1 はじめに
―祭りへの規制強化の波
2016年 11 月、日本各地に点在する 33 の 祭りが「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ の無形文化遺産に登録された1)。無形文化遺 産登録決定の知らせを受け、その直後に開催 された高山祭では、過去最高の 38 万 6 千人 (主催者発表)もの観衆を集める大きな賑わ いをみせた2)。昭和 40 年代以降に全国各地 で注目され、多くの観光客を集めることでま すます注目される都市の祭りは、もはや「祭 りブーム」(中里 2009)と呼ぶような一過性 の現象ではないようにもみえる。 しかし、こうした熱狂の影で現代の祭りが 抱える迷惑行為や内輪もめなどのさまざまな 問題も浮き彫りになった。2016 年 8 月 1 日 の日経新聞には「萎縮する祭り」と題した記 事が掲載され、多くの観光客を集めて盛況に 見える祭りの運営に迷惑行為防止条例などの都市祭礼における「暴力」と規制
―「スポーツ化」する岸和田だんじり祭―
▼
有本 尚央
要 旨 》》
本稿は、大阪府南部・岸和田市で行われる岸和田だんじり祭を事例に、都市祭礼の近代化 の歴史を「暴力の抑制」という観点から分析することを通して、現代日本社会における祭り の変化について考察する。 現在の岸和田だんじり祭は、地車(だんじり)と呼ばれる山車が事故を起こすほどの激し い曳行をする点に特徴があり、「やりまわし」と称される過激な地車の曳行が祭りの代名詞 となっている。岸和田だんじり祭におけるけんかや事故などの過激で暴力的な特徴は、世間 の耳目を集めると同時に、警察による規制の対象としても取り沙汰されてきた。こうした状 況のなか、特に近年の岸和田だんじり祭ではやりまわしの高速化が指摘され、地車の曳行は ますます過激なものへと変化する傾向にある。 本稿では、現代社会においてなぜこのような祭りの変化が生じたのかという問いについて、 祭礼組織と警察が暴力の規制をめぐって展開してきた過程に注目することで明らかにする。 いわば、それぞれの時代における警察との関係のなかで、祭りの挙行に関してなにが問題と されたのか―祭りの渉外の焦点はどこにあったのかをたどることによって、祭りがどのよ うにかたちづくられてきたのかを分析する。その結果、現代社会における祭りが「スポーツ 化」(Elias & Dunning 1986=1995)していることを明らかにする。キーワード 》》
「規制強化」の波が押し寄せていることが指 摘されている。新聞取材に対し、青森観光コ ンベンション協会の事務局長が「警察の祭り への締め付けが全国的に厳しくなった」と 語っているように、昨今の祭りの運営に関し ては「何か新しい取り組みをしようにも、そ の都度警察に細かな説明を求められるため、 主催者が萎縮している構図」がある3)。 こうした一方での祭りの盛況、そして他方 での規制強化という祭りの成立に関わる 2 つ の傾向は、いったいなにを意味するのだろう か。本稿では、例年 40 万人を超える観衆を 集める大阪府岸和田市の岸和田だんじり祭を 事例として現代社会における祭りの変化につ いて考察する。現在の岸和田だんじり祭は、 地車(だんじり)と呼ばれる山車がしばしば 事故を起こすほどの激しい曳行をする点に特 徴があり、「やりまわし」(後述)と称される 過激な地車の曳行が祭りの代名詞となってい る。岸和田だんじり祭におけるけんかや事故 などの過激で暴力的な特徴は、世間の耳目を 集めると同時に、警察による規制の対象とし ても取り沙汰されてきた。こうした状況のな か、特に近年の岸和田だんじり祭ではやりま わしの高速化が指摘され、地車の曳行はます ます過激なものへと変化する傾向にある4)。 本稿では、現代社会においてなぜこのような 祭りの変化が生じたのかという問いについ て、祭礼組織と警察が暴力の規制をめぐって 展開してきた過程に注目することで明らかに する。
2 先行研究と問題の所在
柳田國男の「日本の祭」(柳田[1942]1990) 以降、日本における祭礼研究は「祭りの変 化」についてくりかえし言及してきた。特に 1990年代以降の祭礼研究は、祭りの変化を 現代の祭りが抱える最も大きな問題である担 い手不足の状況と関連づけて論じる傾向にあ る。例えば松平誠は、日本の都市祭礼を事例 に、地縁・血縁に基づいた共同体の外縁を拡 大し、「選べる縁」によって動員される人び とを含めることによって維持される祭りの状 況を指摘している(松平 1990)。また、和崎 春日も京都の左大文字祭礼を「幅広い参加形 態を容認し、異質性や多様性を基本的に包摂 する都市の祭礼」(和崎 1996: 50)として位 置づけている。これらの先行研究では、現代 社会における祭りが成員の固定的な共同体に よって支えられる状態から脱却し、共同体の 領域を拡大して担い手を確保することで維持 される点を評価している。実際に、一部の祭 りは担い手不足問題への対処として、歴史的 に祭りから排除されてきた女性や旧来の共同 体には所属しない人びとを動員することで、 結果としてかつてないほどの規模で盛大に挙 行されるものもある。 ただ一方で、祭りの盛況は迷惑行為や内輪 もめといった祭りが抱えるコンフリクトを顕 在化させた。こうした状況から近年の祭礼研 究では、祭りにおけるコンフリクトの諸相に ついて注目するものが目立つようになった。 例えば、中里亮平は東京都府中市大國魂神社 の例大祭くらやみ祭りを事例に、担い手同士、 担い手と祭りへの乱入者、そして担い手と観 客のあいだで生じた「もめごと」について考 察している。そこでは「もめごと」がそれぞ れの関係性の文脈に沿ったかたちで処理され るが、その処理に関するプロセス自体が「祭 礼のルール」の読みかえを可能にし、祭りの 変化を促す原動力になると述べる(中里 2010)。また、本稿の事例となる岸和田だん じり祭に関しては、年齢階梯的な祭礼組織と 担い手のキャリアパスの組み合わせによって 生じる祭礼組織の構造的特徴が祭りにおける 担い手間のコンフリクトを止揚するメカニズ ムとして機能することが指摘されている(有 本 2012)。これらの研究は、担い手が祭りの運営上で生じるさまざまなコンフリクトをい かに解決していくのかという―いわば「コ ンフリクトが決着をみるプロセス」(武田 2015: 18)に注目するものであり、祭りにお けるコンフリクトの順機能的側面を強調する ものだといえる。 しかし、武田俊輔は有本尚央の研究に対し 「祭礼における個人間・組織間の競争の止揚 と連帯に関するものとしての意義が強く、共 同性の『外部』の差別や排除・抑圧が祭礼の 成立とどのように結びついているのかについ て具体的に論じたものとはいいがたい」(武 田 2015: 18)と批判する。たしかに「コンフ リクトが決着をみるプロセス」を明らかにし ようとする研究は、あくまで祭りにおける「内 なる外部」(上野 1984: 53)の調停メカニズ ムに注目するものであり、祭りを「図」とし て捉えた場合、それに対応する「地」となる のは祭りの担い手がつくる共同体の「外部」 にある。上野千鶴子がいうように祭りを「集 団の攻撃性を外部へと回路づけることによっ て、集団の境界を維持するしくみ」(上野 1984: 54)と捉えるならば、「自己が所属す る集団が明らかになるのは、逆説的にその集 団が外部と出会って、集団帰属の自明性を喪 失したとき」(上野 1984: 52)であり、そう した意味での祭りの「外部」との関係が問わ れなければならない5)。 ただし、こうした祭りの「外部」を同定す る作業は必ずしも容易ではない。なぜなら、 芦田徹郎が「日常性という大海のなかの孤島 のような現代の祭りは、日常的な活動・価値・ 規範・利害などによって包囲され、監視され、 規制されつづける」(芦田 2001: 32)という ように、現代の祭りはさまざまな「外部への 配慮」(芦田 2001: 34)を要請されている。 つまり、規制強化の波はあらゆる方向から祭 りに迫ってきている。しかし、冒頭に示した 新聞記事の記述からも示唆されるように、さ まざまな「外部」の可能性を踏まえた上でも、 祭りの運営に影響を及ぼす最も強力な主体と して想起されるのは、「外部」からの規制権 限を持つ「外なる外部」(上野 1984 :52)と しての警察であろう。そこで本稿では、祭り への規制という問題を警察との関係に焦点を あてることで考えてみたい。いわば、警察と の関係のなかで、祭りの挙行に関してなにが 問題とされたのか―祭りの渉外の焦点はど こにあったのかをたどることによって、祭り がどのようにかたちづくられてきたのかを分 析する。 なお、本稿で用いるデータは、岸和田だん じり祭に関する地方史関連資料や新聞記事お よび 2006 年から 2016 年までの岸和田だんじ り祭関係者に対するインタビュー調査・参与 観察調査で得られたデータに基づいている。
3 岸和田だんじり祭の概要
岸和田だんじり祭は、大阪府岸和田市で行 われる曳山祭であり、毎年 9 月の敬老の日直 前の土曜・日曜6)に地車が曳行される。岸和 田市は、大阪府南部に位置し、かつては綿織 物業や漁業で栄えた地方都市であるが、現在 では少子高齢化や産業構造の転換のあおりを 受けて地場産業は衰退傾向にある。岸和田だ んじり祭の起源は、延享 2 年(1745)年に茶 屋新右衛門が牛頭天王社の夏祭りに献灯提灯 を掲げたいと藩主に願い出て許可されたこと に始まるとされている7)。最初期の祭りで曳 行された地車は、長持に車をつけただけの簡 素なものであった。その後、次第に装飾が豪 華になり、地車も大型化し、大正期には現在 の地車の姿が定着した8)。 岸和田だんじり祭は「やりまわし」と呼ば れる地車の曳行方法が特徴とされ、これがメ ディアにも頻繁に登場することによって、近 年ますます知名度を高めている。やりまわし とは、構造的に曲がることのできない地車をなかば強引に曲げる曳行方法であり、交差点 に一旦停止後、勢いよく走り出しながら人の 力だけで地車を直角に曲げるというものであ る。このやりまわしを円滑かつ勇壮に行うた めに、地車はいくつかの部署にわかれた役割 分業体制で操作される。地車曳行に関する役 割分業体制は、岸和田だんじり祭が行われる 地域にある 22 の祭礼町会ごとに組織され、 各町が保有する地車の曳行を目的とした年齢 階梯的な祭礼組織を構成している。 一方、以上のような町単位の祭礼組織は、 22町によって構成される岸和田だんじり祭 全体をまとめる岸和田地車祭禮年番(以下、 年番)と連携している。年番は、各町におけ る世話人と呼ばれる担い手(45 ∼ 55 歳くら いの男性)から年ごとに派遣される者によっ て組織され、祭礼運営に関しては「市長や警 察署長、町会長よりも権限がある」(江 2005: 81)とまでいわれる。特に、祭りの渉外に関 する役割は年番に一切の権限が与えられてい る。その理由をある祭礼関係者は次のように 語る。 ―なぜ年番が対外的な交渉を一手に引き 受けるんですか? なんで年番やというとね、やっぱり警察の 交渉とかね、各町でいったら自分とこにい いように話し合いしますわね。それで、わ しらは各町から選ばれてるから中立の立場 でね。中立の立場で出会い頭にどっち先行 くかとか、中立の立場で仕切ると。で、警 察も、もう年番しか話しません。(各町の) 曳行責任者で(話を)して、年番に上げて きます。そしたら年番で会議して、警察と 交渉します。そやから、個々にはいっさい 警察は受け付けません。(祭礼関係者 A 氏 へのインタビュー 2006.9.3) つまり、岸和田だんじり祭に関する規制の 問題を考えるには、年番と警察の関係をたど ることによって把握することができる。次節 では、年番と警察が明治以降にどのような関 係を形成することで祭りを変化させてきたの かについて、特に両者の関係性の焦点となっ てきた「暴力の抑制」という点に注目しながら 岸和田だんじり祭の歴史を再構成してみたい。
4 岸和田だんじり祭と近代
―暴力の抑制と変容
4.1
「けんか祭り」の時代
―明治から戦前まで
全国的に祭りの様式が華美化した明治から 大正期の岸和田だんじり祭では、地車の新調 が相次いで行われた(岸和田市観光振興協会 2003: 215)。この時期に地車の新調が行われ た理由は、幕藩体制の崩壊後に地車の検分や 祭りに対する倹約令がなくなったことによる 「自由化」が影響している。この自由化によっ て明治以降の地車新調には、その時代の状況 や価値観を反映した近代的な改良が加えられ た。例えば明治以前の地車は、車軸に樫の木 を用いていたために摩擦が大きく、緩やかな 速度で曳行されたが、大正期には摩擦の小さ い金属製の車軸を使用するようになり、以前 に比べて速度を上げて曳行することが可能に なった(岸和田市観光振興協会 2003: 124–5)。 当時の岸和田だんじり祭における地車の曳 行は、各町の地車が紀州街道を南北へとすれ 違うものであった。そのため地車のすれ違い 時には 2 台の地車が近接することになり、こ れがトラブルの種となっていた。堀野正一郎 の手稿「昔の祭」によれば、道幅の狭い紀州 街道を行き来する地車には、衝突の危険を避 けるために「上り優先」という取り決めがあっ たとされているが、地車の曳行速度の上昇に ともなう事故のリスクの増加も手伝い、けん かの絶えない祭りであった(岸和田市観光振興 協 会 2003: 125)。 明 治 14(1881) 年 9 月 21日の朝日新聞は、祭り当日に「二十七・ 八名の負傷人が出来、其中二名は即死」した 「大合戦」があったと伝えている。 紀州街道は道幅が約 3 間(約 5.4 メートル) で、だんじりの幅が約 2.2 ∼ 2.4 メートル だから、南北に走って行き違う時はよく喧 嘩になった。対立している町のだんじりの 姿がみえると双方の若中は道の両側の屋根 に上がって瓦をはがして投げる用意を始 め、梃子に使う材木を余計に積み込んでお き、これを引き出して構えたりした。(岸 和田市 2005: 625–6) 当時の様子を知ることができる『熊沢友雄 日記』によれば、例年の祭りの日は市中が「す こぶる賑わい」を見せ、けんかや事故の絶え ない過激な祭りを見物にやってくる観衆が多 かった。ただ、「市中甚喧嘩」であった祭り は「損有テ益無ク」「無益ノ長物ト見做」され、 前近代的な因習として捉える者も少なくな かった。こうした風潮のなか、岸和田警察署 の執行警察上参考事項には、岸和田だんじり 祭が「年々多少ノ争闘ヲ免レサルモノニテ、 取 締 上 最 モ 注 意 ヲ 要 ス 」( 岸 和 田 市 2005: 624)ものとして記されている。 このように当時の岸和田だんじり祭は「け んか祭り」として観衆の人気を集めた一方で、 曳行速度の上昇にともなう地車曳行中のけん かや事故が多発し、時には死傷者を出したこ とから警察による取り締まりが強化された。 大正 11(1922)年には「神輿、山車、地車、 屋台、黎物の類を出さんとするとき」に「所 轄警察官署に願出で許可を受くべし」とする 新定交通取締規則が交付され、地車曳行に関 して警察の許可を得ることが定められた。そ の後、昭和初期の祭りについては不明な部分 が多いが、度重なる戦争や伝染病の流行に よって地車曳行が自粛される年があったもの の、警察からの許可が得られた年には地車の 曳行が行われたといわれている。 明治期から戦前にかけての岸和田だんじり 祭は、祭りの「自由化」による地車の近代的 な改良が地車曳行速度の上昇を引き起こした ことを背景として、けんかや事故が頻発する 祭りであった。その暴力的で過激な特徴は、 一方で多くの観衆を魅了したが、他方で警察 が介入するほどの「注意ヲ要ス」祭りでもあっ た。いわば、祭りの「自由化」による過激な 祭りへの変化は、「見物と称する群の発生」(柳 田[1942]1990: 248)を促しただけでなく、 同時に警察からの規制を正当化するような変 化でもあった。
4.2 規制の時代
―戦後から昭和 50 年代まで
戦時中に幾度かの中止を余儀なくされた岸 和田だんじり祭は、昭和 21(1946)年に多 くの若者が復員したことによって再び戦前の 活気を取り戻していく。戦後の岸和田だんじ り祭は、戦時中に疎開道路として作られた岸 和田塔原線や浜疎開道などを曳行コースに加 えることで、トラブルが頻発する「すれ違い」 を回避し、「周回」を中心とする祭りとなった。 こうした曳行コースの変化は、地車が勢いよ く交差点を曲がるという新たな「見せ場」を 加えることになり、各町はけんかだけではな く、地車曳行の過激さを競い合うようになっ た(岸和田市観光振興協会 2003: 127)。 しかし、地車曳行の過激さを競いながらも、 あいかわらずけんかや事故が絶えない岸和田 だんじり祭に対する世間の評価は芳しくな く9)、戦後の岸和田だんじり祭は「けんか祭 り」の汚名を払拭すべくさまざまな側面から 規制されるようになる。例えば昭和 33(1958) 年には、曳行コースの一方通行規制が敷かれ、 地車同士のすれ違い時に頻発するけんかを回 避する措置が取られた10)。また昭和 34(1959)年、大阪府警は地車にブレーキの設置を義務 づけ、「走らない」ことや「一方通行を厳守 すること」などを曳行条件とし、違反した場 合には地車の曳行を差し止めるといった方針 を打ち出した11)。 しかし、種々の規制にもかかわらず祭り期 間中には地車が走り、しばしばけんかや地車 の転倒事故が起こったため、祭りに対する規 制はさらに強化されていくことになる。例え ば、昭和 42(1967)年には、地車に警察官 数人が随行するようになり、地車の曳行は常 に警察の監視下に置かれるようになった。ま た、年番も各町に対し、担い手の衣装を統一 して「町名」を表示するように指導し、祭り に紛れ込んでけんかを先導する暴力団などの 「部外者」を排除するような対策を講じた。 この祭り装束の統一は、暴力の規制という目 的のもとに担い手のメンバーシップを明確化 させると同時に、トラブルの際の責任の所在 に関して警察が追求することを可能にするも のだといえる。 ―昭和 30 年以降に立て続けに祭りに対 する規制が敷かれた理由は? 事故が続いたから。警察の指導ですよね。 けど、その頃の警察はいまと違ってね、岸 和田の祭礼組織がしっかりしてなかったこ ともあるんでしょうけどね、そうしないと 祭りをやらさない、そういうふうに出てき たんでね。だからそれやったらやりますっ ていうことで。岸和田ですれ違いしてたの が一方通行になったりとかね。全部その頃 ですわ。全部事故というかけんかとかね。 …中略…だからね、いまの岸和田の、現代 的なというか、現在の祭りはそこが根っこ になりましたね。変わってしまった。見せ る祭りになってきたんはそっからやな。そ れまでは、ほんと田舎の村祭りでしたよ。 (祭礼関係者 B 氏へのインタビュー 2006. 11.17) この「見せる祭り」化を推し進める大きな 転換点となったのは、昭和 38(1963)年の「パ レード」の開始であった。パレードは、全町 の地車が府道臨海線沿いのカンカン場と呼ば れる交差点へ集結し、岸和田駅前まで曳行し ながら観衆に各町のやりまわしを順番に披露 するイベントとして定着し、過激なやりまわ しは岸和田だんじり祭のハイライトとして位 置づけられることになった(岸和田市観光振 興協会 2003: 125–7)。 一方で、当時の祭りは「祭礼組織がしっか りしてなかった」ことで、警察からの指導や 規制が祭りに直接的な変化を及ぼしていた。 ただ、年番も警察からの介入にただ手をこま ねいていたわけではない。年番は、暴力の規 制を警察との共通認識としながら、自らが積 極的にそれを推し進めると同時に、規制を十 全に機能させるために年番組織の強化を図っ た。例えば、昭和 41(1966)年の祭りは日程 (9 月 14・15 日)が祝日と重なったために観 衆の増加が見込まれた。そのため年番は「自 主規制・自主警備」を強化することを理由に、 年番組織の増員を図り、それまで一部の町に よって構成されていたものを全町参加型の組 織として改組し、意思決定に民主的な手続き を導入した。こうした年番の再組織化は、警 察からの規制に対応可能な組織づくりの一環 であり、自他ともに認める祭りの意思決定機 関としての近代的組織への改編であった12)。 つまり年番は、観衆を意識した「見せる祭り」 への変化を積極的に受容しながら、観衆の増 加にともなう警備増強の必要性を根拠に自主 警備・自主規制を進め、年番組織を強化する ことで警察への交渉力を獲得していく13)。 戦後から昭和 50 年代までの岸和田だんじ り祭は、警察や年番の手によってさまざまな 規制を敷いて「部外者」を排除するとともに、 「見せる祭り」化を進めることで地車の動きを コントロールし、突発的なけんかや事故が起 こる可能性を減らすことで暴力を抑制しよう
とした。また、規制の過程のなかで年番は祭 礼組織を強化し、自らが規制の主体となるこ とによって警察の直接的介入を退け、祭りの 自律性を確保した。しかし、それは同時に暴 力の抑制という問題に対処すべき主体として の年番の役割を特徴づけるものでもあった。 以上のような種々の規制との関連で生じた 岸和田だんじり祭における「見せる祭り」化 の進展は、より多くの観衆を集めることで祭 りの規模を拡大しながら、観衆を惹きつける 暴力性を突発的なけんかから地車曳行のやり まわしへと囲い込むことで、やりまわしの過 激さを追求する祭りを創り出した。また、そ れは「見せる祭り」を支えるための地車曳行 の動力源や観衆警備に携わる、より多くの担 い手を必要とする祭りへの変化でもあった。 しかし、この時期の祭りの変化の背後には、 産業構造の転換による担い手のサラリーマン 化(休日の土日化)や子・孫世代の転出(郊 外化)があった。一方の「見せる祭り」化に 付随するさらなる人的資源の確保の必要性 と、他方の祭りを支える担い手の確保を困難 にさせる社会状況の変化の同時進行は、結果 として加速度的に担い手不足の問題を生じさ せる方向へと祭りを導くものであった。
4.3
「舞台」整備の時代
―昭和 50 年代以降
全国的に少子化の進展が本格化した昭和 50年代以降、岸和田だんじり祭でも担い手 不足の問題が顕在化するようになった14)。た だ、岸和田だんじり祭においては、転出した 担い手たちが祭礼期間中に「里帰り」し、定 例の寄り合いにも参加するため単純に転出者 =部外者とはならなかった。また、担い手不 足の解消策として、岸和田だんじり祭の近隣 地域で 10 月に行われる祭りに携わる者が 9 月の岸和田だんじり祭に参加する事例も多く 見られるようになった。 近年の少子化で町内の氏子が激減し、曳き 手の確保に苦しむ岸和田各町(需要)と、 全国的にも有名となった岸和田祭(平成 18年度・見物客 60 万人)に参加したいと 希望する近隣地域の若者(供給)とが均衡 し、「助氏子(筆者の造語)」の参加が激増 した。(森田 2007: 52) つまり、岸和田だんじり祭に関しても、先 行研究における指摘と同様に「幅広い参加形 態を容認」(和崎 1996: 50)することで、祭 りの存続が可能になった。ただし、こうした 近隣地域からの担い手の動員は祭りの存続に 寄与したものの、祭礼組織の性格を大きく転 換させることにも繋がった。幅広い参加形態 を認めるという方策は、地縁・血縁に縛られ ないために担い手を際限なく動員可能にす る。しかし、近隣地域からやってくる担い手 は、多くの観衆が集まり、過激なやりまわし を行う「見せる祭り」として有名な岸和田だ んじり祭というブランドに引き寄せられて やってくる。つまり、この方策は「見せる祭 り」のハイライトとしての過激なやりまわし という周囲からの評価を資源として動員を行 うことを意味する。そのため岸和田だんじり 祭は、さらなる担い手の動員とは引き換えに、 近隣地域からの評価を重視せざるを得なくな り、より一層の「見せる祭り」化を進展させ ていくことになる。 また、この変化は祭礼組織には所属するが 地縁団体(町内会)には所属しないメンバー が祭りに関わることを意味する。つまり、祭 礼組織と地縁団体のメンバーシップの重なり が、かつてはほぼ同一であったものから遊離 することになる。その結果、祭礼組織は「見 せる祭り」化への指向性と密接に関連しなが ら、地車曳行―特にそのハイライトである やりまわしのための専門家集団として純化さ れる。そして祭礼組織を支える担い手集団が、 動員の準拠枠を地縁・血縁からやりまわしという地車曳行の目的へと移行させることに よって、地車曳行の専門家集団を統制する年 番は、警察のみならず地縁団体に対する自律 性をも高める15)。 一方、地車そのものや地車を収納する小屋 などの共有財は基本的に地縁団体の所有物で あるため、地縁団体には担い手のケガの補償 や地車の事故に伴う修理に関する責任を負う ことが求められる。そのため地縁団体は、年 番に対してしばしば警察と同様の「世俗の論 理」をもって祭りを規制する必要にかられる ことになる。すなわち、地縁団体にとって近 年の祭りは自らのメンバーシップを超えた範 囲の責任まで負うことで「コストが高くつく」 ために過度な過激さに対しては年番を牽制す る必要が生じるのである。かつては「ケガと 弁当は自分もち」といわれ、祭りのリスクに 関する責任は担い手個人に帰せられるもので あった。しかし、近隣地域からの担い手の動 員によって「異質性や多様性を基本的に包摂 する都市の祭礼」(和崎 1996: 50)に関わる ことになる現代の地縁団体は祭りを全面的に 支えるパトロン的役割を引き受けられなく なっている。 こうした状況のなか、平成 6(1994)年に は岸和田警察署長からの「観客の安全を確保 し、快適な観覧環境を整備し、かつ秩序ある 雑踏警備に協力して欲しい」という要請を受 けて、多くの観衆が集まることでしばしば暴 力沙汰が起こるような状態にあったカンカン 場に大型の観覧席が設置され、観衆が椅子に 座りながら安全に過激なやりまわしを見るこ とが可能になった。この警察からの「要請」は、 注目すべき点であろう。つまり、先述した年 番の警察に対する自律性の獲得の結果とし て、警察からの介入を「規制」から「要請」 へと後退させ、年番が暴力の規制に関する責 任ある主体となったことがわかる。 また、平成 18(2006)年には、年番によっ て祭礼日が週末へと変更され、観衆のさらな る増加とより多くの担い手の確保に力を入れ るようになった。その結果、大量の観衆のま なざしに曝されるカンカン場は、地車が渋滞 を起こすほどの人気スポットとなり、さなが ら過激なやりまわしというパフォーマンスが 披露される「舞台」として整備されることに なった。そして、明治以降の岸和田だんじり 祭が年番や警察によって暴力の規制を進めて きたこととは対照的に、多くの観衆のまなざ しにさらされ、しばしばけんかや事故が起こ るほどの過激な祭りであることを期待される ような一面がある昨今の岸和田だんじり祭 は、その期待に応えるべくやりまわしの高速 化や、さらなる過激化を追求することになる のである。 このように昭和 50 年代から現在にかけて の岸和田だんじり祭は、担い手不足問題への 対処として近隣地域からの担い手の動員を可 能にした結果、地縁団体から祭礼組織を遊離 させ、祭礼組織をやりまわしの専門家集団と して純化させた。この変化のなかで岸和田だ んじり祭は、暴力の抑制に関する規制の副産 物として「見せるべき」対象を焦点化し、よ り速いやりまわしを競い合う祭りへとさらな る過激化を進展させることになった。一方で、 年番や警察は両者の協力的な関係のもとで、 観衆を観覧席という空間に隔離することでま なざしをコントロールし、「見せる祭り」と しての環境を整備した。こうした祭り環境の 整備は、祭りに遍在する暴力性を空間的に限 定することを通して抑制し、予測可能な範囲 へと囲い込もうとする動きとして捉えること ができる。 岸和田だんじり祭の近代は、観衆のまなざ しの影響下において年番と警察が相互的な影 響関係を形成することで祭りに規制という ルールを整備し、けんかからやりまわしへ、 そしてそのさらなる過激化へと暴力性の内実 を変化させながら、漸進的に制度化を進展さ せてきた歴史であった。それぞれの時代にお
ける問題への対処は、一方通行規制や祭礼組 織の強化、近隣地域からの担い手の動員、観 覧席の設置などの具体的な変化として表出し たが、通時的な観点からすれば暴力の抑制と いう目的に沿って規制を敷くことによって祭 りをコントロールしようとする試みとして捉 えることができる。その結果は、限定された 空間における抑制された暴力性の発現として のやりまわしを確立し、それを観衆に披露す るためにより速く過激なものへと発達させる ことで祭りの「商品価値」を高めていこうと する変化でもあった。すなわち、祭りをかた ちづくるための警察および年番による両者か らの規制は、祭りが内包する暴力性を「速く 過激なやりまわし」というパフォーマンスへ と集中させることを通して、種々の規制の網 の目に囲まれた領域における予測可能な過激 さを観衆に披露するものへと至る変化を促し たのである。
5 スポーツ化する都市祭礼
現代社会において祭りを維持・存続しよう とした場合、担い手たちには大きく分けて 2 つの道筋がある。そのひとつは、国家などの 権威によって祭りを文化財化し、保護するこ とによってその維持・存続を図る方法16)。そ してもうひとつは観光化し、観衆を集めるこ とで規模の拡大を図り、祭りを維持していく 方法。いわば、前者はオーソリティを獲得す ることによって生き延びる方策であり、後者 はポピュラリティを獲得することによって生 き延びる方策だといえる。 その暴力的な特徴によって、国家から文化 財というオーソリティを付与されなかった岸 和田だんじり祭は、後者の途を歩んだ。その ため岸和田だんじり祭は、しばしば日本社会 の近代化の過程における「阻害要因」とみな され、それぞれの時代の日常的な規範と抵触 することとなり、さまざまな側面から規制さ れることになった。ただ、日常的な価値・規 範による規制は、祭りに対する禁止の提示で ある一方で、コインの裏表のように祭りの変 化の方向性を指し示すものでもある17)。それ ゆえに岸和田だんじり祭は、祭りの特徴とし ての暴力性を規制という檻に囲い込みなが ら、その暴力性をコントロールするためにや りまわしという曳行技術を発達させ、それを 祭りのハイライトとするような変化を経験す ることになった。その変化の過程は、祭りが 生き残るための方策の積み重ねのなかで遍在 する暴力性を管理・予測可能な抑制された暴 力性へと転換していくという変化―いわば 祭りの存続のための正当性を担保するための 交渉の歴史であり、この積み重なる交渉過程 の末に現在の岸和田だんじり祭がある。 「見せる祭り」化、すなわちポピュラリティ の獲得を生き延びる術とする方策は、担い手 の動員に関する地縁・血縁という制約を弱め、 より多くの担い手を動員できる仕組みを作り 上げた。しかし、それは同時に第三者的な評 価を重視し、常に人気を保ち続けなければな らないという制約を祭りに課す。そのため、 祭りは観衆の人気を得るための「わかりやす い」要素―例えば、観覧席の設置による「舞 台」の整備、そして「舞台」の上で起こる過 激さの追求による不可避的な事故の可能性を 肥大化させていく必要に迫られる。ただ一方 で、こうした祭りの過激さは自主規制によっ てコントロールされていることを対外的に示 さなければならない。なぜなら祭りは、警察 に代表される「世俗の論理」によって日常的 な価値・規範に抵触すると判断されてしまえ ば、その存続のための正当性を失い、すぐさ ま規制の対象となってしまうのである。した がって、ポピュラリティを指向する祭りにお ける過激さという抑制された暴力性は、「舞 台」の上で管理・予測可能な範囲に留まるも のとして厳重に管理されながらも、そこから逸脱する要素(さらなる過激化)を持つこと で商品価値を高めなければならないというア イロニーを内包している。岸和田だんじり祭 にとって現代とは、もはや過激さを放棄する ことが祭りのアイデンティティを喪失するこ とになると同時に、規制の網の目に対する「配 慮」を怠ることが祭りの存在理由を脅かすこ とになるという非常に困難な時代だといえる。 現在の岸和田だんじり祭における暴力性を 商品価値にすると同時に、暴力性を十分にコ ントロールしなければならないという祭りの 特徴は、ノルベルト・エリアスが「暴力の適 用範囲を定めるルールを含んだ何らかの種類 の肉体的行使を必要とする、少なくともふた つの側の間で行われる競技に焦点が定められ た組織化された集団行動」(Elias and Dunning 1986=1995: 224–6)と述べる近代スポーツの 特徴と高い親和性をもつ。もちろん、岸和田 だんじり祭に関しては近代スポーツのように 明確な勝敗が存在するわけではないが、特定 の管理された空間のなかで、観衆と担い手が 隔離され、管理・予測可能な範囲において過 激さを競い合うという特徴は、近代スポーツ が現代社会における唯一の「合法的暴力18)」 であることと関連している。遍在する暴力性 から管理・予測可能な抑制された暴力性への 変化は、かつての野蛮なスポーツ(の原型)が 近代化の過程のなかで制度を整えることで、 安全に、そして安心して「過激な肉体的行使」 を行い、またそれを観覧することができるよ うな競技へと変化してきたことと同様に、「世 俗の論理」からの規制のなかで「暴力の適用 範囲を定めたルール」(Elias and Dunning 1986 =1995: 224)を逸脱しない、わずかに許され た場所へと至る変化だといえる。 ただ、こうした「スポーツ化」(Elias and Dunning 1986=1995)した岸和田だんじり祭 は、多くの担い手を集めれば集めるほど、「速 く過激なやりまわし」という目的のもとに担 い手の「選別」が行われる可能性を高める。 それは、チーム・スポーツが状況に応じて能 力の高い選手を配置することで戦略的に勝利 を得ようとするように、担い手が祭りのさま ざまな場面に応じて交換可能な存在として運 用されることを意味する。つまり、地縁団体 から相対的に自律し、地車曳行の専門家集団 となった現在の祭礼組織は、速く過激なやり まわしの達成を可能にするために必要な「駒」 として担い手を個人化し、個人のパフォーマ ンス能力を尺度として序列化することにな る。そこでは、もはや地縁・血縁といった個 人の属性は、かつての祭りにとって有効で あったようには機能しない。「幅広い参加形 態を容認し、異質性や多様性を基本的に包摂 する」(和崎 1996: 50)ことで成立する現在 の岸和田だんじり祭は、暴力4 4ではなく能力4 4を 基準として担い手を疎外するという新たな排 除の論理を内包しているのである。 ここまでに明らかにしてきたように、岸和 田だんじり祭は社会の変化に曝されるなかで 規制の対象となり、その都度新たな要素を加 え、また旧来の要素を捨て去っていくことで 生き延びてきた。なにより、祭りはそれぞれ の時代の社会の構成員によって担われ、社会 と密接に関連しながら「外部指向的」であっ たからこそ、変化し続けてきたのである。松 平がいうように現代社会における祭りは、担 い手個人の「楽しみ」を組織化の重要な要素 としている(松平 1990)。しかし、その「楽 しみ」は、さまざまな「世俗の論理」への対 処なくしては成立しえない。そして社会の日 常的な価値・規範との接触のなかで生じる規 制の網の目のなかでいかなる正当性を見出す のか、その限られた領域をめぐる駆け引きの なかにこそ、祭りが維持・存続される理由が あるのだ。
注
1) 33 の祭りのうち京都・祇園祭と茨城・日立 風流物の 2 件は、すでに平成 21(2009)年の時点で無形文化遺産に登録されている。今 回の「山・鉾・屋台行事」の登録は、既登録 の上記 2 件に国重要指定民俗文化財の秩父祭 の屋台行事と神楽、高山祭の屋台行事などの 31件を新たに追加したものである。 2) 埼玉新聞「〈秩父夜祭〉ユネスコ登録の祭、 38万人熱狂 見物客が過去最多に」2016.12.4。 3) 日経新聞「萎縮する祭り 動員 250 万人『青 森ねぶた』の異変」2016.8.1。 4) 「進化する『だんじり祭』大きく重く、高速 化に対応」(『日経新聞』2011.9.14)。 5) なお、中里が言及する「担い手と観客」のあ いだの「もめごと」は、一見、共同体「外部」 とのコンフリクトの事例として読める。しか し、その処理の結果が「同一化の対象として の集団の同定」(上野 1984: 51)にあるのなら、 それは柳田國男が「見物と称する群」(柳田 1990[1942]: 248)を含めて祭りを論じたよ うに、観衆を祭りの内部に「外部」を創り出 すような「象徴的外部(内なる外部)」(上野 1984: 53)として捉えたほうが適切であろう。 6) 明 治 の 新 暦 導 入 以 降、2005 年 ま で は 9 月 14・15 日が祭礼日であった。 7) 起源に関しては、元禄 16(1703)年に岸和 田藩主・岡部長泰が岸和田城内三の丸に京都 の伏見稲荷社を勧請した際に、町衆を城内に 招き入れたことを始まりとする説もある。 8) 「祭礼の様式の多くは、文化・文政期に定着 している。山車・屋台や太鼓など祝祭と結び つく祭礼の道具立てが整うのも、やはりその 時期である。そして、それらが一層美々しく 飾り立てられ、今日の祭礼の盛行がもたらさ れるのは、明治中葉から大正にかけてである」 (松平 1983: 48)。 9) 「“今年こそ平和まつりを……”と市会や青年、 婦人会町会など全市団体こぞってくりひろげ た“祭礼事故防止運動”や、岸和田署、府警 機動隊の厳重な警備も空しく、だんじり同士 のイザコザはたえず、市街戦もどきの乱斗騒 ぎで、警官など多数が負傷“流血まつり”の 汚 名 を 返 上 で き な か っ た 」(『 和 泉 新 聞 』 1957.9.16)。 10) この昭和 33 年の規制を決定した主体は、資 料の性格上、明確ではない(岸和田市観光振 興協会 2003: 127)。ただ、後述する祭礼関係 者 B 氏へのインタビューからもわかるよう に、当時の規制に関しては警察が直接的に祭 りへ介入していたため、おそらく警察の強い 指導のもとで年番による規制が敷かれたと推 察される。 11) 『毎日新聞』(1959.8.3)。 12) 「年番は、大正 8 年の記録では 3 ヵ町より各 2名の 6 人で、その後長らく 6 人体制が続く。 しかし、昭和 41 年に 9 月 15 日が『敬老の日』 となり、見物人が増加したため、自主規制・ 自主警備を強化する必要があり、本年番 3 町 (中央・浜・天神地区から各 1 町輪番制で選出) から各 2 名、他の 17 町から各 1 名の 23 人体 制となる」(岸和田市ホームページ http:// www.city.kishiwada.osaka.jp/site/danjiri/unei. html 2016.9.7)。 13) なお、年番の警察に対する交渉力の獲得プロ セスに関しては、ほかにも次のようなエピ ソードがある。当時の祭りは警備を担う警官 と担い手のあいだでトラブルが増加してい た。こうした警官とのトラブルを回避するた めに、年番は警察に「自主警備」を申し入れ た。当初、この申し入れに対し警察は難色を 示した。しかし、年番は、この頃の警察の懸 念材料であった暴走族の祭りへの関与を徹底 的に排除しようとしたため、最終的に年番の 申し入れを受け入れて自主警備を認め、警察 はサポート役に徹するという現在の体制が出 来上がった。(祭礼関係者 B へのインタビュー 2015.11.7) 14) 「九月地車祭礼のわれわれ旧市の場合、名簿 を見ても、もともとの町内で住んでいる人間 の割合は正味一割ないし二割程度。とくに昭 和 50 年代以降、商店街や長屋の並ぶ下町か ら、サラリーマンになって新興住宅地へと移 り住んだケースが後を絶たない」(江 2005: 190)。 15) 「現代では、祝祭の閉鎖的な枠組みが基本的 に取り払われ、伝統的神社祭礼にあってもミ る−スるの境界は稀薄になる。神輿の担ぎ手 がほとんど神輿同好会に占拠されてしまって いる祭礼も少なくない。このような場合、祭 礼集団にとって、それまで閉鎖的に機能して いた祝祭空間は大きく変容し、祝祭は『楽し み』として外部から入りこんできた観衆や同 好の人びとによって占拠されてしまう」(松 平 1990: 350)。 16) 現在、多くの祭りが文化財化による維持・存 続を図っている。ただ、この方法は祭りの可 塑性を奪う可能性を孕んでいる。詳しくは、 小川(2002)を参照。 17) 「この地点から先は立ち入り禁止という表示 は、逆にいえばこの地点からこっちは安全だ よという指示と見なすことができる。規制さ れるということは、視点を変えれば道標を示 してもらえることと同義なのだ」(森 2003: 241)。 18) もちろん国家による戦争あるいは警察権力に よる暴力行為は「合法的暴力」として認めら れているが、これらは国家によって正当性を 付与されているという点で異なる。また、正 当防衛や緊急避難による暴力に関しても、そ の突発性(予測不可能性)が正当性の根拠と なっていることで異なる。
文 献
有本尚央,2012,「岸和田だんじり祭の組織論 ―祭礼組織の構造と担い手のキャリアパ ス」『ソシオロジ』57(1): 21–39. 芦田徹郎,2001,『祭りと宗教の現代社会学』世 界思想社.Elias, Norbert and Eric Dunning, 1986, Quest for
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Creation of an Extreme Urban Festival concerning
“Violence” in Modern Society:
“Sportization” of the Kishiwada Danjiri Festival
Hisao ARIMOTO
Konan Women’s University, Lecturer
E-mail: [email protected]
This paper aims to consider the modernization of urban festivals in Japan by analyzing the regu-lation of “violence” in the case of the Kishiwada Danjiri Festival.
A traditional festival held in Osaka, the Kishiwada Danjiri Festival is characterized as one of the most dangerous festivals in Japan. Sudden fights and accidents are highly common, and even ex-pected from the audience despite enforcement by the police. The highlight of this festival is called
yarimawashi, which refers to the float turning a corner without slowing down. In recent years, Yarimawashi is getting faster and more dangerous. Why is this happening?
The Kishiwada Danjiri Festival has undergone changes throughout its history. The festival has been “sportized” (Elias & Dunning 1986) between the internal and external aspects of the festival. Internally, the boundaries of membership have been changed to exclude violence and control the festival. Externally, negotiations with the police help keep the festival in line with the values and norms of modern society. The interdependence between these two surfaced as the focal point of competition in the festival, which later became radicalized and extreme. In the present day, per-forming yarimawashi has become a competitive event that is seen and scored by a large audience. This paper will analyze how the “sportization” of the festival has enabled participants to pursue an extreme form of yarimawashi within the rules. However, participants are potentially “individu-alized” and graded on a scale of merit; they have become increasingly likely to be treated as fungi-ble assets.