アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について一
A bs tra ct M ic ha el Pa ka lu k fo rm ula te d a pr ob le m fo r th e m ain cla im s of
Nicomac hean Ethics ac co rd in g t o w hic h i n h is s ea rc h o f h ap pin es s A ris to tle
w as in co ns ist en t in fi rst p oin tin g t o t he d ire cti on o f th e C oll ec tio n o f v irt ue s an d t he n c on clu din g t he u ltim ate c or re ctn es s o f t he S ele cti on o f o ne v irt ue ,
w isd om , a s r ele va nt to th e pr ob le m o f c om ple te h ap pin es s. In th is pa pe r, it is arg ue d th at A ris to tle w as h ig hly so ph ist ic ate d in h is ʻ C oll ec tio n ʼ a nd th at, fo r a p art ic ip an t o f h is le ctu re , a re ali za tio n o f t his C oll ec tio n w as th e gr ou nd fr om w hic h th e pa rti cip an t h ad to e nte r e ith er th e co m m un ity o f ph ilo so ph ic al co nte m pla tio n o r t ha t o f p ra cti ce o r ʻ re al po liti cs ʼ , s o t ha t h is arg um en ts in NE w ere fr ee fr om in co ns ist en cy .
K ey w or ds
Nicomac hean Ethics, theōria , ʻ Se le cti on an d C oll ec tio n ʼ , co m m un ity , vir tu es , f rie nd sh ip
﹃ニコマコス倫理学﹄解釈最大の謎のひとつは︑第十巻第六〜八章において述べられる全巻の結論としての︑﹁完全な幸福﹂という観点における﹁﹁観想﹂の﹁実践﹂に対する優位﹂の評価にかかわるものである︒ひとつの立場からすればアリストテレスは︑勇気や正義や節制や正直など人柄にかかわる徳︵ēthikai ar etai
︶の議論をずっとやってきた延長上で観想︵theōria
︶活動を通じた﹁知恵︵sophia
︶﹂の発揮をその上に置いたので︑かれの﹁幸福﹂は人柄にかかわる徳の十全な発揮を包括する︑ないし本質的条件とするものであった︵‘inclusive view’
﹁包括説﹂︶︒これと対立するもうひとつの解釈では︑どんなによい実践を一生の間積み重ねても観想の与える﹁完全な幸福﹂は得られず︑観想こそ幸福への独自の特権的ルートであるとするものである︵‘dominant view’
﹁優越説﹂︶︒本稿では︑﹁包括説﹂対﹁優越説﹂で包括説的直観を活かそうとした諸提案 ︶1︵の挫折を経て︑第十巻の観想論は優越説に有利であるとのおおむねの同意を前提した上で︑優越説に立脚する二〇〇五年のパカラックの一般書で用いられる表現を手がかりに話を進めてみたい︒﹃アリストテレス﹃ニコマコス倫理学﹄入門﹄と訳せる表題からも分かると
﹃人文コミュニケーション学科論集﹄十五号︑一-二九頁
ア リ ス ト テ レ ス 倫 理 学 に お け る 「 共 同 性 」 と 「 観 想 の 優 位 」 の 関 連 に つ い て 渡
辺 邦 夫
© 2013 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
渡辺 邦夫二
おり ︶2
︵専門知識を要求しない入門書だが︑著者はアリストテレス有力研究者であり同書は良書である︒パカラックは︑﹁包括説﹂・﹁優越説﹂の従来二解釈上の立場の対立に相当して倫理学内部にさしあたり含まれる二要因を︑相互に不安定な関係に立つ二タイプの明白な主張と捉える︒かれの言い方では︑﹃ニコマコス倫理学﹄において︑一方でアリストテレスは第一巻から第十巻第五章までは諸徳の集積 00ないし統合 00の方向︵
Collection
︶を目指した議論をおこない︑他方で第十巻第六〜九章の結論部分に至ると︑完全な幸福を約束する徳の選抜 00( Selection )
に傾き︑ほかの諸徳を排する形で知恵の徳の活動を︵完全な︶幸福と考えた︒かれによれば︑第一巻第七章における幸福の定義﹁徳に基づく魂の活動﹂︵1098a16-17
︶でいう﹁活動︵ener geia
︶﹂がすでに︑﹁何らかの単一 00種類の活動﹂なのか︵セレクション︶それとも﹁す 0べての 000そのような活動﹂なのか︵コレクション︶が問題となるものであった ︶3
︵︒その上で以後のアリストテレスの論述を追えば︑まず︑人柄にかかわる諸徳は思慮深さ︵
phr onēsis
︶という知性的な徳のもとで︑或る種の﹁集積・コレクション﹂の形を示す︒﹁諸徳兼備﹂は︑実践にかかわる知性の優秀性をひとつのゆるやかな統合のポイントとして考えるなら可能なことであり︑多くの場合︑現実にそれに近い有徳の人が出現することも自然である︒また︑それだけでなく︑このような﹁集積﹂が思慮深さの徳までにとどまるというように限定する理由も存在しない︒パカラックによればアリストテレスは︑もうひとつの重要な知性的徳である知恵という理論知性の徳を も︑﹁集積﹂に関係させていると解釈できる︒これは︑今の一回の行為を選び取るために自分の究極目的としての幸福から当該選択までを︑正しい﹁的︵skopos
︶﹂を射るように見通すという比喩があることによる ︶4︵︒この﹁標的﹂ないし﹁ゴール﹂は︑アリストテレスの見解によれば︑知恵の徳を発揮する観想的生活である︒思慮深さも人柄にかかわる諸徳も︑そろって哲学的観想の生活が可能となる 00000
ように 000︑そのように弓の標的を知恵の生のところに明確に設定しつつ︑その徳にかなった行動をねらっていなければならない︵
VI 13, 1145a6-1 1; cf.12, 1144a7-9
︶︒このようなもろもろの徳が︑知性的徳も人柄にかかわる徳もみな︑それぞれの適切な位置において相携えてひとつへと集積の姿をみせてゆく︒パカラックによれば︑他方で第十巻第六〜八章の幸福論の結論におけるアリストテレスは︑はっきりと知恵の活動としての観想活動こそ単一種類 0000で幸福を約束するものであるとする一方︑実践や実践的知性の徳に基づく生活をたんに﹁次善のもの﹂とみなして︑明確な選抜・セレクションを結論として提出する︒―
このように︑コレクションの方向の議論とセレクションの方向の議論が︑調停など 0000あり得ないような形で 0000000000アリストテレスの論述の別々の文脈に登場しているというのが︑かれの説明である ︶5
︵︒パカラック自身は︑アリストテレスに矛盾を語らせることを避けるように︑第十巻の章分けにこだわらない自分の読みをのちに新仮説として提案する ︶6
︵︒これも︑二次的な意味では考慮に値するアイデアだが
︶7
︵︑本稿で問題にしたいのはパカラックが最初に示した︑アリ
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について三 ストテレスのテキストに含まれる︵とかれがみる︶あからさまな矛盾の方である︒なぜなら︑もしも 000パカラックのいう﹁アリストテレス倫理学の問題﹂が︑かれの言うとおりの仕方で問題であるなら 0000000︑そのことだけでアリストテレス倫理を現代人が問題にすることの意義が薄れてしまうからである︒パカラックの指摘は︑従来の﹁包括説﹂対﹁優越説﹂の対立構造の根底にありながら見過ごされ続けてきた隠れた根本問題の︑史上初めての勇気ある暴露 00をおこなう内部 00
告発 00というように解しうる︑とわたしは考える︒そして︑この対立を前提して第十巻第六章以下を素直に読めば︑﹁優越説﹂しか採用できないように思えるのだが︑しかし︑パカラックの指摘によれば︑これこそまさに︑アリストテレスの第一巻から第十巻第五章までの論述を台無しにする︑倫理学論考の自殺行為にほかならないのである︒
―
こうであるとするなら︑二つの説の同一平面上の対立 0000000000000というその事態をあらかじめ避けるようにテキスト全体を読み直す 000000000000000000000000000000
ということが︑唯一の抜け道であろう︒わたしが本稿で追求するのは︑この路線である︒以下の考察でわたしは︑この問題を︑﹁矛盾はいっさい 0000ない﹂と正面から答える形で解決する︒そして︑それと同時に︑﹁包括説﹂対﹁優越説﹂の解釈対立の根底にある︑﹃ニコマコス倫理学﹄中の諸議論の整理図式に代わる︑新しい仮説を提出したい︒私見では︑第一巻第一〜十二章は幸福論序説のような形でもろもろの日常的な 000000000
言説にもじかに対峙する 00000000000議論であり︑同じレベルの日常的 000でワイルドな局面へと第十巻第六〜八章でアリストテレスは戻ってゆく︒こ こでのかれの主張は﹁セレクション﹂とパカラックが呼ぶ方向のものに一義的に定まっており︑この点の曖昧さは存在しない︒一方︑幸福を約束する﹁徳﹂一般にかんするアリストテレスの徳論のほうは︑私見では日常的言説との︑日常討議レベルにおける対話という局面からは一歩引いた 00000︑エリートたち︵そのなかに研究の道に進む者も出てくるだろうし︑政治やほかの実務の道を歩む者も出てくるだろう︶との共同的探究 00000の形を取っている︒第二〜六巻のアリストテレスの徳にかんする議論は全体として︑かれら優秀者への配慮に基づく︑学問的精神に根ざす﹁教育・鍛錬の局面﹂において構成され︑遂行されている︒したがってここの基調となる︑徳の集積の形を示す﹁コレクション﹂の方向は︑そのような将来の自分の具体的 000000000
な道はともあれ 0000000︑自分を磨いて幸福を目指すべき全員 00への指針を与えるという意味において︑絶対的で普遍的な正しさを持っているとアリストテレスが自負していたものであると思われる︒他方第十巻の観想論は︑独立の材料を基に︑今後︑否応なく政治の道と研究の 000000000000
道に分かれて行かざるを得ない 00000000000000受講者たちに︑二つのうち比較して上位なのは研究の道であることを︑解き明かそうとするという趣旨を担っている︒したがって︑コレクションとセレクションは矛盾しないばかりか︑コレクションあっての 0000000000セレクションという意味において首尾一貫している︒
―
以上が︑本稿の解釈で論ずる概略である︒渡辺 邦夫四
一 「セレクションとコレクションの問題」への
第一次的接近 パカラックは第十巻第七章のつぎの章句におけるアリストテレスの議論が謎だという ︶8
︵︒
もし幸福が徳に基づく活動であるなら︑最高の徳に基づく活動であることが理にかなっている︒そして︑その最高の徳とは︑もっとも善きものの︵
tou aristou
︶徳であろう︒そこで︑自然本性に基づいて支配して主導し︑また美しい事柄ともっとも神的な事柄について思考をめぐらすと思われるこのもっとも善きものが︑理性︵nous
︶であろうが︑ほかのなにかであろうが︑またこのものがそれ自体としても神的であろうが︑われわれのうちにあるもののなかでは﹁もっとも神的﹂なものであろうが―
このものの︑それに固有な徳に基づく活動が︑完全な幸福 00000であろう︒この活動が観想の活動であることはすでに述べられた︒︵1077a12-18
︶かれがアリストテレスに対して申し立てる苦情は︑幸福が最善の 000活動であることがすでに決着済み 0000000のことなら︑﹃ニコマコス倫理学﹄全篇で 000幸福が複数の活動からなるという可能性に対し︑アリストテレスは態度未決状態ではありえなかったはずだということである︵ただし﹁すでに述べられた﹂という引用最終行の指摘にあたる明確な叙述を︑これ以前の箇所にみることはできない
︶9
︵︒したがって︑ 決着済みとの態度表明は︑ここでまったく新たになされているものである︶︒つまり︑セレクションのほうへの傾倒があまりに明確で︑しかもそのような傾倒がここで急に表明されてしまうため︑最初か 000
らコレクションの可能性などなかった 00000000000000000という理不尽な含みを読み取らざるを得ないというのである︒さらに︑これが非常に奇妙に思えるもうひとつの理由は︑第一巻から第十巻第五章の快楽論の終了時点までの︵つまり︑この書の九十数パーセントの紙幅を占める議論での︶アリストテレスは︑コレクションかセレクションかという問題に対していっさい明示的な解答を与えていなかったばかりか︑力点はむしろ明らかにコレクション側に︑すなわち幸福がもろもろの種類の徳の集積・統合において成り立つという常識的な方向にあったということである︒このパカラックが提起した問題に︑以下で答えたい︒かつ答を︑アリストテレスの説がもっともよく 000000救済される方向で︑つまりかれの完全 00無罪を勝ち取る方向で考えたい︒この場合の﹁完全無罪﹂申し立てとは︑アリストテレスは﹁コレクション﹂を申し立てる場合にも︑﹁セレクション﹂を申し立てる場合にも︑じつはいっさい 0000間違いを犯さなかったという主張である︒そして︑このような主張は最小限︑﹁コレクション﹂対﹁セレクション﹂の対立が︑同一次元の同一観点における﹁矛盾の関係﹂ではないとすることだから︑以下の解釈においてわたしは︑﹁コレクション﹂とはアリストテレスにおいてどのようなことであったか︑また﹁セレクション﹂とはどのようなことであったかということを︑もっぱら自分の責任で解き
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について五 明かさなければならない︒さらにパカラックは︑引用後ろの﹁完全な幸福︵
teleia eudaimonia
︶﹂︵a17
︶という表現が理解困難だという ︶10︵︒﹁完全な﹂と訳した形容詞﹁テレイオス﹂は名詞﹁テロス︵目的・完成・終局︶﹂と同根の派生語で︑この派生関係からすれば﹁﹁目的﹂的な︵
goal-like
︶﹂と訳すべき語である︒事実︑﹃ニコマコス倫理学﹄第一巻で行為の目的の系列からの幸福論においては︑そう訳すのがよいとパカラックは解釈する︒しかし︑この訳し方を上掲引用文に適用することは不可能であるとかれはいう︒なぜなら︑その場合には幸福が﹁﹁目的﹂的でない﹂ことがありうることになり︑(
人生の)
究極目的という︑アリストテレスとわれわれのふつうの幸福理解に反する奇妙な﹁幸福﹂の可能性に︑荷担してしまうことになるからである︒ただし︑パカラックも補足するように︑アリストテレスはじつは第十巻では︑知恵の徳に基づくここの﹁完全な幸福﹂を︑人柄にかかわる諸徳プラス思慮深さの徳に基づく﹁第二次的な幸福︵eudaimonia deuterōs
︶﹂︵X 8, 1178a9
︶との対比で用いている︒そこで︑﹁テレイオス﹂には以前と別の意味が想定されなければならず︑﹁完全な︵complete
︶﹂くらいになるだろうとパカラックは推測する︒そしてこの訳語の問題全体を振り返って︑第一巻で︑幸福であるならば﹁自足的﹂︵I 7, 1097b14
︶である︵それだけで︑もう︑十分である︶としたときの議論の観点とは︑まるでずれてしまっているとコメントする︒また︑かれの苦情は最終的に﹁第二次的な幸福﹂にも向かう︒このような﹁二次的幸福﹂の使い方は相手へのた んなる儀礼上の敬意のようなもので︑したがってアリストテレスは︑﹁セレクション﹂に態度を決した瞬間に︑ほんとうは以前の﹁コレクションの問題﹂に帰ってくることができなくなってしまっていて︑この問題を含むような幸福の問題への自分の態度決定が結局何なのかをまったく示していないとパカラックは結論づける ︶11︵︒問題は深刻である︒アリストテレスに﹁立つ瀬﹂がなさすぎるので︑あまりに 0000深刻であるともいえる︒そこで︑伝統的な解釈が多用してきた言葉に戻って︑かりに一回﹁頭を冷やす﹂なら︑つぎのようにそこからのさしあたりの対応を述べることができる︒第一に︑一般にアリストテレスは︑人間を二重の視点 00000からみる見方を持っていた︒﹃ニコマコス倫理学﹄第十巻第七章の観想の活動を完全な幸福とする議論の文脈においてアリストテレスは︑先に引いた章冒頭での﹁もっとも善きもの﹂の導入を承けるように︑結論部分でこれの導入に伴い二重化する人間への視点を︑﹁死すべきもの﹂ないし﹁人間並み﹂の視点と︑理性に着目した不死の神との連続性の視点の区別として呈示する︒
ゆえに︑これ
[
理性の活動]
は︑その活動が完結しているといえる程度に長い人生を得る場合には︑人間の完全な幸福であることになるだろう︒なぜなら[
この場合には]
︑幸福を構成するような要素のどれひとつも︑不完全ではないからである︒その一方でこのような人生は︑人間並みの人生よりもすぐれている︒なぜなら︑人がこのような人生を送ることになるのは︑人間であるかぎりに渡辺 邦夫六 おいてではなく︑かれの内部に神的ななにかが属しているかぎりのことである︒しかるに︑そのなにかが
[
形相と質料の]
合成物と異なるその分だけ︑それの活動も︑[
理性の徳の知恵以外の]
ほかの徳に基づく活動とは︑異なる︒ゆえに︑理性が人間との関係において神的であるなら︑理性に基づく生活もまた︑人間並みの生活との関係において神的なのである︒一方―
こんな勧告をする人々もいるけれども―
﹁人間なのだから人間的な事柄に考えをめぐらす﹂とか︑﹁死すべき者なのだから死すべき者の事柄に考えをめぐらす﹂とかのことを︑為すべきではないのである︒むしろ︑できるかぎり不死にあやかり︑自分のうちのもっともすぐれた部分に従って生きるべく︑ありとあらゆることを為すべきである︒なぜならこの部分は︑たとえ量の点ではわずかであるにせよ︑その能力と尊さの点では︑すべての部分をはるかに凌駕しているからである︒そして︑この部分は主宰的︵kurion
︶であり︑よりすぐれている以上︑この部分こそ各人である 00000とさえ思えることだろう︒したがって︑自己自身の 00000生︵ton hautou bion
︶を選び取らないでなにか自分以外のものの生を選び取るなら︑それは滑稽なことであろう︒そして︑以前語られたことは︑今もまたうまく調子が合う︒それぞれのものに自然本性的に固有のものが︑それぞれのものにとってもっともすぐれていて︑もっとも快いのである︒ゆえに︑理性がもっともすぐれて人間である 00000なら︑人間にとってもまた︑理性に基づく生がそのようなものである︒したがって︑そのようにして人間はもっとも幸福︵eudaimonestatos
︶ でもあることになる︒︵X 7, 1 177b24-1 178a8
︶この結論部分を読むと︑パカラック流の問題意識も分からないでもないが︑他面ではかれのように問題を︵アリストテレス内部の矛盾に即座に 000至るように︶定式化するのは
―
少なくとも︑さしあたりほかの点はともあれ―
人間的存在 00000にかかわるアリストテレス的区 0別の導入 0000という事態の重大性を︑まったく顧慮していない態度だと感じられる︒なぜなら︑この第十巻第七章以前では︑死すべき者 00000︵あるいは︑たんに 000﹁人間並み 0000﹂であるような人間 00000000︶としての善 00000ないし幸福 00という言い方 000は︑一回も登場していないからである︒したがって観想論以前の︑第十巻第五章までの議論が︑全体として 00000そのような二次的でより劣った次元の人間論ないし幸福論であるという明示的な証拠は︑どこにもない 000000のである︒アリストテレスの議論の表面的な粗雑さを嘆く前に︑問題の 000﹁区別 00﹂が導入されるということは 000000000000
いったいどのようなことか 000000000000という観点の議論が︑一回は必要であるように思われる︒ 第二に︑この点で第十巻第七章末尾の引用箇所に﹃ニコマコス倫理学﹄内部で直接の関連性を持つのは︑﹁理性が各人である 00000﹂と全巻ではじめて論じた︑第九巻のフィリア︵愛︑友愛︶論の二箇所である︒第一の箇所は第九巻第四章であり︑高潔な人︵
ho epieikēs
︶ ︶12︵
の場合には自己への愛から他者への愛が派生するという論点のために︑つぎのようにいわれるくだりである︒
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について七 なぜなら高潔な人は︑自己自身と意見が一致しており︑同一の事柄を魂全体において欲求する︒しかも自己自身に︑善と善にあらわれるものを︑しかも自分自身のために︵というのも︑思考する部分のために︵
tou dianoētikou kharin
︶そのように願望し︑為すのであり︑思考するこの部分こそ各人であると思われるから 0000000000000000000000である︶願望し︑かつ為す︵というのも︑善を涵養しておこなうことが︑善き人の為すことであるから︶からである︒他方また高潔な人は︑みずからが︑とりわけ︑それにより自分が思慮をめぐらすもの︵touto hōi phr onei
︶が︑生きることと︑安全に保たれることを願望するのである︒なぜなら︑すぐれた人にとって存在することは善いことであり︑各人は自己自身にとって善いことを願望するが︑自分以外の者になってまでありとあらゆるものを持つことを選び取る人など︑だれもいないのであり︵なぜなら神は現状でも善を持っているから︶︑自分が現にそのようななにかであるという本質を保ったままでの︑そのような善いことを願望する︒しかるに︑思考するもの 000000︵to nooun
︶が各人であるか 0000000︑あるいはそ 00000うでなくとも 000000︑もっともすぐれて各人であると思われるだろうか 0000000000000000000000
らである 0000︒︵
IX 4, 1 166a13-23
︶第二の箇所は︑この第四章で予告的に︑あるいはかりに輪郭的に言われた﹁自己の本体にかんし︑それが︵人柄にかかわる徳においてすぐれた人の場合にはとくに︶︑理性的な思考の機能ではないかとの推測﹂の︑より本格的な展開を試みる︑第九巻第八章のつぎの ようなくだりである︒
・・・なぜなら︑或る人がなによりもまず正義であること︑もしくは節制あること︑もしくはほかの諸徳にかなったことを為すことに自らいつでも熱心である場合︑また一般に︑美しい行ないを 0000000
いつでも自己の財として保つ場合 000000000000000︑だれもこの人を﹁自己愛者﹂とは呼ばないであろうし︑非難もしないからである︒ しかし︑このような人こそ︑自己を愛する者であるとも思えるのである︒じっさい︑かれは自らに︑もっとも美しく︑もっとも善きことを帰し︑自らのもっとも主宰的な部分 0000000000000︵
heautou tōi kuriōtatōi
︶を満足させ 00000︑すべてにわたってこの部分に従うのであ 000000000000000000るから 000︒そして 000︑国家もほかのいかなる複合組織体も 0000000000000000︑なにより 0000
もまずもっとも主宰的な部分であるが 00000000000000000︑人間もこれと同様であ 0000000000
る 0︒したがって︑この部分を愛好してこれを満足させる人は︑もっともすぐれて﹁自己愛者﹂でもある︒ 抑制ある者と無抑制な者とは︑理性 00︵
nous
︶が支配するか否か 00000000により 000語られる︒すなわち︑理性が各人であるとしてそう語られ 0000000000000000
る 0のである︒また人々は︑自ら分別を伴うことを為したときに︑もっともすぐれて本意から為したと思われている︒ゆえに︑この 00
ものが各人である 00000000︑あるいはそうでなくと 0000000000も 0︑もっともすぐれて 00000000
各人である 00000こと︑そして︑すぐれた人はなによりもまずこれを愛好していることは︑明らかである︒したがってこの人は︑もっとも強く﹁自己を愛する者﹂であるだろう︒ただし︑非難される自
渡辺 邦夫八 己愛者とは異なる種類における﹁自己愛者﹂なのであり︑ここには︑分別に従って生きることが感情に従って生きることと異なるほどに︑また美しい行ないを欲求するか︑益になるとみえるものを欲求するかで異なるほどに︑大きな違いがあるのである︒ すべての人が︑美しい行為に際立って熱心である人々を︑是認し︑称賛する︒そして︑もし全員が美に向けて競い合い︑もっとも美しいことどもを為すべく努めるならば︑公には為されるべきことがすべて為されるだろうし︑各個人に固有には︑もろもろの善のうち最大のものがそなわるであろう︒徳とは︑そのようなものであるからである︒したがって︑善き人は自己愛者であるが︵なぜならかれは︑美しいことを為すことにより自ら益を得るとともに︑他者のためになるだろうからである︶︑悪人はそうでないのでなければならない︒︵中略︶
―
したがって︑以上述べてきた仕方で自己愛者であるべきであり︑多数者がそれであるような﹇利己的な﹈仕方で自己愛者であるべきではない︵IX 8, 1 168b25-1 169b2
︶アリストテレスは第九巻第四章で予兆を示した︑﹁愛﹂の現象一般にとっての︑人柄にかかわる諸徳を積んだ﹁すぐれた人︵
ho spoudaios
︶﹂ないし﹁高潔な人︵ho epieikēs
︶﹂ないし﹁善き人︵ho agathos
︶﹂の自己愛の根源性の論点を︑この第八章で再論している︒その議論の鍵が︑理性を﹁各人﹂と見立てる見方である︒本稿ではここの議論の逐語的解釈はできないが ︶13︵︑第十巻第七章の理性を 各人と同等視する観点は︑それ以前にはこの二箇所であり 00000000︑かつこ 0
の二箇所のみである 000000000ことが注意を引く︒これは︑フィリア論が﹃ニコマコス倫理学﹄の結論のために︑最重要の役割を果たしていたということを示唆する︒かつ︑フィリア論内部の当該論点の提出は︑人柄にかかわる徳の 000000000学びの質に連動して﹁各人と理性との同一性﹂が意義をがらりと変える 0000000000という論点を含む︒抑制のない﹁意志の弱い人﹂ならば︑本人が﹁理性と一致﹂しているという主張ないし記述を︑言い方としては 0000000認めたとしても︑実態上はあまりに重大な反例を含んでしまうと言うしかない︒まして︑はっきりと悪や反社会性への傾向を持つ﹁放埒な人間﹂や﹁不正な人間﹂となれば︑当人 00
がその類型に属するというその事実において 00000000000000000000﹁理性との一致﹂に明白に足りないがゆえに︑ここでは通用する言い回しにおいてさえ 00000000000000︑﹁反理性﹂ないし﹁没理性﹂の生活を送っているとするのが︑正確であると思われている︒もしこのポイントが第十巻第七章の﹁観想の優位﹂の論点をも背後から支えていたのであれば︑解釈者たちが一致して自明視してきた﹁包括説﹂と﹁優越説﹂の単純な対立という構図は︑もともと大 00000
きな見落としの上に描かれたもの 000000000000000ということになる︒なぜなら︑第九巻の議論が正しく︑かつ既出のその議論を見据えて第十巻第七章が執筆されたとするなら︑幼少の頃から人柄にかかわる徳の学びに熱心であり︑それだけでなく学びの結果大きな成果をも挙げることは︑﹁人間並みの﹂事実や﹁死すべきものとして可能な﹂いわば二級品的な完成といった評価がふさわしいものでは︑ないことになる
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について九 からである︒そのような学びを経ない 000ならば︑理性と自己の一致という事態は︑十全な意味では語りえない 00000ということが明らかに主張されていた︒かりに 000その学びと達成だけのこと 00000なら人間並みもしくは死すべきものとしての優秀性であるにせよ 000000︑このような勇気や節制や正義の学びを経た者のみ 00が︑より高次な︑観想に根ざし神に似た完成への﹁厳しい予選﹂を通過したという解釈が︑第十巻第七章への応用を考えたときの第九巻第四章と第八章には自然である︒注意すべきはこの論点が︑解釈パターンとして﹁包括説﹂と﹁優越説﹂の対立を最初に是認しておいて︑その後その是認の上で︑今は支持されない包括説を復活させようという意味の主張ではない 00ということである︒私見では︑むしろこれは︑そのような対立自体が 00000
無効である 00000という主張につながらなければならない点である︒パカラックやほかの解釈者が︑解釈対立とこれまでの解釈論争の深層における無効をいう︑この態度に向かわないのは︑﹃ニコマコス倫理学﹄全巻のマクロな議論構成にかんする︑昔から広く承認されてきた前提によることであるように思われる︒例として︑パカラック自身が二〇〇五年の﹃入門﹄で示す構成の図式を示せば︑つぎのようなものである ︶14
︵︒
人間生活の究極目的 探究の規準と領域
(
第一巻第一〜十二章)
諸徳と︑徳の特徴的行為 徳の起源︑定義︑分類︵第一巻第十三章︑第二巻︶ 徳と行為のあいだに成り立つ関係︵第三巻第一〜五章︶ もろもろの徳︵第三巻第六章〜第六巻第十三章︶ A 人柄にかかわる諸徳 勇気︑節制・・・正義︵第三巻第六章〜第五巻第十一章︶ B 思考にかかわる諸徳 論証知︑技術︑思慮深さ︑直観︑知恵・・︵第六巻第一〜十一章︶脇道の話題︵
Side Topics
︶ 自己統御と自己統御のなさ︵第七巻第一〜十章︶ 肉体的快楽︵第七巻第十一〜十四章︶ フィリア・友愛︵第八巻第一章〜第九巻第十二章︶ 快楽一般︵第十巻第一〜五章︶幸福再考︵第十巻第六〜八章︶
この図ではフィリア論はあくまで﹁脇道﹂の議論のひとつであって︑この議論整理からは︑本線に属する第十巻第七章の議論に本質的影響を与えるとは考え得ないことになる︒そしてこのような前提はパカラックだけでなく︑有力解釈者が暗黙裡に一致してとっているものである︒わたしは︑この点で異なる意見を持っている︒私見では︑フィリア論は倫理学の﹁脇道﹂や﹁横道﹂などではなく︑堂々たるメインストリートの重要コーナーである︒そこで節を改め︑こ
渡辺 邦夫一〇 の点を次節で説明して︑従来の解釈とそもそも明確に異なる立脚点を探ることにする︒その立脚点に立つとき︑そしてそのときはじめて︑われわれは﹁包括説﹂対﹁優越説﹂の対立を描くスケッチ自体が︑いかに非アリストテレス的な前提 000000000000を内蔵していたかを見抜くことができると思う︒
二 第一巻と第十巻の精確な対応関係と、
フィリア論の第十巻観想論への関連性
アリストテレス倫理学書の議論の分節と大きな流れを新鮮な視点から追うということは︑大きな仮説を立てるということである︒ただしわたしは︑通用している構成仮説の一定部分には︑もちろん賛成している︒そこで︑従来の説明では不十分であると考える一部の点を︑従来どおりでよいと思われる多くの点から分け︑異説を出す部分に集中して︑議論を進める︒第一に︑﹃ニコマコス倫理学﹄冒頭の第一巻第一〜十二章において︑幸福のはじめの議論が﹁目的﹂﹁究極目的﹂をキーワードになされたとき︑ここの議論と︑同書最終議論の第十巻第六〜八章の議論が同水準の議論になっていることは︑明らかであるように思われる︒これは︑パカラックの話の出発点の位置を占めていたことだが︑われわれもここから出発しよう︒ただしパカラックは︑﹁セレクションとコレクションの問題﹂にかんし︑ ① 第一巻第七章では︑セレクションかコレクションかは未決の問題であった︒② これに対し第十巻第六〜八章︑ことに第七章でセレクションに決定ということが︑何の実質的議論も伴わずにいきなり宣言されてしまった︒
ということを︑重大な解釈問題であると考えていた︒わたしは︑①に味方するテキスト上の証拠は存在しないと思う︒つまりアリストテレスは︑﹁セレクション﹂の側の主張に属する︑複数の徳に基づく活動がある場合に最善でもっとも完全な活動を挙げるということしか予告していない︒複数の徳が協力しあう︑集積するという﹁コレクション﹂のメッセージがここで語られているということはないと考える確認するなら︑第一巻第七章の人間的善もしくは幸福の定義において︑
・・・このようだとしてみよう︒︹そしてわれわれは人間の働きを或る種の生と定め︑それを︑分別を伴った魂の活動および行為と定めているので︑これらを︹みな︺美しく立派に為し遂げることはすぐれた人に属し︑それぞれがなにかを立派に為し遂げることはその固有の卓越性に基づいてのことであるとしてみよう︒
―
もし以上のようだとすると︺人間にとっての善とは︑徳に基づく魂の活動となる︒そして 000︑もし徳が二つ以上だとしたら 0000000000000︑アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について一一 もっとも善く 000000︑かつもっとも完全な徳に基づく魂の活動が人間に 0000000000000000000000
とっての善となる 00000000︒ただしさらに︑︿完全な生において﹀という条件も付け加えなければならない︒というのも︑一羽のツバメが春をもたらすのではないし︑一日で春になるのでもないように︑一日や僅かな時間が至福や幸福をつくり出すのではないからである︒︵
I 7, 1 168a12-20
︶というように徳の単数・複数に応じて︑複数の徳の時にはなかでベストの徳の活動を挙げるという考察の手順が予告されていたのである︒そして︑徳は
(
当然ながら)
複数であるがゆえに︑アリストテレスは︑最終第十巻第六章ではじめの幸福論に戻るに当たり 00000000000000︑その前の快楽論の﹁あとがき﹂にあたる第五章末尾の それゆえ︑完全であり至福である人の活動がひとつであるにせ 00000000000000000000000よ 0︑あるいは複数であるにせよ 000000000000︑その活動を 00000完成する快楽こそ︑真正な意味で人間の快楽であると言えるだろう︒一方︑それ以外の快楽は︑活動もそうであるように︑二次的な意味で︑またはるかに劣った仕方で︑人間の快楽であると言われる︒︵
X 5, 1176a26-29
︶において︑この帰還を予告していた︒そして︑この前章の予告を受け︑﹁幸福の感じ﹂としての快楽という徴候 00から︑幸福の中身とな る︵諸︶活動本体 00へという自然な議論の流れにおいて︑第六章冒頭部分では︑
以上でわれわれは︑徳と愛と快楽にかんする事柄を語ったことになる︒したがって残る課題は︑幸福にかんする概略を詳しく論じることである︒なぜなら︑われわれは幸福を︑人間が営むもろもろの事柄の目的と定めているからである︒︵
X 6, 1 176a30-32
︶というように︑第一巻の幸福論で残った﹁宿題﹂にいよいよ取り組むことを宣言していると思われる︒この点は︑第六章のここに続く論述からも︑また﹁それ自体で選ばれる活動﹂という第一巻の幸福定義の基調が﹁自足性﹂条件とともに再現され︵
1176a35-b7
︶︑活動が﹁徳に基づくもの﹂であるという第一巻第七章の定義の文面そのものが再度登場すること︵b7 -8
︶からも明らかである︒そうであるなら︑前節末尾に掲げたパカラックの﹃ニコマコス倫理学﹄構成図式中︑﹁快楽論一般︵第十巻第一〜五章︶﹂は︑ただの﹁脇道の議論﹂というよりは本線の議論に本質的貢献をするものとして評価し直さなければならない︒ことは︑快楽論の位置づけだけの問題でもない︒﹁徳と愛と 00快楽にかんする事柄︵tōn peri tas ar etas te kai philias kai hēdonas
︶﹂︵a30-31
︶という言い方がここでなされていることが︑まず注意を引く︒この文脈指示表現は︑第十巻第一〜五章の快楽論のみならず︑第八・九巻のフィリア論もまた︑徳論全体と並んで︑第一巻と渡辺 邦夫一二 第十巻第六〜八章でおこなわれる幸福論の本体部分に貢献する重要な議論であり︑けっして脇道の議論とはみなされていなかったことを示唆する︒以後の第十巻第六章の議論においては︑この﹁徳﹂の活動ないしまじめさ・真剣さの活動が遊びや休息と対比されて幸福だとする弁証的議論が構成され︵
b9-1 177a1 1
︶︑これがつぎの第七章の︑パカラックによって問題的とみなされる観想礼賛の議論に結びつく︒その第十巻第七章冒頭では︑第一巻第七章の先に引用した箇所が明らかに意識されており︑第一巻第七章の﹁もっとも善く︑かつもっとも完全な徳に基づく︵kata tēn aristēn kai teleiotatēn
︶活動﹂︵1098a17-18
︶が︑ほぼ同義の﹁最高の徳に基づく︵kata tēn kratistēn
︶活動﹂︵1177a12-13
︶で置き換えられ︑これが︑神の称号ともいえる﹁もっとも善きもの︵ho aristos
︶﹂のアレテー・徳︵卓越性︶であるとされる︒﹁もし幸福が徳に基づく活動であるなら︑最高の徳に基づく活動であることが理にかなっている︒そして︑その最高の徳とは︑もっとも善きもの 00000000の徳であろう﹂︒第十巻で新しいのは︑ここで導入される﹁もっとも善きもの﹂というアレテーの 00000担い手 000のほうから︑そのような担い手に固有の 000﹁働きの良さ﹂・アレテーとして最善・最高の徳をみるという視角である︒その﹁もっとも善きもの﹂とは︑
① 本来は︑神の 00全体的性格を示しつつ︑② 質料のない形相のみの神とは︑経験の始まりと手持ちの資源 をまったく異にする形相質料具備の人間 000000000にも内在することが現実に可能であり︑しかし︑同時にたんにそのような薄い可能性だけのことでもなく︑③ その﹁善きもの﹂の人間における内在を︑正確には︑これ以外の要因の内在に劣らず︑人間本性 00の問題として把握しうる
ということが︑先に前節で引用した︑第七章末尾
1177b24-1 178a8
の議論の趣旨である︒ここに﹁理性が 0自己である 000﹂﹁主宰的な部分が 0自己である 000﹂という主張の参照先として︑フィリア論が関連性を持つ︒そのフィリア論の︑前節で引用した二箇所の論述︵IX 4, 1166a13-23; IX 8, 1168b15-1 169b2
︶は︑人柄にかかわる徳の 000000000或る程度十全な修得︵不徳の人間などはむろん問題外であり︑それよりはましな習性的に﹁意志の弱い﹂人間でさえ︑事実上は﹁予選落ち﹂するような水準の修得︶を条件とする意味で︑第一巻第十三章〜第五巻と︑第六巻のうちの思慮深さ︵phr onēsis
︶関係の議論全体を前提としている︒ゆえに︑先のパカラックの構成図に代えて︑人間生活の究極目的 探究の規準と領域
(
第一巻第一〜十二章)
幸福論の結論に直接結びつく考察 ① 徳論︵第一巻第十三章〜第六巻第十三章︶ ② フィリア・友愛︵第八巻第一章〜第九巻第十二章︶
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について一三 ③ 快楽一般︵第十巻第一〜五章︶幸福再考︵第十巻第六〜八章︶
︵脇道の議論?︶ 第七巻
というようにかりの模式図を描くことが適切であると思われる︒﹁徳﹂︑﹁愛﹂︑﹁快楽﹂の三題話が幸福論の結論を用意する三つの議論であるということは︑アリストテレス哲学内部からも︑かれの哲学の枠組を離れても理解が難しい話ではない︒まず︑︵1︶徳の議論からただちに幸福の議論へという﹁本線の議論﹂を申し立てるパカラック流の構成図式には︑主題群の内容からいって直観的反論があり得る︒徳とその学びの議論は︑﹁一個人の修養の話﹂としておこなわれる︒しかし幸福は︑現実に︵さまざまな度合と種類の︶親しい人間をもち︑各個人の人称的な関係の世界︑今日の言葉でいえば個を成り立たせる親密性の領域を問題とする関心のもとで︑正式の十全な議論ができるものであろう︒アリストテレスも幸福の条件としての自足性の論点を第一巻第七章で説明するさい︑人間がポリス的であるということは正しい自足性の成分として考えられるべきであるという当然の主張をおこなっていた︵
1097b8-16
︶︒むろん︑このようなアリストテレス式の議論展開は︑結局︑そのように人称性と対人関係の話が倫理学講義の最後に近いところに位置しても大丈夫なように︑そのような関係を十全なものにする基礎自体 が︑成熟に至る個人レベルの人柄にかかわる徳の 00地道な修養であるという論点によって︑十分正当化される︒しかしながら︑以上のことは︑垂直方向に個の質が絶対的に向上する﹁徳の話﹂が︑全体として︑対人関係の水平軸を形成するフィリアの話に流れ込むよう 0000000000000にと 00配置されていたであろうということ︑そして︑愛という主題の議論の完結という事態のもとで︑そしてそこではじめて︑もともとの第一章の問題に帰って日常的な﹁幸福談義﹂とアリストテレスの﹁学問﹂とが正規に対話できる 00000ことが保障されたということを示唆している︒つぎに︑︵2︶﹃ニコマコス倫理学﹄自体 00の文脈の問題として︑第八・九巻の愛の議論と︑第十巻の快楽および幸福の議論とのあいだの関係は︑愛の議論が最後に﹁宿題﹂として残す問題に︑快楽論と観想論の第十巻の議論全体が答えるというものであったと考えられる︒なぜなら︑愛の議論の最終章である第九巻第十二章には︑人間が共生をおこなうような存在者として目指すべき︑﹁成熟した人間同士の共同的活動﹂の内容としての﹁どのような 00000共同活動が幸福を約束するか?﹂という問いが残されていると読めるからである︒短い第十二章全体を訳出すると︑つぎのようになる︒
恋する人々において︑相手を眺めることがもっとも恋しいことであり︑この知覚により恋︵
erōs
︶が存在することと生まれつつあることがもっともよく感じ取られるがゆえに︑かれらはほかの諸感覚よりもいっそう好んでこの[
視覚という]
感覚を選ぶが︑こ渡辺 邦夫一四 れと同様に友人たち︵
philoi
︶にとっても︑共生することがもっとも望ましいのだろうか? なぜなら愛︵philia
︶は﹁共同﹂であり︑自己に対するように友人にも対しているのである︒しかるに︑自己をめぐって︑自己が存在することの知覚は望ましいので︑ゆえに友人をめぐってもそうなのである︒しかるに︑この知覚の現実態︵ener geia
︶は︑共生において生じる︒ゆえに︑これを目指すことはもっともなことである︒そして︑それぞれの人々 0000000にとって 0000︑存在することがいったい何かというような 0000000000000000000︑もしく 000
は 0︑その人々がそれのために生きることを選ぶような 0000000000000000000000︑そういっ 0000
た 0もののうちでそれぞれの人々は 00000000000000︑友人とともに過ごすことを選 0000000000000
ぶ 0のである︒そのゆえに或る人々は﹁ともに飲み﹂︑或る人々は﹁ともに賭け﹂︑またほかの人々は﹁ともに体操し﹂たり︑﹁ともに狩猟し﹂たり︑﹁ともに哲学し﹂たりする︒それぞれの人々は︑人の生に属するものごとのなかで︑もっとも愛好するものにおいて日を過ごすわけである︒なぜなら︑友人たちと共生することを願い︑これらのことをおこなって︑共生したい相手と交際するからである︒それゆえ︑劣悪な人々との愛は悪いものになるが︵なぜなら︑劣悪な人々と交わるときに人は﹁不確かな﹂人間であり︑かつお互いに似ることにより︑悪い者になるからである︶︑すぐれた人々との愛は︑交際によりともに成長を遂げて︑すぐれたものになる︒また︑人々は現実活動をおこない︑お互いに矯正しあうことにより︑よりよい者になるように思われる︒なぜなら︑好む相手であるお互いを﹁模範とする﹂からである︒ここか ら﹁尊いことは貴人から﹂ともいう︒ 愛については︑このかぎりで語られたこととしよう︒快楽について論じることが︑これに続くことであろう︒︵
IX 12, 1171b29- 1172a15
︶ここで﹁人は大人になって︑自分と似た親しい人々とともにそれ以後の人生ずっと︑何をするか?﹂という問いが理解されており︑これに応じてほかの動物を超えたそのような人間としての﹁生の選び﹂が例示的に話題となっている︒これは具体的で個人的で日常的 000
な 0問いであり︑第一巻におけるアリストテレスが︑第四章で幸福を快楽や名誉や徳そのものと分け︑徳からの接近を絶対的人生戦略として第七・八章で推奨し︑降りかかる偶運に対してもこの戦略のほうがただ結果を求める世俗の軽はずみな﹁戦略﹂と全然違うまっとうな道であると第九〜十一章で論じたレベルの︑もろもろの﹁生きる上での素朴な疑問﹂の地点に︑戻ってきたということである︒アリストテレスによれば︑人間の場合の 000000共生は﹁同じところで餌を食べることではない﹂︵
IX 9, 1170b13-14
︶のであり︑互いに言葉も考えも共有しながら︵b1 1-12
︶︑意味 00があるとともに参加者がその意味を意識できる 00000重要な活 エネルゲイア動を︑あいだに介在させるような﹁共生﹂でなければならない︒受講者との関係では︑このフィリア論最終章の議論は︑日常的 000な 0﹁諸君は今後 00︑どのような活動を共有する︑いかなる人間関係において﹁人生の自己実現﹂を図り︑自身の幸福を目指すか?﹂
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について一五 という問いをつきつけるもの 0000000000と言いうる︒この問いが登場することにより︑第十巻の考察全体も︑そのなかでもことに第六〜八章における︑﹁幸福を約束するような︑成熟した人間としての活動は何か?﹂という︑同次元で実質的に同内容の日常的な問いも︑考察の視野にただちに入ってきたのだと︑わたしには思われる︒そして︑これらの問い自体が明らかに︑方向としてそのような特権的活動の﹁セレクション﹂を志向している︒しかしながら︑このことと同時に︑第九巻第十二章のこの問いに至ったアリストテレスのフィリア論内部の長大な議論自体は︑そのような﹁だれでもその考察に十全に参画できる﹂日常的な次元そのものではない 00ことに︑注意が必要である︒引用した第十二章の総括的文章は︑たとえば第九巻第九章における人間の﹁存在﹂とその感知にかんする︑倫理学的考察中でももっとも難解な議論の成果︵
esp . 1 17 0a 13 ff.
︶を含んでいる︒すなわち︑第九章によれば︑自己のすぐれた活動の知覚が存在の知覚と存在のよろこびをもたらすものとして人生に必要だが︑自己が自己自身を知覚することは実際には困難であり︑より容易な自己に似た隣人の活動の知覚を持ち︑それをよろこぶことが人間の幸福には必要だ︑というのである ︶15︵︒これらは﹃デ・アニマ﹄第三巻の共通感覚論や理性論︑あるいは﹃形而上学﹄中心巻のエネルゲイア論に連なる理論哲学の理解をも要求する程度の超高難度の議論である︒また︑そのような議論が︑完全に確定した結論をすでに持っていて今後の検討の余地がないものとアリストテレスがみなしていた︑というように考える必要はないと思われる︒自然︵本性︶一般の理論の 観点を踏まえるときの人間の認知や存在の実情にかんし︑だれがどの角度から検討を加えても動かない基本線を自分は押さえたと思うが︑その検討自体はあくまで将来の各世代の最高の頭脳が競っておこなってゆくオープンなものだ︑と考えていたのではないかとわたしは推測する︒
三 「セレクションとコレクションの問題」への
暫定的回答
フィリア論最終部分を瞥見した以上の材料から︑わたしはつぎのような仮説を立て︑その妥当性を次節で︑より以前の徳論にかんして論じたい︒すなわち︑
︵一︶︵脇道と解される一部の例外を除く︶第一巻第十三章〜第九巻第十一章でアリストテレスは︑一見 00日常的にみえる分類や議論の順番に工夫を凝らし︑読み手や聞き手が﹁自分のことを徹底的に考える﹂ための最短で最高の考察を用意した︒この人工的な﹁探究﹂の議論空間において︑考察の方向性は各種の﹁徳﹂を種類分けし︑適切な種類ごとに規定し︑かつ前半の人生においてそれらの高度な統合的集積が実現しているべきだと示すというものである︒パカラックの用語で言えば﹁コレクション﹂がこの方向を一言で言い表している︒しかし︑かれのこの用語は﹁セレクション﹂と完全に並列されるという一点において︑﹁コレクション﹂以前に予備的になされ 0000000000