『人文コミュニケーション学論集』
7, pp. 1-28. © 2021
茨城大学人文社会科学部(人文社会科学部紀要)―沖縄一集落出身ハワイ移民と子孫たち―
石井 宏典
要旨
本稿の目的は、
20
世紀初頭に、沖縄のひとつのムラからハワイに出稼 ぎに渡った夫婦およびその子孫たちが、これまでどのような歩みをたどっ たのかを探り、それらの過程がいかなる共同性によって支えられてきたの かを考察することにある。2001
年9
月から1
年間現地に滞在し、沖縄系コ ミュニティのつてを頼りながら、調査に取り組んだ。最終的には5
組の一 世夫婦を源とする家族(二世〜四世)から話を聞くことができ、そのなか の2
家族をとりあげた。一世は、プランテーションでの賃労働を主軸にし ながら、家の周囲に多彩な「自給の営み」を配置することで生活を立てた。こうしたあり方は、先祖から自給の営みを続けてきたムラ人たちが編み出 した適応のかたちといえた。この生活は、子どもたちにも身の丈に応じた 役割を担わせたため、その労働の記憶は二世たちの身体に刻まれた。そし て、現在編成されている多世代家族は、ハワイでの生活の礎を築いた一世 の面影によって結ばれている。
Ⅰ . フィールドと研究課題
1.
ハワイの沖縄系コミュニティホノルルに到着したその日は偶然にも、ハワイの沖縄系コミュニティにとって最大の年中 行事ともいえるオキナワン・フェスティバルの開催と重なっていた。フィールド日記から引 用しよう。
「
2001
年9
月1
日(土) 観光客が行き交うワイキキの街で夕食を済ませて宿泊先に戻った のは20
時ごろだった。観光情報誌をめくっていたつれあいが、今日と明日にカピオラニ公 園でオキナワン・フェスティバルなるものが開かれているという告知を見つけた。善は急げ、タクシーを拾って現地に向かう。公園に到着すると、通り沿いに並ぶ色とりどりの幟に誘わ れて歩を進める。途中、“
MOTOBU
” と書かれた幟が目にとまる。ライトで照らされたス テージ前では盆踊りの輪ができていた。和太鼓に合わせての踊りの後には沖縄のエイサー風の踊りが続いた。この島にも、三線に 合わせて踊る人たちがいることに感動 を覚える。カチャーシー(即興の乱舞)
になって
1
歳2
カ月の娘も手を上げて踊 り出すと、小さな男の子が喜び弾みな がら、そのそばに寄ったり離れたりし ていた。21
時を過ぎて徐々に人の数が 減っていくなかで、カチャーシーは何 度も繰り返されていた」。翌日の午後にも会場に足を運んだ。
快晴の空の下、公園にはたくさんの人 たちが集まっていた。沖縄の市町村名 が書かれた幟を掲げた各テントでは、沖縄そばや足てぃびち(豚足の煮込み)など、なじみ の沖縄料理が提供されていた。“
MOTOBU
” のテントでは揚げたてのサーターアンダギー が販売されており、ひときわ長い列ができていた。ハワイのそれは本場沖縄よりも小ぶりで、「アンダギー」と呼ばれ、地元の人たちにも人気があることを後で知った。市町村名が書か れた幟は各市町村人会(クラブ)の存在を示すもので、それらを束ねるハワイ沖縄連合会と いう組織がこのフェスティバルを運営していた。ハワイの沖縄系コミュニティは、市町村単 位のクラブとそれらを包括する連合会という二重構造となっているようだった
1
。沖縄ハワ イ移民100
周年を記念する冊子を見つけ、記念T
シャツと合わせて買い求めた。2000
年に発 行されたこの記念誌の表紙には「おかげさまで」と一世への感謝のことばが添えられ、70
頁に及ぶ一世名簿が収録されていた2
。フェスティバルから
20
日後、ハワイ沖縄連合会の結成50
周年を祝う式典が開催されると 聞き、私たちも参加させてもらった。会場となるハワイ沖縄センターは、ホノルルの中心部 からハイウェイに乗って30
分ほど西に走ったところ、かつて多くの沖縄出身者が働いたワ イパフの台地に建っていた。赤瓦にシーサーを乗せた大きなホールは1990
年に造られたも のという。中に入るとテーブルの席は人々で埋まり(500
人ぐらいか)、18
時すぎに始まっ た式典は、沖縄料理の食事を楽しみながら22
時すぎまでつづく盛大なものだった。沖縄か ら参加した琉球舞踊の師匠5
人が踊る「かぎやで風節」で幕が開け、太鼓、エイサーと続いた。来賓の挨拶は、日本領事や沖縄ハワイ協会会長をはじめ、ホノルル市長や州副知事といった 顔ぶれだった。沖縄系コミュニティがハワイ社会にしっかりと根を下ろしている様子がうか がえた。そしてこの席で、渡久地シズさんという備瀬出身女性と出合った。彼女は、同郷の 男性と結婚するために戦後になってハワイに渡った新一世だった。
表
1
備瀬出身移民と子孫にかかわるおもな出来事1885
日布移民条約締結1889
沖縄からのハワイ移民はじまる1898
米国によるハワイ併合1907
備瀬からのハワイ移民集中1924
米国で排日移民法成立1930
本部村人会結成(ホノルル都市圏への移動を反映)1936
浄土真宗本願寺派、慈光園の設立1941
日本軍による真珠湾攻撃1945
〜 沖縄への救済運動1951
ハワイ沖縄人連合会設立(ハワイ沖縄連合会の前身)1959
ハワイ、米国の一州になる1971
〜 オキナワン・ジュビリー(沖縄文化祭)の開催1975
クラブ・モトブによる海洋博ツアー1981
“Uchinanchu: a History of Okinawans in Hawaii
”刊行1982
〜 オキナワン・フェスティバルの開催1990
ハワイ沖縄センター落成、世界のウチナーンチュ大会2.
研究の視点と課題本稿は、沖縄島北部の本部半島先端に位置する備瀬集落からハワイに渡った移民とその子 孫に焦点をあてる。沖縄からの海外出稼ぎ移民は、土地の私有制をもたらした土地整理事業 と重なり、
1899
(明治32
)年のハワイ移民に始まる(到着は1900
年)。備瀬の場合は、日本 からの移民を制限した日米紳士協定締結直前の1907
(明治40
)年に集中しており、その後 の呼び寄せ移民を含めると40
人余りがハワイに渡った3
。まず、ハワイ移民を生んだ沖縄側の時代背景を大まかになぞりたい。明治政府によって 琉球王国が解体され、沖縄県が設置されたのは
1879
年だった(琉球併合)。日清戦争を経て1898
(明治31
)年には沖縄にも徴兵令が施行され、日露戦争では沖縄からも多くの男たち が従軍した。しかし、日本軍の一員として命を賭すことへの抵抗も根強く、徴兵忌避者が続 出した。1910
年には備瀬のある本部村において、徴兵忌避の感情に由来した本部騒動が起 こっている。備瀬からのハワイ移民が集中したのは、日露戦争とこの本部騒動に挟まれた時 期だった。海外移民は兵役が猶予されたため、徴兵から逃れる手段として渡航を決意するケー スも少なくなかったといわれる。つぎに、備瀬移民を受け入れたハワイ側の状況もなぞろう。
18
世紀終盤には欧米の植民 地主義の波がハワイにも押し寄せ、1835
年にカウアイ島において米資本によるサトウキビ のプランテーション経営が開始された。土地はハワイ国王からの借地だった。1850
年に外 国人による土地私有化が認められると、1890
年までに私有地面積の4
分の3
が「ハオレ(ハ ワイ語で白人の意)」の所有になった4
。1898
年にはハワイは米国に併合された。プランテー ションへの海外労働者の導入は、1852
年の中国人契約移民を皮切りに、ポルトガル、日本、朝鮮、フィリピンなどへと広がった。
1885
年に日布移民条約が締結されて日本人移民が急 増し、初の沖縄移民が到着した1900
年にはハワイの人口15
万4
千人のうち日本人が6
万1
千人 余、約4
割を占めるまでになっていた5
。植民地主義を背景にしたプランテーション経営の拡 大と商品経済の世界的波及といううねりのなかに備瀬からの移動民もあった。現地での調査は、備瀬出身者がハワイに渡ってからやがて一世紀を迎えるという時期に実 施された(表
1
)。目的は、備瀬系二世のもとを訪ね、各一世を起点とした後続世代の歩みに ついて把握することにあった。はじめに沖縄で、ハワイ移民の親戚縁者のもとを訪ねて現地 の情報を集めた。そして2001
年9
月から1
年間にわたり妻子とともにハワイに滞在し、「備瀬」という共同性を手がかりにした調査に取り組んだ。オアフ島だけでなく、ハワイ島やカウア イ島にも足を伸ばし、最終的には
5
組の一世夫婦を源とする二世〜四世たちに話を聞くこと ができた(表2
)。本稿でとりあげるグシケンおよびナカムラの2
つのファミリー(多世代家族)との出合いが急展開したのは、滞在の終盤だった。かれらの多くがメンバーとなっていたク ラブ・モトブの新年宴会やピクニックにも参加し、ナカムラ・ファミリーについては家族の 集まりにも何度か同席させてもらった。
それぞれの自宅を訪ねてのインタビューは、日本語と英語でおこなわれた。私の英会話力
が不十分なことも手伝って、日本語を苦にしない相手とは日本語で進め、英語のほうが話し やすい相手にはそれに合わせた。その結果、グシケン・ファミリーの二世とは英語中心で、
ナカムラ・ファミリーの二世とは日本語が中心となった。ただどちらの場合も、日本から来 た私を前にして「日本」という共同性が刺激されたと思われる。そのため、次章以後の記述 はこの点に留意する必要がある。ハワイ調査の後、
2004
年6
月には、一世のふるさと備瀬を 訪問する二世の旅に同行した。2005
年3
月にはハワイを再訪し、2
週間ほどの補足調査をお こなった。本稿の課題は、沖縄のひとつのムラからハワイのプランテーションへと移動した人たちが、
現地でどのようにして生活を立て、その子どもたちがどんな歩みをたどったのかについて探 り、それらの過程がいかなる共同性によって支えられたのかを社会心理学の立場から考察す ることにある。共同性とは、ものごとや場所の意味を共にする過程をとおして生成される〈わ たしたち〉というつながり、と定義したい。移民とその子どもたちが何より頼みにしたのは
「家族」という共同性であったと思われるが、世代を経るなかで家族の形態と特質にはどの ような変化がみられるのだろうか。そして一世なき時代、後続の世代にとって「備瀬」とい う共同性が担う意味にも注目したい。また、子孫たちが所属するクラブ・モトブやハワイ沖 縄連合会は、それぞれハワイ社会で編み出された「モトブ」や「オキナワ」というレベルの 共同性を体現した組織とみなすことができる。共同性は、その単位が大きくなればなるほど、
直接的関係にない人びとを束ねる観念として作用する面がつよくなると考えられる。
Ⅱ . グシケン・ファミリー
1.
備瀬での事前調査備瀬での事前調査のさい、戦前にハワイ在住の具志堅忠助とカマ夫妻による寄付によって 謝花尋常高等小学校に農業実習地が整備されたことを知った。そして、その記念碑が今も立っ ているという。忠助の甥にあたる具志堅基孝さんのもとを訪ねると彼は、“
Gushiken Family
表
2
二世にインタビューをした家族の動き渡航年 一世
(
渡航時の年齢)
呼び寄せ ハワイでの動き1907
渡久地源助
(22)
単身1919
妻カメ(35)
、長男源栄
(11)
源助、戦前に備瀬引揚。源栄、ガソリンスタンド経営。妻シズ、戦後渡航。
高良長一郎
(24)
・マカ(17)
エワPL
ロウアー・ビレッジ。長一郎、1940
年没。マカ、ワイアラエで養豚業。
上原正順
(29)
・ウシ(19) 1915
長男正慎(14)
、1917
次男正義(15)
エワPL
→ワイパフPL
→鰹節行商。正順、本部村人会設 立時(1930
年)
の会長。正義、
1931
年よりレストラン「ケワロ・イン」経営。仲村嘉助
(18)
・カナ(18)
ワイパフPL
→アイエアPL
→エワPL
ロウアー・ビレッジ、下宿屋を営む。
1908
具志堅忠助(19)
・カマ(18)
エワPL
ロウアー・ビレッジ→カウアイ島キラウエアPL
*
PL
はプランテーションの略History: Okinawa to Hawaii 1908-1999
91years & beyond
”(以下、『家族史』と略記)と 題された、120
頁ほどの手づくりの冊子を見せてくれた。それは、二、三世の回想記ととも に多くの家族写真が収められた、備瀬系移民の足跡を伝える貴重な資料だった。記念碑の立つおおよその場所も教えてもらうと、翌日その確認に向かった。小学校の跡 地から西側数百メートルのところと聞いたが、あたりは背丈を超える夏草で覆われていた
6
。 思い切ってその中に飛び込み、手でかき分けながら進んでいくと、幸い2
つの碑に行き当たっ た。高さ2
メートルほどの碑には、中央に「具志堅忠助殿寄贈地」、両脇に「昭和四十二年一 月建立、総坪数九二六坪 謝花小学校」との文字が刻まれていた。隣にあるやや小さめの碑 の文字は判読できなかったが、こちらが先に建立されたもののようだった。このときは碑を 探すのに夢中だったが、後になって、ハブに遭遇する危険性もあったと肝を冷やした。この寄贈地については、
1978
年に編まれた『本部町立謝花小学校 創立90
周年記念誌』の「本校のあゆみ」にいきさつが記されていた。書き手は字具志堅出身の仲里松吉という、
1926
(大正15
)年から10
年間にわたって同校の校長を務めた人物である。彼は赴任当時、小学
1
年から高等科2
年までの8
学年30
学級を抱えた同校の課題をつぎのように指摘している。教室不足のため半日二部授業をせざるをえない、飲料水や使用水の欠乏のために保健衛生上 支障がある、赤土の運動場は降雨のときには〝どろんこ〟になって教室の清浄が保たれない、
そして農村の学校として独立の実習地がなく貸地に頼っているが学校から遠くて不便である。
このうち、運動場のぬかるみについては学年の一斉作業によって〝コーラル〟を敷きつめる ことで改善を図り、二部授業も新教室の建設により解決した。そして、自前の農業実習地を もたないという不便を解消したのが、具志堅忠助夫妻から寄せられた
600
円の寄付だった。以下、仲里の記録を引用する。
実習地の確保 謝花校出身、備瀬の具志堅忠助氏が(ハワイ移民)再渡航で、夫妻、学校を 訪問された。その折、農村教育に関して、縷々説明しておいた。渡航前再度、学校を訪問された、
その折郵便貯金通帳額面六百円を渡され、学校で適当な施設又は、記念品として活用するようい われた。その金額で、現在ある農場(実習地)約九百坪近く購入した。地主は浦崎の玉城松次郎 氏であった。
〔附記〕寄附者は具体的なことは示さない。その折り「火に焼けない、又水に流されないもの」
と、暗示に富んだ発言であったので、職員と話し合って実習地に決定した。玉城松次郎氏も当村 老人であり、それを手ばなすことを極力拒否していたが、再三再四要請したので、〝教育のためな ら〟と承諾した。(段落換えを一部変更)
この寄付のあった昭和
3
年は同校の創立40
周年にあたっており、その記念事業遂行のため に広く寄付を募っていた。個人の寄付最高額30
円を筆頭に、「遠く北米、ハワイ等から続々 集まった金額は、凡そ三〜四千円もあったろう。当時としては少なからぬ金額であった。〔註〕当時千円では三十坪の瓦葺で、宏壮の建物も出きる時代であった」(同記念誌)。この記述か ら
600
円という額の大きさが想像できる。そしてこの金額は、プランテーションで働く子沢 山の移民夫婦が20
年かけて貯めたものだと知ると、さらにその重みが増す。2.
出会いのいきさつ具志堅忠助とカマを両親とする二世のうち、最初に会うことができたのは、ハワイ諸島の いちばん南に位置するハワイ島ヒロ市に住むトメ・ホカマさんだった。ホノルルで人づてに 知り合った沖縄系四世の青年が、トメさん家族と長く親交があり、彼女の両親が備瀬出身で あることを確認してくれたのだった。
2002
年1
月13
日にハワイ島に渡り、トメさんの自宅を 訪問することができた。夕方、指定されたガソリンスタンドで待っていると、トメさん夫婦が迎えに来てくれた。
1923
年生まれで78
歳になるという彼女は、紅白の和風柄のシャツにピンクの上着、そして 真っ白なスカートという装いで現れた。長く美容師として働いてきたという彼女にはよく似 合っていた。家に着くと、まず庭に通された。玄関前の日本風庭園には、半球形に刈られた サツキに二羽の鶴が飾られ、きれいに刈り揃えられた芝生にピンクのアンスリウムが彩りを 添えていた。家の裏手にも広い庭があり、菜園にはレタス、大豆、タロイモなどが植えられ、レモンやオレンジ、かぼすなどの果樹が茂っていた。広い庭の手入れは「若いころにはいろ いろできたけど、年とともに大変になっている」ともらす。私たちのために収穫したオレン ジをとっておいてくれたと聞き、心遣いに感謝する。家の中にあげてもらうと、リビングルー ムは日本色で統一されていた。漆塗りの戸棚には花瓶などが置かれ、壁には日本風の絵と額 に入った帯が飾られていた。「福」という字があしらわれたその帯は、母カマが身につけて いたものだと教えてくれた。トメさん夫婦は沖縄には一度行ったきりで、備瀬を訪ねたこと はないとのこと。『家族史』のことを訊ねると、すぐ上の兄であるジョン・マサイチさんの 次女が詳しいから連絡をしておくと言ってくれた。
ホノルルに戻って数日後の
1
月19
日、ジョン・マサイチさんのおつれあいのミヨコさんか ら電話をもらい、和風レストランでのバイキング・ランチに私たち家族を招いてくれるとい う。その席をともにしたのは、マサイチさん夫婦と娘さん(次女)の家族だった。『家族史』を編んだいきさつを彼女に訊ねると、マサイチさんの長兄ポール・トクマツさんの
90
歳を 祝うために一族がカウアイ島に集まることになり、その機会にあわせて編んだと教えてくれ た。トクマツさんが書きためていたいくつかの文章ときょうだいや甥姪が寄せた回想記とを 一緒にまとめ、自分たちで100
冊ほど製本して家族に配ったとのこと。彼女には、クラブ・モトブの会長も務めた経験もあった。
マサイチさんには備瀬の基孝さんから電話が入っていて、「英語の話せないプロフェッ サー」が来ると聞かされていたが、妹から英語は通じると聞いて安心したと笑いながら伝え てくれた(覚束ないものだが)。よく陽に焼けた彼は
80
歳すぎとは思えない体格で、幼い娘にグァバジュースや好みそうな料理を探すなど、かいがいしく世話を焼いてくれていた。食 後、記念写真を撮らせてほしいと伝えると、娘さんの夫が撮影役を申し出てくれた。彼は「ア ンダギー」と声をかけてみんなを笑わせ、シャッターを切った。帰りの車の中でマサイチさ ん夫妻に、備瀬出身の子孫を訪ねることが目的であることを伝えると、ふたりはなぜ備瀬な のかと不思議そうにしていたが、何人かの二世に連絡をとってくれると言ってくれた
7
。3.
キラウエアの忠助とカマその後、釣りが趣味だというマサイチさんは自分が釣った真っ赤なオナガ(ハマダイ)を 何度か私たちの元に届けてくれた。私のなかで備瀬の海人(漁師)と彼の姿が重なっていっ た。彼には、生まれ故郷のカウアイ島キラウエアにいつか案内してくださいと伝えていたが、
7
月になってその要望に応えてくれた。「
7
月22
日(月) マサイチさんの車でホノルル空港に到着する。搭乗を待つ間、フィール ドノートを広げながら、両親ときょうだいの家族構成を確認する。これまでは無口な人と思っ ていたが、それは表面的な印象にすぎなかった。ふたりになってみて、じつは彼が話し好き だということがよくわかった。問わず語りで父忠助や自分のエピソードをいろいろと披露し てくれた。初めに日本語で話しかけてくれたので、「マサイチさん、今日は日本語にしましょ う」と伝えたが、その後は話しやすい英語になった。そのため道中の会話は英語中心で、と きおり日本語が交じるという感じになった。オアフ島の乾燥地帯から来たこともあって、カウアイ島の緑が瑞々しく感じられた。リフ エ空港で赤いレンタカーに乗り込み、キラウエアを目指して海岸線を反時計回りに北上する。
青空が広がり気持ちよかった。途中、カパアの街に本願寺が見えたので、ハンドルを握るマ サイチさんにクリスチャンですかと問うと、仏教徒との返事。彼がリリハの真言宗寺院の信 徒になったのは、過去を見通す司祭(僧侶)に引きつけられたからとのこと。やがて、高校 時代の彼が猪狩りで駆け回ったという山を左手に見ながら、キラウエアの住宅街に入った。
かつての日本語学校跡、ブランテーション病院、商店、体育館などの前を通り、少し奥まっ た所に彼の長兄が住む家があった。出迎えてくれた
92
歳のポール・トクマツさんは、杖を ついて歩くのはゆっくりだが、声は太くて力強かった。台所ではおつれあいのキクエさんが 料理の手を止めて迎えてくれた」。この日、マサイチさんとトクマツさんから聞いた話と『家族史』の内容を重ねることで、
一家の歩みをたどってみたい。忠助は
1889
(明治22
)年、具志堅甚助とゴゼイの三男とし て生まれ、カマはその翌年、小浜源助の二番目の娘として生まれた。夫婦となったふたりは ハワイを目指し、忠助は1908
年2
月10
日にホノルルに到着、カマはその5
日後に着いた。こ のとき忠助は19
歳だった。ふたりはエワ・プランテーションに配属され、備瀬からの先行 者がいたと思われるロウアー・ビレッジに身を寄せた。そして2
年後の1911
年に、カウアイ 島北部のキラウエアに移動した。1918
年の記録によれば、カウアイ島には1379
人の沖縄人が在住していたが、キラウエア地区には
35
人(男19
、女16
)と少数だった8
。そのプランテーションは
5
つのキャンプから構成されていた。20
世帯以上が住む日本人キャ ンプ、12
世帯ほどのミル(製糖工場)・キャンプ、そしてフィリピン人キャンプ、中国人キャ ンプ、ハオレ(白人)・キャンプであった。忠助の一家は、ミル・キャンプの住人となった。ここは日本人が多かったが、ハワイアンやフィリピーノも混じっていた。トクマツさんは、
プランテーションで働く沖縄人として、ウザ、ハマバタ、アフソそしてグシケンの
4
家族と 独身者のテンガンという名前をあげた。トクマツさんのおつれあいのキクエさんの両親は広 島県佐伯郡の出身で、一家は日本人キャンプに住んでいた。山口、広島、福岡の出身者が多 く、大人たちが使う「へーぇ、そうでがんしたか」という言い回しを子どももまねて身につ けていった。忠助はプランテーションで働きながら、副業として家の近くに
1
エーカー(約4047
㎡、1200
坪余り)の土地を借りてサトウキビを栽培した。やがてトクマツ少年もこのキビ畑で、灌漑を掘り、草を刈り、収穫時にはキビを刈って貨車まで運ぶという作業にあたった。母の カマは早朝に豆腐をつくり、子どもたちが注文先に配達した。一家はまた、豚や鶏を養い、
大きな菜園を耕した。どちらもふるさとで繰り返してきた営みだった。穫れた野菜は食卓を 賑わせ、残飯は豚の餌になった。子どもたちも担った豚の餌やりは、豚舎まで残飯を肩に担 いで長い距離を歩かなければならなかった。台所は土間で、便所や風呂場はキャンプの住人 の共用だった。両親はその共用の風呂場の管理役も担っていた。つぎつぎと生まれてきた子 どもたちは、二番目から五番目までは女の子で、マサイチさんが六番目の次男だった。上の 子は下の子をおんぶしながら育った。夫婦はカマ
42
歳(1932
年)のときまでに5
男6
女を授 かった(うち五男は出産後まもなく亡くなっている)。ハワイに渡って
20
年後の1928
(昭和3
)年、忠助が39
歳のときに夫婦揃っての里帰りを 果たしている。先述のとおり、このときの母校への寄付が農業実習地となった。1930
年代 になると青年期を迎えた子どもたちでホノルルに向かう者が続いた。戦争の時代を経て、1959
年にハワイが米国の一州になると夫婦は米国市民権を取得した。このとき忠助は60
歳 になっていた。戦後もふたりは幾度かふるさと備瀬に里帰りをしており、忠助の実家近くに コンクリート造りの家を建ててもいる。この家は「ハワイヤー」という屋号が付けられた。そして、忠助は
1972
年に83
歳で、カマは1978
年に88
歳で永眠した。4.
二世たちの歩み(1)
長男ポール・トクマツ
1909
年にオアフ島エワで生まれ、キラウエアに移ったのは2
歳のときだった。どのような 事情で両親がキラウエアに来たのかは聞いたことがないという。両親との会話について訊ね ると、「日本語。父と母は、英語はわからないから。沖縄の言葉は教わらなかったから、わ からない」と返ってきた。子ども時代には父と一緒に野に行って薪にする松の木を切ったり、豚を解体したりするのを手伝った。
小学校は
1
クラス20
数人で、日本人、ハワイアン、フィリピーノ、プエルトリカン、ポル トゲース(ポルトガル人)、その他のハオレと多彩だった。日本人が多かったとはいえ、独 占的な状況ではなかった。地域に50
家族ほどいた日本人のうち、沖縄出身は5
家族のみだっ た。ナイチ(内地、他府県出身)とオキナワが対比されるようなことはなかった。長男には 教育を受けさせたいという両親の考えでリフエのカウアイ高校に進学し、親元を離れての寄 宿舎生活を送った。同級生で高校に進学したのはクラスで4
人ほどだった。初めの1
、2
カ月 はホームシックになって家に帰ってきたが、3
カ月目には慣れた。アルバイトで庭仕事を請 け負った。夏休みにはプランテーションで10
時間働き、日当は1
ドルだった。耕地で働く仲 間たちとは同じカップを回して水を飲んだ。
1929
年に高校を卒業してキラウエアに戻ると、郵便局の事務員として働いた。やがて中 国人が経営する商店に移った。プランテーション・コミュニティでは唯一の大きな店で、生 活必需品を何でも取り扱っていた。午前中に各家庭を回って注文取りをし、午後に配達をし た。当時はすべての家を把握し、日本人の家庭ならみんな自分のことを知っていた。鍵をか けずに出かけても平気だった。月に一度、夜中の2
時に起きて父親が豚を捌くのを手伝った。肉を全部切り終えるとジープに積んで注文のあった家々に配達した。新鮮な肉を好むフィリ ピーノにはとくに喜ばれた。
23
歳のときに日本国籍から抜けるための手続きをした。
29
歳で広島系二世のキクエさんと結婚。彼女は親から「ヒロシマ・ボーイと結婚するよ うに」と言われていたが、トク(トクマツさんのこと)と結婚すると伝えたら、父親は「オー ライ」のひと言だけだった。配達をしていて人柄もよくわかっており、「グッボーイ(good
boy
)だから」と話していたという。戦争が始まると、すでに2
児の父親となっていたため 招集は猶予された。夫婦は5
人の息子を授かり、キクエさんもプランテーションの支配人の 家でメイドとして働くなどして、息子たちを育てた。トクマツさんは、高校の寄宿舎時代に 義務の洗礼を受けていたが、1962
年53
歳のときにあらためて洗礼を受けた。趣味の釣りを 楽しみながら65
歳で退職するまで同じ店で勤めあげた。退職後は地域のシニア・センター のボランティア活動に励む傍らソフトボールを楽しみ、現在はゲートボールに勤しむ。キラ ウエア日系人協会の会長を長く務め、現在は五男がその役を引き継いでいる。話をうかがったリビングの壁には、“
The Gushiken Family
” という文字が刻まれた家族の 集合写真が飾られていた。後で数えてみると、一世から五世まで総勢70
人ほどが写っていた。日付は
1999
年8
月14
日、90
歳を迎える直前のトクマツさんを祝ったときのものだった。その 中には、いとこの具志堅基孝さん夫婦をはじめ、備瀬から駆けつけた9
人の親戚の姿があっ た。キクエさんは、「日本に行ってもグシケンの親戚を訪ねてばかりなので、今では100
パー セント、グシケンになってしまった」と笑った。(2)
次男ジョン・マサイチ
1920
年、11
人きょうだいの6
番目、次男として生まれる。高校進学を前にした14
歳のとき、父・忠助は彼を備瀬の親戚の家に
2
年ほど預けて現地の教育を受けさせようとした。しかし 親戚たちからこっちに来ると兵隊に取られるからやめたほうがいいとの忠告を受け、踏みと どまった。マサイチさんは、「向こうに行っていたら、体格がよかったのでとくに目をつけ られたにちがいない」と振り返る。運動神経に恵まれた彼は、高校時代は3
年間フットボー ルの優秀選手だった。また、山を駆け巡っての猪狩りに熱中し、友だちと一緒だったり単独 で行ったりした。犬を3
匹連れていってその犬たちに猪を捕らえさせた。夏にはパイナップ ルの缶詰工場で働いた。1939
年にカウアイ高校を卒業すると、すでにホノルルで暮らして いた長女家族のところに身を寄せ、3
年ほど住まわせてもらいながら電気関係の技術を学ん だ。日米関係が悪化するなかで、戦争になれば日系人は日本側に付くにちがいないとみなさ れ、ハワイの同胞に銃を向けるはずがないと言っても信じてもらえない雰囲気だった。開戦 後には「二世部隊」と呼ばれた第442
連隊に志願するも、一度目は視力が足りず、二度目は 電気技師のため地域のインフラを支える役目があるという理由で採用されなかった。MIS
(
Military Intelligence Service
:通訳兵の養成機関)にも志願したが、漢字が読めないからと 落とされた。戦争が終わると、沖縄系二世たちが立ち上げた団体「フイ・マカアラ」のメンバーとなっ て活動に打ち込んだ
9
。この団体は沖縄への救済活動として衣類や乳ヤギを船で送った。ま た、スポーツ・リーグを主催し、彼はその管理を担当した。最盛期には40
を超える各市町 村人会のチームがあって、毎週日曜の朝9
時から夜7
時まで6
カ月間、野球シーズンを送った。1950
年には会長を務めてもいる。この間、沖縄系二世のミヨコさんと結婚し、3
女1
男を授 かった。壮年期には電気関係の有限会社を設立し、多いときには
10
人の従業員を抱えた。1960
年 代には、エワ、アイエア、カイルアなどの住宅地建設の設備工事を請け負った。「当時、郊 外にたくさんの住宅地が造成されており、この時期に建築関係の仕事に就いていたのはラッ キーだった」。案内してもらったカウアイ島からの帰途、飛行機がホノルル空港へと高度を 下げたさいに整然と建ち並ぶエワの住宅地が見えるとマサイチさんは、「あそこは自分たち が建てた」と教えてくれた。そこは、かつて備瀬出身者が身を寄せたロウアー・ビレッジが あった地区だった。
1994
年74
歳で、仕事を引退。現役時代に購入したアパート(マンション)の家賃収入が あるため、子どもたちに経済的な援助ができるという。現在は、日曜日に天気がよければ二 人乗りのボートに乗って釣りに行く。単独行動はぜずにかならず仲間のボートと一緒に海に 出て、何かあったときに助け合うようにしている。ここ15
年はアラスカへの釣り旅行も楽 しんでいる。(3)
五女トメ
1923
年、11
人きょうだいの7
番目、五女として生まれる。長兄のトクマツさんとは14
歳離 れており、マサイチさんのすぐ下の妹である。下につづく弟2
人の子守や皿洗いの手伝いを しながら育った。子どものころ、年に一度か二度、トクマツさんが店から借りてきたトラッ クに家族みんなを乗せて島内各地の公園にピクニックに行った。そのときに母のつくってく れたお弁当を食べるのが何よりの楽しみだった。父は、上の姉さんたちにはとても厳しく、月に一度の映画を見に行くさいには終わる時間 にランタンを下げて待っていた。しかし、自分たちの時代には映画も週に一度になり、父も 迎えに来なかった。
1930
年代には家を出てホノルルで暮らすきょうだいが続き、やがて彼 女も姉や兄を頼ってホノルルに出て、フォート通りにあった美容学校に通い美容師になっ た。ホノルルで10
年間働き、1948
年25
歳のときに沖縄の具志川村系二世と結婚する。翌年、電気技師だった夫がハワイ島唯一の製糖工場で働くためにヒロに移り、彼女はそこで「トメ 美容院」を開業した。当時、ハワイ島の製糖業は最盛期を迎えており、島内
13
のプランテー ションで収穫したサトウキビすべてが夫の働く工場に集められた。夫婦はそれぞれの場所で40
年間働き、引退を迎えた。一人娘はワシントン州の図書館で働いている。5.
オジジとオババの面影カウアイ島キラウエアに赴いての聞きとりのさい、トクマツさんにお父さんはどんな人で したかと問いかけると、「働き者(ハード・ワーカー)」と即答した。プランテーションでの 賃労働のほかにも、借地でサトウキビを栽培し、自給用の畑で野菜を育て豚や鶏の世話をし た。畑には、スイートポテト、トウモロコシ、キャベツ、その他の野菜が植えられていた。
トクマツさんは、日本人の家庭はそれぞれ家の裏の畑で野菜を育てていたと話したが、なか でも人一倍働く父の姿が印象に残っているのだろう。
インタビューを終えると、トクマツさんの長男であるジャックさんの家に招かれてのお昼 となった。おもてなしの心がしみじみと伝わってくる料理の品々が並べられ、なかでも赤飯、
煮物、貝柱で出汁をとったスープが身に沁みた
10
。食後、案内された二階からキラウエア滝 を眺めながら、マサイチさんが、「あそこに見える松の木のところに父と一緒に拓いた畑が あった。そこにスイートポテトを植えた」と語り始めた。ある日、マサイチ少年がこの畑か らイモを盗む人がいるのを見つけて、それを父に伝えた。しかし、父はその泥棒を捕まえよ うとはしなかったので、その理由を問うと、「盗ったものを売るならいかんが、腹を減らし ているなら仕方がない」と返した。それを聞いて少年は、たしかにそのとおりだと納得した。そんな内容だった。
『家族史』にも、彼の子どもたちの視点から同じエピソードが綴られている。内容が重な るが、時代背景も書き込まれているのでそのまま和訳して引用したい。グシケン・ファミ リーでは、忠助とカマのことを、親しみを込めて「オジジ」と「オババ」と呼びかける。
わたしたち子どもたちは、幼いころに父(マサイチさんのこと、引用者注)から聞いたある物 語を思い出しながら、オジジは賢くて公正な男であることを理解するようになった。大恐慌(
1929
年〜)のとき、どの家でも生活は苦しかったが、グシケン一家はさいわいにも大家族を養えるだ けの菜園があった。ある隣人から「どうして収穫した野菜を売らないのか」と問われてオジジは、「この野菜は家族のために必要なものだから」と返した。父が、この菜園から野菜を盗む人がいる のをみつけてオジジにそのことを伝えた。どうして泥棒するのをやめさせないのかと問うとオジ ジは、「この野菜は売るために育てているのではない。もしどこかの家族が野菜を盗むしかないほ ど飢えて絶望的な状況なら、それを止めはしない」と答えた。この物語はオジジの性格をよく表 している。
ここでは、盗まれたのは「野菜」となっているが、マサイチさんの話では、松の木のそば にある畑に植えた「スイートポテト(甘藷)」だった。忠助にとってこのイモは、売ってお 金に換えるためのものではなく、家族が食べるために植えたものだった。彼が育った備瀬で はイモが主食で、家族のいのちをつなぐためには欠かせない作物だった。彼は、イモさえ植 えておけば家族が食べるのに困ることはないと考え、ふるさとの習慣をこの地に持ち込んだ のだろう。
『家族史』のなかでマサイチさんは、オジジがどんな人物だったかと問われて、つぎのよ うに語っている。「オジジは、松の木、バナナ、椰子の木、竹、そしてスイートポテトを植 えた。松の木の多くは今もキラウエアの地に高く伸びている。そのうちの一本がキラウエア 滝の前に立っていて、甥のジャックの家から見える。旅行者や米国本土から移住した人たち が〝キラウエアの自然〟と思い込んでいるこれらの植物は、オジジが植えて育てたものなん だ」。マサイチさんが指さし教えてくれた松の木は、まさにこの木だった。彼にとってこの 松の木は、父忠助の面影とともにある。ふるさと備瀬において松の木は、正月に飾る縁起の よい木であり、枯れ枝は火持ちのよい薪になった。ムラの南端にはタマサ(地名)の松並木、
そして北の崎にはクビル(地名)の松並木があった。忠助は、この風景に思いを馳せながら 松の苗を一本一本植えていったことだろう。そして、ふるさとを偲ぶことのできる景観をこ こキラウエアの地につくり出そうとした。
母カマについては、トクマツさんのつれあいであるキクエさんが「ナイス、ナイス・レイ ディ、ベリー・ナイス」とその人柄を讃えた。そしてトクマツさんにとって、母の面影は「豆 腐」とともにあった。朝早く起きてつくった豆腐はかつて
1
ブロック5
セントだった。マサ イチさんは『家族史』のなかで母のことを問われて、こう答えている。「これからも自分の 母親のような女性に会うことはないだろう。彼女は誰のことも悪く思わない。家事は女の仕 事とわきまえるような強い日本的信念を持っていた。母が沖縄の妹に送金をして、とても感 謝されたことを覚えている。大晦日には夜中に娘たちを集めて新年のための豆腐づくりを始めた」。彼にとっても、母の面影は「豆 腐」とともにある。備瀬において豆腐は、
祝いの席を飾るために欠かせない一品で あった。
この兄弟は、両親の眠るキラウエア日 本人墓地にも案内してくれた。住宅地か ら北に向かってゆるやかな坂を上ってい き、街を見守るような場所に墓地はあっ た(写真
1
)。遠くに山並みと海が望める 開放的な立地で、周りを囲む白いフェン スはマサイチさんが設置したものだとい う。忠助とカマの墓にはふたりの写真が埋め込まれ、両脇にはたくさんの花が生けられてい た。ここに足を運べたことに感謝しながら手を合わせた。現在、壮年期にある三世たちも、『家族史』にオジジとオババの思い出を寄せている。ホ ノルルや米本土の都会で育ったかれらにとって、カウアイ島キラウエアの自然との交わりは 鮮やかな印象を残している。自然との付き合い方を教えてくれたのは祖父母であり、親戚た ちだった。この地での体験をとおして、ひ弱な都会っ子がたくましい「カウアイ・ボーイ」
へと成長できたと振り返っている。なかでも、オジジが養っていた豚にまつわるエピソード はいくつもの回想記に登場する。たとえば、幼少時代の
10
年間の夏をキラウエアで過ごし たという男性は、豚とは会話ができるほどに仲良しになったが、屠殺するときには尻尾をもっ ている役目をオジジからあてがわれた。このときのひどい匂いはいまだに記憶に残るほどだ が、この経験が自分を成長させてくれたと書く。オババについてはその優しさと、家事をて いねいにこなす姿が描かれる。孫娘のひとりは、エプロンを着けたオババが台所で朝食の準 備をする姿を、ご飯やコーヒー、卵などの匂いとともに思い出している。ホノルルとは違い 蛇口から出る水が濁っていることに驚いてもいる。手の甲にハジチ11
があったオババは、い つも優しい物腰でやわらかに話し、声を上げるのを聞いたことがなかった。家の中はいつも こざっぱりと整理されていて、かいがいしく働くオババは満ち足りていて幸せそうだった。6. クラブ・モトブの年中行事
(1) 2002
年3
月の新年宴会市町村単位のクラブ(
locality club
)において、新年宴会、ピクニック、オキナワン・フェ スティバルが三大行事である。2002
年3
月10
日に開かれたクラブ・モトブの新年宴会の様子 を伝えたい。快晴の日曜日、マサイチさんの車に乗せてもらい会場に向かった。今回会場となる料亭「夏 写真
1
キラウエア日本人墓地(2002
年)の屋」は、パンチ・ボウル方面を見下ろす斜面に建ち、外壁が白で統一された二階建ての建 物だった。
20
〜30
台ほどは止められる駐車スペースはすでにいっぱいになっていた。受付 を済まそうとすると、マサイチさん夫妻が私たちの会費(大人20
ドル)を出すと言って譲 らない。けっきょくご厚意に甘えることになった。奥の大きな広間にはテーブルが
4
列に並べられ、正面には小さなステージがあった。マサ イチさんたちと並んで入口に近い角の席に腰を下ろすと、会がちょうど始まるところだった。参加者はざっと見て
60
〜70
人ほどで、50
〜80
代と思える人たちが多いようだった。クラブ の会長の司会で開会する。ステージの上で扇を両手に琉球舞踊(揚作田:あぎちくてん)を 披露したのは渡久地シズさんだった(前述した、戦後ハワイに渡った備瀬出身一世)。写真 を撮るためあちこちと慌ただしく動き回っているうちに時間が過ぎていった。ランチは各自が好きなものを選ぶ形式で、ちらし寿司、海老や紅芋の天ぷら、カツフライ、
煮物、揚げ出し豆腐、飲み物やスナックなどがテーブルに並べられた。途中、マサイチさん にクラブ・モトブにかんする過去の記録がないかと問いかけてみたが、とくに残されていな いようだった。
食事がひと段落すると、次期会長をはじめとする新役員の紹介がおこなわれ、つづいて
80
歳以上の会員にお祝いの餅が贈呈された。ハワイ沖縄連合会が選出する〝ウチナーン チュ・オブ・ザ・イヤー〟の紹介では、なんとマサイチさんの名前が呼ばれた。彼は照れく さそうにみんなの前に立って祝辞を受けていた。その後は、デザートコンテストの表彰式、カラオケ教室の先生という中年女性の「ここに幸あり」の熱唱(彼女は次章で紹介するナカ ムラ・ファミリーの一員であることを後で知った)、そして全員参加のプレゼント交換とつ づいた。若い会長のジュン・ナカマさんは、沖縄留学の経験があって三線教師の資格を持っ ており、夫婦で沖縄民謡を披露した。ラッキーナンバーの賞品抽選の後、最後を締めるカ チャーシーとなった。ここでも、「シズ・トグチ!」と呼ばれたシズさんが、ふたたびステー ジの上で舞っていた。
後で会長のジュンさんに確認したところ、クラブの名簿には
150
ほどの家族が登録されて いるが、アクティブ・メンバーは15
〜20
家族とのこと。参加はおもに家族単位で、今回は 子どもを含めると80
人以上の参加があったという。(2) 2002
年8
月のピクニック市町村人会ごとのピクニックもまた、一世の時代からつづく伝統行事である。古くは園 遊会とも呼ばれ行き先は様々だったようだが、やがてアラモアナ公園に固定されたようだ。
2002
年8
月11
日、日曜日のアラモアナ公園でおこなわれたピクニックの様子を伝えたい。今回もマサイチさんの小豆色の大きな車に乗せてもらい、アラモアナ公園には
9
時前に 到着した。ヨットハーバーの入口にナゴ(名護)・クラブのバナー(横断幕)がみえた。今 回のピクニックは、クラブ・モトブとイトマン(糸満)市人会の合同開催である。「エリア28
」というビーチに近い場所が会場で、ここは枝葉を広げるモンキーポッドの木が多いた めに人気だとマサイチさんが教えてくれる。ランチを並べるテーブルは、副会長を務めるダ ニエル・オカノさん夫妻が担当しており、彼はテリヤキビーフとソーセージを焼いていた(こ の数日前に知り合った彼もまた、次章で紹介するナカムラ・ファミリーの三世である)。こ のピクニックでは参加家族が、のり巻きやスパム握りなどの「ライス」、「チキン」、「サラダ」、「デザート」という
4
種のうちのいずれか一品を持ち寄るポトラックとなっており、それぞれ の料理をテーブルに並べる。私たちが持参したのはつれあいの作ったポテトサラダだった。参加者が増えてきた頃合いを見計らい、進行役の若者の合図でゲームが始まる。最初の種 目は、棒を使っての缶転がしだった。後に続いた種目もじつに多彩で、魚釣り、釘打ち、綱 引き、下駄レース、水汲みレース、目隠しをしてのバナナ食べ競争、ボール転がし、ウチナー グチと英語のことば合わせ、水風船キャッチボールなどだった。老若男女が入り混じり、楽 しげな歓声があちこちであがっていた。小さな子どもたちは、参加するゲーム以外でも走り 回って喜んでいた。
11
時半にはゲームをいったん中断して、ランチタイムとなる。持ち寄りの一品は、作っ て来た人もいれば、買ってきた人もいるようだ。みんなで同じ食事をとるというポトラック は、ほどよい規模のピクニックだからこそ成り立つのかもしれない。お腹を満たした後は、空になったトレイを洗う作業を手伝う。このトレイは、余ったランチを持ち帰るさいに再利 用する。ひと息ついてダニエルさんと立ち話になる。彼は母親が備瀬系二世で、父親は広島 系で、父方一世の祖父はダウンタウンで大きな紳士服店を経営していたという。「ナイチと オキナワ双方の親をもつ場合、オキナワのほうにより親近感を感じる人が多いようにみえる」
とこれまでの印象を彼に伝えてみると、彼はつよく頷いて、オキナワの人たちは頼母子など で支え合うことが多かったからではないかと語った。
15
時ごろ、最後の種目である野菜の買い物ゲームとなった。このゲームは、あちこちに 置かれた野菜や菓子、ジュースや調味料などを早い者勝ちで拾う。70
歳以上のシニアから 始まり、だんだん年齢が下がっていく。私たち夫婦と娘もそれぞれのグループに参加する。2
歳になった娘はスナック菓子をひとつ拾った後は、ジュースを求めてさまよい歩き、最後 にニンジン2
本を手にして戻ってきた。ラッキーナンバーを読み上げる抽選会が進む中、一 足先に引き上げるというマサイチさんに声をかけられ、会場を後にする。途中、ウラソエ(浦 添)市人会のバナーがみえた。Ⅲ . ナカムラ・ファミリー 1.
出会いのいきさつナカムラ・ファミリーにたどり着いたのは、滞在も残りひと月となった
7
月の末だった。ハワイ沖縄センターに新聞整理のボランティアに通うなか、ジュン・アラカワさん(帰米二 世
12
)からエリック・ワダ(四世、37
歳)という青年のルーツが備瀬だと教えられた。彼女 が連絡をとってくれて、パールシティー本願寺で開催されたボンダンス(盆踊り)の会場で 会うことができた。彼は、沖縄踊りグループの地揺(三線や唄の担当)として参加していた。挨拶を交わした後のフィールド日記を引用する。
「(夜の)
8
時をまわるころ、福島踊りの後を受けていよいよ沖縄踊りが始まる。櫓の上の 地揺は6
人で、エリックさんの姿も見える。ゼイと呼ばれる紅白の三角小旗を手にして踊る テンヨー節、そして安里屋ユンタに汗水節。汗水節の踊りは、プランテーションでの厳しい 労働と重なる歌との解説が入る。振り付けには、鍬を持って畑を耕すしぐさが織り込まれて いて、この姿勢に移るときには〝シャベル!〟という声掛けがなされていた。地揺をバック にした踊りが終わると、今度はCD
をかけて2
曲踊った。りんけんバンドの「八月エイサー」のときには地揺の面々も下におりて輪に加わり、軽快に踊っていた。みんなの楽しそうな笑 顔が印象的だった」。
エリックさんは
19
歳のときから沖縄留学を繰り返して琉球舞踊を習い、最高賞まで受賞し た踊り手だった。ボンダンスの2
日後に彼は車で私を迎えに来て、祖母のハルコさんが同居 するカリヒの自宅に連れて行ってくれた。ハイウェイ近くの小さな通りに彼の家族が住む二 階建ての家があった。車の中にキリスト像が飾られ、玄関近くに白い天使の像が置かれてい たので、後で訊ねてみると、敬虔なクリスチャンという。そして、二階の応接間にはトートー メー(沖縄式の位牌)が祀られた仏壇が据えられていた。87
歳になるというハルコさんは、耳が遠いために補聴器をつけ「日本語は忘れました」と口にしたが、すこし大きめの声をか ければじゅうぶんに会話は成り立った。両親ときょうだい
8
人(5
女3
男)から成る家族構成 と彼女自身の歩みを中心に聞いていく。彼女の次女で、エリックさんの母親であるケイさん(三世)がそばに座って会話の流れを支えてくれた。父嘉助は
50
歳前に亡くなり、母カナは90
歳すぎまで長生きしたことがわかる。彼女は母親を「お母さん」と呼び、ケイさんは「バ バン(おばあちゃんの意)」と呼んだ。
8
月9
日にはふたたびエリックさんから電話があって、祖母の88
歳のお祝いを自宅でする からと誘ってくれた。この席で、ハルコさんの弟(次男)のタケロウさん(79
歳)と、義 妹で徳之島出身のシゲ子さん(66
歳)と巡り会うことになった。ふたりはカナが亡くなる まで暮らしたエワ・ホノウリウリの家に住んでいるという。備瀬の人たちのことを調べるた めにハワイに来たことを伝えると、タケロウさんは大いに関心を示し、「じゃあ、イシイさん、いつ家に来る?」と笑顔で誘ってくれた。
8
月15
日、喧噪のホノルルを離れて1
時間ほどバスに揺られ、タケロウさんとシゲ子さん の元を訪ねた。ホノウリウリは海鳥の鳴き声が聞こえてくる静かな田舎町の風情だった。道 路沿いに並ぶ平屋のうちの一軒、その裏手にふたりが住む家があった。挨拶を交わした後、シゲ子さんの運転する車で、エワ・プランテーションの製糖工場跡などを案内してもらう。
そして目当てのロウアー・ビレッジと名付けられたキャンプのあった場所を通る。かつてこ こに幾組かの備瀬出身夫婦が身を寄せたと聞いていた。しかし現在は、同じ規格の家々が整 然と建ち並ぶ新興住宅地になっていて、かつての面影は見出せなかった。東に真珠湾を臨む 公園に車を止めて、しばし
3
人で海沿いを歩く。タケロウさんが、遠くに見える3
つの岩は 子どものころ自転車に乗って釣りに行った場所だと教えてくれる。どんよりとした曇り空の 下、波の寄せる水面は濁っていた。この海で貝やカニを捕ったという話を聞きながら、珊瑚 礁の青い海を見て育った備瀬の人たちが、この海辺のキャンプに身を寄せたその縁を想う。かつては海沿いを汽車が走り、ホノルルのダウンタウンまで行くことができたという。
家に戻ると、シゲ子さんが用意してくれたテーブルいっぱいのご馳走を前にビールで乾杯 する。奄美大島で農家をしている妹が送ってくれたという落花生の塩ゆでがおいしい。ソー キ骨のおつゆに山盛りの海老フライ、レストランやドライブインの調理場で長年働いてきた というシゲ子さんの腕前に納得する。ビールのグラスを矢継ぎ早に空けるタケロウさんに驚 いて、「いつもこんなに飲むんですか」と投げかけると、「グッド・カンパニー、アイ、ドリ ンク!(よき仲間がいれば、飲む)」と笑顔で返してくれた。謎の訪問者をこんなにも歓待 してくれることが有り難く、私もつがれるままに杯を傾けながらふたりの話を聞いた。
この日の後、
9
月初旬の帰国までにさらに二度聞きとりを重ねることができた。2.
エワの嘉助とカナ一世の仲村カナは亡くなる
2
年前の88
歳のとき、自らの歩みを家族に向けて語る機会があっ た。聞き手となったのは孫娘のつれあいで、当時彼はシアトル大学に通っており、社会学の 授業で出されたインタビュー課題の対象者にカナを選んだのだった。聞きとりは、母の日に 子や孫が彼女の住む家に集まったときにおこなわれた。ハルコさんが通訳を務め、みんなが その周りを囲んで耳を傾けたという。このとき仕上げられたレポート13
の内容を参照にしな がら、子孫への聞きとりと重ねることで一家の歩みをたどってみたい。同い年の仲村嘉助とカナがハワイに渡航したのは
18
歳のときで、ふたりは渡航直前に結 婚した。当時の備瀬では換金作物であるサトウキビを栽培できる家は限られており、多くの 家は狭い畑地と目の前に広がる海を相手にした自給的な暮らしを営んでいた。1907
年11
月 にホノルルに到着したふたりは、ワイパフ・プランテーションに送られ働き始めている。独 身者はプライバシーのない共同住居に入れられたが、夫婦者は地面むき出しとはいえ小さな 家があてがわれた。カナはまず草刈り作業に従事し、しばらくするとより稼ぎのよい溝掘り の作業にあたった。2
、3
年後にはよりよい待遇を求めてエワ・プランテーションに移って いる。その後いったんアイエアに移動するも、水や燃料、住居、医療などの経費が会社持ち という条件のエワに戻っている。かれらが巡ったワイパフ、エワ、アイエアの各地区には沖 縄出身者が集中したプランテーションがあり、1918
年の記録によると、エワ地区には265
人 の沖縄出身者(男148
、女117
)が住み、オアフ島内では隣接のワイパフ地区(883
人)、ホノルル市街(
506
人)、アイエア地区(337
人)につぐ規模となっていた14
。
1890
年に創業したエワ・プランテーションは、同年4
月に日本からの移民労働者を受け入 れ、1910
年には2500
人を抱えるプランテーション・コミュニティが形成されていた。会社 事務所と支配人住宅、製糖工場などを中心として、その近くに小学校、カトリックとプロテ スタントの教会、商店などが配置された。さらにそれらを取り巻くように各エスニック・グ ループのキャンプがつくられた。1930
〜40
年代にエワで少年時代を送ったという沖縄系二 世のトム・タサト氏によれば、おおよそつぎのようにキャンプが配置されていた(戸数はす べて概数)。事務所の道路向かいにはハオレ・キャンプ(25
戸)があり、その続きには野球 グランドや映画館などがあったテニー・ビレッジ(100
戸超)があった。製糖工場近くには ミル・キャンプ(50
戸)があり、西側のB
キャンプ(30
戸)は日本人が多く、その近くにフィ リピン人キャンプ(25
戸)ができた。これらの道路向かいのC
キャンプは8
割以上が沖縄出 身者(43
戸)だった。東部にできたフェルナンデス・キャンプはフィリピン人(75
戸)が 住み、その北側にコリアン・キャンプ(20
戸)があった。嘉助とカナの一家が住みついたロウアー・ビレッジは、これらプランテーションの中心部 から東北方面にやや離れたところにあって、その名の通り、真珠湾の入り江に向かって下る 傾斜地にできた
50
戸ほどのキャンプだった。行き止まりの一本道の両側に家々が並び、周 囲にはサトウキビ畑が広がっていた。5
、6
歳までここで育ったというタケロウさんは、沖 縄の人ではタカラ(備瀬出身)、ヒガシ、ミヤシロ、その他の日本人ではハセベ、ヒラタ、ウエノ、ニイタニという名前を覚えていた。フィリピン人も多く住んでいた。キャンプの入 口には集会所があり、場所は忘れたというが床屋もあった。
夫婦はサトウキビ畑で懸命に働きながら、副業としてパイナップル畑での仕事を請け負う などして順調に稼いだ。しかし、家に保管していたお金を盗まれるという不幸にみまわれる。
そのご嘉助は体調を崩し、月間労働義務の
26
日をこなせなくなってプランテーションの住 宅を出ることになった。夫婦は独身者相手の下宿屋兼サイミン屋15
を営むことで生計を立て た。朝4
時に起きて下宿人の朝食と弁当を用意し、掃除、洗濯をして、合間に畑と豚の世話 をすると、仕事を終えた男たちのための夕食づくりの時間となった。1910
年生まれのナツ コを筆頭に、子どもたちもできる仕事を受け持った。カナが35
歳までに生んだ8
人の子ども のうち、5
人の娘たちはすべて、教育は小学8
年生どまりだった。一方、長男カセイをはじ めとして3
人の息子たちは高校に進学した。
1930
年ごろに一家は、ロウアー・ビレッジから1
マイル(約1.6
キロ)ほど離れたホノウ リウリ地区フォート・ウェーバー通り沿いに住まいを移している。1936
年、嘉助は46
歳の ときここで亡くなった。青年期を迎えた娘たちは次々にホノルルに出て働くようになり、1940
年代に長女ナツコの夫婦はリリハ通りで「リリハ・カフェ」というレストランを営む ようになった16
。高校を卒業した長男カセイは製糖工場で働いたのちに水道技師となった。そして戦争の時代に突入する。カナが沖縄に里帰りを果たしたのは