■弘前大学哲学会 ( 会員寄稿)
弘前大学哲学会 と私
斎 藤 俊 哉
私が弘前大学哲学会 と関わ りを持 ったのは、昭和29年の ことであるO昔時は、学友会の 哲学研究会 と称 していたが、前任の今井 さんか ら会を引き継 ぎ、穐本君 と幹事 として学友 会に出席 した。そ こで、何か金 になることはないか と、二人で 「この会は研究会で、その 成果を印刷 して公 にしたい」 と大見得をきった ところ、はか らず も3000円の予算が認め ら れた。 しか し、その予算はコンパで直ちに消え うせて しまったO
学年末 になると、印刷物 と領収書 を提出せ よとの こと、二人で無い頭を絞 り、原稿は 忙 しい先生方 に無理 を云 ってお願い して書いていただき、我々も駄文を書き、ガ リ版を穐本 君の ご親戚の小学校の先生に無理 にお願い して中味は一応出来た。 この雑誌の ような もの にも題 を付 けよ うとい うことになった。嘗時は東大か らは 「哲学雑誌」、他の大学か らも それぞれ哲学の研究誌が発行 されていたので、それ にあやかって 「哲学会誌」 と名付 け、
表紙 を印刷 し製本 して よ うや く期限 に間 に合わせて、面 目を保 った。 さらに、図 々 しく
「今泉本店」に頼み込んで店頭 に数週間並べていただいたが、 一冊 も売れなかった。 この よ うなわけで、世間は甘 くない ことと大きな事は言 うものではない と、改めて思い知 らさ れ る結果 となった。
卒業 して数年後、斎藤武雄先生か ら、「君 たちの作 った 「哲学会誌」 と 「弘前大学哲学 会」の名称 は非常 によいので、それを引き継いで 「弘前 大学哲学会」 を発足 させ るので、
君 も発起人 と理事 をや りな さい」 とのお便 りを頂き、悪い ことをや った手前お引き受 けし て今 日に至った。
その間、 「弘前大学哲学会」 に出席 したかったが、高校 の教員 をや っている と、研究費 はない、旅費がないで、ず っ と欠席 したままであった。
しか し数年後 に、また も斎藤先生か ら 「君 も少 しは研究をや ったろ うか ら、今度弘前大 学を会場 にして東北 ・北海道の哲学の先生にお集ま り頂いて 「東北哲学会」 を開催す るの で、発表 しな さい」 とのお便 りを頂き、条件 はハイデ ッガーの研究で発表 しな さい との こ とで、本 当に大変な ことになって しまった。お断 るわ りす る訳 にもいかず、「ハイデ ッガー の良心」 について発表 したが、斎藤先生をは じめ、昔時の諸先生方の顔 に泥 を塗 る結果 に なって しまった ことは、今で も申 し訳ない気持ちで一杯である。今考 えると、斎藤先生 と しては、 この 「東北哲学会」 を存続 させたかった と思われ るが、そのお気持 ちが私達弟子 には通 じなかったのではないか と思われ る。
それか ら何度か斎藤先生 にお 目に掛かる機会 が あ り、いろいろ と教 えを請 うことも多
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か った。 しか しその後、私 の研究の中心 は、道元の 「正法眼軌 に移 して しまったので、
ぉ会いす るたび に残念そ うなお顔 をな さっていたのが、今で も忘れ られ ない思 いである。
私 は、弘前大学哲学会 は数 年に して解消す るだ ろ うと考えていた。 しか し、 ここまで持 ち こた えて きたのは、斎藤 先生の生前の リー ダー シ ップ と亡き後 の諸 先生 ・諸先輩の変わ らぬ ご努 力、 中で も川 口光勇 先生 の ご尽 力には並 々な らぬ ものが あ り、その 力があ ったか らこそ、 ここまで続 け られ た もの と感謝の念 で一杯で ある。
私 は、弘前大学哲学会 に導かれ、教 えを受 けた結果、現在の私 が ある と考 えてい る。
本 当に皆様 ご苦労 さまで した、 と心か ら感謝 を申 し上 げ学会‑ の最後の別れ の言葉 とし ます。
(昭和31年3月卒業)
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