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(1)

紡績工場にできたたまり場

─戦前期における沖縄一集落出身女工の体験─

石井 宏典

要 旨

1920

30

年代に沖縄本島北部の一つのシマ(集落)から本土各地の紡績工場に働き に出た

26

人の老年期女性を対象に、それぞれの紡績体験について聞きとりを行った。

移動にともなう環境変化に彼女たちがどのように対応したのかを明らかにするため、

ひとりひとりの紡績体験を歴史・社会的文脈に位置づけるとともに、シマ単位の一連 の動きもおさえることで彼女たちの相互影響過程を跡づけた。

10

代だった彼女たちの 紡績行きは、募集人が媒介し、単独ではなくシマの人と連れ立って、すでに沖縄出身 の先行者のいる工場で働いた。深夜業を禁止した改正工場法実施(

1929

年)後には、

不況下に沖縄出身者を積極的に雇用した大阪・堺市の特定工場に集中した。シマ出身 の募集人の存在により、シマからその工場へと向かう連鎖的な移動が生じ、シマの娘 たちのたまり場が形成された。このたまり場に支えられた紡績工場での日常のなかで、

彼女たちが身につけた習慣について考察した。

. 研究課題と方法

1.

紡績工場と農村出身女工

かつて、農家が栽培した綿花は、糸紡ぎから機織りにいたる一連の作業によって綿布と なった。江戸期までの綿業は一部の産地を除いて、農村の家内工業として営まれ、女性たち がその担い手だった。開港によって西洋から機械製の綿糸が輸入されるようになると、この 状況は一変する。綿糸や綿布はやがて、中国やインドから輸入した綿花を原料にして、欧米 から導入した紡績機械によって大量に生産されるものとなった。

1883

(明治16 )年に大阪府西成郡三軒家村(現在の大阪市大正区)で操業を開始した大阪 紡績会社は、蒸気機関によって

1

万500 錘の紡錘機を動かす日本で初めての機械制紡績会社 となった。工場は、間もなく深夜業を含む二交代昼夜業を実施し、24 時間の操業体制を敷い た。深夜業に必要な明かりは、はじめは大型の石油ランプに頼っていたが、やがて米国製の 電灯が導入された

1

。この工場の成功に刺激されて紡績会社が各地に設立されると、二交代昼 夜業は業界標準の勤務形態となった。生産ラインは分業化されたいくつもの工程から構成さ れていた

2

。1890 年代に入ると、ミュール精紡機からリング精紡機への技術転換が図られる。

ミュールの場合、機械の操作には腕力のある熟練した男工が求められたが、リングには複雑 な機械操作は不要で、手先の器用さがあれば短期間の訓練後に機械の前に立つことができ

『人文コミュニケーション学科論集』

12,pp.29-62. ©2012

茨城大学人文学部(人文学部紀要)

(2)

3

。そのため、男工よりも低賃金だった女子労働力が求められるようになる。大阪紡績会社 の場合、操業当初に従業員の男女比率はほぼ半々だったが、やがて女性比率が70 ~80 %を占 めるようになった

4

。この傾向は他の紡績工場でも同様だった。

日本における綿糸の生産高は早くも、1890 (明治23 )年には輸入高を超え、1897 年には輸 出高が輸入高を上回った。原料である綿花の輸入と生産した綿糸の輸出のため、紡績工場は 海上輸送に便利な立地を求めた。1910 年代には、織布工程を備えた紡績兼営織布工場が増え、

綿糸だけでなく綿布もまた日本の主要な輸出品となった。

紡績企業が規模を拡大し生産量を増やす過程で、労働力の確保が課題となった。近隣地か らの採用だけでは間に合わず、各工場は独自の募集地域を開拓していった

5

。例えば、1889 年 に設立された尼崎紡績(後の大日本紡績)の場合、当初は「近在の子女」の採用で足りてい たが、規模拡大で労働力が不足する1890 年代半ばには「近畿一円、四国一円、山口、大分の 遠隔地よりの子女採用」を行っている

6

。1906 年にはさらに、鹿児島県出身の女性15 名(14 ~

24

歳)を初めて採用した。このとき引率にあたった人物が、後年、工場内で生じた文化衝突 の様子を伝えている

7

。鹿児島の女工たちにとって、「先任の熟練工員達は皆近畿の出身者で、

訛(なまり)の調子がのらくらして、まるで外国にきたよう」に感じられたという。工場で 使われることばがよく理解できないなか、近在出身の女工たちからは「 〝サツマのアホ〟とこ とごとに軽べつ」され、彼女たちは集団で欠勤するという行動に出ている。

遠隔地からの採用は寄宿舎の整備を促した。企業にとって寄宿舎制度は、夜間の安定的操 業のためにも必要で、しかも女工の引き抜きや逃亡を防止するといった意図も込められてい た

8

。そして、紡績工場と遠隔地の農村とをつないだのが、募集人という存在だった。初期の 工場の多くは、自工場の従業者を募集地に直接派遣する方法を採ったが、やがて仲介業者に 手数料を払って募集させるという間接募集の方法に移行した。募集人は同時に複数の紡績会 社と契約を結ぶ者が少なくなかった。しかし、1920 年代には大工場の多くが、自工場の従業 者を派遣する直接募集に戻している

9

。自工場の従業者を募集人とする場合には、募集人が自 らの出身地域から若年女性たちを継続的に引き出す役割を担い、連鎖的な移動を生じさせ た

10

その後、紡績工場の労働環境を大きく変えたのは、1923 年に公布され、1929 (昭和

4

) 年

7

月に適用された改正工場法だった。すでに1916 年に施行されていた工場法は、年少者・

女子の夜業禁止を定めていたものの、紡績業界では昼夜二交代制という条件で深夜業が認め

られてきた。改正工場法はこれを禁じたため、それまでの二交代12 時間勤務から、深夜業の

ない二交代

9

時間勤務が標準となった。昭和初期の不況下にあった紡績会社は、深夜業廃止

による操業時間の短縮という事態のなかで、技術的合理化

11

と人員削減を進めることで生産コ

ストを切り下げようとした。その結果、労働争議が多発した。

(3)

2.

沖縄からの紡績女工

:

問いの設定

沖縄という遠隔地から、大阪や神奈川など本土各地への紡績行きが目立つようになるのは、

1920

年代である。ちなみに、紡績女工の過酷な労働環境を告発した細井和喜蔵の『女工哀 史』が出版されたのは、1925 (大正14 )年である。

第一次大戦による特需で急成長を遂げた日本の産業界は、戦争終結後に国外の需要が激減 すると一転大不況にみまわれた。不況の波は農作物価格の急落となって農村部にも大きな打 撃を与えた。沖縄では糖価の暴落が引き金となって、後に〝ソテツ地獄

12

〟と形容されるほど に深刻な状態となった。そのなかで本土への出稼ぎが増えるのだが、本土側もまた不況の只 中にあったのは変わらない。では、かれらは職にありつけずにやむなく故郷に帰ったのだろ うか。いや、むしろ不況だからこそ沖縄出身者が積極的に求められる場があった

13

。そのひと つが紡績工場だった。大戦景気による賃金上昇を体験していた紡績業界において、その対応 策としてさらなる遠隔地である沖縄に注目する会社が現れた

14

。これらは、多くの沖縄出身者 を集中的に雇用することで人件費の抑制を図ろうとした

15

1933

(昭和

8

)年に書かれた親泊康永の『沖縄よ起ちあがれ』にも、入れ替えを図った積 極的導入の様子が指摘されている。「出稼労働者、特に女工の生活等は、実に目を掩はしむる に足るものがある。輸出の不振と格価の暴落になやむ紡績業者は、その頽勢の挽回策として、

高賃金の女工を解職し、賃金が安く食料が粗末ですむ、農村出身の女工を歓迎する傾向があ り、その限りに於いて沖縄の女工が相当に歓迎されたこともある。しかしながら必要な栄養 を与えず、必要な衛生施設なく、休養と睡眠とを妨げられた生活が若い女性を健全ならしめ る筈がない。移出された女工は一二年後、不治の病人として送り還される、而もなつかしべ かるべき古里への旅行が、彼女等にとっては、墓場への行進なのである

16

」。

沖縄出身女工についてはこれまで、「哀史」的視点からの位置づけがなされることが多かっ た。例えば、48 人の女工体験者からの聞き書きを収めた先駆的業績には、『沖縄女工哀史』と のタイトルが付けられている

17

。しかし、紡績体験者を相手に聞きとりを重ねていくと、「哀 史」的な位置づけでは括りきれない彼女たちの「語り」に遭遇することになる。それも一度 や二度ではない。紡績の「哀れ」を繰り返す人もいるが、「慣れたら楽しかった、行ってよ かった」と語る人が意外にも多い。このことをど う受け止めればよいのだろうか。まずは、

体験した年代やどの工場で働いたかについて注意深く位置づける必要があるだろう。

1980

年代に聞きとり作業に着手した比嘉道子は、体験者自身の視点に寄り添う必要性を訴 え、その第一報でつぎのように記している。「労基法の確立している今日の私たちからする と、腹の立つようなわずかな額ではあったけれど、労働の購いとしての現金を手にすること ができたのだ。毎月会社が天引きをして強制的に送金するほか盆、正月、家族の病気、借金 返済、財産購入時の臨時送金を当然のこととして果たしてきた。…彼女たちに悲愴感はなく、

ごくごく自然に喜びを持って送金していることに、私は沖縄の女のたくましさを見る

18

」。比

嘉はまた、沖縄女性の近代労働体験を「哀史」として結論づけてきた従来の研究には、女性

(4)

を主体として捉える視点が乏しかったと総括し、歴史的状況のなかで彼女たちがどのような 主体性を確立してきたのかをもっと明らかすべきだと主張する。沖縄出身の紡績女工は、紡 績資本の低賃金の維持を補強するものとして採用され続けたが、同時に、彼女たちは「沖縄 女性初の賃金労働者」でもあった。紡績で働くことを選び、自らの労働によって得られた賃 金を郷里で待つ家族の元に送る、これら一連の行為にこそ彼女たちの主体性が反映されてい る点を重視する。そして、今後の研究では、「郷里ごと、年代ごと、就労会社・工場ごと」に 労働体験の考察を進める必要があることも指摘している

19

本稿は、1920 ~30 年代にかけての紡績女工たちの体験に焦点を当てる。そのさい、社会心 理学の立場から、彼女たちの主体性が周囲との関係のなかで生成される過程に目を凝らした い。本研究はまた、沖縄本島北部に位置するひとつの集落(シマ)を起点とし た継続的 フィールドワークの成果である

20

。シマに定位してきたのは、それが沖縄社会の基本的構成単 位であり、人びとの生存を支える生活共同体としてあったことを重視するからに他ならない。

ひとりひとりの紡績体験を年代ごとに位置づけつつ、シマ単位の一連の動きを押さえること で、彼女たちの相互影響過程を跡づけることを試みる。彼女たちの紡績行きはどのような状 況のなかで実行されたのか。シマから紡績工場への移動という劇的な環境変化に、彼女たち はどのように対応したのか。特定の工場への連鎖的な移動によって形成された「たまり場」

は、彼女たちの適応にどのように作用したのか。これらの問いに迫りたい。

3.

シマと移動先での聞きとり

フィールドは、本部半島の先端に位置する備瀬集落である

もと ぶ 21

。このシマ生まれの紡績体験者 からの聞きとりは1989 年に集中的に取り組まれ、備瀬で15 人と堺で

3

人の18 人から話を聞い た。その後しばらく間が空き、2000 年に備瀬で

1

人と那覇で2 人、2004 年に堺で

1

人、2005 年に那覇で

1

人、2010 年と2011 年には備瀬とその周辺で

3

人と機会を重ねた。合わせて26 人 の概略を表1 に示す。このうち、約半数の人たちには複数回のインタビューを行っている。

1)

備瀬での聞きとり:1989 年4 ~6 月

シマの外への人びとの移動を把握するなかで、当時60 代半ば以上の女性の多くが戦前に本

土各地の紡績工場で働いた体験があることを知り、彼女たちから話を聞かせてもらおうと考

えた。同年代の人たちのシマ内の往来は頻繁だったため、そのつながりを辿るようにしてイ

ンタビューを重ねた。彼女たちは、ひとりあるいは夫婦で畑に出ていることが多く、畑から

戻る昼どきか夕暮れどきに家を訪ねた。食事どきと重なり、ご飯をご馳走になることもあっ

た。以下は、運よく妹から姉へと続けて話を聞くことのできたときの日記。

(5)

1

紡 績 体 験 者 の 概 要 夫 持 ち 場 備 瀬 の 先 行 者 ・ 同 行 者 募 集 人 の 出 身 地 紡 績 体 験 学 校 歴 就 職 年 ・ 年 齢 生 年 年 齢 備 瀬 備 瀬 備 瀬 備 瀬 備 瀬 備 瀬 備 瀬 本 部

綛 場 リ ン グ 綛 場 撚 糸 リ ン グ チ ー ズ リ ン グ

リ ン グ の 責 任 者 が 備 瀬 人[ 津 守 ] 備 瀬 か ら

4

5

人 で 備 瀬 含 む 近 隣 の シ マ 多 い 備 瀬 か ら

15

人 で [ 津 守 ] 備 瀬 か ら

8

人 で 妹 が 先 行 、 友 達 と

本 部 ・ 新 里 新 里 本 部 ・ 浦 崎 今 帰 仁 浦 崎 自 分 た ち で 備 瀬

岸 和 田 紡 績[ 堺 ]、 関 東 大 震 災 で 帰 郷 / 福 島 紡 績[ 広 島 ・ 福 山 ]:

5

年 岸 和 田 紡 績[ 堺 ]:

2

年 / 大 日 本 紡 績[ 大 阪 ・ 津 守 ]:

3

年 震 災 後 に 福 島 紡 績[ 福 山 ]:

7

年 → 大 和 川 : 数 カ 月 東 洋 モ ス リ ン [ 静 岡 ]:

2

年 大 日 本 紡 績[ 津 守 ]:

2

年 / 紀 陽 織 布[ 和 歌 山 ]:

1

年 東 洋 モ ス リ ン [ 東 京 ・ 練 馬 ]:

3

年 半 大 日 本 紡 績[ 津 守 ]/ 結 婚 後 に 大 和 川 東 洋 モ ス リン [ 静 岡 ]: 半 年 → 大 和 川 :

5

年 / 大 和 川 → 紀 陽 織 布 :

1

年 半

尋 常 卒 な し な し な し 高 等

2

途 中 高 等

1

年 高 等 卒

13 13 13 20 16 14 20 15

10

11

12

13

13

15

2

2

1921 1922 1923 1924 1924 1926 1927 1927

42

43

44

37

42

1

40

2

80 79 78 85 78 78 82 76

1 2 3 4 5 6 7 8

備 瀬 本 部 備 瀬 備 瀬 備 瀬 備 瀬 - 備 瀬 / 中 部 備 瀬 備 瀬 備 瀬 備 瀬 備 瀬 本 部 備 瀬 備 瀬 備 瀬 備 瀬

撚 糸 撚 糸 織 布 → リ ン グ リ ン グ リ ン グ 織 布 リ ン グ リ ン グ / 経 通 し 織 布 → リ ン グ リ ン グ チ ー ズ 粗 紡 横 巻 き ( 整 経 ) 経 通 し

備 瀬 人 多 い 同 室

1

人 除 き

12

人 が 備 瀬 人 い と こ と 備 瀬 か ら

8

人 で 大 和 川 へ は 妹 と 備 瀬 か ら

4

人 で 備 瀬 人 が た く さ ん い た 姉 → 自 分 → 妹

2

人 と 続 く 姉

2

人 → 自 分 → 妹 と 続 く 先 行 の 姉

2

人 は 見 回 り 備 瀬 か ら

4

5

人 で い と こ と い と こ が 先 行 い と こ が 先 行 妹 が 先 行

備 瀬 ・ 兼 次 備 瀬 兼 次 / 本 部 ・ 桃 原 浦 崎 / 兼 次 浦 崎 兼 次 兼 次 兼 次 兼 次 / 桃 原 桃 原 兼 次 兼 次 桃 原 / 備 瀬

大 和 川 :

2

年 半 、母 の 病 気 で 帰 郷 / 大 和 川 、チ フ ス で 入 院 大 和 川 :

4

年 大 和 川 :

6

年( 途 中 、一 度 帰 郷 ) 倉 敷 紡 績[ 岡 山 ]:

3

カ 月 → 大 和 川 :

5

カ 月 、父 の 呼 び 寄 せ で 帰 郷 大 和 川 :

1

5

カ 月 / 鐘 淵 紡 績[ 大 阪 ・ 住 道 ]:

5

年( 見 回 り )、 母 の 病 気 で 帰 郷 和 歌 山 紡 織[ 中 之 島 ]:

6

カ 月 、病 気 で 帰 郷 / 大 和 川 :

2

年 宇 部 紡 績[ 山 口 ]:

2

年 → 大 和 川 :

1

年 → 織 物 工 場 大 和 川 :

1

年 大 和 川 :

3

年 / 大 和 川 / 奈 良 の 紡 績 → 大 和 川 大 和 川 :

2

年 / 大 和 川 :

5

年( 見 回 り )→ 軍 需 工 場 後 、泉 大 津 の 毛 織 物 工 場 へ 大 和 川 :

1

年 半 、病 気 の 姉 を 看 る た め に 帰 郷 大 和 川 :

1

年 / 鐘 淵 紡 績[ 住 道 ]:

2

年 鐘 淵 紡 績[ 住 道 ]:

2

年 / 鐘 紡〈 見 回 り ・ 部 屋 長 〉/ 結 婚 後 に

3

度 目 の 鐘 紡 大 和 川 :

8

カ 月 大 和 川 :

4

年 → 軍 需 工 場 後 、泉 大 津 の 毛 糸 工 場 へ 大 和 川 :

2

年 、母 の 怪 我 で 帰 郷 結 婚 後 に 大 和 川 、妊 娠 が わ か り

4

カ 月 後 に 帰 郷 織 物 工 場[ 大 阪 ・ 貝 塚 ]/ 鐘 淵 紡 績[ 住 道 ]:

1

尋 常 尋 常 高 等 卒 尋 常 卒 尋 常 卒 尋 常

5

年 高 等 卒 尋 常 高 等

1

年 尋 常

5

年 尋 常 尋 常 卒 高 等 卒 尋 常 高 等 卒 高 等 卒 高 等 卒

18 16 14 17 13 15 16 16 18 17 16 15 15 18 17 17 19 14

5

6

7

8

8

9

9

10

10

11

12

12

12

14

14

14

14

14

1930 1931 1932 1933 1933 1934 1934 1935 1935 1936 1937 1937 1937 1939 1939 1939 1939 1939

1

4

7

5

10

8

8

9

7

9

10

11

12

11

12

12

10

13

77 74 71 73 68 70 70 69 71 69 68 67 66 67 66 66 68 65

9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26

年 齢 は 便 宜 上

1989

年 時 に 統 一 。紡 績 会 社 の 後 の[ ]内 は 工 場 地 。 「 紡 績 体 験 」欄 の「 → 」は 移 動 、「 / 」は 帰 郷 を 示 す 。募 集 人 の「 兼 次 」は 個 人 名 。

(6)

1989

5

23

昼すぎ、隣のおばさんの紹介で光枝さん(

69

歳)宅を訪ねる。ちょうど昼休みで畑から帰ってきた ところだった。ちゃっかり昼ご飯をごちそうになる。…昼食後、おばさんから大和川紡績の体験談を 聞く。辛くて一度は備瀬に戻ってきたという。「紡績数え歌」というレコードを保存してあり、聞か せてもらう。まったく歌のとおりだったと何度も繰り返して言う。…

夕方

6

時半、今度は光枝さんの姉のウメさん(

71

歳)のところへ行く。ここもやはり畑から帰って きたばかりのようだった。…

1

時間ぐらい紡績の話を聞かせてもらう。こちらは、「紡績は楽しかっ た。もう一回あればと今でもよく思う」と振り返った。姉妹

6

人のうち上から

4

人は紡績に、それも 同じ大和川に行っていたという。

聞きとりは、同時に

2

人を相手にするといった状況になることもあった。マツさん(78 歳)の家で話を聞いていたとき、向かいのヨシさん(74 歳)が訪ねてきて、それぞれの体験 談を交互に聞くという展開になった。工場での労働時間について互いの話がかみ合わなかっ たのは、2 人の体験時期が改正工場法の適用される前後に分かれていたからだった。

体験者の聞きとりを重ねるにつれ、シマの人たちの動向がみえてきた。彼女たちは単独で 紡績に行くことはまずなく、たいていはシマの知り合いと行動を共にした。明治生まれの人 たちの場合、静岡の東洋モスリン、岸和田紡績堺工場、大阪府西成の大日本紡績津守工場な どに行く人が多かったようだ。ただこの他にも、広島、岡山、和歌山などで働いた人たちも いて、極端な集中傾向はうかがえない。それに対して、大正生まれで1930 年代に体験した人 たちは、堺の大和川紡績が圧倒的に多い。それはシマ出身の募集人がいたからだった。1935

(昭和10 )年頃には、この紡績工場で働く備瀬出身の女工たちが数十人規模で集まっていたと いう。そのなかには噂を聞いて他の紡績から移ってきた人もいた。

インタビューで共通して問いかけた項目はつぎのとおりであった。「紡績行きの経緯、時期 と期間、紡績会社、募集人、同行者、頼りにした先行者、工場での持ち場、賃金、寄宿舎、

食事、休日、同郷人(シマ・沖縄)との関係、他府県出身女工との関係、ことば、偏見・差 別体験、紡績体験にたいする評価」。ただ、これらの項目を網羅することにとらわれすぎず に、語り手ひとりひとりのエピソードを引き出すことを心がけた。

彼女たちは、「シマことば」と「標準語」を相手によってはっきりと使い分けた。互いはシ マことばで話していても、私には標準語に切り替えた。だから、聞きとり場面は、シマこと ばの単語や感嘆詞がときおり混じることはあっても、基本的に標準語で進められた。彼女た ちにとってこうしたことばの切り替えは、学校などでも求められ身に付けてきたのだろうが、

紡績体験のなかでさらに強く習慣化されたことがうかがえた。

2)

堺での聞きとりと大和川紡績の跡地訪問:1989 年7 ~10 月

備瀬出身者が多く移り住んだ堺に移動してからは、3 人の紡績体験者に話を聞くことがで

(7)

きた。そのひとりであるタマさん(66 歳)には、大和川紡績があった場所を案内してもらっ た。大和川べりの跡地には市営団地や民間のマンションが建っていたが、それらの間に、体 験者の語りに登場した小さなお稲荷さんの社を見つけることができた。赤煉瓦の塀も一部 残っていた。その塀の向こうには、沖縄出身の女工たちが天ぷらを買い求めたという山城屋 が、床屋になって残っていた。

翌年、備瀬を再訪したときには、この跡地の写真を持参した。写真を見てもらいながら、

何人かにもう一度話を聞いた。相手の思い出の場所を訪ね、そこで撮った写真をあいだに挟 んで当時のことを問いかけると、語り手の想起が促され、聞き手もまた語り手に寄り添いや すい状況が生まれた

22

3)

聞きとりの継続: 現在まで

聞きとりは、一回限りという人も少なくなかったが、初回以来、付き合いを重ねてきた人 もいる。大和川の跡地を案内してくれたタマさんは、聞き手である私と思い出話をするのを 楽しみに待っていてくれた。つぎは、4 年ぶりに彼女の住む堺の府営団地を訪ねたときの日 記。このときが彼女との最後のインタビューとなった。

2004

2

9

タマさん(

81

歳)は、この間体調を崩して手術、入院を経ていた。電話で声を聞いてからもずいぶ んと間が空いていた。会えば、思ったより元気そうで安心した。白髪がずいぶんと増え動作がやや ゆったりとした感じになったこと以外は、変わらない雰囲気。ぼくが来たことをいたく喜んでくれた。

…タマさんとの昔話。脇で聞いていた(甥の)勝さんが「潮の満ち引きのよう」とたとえた会話を楽 しんでいるうちにあっという間に時間が過ぎた。

備瀬に住む光枝さんとのつきあいはいまも続く。彼女の話はひとつに落ち着かずにすぐに あちこちと飛ぶことが多かった。しかし、その率直な語り口は、ときに笑いを誘いつつ、体 験当時の雰囲気を臨場感ゆたかに伝えてくれた。つぎは、前年に夫の実さんを亡くした彼女 を訪ねたのときの記述。

2009

9

12

午前

10

時、光枝さん(

89

歳)の元を訪ねる。インタビューはなかなか成立しないのかと思っていた が、大和川の古い地図を手元に置いて問いかけるといろいろ話してくれる感じだったので、本腰を入 れて

1

時間半ほど昔のことを教えてもらう。安里屋ユンタの自作(

?

)の替え歌が紡績体験の雰囲気 をよく伝えてくれた。

2009

8

月には広島の福島紡績福山工場と岡山の倉敷紡績の跡地を歩き、そして2010 年11

月には山口の宇部紡績のあった場所を訪ねた。

(8)

. 改正工場法以前の紡績体験

1.

紡績行きのはじまり

改正工場法の適用以前、すなわち1920 年代に紡績工場で働いた人たちの体験を紹介するこ とからはじめたい。語り手のなかで最年長のツルさん(1904 年生まれ)は、7 つのときに子 守に出された幼少時の暮らしをつぎのように表現した。備瀬は水が乏しく、数少ない井戸に 並んで水を汲む毎日だった。薪を拾いに行く山もシマから遠かった。語りに出てくる桃原と いうのは、隣のシマの名前。

〈山も水もないシマ〉[

1989-05-10

23

うん、

7

つぐ らいでね、子守、人の、桃原なんかに売られて、あちこち、もうたいへんだった。

〔シマことば混じりで〕おばぁぐらいナンギ(難儀)したものおらんど ー。山、水がないシマ、ア ゲーヨイヨイ、話にならんよ。たいへんよ、こっち。水もなくてね、

2

時、

3

時ぐらい起きよったよ、

水汲むのに。水なくて。また山行って、今帰仁、何里か、

3

里ぐらい行って、タムン(薪)担いで、

頭に載せて。車もないしね、歩いて今帰仁。…薪取って、頭に乗せて、みんなあんなしよったよ。

2

3

里道歩きよったよ、もう。…また潮引いたらね、海行って、畑の肥やし、みんな海から上げて とりよったよ。…舟ある人は舟から行って。向こう行って担いできて、海行って、もうナンギ。…い まの荷馬車と同じやったはず、あのときは。

ツルさんは、1924 (大正13 )年20 歳のときに「静岡紡績」(東洋モスリン静岡工場と思わ れる)に向かった。「おばぁなんかは、友だちはよ、みんな紡績行って、きれいな着物なんか 行李にいっぱいなー、みんなこしらえてきたんだから、これ欲しがってよ、20 なんかの歳に 行って、2 カ年」働いた。富士山を近くに望み、周囲に茶畑が広がる田舎だったという。自 分は20 歳になっていたが、一緒に行ったのは12 、13 歳の子が多かった。みんな学校に通った ことのない「無学」だった。

ツルさんが配属された持ち場はリングのつぎの工程の綛場で、綿ゴミの舞うリングとは

かせば

違ってきれいな所だった。1 日12 時間の労働は昼勤と夜勤を一週間ずつ交代し、夜勤のとき は「晩の

5

時から始まって夜明けまで」続くため眠くてたいへんだった。また、この紡績工 場は沖縄出身者がたくさんおり、ウチナーグチで通じたので「ウチナーと同じ」ようだった。

本部村浦崎の募集人が近隣を巡って募集し、寄宿係の先生は国頭出身の教員上がりの人だっ た。仕事がいやで部屋に隠れて休む人もいたが、「おばぁね、小さいときから人に売られて、

あんまりもう働いたから、あっち行ってぜったい休まなかったよ、ほんと」。稼いだお金は、

「自分のものして、ワタクシグヮー(へそくり)しておったさ」。

地元出身者の手による『備瀬史』には、シマから出稼ぎが始まったのは1916 (大正

5

)年 頃と記されているが、今回の一連の聞きとりで遡ることができたのは1921 年までだった

24

1922

年に13 歳で堺の岸和田紡績に向かったムタさんは、シマからの紡績行きは自分たちが

(9)

「二番行き」と記憶していた。一緒だったのは13 ~15 歳の

8

人でみんな「無学」だったとい う。名護からは初めて乗る車で那覇に出た。大阪に着くと、あちこちの会社に振り分けられ、

彼女は岸和田紡績で働くことになった。当時は「紡績に行ったら悪い薬を飲まされて身体が 弱る」といった噂が流れ、親たちを心配させたという。しかし、その噂に反して娘たちが送 金してくると、紡績工場に向かう人が続いた。

ムタさんは、岸和田紡績堺工場で

2

年働き、いったん帰郷した後、17 歳で大阪・西成の津 守紡績(大日本紡績津守工場)に向かった。岸和田にも津守にも備瀬の人たちがたくさんい たという。とくに津守紡績では、シマ出身の男工がリングの責任者をしており、彼の紹介を 受けて備瀬の人たちが集まってきた。津守紡績は宮崎や鹿児島出身の女工が多く、寄宿舎の 同室者にも鹿児島の人がいた。1 日12 時間、昼夜勤の

1

週間交替という労働形態は、先のツ ルさんと変わらない。持ち場もツルさんと同じく糸を仕上げる綛場で、綿ゴミもなくきれい だった。

〈綛場での仕事〉[

1989-05-15

ムタ

:

仕事はたいへんじゃなかったさ、おばぁの仕事はよ。綛かける仕事だったから楽であって、ご みもないしね、〈あ、綿。〉綿もないし、きれいに、もういちばんきれいなところだった、おばぁ は。

聞き手

:

じゃ、よかったんだ。賃金とかは、どれぐらいもらえたの

?

ムタ

:

賃金はいくらもらったかね、忘れてないさ。

1

日、

1

80

銭、

90

銭ぐらい、もらいよったかね。

40

回上げたらやがて

1

円、いきよったさ。

聞き手

:

自分でどれぐらいできたかによって上がっていくんだ、お金も。

ムタ

:

…またあれに仕事によ、一等、二等して、あれもあったさ。何等、何等いうてよ。まじめに働 く人と、また働ききれない人もいるでしょ。まじめに一生懸命働く人は、一等、特等、二等して よ、あんなあった。〈おばあちゃん、何等もらったの

?

〉おばあちゃんは一等。

2.

広島の福山紡績へ

マツさん(1911 年生まれ)は数え

7

つのときに桃原に子守奉公に出され、学校には行って いない。1923 (大正12 )年、数えの13 歳で広島県福山にあった福島紡績福山工場(「福山紡 績」と通称)で

7

年間働いた。彼女にとっては、貧しさゆえの奉公、紡績行きであり、これ らの体験は辛い過去の象徴として語られた。

〈子守奉公〉[

1993-12-06

いま(の子ども)は生まれているんだから、もう学校行ききれるよね。いまは、親が行かしきれな

いのは、あれ、政府から援助があるでしょ。これでも歩かすでしょ、学校に行かすでしょ。おばぁた

ちはもう、おばぁたちは誰がも、援助してくれる人いないのに。で、もうね、もうお金がなくて死ぬ

か生きるかでしょ、学校どころの騒ぎじゃなかった。…よく生きてき た なと思う、自分で。小さいと

(10)

きのこと思えばよ、身震いするよ、おばぁ。…子守奉公に行ったわけ。子ども、

2

人守りしたよ、大 きくしたよ。…

7

つの

8

月の年に、あっちに行って。

13

8

月には出てきたからね。

福山紡績の募集人は隣シマの新里の人だったので、備瀬をはじめ、具志堅、新里、桃原と いった近隣から多く募集された。備瀬からは12 、13 人が一緒だった。関東大震災の直後で神 奈川方面への出稼ぎ者が被災したため、両親が紡績行きを心配したという。

13

歳の紡績行き〉[

1990-07-30

うん、数えの

13

よ。これはもう東京(関東)大震災、あれが大正

12

9

月でしょ。これ、いつま でもおぼえている。ぜったいこれ頭から離れない、このときにあっちに行ったということ。で、うち らのところの人がね、女も男も神奈川のほう、東京のほうに行っていたよね。行って、地震に追われ ていたよね、あっちからまだ来もしなかったよ、帰っても来なかった、地震に追われた人が。帰って も来なかったがね、うちのお母さん、お父さん、「あっちに行かしたら、内地に行かしたら地震があ るというのに」と言って、行かさないと言っていた。「内地は一緒じゃないよ。あっちの内地もこっ ちの内地もみんなあるよ」と言ったらね、承知したわけ。沖縄といえば、村(ソン)が違うところも あれば、また那覇とまたこっちではまた違うでしょ。これと同しだが、昔の人は、内地はみんな一緒 と思ってる。

紡績での持ち場はリングだった。休憩もない12 時間ぶっ通しの労働が辛くて、13 歳のマツ さんは毎日泣いて過ごしたという。

〈リングという持ち場〉[

1989-05-12

聞き手

:

部屋で沖縄の人いたらウチナーグチでしゃべってたの

?

マツ

:

そう、うん。ことばもわからんでしょうが。うん、たいへんだったよ、もう。だから泣きよっ た。いちばん(夕方)

5

時頃になったら泣きよった。…「いまごろなら畑から帰ってくるね、いま ごろ子守してどうしていたのに」というね、面影が。〈帰りたかった

?

〉そう。泣きよったよ。あれ 泣かん子はいなかったよ、もう。〈あ、みんなで。〉みんな泣きよった。もう

17

18

の人はあんまり じゃなかったがね、

13

14

の、うちら子どもでしょ、みんなまたワーワー泣いてからまた仕事に行 きよったよ。

聞き手

:

仕事はまたたいへんだったんでしょ、辛かったんでしょ

?

マツ

:

そうそう、糸も切れるし、もう紡績の話したくない、嫌い。もう子どもたちが、昔のように子 どもたちが紡績に行くんだったらね、行かさないと思っていたよ、いまはないからね。もうナンギ

(難儀)だのに。ナンギというよりもね、もう綿ゴミがいっぱい入るよ。〈もう工場中、綿のゴミ が

?

〉綿の花がもういっぱい、ぐるぐる飛ぶでしょ。で、結核の人が多かった。…もう、ほうきで

(払って)、…藁ぼうきといってあった。あんたがた、ありがたいと思いなさい。いまはもうお金も

あるしね、自分が行きたいところに行かれるでしょ。もう昔はほんとうにたいへんだったよ。

(11)

寄宿舎は、一舎、二舎、三舎と呼ばれ、一部屋に

8

人ずつ、「内地」の者と沖縄の者とは 分けて入れられた。五舎には朝鮮人女工専用だった

25

福山周辺では第一次大戦後の好況期(1916 ~17 年)には職工・女工が不足し、争奪戦がく りひろげられた。そのなかで福山紡績は、「給料が安くて真面目に働き物事に対して器用」と いう朝鮮人を雇用し始めている。しかし、かれらの「労働条件・賃銀等は、日本人以上に劣 悪なものであった」ためか、1919 年には日本人男工が朝鮮人女工をつきとばしたことをきっ かけに、200 人余りの朝鮮人工員が帰国を叫ぶ騒ぎが起こっている。結局は旅費をつくれず大 量の帰国はおこらなかった

26

。マツさんが働いたのはこの

4

年後ということになる。

〈内地、沖縄、朝鮮〉[

1989-05-12

マツ

:

また朝鮮人がいっぱい、朝鮮人だらけ。もう朝鮮人だらけだった。

聞き手

:

沖縄の人は

?

マツ

:

沖縄の人もいっぱいいたよ。

聞き手

:

同じ部屋にいた、沖縄の人も

?

マツ

:

朝鮮とは別、朝鮮とは一緒にいられないよ。あれ、生とんがらしにネギがあるでしょ、菜っ葉 があるでしょ、これ洗ってきてよ、ネギにとんがらしつけたりなんかしてね、あれふうにして食べ ているでしょ。だから、臭くってもうたいへん。鱈という魚もね、よく送ってきよったよ、あれだ ちは。〈あ、鱈。〉鱈の魚。…して、食べよったからよ。あれたちはね、五舎というところに全部分 かしておった。

朝鮮の女工たちの食習慣に閉口したという彼女だが、他方、沖縄のことを知らない「内地」

の女工から「沖縄豚」と呼ばれ、理不尽な怒りを向けられている。

〈沖縄豚〉[

1990-07-30

うちらはね、沖縄から行って、内地の人が沖縄豚と言って怒りよった。とても怒りよった。「おま えたちはね、沖縄って言ってるが、沖縄はどこの国、どこに国があるの」って言いよったよ。戦争 なってから、内地の人は沖縄ということわかってるんだよ、はっきりは。その前は、わからんかっ た。「九州といえば、九州どこか」(と聞かれたら)、「鹿児島」と言いよった、鹿児島から沖縄近いで しょ。こう言えばね、年のとった人は、「あは、地図にあるの、ちょっとちょっと指先ぐらいの地図 があるところが沖縄か」と言いよった。こんなに戦争前は知られてなかったよ。

逃亡を試みる女工も少なくなかったが、成功することは少なかったという。福山紡績で

7

年間働いたマツさんは、1930 年20 歳のとき、備瀬の人たちが集まり始めていた堺の大和川紡 績に向かった。短期間働いた後、大阪でシマの人と結婚生活を送っている。

3.

練馬の東洋モスリンへ

好子さん(1912 年生まれ)は、1926 年14 歳から

3

年半、東洋モスリン練馬工場で働いた。

(12)

沖縄の人たちが多かった静岡工場の支社だった。当時、シマには募集人が入れ替わり立ち替 わりやって来て、娘たちの紡績行きが盛んになっていた。上の人たちは、静岡、大阪、宇部 などに行っており、好子さんはどの紡績がいいのかわからないまま行き先を決めたというが、

結局、「あんな遠いところ」に行ったのは自分たちだけだった。生家は裕福で親は反対した が、高等科

1

年の同級生

4

、5 人と一緒に学校を辞め、この紡績に向かった。紡績体験につ いて、彼女は全体的に肯定的な意味づけをしている。

〈親の反対〉[

1989-05-16

あのときはさ、高等科というのがあったわけ。…で、この高等科出てる方はあんまりいないよ。ぜ んぶ

1

人が行くっていったらね、学校辞めてぜんぶついて行くわけ。〈わたしも、わたしもって

?

〉う ん、そう。うちなんかも高等科

1

年入っていたけどさ、そういっちゃなんだけど、うちもあんまり少 し裕福なほうだから、…「なんで、あっちに行くね、何もわからんくせにね、あんな遠いところ行っ たらどうするね。ナイチャー

27

にもう、さらわれたらどうするの」とか。〈あ、親にね。〉それで、「も うぜったい行かさん」って言ってたけど。

1

人が行くと言ったらね、ぜんぶもうツルみたいに行くっ てから。だー、高等科に入って

4

5

名入っていたけど、ぜんぶ辞めて行っちゃったよ、あっちに。

募集人は、本部村浦崎の人だった。那覇には40 ~50 人ほど集められていて山原(沖縄本島 北部地域)の人たちが多かった。紡績では、食習慣の違いに戸惑った。初めて見るおかずの 名前は、みんなで耳をそばだてて本土の女工たちの会話から懸命に拾おうとした。一方、同 室になった静岡の人の元に届く荷物にイナゴや納豆があり、「こんなの食べて、気持ち悪くな いね」と問いかけ、相手の気分を害してもいる。

〈おかずの名前〉[

1989-05-16

好子

:

あっちに着いてから、え、このね、うちなんかあっち着いたら、食べ物の名前も知らんから、

いっしょに食堂に行ってご飯食べるときにはね、この本土の人の言うこと、この…名前は何、チク ワと何とかってあるでしょ、こういうものね、こういうときに、おかずの名前は言うはずだから。

ま、ご飯はこれ、わかるわね。これ、どこでもあるから。これはわかるけど、おかずは毎日変わっ てくるから。わからんから、「あの人なんかが、今日のおかずはなんて言うか、よく耳澄まして聞 いておきなさい」ってからによ、みんなそれでわかってきてから。朝、いっしょに座って食べよう と、あの人たち「今日は何、今日は何のおかず、おいしいおかずだよ」って言うわけ。「あー、

あー、わかった、よし、これはこういう名前だね」。毎日こういうふうにして、もう慣れるまでは よ、おっかしくてよ。

持ち場は、自分も含めて背の低い人はリングだった。朝

6

時から夕方

6

時までの昼勤と夕

6

時から翌朝

6

時までの夜勤の二交代で、食事の半時間以外に休憩時間はなかった。「標

準語もただ学校で教わっただけで、ことばもあまりハキハキ」せず、身支度を整えるための

指導を受けた。初めの

3

カ月は、慣れるまで仕事はつらく、田舎が恋しくて毎日泣いてばか

(13)

りいた。

〈最初の

3

カ月〉[

1989-05-16

もうだんだん慣れたらね、とても楽しかったわ。最初辛いのはね、

3

カ月ぐらいだね。そのね、辛 いのはね、ど うして辛いのかいったら、あの工場も辛いけど、やっぱっしお家のさみしさというの

うち

が、いちばんもう辛かったわけ。あっちは練馬の空風っていって、有名な空風が吹くわけ、そこ。

とっても冬になったらもう、夏でも冬でも風がビュービュー来るわけ。風が吹いたら一緒にもう工場 から帰ったら、こっちにまたプールもあったわけ。そのプールのそば行ってみんな集まって泣いて、

お家恋しさによ、帰りたい言って泣いて。で、雨降ったらまた雨降るでまた泣いて。もうしょっちゅ う何かにつけてね、悲しい思いだった。お家のことばかり思って、いま何してるか、お母さんなんか どこ行ってるかね、いま何してるかね、うちなんかもう働いて家に帰れるかね、ここからあんな遠い ところに誰か連れて行ってくれるかね、自分で行ききれるかねして。

慣れない夜勤がつらくてシマの友達と一緒に、「夜通しこき使う」と会社の悪口ばかりを書 きつらねた手紙を実家に送ったことがあった。心配した兄が人を頼んで様子を見に来させた が、手紙の内容が大袈裟だということで、逆にもう少し頑張るようにと諭された。

寄宿舎では、一部屋に夜勤、昼勤の人たちが

8

人ずつ入った。一緒に行ったシマの友達と は同室で、他には部屋長を含め静岡の人が入った。工場には、栃木、山梨、青森などの人た ちがいた。初めは、沖縄を知らない本土の人たちに「土人」と呼ばれてばかにされたが、負 けてはいなかった。

〈沖縄の土人〉[

1989-05-16

好子

:

なんで、うちなんかに土人と言いおったわけよ。色が黒くてね、本土の人は色白いでしょ。で、

色が黒いから、「あんたら、台湾から来たの、南洋からそれとも来たの」と言うわけ。「うちなん か、沖縄だよ」と言っても、そのときまでもう沖縄っていうとこどこにあるかもわからんさね、昔 の話だから。んで、沖縄って言っても、沖縄というとこどこにあるかわからんから。「うちなんか のとこには、暑いからこういったものはないから、だからもう仕方ないから、「いろんなもの私た ちはわからんから、当分ね、いろんな覚えるまではもう、よろしくお願いします、教えてちょうだ い」ってから、頭下げて、それで教えもらって。それで

2

3

カ月もしてからいろんなもの覚えて からね、あれからはもう大丈夫だったけど、最初はたいへんだったよ、もう。

聞き手

:

じゃ、最初いじめられたりしたの

?

好子

:

うん、そう。「あんたら土人どっから来たねぇ」ってしてからよ、もう、とってもなんかバカに されたわ。…それで、だんだんだんだん、うちなんかもうあれなんかに負けてないでしょ、同じ人 間だのにねぇ。どっから来て、もう沖縄というところわからんから、鹿児島までは知ってるわけ、

みんな。日本だから、〔言い換えて〕内地。「うちなんか鹿児島から来たよ」と言えば、最初からそ

う言えばよかったものの、沖縄のこと誰も知らないから。それでもうだんだんだんだん親しくなっ

(14)

たから、(相手が)「あんたらね、最初のうちはね、何にも知らない、こんな遠いところ来てるの に、うちらバカにしたけどね、もうごめんなさいね」って後は謝りよったわ。

聞き手

:

あー、向こうの人もね。

賃金は出来高制で、自分たちは遠くから来ているので他の人たちとは覚悟も違い、無我夢 中に働いた。他方、沖縄から一緒に行った40 、50 人のうち、3 年半後に残っていたのは

5

人 だけだった。働き始めて数カ月で他の紡績へと夜逃げする経験者もいた。

〈懸命に働く〉[

1989-05-16

聞き手

:

リングってやつだったの、あれはたいへんだって

?

好子

:

とてもきつい。もうあんな忙しくて、きつくてね、綿もボウボウするしさ、それでもう、この 糸紡ぐわけさ、切れたらすぐ、こういうふうにしてから。これはもうね、働き、腕がなければね、

腕がいい人は何台持ちとか、腕の悪い人は少しずつしか持たない。これ台持つのにお金がとれよっ たわけ。

聞き手

:

それによって上がってくんだ、賃金が。

好子

:

それによって賃金が上がるわけ。それで、こんな遠いところから行ってるからね、もう無我夢 中でしょ。金儲けて早く家に帰ろうと。もうこっから行った人はぜんぶ腕がいいわけ。もう一生懸 命やるから、あっちの言うこともよく聞くし。あれ、本土の人は、自分たちはもう本土慣れている から、あんまりそういうふうな、いつ帰ってもいい、すぐ帰れるから、お盆にも帰れるし、お正月 にも帰れるでしょ、あんな人は。で、うちなんかは行ったきりでいっぺん帰れもしないし、もう 行ったきりだから。この間ね、

3

カ年間一生懸命やって早く帰らんという気持ちがあるから。…も う一生懸命やった。こっから行った人はぜんぶ金儲けがいいわけ、金儲けが。そこの会社も金儲け もよかったわけ。何割は貯金、会社からすぐ貯金に回すだけ、それで小遣いだけ与えるわけ、本人 には。貯金もいっぱい貯まったら、「お家に送金するね、どうするね」って、また聞きに来るわけ。

静岡出身の部屋長さんは地理に詳しく、熱海などあちこちの観光地に連れて行ってくれた。

柳行李

3

つ分、作った着物を持って帰り、家族みんなに分けてあげたが、すべて戦争で失っ た。「どこの紡績に行くよりうちなんかは恵まれていた」という彼女は、紡績時代に見聞を広 め、人付き合いも学べて、行ってよかったと振り返った。自分たちの後に紡績は

9

時間労働 となった。大阪に行く人が多くなり、妹も大和川紡績で働いた。

.1930 年代にできたたまり場

1.

大和川紡績への集中

大和川紡績というのは、大阪と堺の境界となる大和川の河口近くに立地していたため付い

(15)

た通称である。正式名は「大阪織物株式会社」だが、ここでは、体験者の呼び方にならって

「大和川紡績」あるいは「大和川」と表記する。敷地の西側には南海線、東側はチンチン電車 の阪堺線に挟まれた便利な場所にあった。1906 (明治39 )年に設立されたこの会社は、木綿 縮の生産を行うことから始まり、1911 年に原糸紡績機を新設している

28

。従業員数は大正期 を通じて堺市で

1

、2 位を争うほどの規模を誇ったが、紡績会社全体のなかでは中堅規模に 位置づけられる。1930 年頃の大和川紡績周辺の地図を図

1

として示す。

この工場に備瀬の娘たちが集中したのは、兼次俊武というシマ出身の募集人が誕生したか らだった。彼は、1923 (大正12 )年22 歳ごろに大阪に渡り、男工として大和川紡績で働き始 めた。当時は「沖縄出身者をバカにして使わない」といった雰囲気があったが、そのなかで よく働き、認められるようになったという。やがて募集人として大阪と沖縄を往復するよう になり、郷里周辺を含む沖縄本島北部を中心に歩いた

29

。1930 年代半ばには那覇の東町に会 社の出張所が設けられると、その管理を弟に任せている。そして彼は会社の人事課に常駐す るようになった。また、工場近くで女工相手の雑貨商を始め、その後、着物や反物を扱う店 に替え、呼び寄せたきょうだいに切り盛りさせた。1940 年ごろに彼は、備瀬に二階建ての屋 敷を造って故郷に錦を飾った。当時、備瀬では本格的な二階建ては珍しく、隣接のシマから はもちろんのこと、他町村からもわざわざ見学に訪れたという

30

。この屋敷は戦争で失われた。

大和川紡績の従業員数の推移

31

と備瀬出身者の動向を表

2

に示す。1913 年の女工数は427 人

1 1930

年ごろの大和川紡績(大阪織物会社)周辺地図

(16)

だったが、大戦時の好況期に約1700 人にまで急増している。終戦後の反動不況期には、島根 県出身の寄宿舎女工70 人が、賃上げ、待遇改善を求めてストライキを起こしたが、「不貫徹、

全員解雇」という結末に終わっている。この頃、66 人の朝鮮人職工が働いていた

32

。そして、

改正工場法の実施を控えた時期に女工数を900 人台まで大幅に減らしており、その後は徐々に 持ち直して1937 年には1500 人近くになっている。多くの備瀬出身女工が働いたのは、激減し てふたたび増加するこの時期にあたっている。会社は、沖縄出身者を集中的に導入すること によって人件費の抑制を図ったと思われる

33

1928

年に静岡の紡績から大和川に移った節子さんは、そのころすでに女工、男工合わせて

20

人ほどの備瀬人が働いていたと記憶する。1931 年から

4

年ほど大和川で働いたヨシさんの 場合、寄宿舎の同室者13 名のうち「ナイチャー(内地の人)」は

1

人で、残りはすべて備瀬 の人だったというから、この時点での集中傾向がうかがえる。

2

大和川紡績における職工数の推移と出来事

世の中の動き 大和川紡績の動き 〈備瀬出身者の動き〉

女工比率 男工数

女工数 職工数

第一次世界大戦

大戦特需

終戦

反動不況

関東大震災

金融恐慌 満州事変

1

万3500 錘

〈このころ、本土への出稼ぎはじまる〉

朝鮮人職工数66 人

島根県出身寄宿舎女工70 人スト、全員解雇

3

万4856 錘

〈兼次俊武の入社は、このころか〉

職工数ピーク

女工数前年比35 %減

〈大和川に集まりはじめる〉

79.0 76.4 84.1

86.5 75.0

75.2 76.2 75.0 83.0 78.0 73.4 74.4 218 319 320

267 500

547 548 585 385 487 400 313 427 819 1034 1697

1709 1500

1661 1754 1754 1878 1729 1129 911 1037 1353 2017

1976 2000

2208 2302 2339 2263 2216 1529 1224

大2

3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15

昭2

3 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928

世界恐慌 金解禁・鐘紡スト

日中戦争

日米開戦 改正工場法の実施

〈備瀬同志会の結成〉

時間短縮・賃金値上げのストおこる

〈大和川の備瀬出身者、このころ最多か〉

紡績企業統合により呉羽紡績に合併

77.9

80.7 82.0 86.4 87.0 86.7 87.8 87.0 87.3 271 198 240 179 197 185 187 191 218 957 1001 1094 1136 1324 1209 1341 1274 1483 1228 1241 1334 1315 1521 1394 1528 1465 1699 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941

(17)

1933

年頃、13 歳でシマの友達と一緒に大和川に向かったナヘさん(1933 年生まれ)は、シ マの募集人と同じ船で大阪に渡ったときのことを思い出し、吹き出しながら語ってくれた。

「地下の三等室に重箱詰め」されたのを不満に思った彼女たちが募集人のいた部屋に押しかけ たというエピソードからは、シマの者どうしといった気安さが伝わってくる。

〈シマの募集人〉[

2000-09-08

兼次兄さん

34

、あれが生きているときはいつも笑いよったよ。わたしがもう、あれは船の中でよ、

うちたちが行くときにもう、何十名かね、もうその三等部屋によ、こんな、くっついてもうみんない るさーね。これが

3

日くらい、

3

日ぐらい乗りよったはずよ。そうしたら、もう元気がある人はみん なここから出て、いちばん上、あっちに遊びに行きよったのよ、

3

4

名、シマの友達よ。行きよっ たのに、そうしたら、ちょうどもうこの上の一室に募集人がいるわけ。あれもまたシマの人さ、兼次 募集人さんといって。同じシマの人さーね。「自分はあんなジョートーなところにいて、わたしだち はもう重箱詰めさせて、ハーもうワッター(わたしたち)下には行かない、もうこっちに寝る」と 言ってよ〔大笑い〕。

4

名ともよ、あれのところにもう行って。もうそうしたら、もう子どもでしょ う、あれはもう笑ってよ。「ハー、じゃ、もうあんたがたここに寝なさい」と言って〔吹き出す〕。

4

名で、あれはあっちに寝かして、わしだち

4

名こっちに。〔笑いながら〕いつも忘られん。

大和川に備瀬の人たちが集まっていく過程では、他の紡績から「逃げて」くる人も少なく なかった。1933 年に17 歳でいとこと

2

人で岡山の倉敷紡績に働きに出たタエさんは、その

3

カ月後、近隣のシマ出身の先輩に誘われていとこと一緒に大和川紡績に逃亡した。「兼次さん にお願いして」入れてもらったのだが、持ち場も、給料も、食事も、すべての面で倉敷紡績 のほうがよかったことがわかり、彼女は逃げたことを後悔している。「最初に行ったところで 辛抱できない人はなんにもならない」ともらした。

〈倉敷紡績からの逃亡〉[

1989-05-15

あっち(倉敷紡績)に

3

カ月ぐらいいたのかね。いてよ、で友達、友達というよりか、わたしたち より先輩、

7

つぐらい先輩だったね、あの人にあれされて、言い含められてよ、ここは夜勤も少ない し食べ物も悪いし、大和川に行ったら月給も高いし、また食べ物もおいしいというわけ。それにだま されて逃げてきたよ、あっちから〔笑い〕。あのときまでね、倉敷紡績は、塀、あの木で、これくら いの棒でやっておったよ。そこから荷物あっちに投げて、そこから這い上がって逃げていった。逃げ ていって後悔した、大和川行って。ご飯おいしいというのに、岡山がずっとおいしかった。月給も高 かった、ほんとうは。

1935

年から大和川で働いたウメさんは、岡山の紡績から移った姉やいとこを頼ってシマか

ら出てきた。姉もまた「兼次さん」に頼んで働き始めた。彼女の語りからは、後続者は身近

な先行者を頼るという動きが続くことで、大和川に備瀬の人たちが集中していったことがわ

かる。たまり場の形成は、新たな環境に入っていく後続者たちの不安を緩和した。

(18)

〈姉を頼って〉[

1989-05-23

聞き手

:

おばさんは大阪に行くときに、その紡績に行くときに、もうお姉さんはいたわけ、あっちに

?

ウメ

:

はい、姉さんいたわけさ。あれはリングに。

聞き手

:

でも、お姉さんはいるけど、知らないところに行くわけでしょ。不安とかはなかった

?

ウメ

:

ううん、そんなことはぜんぜん。…だから、うちは、知らないところにはもう、向こうにあれ

さ、やっぱし自分のもう、きょうだいがいて、初めてもう頼って行くわけさ、これはね。〈じゃ、

お姉さんがいるし。〉お姉さんがいるから、向こうに行ったほうがいいいうて。…(姉は)初めはす ぐ向こうから募集は、堺には募集されないで、岡山のほうに募集されて、向こうからこっちに来て るわけさ、向こうはもう。いとこなんか、みんな向こうに来てるわけさ、堺紡績(大和川のこと)

に来てるわけさ。来たら兼次さん頼って。

その後、ウメさんは、妹の光枝さんをシマから呼び出した。光枝さんの同級生も尋常小学 校を卒業するとほとんどが大和川に働きに出ていた。紡績に行った人たちが「色も白く美人 になって帰ってくる」のに憧れていた光枝さんも、進学した高等科を辞めて続いた。

〈高等科を辞めて〉[

2004-12-22

だいたいみんなよ、うちらの同級生もよ、

6

年卒業してよ、ぜんぶもう、大和川に募集人がおった からね、行ってからに。うちちょうど 中学(高等科のこと)よ、

2

人だったはず、中学。うち中学 よ、

3

日ぐらい出て、「もう、みんな、行っているのに」と言って、もうすぐ辞めて、すぐ、大和川 に行った、募集されて。姉さんたちはあっちにおったからよ。

光枝さんは、姉たちが送ってくれた着物をつけて、シマの知り合いのおじさんと一緒の船 旅だった。大阪の港には、親戚のおばさんが迎えに来てくれた。彼女はこのころに、いとこ の兄さんの勧めを受けて「ウト」という名をいまの名前に変えている。その後には妹も出て きたので、女きょうだい

4

人が大和川紡績を体験した。

1937

年から大和川で働いたフミさんもまた、上の姉

2

人に呼び出された。父親を早くに亡 くし、畑仕事と芭蕉布織りでやりくりする母親を支えるため、「祖父母の煙草代の足しにでも なれば」と思い、尋常小学校

5

年を終えたところで大阪に向かった。

2

人の姉に続いて〉[

2007-08-29

(大和川紡績には)上

2

人、わたしと

3

名行ったわけ。四女はまたあれ若いから、紡績行かなかっ

たわけ。…わたしはまたあんまり、学校

5

年卒業して行って、

2

人がはや紡績の幹部(見回りのこ

と)になっているから呼ばれてよ、学校

5

年卒業してわたしはあっち行ったよ。…

6

年まであった

が。だがよ、貧乏で〔笑いながら〕、貧乏でもうお母さん。おじいさん、おばあさん、長生きしてる

し。わたしのお母さんは機織りでよ、いつももう機織りして、あの時代はまたこの、ウバサージンが

ね、ウバサージンといっていま評判さ。〈芭蕉布。〉あれ織ってから那覇にまた商売人が買いに来よっ

たわけよ。また備瀬にもいるし。

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