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説経の世界亘

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﹁かるかや﹂は︑説経の中でも︑とりわけ悲しい物語である︒特に

母と娘は不運であった︒母御台は︑息子︵石童丸︶のたっての願いで

家を棄て︑娘を残して︑夫を捜しに︑長い旅に出る︒娘︵千代鶴姫︶

も同行を望むが︑か弱い女だというので︑留守居を強いられる︒御台

は夫の行方をつきとめたが︑会うことが出来ない︒夫は女人結界の高

野山に逃げ込んだのである︒御台は登山する息子に望みを托して︑山

●●c

の下かむろの里で吉報を待った︒しかも待ちこがれているうちに︑病

にかかり︑空しく死んで行く︒夫と息子に一足違いで会えなかったの

である︒母の死を姉に知らせるため︑息子ははるばる帰国したが︑姉

も叉一足違いで死んでいたのである︒こうして母と娘は幸せのうすい

生涯を閉じた︒特に母御台はあわれであった︒

出家し︑道心になるには︑家を棄てなければならない︒家父長が家

を棄てると︑その家は必然的に没落に傾く︒しかも妻や息子が︑夫や

父を求めて流浪すれば︑家庭は解体したも同様であろう︒そういう高

価な犠牲を払って︑ひたすら求めるものは何か︒それは出家の徹底で

あり︑家族から遠のくこと︑恩愛の絆を断ち切ることである︒

●●●●・

しけうち殿は︑師の法然に︑家族に会わないという約束で出家を許

され︑その誓いを頑なに守ろうとした︒高野山に逃げ込んだのも︑妻

の入山を拒否することが出来たからである︒しかし道心は偶然ではあ

るが︑息子に会った︒そして妻に会うため︑山を下ってもいるのであ

説経の世界︵室木弥太郎︶

説経の世界亘

る︒彼の誓いは必ずしも厳格に守られたのではない︒彼が終始堅持し

たのは︑父であることを明らかにしないという依枯地である︒

道心は︑自分を捜す息子を目の前にして︑父であると名乗らなかっ

たのであるが︑息子に対して︑叉その母に対して︑不親切であったの

ではない︒愛情の戸籍を明らかにしなかっただけである︒それは師に

対する誓いに忠実であろうとしながら︑父らしく夫らしく振舞ってい

るのであるから︑肉親の恩愛をたつという約束は反故同然といえない

ことはない︒しかもそういう片意地は︑仏道の修行にどれだけの意義

を持つのか︑実ははっきりしていないのである︒又本人は考えてもい

ないのである︒ただ妻と子を︑せっかく遠い九州から足を運びながら

会うことも出来ず︑又会ってもそれと知ることが出来ないという︑

絶望に陥れたにすぎない︒しかしそれは︑一人の男が仏の道に生きる

ために︑家族の当然払うべき犠牲であるかのように︑その不合理は少

しも疑ってはいない︒

石童丸は︑捜す父に会いながら︑それと分らず︑ついで母と姉に死

に目にも会えないという不幸な少年である︒しかしこの不幸は︑彼が

仏門に入る機縁となり︑従って幸せな境涯を得るのであるから︑救い

のない惨さを感ずることはない︒しかし二人の女性︑特に母の不幸に

は救いがない︒女性は家庭でのみ幸せを期待出来るのに︑夫の強引な

家出で︑長い放浪の旅を続ける︒しかも夫と子との再会にも恵まれず

死んでいく︒娘も同様に死んでいく︒こうして女性の不幸を︑最も極

室木弥太

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213

説経の世界︵室木弥太郎︶

端な形で提示しているのである︒例えば父と息子に対する母と娘の著

しい違いを︑男と女︑僧と俗というふうに︑尊卑の対比において︑単

純化してみることも出来るが︑全篇を被う暗い哀愁は︑本質的にもつ

と堀り下げてみる必要があろう︒その試みをしたいと思う︒︒●●●かるかや道心は︑寛永八年の板本では︑大筑紫筑前の国松浦党の総●○●●領で︑しけうち殿︑その知行は︑筑前筑後肥前肥後大隅薩摩の六か国

に及ぶ︒出身地が筑前の国苅萱の庄であるところから︑法然は苅萱の

道心と命名した︒高野山での住所は︑古い板本︑写本とも︑蓮華谷の●●●かやん堂︑すなわち蓮華坊であるとしている︒蓮華坊の実在は確めら

れないが︑おそらく仮名であろう︒蓮華谷は実在する︒﹁伽藍の東十

七町許にあり︑曇昔此谷蓮華界の瑞相を現し︑宝池皆蓮花となる︒依

りて名とす︒谷中に小名三あり︒東西の往還より北に折れて南北の道

を清浄心院谷といひ︒南に折れて南北の道を花折谷といひ︵花折谷に

下壇といふ小名あり東達の道なり︶花折谷の西五大尊道を隔て典南北

の道を宝橦院谷といふ﹂︵紀伊続風土記第五輯︶とあるのがそれであ

る︒しかしこの谷に萱堂があったかどうかは確かめられない︒蓮花谷

に接して住生院谷がある︒ここには萱堂がある︒﹁蓮華谷の西に連な

り︑伽藍の東十二町許にあり︒曇昔此谷に往生院といふ寺あり︒依り

て地名とす︒谷中に小名三あり︒東西往還より南に折れて南北の道を

萱堂といふ︒蓮華谷界なり︒萱堂の西稲荷壇を隔て上南北の道を西谷

といひ︑往還より北に折れて南北の道を北谷といふ﹂︵同右︶︒この

往生院谷には蓮華寺という聖方の寺がある︒叉聖方の鯛頭︑大徳院が

五之室にあり︑これは以前蓮華院と号したというが︑いずれも﹁かる

かや﹂の蓮華坊との関係は分らない︒

ところで注目したいのは︑西谷︵往生院谷のうち︶の安養寺成仏院 一一

で︑萱堂ともいわれている︒その縁起によると︑開基は不詳︑中興は

円慶︵保元元年八月十七日没と︶・﹁慶の門に苅萱道心と云ものあり︒

姓は藤原名は重氏︑筑前州苅萱荘の人なり︒仁平中に年甫二十一にし

て忽ち世理の無常を観し︑港に当山に筆て慶の門に入て薙染し︑円空

と名く︒世呼て苅萱道心といふ︵因て今に此地を萱堂といふ︶・婦及

ひ世子石堂麿慕ひ追て当山に登り来る︒然るに女人禁する地なれは︑

婦は麓なる学文路村に居て哀傷止すして病死す︒麿は父に従て落髪し

て道念と名く︒上人掩化の後円空は善光寺の弥陀を慕ふて信州に往く︒

草竜を結ひ念仏す︒道念も叉彼州に住と云云﹂︵同右︶とある︒大体説経の筋に近いが︑違うところもある︒仁平年中︵二五一二五

三︶は法然十九歳から二十一歳に相当し︑史実として信ずることは出

来ない・又同じ西谷の上池院は︑萱堂の本院覚乗院の跡というが︑ここ

には源空上人筆と称する﹁加藤重氏及婦井石堂麿影三値﹂があった︒

高野春秋編年輯録巻第十・応永廿年︵一四二一︶五月廿六日の条

に﹁五番衆一味契状而堅制乙禁異門徒最眉二空口一︑高野聖叉萱堂外踊

念仏︑或寺辺新庵室等﹂とあるが︑紀伊続風土記第五輯によると︑この日﹁五番衆一味契状に菱に近年覚心と云荒入道ありて︑密厳院の傍

に萱の番を結ひ︑偏に念仏せしむ︒是を高野聖と号し︑易行得分の作業

にて︑空口を負て諸国に頭陀す︒世に棄廃せられし族挙て此門に入り

今に至は︑寺家大体念仏の蓄室となる︒密教の夷滅歎かさらんや︒宜く

炳誠を加へ︑異門を制止すへしと云︵宝簡集衆中契約巻︶﹂又﹁文明五

年︵一四七三︶の頃往生院谷に萱堂ありて念仏者の巷とす︵諸院家日

記︶﹂とある︒密厳院は西谷にある聖方の寺である︒応永以降︑全国の●●●﹁世に棄廃せられし族﹂が︑高野聖と号し︑往生院谷あたりにかやん

堂をつくり︑踊念仏の道場としたことが推測される︒

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応保二年︵二六二︶に︑明遍が蓮華谷に住んで念仏の行を修したの

が︑念仏称名の初めで︑明遍に従った念仏者が聖︵非事吏︶の濫膓と

いわれる︒伝説に近いが︑蓮華谷にその伝統のあったのは確かであろ

う︒次に弘安九年︵三一八六︶法燈国師の弟子覚心が︑萱原で鉦鼓を叩

いて念仏したが︑それに始まるのが︑前記往生院谷の聖であろう︒又

一遍上人智真は︑正応二年︵二一八九︶になくなっているが︑生前この

山に登り︑千手院谷に国城院を建てて︑念仏を修したが︑非事吏は皆

随逐して時宗となったといわれる︒その後も藤沢の上人︵陀阿上人真

教といわれる︶が萱堂に住んで念仏し︑非事吏の時宗化は一層徹底し

たものと思われる︒こうして蓮華谷︑往生院谷︑千手院谷等の聖は︑

次第にその数と勢力を増し︑天正九年︵一五八一︶八月に︑多数が信長

に捕えられ︑処刑されるまでに発展していたのである︵高野春秋編年

ヤトカヒシリ

輯録巻十二﹁晦日︑訣二宿仮聖及高野出之僧千三百八十三人千三ヶ所

以表一派河し攻二漬野山一也︒帳長識匪装確廉池涯塞蛎嬉瀞確屋蹄﹂︶

これらの高野聖︵宿仮聖︶は︑当代記によると︑諸国へ下り︑宿か

や宿かやと呼ばわって︑心ある人の家にとまり︑衣類などを商ったと

いわれる︒﹁永禄の頃︑非事吏等長州下の関を通る時︑関の奉行塩津

オヒ氏非事吏に其由来を尋けるに︑非事吏の云︑此負非事吏は商買の為に

昔より諸国を廻りける故︑国々の案内を能々知たれは笈役に申付らる

︵室町日記︶﹂とある通り︑彼らは九州地方も往来し︑土地の事情も詳●●●●しかった︒かるかや道心のように︑その地方の出身者も多かったと恩●●︑⑥う︒そういうわけでかるかや道心の話も︑この時期にこの聖たちの間

で醸成されたと考えてよさそうに思う︒そして萱堂というのも︑蓮華

谷にないとすると︑往生院谷の安養寺あたりの萱堂かもしれない︒又

萱堂は個有名詞ではなく︑文字通り萱ぶぎの粗末な堂で︑あちこちに

説経の世界︵室木弥太郎︶ あったと考えてもよさそうである︒それに事実に相違する理由としてこの説話が説教の者の手に渡った事をも︑考え合わせなければならない︒説教の者たちは︑高野山についてよく知らなかったと思う︒○●●●かるかやの話を伝えている︑西谷︵往生院谷のうち︶の萱堂︵安養寺

成仏院︶は︑このほかにも話が豊富に残っている︒法燈国師は非常に

有名であるが︑その門弟の千手上人は︑那須野七郎親張といって奥州

出身の武士といわれ︑鉦鼓を叩いて念仏を唱えることをさかんにした

のは︑この人の時らしい︒いろいろある中でこういう話がある︒

康元元年︵二一五六︶三十六の時︑能野那智山に参詣し︑花蔵院に宿

泊した︒そこに品のよい子供のいるのが目にとまり︑何かな心は動き

子供も立去りがたい様子であった︒院主に聞いてみると︑京都で宮仕

えをしている妹があり︑その子供であるが︑男は那須の七郎親張とい

い︑帰国したら迎えるといいながら︑三年たっても音沙汰なく︑母は

病死して孤児になったため︑このように引取ったが︑今年十二になる

という答えであった︒那須野は涙にむせんで父を名のり︑子供をつれ

て帰国した後に︑家系を継がせるといった︒その夜なぎ妻を思い︑世

の無常を考えた︒夢の告げに﹁汝前生に仏縁あり︒正に今宿善開発の

時なり︒早く道に入て仏門を弘通すへし﹂とあった︒直ちに髻を切っ

て子供の枕頭に置き︑高野に登り︑覚心︵法燈国師︶を師として仏門

に入った︒⁝この出家話は﹁かるかや﹂に甚だ似たところがあるので

注目しておきたいと思う︒

﹁かるかや﹂の素材は︑蓮華谷か︑往生院谷あたりの萱堂の住僧︑

いわゆる非事吏︵聖︶の間に生れた話であろう︒非事吏は学侶︑行人

と区別される下級僧で︑中世では大部分時宗に属する念仏者であった○●●◎らしい︒ところでかるかや道心は︑その聖とみてよいのではなかろう

一一一

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説経の世界︵室木弥太郎︶

か︒大筑紫六か国を知行する松浦党の総領が︑進んで高野山の卑しい

非事吏になるとは考えられない︒出自を尊くしたのは仮構と考えるべ

●︒●

きであろう︒蓮華谷のかやん堂とか蓮華坊とかに住んでいるというの

は︑前にも述べたように︑僧侶としての自分の卑しさを示すもので︑

さしあたり非事吏の一人と考えるのは︑その他の傍証によっても妥当●●●●であろう︒ただかるかや道心の道心は︑非事吏と同じかどうかという

ことが気になる︒

紀伊続風土記があげる︑明暦元年の注進によると︑寺院及び僧侶の

数は︑次の通りである︒

寺僧

学侶一九四軒五四四人 行人一五一七″二五六五〃 客僧一九″二一六〃 聖一一八″三一七〃

谷之者五四〃

一三五〃

道心五四〃

計一八八三″三七八八〃

合計が多くなっているのは︑右の項目以外を含むのであろうか︒山史

に正保元年のことを注して︑坊舎数一八六五とし︑そのうち谷之者五

三軒とするのは︑道心を含むのかもしれない︒いずれにしても道心は

聖と区別し︑谷之者と同じに扱われている︒

近世は身分の段階がこまかくなり︑差別待遇もきびしくなったので

あるから︑近世をもって中世を一概に推測することは出来ないが︑道

心が身分的には谷之者と同等で︑聖の上を行くものではなさそうであ る︒その道心とはどういうものなのか︒紀伊続風土記第五輯の﹁道心者﹂の条に︑

又は道心坊といふ︒道心の名原道人道者の心操を謂ことにて︑卑劣

の称に非す︒然れとも今にては︑卑賎の奴隷なと剃髪し︑又世に棄

廃せられし類なと︑晩年に落髪し︑唯口腹を養ふのみ心にありて︑

仏教聖道を世渡の橋とし︑明ぬ暮ぬと営むはかりなれは︑此名も自

然に卑劣のことに成ぬ︒

とあり︑諸伽藍掛道心・御影堂花摘道心・六時鐘撞道心・奥院燈籠堂

常番道心・御供所御膳道心・奥院掃除道心・錫杖振道心等をあげてい

る︒例えば大塔・金堂等諸伽藍の香花・燈明・仏餉・酒掃・朝暮唐戸

蔀の開閉等を奉仕したのである︒これは勿論近世のことである︒

﹁かるかや﹂で︑石童丸が山に登って六日め︑この日こそ父を捜し

当てようと﹁五更に天もひらくる﹂頃︑奥の院の方へ行くと︑﹁父苅

萱の道心は︑花籠を手に下げて︑奥の院よりお帰りある﹂のにぶつか

る︒道心は早朝奥の院の香花を奉仕するのであるが︑これは前記の道●○●●心者に相当するのではなかろうか︒もっとも説経の中で︑おひじりと●︒︑○かどうしんとかいうのは︑右のような階級を意識したものではない︒

例えば﹁石童お山へをのぼりあるが︑お山より五人つれたるおひじり

の︑ふもとの宿へ御くだりあるが︑不動坂にておあひある︑石童丸は

御らんじて︑きてもうれしの御事や︑あのおひじりのそのなかで︑父

道心やましますか︑問は亘やとおぼしめし⁝﹂といった工合である︒

だから一応﹁俄道心﹂︵続狂言記︶の道心と解してよいのであるが︑

それだけではどうも不十分なところがある︒

母御台が死んだ時︑苅萱道心は剃刀をとって死体の髪を剃り︑石童

丸と先輿後輿をかいて︑野辺の送りをした︒千丈が原で火葬した後︑

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●●●●●●骨はこつしんたうにこめると父は約束した︒こうした葬送のことを︑

父子二人でやってのけたというのは︑何でもないことのようで不思議

である︒高野山ではこの仕事は︑谷の者︵新坊︶の専業になっている

からである︒谷の者は新坊谷とも東谷ともいわれる所に住み︑下賎の

ものとされた︒●●●●こうしてみると︑かるかや道心は︑近世の階層的に分化し︑転落し

た︑いわゆる道心者の仲間に入れることは無理でも︑甚だそれに近い

と思われるふしがある︒又それ以上に下賎とされる谷の者に似たとこ

ろもある︒勿論ひじりのグループに入れてもおかしくない︒聖か道心

か谷の者かと︑せんさくするのは徒労であろうが︑大体そのあたりの

階層に属する念仏者とみてよいのである︒大ざっぱにいって︑萱堂の

ひじり︑谷間の遊行僧ということになろう︒●●●●かるかや道心を右のようにみると︑説経﹁かるかや﹂は︑この道心●●●●を非常に美化していることが分る︒道心のしけうち殿は︑九州六か国

を知行して︑多数の大名を従え︑待女を従え︑貴族らしく振舞ってい

る︒しかし粉飾を洗い去ってしまえば︑作品の深層が現れてこよう︒

それは家庭に対する︑又女性に対する強い欲求不満といっていいだろ

う︒この作品が家庭と女性を犠牲にして︑甚だ悲劇的なのは︑そこに

原因がある︒宗教的信仰的なものは︑それに比べると極めて稀薄であ

る︒

●●●ひじりや道心といった下級僧の日常生活はどういうものであったろ●●●うか︒かやん堂の生活は非常に貧困索漠なもので︑夫婦親子を中心の

家庭的団蕊とは︑およそ縁遠いものではなかったか︒彼らは正式の妻

を持たず︑わが子と称するものはなく︑漂泊を余儀なくされていたの

であろう︒たとえ山の一角に土着していても︑家庭生活の安定は得ら

説経の世界︵室木弥太郎︶ れなかったと思う︒それは仏道修行のための禁欲ではなく︑貧困とそれをもたらした社会的条件l例えば身分制lが強いたものである︒彼らにとって女性と家庭は︑望んでも得べきものではなかったといっていい︒

最も美しい女性と最も楽しい家庭を想像してみる︒そしてその二つ

を同時に失った場合を想像してみる︒そういう極端に不幸な立場に自

分を置いてみると︑初めからそのすべてを持たない方がはるかに幸せ

であろうと︑自分を慰めることが出来る︒かるかや道心の行動をみる

と︑すでに述べたように︑家庭を棄て︑家族から遠ざかろうとするの

であるがll高野山へ逃げるのもそのためであるが︑それとは全く逆

に︑家族を11妻や子をひどく恋しがり︑進んで接近もしているので

ある︒師の法然l念仏者にとってかけがえのない師に対する誓いは︑

父と名のらないという一点を除いて︑すべて破っている︒その一点も

仏の道を修するという面からは︑ほとんど無意味なことであろう︒か●●eるかや道心にしるその子にしろ︑柴雲たなびいて大往生をとげるが︑

それにふさわしい行者の姿はどこにも語られていない︒ただ仏に仕え

る者に対する︑空虚な礼讃があるだけである︒

﹁かるかや﹂の末尾にこういうことばがある︒の力このよにてこそ︑御なのりなくとも︑もるノく1口三せのしよふつ︑

うた力みたのしやうとにては︑おやよ︑きや一川uい︑ちLは生よと︑御な

のりあるこそめてたけれ︵寛永八年板本︶

弥陀の浄土で名のりうるものを︑なぜこの世で名のりえないのか︒父

と名のらないという禁忌の無意味なことはこれでも分るが︑それは高

野山の女人禁制についてもいえることである︒板本では高野の巻とし

て︑女人禁制のいわれを︑弘法大師の縁起とともに︑長々と語ってい

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209

説経の世界︵室木弥太郎︶

る︵古写本ではこの部分を省略している︶︒それは女人禁制の厳格な●︒︑○ことを語るのであるが︑かるかやはその禁忌によって妻を避け︑師に

対する誓いを守ることが出来た︒ところが道心自身は︑山を下って妻

の死体を始末しているのである︒彼が避けたのは︑生きている妻なの

︽か一

である︒そこに妻や子をl家庭を持たない者の特殊な心情があるとい

えないであろうか︒ただ禁忌という不可解な権威によって︑自分の行

動を納得しようとするが︑それが宗教的な禁欲とは異なることは前述

した通りである︒

この世では妻子に恵まれず︑家庭を持ちえなくとも︑弥陀の浄土で

は︑親子兄弟睦みあうという︑念仏者らしい渇仰が︑末尾の文に語ら

れている︒これがこの作品の本質を言いあてた結論である︒最も美し

く優しいものは︑この世で最も苦しみ︑惨めな死をとげる︒その典型⑥●︒︑が母御台であった︒かるかやは妻の死体にかつぱといだきつぎ︑

ざそやさいこのそのときに︑みつからうらみたまふらん︑かわるこ

坐るのあるにこそ︑かはるこころはなひものを︑こしやうをとふて

まいらせん

と口説く︒そこには宗教的信念を貫徹した︑信仰者の自得はみじんも

ない︒一番大切なものをなくした︑悔恨があるだけである︒この世に

おいて妻を愛することの出来なかった夫の︑弱々しい泣訴と餓悔を聞

くのみである︒

肉親を求めて長い放浪の旅を続けるには︑激しい情熱とともに︑辛

酸に堪える忍耐力が必要である︒石童丸はまだ母の胎内にある時︑父

は家を出て︑それっきり音信不通となった︒石童丸は十何歳かになっ

て︑燕が子を愛するのを見︑初めて父を思うたのである︒そういう父

を捜し出すため︑母を駆り立てて旅に出る︒功利的な目的は少しもな 一ハ

い︒ただ父に会いたいという一念で放浪するのである︒敵討の執念と

変るところはない︒﹁かるかや﹂の感動的な迫力は叉この点にもある

差︑ノ◎

家庭になくてはならぬのは父であり母であるが︑家が制度として特

に重要な意味を持つ社会では︑家父長に対する期待は︑肉親の感情を

超えて︑複雑過大なものになるのは当然といえる︒見も知らぬ父に対

する愛情が異状に強く︑孤独で困難な遍歴はそれ故に推進される︒説

経の道行の中には︑そういう旅人の心情を托したものがあるが︑﹁か

るかや﹂の板本写本とも︑とりわけそれが素朴に表現される︒貧しい

漂泊者が求めてやまないのは︑家庭であり︑父母とその子の団蕊であ

る︒そのために山河を越える苦難を︑道行はうたっているのである︒

現在われわれが手にする説経の正本では︑道行の地理にかなりの乱

れがある︒それは当初からそうであったのではなく︑次第に語り手自

身の体験や知識が乏しくなったためであろう︒例えば﹁かるかや﹂は

本来高野山の下級念仏僧の間に生れた物語であろうが︑これを語る説

教自身が︑あるいは各地に土着し︑あるいは都市に進出するようにな

って︑旅の体験としての道行が︑次第に語れなくなったのであろう︒

しかし説教自身も漂泊者である︒この物語が︑彼らの生活感情に非常

にマッチするところがあって︑それを自家の薬籠に加えたものと考え

られる︒

一一

父母を捜し求めて放浪する悲劇は﹁さんせう太夫﹂でも語られる︒

竹内長雄氏は︑昭和六年に青森県の桜庭すゑイダコが語った﹁お岩木

様一代記﹂を記録した︵﹁文学﹂昭和一五・一○︶・これは説経の素

材になったものを何百年後に伝えた記念碑であって︑岩木山の山の神

(7)

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来て︑かばんを降ろせという︒釈迦如来が姫の身代りになり︑さんそ ⑥⑥◎ はかばんの中に隠してぶら下げる︒そこへさんそう太夫が追いかけて ︒︒●@ 燕の逃げろと噸る声で︑たどりついたのは丹後の国のあなお寺︒和尚 ○●● 姫に裸はだしでその上を渡れという︒姫が大声で涙を流していたが︑ 助けたこともあった︒さんそう太夫はある時七つの釜に湯を沸かし︑ ︑●●⑥ 働︑難儀難題が姫を苦しめる︒親切な油売りや墨染衣の坊さんが姫を を焚いて逆さにつるし︑火あぶりに責められる︒ありとあらゆる重労 そう太夫に傭われた︒娘は粟つぎ米つきをさせられる︒出来ないと蒲

●●だよう

船に乗せて島流しにした︒流れついた姫は︑丹後の国の奥山で︑ざん

●●

三年たっても死なず︑朝晩の露で成長した︒父は不届きだと怒り︑板 や︑ほいほい﹂と烏を追うと︑子供たちはこの母をからかった︒姫は う丸ア恋しいじや︑ほいほい︑埋げらえたるあんじゅが姫ァ恋しいじ

●こやい●︑︑●しめん

のしけうち殿もそういった︶に仕え︑栗畑の雀追いを始める︒﹁つそ ●︑●●

●●

った︒おさだは宮の長者の紹介で唐の国の加藤左衛門︵﹁かるかや﹂

●●@

から といった︒母のおさだは泣いて泣いてめくらとなり︑離縁されてしま ●︑● れると︑砂の中に埋めて︑三年たっても死なないなら︑わが子である 女︒兄がつそう丸︑次がおふじ︑その妹が姫である︒父はこの子が生

●●●

︒︒◎ あんじゅが姫が語る身の上話である︒姫は母をおさだといい︑加賀の

●●︒●しめんo●︒

う太夫に水鏡に映った鬼の姿を見せ︑さんげざんげと責めたので︑太

夫は姿を消してしまった︒寺に別れを告げ︑姫は母を尋ねて全国を過

る︒野に泊り︑山に泊り辛苦する︒七つの年のある夕刻︑ともしびの

見える笹小屋に宿をとろうと近︑つくと︑大きな川があって渡れない︒

弘法大師様に祈ると︑枯木が倒れて橋が掛かる︒渡って小屋へ行く

と︑あるじはめくらの女︒その打明け話を聞くと︑紛れもなく尋ねる

母親である︒国の高神様を祈って︑母の目を撫でおろすと︑ばつちと

説経の世界︵室木弥太郎︶ あいて︑うれしい対面である︒姫はさらに父を捜しに出かけようとする︒母は︑砂の中に埋め︑島流しにするようなひどい父は︑ないものと諦めよととめる︒しかし父がなくては子は出来ないのだからと︑姫は母と涙の別れをする︒野山に泊ること数年︑十四年の秋に三不動様の宮で願をかけていると︑夢の告げがあって父のいるところを知らされる︒ここまでがお岩木様三段目のくどきで︑五段目までくどいてし②●●まえば︑父にも母にも会い︑きょうだい三人の対面となる︒兄つそう.●.こうごり丸は富士山に︑姉おふじは小栗山に︑きょうだいはともに国の高神となる︒﹁神様ねなるたて︑これ位も苦しみを受けないば︑神ねなる事出来ないし︑人間様だぢも︑神信仰よくもぢひでくれるべし﹂と桜庭イダコは語り終る︒

物語の筋からいっても︑説経﹁さんせう太夫﹂の素材に近いである●●●●う・あんじゅが姫の放浪は︑母を捜し︑父に会うために︑苦難に耐え

ぬくのであって︑﹁かるかや﹂の場合と変るところはない︒姫は生れ

てすぐ父のために生き埋めになる︒それを悲しんだ母はめくらとな

り︑烏追いの苦役に従事する︒姫が父を捜したいと言い出した時︑母○●⑤●が﹁馬鹿なこのあんじゅが姫︑父が無いと諦めろ﹂といって反対した

のは当然である︒それでも﹁そごでもないよ母上様︒父が世の物だれじせだ︒父がないば子が出来るはずがないから︑是非なぐ尋ねに出たい﹂○●●●といったのは姫で︑前にさんそう太夫のためひどい目に会った時も︑

のごろぐ﹁母と逢えて死んだら残念ない﹂といっている︒この一途に親を求め

る心情は︑石童丸の場合と変るところはない︒

現存の大坂与七郎や佐渡七大夫の正本は︑寛永以後のものである︒

そこでは安寿きょうだいが︑父母をひたすら捜し求めるという筋は相

当後退しているが︑その心持は依然強い底流になっている︒説経で

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説経の世界︵室木弥太郎︶

●●●●●●●●●@は︑奥州ひのもと︵日の本力︶の将軍いわき︵岩木力︶の判官まさう

︒●

ぢ︵正氏力︶の子が安寿とつし壬丸である︒父は﹁みかどの大番整へ

ざせ給はい罪科﹂で筑紫安楽寺︵苅萱に近い︶へ流されていた︒ある

●●

時つし王が︑燕が子を愛しているのを見て︑自分に父のいないのを不

審がり事情を聞く︵﹁かるかや﹂と似ている︶・﹁父だに浮世にまし

まさば︑姉ごやそれがしに︑ひまをたまはり候へ・都へ上り︑みかど

にて︑安堵の御判を申しうけ︑奥州五十郡の︑ぬしとならうよ﹂と︑

母たちを伴って国を出る︒石童丸に似ているのであるが︑この場合は

ただ父を尋ねるというだけではなく︑領土の安堵を考えている点に違

いがある︒肉親としての父だけではなく︑それ以上に領主としての父

を意識している︒それは﹁かるかや﹂の出家の父に対し︑流請の父と

いう相違にも関連するのである︒父が地方の大領主であり︑貴族的で

ある点は共通しているが︑家督を相続する嫡子の立場を自覚している

点に違いがある︒イダコの語りでは︑安寿が母や父を捜し求めるので

●︒

あるが︑ここでは嫡子つし王丸が主唱し︑一家族を引連れて領国を出●●●●る︒あんじゅが姫のように︑母や父に会うだけで満足するのではなく

①○

家の再興が念願である︒安寿がつし王丸を逃がすために犠牲になった

⑥●

砂も︑その家のためであった︒つし王がみかどに会い︑安堵が許され

た時︑こういっている︒●●⑨それかしは今一たひたんごの国へゆき︑あれこ様のしほをくんてお

はします︑御たもとにすかりつぎ︑よにでたよしをかたりたや︑ゑ●●︒●◎ぞか鴫へも行︑は上うへ様にたつねあい︑叉はあんらくしへもゆき

ち上にもたつねあい︑よにでたょし申たや

●●

この口説きの.中には︑少年つし王丸の︑肉親を求めるナイーブな心情

とともに︑﹁世に出た﹂ということばが示すように︑奥州五十四郡の領主となったことを忘れてはいない︒だから安楽寺へ父を迎えるため

の使を立て︑まつ先に丹後の国へ入部し︑厳格な賞罰を行い︑次に蝦

夷へ行き母に会い︑最後に奥州へ入部する︒至極政治的である︒日向

の国を父の隠居所と定めるが肝心の父に会ったとも︑叉父がどうなっ

●●

たとも明らかにしていない︒これはどういうことなのか︒つし王が母

たちをそそのかして国を出たのは︑父に会うためではなかったか︒そ

の父をすっかり忘れているのである︒これは﹁かるかや﹂とも違う

し︑勿論イダコの語りとも異なる︒父や母を捜し出して対面する︑そ

の喜びだけが目的ではない︒領国へ入部して︑信賞必罰を行い︑菩提

を弔う供養を行う︒これは領主の仕事であり︑家父長の勤めである︒

○●

つし王のその点の自覚は︑石童丸とかなり違うのである︒

●●

つし王丸の一家が苦難を乗り切ることの出来たのは︑仏の加護と人

の親切による︒しかし再び栄える切っ掛けを作ったのは系図である︒

母がきょうだいに分れる時﹁姉が肌に掛けたるは︑地蔵菩薩でありけ

るが︑自然兄弟が身の上に︑自然大事があるならば︑身代りにもおた

ちある︑地蔵菩薩でありけるぞ︑よきに信じて掛けさいよ︑叉弟が肌

に掛けたるは︑信田玉造の系図の物︑死して冥途へ行く折も︑閻魔の

︒●

前のみやげにもなるとやれ︑それ落さいなつし王丸﹂と言い残した

が︑この二つは果して有益であった︒系図は家と身分と財産を証明し

保証する︒これあって一家の幸福が初めて期待出来るのである︒

説教の者たちは︑みずからの作品を説経として構成するに当って︑

例えば高野聖やアルキミコといった漂泊者の語り物を利用したと思わ

れる︒勿論想像の域を出ないのであるが︑遅くとも一六○○年以前︑

新風を語り出して成功したのは︑それ以前の語りから脱皮したからで

ある︒それには説教の内部に変革があったからと思う︒土着と団結が

その現われか︑その間の事情については分らないが︑土着はすでに近

(9)

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世初頭全く完了していた︒いつ頃からそうなったかは明らかでない

が︑領国制が強固になり︑身分的規制が厳しくなって︑移動が困難に

なったことが︑否応なしに土地に結びつくことになったと思う︒とも

かく土着の結果家庭生活の可能と安定が期待されるようになった︒次

に彼らは蝉丸宮を中心に一応の団結を遂げたのである︒ササラ乞食の

彼らに系図がありえようはずがない︒しかし彼らはそれに類したもの

を作って御巻物抄といい︑それを所持することによって︑同族同業意

識を持ち︑みずからの生活を守ろうとした︒その系譜は他愛のない架

空であるが︑神仏の霊験以上に実利が期待出来たのであって︑そうい

う時代を迎えたことが︑﹁さんせう太夫﹂にも反映しているとみてよ

いであろう︒

しかし﹁さんせう太夫﹂の魅力は︑まだ明らかにしていない︒作品

●●

の末尾をみよう︒みかどがつし王丸に︑奥州五十四郡の旧領を安堵す

●●

るという倫旨を賜わった︒ところがつし王は﹁存ずる仔細の候へば︑

︑︒

丹後五郡にかへて給はれ﹂と申上げた︒つし王たちの苦労は︑旧領を

取り戻すことにあったはずであるから︑これは唐突というより︑全く

我を忘れた馬鹿げた申し出というしかない︒しかしその﹁存ずる仔細

﹂をよく考えてみれば︑決してでたらめな言い分でも︑いわんや無欲

●●

な遠慮でもない︒つし王はこの時まだ姉の生存を信じていたろうが︑︒●●●さんせう太夫一族に対する復薔は︑一時も忘れない念願であった︒そ

れが右のことばとなって噴出したのである︒丹後の国守の権威で︑悪

党を心ゆくばかり処刑したかったのである︒もっとも国分寺の住持や●●●●さんせう太夫一家の中の善人を褒賞するということもあったが︑それ

は付け足しにすぎまい︒太夫や三郎に対する︑冷厳な追求と惨酷な刑

罰に快哉を叫んだのである︒

説経の世界︵室木弥太郎︶ ●●●●それというのも︑ざんせう太夫から受けたきょうだいの苦難︑山岡太夫から受けた母の苦難は︑言語に絶するものであったからである︒中世では人買いが横行し︑奴隷として売られた人々が︑例えば散所で塩作りの仕事に︑あるいは遠い畑の烏追いに酷使されたことは︑例の多いことであろう︒説教自身も畠番の賎業に従事したことは︑近世の記録にある︒こうした賎民階級が不当に受けた苦痛は︑そういう境遇から解放される可能がなかったから︑癒しようのない怨恨として鯵積するのが当然である︒③●●○イダコの語りでは︑さんそう太夫は伝説上の人物らしい類型と誇張●●●○がある︒召使うあんじゅが姫に︑次食と難題をふきかける悪党であるが︑それは多分に現実性を失った︑お伽話的な滑稽味すらある︒水鏡●●●oに映った顔が︑鬼であるというのもそれで︑ざんそう太夫を悪の偶像︑鬼のような人物として描くのである︒又そういう鬼の試煉に耐え●●●●なければ︑神になることが出来ないと︑お岩木様すなわちあんじゅが姫自身が語るのであるから︑そこから復讐の思想が生れるはずがない︒説経はそれに比べると︑はるかに現実的であり︑切実な苦しみや悲しみを訴えるが趣がある︒人間味が濃厚なのである︒

地蔵尊のあらたかな霊験で︑きょうだいの額の傷は癒え︑母の目は

開いた︒説経らしい宗教味があって︑地蔵の本地を説くという語り出

しにもマッチし︑作品の特徴として第一にあげるのが普通である︒し

かし説経﹁さんせう太夫﹂の面白味はそこにはない︒いやそれも面白

いのだが︑もっと人間くさいところに魅力がある︒イダコの語りで

も︑説経でも︑盲目の母親がきょうだいを恋しがって歌をうたい鳥を

追う場面は︑聞く者を感動させずにおかない一つの型が出来ている︒

これは思いつきが成功したというより︑烏追いの労働が容易ならぬも

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説経の世界︵室木弥太郎︶

ので︑それが卑賎な仕事として特殊な人に任せられていた︒その生活

の悲しみがにじみ出たのである︒漂泊者の孤独な歎きの痛々しさが感

動を呼ぶのである︒●●●●又安寿は明るく積極的である︒彼女はさんせう太夫からの脱出を弟

●○

に勧めた︒つし王は嫡子であるから︑世に出た後は︑自分を救出する

ことも出来るからである︒しかしこれは三郎に立聞きされ︑二人は額

に焼き印を押され︑前よりももっとひどい待遇を受ける︒しかし安寿

は断念しない︒深謀を巡らして︑太夫父子を欺き︑弟を脱走させる手

筈を決める︒この時拝んだ地蔵菩薩は︑二人の身代りに︑額の焼印を

ぬぐい取ってしまった︒この霊験がわざとらしいところがなく︑さも

ありうべきこととして受け取れるのは︑その前後の安寿の壮絶な決意

と行動が︑超人間的であったからである︒弟の脱走を成功させた安

寿は︑激しい拷問で憤死したが︑鴎外はそれを嫌って自殺させたほど

●●

惨忍であった︒それが後につし壬をして︑厳しい復讐を遂行させる動

機となるものであろう︒安寿は大胆でしかも冷静である︒思慮が深く

決意したら貫徹して退かない行動の人である︒仏の信仰もさることな

●●

がら︑何よりも人を信じた︒つし王に別れる時﹁落ちて行きてのその

先で︑在所があるならば︑先づ寺をたづねてに︑出家をば頼まひよ︑

●●

出家は頼みかいがあると聞く﹂という︒この予言が図に当って︑つし

王は無事逃げのびたが︑その成功不成功は別として︑自分についても

他人についても︑人間の可能性をいつも信頼して絶望することがなか他人についても︑人間の可能性をいつも信頼して絶拍った︒そこに安寿の新しい女性としての迫力がある︒

しかし安寿がそこまで成長したのは︑神仏の力でも︑信仰のせいで●●●●もない︒ざんせう太夫に買われたきょうだいが︑重労働に耐えられな

くなって︑身投げを決意した時︑同じ召使の小萩という女が︑それを

留めてこういった︒﹁命があれば︑蓬莱山にもあふと聞く︑叉も御世

に出づまいか︑⁝ならへばなる上ならひ有︑しばをゑ刈らぬ物なら

ば︑しばを刈ってまいらすべし︑しほをゑ汲まぬ物ならば︑しほをも

くんでまいらすべし︑命をたぱへ﹂というのである︒この楽天的な女

性の親切によって二人の運命はひらけ︑安寿の人柄も一変したのであ

る︒

小萩は大和宇陀の出身であるが︑継母の謹奏で︑伊勢の二見が浦か●⑥︒@ら売られ︑ざんせう太夫まで四十二回売りかえられたと告白してい●●●る︒説経﹁おぐり判官﹂のてるて︑すなわち小萩と無縁でないこと

は︑折口信夫氏の指摘の通りであろう︒宇陀と二見浦は叉説教のルー

トに当っていたと推測される︒小萩は安寿の影武者で説教にとっては

理想の女性であった︒﹁かるかや﹂には見られない積極性があって︑

新時代の女性らしい明るさがある︒安寿や小萩といったか弱い女性の

勇気ある行動が︑厚い非運の壁を切り開いて行くところに︑﹁かるか

や﹂とは比べものにならない前進がある︒︵以下次号︶

参照

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