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鑑賞のエスノメソドロジー

-音楽のイメージについて語ること-

h17gp308 竹尾宗馬

目次

第 1 章 序論 第 1 節 研究背景 第 2 節 先行研究 第 3 節 問題の所在 第 4 節 研究方法

第 2 章 音楽のイメージ

第 1 節 西洋想像力理論の系譜 第 2 節 バシュラール詩学概説

第 3 節 バシュラール詩学におけるイメージ

第 3 章 イメージとは何か

第 1 節 エスノメソドロジー概説 第 2 節 会話分析について

第 3 節 イメージをめぐる「語り」

第 4 章 イメージについて語ること 第 1 節 調査の内容と方法 第 2 節 調査結果

第 5 章 結論

引用・参考文献

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第 1 章 序論 第 1 節 研究背景

音楽のイメージとは何だろうか。イメージに関わる音楽教育研究は数多く発信されてお り,またイメージを利用した授業実践も多様な形で展開されている。その内実は,曲を聴い てイメージを演奏・描画・作文等で表現する,あるいは授業者が何らかのイメージを生徒に 与えることにより題材の曲を印象づける,といった指導上のアプローチに確認される。しか し実感として音楽のイメージとは何を指すのか,どのようなものなのか,確信を得られない まま今日に至っているのではないか。

『中学校学習指導要領解説 音楽編』(平成 20 年度改訂版 以下,旧学習指導要領)では

「第1章 総説」から「第4章 指導計画の作成と内容の取扱い」を通じて繰り返し「イメー ジ」の語が登場し,表現・鑑賞の両領域において生徒自らのイメージを尊重することが指示 された。 「第1章 総説」では平成 20 年に示された中央審議会における改訂の主旨として「合 唱や合奏など全員で一つの音楽をつくっていく体験を通して,表現したいイメージを伝え 合ったり,協同する喜びを感じたりする指導を重視する」(p.4)ことが明示されている。

また曲からイメージを感じ取ること,イメージを持って創作することが目標として提示さ れた。

鑑賞領域の内容では「音楽によって喚起されるイメージや感情」について,喚起されたイ メージや感情を「言葉で言い表したり書き表したりする主体的・能動的な活動」を行うこと が鑑賞学習を成立させると規定された(pp.17-18)。表現領域の内容では創作の指導事項と して「表現したいイメージをもち,音素材の特性を生かし,反復,変化,対照などの構成や 全体のまとまりを工夫しながら音楽をつくること」(p.32)が示されている。この項では生 徒が自己の内面に生じたイメージを意識し発展させながら,そのイメージを創作へと還元 させてゆくプロセスの実現が重要視されていたことが確認される。清水(2017)は旧学習指 導要領において示された「イメージ」について,自己の内面に表現したいイメージがア・プ リオリに存在し,創作活動に必要不可欠なものであるという位置づけであったと指摘する。

清水は自己のイメージが音楽を生成するという因果論的創作観を否定し,イメージの感受 と音を生成する行為の相互作用によって創作が遂行されることを明らかにした。

平成 29 年 3 月公示の学習指導要領(以下,新学習指導要領)も旧学習指導要領と同様にイ メージを重視する方針が確認される。今回の改訂で旧学習指導要領ではあいまいな記述に とどまっていた創作におけるイメージについて,より具体的に示された。創作にかかわるイ メージとは「『楽しく生き生きした感じ』,『小春日和の暖かな日に窓辺でまどろんでいるよ うな感じ』, 『静かに始まって,中ほどで盛り上がり,最後は落ち着いた感じ』などのように,

心の中に思い描く全体的な印象であり,創作の活動の源となるもの」 (p.50)と説明されて いる。なお鑑賞におけるイメージの具体的特性については明言されていない。

以上見たように,学校音楽教育の理念にイメージ概念が深く関与していることは確かで

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ある。

第 2 節 先行研究

今日「イメージ」は広く浸透した言葉となっており,多様な意味を内包している。それゆ え明確な定義を与えるのが難しく,哲学・心理学・社会学など様々な分野でイメージをめぐ る論争が展開されてきた(水島・上杉 1983,村田 1998)。近年,イメージを素材とする授 業プログラムの構築を目指した研究(新山王 2001 など)が数多く発信されている一方,音 楽そのもののイメージについて考察する動向は活発とは言いがたい。

やや古い研究ではあるが,音楽のイメージを主題とした貴重な先行研究として丹下・土井

(1981)によるものがある。丹下らは「イメージ」の多義性について以下のように指摘する。

今日,イメージという言葉はあまりにも漠然と,とらえられているのではないか。イメ ージの概念は必ずしも一義的ではないのである。一口にイメージと言っても,幻覚・擬幻 覚・直観像・催眠性幻覚というものから,夢・記憶・思考などにおけるイメージもあり,

またセルフイメージ・マザーイメージ,さらに商品イメージ・企業イメージという使い方 もされる。そのニュアンスもさまざまである。 (p.241)

丹下らの調査は高校生を対象に,アンケートをともなう鑑賞活動を行って被験者のイメ ージ体験を把握すること,個々のイメージを類型化することを目指したものであった。その 結果,同じ曲(たとえば湯山昭《熱帯魚》)を聴いても「春ののどかな日ざし」 「秋のさびし さ」といった正反対のイメージを持つなど,楽曲から感じとられるイメージには大きな個人 差があることが実証された。生徒間にある程度共通したイメージが現出する場合はその曲 が既にポピュラーなものであること,個人の音楽嗜好がイメージの形成に関わることも明 らかにされている。丹下らは調査結果をふまえ「[……]純粋な音楽そのものについてのイ メージの研究は,大へん幅が広いこともあって,あまりなされていないのである。[……]

なされた研究も期待された結果を示していない」 (p.241)と述べ,音楽イメージの研究に課 題が認められることを指摘する。

第 3 節 問題の所在

イメージ概念はその曖昧さゆえにイメージの過剰な使用をもたらす危険性がある。ある楽

曲が表現している(とされる)物語の読解や,楽曲の題材となっている自然物の情景把握を

楽曲理解へと還元させるアプローチでは「イメージ」が一人歩きをしてないだろうか。この

ようなイメージ利用の問題点は,授業者の主観的判断によって楽曲理解に「適切な/適切で

ない」イメージが選別される点,授業実践に際しイメージが授業者によって恣意的に扱われ

かねない点,そしてイメージそのものがすでに恣意性をはらんでいる点である。イメージ偏

重のアプローチは必ずしも楽曲への理解を実現しない。むしろ音楽の文脈からの乖離を促

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す危険性を有している。たとえば楽曲を聴いて感想文を書く活動は国語科的評価へと帰着 しうる(極端な話をすれば曲を聴かなくても優れた感想文を書くことは可能である)。無反 省的にイメージが濫用されている現状はイメージ概念のいっそうの混乱を招くとともに,

音楽教育の意義が矮小化する危機を示している。

雑誌『教育音楽』に寄せられた報告から現場の教員がどのようにイメージをとらえているの か,実践のなかでどのように音楽とイメージを関わりあわせているのかを垣間見ることが できる。

山野(1991)は自身の体験からイメージの扱い難さを以下のように見出す。

子どもの感想の中に「軍隊の行進を連想した」とか「武士が勇ましく歩いている様子を 思い浮かべた」という内容があればそれは典型的な視覚的イメージの実例である。ところ が「力強い感じ」とか「堂々としていて歯切れよい」という感想は,言葉のイメージが抽 象的すぎて個人差が生じ,あいまいになってくる。[……]前述したイメージによる感想 例のうち,どれが最も音楽的と考えられるのか。答えは「解答不能,どれでも構わない」

と思う。教師が自分のイメージに執拗にこだわると,かえって教師の尺度による〈イメー ジの画一化〉を子どもたちに強要する結果となる。(下線筆者 p.40)

イメージという言葉がもつ曖昧さによって山野は「慢性的に子どもとのイメージギャッ プに悩まされ続けて」 (p.41)おり, 〈イメージ恐怖症〉であると自戒する。山野は「イメー ジ」の意味するものとして感想,曲想,音色,楽譜の四つを措定しているが,いずれも本人 の納得のいく定義とはならなかったようである。ところで山野自身は「これまで授業の中で

『イメージ』という言葉を使ったことは一度もないように思う(p.40)」と述べているが,

この発言は必ずしもイメージという言葉に頼る必要はないこと,またイメージという言葉 の使い勝手の良さ(それゆえの危険性)を示唆していると言えよう。

谷中(1991)は音具アンサンブルの活動を通じて子どもたちが音のイメージとどのように

立ち会うのかを丁寧に観察している。活動を始めた時点では子どもたちの多くは音・音響の

イメージを持つことができず,音の出し方を模索したり,合奏の練習をしたりする過程を経

て徐々にイメージが鮮明になっていく様子が報告されている。山野のようにイメージをネ

ガティヴに捉えることはしないものの,扱いを誤れば授業の効果が薄れるとして谷中も慎

重な姿勢を見せている。同じく慎重派としては後藤(1991)がイメージを利用した創造的音

楽づくりについて,子どもたちの意識が情景や物語など音楽外的な表現に傾きやすいこと

に懸念を示している。谷中と同様,イメージを探る過程を重視する東海林(1991)は「そも

そもイメージとは何なのか」と疑念を表明し,生徒自らが積極的にイメージを自覚すること

でイメージの発展が促されていくのではないか,と述べる。東海林の実践では音のイメージ

が言葉,図形,音(演奏)の三段階で表象される。表現する行為を通じて最初に感じ取った

イメージを反芻させ,洗い出させていく東海林の方法論が確認される。

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一方でイメージを重視する主張も見られる。泉本(1991)は「歌をうたうとき,その曲の イメージをどれだけはっきりと自分の中に持っているかが大切だ」(p.46)と述べ,自身の 指導方針として「写真や映像も,そして絵を書いたりすることもその助けになるが,だいた い歌詞の内容からイメージをつくっていくことが多い」(p.46)と語る。泉本は,子ども自 らがイメージを内省・反芻する活動を重視する点を共有しつつも「適切な」イメージの形成 を目指す点で谷中・東海林とは根本的に立場が異なる。アメリカ民謡《赤い河の谷間》を歌 う活動で盆栽のサボテンをイメージされては困る,という見解である。同じく「適切な」イ メージに重点を置く立場から,野上(2004)は鑑賞の注意点として「特に,標題の内容など をイメージしやすい楽曲,音楽の形式や構成,旋律,リズム,強弱,速さ,音色,声の響き などが聴き取りやすい楽曲」を選ぶべきとし, 「多くの作曲家は,音楽の諸要素を意図的に 組み合わせて自分の思いを表現し,伝えたいメッセージが鑑賞者に伝わるように願ってい る」という(p.35)。生徒がしかるべき楽曲理解に到達できるよう教師はイメージをもって 誘導すべきという野上の音楽観が示唆される。山内(2010)は日本音楽の鑑賞の要点を「根 拠をもって情景を思い浮かべる」(p.58)ことであると述べ,言語活動に評価基準を置く実 践例を示している。野上,山内らの立場からは「音楽のイメージ=言語によって説明される 内容」というイメージ観がうかがえる。足利(1991)は子どもの思い描くイメージが各々異 なることをふまえた上で個々のイメージをより膨らませる手立てとして,歌詞の内容を絵 に書く活動を紹介する。歌詞にこめられた感情についてイメージを手がかりに理解させ,よ り豊かな歌唱表現を実現させる可能性が示されている。あくまでも歌詞の理解を尊重する 点で谷中・東海林とは立場がやや異なる。

音楽教育における「イメージ」とは聴者が自由に想像した情景や物語と解するべきか,あ るいは漠然と受け取った印象と見なすべきか,依然判然としない。山野が指摘した通り「音 楽的かどうか」判断するのも実際かなりの困難を伴う。この多義性,定義不可能性はイメー ジの柔軟性を支える一方で,その恣意的な濫用を招くリスクを有する。たとえば情景や作曲 者の心情についてイメージを膨らませる活動があるが,音楽から具体的なイメージや場面 の様子を思い浮かべることは鑑賞の能力の一部に過ぎず,そこから知的理解を踏まえて楽 曲の価値を判断し美しさを認める能力の育成に鑑賞教育の目的はある(坪能 2009)。イメー ジに依拠した楽曲解説や,イメージを曲の表す「内容」であるかのように扱う態度は鑑賞の 目的にかなっていないのではないか。

第 2 章 音楽のイメージ 第 1 節 西洋想像力理論の系譜

近代以降,哲学的立場からイメージおよび想像力に関わる研究を残した人物として,ミメ

シス(模倣)と想像力の二項対立に基づいてイメージを「外界を超越する新たなるもの」と

定めたボードレール,想像力を現実からの逃避と見なしイメージにネガティヴな評価を与

えたサルトル,知覚と想像の比較から現象学的に考察したメルロ=ポンティなどがいるが,

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いずれも音楽のイメージに関しては言及が少ない。

文芸史上の想像力論について,鈴木は以下のよう指摘する(2000, p.105)。

ミメシスと想像力を対立する概念として捉え,古典主義からロマン主義,象徴主義に至 る文芸思潮を,前者を中心とするものから後者を中心とするものへの移行の過程とみな す図式がしばしば採用される。

ミメシス mīmēsis とは「模倣」を意味するギリシャ語である。17,18 世紀の詩学は自然模 倣理論が優勢を見せ想像力は相対的に低い位置にあり,現前しない事物を想像,表象する行 為に芸術的意義は見出されていなかった。自然は常に真であるから,芸術が自然から乖離す るのはタブーというわけである。

芸術とはミメシスであるというこのテーゼはプラトン以来の芸術観に依るものであり,

とりわけアリストテレスから続く想像力論によって強固に裏打ちされている(ソンタグ 1996)。アリストテレスにとって想像力(phantasia)とは感覚(aisthesis)と極めて密接 な関係を持つものであった。想像力は身体器官の知覚した印象を自己のうちに保持する能 力であって感覚や身体に根ざした一能力に過ぎなかった。自然模倣論者によれば現実こそ 常に「真なるもの」であり想像力は現実を把握するための一能力に過ぎない。想像力が感覚 の拘束から解放されたのは 19 世紀であると言われる。ロマン主義の芸術は現前しない現実

(直に体験しない世界)の描出を可能にした。鈴木(2000, p.107)は想像力が単なる感覚 的身体的能力から超越的神秘的能力へ転換されたと指摘する。

こうした超越的性格を備えた想像力は,[……]我々を「感覚的世界の彼方」に導き,知性 の力をもってして単にかいま見られただけのものを,「神秘的接触」のうちに十全に開示し てくれる。そして,想像力を備えた詩人は,あたかも神の能力を付与されたかのように,物 質界の彼方の超越的メッセージを読み取り,それを象徴的言語によって表現する。

19 世紀に至って想像力は理想や精神的なものの表現を可能にした。ミメシスは想像力によ って乗り越えられた,というシェーマがひとまず与えられる。

このようなシェーマのひとつの到達点としてボードレールの想像力論が挙げられる。ボ

ードレールによれば想像力とは単なる空想とは似て非なるものであり,創造的なものであ

る。ボードレールの想像力論はミメシスに対する想像力の勝利を宣言しているかのようで

あるが実際はそうではない。ボードレールの批判の対象はむしろ極端に単純化された二項

対立のシェーマに基づいてミメシスの優位を解く模倣論者たちの態度にあった。ボードレ

ールは想像力を一意的に定める困難に気づいており, 『1839 年のサロン』では想像力の多層

的な定義を模索している。結果的にその試みは失敗に終わったが,たとえば想像力が既存の

諸事物を素材として「新たなるものの感覚」を生みだしていくという発想は,既存のシェー

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マを克服する視座を提示しようとしたものであると評価できる。

ボードレールの想像力論に見られる超越的性格は,ミメシスに対する想像力の優越への 過信によるものではない。それはむしろ「世界の事物との強度に満ちた接触を通じ,それら の事物に不断の新しい意味を扶養控除していこうとする運動そのもの,現実への関心とそ れを超越しようとする葛藤そのもの」であるという(鈴木 2000, p.118)。

想像力論の流れとして,ミメシスを絶対原理とする自然模倣の時代(物質主義,感覚主義)

から人間の理性や精神の可能性を重んじる想像力の時代(ロマン主義,象徴主義)への移行 があった。ボードレールの問題意識はそのような固定的なシェーマにとらわれたミメシス 信仰が浸透していることにあった。単にミメシスを退けたのではなく,模倣行為における

「怠惰」に対して否定的なのであった(鈴木 2000)。感じること,考えることを放棄し機械 的に対象を模倣する行為が悪しきミメシスであるとボードレールは主張する。したがって ボードレールにとっての想像力は知覚を出発点とした創造能力を意味し,ミメシスに取っ て代わる能力というよりも,むしろミメシスの欠点を補完するものであった。ボードレール の想像力論は,創造する行為がミメシス/想像力という単純な二項対立では扱えないこと を見抜いたものであり,想像力の新しい可能性を示唆するものであった。

第 2 節 バシュラール詩学概説

ボードレールの想像力論から提示される西洋想像力論上の課題はガストン・バシュラー ル(Gaston Bachelard)の思想へと受け継がれている。

バシュラールはフランス独自の伝統をもつ科学認識論(フランス・エピステモロジー)を 領導した人物であり,また詩学の分野でも個性的なイメージ論,芸術論を研究した哲学者で ある。なぜ科学と文学という両極端な分野で研究を行ったのか。橋爪(2011)は,バシュラ ールの意図は人間の創造的思考の全容を解明することにあり,ゆえに彼の科学哲学と詩学 とは連続的かつ相補的なものであると指摘する。

科学哲学におけるバシュラールは認識論的断絶と呼ばれる独特の科学史観を提示するな ど挑戦的な仕事を残した(金森 1996)。詩学におけるバシュラールは精神分析や心理学を独 自の解釈を大幅に加えた形で援用し,物質に着目した独自のイメージ論を展開した。『火の 精神分析』(1938)を皮切りに『水と夢』(1942),『空と夢』(1943),『大地と意志の夢想』

『大地と休息の夢想』(1948)を書き上げ,物質的想像力論あるいは元素の詩学と呼ばれる 文芸理論を作り上げた。晩年の著作『空間の詩学』(1957)では現象学的転回が宣言され精 神分析・心理学を放棄,現象学的イメージ論が模索された。

バシュラール詩学の評価は概ね二通りに分かれる。一つは物質的想像力論を経て到達し

た晩年の現象学的想像力論こそバシュラール詩学の頂点であるとする評価である。二つ目

は,物質的想像力論については一定の評価を与えつつ,現象学的想像力論に対しては批判的

に見るものである。『空間の詩学』で現象学的転回を宣言したバシュラールであるが,彼の

方法論が決して現象学的ではないことは金森(2008)により指摘されている。

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自ら現象学を標榜したことで誤解を招き,否定的な評価も多く生みだしたバシュラール であるが,近年では彼の詩学を新たな視点から読み直し評価する動きも出てきている。橋爪 は従来のバシュラール研究者たちがそれぞれ独立した思想であると見なしてきた科学哲学 と詩学の両分野の著作を読解し,バシュラールの想像力理論が時間論・認識論などの科学哲 学的裏付けによって支えられていることを指摘する。そして彫刻や音楽も視野に入れなが ら彼の思想を「芸術論」として総体的に読み直す研究を行っている(2007, 2010)。記号論 的側面から考察を行う及川は,ソシュールの言語論を援用してバシュラール詩学に「シニフ ィアン(音響)の詩学」としての側面があることを明らかにし,バシュラールの思想に新た な評価を与えている(1986, 1995)。

バシュラールの業績は考察の射程や研究上の立場からいくつかの領域に区分される。大 きく見ると存在論や認識論に関わる問題を科学史の文脈に沿って吟味した科学哲学的研究,

人間のもつ想像力の意義と文学的イメージの様相について主に詩を素材としながら論じた 詩学研究の二分野があり,さらに具体的に見ると以下の三つに整理される(以下に示すもの はあくまで便宜的な分類である)。

前期:科学哲学的業績

フランス・エピステモロジーに立脚し,工学的世界観のもとに存在論や認識論を扱った研究。

科学的認識における主観的要素の有害性について検討されるが,これは後に逆説的にバシ ュラールのイメージ論を支える土台となる。

中期:元素の詩学

火・水・空気・土の四元素に基づく物質的想像力論を打ち立て,詩的イメージの性質と解読,

人間の想像力の実態について理論構築を試みた研究。精神分析の理論を援用し,イメージを コンプレックスの反映とみる。『火の精神分析』 (1938)から『大地と休息の夢想』 『大地と 意志の夢想』 (1948)へと続く詩論群。

後期:詩的イメージの現象学的研究(現象学的想像力論)

元素の詩学で依拠していた精神分析の理論を放棄し,主観性をもって現前するイメージに 対峙するという理念を掲げる。『空間の詩学』(1957)から『蝋燭の炎』 (1961)までの晩年 の研究。

第 3 節 バシュラール詩学におけるイメージ

バシュラールの科学哲学領域における問題意識は「客観的認識にとって,人間の側の主観 的要素が,いかに危険なものであるか」「それが科学史の上でどう現れてきているか」とい うものであった(松岡 1984)。バシュラールによれば,心理的な要素が客観的認識の障害

(阻害要因)になるという³。のちの詩的イメージ研究の先駆けとなる『火の精神分析』で

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は詩的イメージは科学的認識上の誤謬と類似したものと見なされており(橋爪 2004),また

『科学的精神の形成』では認識の出発点は根拠をもたない直観的な印象であると述べられ ている(バシュラール 2012)。したがって,元素の詩学に着手する段階でのバシュラールの イメージ概念は「心理的な要素」とほぼ同義であり,合理的な裏付けを持たない誤った認識,

という含意を持っていたことが確認できる。

ところで,バシュラールのいう「(詩的)イメージ」とはそもそも何なのか¹。バシュラー ルは「イメージ」について明確な定義を示していないが,彼の記述をまとめると以下のよう になる。

まずバシュラールが詩学の研究に取り組むきっかけとなった『火の精神分析』では,詩的イ メージは科学の誤りと類似したものと見なされている(橋爪, 2004)。すなわち前期バシュ ラールの問題意識を占めていた「心理的な要素」が「イメージ」に該当することが分かる。

また『科学的精神の形成』で「…われわれの出発点はほとんどつねに初発の現象体系 phénoménologie première のイマージュであり,多くはきわめて絵画的(ピトレスク)なイ マージュなのである」(バシュラール, 2012, p.15)と述べられていることから,科学的な裏 付けのなされていない誤った認識,という意味を含めていることも確認できる。

物質的想像力論を論じた中期の思想以降は,物質性を的確に表現したイメージが卓越した イメージであるとされている(金森, 1999)。詩を読んだ人間が感じ取る「その物質らしさ」

を担っているものがイメージであると,ここでは理解したい。また,中期バシュラールは知 覚と想像力の関係について「対象は既にイメージであり想像力はイメージを変形させる能 力である」といった趣旨のことを述べている(松岡, 1984, p.20)。つまりイメージとは単な る観念ではなく,身体感覚と結びついて認識される性質を持つものと見なされている²。さ らに,イメージは「人間に逆らう」存在でもあることが主張される。新鮮なイメージは人間 の意識に能動的に働きかけてくる。イメージのこの性質によって,人は〈驚嘆〉し, 〈反響〉

によって自己を深化させ,創造を指向する存在となる。イメージは人間にただ認識「される」

ものではなく,逆に人間の意識へと作用する存在でもあるとされている(橋爪, 2011)。

次にバシュラールは詩の中で扱われる物質のイメージに目を向け,それが詩の中でどの ように扱われているか,どのようなイメージ体験を読者に与えているのかを研究した。その 方法論としてバシュラールはフロイトやユングの精神分析を援用する。物質的想像力論は,

人間が詩を介して受け取る物質的イメージとイメージの背後にある根源的な欲求や指向性 を解き明かすことで,人間の想像力が一定の方向性を備えていることを示すものであった。

バシュラールは物質的想像力論を初めて本格的に展開した著作『水と夢』(2008)のなか で想像力を以下のように規定する。

人間の想像力は形式的想像力と物質的想像に分けられる。それぞれの想像力は形式的イ メージ,物質的イメージと関わっている。形式的イメージとは通常的な意味でのイメージ,

つまり色彩や形態に関わる視覚的なイメージを指す。物質的イメージは手ざわりや重み,匂

いと言った視覚以外の感覚に関わるイメージであり,これは詩のモチーフの物質性に根ざ

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している。物質的想像力は見た目の変化に関わらず持続する性質,すなわち物質の同質性を 重視する。詩人ポール・クローデルが河の水に幸福な乳のイメージを見出すとき,そこには 河の地理学的描写(形式的イメージ)よりも「乳」の暗喩を成立させる水のイメージ(物質 的イメージ)がいっそう強くはたらいている。バシュラールによれば,適正な物質にあては めながら形式を研究することではじめて想像力の様態が十全に解明される。 「多くの詩的イ メージが無残な失敗をおかすのは,それらが単純な形式の遊びであり,それが飾らねばなら ない物質に適応していない」からである(金森 1996,p.166)。身体感覚と結びついたイメー ジから乖離した詩は,表面的な言葉遊びにとどまってしまう。

バシュラール詩学において検証される主題の一つに,本性的に個別的なものであるはず のイメージがなぜ読者を共感させるのか,なぜ不特定多数の読者の間である一定のイメー ジが相互主観的に成立しうるのか,という問題がある。これに一つの理論的解答を与えたの が物質的想像力論であった。通常の意味でのイメージ(形式的イメージ)は色彩や形態とい った視覚的な情報として現れる。また形式的イメージはイメージでありながら概念的性格 を強くもつ。一方,物質的イメージは手ざわりや重みなど,物的特性を担った情報として現 れる。それは明確に言語化されない,概念以前の情報である。バシュラールは四元素のイメ ージにフロイト的コンプレックスやユング的原型を見出す。物質は形式的次元では多様な 姿を見せる(水は液体だが固体にも気体にもなりうる)が,物質的次元においては同質性を 保つ。ゆえに人は物質的想像力の作用によって,形式の変容に関わらず一定の心象を体験す ることができる(流れる水も静止する水も,母乳も血液も水的な性質を保有している)。

バシュラール後期の問題意識は,精神分析的方法を用いる物質的想像力論ではイメージ の生き生きした感じやイメージの体験に伴う高揚感を説明できないという反省であった。

後期の思想の概略について松岡は以下のように言う(1984, p.30)。

…彼の新しい方法は,詩的イメージの発生の源を無意識に求めることをやめ,〈イメー ジの出発点〉 (depart de l’image)に身をおき,いいかえれば詩的イメージを存在に対 する意識の直接的な応答それ自体としてとらえ,詩的イメージの真実性を相互主観性の なかで考えて,詩的イメージが読者の意識に及ぼす反響(retentissement)を記述するこ とを念頭に置いた方法である。

バシュラールは『空間の詩学』で今後は詩的イメージを現象学の立場から検証する意思を表

明する(現象学的転回) 。詩に現れるイメージと作者の内面に因果関係を見出そうとする精

神分析の立場では,まったく新しいイメージが生み出される問題に妥当な説明を与えるこ

とができない。詩的イメージのダイナミズムを捉えるためにはイメージの発生それ自体に

目を向ける必要がある。バシュラールが詩的イメージの現象学を実行するうえで提示した

概念が反響(retentissemenet)である。反響の作用についてバシュラールは以下のように

説明する(2002, p.379) 。

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[……]現象学者は,詩人が創造したありのままのすがたでイメージをみ,そしてこの イメージをわがものとし,この稀な果実をわが糧としようとつとめ,想像可能の極限まで イメージをひろげる。かれ自身はけっして詩人ではないが,みずか創作行為を反復し,も し可能ならば,誇張をさらに延長しようとこころみる。そのときには連想は偶然にであっ て感受するものなのではない。[……]それは詩的な,とくに詩的な構造である。

イメージをありのままの姿で受け取るとは,イメージを解釈しない態度である。さらに読 者はイメージを「わがものとし」「創作行為を反復」しようとする。ここには物質的想像力 論では見られなかった,享受者によるイメージへの積極的参与という視座が見出せる。詩が 読者の創造意欲を刺激し,読者によって新しいイメージが生みだされる運動を支えるのが

「詩的な構造」であり,詩的な構造をそなえた詩が芸術的に優れているという。バシュラー ルによれば優れたイメージとは読者に創造の欲求を自覚させる「牽引」するイメージである。

第 4 節 バシュラール詩学の意義と課題

物質的想像力論の意義は「詩的言語は非論理的で,イメージは無限に自由なものである」

「イメージは総じて個人的なものであり,イメージは総じて個人的なものであり,イメージ の様態を一般的に記述することなどできない」といった常識に一定の留保を加えることに あった。物質的想像力論は詩の様式やモチーフの描写を問題としない。その目的は人間の想 像力がある方向性に従って展開されていく様相を追認することにあった。金森(1996, p.204)

はいう。

風という言葉が喚起されたとき,人は任意の心象に満たされるのではない。風が現前せ しめる夢幻世界はある一定の統辞,一定の語彙,一定の方向をもつ。 [……] 「任意ではな い」ということは「一義的に決定できる」ということではない。大切なのはある程度の囲 いこみができるというその指摘のなかにある。想像力は一定の収斂をする。

物質的想像力論で示された物質のイメージの統辞論的構造の解明,これは作者,詩,読者

をゆるやかな因果関係で結びつけ,そこに「一定の収斂をする」イメージを見出すものであ

った。物質的想像力論の特筆すべき点として,作者の表現技巧は詩を価値づけるうえであく

までも二次的なものにすぎないという指摘がある(バシュラール 2002)。作者の創造性が効

果的に表現される様態を明らかにすること,それをイメージによって説明づけることに物

質的想像力論の意義があったが,この理論は「作者が表現しようとするイメージ」と「読者

が作品から感じ取るイメージ」の同一性を前提としており,それゆえ決定論に陥るという欠

陥があった。現象学的転回の企図はその克服にあったものと推測される。現象学的想像力論

の課題の一つは「詩の意味内容は作者によって一意的に定められる」とする誤謬を訂正する

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ことにあった。バシュラールはいう(2002, pp.19-20)。

方法の宿命であるが,精神分析学者はイメージを知的に考察する。[……]しかしこの 点が問題なのだ。かれはイメージを「理解する」のである。精神分析学者にとっては,詩 のイメージにはつねに前後関係がある。かれはイメージを解釈し,これを詩のロゴスとは 別のことばに翻訳する。このばあいほど traduttore, traditore (翻訳は裏ぎる)とい うことばが適切なことはない。

詩の意味は作者によって保証されるのではない。現象学的想像力論は新たなイメージが創 造される運動を記述したものだった。

バシュラールの芸術論の大部分は詩学を扱ったものである。論敵ベルクソンが音楽を例 に挙げながら対立する意見を主張していたためか,バシュラールが音楽について語ること は多くなかった。しかしバシュラールを単なる文学論者と位置づけるのはあまりに安直な 評価である。そもそもバシュラールの詩学は彼の科学認識論の延長にあり,膨大な科学資料 を分析するところからイメージ研究は出発している。またバシュラールは詩に限らず,小説,

神話,学術資料,演奏会のプラグラムに至るまであらゆるテクストを素材とした。よって,

人間の言語活動全般,認識作用全般に関心をもっていたことがうかがえる。またバシュラー ルは音楽について多くを語らなかったものの,詩の音韻に深い関心を示している。知覚に根 ざしたものである物質的想像力論は手にとって触れるものばかりに関わるのではない。及 川はバシュラールが理想とした詩について「音韻と意味の両面から積極的にはたらきかけ」

「ゆるぎない交響的な調和をもつことを指向」するものであると指摘する(1995, p.104)。

声は最も身近な音素材の一つである。音韻に注目したバシュラールの詩学は,音素材として の声がもつ豊かな可能性を示したと言っても過言ではないだろう。フランス語と日本語の 差異はあるであろうが,バシュラールの思想は音響のイメージ論として読み直す価値があ ると言えよう。

バシュラールは鑑賞者が積極的に作品と向き合うことを重視する。受動的な姿勢では芸 術の価値を十分享受することは出来ず,鑑賞者みずから作品へ意識を向けることが重要で あるという。芸術の体験には作品と受容者の相互作用とでもいうべき事態が必須となる。

バシュラールは物質的想像力論を通じて,無限に自由であるかと思われたイメージが実は 物質性の束縛を受けることを豊かな例によって示した。そして及川が提示した通り音韻も また一種の物質性に裏づけられている。しかしイメージが方向性を持つこと,それ自体はさ ほど重要でない。バシュラールの最も大きな功績は芸術と創造性の関係について明らかに した点にある。バシュラールによれば,イメージの体験が鑑賞者の創造性を刺激し新たな芸 術を生み出す。ただしこの運動は芸術の受容者が受動的である限り達成されることはない。

ゆえに積極的に作品と関わろうとする意志が必要となる。本論2.2でイメージをめぐる現

場の教員の声を拾い上げた。生徒みずからがイメージを内省・反芻し,イメージと表現の「ず

(13)

れ」を少しずつ埋めていく作業を重視する谷中や東海林の立場はまさにバシュラールのイ メージ観にかなっている。その際,後藤が指摘したように,子どもたちの意識が情景や物語 といった音楽外へ向きすぎることが無いよう教師は慎重に指導することが求められる(芸 術のイメージをサブ・テクストへ「翻訳」する行為をバシュラールは厳しく非難した)。泉 本や野上のいう「イメージ」は教師にとって都合の良いものでしかないように思える。「適 切な」イメージを感じ取ることで生徒の創造性ははぐくまれるのだろうか。イメージの体験 が新しいイメージを生みだしていくのであれば,山野のように「結局のところイメージなん て何でもよい」というくらいの寛容さが必要になるであろう。どんなイメージが適切か,と いった議論は少なくともバシュラールの詩学に鑑みる限り不毛である

第 3 章 イメージとは何か 第 1 節 エスノメソドロジー概説

エスノメソドロジー(Ethnomethodology)はアメリカの社会学者 H. ガーフィンケルによ り創始された研究分野である。通常エスノメソドロジーは社会学の一部門(あるいは一方法)

として知られるが,19 世紀末から 20 世紀前半にかけて成立した伝統的社会学とは根本的に 異なる性質を示しているのもまた事実である(串田・好井 2010)。ガーフィンケルがエスノ メソドロジーを構想するに至った事情はひとまず置いておき,筆者なりの簡潔な説明を試 みたい。エスノメソドロジーとは「当たり前に成立していることがなぜ当たり前なものとし て成立できているのか」を解明する研究分野であると説明できるのではないかと思う。これ は裏を返すと「当たり前でないことがあった時,それが当たり前でないと判断されるのはな ぜなのか」という問いでもある。

具体的に考えてみる。私たちの生活は様々な「当たり前」で溢れている。たとえば私たち は言葉を使う。言葉をいっさい使わずに生活を送るとしたら相当な困難を覚悟しなければ ならない。レストランで料理を注文するのも難しくなる。友人と談笑することもできない。

ところで私たちはいつ,どうやって会話の方法を習得したのだろう。初対面の相手とでも会 話が(一応)可能なのは何故だろう。相槌の打ち方など習ったこともないのに,相手の話を さえぎらないよう合いの手を入れることができるのは何故なのか。顔も名前も分からない オペレーターと電話越しにコミュニケーションを取れるのは何故だろうか。「当たり前」の 謎は他にもある。たとえば筆者は男である(一応そういうことになっている)。では「男で ある」とはどういうことだろうか。昨日も今日も明日も,家でも大学でも筆者が「男である」

という「事実」が成立し続けているのはどういう理屈に因るのだろうか。なぜ筆者が「男で ある」ことをだれも疑わないのだろう。「男」とはいったい何なのだろうか。

かなり大雑把な説明であるが,なんとなくエスノメソドロジーの出発点が理解されるの

ではないかと思う。そしてここが重要なのだが,エスノメソドロジーは生活の中の「当たり

前」がなぜ「当たり前」として成立できているのかという問題について,人々(ethno)が

当たり前を実践する方法論(methodology)という観点からアプローチする。筆者が「男で

(14)

ある」という社会的事実は「『男である』ことをする」何らかの方法によって実現されてい ると見なすのがエスノメソドロジーの発想である。

第 2 節 会話分析について

会話分析はガーフィンケルの提示した「人々は日常の行為をいかに遂行しているのか」と いう問いへの応答として成立した。日常会話の仕組みを解明する会話分析はそれ自体一つ の学問領域であると同時に,様々なエスノメソドロジー研究を支える方法論としても浸透 している(エスノメソドロジー研究には会話分析のほかにフィールドワーク,インタビュー,

ビデオ分析などのアプローチがあるが,いずれもデータの分析に会話分析の知見を適用す る事例が多い)。会話分析の生みの親である H. サックス,E. ジェファーソンは会話の順番 取りシステム(turn - taking system)を発見し,無秩序な現象のように見える日常会話が 精密な規則体系によって支えられていることを明らかにした。これにより,たとえば重くの しかかってくる沈黙と退屈を表明する沈黙の違いを説明することが可能となる。また,その ような沈黙を回避するために人々が日々実践している方法が解明される。サックスはまず 自殺防止センターに電話をかけてくる者の多くが名前を名乗らない現象に着目した。常識 的に考えれば(個別的な文脈を無視し,あくまで電話の一般的マナーとして考えるならば),

知らない相手と電話越しに会話するのであれば名前を告伝えるのが自然である(でないと 会話が困難になる)。自殺防止センターに電話をかける者たちの行動様式は常識から離反し たものであるが,ではなぜ社会的規範から乖離した行動が成立しうるのか。そこには「名前 を名乗る」という,本来であれば遵守されるはずのマナーを回避しながら会話を遂行する何 らかの方法論が存在しているはずである。その方法論を解明するところから会話分析の研 究は始まった。

通常,私たちは適切な話者交代を繰り返しながら,言葉のやり取りが円滑に遂行されるこ とを目指して会話を行っている。しかし実際の会話にはスムーズな流れを阻害する様々な 因子が発生する。たとえば(電話の発信主が名乗らないなど)常識に背く行為,予期せざる 応答,沈黙,言いよどみ,言葉の重なり合いなどである。これらの痕跡は会話の秩序を破壊 するものであるため,実現されるべき理想的なやり取りを妨害するものとして,極力回避し ようと試みられる。だが裏を返せば「異常」が発生するメカニズムを明らかにすることで「正 常」な会話がいかに成立しているのかを明らかにすることができる。

ところで会話分析と似た言葉に談話分析がある。日常場面の会話データを扱う点は共通 しているが,両者の違いは学問的背景と研究の目的にある。言語学を背景とする談話分析は 言語の一般的機能を明らかにすることを目指す(品詞や構文といった概念が重要となる)。

一方,社会学の文脈から生まれた会話分析はある一定の言語表現を行為のやり方として記

述する(会話分析の論文に品詞や構文といった言葉は登場しない)。会話分析の主眼は「な

ぜそのように話したのか」「そのように話すことはいかに可能となっているのか」を解明す

ることにあり,言語そのものの仕組みにはない。会話分析では方法論的前提として,経験的・

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帰納的記述を重視し演繹的推論を禁止する。会話分析学者たちの発見した種々の規則は「今 ここで何が起こっているのか」を記述するための手がかりに過ぎず,普遍的法則を意味する ものではないからである。会話の規則とは会話がなされている当の状況において,会話して いるまさに当人たちの手によってそのつど産出されるものであり,ア・プリオリに成立して いるものではない。この理論的前提が談話分析と会話分析の大きな違いである。

第 4 章 イメージについて語ること 第 1 節 調査の内容と方法

「音楽のイメージについて人はいかに語るのか」を調べるため,インタビューを中心とす る調査を実施した。調査の概要は以下の通り。

プレ調査

実施日:2018 年 6 月 13 日

対象:弘前大学教育学部音楽科に所属する学部生 12 名および音楽教育講座教員 2 名,計 14 名。

調査内容:調査者(筆者)の用意した楽曲(計 5 曲)を聞き,各曲について自分なりの表 題を考案¹したうえで,曲から感じ取ったイメージを自由に記述。

調査 1

実施日:2018 年 6 月 16 日

対象:教育学部教科教育専攻の学生。高校・大学で音楽系の部活・サークルに所属。

内容:手順(1):プレ調査の内容に同じ。

手順(2):半構造化インタビュー²を実施。

質問(1) :手順(1)の感想について(簡単だったか,難しかったか)。

質問(2):音楽の「イメージ」をどのように感じ取っているか。

調査 2

実施日:2018 年 7 月 28 日

対象:教育学部教科教育専攻の学生。中学~大学で音楽系の部活・サークルに所属。楽器 演奏,指揮の経験あり。

内容:手順(1):省略(プレ調査の参加者であるため)。

手順(2):半構造化インタビューを実施。

質問(1):調査 1 質問(1)に同じ。

質問(2):手順(1)のような活動をこれまで学校の授業で体験したこ

(16)

とはあるか。

質問(3):調査 1 質問(2)に同じ。

質問(4):イメージは「イメージしよう」と意識するのか,自然に出て くるのか。

質問(5):楽器を演奏するとき,指揮をするときに感じるイメージはど のようなものか。

第 2 節 調査結果 2-1. プレ調査

弘前大学教育学部音楽教育ゼミナールにて実施した。調査参加者(ゼミに参加していた学 生)には筆者の研究テーマと調査の目的を伝え,30 分ほどかけて行った。調査参加者の属 性・バックグラウンドは吹奏楽経験者,オーケストラ経験者,ピアノ専攻,小学校教育専攻 など様々である。学年は 2 年生と 3 年生であった。筆者の用意した五つの楽曲³を表題を告 げずに各 3 分程度流し,自由に表題を考案してもらい,曲を聴いて感じた印象やイメージを 自由に記述してもらった。選曲に当たってはジャンルや編成に偏りがないよう配慮し,先入 観の影響を避けるため知名度が低いと思われる楽曲を選んだ。《風紋》に関しては,古い作 品とはいえコンクール課題曲ということもありメジャーな吹奏楽曲に位置づけられること,

またゼミ生の中には吹奏楽経験者が一定数いることを踏まえ,知っている者・知らない者と でどのような結果が出てくるか比較したいという意図で組みこんだ。ただし,結果的に調査 参加者のほとんどは《風紋》を知らなかった。調査に使用した回答用紙の様式は資料 1,回 答結果の詳細は資料 2,3 を参照のこと。

《鉄工場》では「こわい」「不気味」「不安」 「怒り」といったマイナスイメージの記述が 多く,狂乱や荒々しさと結びつくイメージを記述した人が大半を占めた。一方で「にぎやか で活気がある」「かっこいい」という肯定的な感想も一部に見られた。具体的なイメージと しては「戦争」「工場」 「蒸気機関」など人工的なもの,「象」「ライオン」などの動物,「魔 界」 「百鬼夜行」 「古代的な秘教儀式」など非現実性を象徴するイメージなどが見られた。 「色 でいったら紫・茶色」という感想もあった。

《Dolomiti Spring》は五曲のなかでもっとも肯定的な記述が多い結果となった( 「ゆかい」

「楽しそう」 「落ちつく」 「平和」など)。これらのポジティヴな記述と対照的に「特に感じ るものがない」「落ちつかない」という意見があったのは興味深い。また固有名詞(地名・

国名)が多く挙げられ⁴,「山」「広場」「カフェ」「朝焼け」など具体的な情景のイメージを 記述する回答が目立った。

《お祖母さまが撫でてくれる》は 1,2 曲目と対照的に具体的な情景や場面を回答したもの

が少なく,漠然とした印象や抽象的な名詞での回答が多く見られた。 「切ない」 「悲しい」 「さ

みしげ」「もやもやした感情」等,比較的ネガティヴなイメージを感じとった参加者が多か

(17)

った模様である。

《鉄工場》 《Dolomiti Spring》では似通ったイメージが多く見られたのに対し, 《風紋》

ではイメージのばらつきが大きく見られた。具体的なものとしては「ジブリ」 「吹奏楽」 「ゲ ーム音楽」「ファンタジー」「式典」などがあった。「何かが始まりそう」 「わくわく」 「前向 きな気持ち」などポジティヴな回答があった一方, 「不思議」 「なんかよくわからない」とい った感想も散見された。

《Rare Gravity》は具体的なイメージが少なく,漠然とした記述が目立った。「不気味」

「不安な感じ」 「怖いような暗いような」 「追い詰められそう」など,マイナス・イメージが 多い結果であったと言える。「楽しい」「明るい」などの記述は一つも見られなかった。

全体的な傾向として《鉄工場》《Dolomiti Spting》は自由記述の量が多く,《お祖母さま が撫でてくれる》《Rare Gravity》は記述量が少なかった。可能性として,調査後半になる につれ参加者の集中力が落ちてきたことが考えられる。調査の手続き自体がやや冗長にな ってしまったことは今後の反省材料としたい。もう一つ想定されるのは,イメージの知覚な いし感受に音楽の構造あるいは形式が関与している可能性である。《鉄工場》は簡潔なリズ ムやモチーフの反復を特徴とする,いわば「聴きやすい」曲であることから具体的なイメー ジが得やすかったのではないか。《鉄工場》の回答は内容こそ雑多であるものの,非常に具 体的かつ豊富なものであった。特に人工的なイメージ,動物のイメージは複数人から挙げら れており,何らかの音楽的特徴を手がかりとしてイメージを記述したものと考えられる。

《Dolomiti Spring》はペンタトニックによる旋律と変拍子が特徴的であり,そこから「外 国の音楽らしさ」を感じ取った参加者が多かったのではないか。これらの曲が明快な音楽的 特徴を持つのに対し,現代音楽作品である《Rare Gravity》は音楽構造が把握しづらく,ゆ えに曖昧な回答が目立つ結果になったと考えられる⁵。

参加者の一人は曲を聴いて想像した物語・情景を詳細に記述した。 「敵の兵隊がのりこん できて,人々が戸惑っているようなイメージ。後半は,敵の偉い人が後から現れたような感 じ。めちゃくちゃに破壊して,一番の城みたいなところを征服して,終わったというイメー ジを持った」 (《鉄工場》 ) ,「高貴な身分の,無邪気な女の人が,雨の降る中庭で,遊び回っ たり踊ったりしているようなイメージ」 (《Dolomiti Spring》), 「喫茶店で,待ち合わせてい た人 2 人が,話をしている時の BGM って感じ。話しの内容もしくは,二人の関係性があまり よくなさそう」(《お祖母さまが撫でてくれる》 )といったものである。しかし《風紋》に関 しては「王様が死んでしまって,悲しんでいたけれども,自分が跡[原文ママ]に就任する と決意して,でも困難があって…乗り越えて…みたいな感じ」と書いたうえで「なんかよく 分からない」と締めた。五曲めの《Rare Gravity》では「よく分からない所,薄暗くて,で も何かが小さく光っていて…という所にやってきてしまった時の不安な感じが想起された」

と,他四曲に比べて迷いを含んだような回答が残された。形式的特徴が把握しやすかった曲

とそうでない曲とで物語・情景の想像しやすさに差が現れたものと考えられうる。

(18)

¹ 表題を考案するという条件はイメージ記述のための観点を与える目的で設定したもの で,調査実施の時点で特に深い意図はなかった。結果的に興味深いデータが得られたの だが,記述されたタイトル群の分析は今後の課題としたい。

² 半構造化インタビュー(semi-structured interview)はインタビュー形式の一種であ る。あらかじめ質問項目をいくつか定めているが,インタビュアーによる誘導は最小限 にとどめ話し手の自由な語りを尊重する。

³ A.モソロフ《鉄工場》 ,清水靖晃&サキソフォネッツ《Dolomiti Spring》,D. セヴラッ ク《お祖母さまが撫でてくれる》,保科洋《風紋》,藤倉大《Rare Gravity》の五曲。 《鉄 工場》はバレエ音楽から抜粋された管弦楽作品でロシア・アバンギャルドの代表作とし て位置づけられている。工場の音響からインスピレーションを得て作曲されたと言わ れる。 《Dolomiti Spring》はサクソフォン六重奏曲。dolomiti(ドロミーティ,ドロミ テ)はイタリア北東部の地名で東アルプス山脈の一部である。 《風紋》は 1987 年度の全 日本吹奏楽コンクール課題曲として作曲され,のちに「原典版」が出版された。調査で は原典版の音源を用いた。《お祖母さまが撫でてくれる》はピアノ独奏のためのキャラ クター・ピースである。 《Rare Gravity》は管弦楽のための現代音楽作品であり,2013 年に作曲された。

⁴ 「ヨーロッパ」「アメリカ」「韓国」「朝鮮」「南米大陸」「北欧」「アルプス」「スウェー デン」「ギリシャ」など。

⁵ 作曲者の藤倉大は初演時のプログラム・ノートで以下のように語っている(KAJIMOTO NEWS, https://www.daifujikura.com/un/lw_rare_gravity.html ,2019 年 2 月 8 日閲 覧)。

2011 年に娘が生まれて以来,僕は,娘から直接得たインスピレーションで,いくつ もの曲を書いている。今回のこの曲は,母親のお腹からこの世に出てくるまでの間,お 腹の中で羊水に浮かび,どんどん大きくなるのはどんな感じだろうか……との想像か ら生まれた。

2-2. 調査 1

教育学部教科教育専攻の学生(音楽教育ゼミナール所属ではない)に協力を依頼し,先述 した手順(1)および手順(2)を実施した。以下,調査1協力者を K と記す。

K は中学校で陸上部に所属。小学校・中学校時代は音楽に苦手意識があり「(テストの点 数は)音楽が一番悪かった」と語った。高校入学後,あるきっかけで吹奏楽部に入部し,楽 器を始めた。大学でもオーケストラのサークルに入り,楽器を続けている。音楽が大好きと いうタイプではなく,音楽について語る語彙(作品,作曲家,楽曲形式などに関する知識)

も決して豊富なわけではないが,日常的にクラシック音楽をよく聴くという。

(19)

調査は事前にアポイントメントを取り,修論執筆のためイメージ論の研究をしているこ とを当日簡単に伝えた。場所は大学の空き教室で,おおむね一時間ほどかけてマンツーマン で行われた。手順(1)の K の回答については資料 4 を参照のこと。

2-2-1. 手順(1)の結果と分析

《鉄工場》を聴いた K は「地下労働施設」という表題を考案した。初めて聴いた曲であり 事前知識を持っていなかったにも関わらず「象?(大型動物のイメージ) 」 「何かの工場のよ うな感じ」という記述がなされたのは興味深い(プレ調査でも動物や工場,機械といったイ メージを記述した参加者が多く見られた)。 《風紋》は以前から曲を知っていた模様である。

音源の再生を始めると即座に「なんかこれ聴いたことあるな」と漏らした。「この曲を自分 はまだ聴いたことがない,知らないつもりになってタイトルを考えてみて」と促した結果

「馬」というタイトルを創作した。後述するが《風紋》をすでに知っていたため,自分なり の表題を考案するのには困難を覚えた様子であった(曲を知っているだけで演奏したこと はないという)。

全体的な記述の特徴として「何かの工場のような感じ」( 《鉄工場》 ), 「自由な感じ,でも 前に進む感じ」(《Domiti Spring》), 「朝っぽい」 (《お祖母さまが撫でてくれる》) ,「触れて はいけないものに触れようとしている感じ」「時がゆっくり進んでいる感じ」(《Rare Gravity》)など,漠然とした印象を書きとったような表現が見受けられた。

⁶ 質的インタビュー調査には様々な立場があり,データの扱い方も多様である。たとえば演 繹的推論によって科学的かつ客観的な仮説の構築を目指す実証主義,帰納的推論を基に

「語り」の背景にある社会的現実を描出する解釈的客観主義などがある。エスノメソドロ ジーの影響から生まれたアプローチとしては桜井(2011)の対話的構築主義が挙げられる。

対話的構築主義の特徴は語りの内容だけでなく語りの様式(「いかに語ったのか」 )にも注 意を払うこと,また従来のインタビュー調査では軽視されがちであった聞き手の存在を 重視することである。話し手の「語り」は話し手・聞き手の共同作業によって共時的に構 築されるナラティヴであると桜井は主張する(桜井は「語り」が常に言語的様式の制約を 受けるという前提から,語られる「経験」の可変性を指摘している。言葉によって伝達さ れる限り,話し手が過去に体験した事象は話し手の意図に関わらず変形されて表象され うる。ゆえに「語り合う」場の構成員である聞き手の存在意義が問われ,また,語りの様 式が内容以上に意味を帯びてくる) 。本研究ではインタビュー・データの扱いにあたって,

ひとまず桜井の立場を参照している。

(20)

第 7 章 結論

会話分析ではふつう,ある場面のやりとりから一定の知見が得られたなら,他の広範な場 面から似た特徴をもつやりとりを収集し横断的な比較分析を行うことが求められる。会話 分析それ自体が目的でないとはいえ方法論として採用している以上,このプロセスは必須 のものとなろう。これから着手したい。

会話分析は言葉によるやりとりのみを扱うものではない。たとえば串田(2010)は目線や 身振りと言った非言語的痕跡を記述に盛り込みながら「助け舟」と「お節介」がそれぞれど のように組織され実行されるのかを分析している。複数人が共同で何らかの作業を行うと き,会話分析はそこで何が起こっているのかを記述することができる。音楽教育研究の方法 論として取り入れるとしたら創作活動の分析に有効であるだろう。

本研究は「イメージ」という言葉が無反省的に使われている現状への批判意識から,バシ ュラールの詩学を参考に芸術のイメージとはどのようなものなのかを考察した。バシュラ ールによれば,イメージが生成される一般原理を理論化することは不可能である(心理学,

精神分析の放棄)。しかしイメージは無限に自由なわけではない。バシュラールは物質的想 像力論の研究を通じて人間の想像力が一定の方向性を持つこと,すなわち生成されるイメ ージには一定の方向性があることを明らかにした。文学と音楽の違いがあるとはいえ,同じ 曲から出てきたイメージに一定の共通性が見られた今回の調査は物質的想像力論を裏づけ るひとつの証左となるのではないだろうか。

バシュラールはイメージを言葉で説明することはできないと結論づけたが,実際私たち

は音楽のイメージについて語り合うことがある。エスノメソドロジー的に考えれば,イメー

ジについて語る行為は何らかの方法論によって遂行されているはずである。イメージとい

う,よく分からないものについて私たちが語ることが出来る/語ろうとするのは何故なの

か,それはいかにして可能なのか。音楽教育学にエスノメソドロジーの視点を導入すること

で,究極的には「人間はどうやって音楽と関わっているのか」を解明することができるだろ

う。エスノメソドロジーを音楽教育学研究に応用する具体的な方法論の探求については今

後の課題としたい。

(21)

資料

1

曲の表題(タイトル)を自由に考えた上で,曲の印象やイメージ・連想したもの等を記述してください。

1.____________________

2.____________________

3.____________________

4.____________________

5.____________________

(22)

資料 2

1. A.モソロフ バレエ《鋼鉄》より 交響的エピソード「鉄工場」op.19

「葛藤」

規則的[原文ママ]がいっぱい 重い ごちゃごちゃしている どんどん増える 戦 争っぽい 戦ってそう

軍隊 工場 こわい 不気味

「奇襲攻撃」

敵の兵隊がのりこんできて,人々が戸惑っているようなイメージ。後半は,敵の偉い 人が後から現れたような感じ。めちゃくちゃに破壊して,一番の城みたいなところを 征服して,終わったというイメージを持った。

「嵐 / 台風 / 震災」

強風感 激しい,荒々しい 連続している感じが自然現象っていう感じがしました

「産業革命」

鉄道?[原文ママ]*¹ 蒸気機関(→産業)っぽいけどにぎやかで活気(→労働)が ある 1900 年代初めイギリスみたい

「気が狂った魔女」

不気味であやしい。何かをたくらんでいる気がする。気が狂った魔女 いっちゃいそ うになっている。怖い。いろんな音が重なりすぎてやばい。ラッパはふつうにかっこ いいと思った。

「開園前のサーカス」

暗い,人混み,緊迫感 せわしない感じ

「動物たちの主張」

動物の鳴き声のようなもの ゾウ,鳥,サルなど 暗い? それぞれが何かを繰り返 し主張している 怒りのような,さびしさのような,不満のような,色でいったら紫・

茶色

「魔界」

ごちゃごちゃ 不気味 こわい ぞくぞくしてくる ドロドロ 魔界で 1 人の強い王 がいて力を持っていて,しもべたちがこきつかわれてせかせかしている感じ 高い音

(ホルン?とか)は王の強さとか権力っぽい感じで,下の色々鳴っている音が家来が こきつかわれている感じがする

「無機物のパレード」

さいきん「パプリカ」*³というものを見たので,カオスなイメージになるとそれを連 想しちゃいます。

百鬼夜行てき[原文ママ]な?

「おばけやしき」

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