ウィーン世紀末の芸術家であるグスタフ・クリムト の天井画,壁画,油彩画,素描を主に,さらに19世 紀末のウィーンの芸術界の動向を含めた社会状況を研 究対象に加える。イニシアティブの期間内に,これま での卒業論文,修士論文における研究内容を整理し, 新たな課題を検討するとともに,19世紀末のウィー ンにおける芸術界の動向について資料収集と整理を試 みている。 19世紀末ウィーンを代表する芸術家であるグスタ フ・クリムトの画業を捉え直すという最終目標を掲 げ,卒業論文にて風景画,修士論文にて寓意画の代表 作である「学科絵」と「ベートーベンフリーズ」に焦 点をあて考察してきた。グスタフ・クリムト(1862‒ 1918)は19世紀ウィーン芸術界の指導的役割を担い, ブルク劇場の天井画,「接吻」,ストックレー邸のフリ ーズ,「ベートーベンフリーズ」といった傑作を数多 く生み出した。クリムトは生涯におよそ十数点の壁画 や天井画,230点の油彩画,芸術家グループによって 発行されていた機関誌の表紙や挿絵,スケッチ,数千 にも及ぶ膨大な素描を制作している。作品はその描か れたモティーフから寓意,肖像,風景画のジャンルに 分類が可能である。それゆえグスタフ・クリムトに関 する先行研究ではそれぞれのジャンル内での考究に留 まっており,ジャンルを超えた比較,検討には及んで いなかった。 しかしながらクリムトは寓意画,風景画,肖像画を 同時進行させながら制作していたと考えられ,ジャン ルを超えた比較,検討がクリムトの研究において必要 不可欠な作業となった。点描の観点から3つのジャン ルを超えたつながりを指摘すべく,資料の収集,整理 を試みる。 ジャンルを超えた考察にあたり,比較,検討の1つ として点描機能を取り上げる。風景画における点描の 使用に関して卒業論文にて考察したが,画業を概観す ることにより肖像画,寓意画にも点描が使用されてい ることに気がつく。風景画の点描使用は1900年初頭 に始まり,1909年頃に制作された「公園」を境に使 用が減り,晩年の作品「ガスタイン」では点描がみら れない。同様に,寓意画,肖像画の背景,衣服の模様 に点描が使用されていたが,風景画と同様にその使用 頻度は晩年になるにつれ減る。点描が肖像画,風景 画,寓意画のジャンルを超えたつながりを示す要素で あり,ひいてはクリムトの画業,ウィーン芸術界に関 しての新たな解釈が可能となる。 以上の研究課題に対して先行研究,資料収集に取り 組んでいる。クリムトは作品に対する自身の言葉,解 釈等をほとんど残していないことから,同時代のウィ ーンにおける社会的状況,芸術界の状況が研究資料と なる。またクリムトの作品に対する学術的な研究論文 は少ない故に,クリムトが活動に参加していたウィー ン分離派の状況,分離派の機関誌『ヴェル・サクル ム』,1900年当時の新聞や雑誌に寄せられた作品や当 時の芸術界に対する批評記事,展覧会紹介記事等も同 様に極めて重要な資料となる。上述の1900年代初頭 の新聞,雑誌等の資料を取り寄せるには,ウィーンに あるオートリア国立図書館,資料館を実際に訪れての 資料収集を行う必要があるが,その前段階として現 在,批評記事,特に分離派に関する資料を日本の大学 図書館,美術館図書館から収集し,整理を行ってい る。分離派は総合芸術を目指して活動していたことに より,クリムトをはじめオットー・ワーグナー,カー ル・モルらの当時ウィーンを代表する芸術家の多くが 分離派のなんらかの活動に関与していた。それゆえ分 離派に関する資料は比較的多く残され,且つ文献とし て1つにまとめられている。また,ウィーンの芸術界 の動向を知る手だてとして,ウィーン工房の内容を把 握する必要が生じる。クリムトの芸術家としての展覧 会における活動,同時代の芸術家との交流,批評から クリムトの作品を客観的に捉えることが可能となる。 以上の資料収集の成果は,19世紀末の社会,文化 的な観点からのクリムト研究に新たな視点を提供しう る。 ◎現段階で収集を試みている文献リスト ・Ludwig Hevesi, Altkunst-Neukunst, Wien, 1909 ・Hermann Bahr, Secession, Wiener Verlag, 1900
・Peter Vergo, Art in Vienna, 1898–1918, Phaidon, Oxford, 1981 ・Ludwig Hevesi, Acht Jahre Sezession, Ritter, Klangenfurt, 1984 ・Herausgeber, Vereinigung Bildender Kunstler, Wiener Secession,
グスタフ・クリムトの風景画における資料収集について
Die Wiener Secession, H. Bohlaus Nachf, 1986
・Donald Daviau, Der Mann Von Übermorgen, Österreichischer Bundesberlag, Wien, 1984
・Robert Waissenberger, Die Wiener Secession, Jugend&Volk, Wien, 1971
・Ilona Sarmany-Pasons, Der Einfluss der französischen
Postimpressionisten in Win und Budapest, Mitteilungen der
Österreichischen Galerie, Nr. 78‒79
・“Secessionismus und Abstraktion”, Osterreichische Kunst 1900‒ 1930, Galerie Metropol(展覧会カタログ) ・「スーラと新印象派」2002年(展覧会カタログ) ◎資料所蔵機関 京都工業繊維大学(図書館),京都国立近代美術館,愛知県 アートライブラリー,豊田市美術館,お茶の水女子大学(図 書館),国立西洋美術館図書館,東京国立近代美術館ライブ ラリー
1.はじめに
平成18年度奄美・沖永良部研究合宿は,科研費プ ロジェクト「言語表象と脳機能から見た環境生成のメ カニズム──生きられる空間の複相生をめぐって」の 四本柱のうち,「言語記号システムの先端的な分節‒表 象の場である文学テクストにおいて,出来事の表象と 記憶の問題がどのように探求されてきたのか」,「日本 の社会・自然システムの周縁部である離島地域におい て,現代的なシステムのグローバル化によって,伝統 的な身体,社会,自然の分節‒表象のされかたがどの ように変容したのか」という2つのテーマに基づいて 企画された。報告者上野は,これまで前期課程におい て,テクスト内における鉱山,鉱物に象徴された地下 世界を通して,ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリス の世界観,宇宙観を考察してきた。しかし修士論文を 書く際に改めて,ノヴァーリスにおける詩的世界と自 然科学的環境が相互に作用するという問題が浮かび上 がった。今後そのテーマを深めるにあたって,奄美・ 沖永良部研究合宿がいかに有益な体験となったか,そ れを以下に示したいと思う。また,報告者鶴田は民間 伝承に関心を持っており,修士論文ではグリム童話に おける涙の役割について考察してきた。グリム童話で は,主人公の救済につながるものとして自然崇拝と登 場人物の涙を流す行為があげられる。しかし修士論文 執筆の際,実際に童話が編まれた19世紀の人々の心 性や時代背景の観点が不足しており,今回の研究合宿 では,人々の心性を作り出す根底にある人々の生きた 環境が,民話の中で如何に語られうるか,その実態の 一例を聞き取ることが出来た。2.ノヴァーリス及びドイツ・ロマン派にお
ける自然科学的環境と文学の関わり
現在報告者(上野)は,文学テクストに描かれた自 然科学的側面と内面空間が,現実世界における自然科 学と空間とどのように係わり合い,互いに作用しあっ ているかということをテーマとして研究を進めてい る。その際手がかりとするのは,詩人ノヴァーリスを 中心としたドイツ・ロマン派のテクストである。ノヴ ァーリスは法学,哲学,文学,歴史といった人文科学 研究だけでなく,数学,物理,化学,地質学,鉱物学 などの自然科学研究にも親しみ,これらあらゆる分野 の知識を融合させた詩・小説を理想型として作品を残 した。特に地質学,鉱物学にいたっては,彼が就いて いた職にも関連していたこともあり,その造詣の深さ は,彼の師 A. G. ヴェルナーに劣らない。日々の生活 と密着した自然観察や,学問的な探求心から生まれた 彼の作品には,美しい鉱山が描写されており,それは 内面と宇宙空間を同一視した unio mystica という世界 観・宇宙観を表象している。また,地下を探求する姿 勢は錬金術における賢者の石をはじめとして,神秘主 義やアニミズムといった非キリスト教的宗教観につな がる。 日本の最南端にある沖永良部島の地形は非常に複雑 であり,北部は比較的なだらかな地形が広がるが,中 部以南は緑豊かな山が連なっている。中でも沖永良部「生きられる空間」の複相性をめぐって
──文学テクストに見る出来事の表象と記憶の問題
上 野 ふ き・鶴 田 涼 子
ドイツ文学専門 後期課程1年
は,隆起性サンゴ礁から成る島で,全島のほとんどが サンゴを起源とする石灰岩で出来ており,島の西部に ある最高地点の大山(標高246m)の周辺は,ドリー ネが発達したカルスト地形となっている。地下には多 数の鍾乳洞が発達しており,豊かな海と豊かな山をそ れぞれの地下において水路がつないでいる。今回現地 調査を行なったのは,島の生命を支える水場と島の中 で最大規模を誇る昇竜洞である。水は石灰岩を通し て,水場へと流れてくるため多くのカルシウムを含ん だ栄養価の高い飲料となっている。それは飲まれるこ とによって身体の骨と変化する。そしてその骨はやが て石灰岩の山の中に葬られる。人間の骨は自然の骨に 返されるのである。ここには生命の循環を表すアニミ ズム的宗教観が現れている。また,ドイツにおいては ユング以降,鍾乳洞的世界は,集合的無意識が抱える 形象の貯蔵庫として表象されてきた。このような内陸 的ドイツ的な表象とは違って,陸地と海との狭間にあ る沖永良部の鍾乳洞は,日常と非日常との狭間,意識 と無意識との中間地帯として独自の表象世界を産み出 している。 奄美大島を生涯の地として選んだ作家島尾敏雄は, 独自の「ヤポネシア」文化論を展開した。彼の作品の 多くには,文学的表象とアニミズム的表象と,また沖 縄文化やキリスト教文化,琉球王朝の支配下に置かれ る以前の奄美固有の文化といった,複数の文化の融合 が見られ,沖永良部を舞台として描かれた干刈あがた の文学作品にもアニミズム的表象世界が現れている。 こうした世界はノヴァーリス的世界表象と多くの点で つながるものである。ノヴァーリスの作品の中で,無 機物であるはずの石に魂を認め,鉱山を1つの生命体 として考える思考は,死した人間の骨を珊瑚の洞窟に おさめ,魂を自然へ返すという,伝統的埋葬を守る奄 美群島の世界観と共通する。ノヴァーリスが比喩的に 物語という形式で無機物と有機物を合一させた姿が, 奄美では実体化していると感じられた。ドイツ的・山 岳的な地下表象とアジア的・群島的地下表象が結びつ くことによって,東西の隔たりを越えた環境,宗教 を,文学テクストを通して考察し得る可能性が見られ た。今後研究を続けていく上で,テクストのみに固執 するのではなく,このようなテクストから環境を,環 境からテクストを読むという観点を生かしていきた い。
3.グリム兄弟の収集した民間伝承の生成と変
容過程と伝えられる唄の地域性の関わり
報告者(鶴田)は現在,「グリム兄弟の蒐集した民 間伝承の生成と変容過程」を研究テーマとしている。 作者を持たない民間伝承には,その土地の地形や風 土,習慣などが色濃く出ている。ひとつひとつの伝承 は,その伝承が生まれた土地の「かつて生きられた空 間」を証言し,さらには,それを語り継ぐ人々の「生 きる空間」を映している。民話を語り伝える人々に は,彼らが生きている空間における自然表象がおのず と絡んでくるためである。そのため,報告者は口承文 芸における自然表象という観点から,民話を研究しよ うと考えている。民話を収集したグリム兄弟の態度に は,無意識的に表象されるもの,外的に見えないとい う理由で忘れ去られようとしているものを大切に保存 しようとする信念が貫かれている。人間が抱きうるさ まざまな表象は,20世紀になってユングによって集 合的無意識という名で捉えられてきた。それは「生き られる空間」からの恵みであり,民間伝承を研究する 際には,その話の生成過程における表象と伝承過程に おける表象の問題を忘れることは出来ない。今回報告 者は,このように表象のメカニズムを追って,人間の 精神活動の根本を理解しようとし,そこからグリム兄 弟が集めた民間伝承をあらたに捉え直すことを試み た。 聞き取り調査を行った奄美諸島は,琉球王朝の文化 と本土の文化との狭間にあり,「クレオール主義」と いう多民族的・多文化的な概念を打ち出した今福龍太 氏は,近年,群島論を展開する中で奄美諸島を活動の 拠点のひとつとしている。日本では,奄美諸島におけ る独自の文化を表すものとして,近年シマウタへの関 心が高まっている。集落(シマ)ごとに唄われるシマ ウタは,島の人々の「生きられる空間」を体現してい る。今福龍太氏を導き手として迎えた沖永良部島での 現地調査では,三汁(さんしる)と呼ばれる楽器演奏 や島唄を聴く機会を得たことによって,同じ奄美文化 圏の中でも島毎に文化的色彩が違い,1つの島の中で も,さらに小さな集落毎に伝統芸能が違うことを検証 することが出来た。沖永良部島で唄い伝えられてきた ウタが持つ精神は,グリム童話のもつ信念とかけ離れ てはいない。なぜならグリム童話は,まだひとつの国 として成り立っておらず,300余りの国に分かれてい た19世紀初頭のドイツに編まれたからである。方言 や土地特有の表現が見られるものもある。グリム兄弟の収集した民話にはゲルマン的,ケルト的,キリスト 教的,さらにはアラブ的な要素がさまざまに入り交じ っており,それらを研究することは,そもそも文学研 究の枠内では収まりきらない,脱領域的な視野を必要 とする。 沖永良部では,記念碑や跡地を巡ったが,中でも水 場が神聖な場であり,泉の周囲に人々が集まって集落 を形成している。人々の生活空間と自然環境を知るた めのこれらの経験は,生きる糧のひとつとしての水に 対する思い入れを知ることになり,口承文芸が持つ自 然崇拝の表現の多様性を読み解くひとつの鍵となっ た。また,テクストを「読む」という行為と,口承に よって「聞く」という行為から生み出される表象の乖 離を目の当たりにした。こうした想像と現実の乖離は 実際に現地に赴かなければ体験できないことである。 そのため,民話が生まれた14世紀の地域性や習慣が 今どのように息づいているかを知るためは,実際に話 が生まれた土地に赴き,現地の方から話を聞き,当時 の様子との違いを確認する必要性を再認識している。
4.おわりに
上野は,今後,「ノヴァーリス及びドイツ・ロマン 派における自然科学的環境と文学の関わり」というテ ーマで実地調査を通し,神秘学的な視点ではなく自然 科学的な観点からノヴァーリスの一面を解釈していく 予定である。ノヴァーリスが数学と詩を融合させよう とした過程と成果について考察する中で,本来的な意 味における文理融合型の研究を目指すものであるが, 自然科学的な学問の発展とロマン派的な想像力の飛翔 を可能にした鉱山というもののあり方を多角的に検証 するために,現地調査は不可欠なものとしてある。鶴 田は,博士論文では,「森と水」というテーマに即し ていくつかの民話を取り上げ,物語の舞台となった時 代背景と,これら民話がグリム兄弟によって書き言葉 にまとめられた当時の時代背景を検証し,それが受容 されていく中でどのような変化を被ったかを明らかに したいと考えている。今後,民話が生まれた地と環境 の変化,またそれに伴う人々の心性の変化の視点から 民話研究を進めるにあたり,ドイツの「シュヴァルツ ヴァルト野外博物館」を訪ね,森や泉に対する人々の 捉え方の変化についての聞き取り調査と,それをめぐ る言説の記録を行う計画である。文学作品には,その 物語を生みだす感情とそれを生成するための環境があ る。それは自然,つまり木,水,石,海,空など,人 をとりまく環境が作者の五感によって感知され,思い 出され,また表出されるものである。奄美での実地調 査を終え,文学テクストと改めて向かい合った今,博 士論文の執筆のためには,テクストが生まれた経緯 や,テクストが書かれた時代状況,書いた人を取りま く環境を現地に赴くことで追究することが必要である という認識に至った。テクスト分析と現地での実地調 査が重なり合ったところに,文学研究の真髄をみるこ とが出来ることを強く感じている。 筆者は,セネガルの首都ダカールにおける現代芸術 (舞踊)に関する研究を主眼としている。対象として いる舞踊は,日常的に人々の間で踊られているもので はなく,舞台上でプロの人々が踊り,披露するもので ある。彼らはそれを,「バレエ・スタイル」の「アフ リカン・ダンス」1)と呼んでいる。そしてその 「 アフ リカン・ダンス 」 は,セネガル人ないしその他のアフ リカ人ミュージシャンを通じ,または習得しに現地へ 行った日本人を通じて,日本へ紹介されている。 将来的に,現地(セネガル・ダカール)で調査する ことを踏まえ,現在は,日本における「アフリカン・ ダンス」クラスに通う人々を対象に調査を行ってい る。なぜなら,日本でのクラスと,セネガルでのバレ エ・カンパニーは密接に関わりがあるからである。 「アフリカン・ダンス」,「アフリカン・ドラム」2)が 日本に広がり始めたのは,1980年代後半辺りからで ある。その頃から日本国内で,西アフリカの音楽家の 公演が開かれたり,日本人によるセミナーやワークシ日本における『アフリカン・ダンス』の広がり
──東海地区のダンス・クラスを事例に
菅 野 淑
文化人類学・宗教学・日本思想史専門 前期課程2年
ョップ等の活動が行われたりし,紹介されてきた。 1991年にヨーロッパで制作され,1993年に日本で上 映されたドキュメンタリー映画『ジャンベフォラ』の 影響により,さらにその広がりを見せた。そして現在 では,先にも述べたが,アフリカから来日し,日本に 在住するようになったミュージシャンや,1980年代 からワークショップに参加していた人々が,東京を中 心に公演や指導等の活動を行っている[柳田 2000: pp. 46‒47]。 筆者が調査対象としている地域は,東海地区であ る。その東海3県(愛知・岐阜・三重)に存在する 「アフリカン・ダンス」クラスは,現在のところ1つ のみである3)。筆者が参加し,調査を行っているその クラスは,2005年から始まったものである。その主 催者は,セネガル出身の男性(S. A. D)である。彼 は,2004年夏に日本人女性との結婚を機に来日した。 現在は,彼の行う「ダンス・クラス」は,岐阜県多治 見市と愛知県名古屋市北区の2箇所で定期的に開かれ ている。毎年12月中旬から2・3月までは,S. A. D が自国セネガルへ一時帰国するため,クラスは休みと なる。4月から12月初旬までが,主な活動期間であ る。筆者は,2006年5月から現在まで,継続して参 与観察を行っている4)。 多治見クラスは,毎月第2・4水曜日に行われる。 ドラムのジェンベ・クラスが18:15から19:45まで, ダンス・クラスが19:50から21:20までである。実施 場所は,多治見市にある市の文化施設である。それぞ れ受講料は月5000円で,1回のみ受講する場合は 3000円である。ジェンベ・クラスの場合,ジェンベ をレンタルする受講者は,そのレンタル代として,毎 回500円をさらに支払う。 名古屋クラスは,月2回,基本金曜日にダンス・ク ラスのみが行われる。時間は,19:30から21:00まで である。場所は,名古屋市北区にある市の文化施設で ある。受講料は,1回のみの場合は3000円,3回受 講の場合は,先払いで7500円である。 受講者数だが,多治見クラスの場合,ジェンベ・ク ラスが8名,ダンス・クラスが10名程度,名古屋ク ラスの場合は,13名程度である。固定的なメンバー が大半ではあるが,毎回1・2名位,見学者や新規受 講者が訪れる。 受講者の職業は,会社員や派遣社員,教師や自営業 などと様々である。彼らの受講理由は,以前から「ア フリカン・ダンス」や「アフリカン・ドラム」に親し んできたもの,Hip Hop やレゲエ5)などを好み,その 延長上で始めたもの,何かダンスをしたくて受講し始 めたもの,友人に誘われて参加したもの,などであ る。 彼らの中には,実際にセネガルないし隣国のギニア へ渡航経験があるものもいる。この S. A. D のクラス では,本年度は実施されていなかったが,東京などに 在住するアフリカ人ミュージシャンの多くは,自国へ のワークショップ・ツアーを毎年のように行ってい る。これは,2週間から1ヶ月程度,「アフリカン・ ダンス」や「アフリカン・ドラム」を現地で習おう, というツアーである。その時期は,12月から翌年の 3月までの間に企画されることが多い。 参加者は,ともに参加した数人の日本人と一緒に現 地の一軒家などに宿泊し,朝から夕方までダンスやド ラムのワークショップを受ける。夜には,主催者側が 企画したパーティに参加し,週末には観光地を訪れた り,市場で買い物を楽しんだりする。参加費用は,宿 泊費,レッスン代,食事代などを含み,2週間で20 万円程度である。そこに航空券代や海外旅行の保険代 は含まれていない。参加費用が安くないにも関わら ず,毎年多くの人が参加する。 このワークショップ・ツアーに参加したものの中に は,その後,再び渡航し,今度は3ヶ月から1年程度 も現地に滞在するものもいる。彼らは,日本にいる間 は働き,お金を貯める。そして仕事を辞め,長期間習 いに行くのである。帰国後彼らは,習得してきたもの を日本人に教えたり,様々なイベントで披露したりす る。 筆者が参与観察をしているこの S. A. D のクラスは, 彼がセネガルへ帰国中のため,現在休止中である。だ が,定期的に自主練習会を行っている。また,名古屋 近辺で活動している,他の「アフリカン・ダンス」, 「アフリカン・ドラム」グループとともに,イベント に出演したりもしている。 受講者たちは,「アフリカン・ダンス」を踊ること が大変好きなようである。それに加え,ダンス仲間と 会うことも楽しみの1つであるようである。彼らは, 仕事上でのストレスなどを,踊ること,仲間と会って 話すことで解消していると感じる。現在彼らは,4月 から再び始まる S. A. D のクラスを心待ちにしている ようである。彼らは,もっと多くの種類の「アフリカ ン・ダンス」を習いたい,もっと「かっこよく」踊り たい,もっと「アフリカのこと」を知りたい,と思っ ている。そして,いつかは実際に「アフリカ」へ行っ てみたいと考えているようである。
以上が,現在までの調査で明らかになったことであ る。 今後は,ダンス・クラスを受講する人々の,より詳 細なパーソナル・データの聞き取りを行う。加えて, 参加動機などについても同様に聞き取りを行う。ま た,名古屋近郊で行われているイベントやワークショ ップにも参加し,参加者やその様子について観察を行 う。文献による調査も併せて行っていく。 注 1) 「アフリカン・ダンス」と言っても,アフリカには数多く のそれらが存在しており,一言で述べられるものではない。 だが,この報告においては,現在筆者が調査対象とし,フィ ールドワークを行っているダンス・クラスで踊られているダ ンスを,「アフリカン・ダンス」と定義する。それは,西ア フリカ,主にセネガル・ギニア・マリで踊られているもので ある。 西アフリカの「伝統的」なダンスの特徴は,基本姿勢が一 般的にコラップス(屈曲姿勢)と呼ばれるもので,膝と腰を 軽く曲げ,胸が自然に地面と向き合うような形になるものが 多い。また,身体の各部分を独立させて動かすアイソレーシ ョンというテクニックを使い,一人でポリリズムを表現する ような動きが見られる[柳田 2000:p. 28]。 2) 「アフリカン・ドラム」もダンスと同様である。このダン ス・クラスで踊る際に使用されているものを指すことにす る。それは,「ジェンベ(Djembe)」と呼ばれる西アフリカが 起源とされる太鼓である。これは,マホガニーなどの1本の 木をくり抜いた胴に,ヤギの皮を張ったワイングラスのよう な形をした太鼓で,素手で叩くものである。 他に,ベースになるリズムを叩くために「ドゥンドゥン (Doundoun)」と呼ばれる太鼓も使用される。これは,円柱に くり抜いた木の両端にヤギの皮を張ったものであり,バチを 持って叩く。基本的に,「ドゥンドゥン」は,同型で大きさ が若干小さい「サンバン(Samban)」とさらに小さい「ケン ケニ(Kenkeni)」の3台で演奏される。 3) ダンス・クラスとして定期的に行われているのは1つのみ である。しかし不定期で行われるクラスや,個人的にダンス とドラムのグループを作り,活動している人々も多くいる。 4) 但し,2006年7月初旬から9月中旬までは,セネガル首都 ダカールにて現地調査を行っていたため,参加していない。 5) Hip Hop やレゲエなどは,西アフリカの音楽がルーツであ るとされる。他に,ハウスを踊っていた人が「アフリカン・ ダンス」も始めるパターンをしばしば見聞きする。 引用文献 柳田知子 2000 『アフリカの太鼓で踊ろう 西アフリカのジ ンベとダンス』音楽之友社 1970年代以降の中国では,考古学的な調査により, 重要な遺跡や遺物の発見が相次いでいる。考古学界の 関心が先史時代に偏ってきた日本とは異なり,中国に おいては文献史料が残る歴史時代に関しても考古学的 資料を用いて相互補完的に研究することが常識となっ ており,それは日本の中国研究者にとっても同じであ る。 特に中国戦国時代(前403∼222年等諸説あり)に 関しては,最も信用に値するとされる司馬遷『史記』 ですら紀元前一世紀に編纂されたものであり,年代的 には300年から100年程度離れている,各国の年代記 の断片をもとに編纂・再構成させたものであるなどの 理由により,容易に依拠すべきではない点も存在す る。それゆえ戦国時代研究にとって,一次資料もしく はそれにより近い出土文字資料の重要性は非常に大き く,出土資料を無視した研究は成り立たないと言って も過言ではない。 現に1980年代以降,出土文字資料の中でも簡牘帛 書をもとに法律,制度,思想,医学,社会等の分野 で,従来の文献史料に依拠していては探求しえないほ ど詳細な研究が進められており,膨大な研究成果が発 表され続けている。 しかし,このような現状に問題がないわけではない。 そもそも出土文字資料が考古遺物である以上,付随す る考古学的なデータと総合的に検討されるべきであ る。それにもかかわらず,残念ながら中国考古学界の 現状は充分な情報を広く公開できる状態ではなく,まし て外国人研究者にとって遺物自体を実見するなどの機 会は非常に少ない。中国の研究者の報告した整理済み の資料のみに依拠してしまう危険性を否定できない。 また,新鮮で重要な新資料の発見により,学界の注 目がそれに集中し,冷静な議論がなおざりにされがち
伝世戦国貨幣調査の意義
飯 田 祥 子 ・ 橋 本 明 子
東洋史学専門 後期課程3年
である。特に,偶然発見された興味深い資料の裏に, 発見されえない膨大な量の資料が存在していたであろ うことを,考慮に入れていないかのような研究も少な くはないのである。 このような出土文字資料を利用した中国古代史研究 をめぐる状況の下,改めて日本国内に古くから収蔵さ れている中国古代の遺物に注目することの意義は大き い。特に青銅器の国内のコレクションは世界的にみて も質・量ともにレベルが高く,このような実物資料に 恵まれていたことが,日本の青銅器・殷周史研究を支 えていたとみることもできよう。 さて,中国古代の青銅貨幣についても,日本の伝世 コレクションは膨大なものである。しかし,その圧倒 的多数は企業や個人に収集されており,必ずしも中国 古代貨幣の重要性が理解されておらず,標本や骨董品 のように扱われ,歴史学の資料として充分な研究がな されているとはいいがたい。伝世の資料は,発掘によ るものと異なり,出土地や出土状況が不明なことが多 く年代の特定も困難であるという難も存在する。しか し,中国において新たに発見される貨幣の多くも窖蔵 であり,出土状況から年代を判断する困難には違いは ない。むしろ,研究者がコレクションすべてを落ち着 いて手に触れて詳細に観察できるという条件を利用し て,従来の報告では見過ごされてきた細かな情報を漏 らさずに集めることが可能であるという利点を考慮す れば,国内の膨大な貨幣コレクションを中国古代貨幣 の専門家が調査を行い,そのデータを整理することの 意味は大きい。 その意義のもとに,今回は国内屈指の中国古代貨幣 の所蔵を持つ東京大学経済学部図書館資料室,泉屋博 古館所蔵等の貨幣をデータベース化する作業を行った。 東京大学経済学部図書館資料室では,すでに個々の 貨幣のサイズや重量などの計測データが作られていた が,欠損やさびの有無などを実物と対照させつつ一度 に確認することができず,史料としての利用には,不 十分な状態であった。そこで今回は,実物の形状とと もにそれを確認できる状態での整理をめざし,貨幣の 種類やサイズなどからも検索が可能なデータベースの 作成を行った。 中国戦国時期の貨幣には,大きく分けて布銭・刀 銭・円銭の3種があり,それぞれの貨幣の表裏に数字 程度の文字が鋳込まれている。作業としては,まず, 個々の貨幣1枚ごとの表裏の写真撮影及び文字の模写 を行い,一点ごとにサイズや重量,表裏の文字の釈読 などのデータを付し,カード化していくという作業を 行った。 現在もまだ作業の途中ではあるが,その中でもいく つかの点を確認することができる。例えば,斉大刀に は貨幣の周囲に明瞭な周郭が認められるが,その中で も「即墨之法化」・「安陽之法化」などの文字を持つも のには,周郭の背の身と柄の間が断絶しており,それ が刀銭の起源である削刀と呼ばれる小刀の形質を残す ものであり(江村治樹「中国における古代青銅貨幣の 生成と展開四──斉大刀のテクストとしての特性 ──」『SITES 統合テクスト科学研究』4‒2, 2006),そ の断絶の有無が刀銭の先発・後発関係を分別する指標 となっている。東京大学経済学部図書館蔵の貨幣に も,「即墨邑之法化」「安陽之法化」の銘をもつ斉刀が あるが,それらの幾つかにも周郭の断絶を確認するこ とができる。 また,貨幣の発行主体についても様々に疑問がなさ れており,特に中国では貨幣の表面に鋳込まれた地名 から,その地を領有する国家がその貨幣を発行したと 考えるのが主流となっているが,現実には,同一地域 から数種類の形態の貨幣が出土し,また同じ地名を示 す銘文の字体が複数存在しているなど,貨幣の発行に 対して国家の統制を想定しにくいという見解も存在し ている(江村治樹「中国における古代青銅貨幣の生成 と展開(附論)──テクストとしての貨幣の形態に関 する覚書──」『SITES 統合テクスト科学研究』4‒2, 2006)。東大経済学部所蔵の方足布には,「滋氏」「平 陽」などの銘をもつものがあるが,やはりその字体に は2種以上のものを確認することができ,国家による 統一的な貨幣発行が行われたとは考えにくいように思 われる。 東大経済学部図書館資料室作成のデータには,発行 国についても記述があるが,上述した様に,発行国は 銘文や出土地のみでは決定できず,それ以外の当時の 状況についても十分に検討を行って推定する必要があ る。伝世コレクションであるこれらの史料について, 早急な推定を行うのは危険であり,今後とも様々なデ ータとの突き合わせが必要であろう。 現段階としてはまだ東京大学データの整理途中であ り,今後の作業の進行と共にこれまでとは異なった傾 向が確認される可能性も存在する。さらに中国貨幣の 全体的なデータとの対照が必要であると思われる。
研究概要
私は修士課程でフランスの19世紀の画家ピエール・ カミーユ・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(1824‒1898) を研究の対象としている。彼は一般的なカンヴァス画 にも多くの傑作を残しているが,その主たる活躍の場 は美術館や神殿などの公共建築物のなかの壁画であ り,その点が19世紀の数多の巨匠たちと決定的に異 なっているところである。今日19世紀のフランス美 術と言えば,ロマン主義や印象派の時代がすぐに思い 出される。その反面,特にパリを中心として,多くの 壁画が描かれ,また壁画についての議論が活発であっ たことなどは見過ごされがちである。しかし,彼らこ そが,多くの人の目に触れることとなる公共の場で 19世紀のフランス人の集合的な夢とでも言うべきも のを描いていたのである。そのようなこれまであまり 日の目を見ることのなかった画家たちに注目すること で,19世紀フランスの美術史を問い直すのが私の研 究の大きな目的である。イニシアティブのプロジェクトでやろうとし
ていること/フィールドワーク @パリ
作品の調査 美術作品はその本性からしてそうであるが,特に壁 画は,それが飾る建築物を考慮に入れて描かれている ことが多いため,なおさら実地で見てみることが大切 になる。また,上述したように,それほど研究の進ん でいる領域ではないので,現在手に入る図版も限られ ているため,作品の写真撮影もしなくてはならない。 そのために,まず以下の基準で訪れるべき場所をリス トアップした。ここでの公共建築物とは,美術館,教 会,神殿,役所などのモニュメンタルな建物のことで ある。 1)ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの作品のある公共 建築物 パンテオン,パリ市庁舎,オルセー美術館,ルー アン美術館,アミアン美術館など 2)19世紀に装飾の加えられた公共建築物 サン・ジェルマン・ロセロワ教会,サン・シュル ピス教会,サン・セヴラン教会,ノートルダム・ デ・ロレット教会,サン・ジェルマン・デ・プレ 教会,ブルボン宮,リュクサンブール宮など 3)1と2にかかわる作品を所蔵する美術館 ルーヴル美術館,プティ・パレ美術館,ギュスタ ーヴ・モロー美術館,ドラクロア美術館など 以上の場所で作品の調査および写真撮影を行う。壁 画については,美術作品の調査で一般的ないくつかの 項目(タイトル,主題,制作年,状態などなど。詳し くは別紙参照)を調べるのはもちろんであるが,技法 の検討(油彩,油彩とロウ,フレスコなどなど)やそ れが装飾する建物との関連なども総合的に調査を行う 予定である。 文献の調査 西欧の19世紀は,新聞の出現とその急速な広まり が示すように,出版革命の時代であった。それが当時 の美術に与えた影響は決して少なくない。毎年恒例の サロンの時期が来ると,各新聞はこぞって特集を組 み,サロン評を連日掲載した。特に人気を集めたもの はまとめられ1冊の本として出版されることもあっ た。また,そこで名前を売り,小説家や詩人へと転身 した文学者も多かった。美術理論家としても優れてい たドラクロアは,いくつかの論考を新聞で発表してい る。このように,19世紀の美術と当時の文字情報媒 体とは切っても切れない関係にある。しかしながら, これらの文献のうちの多くは日本では読むことができ ないのが実情である。そのため,これまでの研究で以 下の方針で作成してきたビブリオグラフィーをもと に,特にフランス国立図書館で資料の閲覧および複写 をする予定である。 1)ピュヴィ・ド・シャヴァンヌについての文献, 特に彼の《貧しき漁夫》についての文献 2)19世紀の壁画についてのさまざまな言説につ いての文献 3)ジャン・フランソワ・ミレーについての文献 4)カミーユ・コローについての文献パリを中心としたフランス19世紀装飾壁画の実地調査
鈴 木 俊 晴
美学美術史学専門 前期課程1年
フィールドワークで期待できる成果
以上の調査を通して,まずはじめに期待できるの が,パリを中心とした19世紀の壁画/装飾画につい ての包括的な資料が作成できることである。これま で,教会や役所などの分野別の資料は散見できるもの の,「壁画」というタームでまとめたものは未だつく られていない。作品の質(つまり,傑作であるかどう か)の問題はおくとして,19世紀に描かれた壁画を まとめた資料ができれば,これまでの美術史ではこぼ れ落ちていた多くの作品を取り上げることができ,そ うすることでようやく,私の中心的な研究対象である ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの作品の本格的な検討に 入ることができる。特に私が関心を持っているピュヴ ィのイメージの着想源の問題は,この資料作成の作業 を経なければ画竜点睛を欠いたものとなってしまうで あろう。 文献の調査では,フィールドワークの限られた時間 のなかでどれだけ多くを複写できるか,が目的である ため,その個々の検討は帰国してからになる。しか し,上述したようにこれらの資料は日本国内ではほと んど手に入らないものであるため,今後の研究の基盤 となり,それを飛躍させるようなものになるであろ う。 このように,今回のフランスでのフィールドワーク は,私の大学院の研究において基盤となるものであ る。十分な成果があがることを,個人的にも期待して いる。研究計画の概要
和崎春日教授は,日本人と在住外国人との異文化コ ミュニケーションを促進させ,また多文化社会のもと での共生に向け,その方向性を探るべくフィールドワ ーク,研究プロジェクトを組織してきた。従来在住ア フリカ人が中心であったが,ネパールを加え,比較文 化研究としても問題提起が可能であると考えられる。 上記の研究計画の概要に沿い,まず,在住ネパール人 の社会,コミュニティなどの基礎的調査を行ってき た。 以下簡単であるがネパールの人々の状況についてま とめる。ネパール社会の構造
ネパールは,多くのエスニック・グループ,カース ト,言語,宗教的コミュニティから構成される文化的 に多様な国家である。ネパールには60のカースト・ エスニック集団と70の言語と方言が存在するといわ れ,その様態はトニー・ハーゲンの「アジアの民族博 覧会場」[Hagen 1980:91]という言葉で語られるほ どである。ネパールの文化的多様性は,度重なる人口 移動の結果であり,人々の居住地域は,高地,中間山 地,平野部と大別できる。チベット・ビルマ語を話す エスニック集団,たとえば,グルン,タマン,リンブ といった人々は北と東からヒマラヤを越えて移住した といわれ,ネパール語を話すパルバテ,つまりバフ ン,チェトリ,タクリは西と南から移住した。エスニ ック集団のネワールは,2000年にわたってカトマン ドゥ盆地に移住してきたいくつかのコミュニティによ り混成されている。タライ平原には,先住の人々,タ ルー,サタール,サンタルの森林居住民と,後にタラ イにやってきた農耕のマイティリ語を話す人々などが 暮らしている。言語集団分布は,山岳部を中心に居住 していたチベット・ビルマ語族とインド・タライ平原 部から進出してきたインド・ヨーロッパ語族が丘陵地 帯で拮抗しているが,実際にははっきりと区分できる わけではなく混じり合い複雑な民族構成と分布をして いる。人種的には,チベット・ビルマ語族は,モンゴ ロイド系,インド・ヨーロッパ語族は,アーリア系コ ーカソイドである。丘陵部に住むネパール語を母語と す る 人 々 は,「 パ ル パ テ ィ( 山 地 の ) ヒ ン ズ ー」 (Parbath hindu)と呼ばれ,ヒンズー教に基づくカー スト集団を構成している。このカースト集団の中に,日本在住外国人の相互扶助と日本人との共生に関する
都市人類学的研究
森 田 剛 光
文化人類学・宗教学・日本思想史専門 後期課程1年
バフン(インドの「ブラーマン」のネパール語),チ ェトリ(同「クシャトリア」)の高位カーストと,ダ マイ,カミ,サルキーなどの不可触とみなされる低位 の職業カーストが含まれ,中間に位置するカースト群 がないのが特徴であるとされる。タライ平野部に住む 北インド系諸言語を話す人々は 、 バルバティ・ヒンズ ーとは異なったより厳格なカースト・ヒエラルキーを 持つ社会構成である。高位カーストのブラーマンやラ ージプートから低位の不可触カーストまで,中間層を 含めてさまざまな職業カーストからなり,その数は 60近くになるとされる。カトマンドゥ盆地に住むネ ワールの人々は,言語上はチベット・ビルマ語族であ り,仏教徒とヒンズー教徒の両方が存在し,それぞれ に独自のカースト制度を持つ。高地に住むチベット・ ビルマ語系の人々は,原始宗教とチベット仏教徒であ る。宗教的には,ヒンドゥー教,仏教,イスラムそし て地方信仰などがあるが,ヒンドゥー教と仏教の境界 は曖昧である。 ネパールは,多数のカースト,エスニック・グルー プで構成されている。個々にエスニック・グループの 全体に占める割合を見るならば,最大集団のチェトリ でさえ16パーセントを占めるにすぎず,1つのエス ニック・グループが多数派を占めているわけではな い。しかし,ヒンドゥー系に括られる人々の総計は, 全体の86.5パーセントに達し,ヒンドゥー的価値体系 がネパールの中心であるといえる。その1つがジャー ト(Jat)である。ジャートはネパール語で「民族」 に相当する言葉であるが,同時にカーストも意味す る。ジャートという語彙の使用に当たって,民族とカ ーストとの区別は原則的にない。ジャートがより具体 的になったのは,ラナ家専制時代1854年に定められ た法律ムルキ・アイン(Muluki Ain)によってである。 ムルキ・アインはジャートによって人々を区別し,多 民族で構成されたネパールを支配する装置としてつく られ,100年もの間基本的に存続し,現在も影響して いる。ムルキ・アインで特徴的なのはネパール全土の 各「民族」が1つの大きなカースト・ヒエラルキーの 中にとりこまれていることである。集団内部にカース ト的ヒエラルキーを持っていなくとも,ネパール社会 という大きな枠組みの中では,否応なしにカースト・ システムの中に位置づけられてしまうこととなる。 1990年のネパール王国憲法第4条に「ネパールは多 民族的,他言語的,民主的,独立的,不可分的,主権 的,ヒンドゥー的,および立憲君主制的国家である」 と記されている。ネパールは多民族国家であり,民族 の平等は憲法により保障されているが,大半を占める ヒンドゥー系住民との関係によってカーストと民族と いう社会的枠組みは長年ネパール社会内で機能し,ヒ ンドゥー的価値体系は,各民族の関係に影響を持つ。 そのためネパールの人々を考察する場合,ジャートと 他民族との関係性はとても重要な事柄となる。
ヒンドゥー社会のまなざし
ヒマラヤ山岳地域の北方高原に住むチベット系,モ ンゴロイド系の人々を,一般にボテ(Bhote)と呼 ぶ1)。ボテは単一な民族集団を構成しているわけでは なく,前述のムルキ・アインによって多くのヒマラヤ 山岳地帯に住むモンゴロイド系の人々が各集団の民族 意識や文化的な特徴はあまり考慮されないまま括られ ている。さらにヒンドゥー高カーストの平地に住む 人々は,山岳に住む人々に対して,文化的,宗教的な 価値観が大きく異なっていることから,彼らを自分た ちのカーストよりも低位に位置づける2)。そのためヒ マラヤの山岳民族は高カーストからの侮蔑を含むボテ と呼ばれることにおおむね嫌悪感をもっている。「『ボ テ』という名前の拒否は,ヒンドゥーの文化的影響を 強く受けた人々の間だけでなく,チベット仏教を信仰 し,チベット系の言語を話す人々の間にも見られ,自 分たちを劣位に位置づけようとするヒンドゥー高カー スト視線に対する反発という側面がある」[名和 1997:53]。ボテと呼ばれることは,近年チベット系, モンゴロイド系の人々が都市部に多数移住してきた結 果,ヒンドゥー系の住民との接触の機会の増加ととも に顕在化している社会問題なのである。 以上のことから,ネパール社会の構造的問題によ り,ネパール内外で異なったジャートが連携,連帯を とるのはとても難しい。よって多くのネパール人が異 なるジャート間の連携よりもネパール人以外の人々, つまりはカーストのまなざしの外にいる人々,外国人 との連携の方がとりやすいという。現在調査継続中で あるが,インフォーマルな部分,仕事場が同じなどの 接点によって知人,友人関係を取り結ぶ例は見られる が,それ以上に拡大しているというわけではない。ま た,在住ネパール人はオーバーステイしている者も見 受けられる。このことも各人の関係性の結び方に大き く影響している。今後の予定
平成18年度科学研究費補助金 基盤研究A「来住 アフリカ人の相互扶助と日本人との共生に関する人類学的研究」研究代表和崎春日名古屋大学文学研究科教 授,課題番号16202024)の支援を受けて,「来住アフ リカ人とネパール人の共同に関するアジア地域(ネパ ール)における商業・文化活動の調査,文献資料収集 を2007年3月18日から3月31日にかけてネパール, カトマンズ市域において行う予定である。
その他の補助業務の内容
研究活動を円滑に進めるべく,私の技術経験を生か した PC 等研究環境の充実を提案支援している。 注 1) 1960年代以降大量に流入してきたチベット本土からのチベ ット人難民はボテとは呼ばれず,一応の区別がなされている。 2) 居住地域に対しパハディ(Pahadi)とマデシ(Madeshi)と いう分け方がある,パハディとは,丘陵地帯出身者で,マデ シはタライ平野出身者をさす。パハディは,カースト制度を 持つパルバテといくつかのエスニック・グループから構成さ れ,全人口の6割以上を占める。 引用文献Hagen, Toni. 1980 “The Kingdom in the Himalayas” 町田靖治訳『ネ パール』白水社 1990 名和克郎 1997「カーストと民族の間」石井溥編『暮らしがわ かるアジア読本ネパール』河出書房新社 pp. 46‒54
研究の目的
本研究は,現地調査に基づいてカメルーン高地,王 制社会の仮面文化に関する詳細な民族誌的記述を行 い,アフリカにおける王制と仮面文化の関連を明らか にするとともに,仮面と権力の関係に関する人類普遍 の理論モデルの構築を目指すものである。 アフリカの仮面に関する民族誌的研究は,国内外で それなりの蓄積があるものの,多くは王制研究とは全 く別の文脈で展開されてきた。しかし,仮面活動と王 の活動は,ともに「社会における権力」という観点か らみれば同列に扱い得る主題であり,本研究は,アフ リカの王制社会および首長制社会に対する理解に通じ るものと考える。 本研究では,以上の問題意識のもとに,まず王と仮 面結社が並存するカメルーン高地において現地調査を 行い,特に仮面結社の観点から,仮面活動と王制の関 係を明らかにする。特に,「仮面活動を通した周辺地 域との交流活動」という側面にスポットを当てなが ら,当該社会と周辺社会との交流を描く。その上で仮 面活動を物質文化的な側面と,仮面への概念を中心と した象徴的な側面を論じつつこれを社会動態的に捉え ることを目指す。これまでの調査研究で明らかになっ た Wimbum の社会組織と仮面に関する諸研究を基に, 仮面様式の比較を行い,物質的側面から周辺地域との 交流を明らかにする。また同時に,仮面結社の入手経 緯に関する伝承を収集することによって,19世紀末 ∼20世紀初頭にかけての王国成立史を解明するため の一資料を作成することを目的とする。調査内容と方法
調査方法 調査対象地域として,カメルーン北西部州バメンダ 高原地域社会,特にンカンベ首長社会を設定し,以下 の項目を調査した。なお,調査地においては一般家庭 に下宿し,日常生活を共にしながらインタビューと参 与観察を並行する形で行った。 1.首長制社会において仮面の果たす社会的機能に 関する側面 仮面を所有する組織や結社に関する詳細 仮面結社と結社が所有する仮面に関する結社成 員・非成員の両方が与える概念調査 歴史的背景──首長制社会の成立経緯と変遷 仮面が登場する祝祭,特に王族の葬祭や即位式等 の場における仮面活動 2.仮面とジェンダーに関する側面 仮面に関る女性禁忌(タブー)に関する概念の変 化 王制に属する女性の組織集団を調査 3.仮面活動の現代的展開に関する側面カメルーン・グラスランド地域における文化人類学的研究
──仮面文化に関するフィールドワーク・仮面使用と文化様式における関連性に着目して
後 藤 澄 子
文化人類学・宗教学・日本思想史専門 後期課程3年
地 元 住 民 の 知 識 層 が 中 心 と な っ て 設 立 さ れ た NKACDA (Nkambe Cultural Development Association) 組 織の形態と活動内容,運営状況などについてインタビ ューを中心に調査する。また,都市部における上部組 織,同郷出身者組織との関わりについても同様に調査 を行う。 調査内容 2005年2月∼4月:予備調査 ンカンベ社会において約2ヶ月滞在し,ンカンベ社 会に存在する結社・集団の名称と役割,人々が与える 意味づけに就いて調査した。特に,ンカンベ村落内の 各地区に存在する主要な仮面結社と,王制に直接関係 すると考えられている2つの主要結社について,成員 構成と成立経緯,活動内容について調査を行った。 また,当地域に存在する女性組織のうち,特に王族 女性によって構成される結社「toh(ト)」について参 与観察を行った。 2005年8月∼2006年2月:滞在調査 ンカンベ社会に約6ヶ月滞在し,ンカンベ社会の主 要結社,ムワロン結社とンギリ結社の各成員3名ずつ 選定し1人当たり平均7回の聞き取り調査を行った。 なお,使用言語は英語と現地語(limbum),ピジン英 語である。聞き取り内容は,結社が所有する仮面ごと に,面の形態,素材,意味づけ,使用方法,保管方 法,伝承,使用に関する禁忌など詳細な項目を設定し た。また,結社自体の成員数,組織構成,伝承,購入 経緯についての情報も収集した。 参与観察は,滞在中行われた葬式・埋葬儀礼(9 月,11月,1月)と祝祭時に行った。特に,NKACDA (Nkambe Cultural Development Association) による祝祭 (11月24,25,26日)時は,登場した仮面を撮影し, 写真及び映像資料を入手した。これらを元に,上記の 聞き取り調査を行った。また,仮面に関する資料収集 以外に,ンカンベ住民の生業観察として,主に農作業 時に同行した。
ま と め
仮面結社と首長制社会 ンカンベ社会に存在する結社の中で,人々が最も力 (呪力,政治的権威)を持つものと考えている結社が ムワロン(mwarong)結社である。そしてこれに対抗, 並存するものとしてンギリ(ngiri)結社が存在する。 この2つの結社関係を中心にンカンベにおける結社と 首長制社会について考察した。ムワロン結社とンギリ 結社は政治権力的には明らかに上下関係にあるが,両 者は対立する関係性も持つ。両者の仮面には名称やキ ャラクターなどに共通性があるが,両者の仮面が対峙 する時,ンギリが優先される。以上から,仮面同士の 関係性において,両者は必ずしもムワロン>ンギリの 図式ではなく,むしろ拮抗するものとして捉えること ができる。 これまで,ンカンベ社会を含めたバメンダ地域の首 長制社会における首長は「神聖王的存在」の側面が強 調されてきた。そして結社や社会組織も首長の権力を 保障するものとして語られてきた。ンカンベに存在す る結社は首長を頂点とした村長,地区長の順で成り立 つピラミッド型権力構造に従う単位であるにも関わら ず,各結社の詳細を見ていくと,必ずしも上記の権力 関係に従いきれない側面があることがわかる。 結社の起源 ムワロンの購入時期と経緯については,幾つかの情 報が得られている。正確な年代ははっきりとしない が,現在の首長から逆算していくと,19世紀中頃, ドイツ入植前であったと推測される。当時,周辺地域 ではムワロンを購入することが流行していた。ンカン ベも,ムワロンを Kungi 村へ伝えている。 周辺地域との関係 ムワロンの起源とされるジョッティン Jottin 村はノ ニ Noni 地域に位置し,オク Oku 社会とバンソ Banso 社会の影響を強く受けている地域である。ンカンベを はじめとした wimbum の人々は,オクやババンキ Babanki等から仮面やダブルゴングを購入してきた。 聞き取りに拠ると,現在ンカンベで使用されている仮 面や楽器は,オク,ババンキ産のものが多い。即ち, ンカンベにとってはオク,また Ndop 平原の村は文化 的に先進国であったと考えられる。 オクはクウィフォン kwifon 結社を持つ社会である。 また,クウィフォンの下位組織であるフランガン flangang結社はマボ mabuh という仮面を持つことが 報告されている(Argenti, 2006)。オク社会のマボと ンカンベのマボは,仮面のデザインや装束に殆ど違い は無いものの,登場する場や仮面のパフォーマンスに は多少の差が見受けられる。kwifon(及び flangang) の仮面をそのままンカンベの事例に当てはめることは 難しいが,両者の比較を続けて行っていく必要があ る。仮面の形態による分析 次に,仮面の形態に着目し,形態の要素ごとに分類 すると,大きく網状面型と木製面型に大別できた。そ して,面の形態と仮面の果たす役割には密接な関係性 が見られた。網状面は結社の権力を実際に行使する役 割を持つ。司法をつかさどるという役割においては, 仮面は新たな性格を持つ必要は無く,結社員が顔を隠 すことが重要となる。網状面は「結社員の顔」を隠す ための道具―覆面として機能する。木製面が果たす役 割は,社会において結社が持つ権力と呪力を帯びた (と演出される)身体所作によって観衆に誇示するこ とである。結社は木製面の身体所作に特異性や暴力性 を与え,これを登場させるたびに社会において結社が 呪力と権力を持つことを観衆に確認させる。それゆ え,仮面の性格を強調するために,木製面は彩色,形 態に様々な加工がなされ,衣裳も華美になる。木製面 はこれを被る結社員の素性(顔と人格)を隠す覆面の 機能に加え,さらに新たに性格が与えられた「仮面の 『顔』」を見せるための道具として機能する。 以上から,ンカンベ社会の仮面形態の原型について 考えてみたい。ンカンベの仮面の形態は網状面が基本 となっている。網状面型仮面が前植民地時代に果たし ていた司法行使の役割は当時の社会の政治・行政の面 で重要な要素であった。これらの点から,網状面の形 態が,ンカンベ社会における仮面の原型であると推察 することが可能である。この仮定を基にすれば,網状 面型仮面を持つ割合が高いンギリ結社がムワロンより も古い時代からあったことの説明になりうる。但し, この点については,更なる先行研究,資料との照らし 合わせが必要となってくるであろう。
今後の展望
今後,周辺地域の仮面文化に関する報告や資料か ら,グラスランド,及び首長制社会に見られる個々の 仮面の特徴を見出し,その上でンカンベ地域の仮面文 化の特徴を示すことが重要であろう。 そして,バメンダ地域における仮面文化はどのよう にして成立し,変化しているのかという仮面文化史 は,特にンカンベ高原周辺を含めて未だ論じられてい ない。仮面文化の研究はカメルーン高地の仮面文化を 論じる上でも,こうした一地域における資料を正確に 記述することから始められるべきであろう。 引用文献Argenti, Nicolas, (2006) “Remenbering the future:Slavely, youth and masking in the Cameroon Grassfields”, Social Anthropology, Vol. 14, 1, pp. 49‒69.
MOHAMMADOU, Eldridge, (1986) Traditions d’arigine des peoples
du center et de l’ouest du Cameroon, African languages and
ethnography xx; Edited by Morimichi Tomikawa, Institute for the Study of languages and cultures of Asia and Africa (ILCAA).
補足資料:地図
図1 北西部州の民族分布図;wimbum
(MOHAMMADOU:1986)より作成
私の調査は来住アフリカ人コミュニティーを起点と した,相互扶助関係の人類学的調査です。 ますますグローバリゼーションが進む昨今,最も新 しいニューカマーである来住アフリカ人の数は年々増 加しています。多くの場合,来住アフリカ人に対する 一般社会の見方として,不法滞在や違法行為などネガ ティブな面ばかりが強調されています。このことは, しばしばニュースに挙げられるように,紛うことのな い現実のひとつであることは言うまでもありません。 来住アフリカ人の日本への移住の動機は,自国での貧 困状況を脱するため,また,より豊かな生活の希求と いうことが多いように思われます。しかしながら,現 実的には日本での就業機会は非常に希少で,安定した 生活を営み,来住アフリカ人が将来希望する方向に進 むことができるのは希なケースのようです。こうした 現実がアフリカ人の逸脱行為に繋がり,マスコミや社 会から法的・社会的逸脱者としてラベリングされてい るというのが一般的な見方のようです。一方で, NGO等の市民社会は,アフリカ人を含めて,社会シ ステムから疎外されている在日外国人を支援し,実情 にあわない社会システムに対して警鐘を鳴らす活動を 行っています。 ここに来住アフリカ人を取り巻くいくつかのアクタ ーが出そろいました。それは,来住アフリカ人自身, NGO等の市民社会,そして一般的な意味での社会で す。本研究への私の視点は,来住アフリカ人同士の閉 じた社会関係と,市民社会を含めた日本社会との開い た社会関係を立体的に捉えていくことで,来住アフリ カ人の社会的な生活環境を探ることにあります。そし て,後述するように,来住アフリカ人は市民社会の支 援を待つ絶対的弱者でも,必然的な社会的逸脱者でも なく,自助的な社会関係を構築していることを考察し ていくことが重要な課題のひとつだと考えています。 これらの研究の資料に関しては,未だまとまったもの はなく,一次資料から収集していく必要があります。 よって,資料は本イニシアティブにあるようなフィー ルドワークによって収集されなければなりません。そ して,これと合わせて都市という流動的な空間を中心 とするため,都市人類学的な手法を取り入れていきま す。 本研究に関するこれまでの調査は2005年5月から 約1年半ほどの間に,約20回のフィールドワークに よります。本プログラム開始後,2月には,池袋のア フリカ料理店や六本木のストリート調査など3度敢行 し,これらの調査の資料収集・整理に当たっていま す。さらに,これまでの調査の成果をまとめ,調査報 告書を各所に提出すべく,現在鋭意執筆に当たってお ります。 これまでの研究から,来住アフリカ人は他の在日外 国人と同様にコミュニティーを作り,互いの生活,楽 しみや困難の共有を目的とした,相互扶助的な関係性 を築いていることが分かっています。また主たる調査 地である六本木には,今や来住アフリカ人の姿は自然 な姿として受けいれられているように感じられるほど になりましたが,アフリカ人という大きな人種の枠で 捉えてもさほど意味がないことが分かりました。言い 換えれば,六本木の周辺は,ナイジェリア人の殊にイ ボ,エドと言った民族のナワバリと呼べる場所であ り,来住アフリカ人の入り交じる場所ではないという ことです。ナイジェリア人は国籍別の在日アフリカ人 の中では,最も大きなグループで,最も経済活動の活 発な六本木のような繁華街を牛耳ることは分かりまし たが,一方でその他の来住アフリカ人はどこにいるの か,また,どのように日本での生活を立てているの か,ということが次の疑問として浮上します。 この疑問について,カメルーン人の例を挙げておこ うと思います。カメルーン人のコミュニティは茨城県 と埼玉県,千葉県の境界の某所にある自動車整備工場 を中心として形成されています。この工場のオーナー である G 氏はカメルーン北西部州のバメンダ出身で, 日本‒カメルーン間のみならず,隣接する中央アフリ カ共和国を含めた大規模な貿易業で成功を収めた人物 です。G 氏が扱うのは自動車部品が中心で,コンテナ に解体した事故車,スクラップを満載して輸送し,現 地で友人が販売するという商形式をとっています。G 氏の周囲には,G 氏を頼って来日したバメンダの人び