一昆明の一国営工場について一
石 島 紀 之
となり,第二位が機械工業の21%,第三位が紡績 1937年7月にはじまった中国の全面的な抗日戦 工業の15%と、重化学工業が優位を占めるように 争は,中国の工業史においても大きな転換点となっ なったω。
た。第一に,従来の中国の近代的な工業は沿海・ こうして抗日戦争時期は,中国の工業史上,と 沿江地域に集中していたが,抗日戦争の時期には, くに内陸の工業発展において画期的な時代であっ 西南・西北ωが新たな工業の中心地となった。そ たが,従来,工業の基盤のなかった内陸において れはいうまでもなく,日本軍が沿海・沿江地域を の,また戦時下という悪条件のもとでの工業建設 占領し,国民政府が重慶など内陸(奥地)を抗戦 は、多くの困難な問題をともなわざるをえなかっ の根拠地としたからである。第二に,従来の中国 た。それは資本と機械の不足,原料の不足と高騰 の工業は軽工業を軸にしていたが,抗日戦争の勃 などのさまざまな面にあらわれたが,技術者と労 発は重化学工業中心に転換する契機となった。そ 働者の確保および育成もきわめて深刻な問題であっ れは日本軍の封鎖により,中国が戦争に必要な重 た。技師および熟練労働者の絶対的不足,内陸で 化学工業製品を自前で生産しなければならなくなっ の労働者の募集の問題,沿海・沿江地域から移住 たからである。 してきた労働者と内陸出身の労働者との矛盾など
第一の点についていえば,西北地区より工業が がそれである。
発達していた西南地区においても,戦前,国民政 抗日戦争時期の内陸の工業労働者に関しては,
府の登記基準をみたす工場は237で,全国の6% 雲南省昆明に設立された経済部資源委員会所属の にすぎず,資本額にいたっては1%以下,労働者 国営工場=中央電工器材工場(以下,中電工場と の数は4%にすぎなかった(2)。しかし抗日戦争勃 略す)について,1940年に雲南大学社会学系(学 発後,沿海・沿江地域から内陸に移転した工場・ 部)の史国衡がおこなった調査がある。かれはこ 鉱山は約600,技師・労働者は12,000余人をかそ の国営工場の第3工場で同年8月25日から11月10 え,さらに新設の私営工場も増加して,1942年に 日まで調査をおこない,報告書を作成した。約2 は,後方の各種私営工場は3,082にたっした。国 カ月半の間,労働者宿舎に泊まりこんで調査し作 民政府は抗戦の需要をみたすため,国営・省営企 成されたこの報告書は,当該時期の中国の労働者 業の建設にも積極的にとりくんだ。こうして西南 の実態を知るうえできわめて貴重な史料である(5)。
地区についていえば,1942年の経済部の統計によ そこで本稿では,この報告書のなかから労働者の ると,工場数は2,167,労働者は147,257人と飛 構成と労働条件の部分をとりあげて,その大要を 躍的な増加をみせている(3)。 紹介するとともに,労働者の問題をとおして,当
第二の工業の構成に関しては,戦前は内陸の工 該時期の内陸の近代工業のかかえた問題点を検討 業の大部分は軽工業であったが,1942年には西南 してみることにする(6)。
小工は技工の助手であり,工場内の雑役を担当した。1,労働者の構成
このように労働者は3等級に区分されていたけれど 第3工場の労働者数は,調査時点で144人であった。 も,実質的には,労働者は熟練工(技工)と不熟 その内部構成は,工場側の規定では技工(技術労働 練工(幣工と小工)の2階層に区別されていた(7)。
者)・蓄工(半技術労働者)・小工(見習い工)に区 労働者の出身地についてみれば,技工の原籍は 分されており,調査時点ではそれぞれ63人,40人,41 大多数が外省(雲南省外の諸省)で,しかも約 人であった。このうち蓄工は工場内での6カ月の実習 2/3は江蘇・漸江両省が占め,雲南省はわずか3
をへたのち,3等技工に昇格できることになっていた。 人であった(表1)。
表1 労働者の原籍
省別と県市別の人数
技 工 蕎 工
江 蘇 省 23 雲 南 省 31 無錫8,上海5,常州3,浦東1,鎮江1, 昆明8,楚雄3,宣威3,大理2,宜良2,
江陰1,揚州1,南京1,呉江1,宝山1 陸良2,嵩明2,路南1,易門1,安寧1,
蒙自1,呈貢1,武定ユ,禄豊1,眺安1,
漸 江 省 17 J波6,紹興4,杭州3,定海2,
弥勒1 絵杭1,
奉化1 四 川 省 6
遂寧2,重慶1,叙府1,銅梁1,安岳1 湖 北 省 8
ソ陽6,黄肢1,沙市1 貴 州 省 貴 陽 1 湖 北 省 宜 昌 1 湖 南 省 4
長沙3,湘潭1 湖 南 省 常 徳 1 広 東 省 4 計 40 三水1,中山1,広州1,開平1 小 工
雲 南 省 3 雲 南 省 33 宣威1,河西1,江川1 富民ユ2,元謀6,玉渓3,尋旬2,禄豊2,
安 徴 省 蕪 湖 1 易門1,宜良1,呈貢1,宣威1,嵩明1,
崇閧P,晋寧1,開化1 河 北 省 保 定 1
四 川 省 4 河 南 省 輩 県 1 安岳3,重慶1
四 川 省 成 都 1 西 康 省 西 昌 2 計 63 湖 北 省 漢 口 1
漸 江 省 奉 賢 1 計 41
[出典] 『中国語版』10〜ll頁。『草稿』9〜10頁。「英語版』P.6.
また中電工場に就職する前の技工の居住地は, 明付近の諸県であった。
上海が約半数を占め,その他はほとんどが沿海・ このように労働者の出身地は,熟練工と不熟練 沿江の都市であった(表2)。なお,昆明の3人は 工との間に明確な相違があった。この地域の区別 他の工場からの転職者と考えられる。他方,幣工 は,同時に労働者の技術水準と工場内の身分をあ と小工の原籍の約80%は雲南省であり、その他も らわしていた。労働者たちはこの区別に非常に敏 多くは四川など西南地区であった。かれらは同郷 感であり,これが両者の間に差別・被差別意識を 意識によってつよくむすばれていた。工場就職前 生む原因の一つとなった(8)。
の居住地は,昆明が約2/3をかぞえ,その他も昆
表2 中電工場就職前の労働者の居住地 省別と県市別の人数
技 工 幣 工
江 蘇 省 39 雲 南 省 39 上海30,無錫4,南京4,常州1 昆明32,安寧1,楚雄1,嵩明1,宜良1,
宣威1,武定1,一平浪1 漸 江 省 4
杭州2,紹興1,寧波1 四 川 省 叙 府 1 湖 北 省 4 計 40 漢口3,沙市1
小 工 湖 南 省 4
キ沙3,株州1 雲 南 省 41 ゥ明21,富民12,元謀2,易門1,晋寧1,
雲 南 省 昆 明 3 宣威1,蒙自1,下関1,箇旧1
安 徴 者 蕪 湖 2 計 41 河 南 省 2
輩県1,南陽1
広 東 省 広 州 2 香 港 2
四 川 省 成 都 1 計 63
[出典] 『中国語版』ll〜12頁。『草稿』ll頁。『英語版」P.7
(1)熟練工 されてしまったのである(9)。
次に中電工場の熟練工の就職の経緯をみてみよ 内陸の工場が熟練工を手に入れる方法は他にも う。1937年8月に上海で戦争が勃発して以後,多 存在した。国民政府統治区に自発的に避難してき くの労働者は戦地から避難し,少なからぬ工場も た労働者や,他の工場といっしょに撤退してきた,
熟練工をともなって内陸に移転した。これが沿海 あるいは他の工場が外部からまねいた労働者がそ 地区の労働者の内陸への移動の第一波であった。 の対象であった。しかし内陸の工業では,普遍的 しかし日本が占領地の支配を強化して以後,内陸 に熟練工が不足していたから,各工場がたがいに への大量の人口移動は停止し,残された方法は上 他の工場からの引抜きをおこなえば,最後には賃 海から香港・ハイフォンにいたる海上ルートの利 金の高騰によって共倒れになる危険性があった。
用となった。このルートを用いての内陸への移動 そこで上海からの労働者募集がまだ可能であった 費用は労働者個人が負担できるものではなく,内 時期に,内陸の各工場は熟練工の争奪を禁止する 陸の工場が旅費の支給と通行の手続きを担当した。 取り決めを内々にむすんだ。また外部から募集し 中電工場の場合には,上海に特別の労働者募集 た労働者とは2年の雇用契約をむすび,満期前に 機構をもうけ,これをつうじて労働者を内陸にお 工場をやめた場合には,労働者の募集に要した全
くった。しかし日本と偲儲政権に包囲されていた 費用を賠償させることにしていた。しかし外部と 上海租界では,同企業の名義で公然と募集するこ の交通がとだえ,熟練工が絶対的に不足するよう
とはできず,関係する個人や団体の紹介に依存す になると,雇用契約も工場間の了解も雲散霧消し,
るしかなかった。そのため供給源には制限があり, 各工場は賃金をあげることによって,労働者を引 いきおい労働者の水準は低くなった。一人の熟 き止めるしか術がなくなった⑩。
練工を上海から昆明までおくるためのコストは, 第3工場についていえば,63人の技工のうち同 1939年下半期から40年上半期までは平均400元で 工場が上海から直接誘致した労働者は17人,同工 あったが,日本軍の仏印進駐によって演越鉄道が 場にしたがって内遷したものは5人,総計で22人 利用できなくなり,コストはさらにあがった。そ (35%)にすぎず,それ以外は他の工場からの転 の結果,熟練工の内遷はいっそう困難になり,つ 職か,自発的に占領地から撤退してきたものであっ いには沿海地域からの労働者の募集活動は停止 た(表3)。
表3 技工の内遷と中電工場への就職の方式
内 遷 の 方 式 人数 就 職 の 方 式 人数
中電工場が直接上海から招致 17 上海で募集 17
戦地より他の工場に従って内遷 17 個別的な現地での紹介 8
重慶で募集 6
桂林で募集 3
占領地区より自発的に撤退 10 個別的な現地での紹介 10
元来,後方にいて遂時内遷 8 個別的な現地での紹介 8
中電工場に従って内遷 5 工場設立前に工場と関係が発生 5
西南地区が原籍 4 個別的な現地での紹介 4
他工場が直接上海から招致 1 個別的な現地での紹介 1
南洋から帰国して就職 1 個別的な現地での紹介 1
計 63 計 63
[出典] 『中国語版』23〜24頁。
技工の教育水準は、29歳以下ではかなり高く, 年に六三制の新学制が実施されている。国民政府 表4のように,第3工場では,文盲は一人しかお 時代には教育の普及はさらに進展し,1930年には
らず,中学校を卒業したものが9人もいた。これ 小学生数は1000万人をこえ,中学生数は50万人 にたいし30歳以上の技工では文盲が11人もあり, にたっした。(12)したがって沿海の大中都市におい 中学校卒業者は一人もいなかったω。この教育水 ては,青少年の間で教育がかなりの程度普及して 準の問題は,国民政府時代の労働者の質を考える いたと考えられ,それは労働者の質を大きく向上
うえで重要である。当時,29歳の人が小学校を卒 させていたのである。
業したのは1923年ころであるが,中国ではその前
表4 技工の婚姻状況と教育水準
未 婚 既 婚
年 令 中学校
イ 業 小学校イ 業 文 盲 小 計 イ 業中学校
小学校
イ 業 文 盲 小 計
総 計
15〜ユ9歳 1 1 1 1 2
20〜24歳 12 12 2 4 6 18
25〜29歳 5 1 6 1 6 1 8 14
30〜34歳 13 3 16 16
35〜39歳 3 4 7 7
40〜44歳 2 1 3 3
45〜49歳 3 3 3
合 計 6 13 0 19 3 29 12 44 63
[出典] 『中国語版』29頁。『英語版』P.30.
②不熟練工 でなんらかの職業についたあと,工場にきたもの すでにみたように,不熟練工の原籍の約80%は が大多数であった。かれらは工場にくる前に,す 雲南省であり,しかも昆明市周辺の交通が比較的 でに昆明に住んでいたのである(13)。
便利な県の出身者であった。かれらの元の職業は, 次に不熟練工が工場に入った動機についてみる 40人の幣工の場合,末就業(学校の生徒)が15人 と,兵役忌避が56%と過半数を占め,経済的動機
(38%),農民が9人(23%),手芸職人と警官が が20%,社会的地位を求めたものと社会的紛糾に 各5人(各13%),商人が4人(10%),無職が2 よるものが各12%とつづいている。農民の場合は,
人(5%)であり,41人の小工の場合,農民が19 89%が兵役忌避を動機としていた(表5)。
人(46%),未就業と手芸職人が各6人(各15%), まず兵役忌避i者についていえば,かれらの大部 商人が5人(12%),無職が3人(7%)であっ 分にとっては工場は一時の避難所であった。たと た。農民の比率は,討工と小工をあわせると35% えば農民といっても、その大多数は富農か小地主 であったが,当時の内陸にあっては,農民は総人 の子弟であり,工場の賃金のほかに家からの仕送 口の80%を占めていたから,農民出身の労働者の りを受けていた。貧農の兵役忌避者で工場につと 比率はかなり低かったのである。しかも農民のな めるものが少ないのは,かれらが高値で労力を売 かで直接,工場に就職したものは,幕工と小工と れる仕事,すなわち運搬・土木・開墾などの仕事 をあわせてもわずか6人(7%)にすぎず,中途 を求めたからであると史国衡は分析している。
表5 内陸の労働者の工場就職の動機 減少させた結果,農業労働者の賃金も相対的に上
昇したのであった(16)。
元の職業をやめた動機([]内は元の職業) まずしい農民出身の労働者が少なかった理由と 兵 役 忌 避 45人 して,さらに当時の雲南省の農村の後進性をあげ
[農民25,未就職(生徒)12,商人3,無職3, る必要がある。中電工場の調査と同時期に,雲南
手芸職人2] 大学の社会学系では費孝通を中心に雲南省の農村
経済的動機 16人 の実態調査をおこなっている。その報告書が記し
[警官5,手芸職人5,農民3,未就業2,
ク業ユ]
ている典型的な内陸の農村の姿は,商業と工業が
「発達で,主要な産業は農業であり,村民は小地 蛯ゥ土地をもたぬ農業労働者のどちらかであった。
社会的地位の向上 10人 「農民の生活の特徴は,比較的肥沃な土地とつよ
[末就業6,無職2,公務員1,手芸職人1] い人口の圧力のもとで伝統的な農業技術を用いて 社会的紛糾 10人 いることである」。村民の過半は土地をもたない
[商人6,手芸職人3,未就業1] か,わずかしか土地をもっていなかった。しかし 商工業がふるわず,都市にも遠いという条件のも
[出典]「中国語版』41〜42頁。『英語版』P.38. とで,かれらはなお土地にしばりつけられており,
離村して都市にでる契機がなかった。一方,都市 こうした兵役忌避者は労働者になるために工場に 近郊の農村では,商業の発達は雇用の機会を増大 入ったのではないので,技術・訓練を受け入れに させるとともに,土地所有の集中を促進させ,貧
くく,兵役という外部の圧力が去れば,工場を離 富の差が拡大した。地主は都市に住み,一般の村 れて家にもどる可能性が大であったω。 民は小作人になった。費孝通らの調査の対象となっ 社会的地位を求めていたものが中電工場に就職 た玉渓市近郊の玉村では,すでに不在地主制の端 したのは,国立工場の労働者は政府機関の公務員 緒形態があらわれていた。玉村では,離村して都 に相当し権力者の後盾がえられると,かれらが誤 市にでる貧農が少なからず存在したが,多くの農 解したからである。しかし不熟練工が技工に,さ 民は農村に滞留し,一握りの大地主の小作農に転
らに中上級の職員や技師に昇進する機会はほとん 化していった( 7)。
どなかったから,かれらは別の仕事をさがすか, 1910年代以降,沿海・沿江地域の農村では,農 つよい不満をいだいて日々をすごすしかなかった。 村経済の崩壊による農民の大量離村,都市への流 借金や法律・習俗に違反するなどの社会的紛糾が 入という現象がひろくみられた。しかし雲南など 原因で工場に就職したものにとっても,工場は兵 内陸では,1930年代においても,このような資本 役忌避者同様,一時の避難所にすぎなかった(15)。 の原蓄過程はまだあまり進展していなかった。農 結局,経済的動機で就職したわずか1/5のもの 民が新工業に容易に引きつけられないのは「一面 のほかは,内陸出身の労働者のなかで工業労働者 では,農民が土地を離れて職業上の冒険をする として定着する可能性はきわめて少なかったので ことを根本的にあまり願わないから」である(18)。
ある。その理由の一つとして,工場の賃金が農村 1940年秋に中電工場が昆明で幣工40名を公開募集 の工賃よりも高くなかったことがあげられる。と したところ,応募したのはわずか8名にすぎなかっ
くに小工の賃金は,雲南では農業労働者の賃金以 た( 9>。
下であった。田賦の実物徴収が実施される以前は,
穀物価格の高騰によって農民の実質収入は戦前よ り高くなり,さらに兵役の推進が農村の労働力を
書記になることを目指して果たさず,やむをえず2,労働者の質と労働条件
工場につとめたものは,工場での地位や仕事につ 以上にみてきたように,中電工場の労働者は, よい不満をもっていた。他方,警官・雇農・鉱山 沿海・沿江地域からきたもの(技工)と内陸出身 労働者・雑業労働者など社会的地位が低いとみな のもの(帯工・小工)との間に明確な差があり, されている職業の出身者は,比較的に現状に満足 これがかれらの労働態度や労働条件にも大きな相 し,仕事自体についても不平をいわなかった⑳。
違を生みだすことになった。そこでこの節では, 一方,技工の労働態度にも問題があった。かれ 労働者の労働態度と労働効率,および賃金と生計 らは技術について一定の基礎をもっており,帰郷 の面から,この国営工場がかかえていた問題を検 するつもりも仕事を変えるつもりもなかった。し 討することとしよう。 かしかれらは自分の技術をひけらかすことを好み,
(1)労働態度と労働効率 技術をたかめるための学習を重視せず,新しい効 中電工場の労働者の労働にたいする態度をまず 率的な仕事の方式に抵抗した。かれらはつよい誇 不熟練労働者についてみると,小工は仕事そのも りと自尊心をもっていたのである。
のに関心を示さなかった。かれらの仕事は荷物や 技工たちが以前つとめていた工場と新式の国立 機械の運搬・掃除などの雑用であり,技術を学ぶ 工場との相違も,かれらの労働態度に影響した。
機会も技工に昇進する希望もなかった。かれらは かれらは上海などの公私の諸工場から集められて 工場内で最下層の労働者だったが,「かれらの仕 きた人々であり,受けた訓練もそれぞれ異なって 事と生活にたいする希望はけっして多くなかった いた。とくに民間の小工場で働いていた労働者に ので,ごく容易に満足を感じた」と史国衡はみな とっては,大工場での労働と生活はなじみにくかっ している㈲。 た。かれらは過去に親方から学んだ技術をすべて 幣工は,小工と異なって希望をいだいて工場に 良いものとみなし,少数の労働者がたがいに接触 就職した。かれらはあらかじめ試験を受けていた しあう,自己顕示の機会の多い小工場に愛着を感 し,工場側も6ヵ月後に3等技工に昇進すること じていた。このような技工の労働態度と生活習慣 をみとめていた。かれらは工場に就職すれば,電 について,史国衡は,「外からきた技工は新式の 気製品をつくる技術を習得できると考えていた。 技術を学んではいるが,旧式の手工業の伝統から
しかしいったん仕事場に配属されると,かれらの いまだ脱却していない」と論じている㈱。
希望はたちまち失望にかわった。かれらの仕事は 以上述べたような労働者の労働態度は,当然、
簡単で無味乾燥なものであり,いかなる技術も必 作業の効率に大きな影響をおよぼした。労働者の 要としなかった。機械の装備や修理は技師や管理 効率がたいへん低いことは,職員も労働者もひと 員がおこない,かれらが手をだす余地はなかった しくみとめていた。ある労働者は中電工場での仕 のである。 事が上海の工場より2/3ほど楽であると述べていた。
幕工の失望の原因の一つは,近代的な機械工業 中電工場の労働時間は1日9時間であったが,一般 にたいする理解を欠いていたことに求められる。 にそのうち2時間は浪費されていたといわれる㈲。
かれらの望みはひととおりの技術に精通し,いず 内陸出身の労働者(不熟練工)は,仕事の内容 れ店をひらき,あるいは渡り職人になることであっ への失望と将来にたいする希望のなさのために,
た。すなわちかれらが思いえがいていたのは手工 労働意欲をもつことができなかった。さらにはじ 業のシステムであり,近代的な分業システムとは めて工場につとめた労働者にとっては,時間の観 相容れないものだったのである。 念の欠如が作業効率の向上をさまたげる原因となっ また過去の地位や身分もかれらの仕事にたいす た。中電工場では,出勤時のカード制が採用され る態度に反映した。軍官学校への入学や県政府の ており,遅刻や早退は休暇かサボリとみなされた。
幣工たちは工場側が厳格すぎると非難したが,そ 労働者が余暇をもてあまし,騒ぎをおこすことを れは一面,かれらの工場制度にたいする無理解に さけるためであり,また国営工場では任意に賃金 よるものであった四。 基準をあげられないため民間工場との競争に勝て 技工たちの労働効率の低さは,職員の親身のな ないので,やむをえず設けられた制度であった。
い態度など工場側の対応にたいする不満が原因だっ 他方,病気などによる欠勤には賃金は支給され た。工場側の対応の悪さにたいして,技工たちが ず,無断欠勤の場合には欠勤時間の2倍分の額が
とるもっとも一般的な報復手段はサボタージュで さしひかれた。その他,工場にたいする借金,単 あり,かれらは団体の力で他の労働者が仕事には 身労働者の食費,家族のある労働者の家賃・光熱 げむことを妨害した㈲。 費などは賃金支給時に控除された(29)。
こうして労働者が労働効率の向上を求めないこ このほかに労働者には米価手当が支給された。
とは普遍的な趨勢となっていた。しかし中電工場 それは賃金の増加が物価の上昇に追いつかないこ の効率は特別に低かったのではなく,むしろ国民 とと,物価が地域によって大きな差があるために,
政府統治区の国営工場のなかでは,当工場はもっ 共通の標準で支給される資源委員会傘下の企業の とも成績のよい工場の一つだったのである㈱。 賃金を補正する必要があったからである。中電工
(2)賃金 場の基本給は,1939年6月から40年7月までに技 中電工場では,実質労働時間にもとつく賃金制 工で1.8倍,需工と小工で2.1倍増加したが(3°),同 度が採用されていた。すなわち,労働者は就職時 一時期の昆明の卸売物価指数は3.1倍に上昇して
に1時間当たりの賃金率が決められ,それに1月 おり(3 ),実質賃金は大幅に低下していたのである。
の実際の労働時間をかけて,各人の当月の賃金額 米価手当は,はじめ家族が工場内にいるいないに を算出する仕組みになっていた。賃金率は技工と かかわらず同額支給されたが,のちに家族が工場 不熟練工との間には2倍以上の差があったが,常 内にいる技工には5元おおく支給されるようになっ 工と小工との間には顕著な開きはなかった㈱。 た(内陸の労働者の家族は工場内にはいなかっ
しかし同類の労働者の賃金には,個々にかなり た。)(謝
の差があった。それは中電工場には賃金に関する 賃金と手当を加えると,1940年7月の平均収入 客観的基準がなく,労働者募集の担当官や管理者 は技工でll3元,幣工と小工で70元であった。同 が状況におうじて処理し,さらに労働者自身に団 時期の昆明近郊の農業労働者の食費をのぞいた賃 体交渉の権利が与えられていなかったからである。 金は,農繁期で日給約3元,農閑期で日給約1元 とくに沿海地域で募集する場合は,担当者は労働 ないしL5元であった。一方,労働者の食費は1 者を確保するために,可能なかぎり労働者の要求 月約40元であったから,技工の月収は農繁期の農
にあわせがちであった。そのため契約した賃金率 業労働者の収入におよばず,幕工と小工の月収は が高すぎ,労働者が工場に到着したときに工場の 農閑期の農業労働者の収入と同じか、それ以下だっ 人事課は率を再調整しなければならなかった。こ たのである。これは内陸の工業が労働力を吸収す れも労働者の不満を引きおこす原因になった㈱。 ることの困難さの理由の一つであり,また工場に すでに述べたように,中電工場は1日9時間労 くる農民の動機が経済的なものでなかったことを 働制で,この規定労働時間1月分に賃金率を乗じ 示している(お)。
たものが各人の基本給であった。この他に同工場 (3)労働者の生計
では,割増賃金と奨励金の制度があった。前者は 工場の労働者の生活の実態に関しては,史国衡 1日3時間の夜間勤務を4時間半に、2週間に1 は1940年9月の支出について聞き取り調査をおこ 回の日曜出勤を2日と計算し,追加支給するもの ない,そのうち24例を三つのグループにわけて報 である。この割増賃金制度が導入された理由は, 告している。第1類は工場内に家族がいる外来の
労働者,第2類は工場に家族がいない外来の労働 けった。家族に送金しなければならない労働者の 者,第3類は4人の常工・3人の小工・1人の内 場合は,状況が大きく異なった。一部の人々は自 陸出身の技工である圃。 分の生活を犠牲にして送金し,その額は1月50元
まず第1類の労働者の生計についてみると,平 から100元におよんだ。しかしある人々は,以前 均で食費が74.1%,衣服費が5.3%,住居費が の習慣や自制心の弱さからアヘンや賭博にふけっ 2.5%,燃料費が7.1%,雑費が10.8%となってい て,送金もままならなかった㈹。
る。これを戦前の上海の労働者と比較すると,食 家族が工場内にいる場合と占領地にいる場合と 費の比率が高く,衣服費・住居費・雑費の比率が を比較すると,労働者自身の経験によれば,1940 低いのが目につく。戦時の民衆の生活水準の大幅 年以前は後者の方が経費が安くついた。それは第 な低下を示すものである。 一に,1人で工場にいた方が宿舎が無料で食堂で
しかし食費に関しては,工場の労働者は工場か 安い食事がとれるなど多くの便宜を享受できたか ら一定の便宜があたえられていた。工場の規定で らであり,第二に,内陸の賃金は上海地域より高 は家族持ちの労働者は毎月5斗(1斗は10リット く,物価は上海地域の方が低かったからである。
ル)の公米を1斗6元で購入できた。当時米の市 したがって純経済的にみれば,内陸でかせいで上 価は1斗9元であったから,各家は食費の支出を 海地域に送金した方が有利だった。しかし後になっ 1月15元へらすことができたのである。 て,占領地区の物価,とくに米価は内陸以上に上
衣服費に関しては,史国衡が訪問した家庭のな 昇し,さらに上海の共同租界が占領され,ベトナ かでは,2組の新婚夫妻をのぞいては,成人の衣 ムルートが封鎖されたことにより,内陸から上海 服を新調した家はなく,子供のために1,2枚の への送金は困難になった。これは当然,家族が占 服を買っただけだった。大人の古着を仕立てなお 領地にいる労働者の士気に影響をおよぼすことに
して子供に着せている家もあった。住居費の比率 なった(即)。
が低いのは,工場側が1月2元の家賃で労働者住 内陸出身の労働者の消費生活は,かれらの家庭 宅を貸していたからである。もし労働者住宅が足 との経済上の関係と密接なかかわりがあった。多 りない場合は工場外の民家を借りて,工場側が家 くの内陸の労働者は家に送金する必要がないだけ 賃の一部を負担した。 でなく,かえって家から補助を受けていたのであ
灯火は電灯が用いられたが,工場が設置して費 る。史国衡が調査した8人の労働者のうち4人は 用を徴収したので比較的安く,燃料は薪を用いた 家からの送金を受けており,逆に家に送金してい が,費用はやや高かった。雑費には理髪・洗濯・ るものはただ1人であった。他の4人は家に送金 教育・医薬・タバコ・送礼・娯楽がふくまれてい しないかわりに,家からの補助も受けていなかっ たが,工場内に理髪室・医薬室・小学校およびい た。したがって内陸の労働者は,技工を模倣しよ くらかの娯楽施設があったので,この項目の支出 うとして衣服を新調したり,日曜日に昆明に映画 はそれほど高くなかった(35)。 を見にいったりするなどして賃金をつかっていた。
第2類の労働者の消費状況は,出身地に家族が 第3工場ではたらく内陸の労働者のなかでアヘン いるかいないかで大きな差があった。未婚か家族 を吸飲しているのは5人だった。要するに,内陸 から完全に切り離された技工は,自分の衣服や気 出身の労働者の近代的工場への就職は,かれらの 晴らしのために自由に出費することができた。あ 家庭の伝統的経済には積極的な影響をおよぼさな
るものは革靴や洋服をととのえ,日曜日には昆明 かったのである鮒。
にいって,友人と映画を見るなどを常としていた。
またあるものは,家族から隔絶されたことによる 精神的な負担から,賭けマージャンやアヘンにふ
出身と心理を軽視していた。他方,労働者たちは3,国営工場の性格と労働者の定着性 工場の利害が自分と関係なく,工場をとりしきり
(1)官僚主義 管理している職員だけが工場の主体であり,工場 中電工場のような内陸の国営工場では,欧米諸 の法規は職員のためのものであるとみなしていた。
国のような労使の対立は存在しないけれども,労 したがって多くの労働者からみれば,国営工場は 働者と職員の対立が存在すると、史国衡は述べて 政府機関の一つにすぎなかったのであるω。
いる。職員とは,総支配人・工場長・主任・技師・ たとえば人事関係についていえば,労働者たち 科長・係長から書記・練習生にいたるすべての人々 は,私営工場と対比して国営工場の職員が官僚臭 の総称である。換言すれば,肉体労働をせず,事 をおびていると批判していた。労働者にたいし丁 務を担当するか他人を管理する人々であり,この 重で職員との間に区別がないのが私営工場の特徴 階層が労働者の批判の対象となっていた。工場の であるのにたいし,公営の工場は形式的・官僚的 古株の労働者たちは,職員と労働者との問に大き だというのである。
な溝があり,その溝はますます大きくなっている 官僚的な機構と人事のもとで,仕事の散漫と効 と異口同音に語っていた㈲。 率の低下,資財の損耗,形式の重視と実際の軽視 事実,職員と労働者との間には,具体的な待遇 が公営工場の特徴であると,労働者たちはみなし 上の差別が存在していた。たとえば職員の米価手 ていた。さらにかれらは,仕事の手続きが面倒で 当は家族の人数に比例して増加したが,工場内に 効率が低く,だれもが公共物を粗末にすることが 家族のいる労働者は5元しか支給されなかった。 官僚臭の証拠であると考えていた㈲。
職員の宿舎は1室ごとに仕切られており,共同の 内陸出身の労働者は,国営工場を役所の一つで 部屋に多数が居住する労働者宿舎よりめぐまれて あるとみなし,企業とは考えていなかった。工場 いた。乗車券の購入にあたっても,職員に優先権 は政府によって支えられているので,ここで働け があたえられていた。さらに診療所の医者の差別 ば威勢をはり,地位をあげ,兵役をさけることが 的態度や職員が労働者を姓名でよぶことも,労働 できるというのである。かれらにとって職員は役 者の憤愚の種であった。 人であった㈹。
また職員と労働者との問には,たがいに先入観 (2)労働者の流動
が存在していた。職員は労働者を知識水準が低く, 抗日戦争時期の内陸の工業にとって,労働者の 行動が粗暴であるとみなしており,労働者は職員 定着率が高くないことは重大な問題であった。第 が高慢で労働者を無視していると考えていた。実 3工場の場合は,1940年の1月から7月までの月 際,職員のなかには,労働者に対するには礼儀や ごとの技工の流動率はユ0.4%であり,幣工と小 勧告は不要であり,力で取り締まればよく,常軌 工のそれは17.9%であった。すなわち熟練工100 をいっした行動があれば武力でもって処罰すれば 人のうち10人,不熟練工100人のうち18人は毎月 よいと考えているものもあった㈲。 工場を去り,工場はその分を補充しなければなら
この先入観の原因は,職員と労働者の学歴の差 なかったのである。一般に帯工の流動率は技工よ にあると史国衡はみなしている。職員の大多数は り高く,小工の流動率は蓄工より高かった。工場 中等以上の学校の教育を受けており,とくに工場 を去った労働者の在職期間についてみると,技工 内で労働者と接するもののなかには,大学卒業後, の場合は半年未満が半数を占め,耕工と小工の場 欧米諸国に留学し,そこでの工業の状況を見聞し 合は半年以上のものは1人もいなかった幽)。
てきたものもあった。かれらは技術に精通してお 常工と小工の流動率が技工のそれより高いのは,
り,人事管理についても先進国のものを導入した すでに述べたように,元来,かれらのなかで長期 いと考えていたが,中国の環境および労働者の の生活の糧を近代的工場に求めたものが少なかっ
たからである。また9,10月の農繁期には,討工 にとっては,店主になることの魅力はたいへん大 と小工の退職者はさらに増加した。かれらは家に きかったのである。8人の幣工と小工は工業とは 帰り,あるいは農業労働者になって農業に従事し 無関係の職についた。すなわち茶館のボーイ・野 たのである㈲。 菜売り・露天商になり,あるいは農村に帰ったの
技工が工場をやめる原因は,常工・小工とは異 である。すでに述べたように,かれらの多くは元 なっていた。かれらは内陸での仕事のために情緒 来,労働者になるつもりがなかった。またあるも と生活が不安定になったうえに,工場の責任者と のは過去に他の職業についており,伝統的な経済 の間に情感のつながりがないために,嫌気がさし 機構の習慣にそまっていて,近代工業にたいする て工場をやめてしまうのであった。さいわい技工 あこがれもなかったのである(姻。
が不足していたので,かれらは失業する心配はな
おわりにかった。このように技工の流動の原因は主として
精神的問題であったが,工場の管理者たちは賃金 以上みてきたように,抗日戦争時期に内陸で発 の増加が労働者の唯一の願望であると考え,労働 展した近代工業は,労働者の確保という面できわ 者たちの心理的・精神的要素を軽視していた㈲。 めて大きな問題をかかえていた。熟練工は上海な それでは工場をやめた労働者たちは,どんな種 ど沿海・沿江地域から移動してきた労働者にたよ 類の仕事に従事したのだろうか。史国衡が追跡調 らざるをえず,その数はかぎられていた。内陸出 査した40人の労働者のうち13人が仕事を変えて近 身のなかで農民の出は少なく,経済的理由から工 代工業から離脱し,27人は別の近代工業に職を求 場労働者になるものも少なかった。熟練工と不熟 めていた。この40人の労働者のなかで技工は26人 練工との間には厳然とした差別の壁があり,後者 を占めており,そのうち5人,すなわち19%が仕 が前者に成長する可能性はきわめて少なかった。
事を変えていた。1940年1月から7月までの第3 しかも熟練工も特定の工場への定着1生が弱かった。
工場の技工の総数は114人であり,工場をやめた それは重工業の場合,元来,かれらの多くが私営 技工は38人だったので,上の比率をそのままあて の比較的規模の小さい工場の労働者であったため,
はめると,7人が仕事を変えたことになり,それ 大規模の近代的工場組織に違和感を感じがちであっ は全技工中6%を占めていた。かれらの大部分は たこと,内陸での熟練工の不足のため容易により 沿海・沿江地域で訓練をうけた熟練工であり,か 有利な工場にうつったり,小店主になることが可 れらの転業は当然,近代工業にとってきわめて大 能だったからである。
きな損失であった。幕工と小工についても同様に 労働者をめぐる内陸工業の矛盾は,さらに次の 計算すると,同時期の81人の幣工・小工のうち工 諸点からも説明することができよう。
場をやめたのは29人なので,全不熟練工のなかで 第一に,日本との長期にわたる戦争は内陸にお 仕事を変えたのは20%であった。この数字はかな いて近代工業が勃興した基本的条件であったが,
らずしも高いとはいえないが,かれらのもとの職 逆にこの条件が内陸の工業のいっそうの発展の制 業や中電工場での仕事にたいする不安定性を考え 約条件となったということである。沿海・沿江地 れば,長期的には,不熟練工の近代工業内の定着 域からの熟練工の内陸への移動は日本軍による占 率はもっと低くなることが予想された(47)。 領地の拡大と封鎖の強化によって,年がくだるに 次に転業した労働者の職業についてみると,5 つれて困難になった。また農村の成年人口の多く 人の技工のうち1人が運送人,1人が運転手になっ は,なによりもまず兵士に徴用され,農村におけ たほか、3人は電気店を開業して店主となった。 る労働人口が減少し,都市にきて工場労働者にな 職員によって支配されることや大生産機構のなか るものは少なかった。たとえば雲南省の玉渓県で で個性を埋没されることに不満をもっていた技工 は,1939から40年の2年問に75人が農村を離れた
が,兵士になったものがもっとも多く,手芸職人, 西南師範大学出版社,1988年,4−5頁。
雑役がこれにつぎ,近代工業の労働者になったも (3)陳真編r中国近代工業史資料』三聯書店,1957年,
のは一人もいなかった(49)。 88頁。丁日初・沈祖偉「抗日戦争時期における中国 第二に,中電工場のような国営・公営の工場は の国家資本」『近きに在りて』第10号,1986年ll月,
戦時期の内陸の近代工業の推進力となったが,こ 15頁。周天豹前掲書,152頁。
れらの企業では官僚主義がつよくはびこり,労働 (4)周天豹前掲書,146頁。
者の労働意欲を阻害した。中電工場にみられたよ (5)この報告書には3種類のテキストがある。第一は,
うな職員と労働者の対立は,内陸の国公営工場に 1944年にアメリカで出版されたもので,書名と出版 普遍的にみられたものであったろう。 社は,Cん πα翫オ2rs診加Mαc痂πθ.4gε, Har一
第三に,内陸の後進的な経済・社会の諸条件が vard Univ. Press(1968年再版)であり,中国文か 近代的な労働者の創出を困難にした。農村の階級 らの翻訳である。第二は,1946年に中国で出版された 分化はまだ不十分で,農民は土地にしばりつけら もので,書名と出版社は『昆廠労工』商務印書館で れていた。したがって農村から都市への労働人口 ある。第三は,雲南大学社会学系研究室で印刷され の流入とかれらの労働者への転化(資本の原蓄過 た報告書の草稿とみられるものである(中国社会科 程)はなお部分的にしか展開していなかった。ま 学院経済研究所所蔵)。この3種類のテキストの内容
た内陸出身の労働者は,工場にくる以前は機械と は基本的に同じだが,部分的には相違がある。本稿 は無縁の生活をおくっており働,それが熟練労働 では,第二のテキスト(以下,『中国語版』とする)
者への転化を困難にした。 を基礎とし,第一(『英語版』とする)・第三(r草稿』
史国衡は,熟練工の不足が内陸における工業発 とする)のテキストで補足することとする。また本 展のボトルネックになるかもしれないと述べてい 報告書には,付録として田汝康「内地女工」が収録
る(51)。実際,1943年以後,国民政府統治区で急速 されている。
なインフレと工業の衰退が進行するなかで,労働 これらのテキストでは,工場名は「昆廠」および 者の生活はいっそう苦しくなり,熟練工の流動現 Kunming Factory と記されており,実名は明 象はさらにすすんだ。熟練工のなかには,工業を らかにされていない。しかし報告書の内容から本工 すてて崎形的に繁栄した商業に転業するものもあ 場が中央電工器材工場であることを確定できる。『中 らわれた(認)。他方,不熟練工の教育・訓練には最 国語版』では,本工場が1939年に設立された資源委 後まで有効な手段がとられなかった鮒。 員会所属の大工場で,三つの分工場をもち,全労働 結局,労働力の点からみても,抗日戦争時期の 者数は500人で,各種の機械およびモーター・スイッ 内陸工業の発展は底の浅いものであったといわざ チ・電線・電話機などを製造していたと記されてい るをえない。そして戦後,内陸の大企業が沿海・ る(5,20,51頁)。r英語版』では,本工場は中央 沿江地域にかえっていくと,内陸の工業は衰退し, 管理事務所と電気製品を製造する四つの分工場をも その内部構成も軽工業中心の状態に後もどりする ち,そのうち事務所と三つの分工場は昆明の同一構 ことになったのである㈹。 内にあると記されている(p.xxii)。抗日戦争時期
に,資源委員会(経済部所属の主に重工業部門を担
(注) 当した機関)が昆明に設立した工場は,雲南鋼鉄工
(1)当該時期の西南の地域区分については定説はない 場・中央無線電器材工場(分工場,本社は桂林)・
が,本稿では四川・西康・貴州・雲南・広西の5省 中央電工器材工場・中央機械工場・昆明電気冶金工 の範囲とする。西北は陳西・甘粛・新彊などの諸省 場であったが,これらの工場のなかで中央電工器材 をさす。 工場が報告書の内容と合致する。同工場は1939年7
(2)周天豹他主編『抗日戦争時期西南経済発展概述』 月に昆明に設立され,昆明に三つ,桂林と重慶に一
つの分工場をもち,電線・真空管・電球・電話機・ ⑳ 『中国語版』50頁。『英語版』p.50.
変圧器・スイッチなどを製造していた (鄭友揆他 ⑳ 『中国語版』50−54頁。『英語版』pp.50−55.
『旧中国的資源委員会』上海社会科学院出版社,1991 幽 『中国語版』54−58頁。『英語版』pp.55−60.
年,57−58頁)。史国衡が調査した分工場は,テキス ㈱ 『中国語版』58頁。『英語版』p.60.
トでは「丙分廠」および Shop C と記されてい 図 『中国語版』59−60頁。
るが,本稿では第3工場とする。 ㈲ 『中国語版』60−61頁。
(6)この報告書を用いた研究としては,佐伯有一「中 ㈲ 『中国語版』61−62頁。
国の労働者についての覚書」『東洋文化』 第 ㈲ 『中国語版』64−65頁。『英語版』p.65.たとえ 18,19号,1955年がある。しかし佐伯氏の問題関心 ば1940年1月では,技工の平均賃金率は2.8であった は主に労働者の意識の成長という点にあり,抗日戦 が,蕎工と小工のそれは1.2であった。
争時期の内陸工業および国民政府の経済建設の実態 ㈱ 『中国語版』65−67頁。『英語版』pめ.65−68.
を労働者の側面から究明しようとする本稿の視角と ¢9 『中国語版』70−75頁。『英語版』pp.70−72.
はかなりのずれが存在する。 なお中電工場には健康保険の制度があり,病気休暇
(7) 『中国語版』9頁。『英語版』pp.7−8.なお の場合は,医師の証明があれば賃金の70%の保険金
『英語版』では,3等級の労働者は,skilled, semi一 が支給された。(『中国語版』102頁)
skilled, unskilledと記されている。 G◎ 『中国語版』74頁。『英語版』p.77.
(8) 『中国語版』8−14頁。『英語版』pp.5−12.労 ⑳ 中央銀行経済研究処物価組編『戦時物価特輯』80一 働者の同郷意識の強さを示す例として,第2技工宿 81頁。
舎(主として3等技工と蕎工が居住。他に第1技工 ㈱ 『中国語版』75−76頁。『英語版』pp.75−76.
宿舎と小工宿舎があった)では,1室36人のうち24 ⑬ 『中国語版』77頁。『英語版』p,76.
人が雲南出身者であり,さらに同県同村の人がベッ 図 『中国語版』78−79頁。『英語版』pp。78−79.
ドをならべていた。 鱒 『中国語版』79−83頁。『英語版』pp.79−81.戦
(9) 『中国語版』19−22頁。『英語版』pp.18−21. 前の上海の労働者の場合は,食費が53.2%,衣服費
(1◎ 『申国語版』22頁。『英語版』pp.21−22, が7.5%,住居費が8.3%,燃料費が6,4%,雑費が
(11)青年労働者の教育水準の高さは,家庭の負担の軽 24.6%であった。なお『英語版』では,公米の購入 さとあいまって,彼らの政治問題への関心の深さに 単位はpiculとなっている。
も反映した。そしてかれらは政治問題に関心を示す G⑤ 『中国語版』83−89頁。『英語版』pp.81−88.
ことの少ない中年労働者を愛国心に欠けるとして批 ㈱ 『中国語版』89頁。『英語版』pp.88−89.
判していた(『中国語版』24−32頁。『英語版』pp.23一 幽 『中国語版』89−93頁。『英語版』pp.89−93.
32.)。 倒 『中国語版』111−112頁。『英語版』pp. ll6−llτ
(切 華東師範大学教育系教科所編『中国現代教育史』 史国衡が滞在中に,労働者が唯一おこした自然発生 華東師範大学出版社,1983年,215−216頁。 的で短期間のストライキも,職員との対立に端を発
(姻 『中国語版』34−39頁。『英語版』pp。34−38. したものであった(『中国語版』109−lll頁。『英語
(珂 『中国語版』39−43頁。『英語版』pp.39−42 版』pp. ll2−116.)。
(15) 『中国語版』44−47頁。『英語版』pp.43−46. ㈹ 『中国語版』ll2−ll4頁。『英語版』pp. ll7−119 個 『中国語版』47−48頁。 『英語版』pp.46−47, ⑳ 『中国語版』ll4−116頁。『英語版』pp. ll9−123.
(1のHsiao−tung Fei, Eαr疏わo醜dσ痂πα, London 幽 『中国語版』117−ll8頁。
1948.pp.19,204−206,266−276,291−296. ㈹ 『中国語版』120頁。
(18 『中国語版』37頁。 ㈹ 『中国語版』131−132頁。『英語版』pp。133−135.
(19 『中国語版』48頁。『英語版』p.47.
㈲ 『中国語版』132−133頁。『英語版』pp.135−136. な方式で養成工を管理したのである (『中国語版』
⑯ 『中国語版』133−136頁。『英語版』pp.136−139. 151−154頁)。なお『英語版』のテキストによると,
㈲ 『中国語版』137−138頁。『英語版』pp.140−141. 養成工が熟練工から技術と同時に好ましくない態度 なお全技工および不熟練工中の転職者の比率につい を学ばないようにするために,工場側は3番目のグ ての報告書の数字は計算が合わないので,訂正した。 ループから外との接触をたった徹底した訓練システ 姻 『中国語版』138−139頁。『英語版』pp.141−14a ムを採用し,1942年には熟練労働の半分近くはこれ
㈲ 『中国語版』146頁。 らの養成工が担当するようになったという(pp.148一 6◎ 『英語版』p.15. 150.)。しかし『中国語版』には,なぜかこの新方式 6D 『英語版』p. xviii. についての記述はない。
國 斉武『抗日戦争時期中国工人運動史稿』.人民出版 鯛 重慶の場合は,工業生産額のなかで重工業の占め 社,1986年,212頁。 る比重は,1945年の81.4%から49年には25.7%へと 63 中電工場には養成工の制度があり,雲南省および 大巾に低下した(周勇編『重慶』重慶出版社,1989年,
湖南省の出身者からなる2グループが訓練を受けて 391頁)。しかしこのような限界があったとはいえ,
いた。しかし養成工の訓練と管理は近代的工業の要 抗日戦争時期が内陸工業の発展の出発点であったと 求に合致しないものであった。年配の熟練工が手工 今日の西南地区の人々に記憶されている事実も忘れ 業的方式で技術面での指導にあたり,軍人が軍事的 てはならない。