はじめに
1)問題の所在
スーザン・アイザックス(Susan Sutherland Isaacs, 1885-1948)は、1920年代から40年代にかけて活躍した英国の心理学 者、児童精神分析家、そして教育者である。彼女はこれらの分 野で広く読まれた著作や、1933年にロンドン大学に設立された 英国初の発達学科長として推進した教員養成者教育や研究交流 を通じて、英国民の幼児理解を飛躍的に深めたと評される人物 である。ピアジェが提唱した「自己中心性」や「発達段階」の 批判者、クライン派精神分析の論客としても知られた。 本研究は、アイザックスの仕事を、現代イギリスにおける幼 児教育評価改革の動向との関連で捉え、その意義を再確認しよ うとする試みである。具体的には、第一節において2021年度施 行の法定基準の柱を示し、幼児教育評価における観察記録の位 置付けの大幅な後退とその問題点を指摘する。第二節でアイ ザックスの残した二つの観察記録(observational records)を 提示し、現代の教育評価に与える示唆を検討する。 ここでアイザックスの観察記録について簡単に述べておくと、 その一は、1920年代半ばに小さな実験学校で採取された幼児集 団の3年半にわたる参与観察の記録で、1930年代初めに刊行さ れた2巻の著書に収録されている。その二は、正確にはアイザッ クス自身が行った観察の記録ではない。1930年代半ばに、幼児 学校教師のために開発した観察記録記入用カードと記入範例、 及び利用の手引きに添えた提言である。 2)先行研究1) アイザックスは、1960年代半ば過ぎにいっとき幼児教育関係 者の注目を集めた。これは、1967年の教育諮問委員会報告書『児 童と初等学校』(プラウデン報告)が、子どもの興味関心に従 うインフォーマルで総合的な教育を推奨して世界的な脚光を浴 び、アイザックスの理論と実践がその先駆と目されたことによ 聖徳大学大学院教職研究科・教授
アイザックスと現代イギリスの幼児教育評価改革
―アイザックスの二つの観察記録再評価の試み―
椨 瑞希子
Susan Isaacs and the English Early Years Assessment Reforms
– Revisiting Her Two Observational Records –
TABU, Mikiko
要旨 本研究は、アイザックスの仕事を、現代イギリスにおける幼児教育評価改革の動向との関連で捉え、その意義を 再確認しようとする試みである。第一節において 2021 年度施行予定の法定基準の柱を示し、幼児教育評価におけ る観察記録の位置付けの後退とその問題点を指摘し、第二節でアイザックスの残した二つの観察記録(observational records)が果たした歴史的役割、すなわち子ども観の変革と幼児教育の刷新を確認する。幼児理解を深め、より よい学級経営に活かすために観察記録を用いるというアイザックスの提言を教育評価の在り方の指針としたい。 キーワード スーザン・アイザックス,イギリス,EYFS 改革,評価,観察記録 AbstractThis study attempts to reconfirm the significance of Susan Isaacs' work by viewing it in relation to trends in the reform of early childhood education evaluation in modern England. Section 1 examines “Statutory framework for EYFS reforms early adopter version” and “Profile 2021 handbook”, scheduled to come into effect in 2021, and points out a retreat in the position of observational records. Section 2 confirms the historical role played by the two observational records left by Isaacs, and examines her suggestions on the way of educational evaluation for supporting children.
Key words
ると思われる。アイザックスへの言及は21世紀への転換期あた りから、再び目立つようになる。まとまった論考としては、ガー ドナー(1969)、スミス(1985)に続く第三のアイザックス伝 が2009年に出版されている。著者グラハムは精神科医で、私信 などの新たな資料を示しながら、これまであまり知られてこな かったアイザックスの私生活と葛藤について語り、両大戦間の 精神分析界に生きたアイザックスの姿を描き出した。そのほか、 2017年には、ヴァランスが手掛けたアイザックスの育児相談回 答集の解題が刊行されている。 邦文単著としては、懸田(1954年)、椨(1989年)、大塚(1995 年)、下司(2006年)らによる翻訳ならびに論考がある。とり わけ下司の研究は、英国における精神分析が「精神分析的子ど も」を誕生させた過程とその浸透にアイザックスが果たした役 割について精緻な検証を行った学術理論史で、日本における研 究に欠落していたアイザックスの精神分析家教育者としての在 りようとその功罪を明らかにした。アイザックス研究に新たな 地平を開いた労作である。 しかしながら、上記はいずれもアイザックスの観察記録を幼 児教育評価との関連で考察していない。その観点よりアイザッ クスを取り上げた論考としては、ベイカー(1993)とウィラン (2009)の小論が知られているので、第二節で検討する。 3)用語について 本稿では英国は連合王国(United Kingdom)を、またイギ リスはイングランド(England)を指す語として用いる。幼児 については、以下の事情から、1980年代あたりまでは2歳以上 8歳未満をいい、近年については、学齢未満を指すものとする。 英国の義務教育制度の歴史を遡ってみると、8歳未満の子ど もの多くが、2、3歳の頃から幼児学校(infant school)ある いは小学校幼児部(infant department)に在籍していたこと がわかる。就学年齢は「1870年教育法」によって満5歳と定め られてはいたが、学齢未満児が幼児学校/部から完全に締め出 されたことはなく、そこにおける教育は次第に遊びを交えた活 動的で総合的なものに変わっていった。1933年の諮問委員会報 告(第6ハドウ報告)2)は、表題『幼児・保育学校について』(on
Infant and Nursery School)が示す通り、幼児学校と学齢未満 児対象の保育学校との一体的在り方を模索していた。 8歳が区切りとなっていた証は、子どもと関わる職員の資格 にもみてとることができる。幼児学校/部では、教員免許保有 者(Qualified Teacher)と複数のナーサリー・ナース(nursery nurse)がチームを組んで働くのが一般的3)であったが、後者 は学校及びその他の施設において、乳児から8歳未満の子ども のケア(養護)を担う職種であった。8歳未満児には養護的な 関わりが必要であると認識され、それ以上の学童とは異なる配 慮のもとに置かれていたことの表れといえよう。 近年、8歳未満をひとまとまりに扱う論考はほとんど見られ ない。学齢の始期(5歳)を境にその前後が峻別され、学齢未 満に関しては人生の最初期を意味する“early years”(本稿で は乳幼児と訳す)が、教育とケアを統合した営みを指す用語と して定着している。2014年には、学校種の区別がない従来の教 員免許に加えて、新たに学齢未満に特化した乳幼児教員(Early Years Teacher)免許が、また、その下位資格として乳幼児教 育者(Early Years Educator)資格が導入された。
図表1.改革EFYSの学習と発達の領域と早期学習目標 領 域 早期学習目標(ELGs)全17項 主要3領域(prime areas) 意思疎通と言葉 Communication & Language 傾聴、注意、理解 Listening, Attention & Understanding 話すこと Speaking 人間的・社会的・情緒 的発達 personal, social& emotional development 自己の統制 Self-regulation 自己の管理 Managing Self 関係の構築 Building Relationships 身体的発達
physical development 粗大運動スキルGross Motor Skills 微細運動スキル Fine Motor Skills 特定4領域(specific areas)
読み書き(識字)
Literacy 理解 Comprehension語の読み Word Reading 書き Writing 数学
Mathematics 数 Numbers様々な数Numerical Pattern 世界の理解
Understanding the world
過去と現在 Past and Present 人、文化、近隣社会
People, Culture & Communities 自然界 The Natural World 表現芸術とデザイン
Expressive Arts and Design
素材の探究と利用 Creating with Materials 創造と表現
Being Imaginative & Expressive
【DfE ; EYFS reforms early adopter version, July 2020より筆者作成】
2)評価と評価データの収集
EYFSは導入当初より「EYFS修了時評価」(Assessment at the end of the EYFS)を法定評価として実施してきた6)。
算の指導に明け暮れた100年前に逆戻りさせかねない。これは 法定評価の導入と結果の収集がもたらす災難といえまいか。 英国における子ども研究の歴史は、観察記録が子ども観の変 革と幼児教育の刷新をもたらしたことを物語っている。とりわ けアイザックスのM校の記録は、社会的で合理的に思考する幼 児の姿を捉えて、幼児像を変革した。その点は衆目の一致する ところである。M校の記録はまた、豊かな教育環境と専門性の 高い教師の存在がもたらす、幼児の経験の広がりと学びの深ま りを伝えており、図らずも教育的関わりと改善の過程を示す形 成的評価の好例となっている。形成的評価の語は見当たらない が、観察記録に基づいた指導の改善が幼児教育界に根付いて いったことは、ロンドン大学でアイザックスの薫陶を受けた教 員養成者や現場教師の証言が物語っている31)。 アイザックスの遺した教育ガイダンスのための観察記録カー ドは、記入項目に知能テスト結果や5段階相対評価項目が含か れでおり、英国における総括的評価の歴史の中で改めてその意 義を検討する必要がある。しかし、教師用手引きにアイザック スが綴った提言は、心理学者、精神分析家、教育者としての彼 女の経験と見識、知恵の言葉として、今日なお傾聴に値する。 注 1) 記 載 順 に 次 の 通 り。 第 一 の 伝 記:Gardner, D. E. M., 1969, Susan Isaacs, Methuen Educational. 第二の伝記:Smith, L. A. H., 1985, To Understand to Help, The Life and Work of Susan Isaccs, Associated University Press. 第三の伝記:Graham, P., 2009, Susan Isaacs, A life Freeing the Minds of Children, KARNAC. 育児相談解題:Vollans, C., 2017, Wise Words: How Susan Isaacs Changed Parenting, Routledge. アイザックス著・懸田克躬訳『幼児のしつけ方』要書房1954年。椨瑞 希子著訳・アイザックス著『幼児の知的発達』明治図書1989年。大塚 忠剛著『アイザックス幼児教育論の研究』北大路書房1995年。下司 晶著『<精神分析的子ども>の誕生』東京大学出版会2006年。Baker, C., Recording for assessment in early education: the contribution of Susan Isaacs, Early Child Development and Care, Volume 92, 1993-Issue 1. Willan, J.; Revisiting Susan Isaacs–a modern educator for the twenty ‐ first century, International Journal of Early Years Education, Volume 17, 2009 - Issue 2.
2) 1930年代に至るまでの幼児対象の学校整備過程については同報告 に 詳 し い。Board of Education, 1933, Report of The Consultative Committee on INFANT AND NURSERY Schools. 同書所収の覚書「7 歳プラスまでの精神発達」は、8歳未満を切れ目なく扱うことの妥当 性を専門の立場から強調した意見書で、アイザックスが執筆した。 3) REVIEW OF EARLY EDUCATION AND CHILDCARE
QUALIFICATIONS: INTERIM REPORT, MARCH 2012 (Nutbrown Report), p.15.英国における保育職資格の歴史について
の短いコラムがある。
4) Department for Education(DfE), 2017, Statutory framework for the early years foundation stage.椨瑞希子(2019)「現代イギリスにおけ る保育の記録と評価」『子ども学第7号』萌文書林を参照。 5) DfE, 2020, EYFS reforms early adopter version, July, 2020.
6) 2012年の全面改訂より「2歳児発達状況チェック」(Progress Check at Age Two)が加わっている。
7) DfE, 2017, op. cit., p.14. 8) DfE, 2020, op. cit., p.18. 9) Ibid., p.19.
10) DfE, 2020, Early years foundation stage profile 2021 handbook, EYFS reforms early adopter version, p.6.
11) Standards & Testing Agency(STA), 2019, Early years foundation stage profile 2020 handbook, p.9.
12) Ibid. , Section 8.
13) WebサイトGov.UKの次の頁を参照。年度ごとのEYFSプロフィー ルのデータが自治体単位で集積されている。Data collection and statistical returns, Statistics: early years foundation stage profile. 14) STA, 2019, op. cit., p.11.
15) STA, 2014, EYFS profile exemplification for the level of learning and development…ELG17–Being imaginative, p.8.
16) Ofsted, 2017, Bold beginnings, pp.26-28. 17) Ibid., p. 7. 18) 政府ウェブサイトを参照。https://www.gov.uk/guidance/reception-baseline-assessment 2020年8月15日最終確認。 19) 椨(1989)、前掲書、47-51頁 20) 上掲書、第2部第2章。 21) 上掲書、80頁。 22) 上掲書、80-92頁。
23) Isaacs, S., 1930, Intellectual Growth in Young Children, Routledge & Kegan Paul, pp.179~183.
24) Ibid., p.115.
25) Ibid., pp.233-235.(日誌形式の記録の第3週) 26) Isaacs, 1930, op. cit., p.115.
27) Issacs, S. et al., 1936, The Educational Guidance of the School Child- Suggestions on Child Study and Guidance Embodying a Scheme of Pupil’s Records, Evans Brothers Limited. 椨瑞希子(1993)「スーザ ン・アイザックス『インファント・スクール教師への提言』について」 筑波大学外国教育史研究室年報22は、上記の第2章の全訳とその解題 からなる。
28) Baker, 1993, op. cit., p.16. 学 力 テ ス ト は カ リ キ ュ ラ ム 段 階(Key Stage)ごとに、1991年から順次実施された。
29) Isaacs, 1936, op. cit., pp.65-66. 30) Ibid., pp.80-86.
30) Willan, op. cit., pp.157-164.