べた り,話し合 った りす る授業」 とい う学習の主眼 は,学習者 の学習行為の成立 と い うことにある。学習者が学習の目標 を持って,主体的に学習 を行 うことは,指導者 としての 教師がいかに学習者の学習行為 を支 える授業 を組織・ 構成す るか ということに大 きく関わって くる。それは,学習者 における知識の再生 を目標 とす る授業ではな く,学習者一人ひ とりが考 えることを核 とす る授業 を,指導者 としていかに作 ってい くか とい うことで もある。 そこでの 国語 の学習 を通 しての国語学力の育成 は,認識力・ 思考力・ 判断力 とい うことを目標 にす るこ
ととなる。
この授業 を組織・ 構成す るのは,あ くまで も指導者ではあるが,学習の主体 を学習者 におい
/
ておかない と,指導者中心の授業 になって しまう。学習者の側か らの授業の方向性 は,学習者 自身の意識のあ りようや態度 によって成立す るものではな く,指導者の側 の授業 に対する意識 の置 き方 にその主導権がある。 したがって,学習者の主体 といった とき,その背景 としての指 導者のスタンスが常 に問われなければな らない。
そこでの指導者の位置 については,次の「(2)指導者か ら」の項 目の ところで述べ る。
② 情報操作能力の育成議2
国語科の授業 において も,物語や文学,説明的文章の読解や作文の記述 というこれ までの言 語能力の内容の育成 ということだけでな く,これか らの時代 を生 きるための学習内容が求めら れて きている。 その中核 となる学習内容が,情報化時代 の国語科教育 とい うことになる。国語 科の授業 における情報操作能力の育成 は,コ ミュニケー ションとしての国語能力の育成 とい う ことと関わって くる。国語科の授業 をコ ミユニケーションとして捉 えた とき,そのコ ミュニケー ションの関係 を作 り上 げるのが,メデ ィア とメッセージである。
情報操作能力の育成 は,このメディア とメッセージとを操作す ることので きる能力の育成で もある。情報 としてのメ ッセージは,さ まざまな特徴 と機能 を持 ったメディアを通 して伝達 さ れて くる。そのメディアに込 められたメッセージの内容 を,情報 としていかに収集,選択,判
断,処理,活用す ることがで きるようになるかが,これか らの情報操作能力の育成 には求め ら れて くる。
この こともまた,学習者独 自の判断で学習 を成立 させ ることはで きない。 そこには指導者の 授業組織・ 構成が必要 となって くる。
(2)指導者か ら
ここまで,学習者か ら国語科の授業 の方向性 を捉 えて きた。国語科の授業 は,学習者 自身が 自身の学習内容の方向性 と展望 と見通 しを持 つ ことは,学習の直中にいる学習者 には,学習者 の発達上なかなか難 しい。そこで,どうして も指導者の側か ら考 えざるを得ない。
今 日,国語科教育学研究 においては,学習者研究が進んで きている註B。 それは,国語科の授 業の中核 ともなる「読む」 とい うことの原理 を受容理論 に求め,読み手 としての学習者の「読 み」の本質の追究が問われて きていることに見 ることがで きる。確かに,これ までの国語科の 授業 には,学習者の視点が欠 けていた面 もあった。 しか し,前述 した ように,授業 に向か うス タンス として学習者重視 とい うことは必要であるが,学 習者の側か らは,国 語科の授業の組織・
構成す ることはで きないのである。であるか ら,学習者主体 といって も,授業 を組織・ 構成 し ている指導者の授業へのスタンスが問われなければな らない。
国語科教育学研究が,その研究対象 を授業の構成要素 としての学習者・ 指導者・ 教材 を研究 対象 とす るとき,その中で も,教材 の内容研究 と歴史研究 にその多 くの労力がつ ぎ込 まれてい る現状がある。 しか し,教材 に関す ることのみに研究の重点が置かれるので はな く,授業研究 による学習者研究 と指導者研究 とを くぐり抜 けた学習過程研究の意味が問われな くてはな らな い と考 える。
国語科教育学研究 における学習者が「読 む」 とい うことの研究 は,学習過程研究 に寄与す る ものであるはずだが,読者論や読者反応理論,認知心理学 を援用 したスキーマ理論 として研究 されつつあるものの,国語科学習者論 としては成立 しえてはいない。 それは,学習者である一 人ひ とりについては,実験 を通 して個 の学習の内容 を捉 えることはで きて も,授業 という多数 の個の集合体 としての教室での授業 その ものを捉 えることがで きていないか らである。
授業パラダイム転換期における国語科授業研究の視角
そ こで,学習者の学習過程 を学習者のあ り方か ら見 るだけでな く,その学習過程 を作 ってい く指導者の側か ら学習過程 を見 ることによって,国語科授業研究 における学習過程研究 を行 い たい。
これ までの国語科授業研究 における学習過程研究 は,比較的短いスパ ンの中での学習者研究 であることが多かった。 それは,一時間の授業 を対象 とし,その一時間の中での学習者の学び を捉 えようとするものであった。
学習過程研究 として学習者 を位置づけた とき,学習者 の学びは一時間単位での学習の成果 を 見 るのでは十分ではない。実践研究 として学習者の授業 における学習の成果の結果 を求めるな らば,一時間の授業 自体 を研究対象 として見 ることは可能である。 しか し,学習者の学習 を,
学習者の学びのあ り方 として捉 えようとするな らば,学習 プロセスをスパ ンとしてみることの で きる学習の単位 しての時間 を必要 とす る。
その学習 プロセスを通 して,学習者 には学習内容 の文脈化が図 られてい くのである。 この学 習過程 における学習内容の文脈 の理解 は,一人 ひ とりの学習者の個の内面 に発生することであ
るが,国語科の授業 としては,それ は教室 を構成す る学習者の数だけ存在す る。
教室 を構成す る学習者 の数のだけ存在す る個 の個別化 されてい る文脈 をつな ぎ,授業化 を 図 ってい くことが指導者の授業 における役割である。 それは,繰り返 しになるが,これ までの 知識の伝達者 としての教師の役割 とは,大き く異なる。
そこで,指導者 は授業 においていかなるスタンスを取 るか とい うことが問題 となる。 これか らの国語科の授業 において,国語科教育の内容が コ ミュニケーション活動 にその重点があると す ると,国語科の授業 における指導者の位置 は,学習者 に とっての コーデ ィネーター・ カウン セラー・ ア ドバイザー という役割 を果たす者 となる。
それ は,学習者の学習過程 を重視する指導者のスタンスに通 じる。学習者の学習のプロセス の重視 は,これ までの知識中心の授業か ら,学びのあ り方の追究 を行 う学習スタイルヘの転換 となる。 さらに,これか らの国語科の学習 に求め られ る学習の共同性 を活かす授業の組織・ 構 成 に も,指導者 としての力量 として,学習者間,指導者間 (TOT)を結ぶ存在 としての立場が 求め られ,重要視 され よう。
(3)学習材 (教材)から
これ までにも述べてきた ように,国語科教育学研究 において,その研究の中心的な位置 に教 材 の内容論の研究がある。それは,物語・ 文学や説明的文章や作文 というジャンルを問 うこと な く広 く行われている。 この ことは,国語科の授業 においての教材の位置の重要性 を示 してい るといえよう。 しか し,これ までの国語科の授業 において教材 としての取 り上 げられ方は,一
つ一つの単品 として取 り上 げられることが多 く,指導者の意識 として も,単元 としてよりも,
教材 とい うと,一つ一つの教材 を対象 として考 えていることが多いのが現実である。
国語科教育 においては,昭和20年代 の経験主義単元学習が広 く行われた時期 に,国語科独 自 の単元学習が行われた。 この単元学習は,大村 はまによって代表 され,今日の国語教育 におい て も継続 されているが,単元学習 は戦後の国語科の授業 において,継続的に行われて きたので はない。
戦後 の国語科の授業 は,学習指導要領の歴史的変遷 の中にも認 め られ るように,時代の中で の国語科の授業の重点 を置 く位置の違いによって,学習指導 その ものの方向性 の違いや学習方 法,内容 の違 い となって,授業 として具現 されてきた。
この ような国語科教育 における授業の歴史的変遷があったにも関わ らず,国語科の授業 にお ける教材の位置 は,今日まで重要視 されて きている。それは,ある意味では当然の ことであっ て,国語科の授業 に教材がなければ,授業が成立 しない とい う教材重視 の授業観の存在があっ たか らで もある。 しか し,教材 を教科書教材のイメージか ら脱却 して,学習者の身の回 りにあ る全ての言語文化 を学習材 (教材)と して捉 える発想 に立つ と,これ までの国語科の授業の教 材観が転換する。
国語科の授業 をコ ミュニ ュケー シ ョン能力の育成 とす ると,これ まで国語科の授業 その もの のあ り方 をも転換す る必要があると考 える。 それは,これ までの国語科の授業のように,教材 文の読解のみに授業の中心 を置 くのではな く,授業 を構成す る要素である学習者,指導者,学
習材の相互交流 を通 し,学習者一人ひ とりの認識力,思考力,創造力 を教室 における他者の存 在 を通 した自己相対化 の中か ら意味づけを図 ってい くことか ら,新たな国語科の授業 を切 り拓
くことがで きるので はないか と考 える。
繰 り返 しになるが,そのためには,国語科の授業の学習材 (教材)に対す るパ ラダイムの転 換が図 られな くてはな らない。
国語科教育 においては,今日,この学習材のパ ラダイム転換 を総合単元学習の方向(「教育科 学 国語教育」1994年8月 号ヽ495,「自己学習力 を育てる総合単元学習」)に 見ている。 その単 元学習の方向は,昭和20年代 の単元学習 とは,国語科の授業 に対す る基本的な考 え方や捉 え方 が異なっている。
この総合単元学習 における学習材の意味 は,学習材 の「読 み」(読解)のみだ けではない学習 者 の学習行為 を授業の中に位置づ けた国語科の学習の組織・ 構成化である。 そ こには,文種の 読 み取 り方の違いによる学習方法 と学習内容 の違 いよる国語科学習 とい う,これ までの国語科
の授業 に対する再考 になると考 える。
(4)授業改革の具現化 に向けて
今 日,小学校や中学校 において,授業パ ラダイムその ものが転換 され ようとしていることに ついては,前述 した。 しか し,その現実態 は,これ までの授業観が残 ってお り,授業改革 とい うことには未だ遠いのが実状である。
このような授業の現実態 を改革す るために,授業パ ラダイムの転換が図 られなければな らな いが,そのための要因 として,次の ことが考 えられ る。
第一 に,教師の これ までの授業観の転換 である。 この ことは,教師の意識改革 とい うことに よつて問題 にされているが,授業 とい うことに関 して教師 は,「教授―学習」という関係の中で しか授業 を捉 えていない ことが一番の問題である。 その ことは,学習指導 における教師の位置 とい うことに通 じるが,これ までの教師観での授業か ら,その ことをまず転換することが必要 である。
第二 に,教師の授業観転換 のために,授業改革 をいかに行 うか とい うことが問題 になる。授 業改革 とい うことを言 うのは容易だが,その具現 に向けての切 り口が必要 となる。今 日多 くの 学校で授業改革 に向けての取 り組 みが されてはいるが,その現実 には厳 しい ものがある。それ は,これ までの授業観の上 に授業改革 に取 り組んであるか らである。その典型 を「学習指導案」
に認 めることがで きる。
「学習指導案」 は,最近「学習援助案」 とか「学習支援案」 と言い換 えられつつある。 しか し,その中身 は,指導者のための指導のシュ ミンーシ ョンであ り,その多 くは学習者の地平の