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高校地学教育の基本的問題点について
著者 梅田 甲子郎
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 17
ページ 53‑60
発行年 1981‑03‑23
その他のタイトル On Foundamental Problems concerning Education of Earth Science at High School in Japan
URL http://hdl.handle.net/10105/6500
高校地学教育の基本的問題点について讐
ホ‡
梅 田 甲子郎
(地学教室)
ま え が き
地学は高等学校理科において、物理・化学・生物とともに、主要な4科目の一つである。した がって、高校理科教員養成を目的とする当奈良教育大学特設課程理科でも、物理・化学・生物・
地学の4専攻を設けている。しかし、地学は他の3科目に比べて、内容が複雑である上に、教育 科目としての歴史も浅いため、問題の多い理科教育のなかでもさらに不安定で、とかくの論議を 集めた科目である。
ここに、地学という科目の成立とその変遷をふり返りながら、高校を中心とした地学教育の基 本的諸問題を凝視してみたいと思う。この種の問題には、すでに各方面から多くの意見が出され ていて、浅学菲才の筆者が改めて言及する余地はないかも知れないか、あえてここに述べるのは、
日頃の問題意識を自分なりにまとめて、今後の地学教育を考究するための出発点にしたいと念ず るからである。本稿を草するに当り、奈良高校紺田功博士より、高校の現況に関し、種々有益な 御教示を賜った。付記して謝意を表す。
地学 という語の起源
地学 という語は、誰が何時作ったかは明らかではない。明治初期に輸入されたGeography とGe61ogyという学問に対して、共に地学という訳名がつけられたか、後に混同をさけるため、
それぞれ地理学と地質学とに変更されたと云われてい乱
明治12年に設立された東京地学協会は、その英訳名をTokyo Geographical Societyとし ており、その機関誌である地学雑誌の内容は、今で云えば、自然地理を中心として人文地理と地 質とにまたがるものであって、当時はまだ地理と地質が未分化であったことを示している。その 後、明治26年に、現在の日本地質学会の前身である東京地質学会が創立され、大正14年に日本 地理学会が誕生して、それぞれの活動を始めた。そのため、地学の意味が暖味となって、次第に 使われなくなり、一部の学者が、地質・古生物・岩石・鉱物・自然地理などの科学の総称として 用いたこともあるが、一般には聞き目11れない語となっていた。
高校地学の羅生
明治40年から昭和17年までの35年間の日本の巾等学校理科は、物理化学と博物により教育さ
‡ On Foundamental Prob1ems concerning Educat ion of Earth Science at High School in Japan
榊 Koshiro Umeda(胱partment of Earth Science, Nara University d
Education, Nara)
れていた。物理化学とは物理と化学であり、博物は植物・動物・鉱物・生理衛生を内容としたも のであった。また、当時の旧制高等学校(理科)では、理科を物理・化学・生物・鉱物の4科目 で教えていた。その頃の鉱物とは鉱物界の科学という広い意味で、地質も含んでいた。昭和17年 から22年までの中等学校では、物理・化学および自然現象を教える物象という新しい科目名が作 られ、理科はこの物象と生物との二科目となったが、その内容はそれまでのものと大差はなかっ
た。
さて、大平洋戦争に敗れた日本では、マッカーサー司令部により学制改革が断行され、小学校 6年・中学校5年・高等学校3年・大学3年の旧制度から、それぞれ6年・3年・3年・4年の 所謂六三三の新制度に移った。制度の改革に伴い、理科も再編成された。旧制中学校の下級に相 当する新制中学校では、分割されずにそのまま理科となった。また、旧制中学校の上級に相当する 新制高等学校では、教育内容の増加した物理化学は物理と化学に分けられ、博物は 広くて浅い 物識りの学問}という印象のため、何となく敬遠されていたが、ついに解体されて生物と鉱物と になり、生理衛生は保健体育で教えられることになった。しかし、鉱物は、物理や化学または生 物と対等にならぶだけの勢力に乏しかった。もともと、学制改革はアメリカの学制の模倣である が、アメリカの理科のなかに、地球に関する分野としてEarth Scienceという科目があったの で、それをとりいれて、鉱物に、今まで中学校理科で取扱われていなかった天文と気象を加えて 地学という独立した科目をたてた。つまり、高校地学というのはアメリカのEarth Scienceを 真似たものである。ここに、昭和22年、新制高校理科の物理・化学・生物・地学の4科目制が確 立し、昭和23年4月から実施された。
ただし、地学に対する概念は、現在でも高校・教育学部と教養部・理学部などとでは、若干、
ニュアンスが異なる。巾・高校の理科教員の養成を目的とする教育学部の地学は、その畦格上、
天文・地球物理・地質・鉱物のバランスが高校地学と同じである。ところが、大学教養部の地学 は、その発足当時、旧制高校の鉱物の先生がそのまま授業を続けた結果、地学と云っても天文気 象を除いた古い意味の地学が主流となっている所が多く、その状態は今日に至ってもあまり変っ
ていない。また、理学部には、茨城大・千葉大・大阪市大・金沢大・鹿児島大などに地学教室が あるが、いずれも天文抜きの地学教室である。このように、地学といっても、その内容に対して は、まだいろいろな理解があって、一致している訳ではない。
高校理科・地学の変遷 a)昭和23年〜32年 1科目選択必修の時代
昭和23年に発足した高校理科は、物理・化学・生物・地学の4科目がすべて対等に5単位とさ れ、そのうち1科目5単位を選択履修すれば良いことになっていたが、出発当初の地学には、い
くつかの泣き所があった。その一つに教員の質と量との問題があった。新制高校の物理・化学・
生物は旧制中学の物理化学・生物の先生がそのまま担当すれば良かった。しかし新しい地学は天
文・気象・地質・鉱物よりなる混合分野であるため、当時は地学を教える適当な教員はほとんど
いなかった。旧制中学校の教員を養成していた旧制高等師範学校は物理化学と博物の教員を送り
出していたが、博物の卒業生の大部分が生物専攻であって、鉱物は余技のことが多かった。旧制 中学教員のなかにまれにいた大学理学部の天文学・地球物理学・地質鉱物学の教室の卒業生はい ずれも地学の一部を学んだに過ぎない。したがって、当時の地学は、地学の一部を学んだ人か全 く学んだことのない人たちが、独学しながら教えていたような状態であった。それ故、地学は高 校理科のお荷物的存在であり、その授業を新任の教師や立場の弱い教師に押しっけるようなことも
あった。また、受講希望者の少ないことを理由に、地学の授業を行わない高校が少なくなかった。
受講者がいないから地学の教員を採用しない、教員がいないから地学の授業を行わないという悪 循環が続いていた。その頃の奈良教育大学の入学試験では、理科は一科目選択して受験すること になっていたが、その選択内容は、生物が4割前後、化学が3割前後、物理が2割5分程度に対
し、地学は5分以下であった。これが当時の理科の各科目の受講率に大体比例していたと考えら
れる。
b)昭和32〜38年 2科目選択必修の時代
日本が戦後の混乱期を脱して、高度成長へ大きく前進しようとする頃になると、日本の産業を 支える大量の優秀な工業技術者が必要とされ、国際間での宇宙ロケット開発競争も盛んとなり、
理科教育の振興が強調されるようになった。そのような時代背景のもとで、理科4分野のうち1 分野のみ選択して修得すればよいという制度は、高校卒業生の理科的知識の不足と偏りを招く恐 れがあると考えられるようになった結果、学習指導要領は、昭和32年度より理科4科目のうち2 科目を選択して履修するように改められた。
この制度により、地学選択率は少しは増加するであろうと予期されていたか、事実は逆で、少 ない受講生がさらに減少し出した。そのような受講者の減少を理由に、理科から地学を除外して、
物理・化学・生物の3科目にすれば、理科がすっきりして教育効果もあがるであろうという期待 もあって、所謂 地学廃止論 が強硬に打ち出された。つまり、地学は体系的ではないから、独 立した科目とすることをやめて解体し、その内容を地理などに分散して教えたらよいという説で ある。しかし、地学廃止論に対しては全国の地学教育関係者から一斉に反対の声があがった。た またま、昭和32年10月、ソビエトが初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功して、人類に 宇宙時代が到来したことを示し、世界中で宇宙科学・地球科学の重要性が再認識されるようにな った。そのため、地学廃止論は下火になっただけでなく、逆に地学の必要性が強調される結果と
なった。