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近代香川の農業と地主制-香川大学学術情報リポジトリ

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近代香川の農業と地主制

唯 之

I 香川の地主制 はじめに一日本の地主制社会 いまここに大正期までの日本地主制の変遷の あとをたどれば,地租改正によって法制度上の出発点をあたえられた日本地主 制は,松方デフレ期を経過した明治 20年代はじめにその基本的骨格を形成した のち,明治 20年代から 30年代にいたる聞に体制的に確立し,明治 40年代から 大正期前半にかけて絶頂期をむかえた。日本地主制の象徴的存在ともいうべき

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0

町歩以上地主の数が最高を数え,自作農の没落一小作農の増大という農民貧 窮化の進行のうえに地主がその掌中に集積した小作地の面積が最大の率を示す のは,第1次世界対戦が終わった大正10年前後の時期であった。しかし日本地 主制が絶頂期をむかえたまさにこの時期,全国各地の農村で小作争議が激化, 農民運動が展開して地主制は大きく動揺する。ここ香川の地は r:f;也主王国」と 呼ばれて千町歩地主が藤出した新潟県ともに,小作争議がもっともはげしく戦 われた地域であった。そしてこの大正末の小作争議以降,日本地主制は衰退期 に入るのである。 ところで,資本主義社会を構成する基軸が資本一賃労働関係であるように, 地主制社会を構成する基軸は地主一小作関係である。日本において地主制が確 立されつつあったころ,明治民法が明治31年に施行されたが,それは小作農の 耕作権に対しては格別の考慮をはらわず,もっぱら農村の支配者層を形成した 地主たちのその支配の根拠である土地所有権を法認する,そのような法的体系 のもとに編さんされていた。地租改正によって創出された地主制は,ここに国 家の法によってその存在を保証されたのである。土地所有権を絶対とする明治

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22- 香川大学経済論叢 22 民法の前に小作農の耕作権はきわめてよわし地主はいつでも小作農から土地 をとりあげることができ,しかも,かわりの小作農はいくらでもいた。農外に 就労の機会がほとんどなく過剰人口が部厚く堆積していた戦前の農村は,小作 農たちが土地をもとめてせめぎあうという状況にあった。そうした状況のもと では小作農は高額にしてかつ高率の小作料収取に甘んじるだけでなく,人格的 にも地主に屈従し隷属して生きるしか途がなかった。戦前の農村社会が「前近 代的」とか「半封建的」とか呼ばれたゆえんである。 このような内容をもっ日本地主制の,その形成過程に関してあらかじめ言及 しておかなければならないことは,幕藩時代にその展開のきざしのあった商業 的農業が明治以降ほとんど完全に消滅して稲作一辺倒にかたむいていったとい う歴史的事実である。つまり,戦前の日本農業といえばその主軸はもちろん稲 作であったが,さらにさかのぼると幕末のころ,地域によっては商業的農業が 進展しつつあった。近畿地方の棉作,そしてほかならぬ讃岐地方の糖業である。 もし綿や糖業などの商業的農業が明治以降順調に発展していたならば日本農業 はもっとちがった様相を呈したであろうが,しかし現実には棉作も糖業も開港 後における安価で良質な外国製品の輸入の前に衰退を余儀なくされ,その発展 の芽はつまれてしまう。さらにまた,前稿でみたとおり明治政府の開明的欧化 政策は破綻して外国の商業的農作物が日本の農村に根付くことはなかった。日 本の風土に適合しなかったという技術的条件からだけではなく,経済的条件か らして日本の農村に根付く状況になかったのである。経済的条件とは,地租改 正によって制度的に確定した地主制の,明治

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年代以降におけるその展開であ る。地主経営にとってもっとも安定的な収益をもたらしたのは綿や糖業ではな しましてや外国品種の農作物ではなしまさに米であった。小作農から徴収 する高額で安定的な小作料収入をもとめて地主は土地所有拡大の方向に向かっ ていったのである。この土地所有拡大に拍車をかけたのが明治

1

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年代後半の松 方デフレであった。 松方デフレと香川県農業 地租改正を出発点とする日本の地主制が急速な展 開をみせたのは,明治

1

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年代とりわけその後半の,日本全国の農村がはげしい

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デフレにみまわれた時期であった。これに先立つ明治10年代の前半,明治10年 に勃発した西南戦争の戦費を調達するためにおこなわれた不換紙幣の大増発が 引金となって物価が急騰し,国民経済は危機的状況におちいった。その救済の ために明治14年に大蔵卿に就任した松方正義によって強力な財政緊縮と紙幣 整理一一いわゆる「松方財政」が断行されたのである。明治10年代後半におけ るはげしいデフレの進行はこの松方財政によって引きおこされたのであった。 松方デフレの影響は,辺境の地,ここ讃岐地方も免れなかった。「愛媛麟勧業 報告」によれば,明治16年当時の状況が r諸物価ノ¥追々低落シ,強テ望ム人 有ラザ、ノレヨリ人気引緩ミ,取引無キヲ以テ商業上不景気甚夕、シ」とか r物価益々 低落シ停止スル所ナキガ如クナyレヲ以テ諸穀物等ハ農家一般売惜シミ貯蓄ノ姿 ナリ」などと記されていてデフレの深刻さの一端がうかがわれる。麦や夕、イズ, ナタネ,甘藷,綿などの農作物,塩や酒,醤油などの価格は軒並に急落,そし て肝心の米価は明治13年から明治 16年のわずか 4年間で半値以下に下落し た。米価が下落すれば地租負担額は実質的に増加一一地租は改租使用米価のも とで算出した地価に定率

2

.

.

5

%

を乗じて算定一一ーすることになるから,こうし た米価の急落が農民層の零落,自作農の土地喪失をもたらしたことは容易に想 像されるところである。米価の下落一地租負担増のケースを考慮して愛媛県当 局は,米価が改租使用米価より下落したとき米価が回復するまで現物の米を抵 当として預かる旨の布達を明治12年に出したが,明治 17年の愛媛県農談会は この預米の制度をすみやかに実施するよう県当局に建議している。建議がおこ なわれた背景には,貧窮した自作農たちが次々と土地を手放していく現実が あったのであろう。明治17年農談会録事によると,明治 16年末の讃岐米は 3 円 台 (1石当たり)でも買手がないという状況であった。ちなみに香川県地租改 正米価は

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円76銭であった。 問題の糖業はどうであったか。おなじく「愛媛将勧業報告」によると,甘震 とみ 栽培農家は「…川"糖価は前月以来頓に下落し,為に資本微弱の農家は植付当初 や む を え ず より地立を以て売却するを目的とするも,買求者なきを以て,不得止,製糖家 に依頼し圧搾せざるを得ず。然るときは幾何の金員を要し,大に困難の景n況な

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24ー 香川大学経済論叢 24 り」という状況であった。文中の「地立」とは畑にある収穫前の甘薦の意味で あろうが,地立のままで販売せざるをえないほどに,糖業民の経済的困窮は進 行していたのである。すでに幕藩時代,東讃地方で「搾屋」と呼ばれた製糖業 者たちが肥料資金一一甘薦の栽培は米作に倍する肥料が必要であったーーを甘 蕪栽培農民に貸付けるという金融活動をとおして地主へと成長していたのであ るが,松方デフレは糖業生産のうえで展開する地主制に,さらなる展開の拍車 をかけたのである。 このように明治 10年代後半の時期,ここ讃岐の地においても,統計的に確認 するすべはないが貧窮した自作農の手許から地主の掌中へと広大な農地が移っ ていったにちがいない。前稿で紹介したところの明治 14年全国農談会に出席し た讃岐の老農・久米与平がその席上 r讃岐全国ハ地主少ナク小作人多シ,おとる ノて一村四百戸ナレパ其内地主五,六十名ニ過ギズシテ他ハ之レガ受作ヲ為スモ ノナリ」と述べているように,明治 14年当時すでに讃岐の農村は地主社会的様 相が色濃く,したがって明治 10年代後半の不況は讃岐農村の地主社会化をいっ そうおしすすめたことであろう。 形成期の香川県地主制と地主一小作関係 『愛媛県統計書』によると,松方デ フレが進行中の明治 17年の時期,香川県の小作地率は地主制の最先進地帯であ る畿内の大阪をもしのぐ 65旬5%一一全国一の高さであった。こうした小作地率 の高さは当然,他方においてその掌中に土地を大規模に集積した大地主の出現 を想起させるが,しかし,こうした大地主を頂点とした当時の香川県地主制の 全体像はあきらかではない。ただ,当時のとぽしい資料から判明した個々の具 体的な事実だけを 2, 3点指摘すれば,まず第 1に,明治 23年に帝国議会開設 にむけて作成された「香川県貴品族院多額納税議員互選人名簿」から推察すると, 納税額において最上位の地主の土地集積規模は 238町歩,最下位 15位の大地主 のそれは 93町歩であった。したがって互選人名簿に名をつらねた県下の大地主 の大半は,およそ 100 町歩~200 町歩規模の地主ということになる。第 2 には, 「香川県農事調査J (明治21年)によると,明治 16・17年当時,香川県の 10町 歩以上の土地所有者の数は,土地所有者総数 5万6,046人に対し 435人,率に

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2

5

して

078%

であった。ちなみに,地主が農業経営より遊離し貸付地の小作料収 入にのみ依存して生活しうるためには,ふつう

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町歩以上の土地所有が必要と いわれている。第3に,おなじく「香川県農事調査」によると,農家戸数9万

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1

6

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戸のうち自作農

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万1.

4

3

1

戸,自小作農

3

6

6

8

5

戸,小作農

4

4

0

4

8

戸であった。ということはつまり,地主的土地所有の規制下にある農家一小作 農および自小作農がじつに全農家のほぽ9割にも達するということであり,し たがってそれゆえに,明治

2

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年代はじめの讃岐農村はすでに明白に地主制社会 として成立していたといわなければならない。 以上,松方デフレ期から明治

2

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年代はじめにかけての香川県の地主制を考察 した。それではこののち,香川県の地主制はどのように変わっていったか。残 念ながら農事上の統計が未整備であった明治

2

0

年代と明治

3

0

年代は,この変 遷の過程はいまのところ,資料上の制約からよくわかっていない。ただひとつ, 資料的に確認できる事実は,小作地率が明治

1

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年の時点で

655%

を示した香 川県の小作地率は,明治

2

0

年代 明治

4

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年代もほぼその高さで推移(明治

3

0

=

6

2

.

.

3

%

,明治

3

0

=62

3%

,明治

3

6

=69%

,明治

4

0

=

6

5

.

.

5

%

,明治

4

4

=668%)

しており,したがって香川の地主的土地所有の拡大は明治

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年 代後半でストップしているということである。こうした香川県の動向に対して, おおかたの府県において明治

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年代以降も地主的土地所有が大なり小なり拡 大しており,なかには明治

4

0

年代の時点において明治

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年代に倍する土地所 有の拡大がおこなわれた福島,岩手,栃木のような東北諸県もある。一概に日 本地主制といっても,地域によってはその形成の時期や展開のテンポ,さらに はのちにみるようにその構造にも大きな違いのあったことを注記しておこう。 論述を明治前期の香川の地主制にもどそう。さきに香川の地主制は明治

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年 代はじめすでに明白に成立していたと述べたが,それでは地主制の基軸をなす 地主一小作関係はどのようなものであったか。日本地主制の地主一小作関係は その成立の時期が幕藩時代にさかのぽるうえに,内容も地方ごとにさまざまな ため,一般に小作慣行と呼ばれるが,香川県の場合,明治

1

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年に明治政府がお こなった小作慣行調査で,三野・豊ー田両郡の調書が残っているので,これを紹

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26- 香川大学経済論叢 26 介しつつ明治10年代香川の小作慣行の一端を確認しておこう。 明治18年小作慣行調査 まず、豊田郡の非自村の場合,小作人が地主に支払う 水田の小作料は1反当たり上田の1石3斗を最高に最低は下回の8斗で,収穫 米に占める小作料の比率は60%であった。比率の高い村としては 70%の高屋 村,低い村としては20%の大野原村がある。大浜や箱,主主などの庄内半島の 村では小作料は現物の米でなく貨幣で支払われた。水田にめぐまれないこれら 半農半漁の村では現金の漁業収益を小作料にまわし,小作地からの収穫米は もっぱら自家消費用の飯米にあてたのであろう。 つぎに小作の種類は,同じく作田村の場合 i名目小作」と「入小作」があっ た。名田小作とは地主が手あまりの土地を賃貸しに出すふつうの小作のことで あり,入小作とはその村の土地を他村の農民が小作する場合をいう。質流れに なった土地をもとの地主が小作する「直小作」のみられる村の例も多く,高屋 村では小作はすべて直小作であった…一一ここにも松方デフレで土地を失った自 作農の姿がみられる 。事例は少ないが「永小作」も大野原村,観音寺村な どでその存在が報告されている。永小作とは小作期間が無年季もしくは数十年 以上におよぶものをいう。 小作人が小作料を滞納した場合の地主の対処については i小作米金怠納スル トキハ直チニ卸シ付ケノ田圃引揚ゲ…いJ(比地村), i小作米金怠納者ハ地主直 チニ田面引揚ゲ"…"J(井関村), i小作米金怠納スノレトキハ地主ニ於テ現地ヲ引 揚ゲ小作ヲ止ムJ (寺家村)などと記されており,地主勢力の圧倒的優位がうか がわれる。そしてこの地主勢力の圧倒的優位のもとに,地主が田畑を担保とし て金銭を借用する「質入れ」も小作人の意向に関係なくおこなわれたし,また 土地が売買された場合でも小作人には地主交替の事後報告がおこなわれただけ であった一一こうした土地所有権の圧倒的優位が国家権力によって法認された のが,明治

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1

年の明治民法であったことは冒頭に述べた一一。 ところでさきに,小作料率が極端に低い村として大野原村を指摘したが,大 野原村は近世中期に京都の大商人・平田家によって大開墾事業と井関池の築造 がおこなわれた新田の村であり,平田家の呼びかけで開墾事業に鍬と労働を

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27 近代香川の農業と地主制 27ー もって参加した農民にはその労をねぎらって小作料が低くおさえられただけで なく,永小作権もあたえらたという経緯がある。そしてこの永小作権について 大野原村小作慣行調書は「田畑共小作の売買一一即チ小作人ノ都合ニヨリ他人 エトリ換スル時ナリ一一一ト唱、ヱ…一小作米ノ外ニ敷金トシテ一時掛ケ出シ小作 スル慣行アリ」と記しているように,大野原の永小作権は「敷金」を支払えば 小作人間だけで譲渡することができた。ところで,このような小作人聞におけ る小作権売買の習慣は何も大野原村だけのことではなく,古くから讃岐地方に 存在した小作慣行であった。いわゆる「甘士」の存在である。野村岩夫の名著 『香川勝下の甘土料について](昭和3年)によると,もともと甘土は発生の起源 が地域によって異なり名称も地域ごとにさまざまで,たとえば仲多度郡など甘 土のことは古くは「枕金」とか「償J,,-場代金」などと呼ばれていたという。 一般的にいえば,讃岐の狭い耕地のうえに激しい小作地獲得競争が展開される なかで,肥沃な小作地には売買できる小作権がプレミアムとして付着するよう になったのであろうが,このような小作権一甘土が,大正期の農民運動のとき に小作農一般の権利として香川の農村全域に広まったことについては後述する ところである。 大正期香川の地主制 さきに明治

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年代はじめの香川県農業を考察したと き,当時の讃岐農村はすでに確固として地主制社会に編成されていたと述べた。 それでは,当時から 25年以上を経過した大正期の香川の地主制はどうか。『香 川農民運動史の構造的研究](昭和30年)の著者・栗原百寿が当時の香川県の地 主制を「全国無比の小作型」と表現したように,やはり大正期も香川の農村は 明治

2

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年当時と同様,小作地が多く小作農の多い地主社会的様相の顕著な農村 であった。すなわち大正

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年当時,小作地率は全国の平均

46ω2%

に対して

6

7

4%

と断然高く,自小作をふくめた小作農の比重は表

1

にみるとおり全農家の

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割をこえる。そしてこのような多数の小作農の対極に聾立するのは

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町歩以上 土地所有者であるが,この大土地所有者の比重が高いことが,零細耕地所有者 の比重も高いこととあわせて,県農業の大きな特徴である。表2に示された5 反未満所有の零細耕地所有者の比率69“1%は全国第1位の高位にあり,また,

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-28- 香川大学経済論叢 28 表1 香川県の自小作別農家戸数(大正 6年) 戸 数 比率(%) 自 作 14,506 16 2(31 0) 自小作 33,323 37 2(40 9) 小 作 41,770 46 6 (281) 資 料 香 川 県 統 計 書 』 お よ び 『 改 訂 日本 農業基礎統計1(加用{言文,農政調査委 員会編,昭和52年). 注) ( )は全国平均. 表2 香川県の所有規模別農家構成(大正6年) 戸 数 比率(%) 資 料 香 川 県 統 計 書 』 計 一 % 一

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総 一

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一 1

5

0

町歩以上の大地主の比重の高さは新潟や秋田,山形などの大地主王国につ ぎ,青森県や茨城県と肩をならべるほどに高い。 ところで,近年の日本地主制研究の成果にしたがえば,日本の地主制はその 構造上,東北日本型と西南日本型,それに群馬や長野,埼玉などの養蚕型,こ の3つのタイプに地帯別に類型化することができるのであるが,大地主の比重 の高さにおいては香川県は,右に指摘したとおり明らかに東北日本型の特徴を そなえている。だが,東北日本型が反収が低く,それゆえ零細経営が成り立ち にくししたがって東北日本型においては3町以上大経営の比率が高くならざ るをえないという事実を踏まえるならば,当時,生産力の高さにおいて大阪や 奈良などとともに全国最高位のクラスに入っていた香川を東北型に含ましめる ことはできない。香川の地主制の型はやはり,水稲反収が高く零細経営の比率 の高い西南日本型である。香川の地主制は西南日本型として形成された基盤の うえに,香川の特殊事情が加わって,西南日本型のなかでは大地主の比重がと くに高い地主制として構築されたとみるべきであろうーーただ,香川の特殊事

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(田j) 40000 沖縄 陶 L ハU

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昌 一 城 700 -秋 田 600 500 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19(%) 50町歩地主総所有面干氏/総耕地面積 図 1 大正期香川県地主制の構造(全国比較) 注本図の原図は『天皇制と地主制 下J(安良城盛昭,稿書房,昭和63年)の59 ページに掲載の図(資料大正一三年六月調査五十町歩以上の大地主J). 図の縦軸は,問書の説明にしたがえば幾許の耕地面積について耕地所有五 O町歩以上地主一人が存在しているかJ,あるいは「耕地所有五O町歩以上大 地主の各府県における実質的多少」をあらわす.

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12 14 16 18 20石 反 収 図2 明治40年代香川の農業構造(全国比較) 注 本 図 の 原 図 は 近 代 日 本 地 主 制 史 研 究J(中村政則著,東 京大学出版会,昭和54年)139ページに掲載の図.原資料は, 『良事統計』および『改訂 日本農業の基礎統計~. 30 情が何なのかはいまのところ明らかでないが一一。こうした構造的特質をもっ 香川の地主制を日本地主制全体のなかで確認するために,図 lならびに図 2を 掲げておこう。 香川県の地主制についてさらに考察をつづけよう。考察するのは,日本地主 制の象徴的存在である 50町歩以上大地主である。 香川県の大地主 大正 14年の大日本農会調査「五十町歩以上ノ耕地ヲ所有ス ル大地主ニ関スノレ調査」によると,香川の50町歩以上上大地主は48人,この うち

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0

0

町歩台は

1

3

人,

2

0

0

町歩台は

3

人である。さきに,明治

2

3

年当時の県 下

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----15 位の大地主は大半が 100~200 町歩地主であると述べたが, 100 町歩以 上地主に関するかぎり香川の地主構造は明治

2

0

年代も大正期もほとんど変

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わっていない。さらに同調査によると, 50町歩以上地主が所有する耕地は当時 の香川の耕地面積の 1割にあたる 5,048町歩で,関係する小作農家は延べにし て 2万 2,320戸である。香川の農村における 50町歩以上地主の支配力の強大さ を物語る数値といえよう。 ところで 50町歩以上もの広大な小作地を所有する場合,当然のことであるが 当該地主の小作地は村外に広く散在せざるをえない。同調査によると,小作地 所在町村が 6~10 町村の地主は 18 人, 11~19 町村の地主は 9 人, 21町村以上 の地主は

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人であった。このような居村外に広大な小作地を所有する大地主に とっと地主経営のかなめとなるのは小作地の管理であるが,そのために大地主 たちが採択した方法が支配人制度で,村落有力者や没落在村地主らを支配人に 登用し,この支配人を介して居村から遠く離れた小作地の管理を遂行しようと したのである。「香川県小作慣行調査J (農商務省,大正10年)によると,大地主 や不在地主などが雇う支配人は県全域で 2,300人,その管理下にある小作地は 8,300町歩と記されている。こうした支配人のなかには雇主である大地主の威 光を背に小作人に対し常日頃横暴にたちふるまうものもいたようで,たとえば 大正 6年 2月21日の香川新報は「小作と支配人との衝突」と題し,三豊郡本山 村の支配人と小作人との紛擾の模様を次のように報道している。すなわち r三 豊郡本山村

X(

実名記載せず一注)は数年前より同郡仁尾村塩田忠左衛門,笠 田村鳥取治郎八氏等の同部落付近の所有地所分の小作取立方法を委託され居れ るが,…。…"(中略)……同部落一統の決議を以てXを岡部落民より排斥し一切 交通せざることに決議し,なお鳥取治郎八に対しは交渉員を選み,従来Xに於 いて支配し居りし同人所有地所の小作人はXの支配を受けずして直接地主に対 し納米する事に協議交渉中の由にて,若し要求容れられざる暁は一同申合の上, 小作地を返還するに至るべく協議せりとか伝えらる」と。ちなみにこの報道記 事に登場する塩田家ならびに鳥取家は r五十町歩以上の耕地を所有する大地主 に関する調査」によると前者が小作地 205町歩一小作人 2,000人,後者が小作 地 143町歩一小作人 640人で,両家とも三豊郡屈指の大地主であった。 ところで,さきの項のはじめに登場した「五十町歩以上ノ耕地ヲ所有スル大

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-32- 香川大学経済論議 32 地主ニ関スル調査」が農林省の手によって編さんされた大正13年前後の時期 は,じつは地租改正以降成長をつづけてきた日本地主制にとって大転換の時期 であった。この点について,敗戦後聞なく日本の民主化の一環として実施され た地主制解体一農地改革の克明な記録資料である『農地改革顛末概要』も「五 十町歩以上の大地主が絶頂に達するのは,内地では大正八年,ニ四五一戸であ り,北海道を含む全国では同十二年,五

O

七八戸であって,この時期こそ,日 本地主制の転機として一時期を画するところ1川 一J (805ページ)と述べていると ころであるが,かくしてこののち,昭和恐慌期から戦時下の昭和

1

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年代に至る 間,地主制は衰退の一途をたどっていく。周知のとおりこの転換をもたらしの が第1次世界大戦後の大正期に展開した小作争議一農民運動であり,そしてこ れも周知のとおり全国で農民運動がもっとも織烈をきわめた土地が,ほかなら ぬここ香川の地であった。さきに三豊郡における小作人たちの支配人排斥運動 の香川新報記事を紹介したが,いまや小作争議の矛先は支配人の雇主である大 地主そのもの,さらには地主体制それ自体に向けられることとなったのである。 次に論及すべきは香川の農民運動であるが,その前に,大正期を中心とした香 川の農業と農村を考察しておこう。 II 近代香川の農業生産と農業組織 一一明治期から大正期にかけて一一 明治初年香川県農業の概況 明治 大正期の県農業を概観するにあたって, 明治初年,それは産業全体のなかでどのような地位を占めていたか,その検討 からはじめよう。 表3は,明治初年における香川県の農林水産額と工業生産額を示したもので ある。この表自体は年次の異なる 2つの資料から作成されていてかならずしも 正確なものではないが,おおよその見当はつくものとして同表をみると,当時, 香川県の工業生産物総価額は総生産物価額の 32..4%を占めるにすぎず,過半の 67.6%は農林水産物であった(ただし,農林水産物といっても,そのうち水産物の占め る割合はわずか1%にすぎない)。その農林水産物の内訳をみると,米麦雑穀類が73..

(13)

33 近代香川の農業と地主制 表3 明治初年香川の農林水産額と工業生産額 香 II[ 県 全 国 計 円 % 円 % 会 生 産 額 4,754,79 100 354,736 9 100 農 林 水 産 額 3,214,491 67.6 347,189 6 69..8 内米麦雑穀類 (2,374,926) (73 9) (168,349 6) (681) 工 業 生 産 額 1,540,306 32 4 107,547 1 30..2 資料:香川県の農産物は「全国農産表1(明治10),エ産物・水産物は「名 東県讃州産出代価地名概表J(明治7),全国計は『天皇制と地主 制 下 !8ページの表 2によった.

9%

を占めてその比重のとりわけ高い点が目立ち,農業内部における商品生産発 達の未熟さをうかがわせる。こうした香川の状況はまた,全国的な状況ともほ ぼ照応するのであるが,ただ,香川県の場合,全国的な状況と比べて工業生産 額の比重がやや高い。それは,幕藩時代から讃岐の特産物として「讃岐三白」 と称せられたところの砂糖,塩,綿のうち砂糖と塩が工業生産のなかにふくま れているからである。とりわけ砂糖の産額は,表

1

作成上の資料となった「名 東県讃岐州代価地名概表」によると 100万

6

,240円で r全国農産表」における 麦の生産額

6

6

万7,895円を大きく上回り,米の生産額170万7,031円に対しで もそのほぽ60%に達している。この点に着目するならば,日本全国総じて農業 生産が圧倒的に優位であった明治初年,香川県は規模は小さいながら,西陣機 業を擁する京都府と綿の一大産地である大阪府にならぶ商品生産の先進地で あったといえよう。だが,この香川の糖業も明治20年代以降,安価で良質な洋 糖の輸入におされて衰退の一途をたどっていくことはのちにみるとおりであ る。 明治初年,おおよそこのような状況にあった香川県農業の,さらにその内部 における農家経営の実態はどのようなものであったか。このことが香川県につ いても全国各府県についても統計的に確認できるのは r農事調査J(明治21年) である。

(14)

34 香川大学経済論叢 -34-香川県経営規模別農家の構成比(明治21年) 表4 81 9% 8反未満経営 14..6% 8反以上経営 注 香 川 県 農 事 調 査J(1明治中期産業運動資料 第13巻』日本経済評論社,昭和45年)13ペー ジより作成. 3.5% 15反以上経営 % 38 6 4 2 0 3 3 3 3 脅 森

.

桝 没 山 形 ・ . 3 宮 城 ・ . 福 島 ・ ・ 秋 田 宮 崎 -岩 手 新 潟 ・ 山 梨 ニ 島 h-徳島﹁/媛 l 広 長 岡

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uL//e ・ 大 分 T ノ dd.-鳥取 石 川 ・ 制 ・ 悶 ・ ↓ う 京 都 埼玉・稲岡.・仏り一蹴,福井 群 同 . ・ 同 a 約 一 賀 E H E 神 1 ・ 千 葉 佐 一 三 -茨城 28 26 24 ~r 5 22 反 n 20 主18 H 畠 16 比 率 14 2 0 8 6 1 1

-

8

2 0 30 80% 全国からみた香川の経営規模別農家構 成比区分(明治21年) 注:安良城盛昭『天皇制と地主制下JlOぺー ジの図に香川県分(表4)を追加して作 図した. 50 60 70 8反 未 満 経 哲 比 率 40 図3

(15)

35 近代香川の農業と地主制 -35-「香川県農事調査」にみる農業経営の実態 「香川県農事調査」によれば,経 営規模別にみた農家の階層区分の構成比は表 4のとおりである。同表によると, 全農業経営の大半を占める

82%

の農業経営は,家族労働力によってほぽ経営し うる

8

反未満の零細経営であり

1

5

反以上の農業経営はわずかに

3

,,

5%

に すぎない。零細農業経営を基本的特徴とする日本農業のなかにあって香川県農 業が戦前来,とりわけ零細であることはよく指摘される事実であるが,明治

2

1

年段階における香川県農業の経営実態もあきらかにそうした状況にあった。い まここに, 3府37県の経営規模別階層区分の構成比を表示した図3を掲げてお こう。全国各府県に抜きん出て香川県農業の零細であることがあらためて確認 できるであろう。そして香川県農業の零細性は戦前段階はもちろんのこと,農 地改革をへた戦後段階においても変わりはなかった。 農業経営が零細なとき,貧しい小農家にとって農業収益を高めるために残さ れた途は,狭い耕地を有効に利用すべく少しでもその利用度を高めることで あった。冬場,厚い雪で大地がおおわれる米作単作地帯の東北地方と違って, 温暖な西南地方は水田裏作をおこなうことによってそれが可能であった。かん 概農業の発達した香川県の農業はとりわけ耕地の利用度が高く,-香川県農事調 査」に示された香川県の耕地利用率

197%

は,

160%

台の奈良,大阪などをおお きく引き離して全国一高い水準にあった。さらに香川県の場合,耕地利用率だ けでなく土地の生産力つまり反収(1反当たり収穂高)も,-農事調査表 巻ノ二J によると,明治

1

7

-

-

-

-

-

2

1

年の

5

カ年の平均反収が3府

4

0

県中,

1

9

9

6

石ともっと も高い。そして明治

2

0

年代初頭における香川県農業のこのような高い反収が明 治

2

0

年代以降における明治農法の展開のもとでさらに高まったことについて は,前稿でくわしくみたところである。 衰退する香川の在来産業一讃岐糖業 明治前期,香川県の農業は概略以上の ような状況であった。次に考察すべきは,幕藩時代,高松藩領内を中心に隆盛 した甘薦栽培一砂糖生産の,明治以降におけるその衰退の過程である。 そこで図

4

を参照にしながら讃岐糖業の変遷をたどると,寛政のころが草創 ささやま 期といわれる高松藩の糖業は,向山周慶

(

1

7

4

5

-

-

-

-

-1

8

1

9

)

によって讃岐独特の製

(16)

36 香川大学経済論叢 36← 開]歩 ハU n δ 0 0 つ U ハ O っ “ 4 a の r u A F h M の ノ “ 々 ' , 1 A 味 噌 E A 。 , “ ー ハ H V 咽' A n o n h u 明治 4 慶応 l 安 政

5

弘化

5

1 ム レ U1A コ HJ , A 1 天保 7 天保 5 AV 3000 2000 1000 甘 7000 熊 6000 作

5000 積 4000 讃岐糖業の変遷 資料:海野福寿・守田五昔、郎「開港以後の商品生産と地 主制J(1岩波講座 日本歴史 15近代 2 h 1962 年)107ページより作成.原資料は,農商務省『砂 糖に関する調査1,井上甚太郎『讃岐糖業の沿 革h 高松商工会議所『讃岐国産製糖調査答申 書J, I愛媛県統計書1,I香川県統計書!. 図4 糖技術が確立されて以降,天保期にはじまる藩の糖業保護奨励策を背景に急速 に発達し,幕末の安政から慶応のころ全盛期をむかえる。当時,主産地の大川 郡では砂糖の原料となる甘薦の繁茂したさまがあたかも林のごとくであったと そして明治元年,讃糖は大阪表の全国廻着量の4分のlを占め,全国首 いう。 位にあったが,明治

4

年の廃藩置県で高松藩が消滅したことにともない砂糖の 販売流通組織は解体,糖業民にとって資金融通の途もとだえて讃岐糖業は大打 撃をうけることになる。だが明治

1

0

年代のはじめ,旧藩時代に糖業資金の運用 方を藩当局から委託されていた旧砂糖問屋衆による一連の糖業組織再建の運動 一一明治5年讃岐国砂糖取扱所設立,明治 8年志度村製糖所開設,明治 12年高 松砂糖会社設立などーーが功を奏し讃岐の糖業生産はもちなおす。『農務顛末』 (農商務省農務局編さん,明治21年)によると,明治 12年の香川県甘藤栽培面積は しかしちょうどこの時期,外国から安 これまでの最高の6,872町歩であった。

(17)

価で良質な洋糖の大量輸入がはじまり,讃岐の糖業生産もその大波の影響をも ろにうけて明治12年をピークにふたたび低下,こののち二度と回復することな く衰退の一途をたどるのである。なお,幕藩時代における讃岐の商品作物とい えば,砂糖のほかに綿があるが,綿に関しては明治11年の生産高323万 9,000 斤が明治25年には12万 6,000斤へと激減したことだけを指摘しておζう。 このように幕末の開港以降,対外貿易がはじまったことによって香川県の甘 薦栽培,日本の棉作は衰退を余儀なくされたが,しかし他方,対外貿易の進展 とともに興隆していった産業もあった。養蚕がそれである。戦前の日本資本主 義における産業資本の確立,展開の基軸が綿糸紡績業ともに製糸業であったこ とは周知のところであるが,その製糸業の急速な発展が養蚕業のいちじるしい 発達をもたらしたのである。戦前の日本農業が「米と繭の経済」と呼ばれるほ どに,養蚕は貧しい日本の米作農家の重要な副業として日本の農村に深く定着 していった。香川の農村ももちろんその例外ではない。 香川の養蚕 「愛媛県各郡農談会録事J(明治16年)によると,阿野郡萱原村の 塩田宮造は,群馬県の養蚕家・田島邦寧について養蚕技術を習得して帰国のの ち,讃岐の地で養蚕をこころみ,また,大川郡富田村の徳田某らはみずから桑 の栽培と蚕の飼育を試みるとともに,福島県から養蚕教師を招いて村人たちの 実地指導にあたらせたと記されている。いずれも明治10年代はじめのことで あった。明治前半の時期,農事一般の技術改良の担い手が老農たちであったよ うに,養蚕技術もまず老農たちの手によって讃岐の地に導入されたのであった。 ここ讃岐の地にとって養蚕技術指導の最初の公的機関である高松伝習所が栗 林公園の一遇に設立されたのは明治 15年のことである。そもそも養蚕の技術 ー吾室の温度や湿度の調整,蚕室と蚕具の消毒,飼料となる桑葉の適正な供 給など,これら一連の作業工程における一ーは稲作農業の技術とは全然別系統 のもので,讃岐の農家にはまったく未経験の領域であった。したがって蚕業を 地域に広く普及させるためには,農家の子弟を対象とした公的な養蚕技術指導 機関が必要であった。その第

1

歩がこの高松伝習所であった。しかし伝習所に は期待したように生徒が集まらず,明治22年に閉鎖されている。県当局は高松

(18)

-38ー 香川大学経済論叢 38 伝習所廃止後,明治24年に郡役所管轄区域内にーカ所あて養蚕伝習所の設置, 明治26年蚕業巡回教師制度の発足,明治 30年桑苗買入補助規則の制定など, 蚕業振興対策を講じた。 養蚕業の導入が讃岐の地にはじまった明治20年代から明治 30年代はじめの 時期,製糸工場の設立も相次いだ。すなわち明治20年成瀬製糸工場(木田郡井戸 村),明治

2

7

年西讃製糸株式会社(三豊郡萩原村)・南海製糸株式会社(三笠郡財回 村),明治

2

9

年高松製糸場(高松市七番町),明治30年讃岐製糸株式会社(仲多度 郡豊原村)・立石製糸場(木田郡西植田村)である。しかしこれらの製糸工場の相次 ぐ設立が県内の繭生産の動向を踏まえたものでなかったため,原料繭の供給が 県内だけではおいつかず,したがって他県からの高価な繭の購入を余儀なくさ れ,結局いずれの工場も設立後数年を経ずして倒産していった。その結果は養 蚕農家にとっては繭の販売相手と販売時期の喪失,仲買人による買いたたきで あり,やがては養蚕の放棄であった。こうして香川では養蚕業は危険な投機的 事業とみなされ,一時停滞する。 しかし県当局に代わって系統農会が養蚕農家の指導奨励に直接あたるように なる明治30年代後半以降,香川の養蚕業もようやく停滞状態を脱して軌道にの りはじめた。そして明治43年 大正5年の香川県勧業 7年計画実施によってそ の生産体制の基礎固めをおこなった香川の養蚕業は第1次世界大戦中の養蚕景 気に支えられて急速に発展,しかし大戦後は戦後恐慌一戦後不況で香川県の場 合も全国同様一進一退の低迷状況に陥った。こうした香川県の養蚕業の変遷過 程は,繭生産の推移を示した図

5

に明瞭にみてとれるであろう。なおこのよう な養蚕業の発達を背景に,いちどは香川の地から姿を消した製糸工場が大正

6

年の山田製糸場設立(木田郡前田村)を機にふたたび次々と設立されることと なった。大正14年現在,香川県統計書によれば,県下に存在する製糸工場は全 部で15を数える。しかしこれらの工場で処理できる繭の量は県全体の生産量の わずか

1

割でしかない。 ちなみに同じく大正14年現在,香川県において春蚕を飼う農家はおよそ l万 戸,総農家数に占める割合は12%に達する。しかしこの 12%いう数値は,養蚕

(19)

石 30000 (生産量) 25000 20000 15000 10000

醐」ィイ

明 治 大江 30 35 40 5 千円 2800 2400 2000 1600 1200 800 400 O 治 明 正大 30 35 40 5 図 5 繭生産の推移 資 料 香 川 県 統 計 書 』 10 15 10 15 注) 資料における荷量の単位が大正9年までは 石,大正10年以降は貨で表示されているの で,これを石で統ーした(1石=10貫).

(20)

40- 香川大学経済論叢 40 県である長野県の75%という数値と比べればもちろん,全国平均の 31%いう数 値と比べても随分と低い。昭和に入ってから香川の養蚕農家はなお増加して昭 和5年段階では 1万6,000戸に達するが,こののち香川の養蚕業も昭和恐慌の 直撃をうけて衰退していく。概括していうならば,香川県においては戦前,養 蚕業はそれほど発達しなかったのである。幕末の開港以降,養蚕業の発達が顕 著であった地域といのはもともと,土地の生産力が低く米作以外にこれという 農産物の育ちにくい土地柄の地域であって,年間を通じて多種多様な作物がゆ たかに育つ香川県にとっては養蚕はそれほどに魅力ある産業ではなかったので ある。それに,掃立てから上藤にいたる養蚕の労働は根気と手間の必要な作業 の連続であって,養蚕期間中は1日のほとんどの時間をこれに集中しなければ ならない。しかるに春蚕のとき,香川県の農村は麦収穫の最盛期であった。香 川県の畑は麦がゆたかに育つだけでなく,収穫後の麦藁からは麦梓真田という 副産物も大量に確保できた。香川県では養蚕以上に麦作が重要視された土地柄 であったのである。 麦稗真田と香川県農業 阿讃山脈の竜王山に源を発して丸亀平野を流下する 綾川の流れが琴平街道(高松琴平)と交差するちょうどそこのところに,雨乞 踊りで有名な瀧宮天満宮がある。麦稗真田業がさかんであった戦前の大正期の ころ,夏になると毎年,ここ天満宮境内の公会堂で真田編みの競技会が開催さ れた。近郷近在から集まった農家の若い主婦や娘らが日頃の腕を競うのである。 参加者は2列に向かい合って座り,箇の合図で作業を開始,およそ 1時聞かけ て持参の麦梓を真田紐に編む。編み終われば長さの測定や品質の検査がおこな われるのであるが,優勝すれば主催者の香川県麦梓真田同業組合ならびに綾歌 郡農会から,名古屋帯や西洋手拭の賞品がもらえ,嫁入りの好条件にもなった という。こうした競技会は当時,讃岐の農村のあちこちで開催されていたよう で,たとえば大正元年の香川新報の紙面をみると,仲多度郡麦稗品評会授賞式 (10月 1日),端岡村の競技会(同月 3日),香川郡麦稗真田授証式(同月 8日), 浅野村麦樟真田競技会授証式(同月

1

6

日),仏生山町麦稗真田競技会(同月

1

6

日),大見村麦梓真田競技会(同月

1

6

日)などの記事がみあたる。

(21)

そもそも香川県で真田業がはじまった時期は,明治

1

5

年にまでさかのぼる。 この年,小豆島の草壁村で麦得を買い占めている男がおり,村人がその用途を たず、ねたところ,真田にして海外に輸出するという。すでに明治のはじめ,麦 梓真田は西洋の夏用帽子の原料として欧米に輸出が開始されており,この男も 麦得真田が輸出品として将来有望なのに着眼した大阪の貿易商であった。早速 に村人は彼に倣って真田編みを試みたのであるが,これがはからず、も香川県に おける麦稗真田業の出発点となった。 このようにして小豆郡にはじまった麦得真田の製造はやがて県全域の農村に 急速に広まり,明治の末ごろには麦稗真田といえば,岡山県の備中平野ととも に讃岐平野が全国的な主産地を形成するまでになった。麦梓の成育と品質が温 暖で乾燥した香川の風土に適していただけでなく,資金もいらず時間的な制約 もなく婦女子や年寄りでも手軽にできる麦稗真田業は,農外就業の機会にとぼ しい讃岐の農家にとってはまさにうってつけの農家副業であったといえよう。 ここに明治末から大正期にいたる麦梓真田業の推移を図6で示しておこう。第

1

次世界大戦の混乱期を聞に含んでいるとはいえ,流行に大きく左右される西 洋帽子,その原料である麦得真田の生産は変動がはげしい。讃岐農家の副業と して筆頭の地位にあった麦稗真田であるが,必ずしも安定的な収益が確保でき たわけではなかったのである。

*

麦稗真田の製造について簡単に説明すれば,まず,裸麦の麦梓を硫黄で燃して漂白を おこなう。潔白した麦得は麦畑の畦などで数日間乾燥したのち納屋などに貯蔵してお き,農閑期に入ってから梓ごしらへにとりかかる。梓ごしらへとは,麦得の禁輸を取り のぞいて適当な長さに切断し,もう一度漂白してからさらに細かく割り裂く作業のこ とをいう。こうして準備された麦稗を紐状に編んだものが麦稗真田で,編み方によっ て,四菱,片丸四菱,丸四菱など幾種類もの真田があった。西洋ではこれを編んで帽子 をつくるのである。 大正期香川の農業生産と農業構造 これまでの叙述において,戦前香川の農 村にとって2大副業といわれた麦梓真田と養蚕につき,明治10年代降第1次世 界大戦期に至るその発展の過程を考察し,さらにその前には讃岐糖業が衰退し ていく過程を考察した。この間,香川の農産物全体の構成も,しだいに浸透す

(22)

-42ー 香川大学経済論叢 42 万束 (生産量) 750 600 450t

¥/

レ~ 300 150 0 治明 大 正 40 5 10 14 万円 600 500 400 300 200 100 明治

ω

ハ V 大 正 l 5 10 14 図6 表稗真回生産の推移 資料香川県統計書~. る商品経済のうねりのなかで姿を変えていった。この点を大正6年の時点につ いて確認しておこう。第1次世界大戦さなかの大正6年という時点は香川県に おける明治期農政の集大成ともいうべき勧業7年計画が完了した年の翌年であ り,また,大戦後の大正期後半は農民運動が香川の地主制を大きくゆるがした

(23)

表5 農産物構成比較 (単位:円) 明治10年 大正6年 米 1,707,031( 53 7) 16,882,618( 52 3) 麦 667,895( 21 0) 7,680,704( 24 1) 雑 殺 類 11,699 ( 0 4) 158,715( 0 5) イ モ 類 265,779 ( 8 4) 816,265( 2 6) 5 類 41,009( 1 3) 714,575( 2 2) ナ タ ネ 39,328 ( 1 2) 23,256( ー ) 工 藍 64,474( 2 0) 10,941( - ) せ z士x 葉タバコ 7,604 ( 0 2) 68,087( 0 2) 作 除 虫 菊 59,600( 0 2) 物 甘 車事 159,253( 50) 588,054( 1 8) 綿 211,745 ( 6 7) 14,081( ー ) 繭 30 ( 987,414( 3 1) 桑 苗 82,418( 0 3) 野 菜 1,906(ー ) 1,240,737( 3 9) 畜 産 805,130( 2 5) 果 実 517,152( L6) 葉 工 品 1,045,094( 33) そ の 他 1,104( ー ) 236,375( 07) 計 3, 179, 358(100 0) 31,871,216(100 0) 資料:明治10年は「全国畜産表j,大正6年は『香川県統計書』による. 注)1 ()内は%. 2 藁製品は,麦手早真田・経木真田・かます. 時期である。その意味において大正6年前後の時期は近代香川│の農業にとって ひとつの転換の時期であった。 さて,明治10年ならびに大正 6年の農産物構成を示した表 5をみてまず最初 に指摘すべき点は,各種農産物に盛衰と消長がみられるなか,明治10年当時同 様に大正6年当時もやはり米・麦水の比率が高く,その地位にゆるぎがないとい うことであろう。そのゆるぎなき地位を根底でささえていたのは,いうまでも なく確固として存在した香川県の地主制そのものであった。図7は,明治20年 代以降大正期にいたる聞の香川県の米産出高と米価の推移を示したものであ る。生産高の順調な白のびと堅調な米価の推移がわかるであろう。

(24)

44-生産量 100 80 60 40 20

治明 22 25 30 香川大学経済論叢 生産量(単位:万石) 35 40 大 正 図7 米生産高と米価の推移 資 料 香 川 県 統 計 書 』 米価 50 40 30 20 10

5 10 14 注) 米価は大正3年以前は中米,大正4年以降は2等米の玄米1石年平均相場. 44 第

2

に指摘すべき点は既述のとおり,綿と甘薦の衰退である。綿の衰退はほ とんど壊滅的といってよく,甘躍もいちじるしく衰退した。それでも讃岐糖業 が壊滅をまぬかれ,大正期においてもなお,洋糖の圧倒的優位のもと,甘薦栽 培 製糖の継続が可能であったのは何よりも讃糖の持つ独特の風味や芳香ゆえ に,その高値にもかかわらず高級菓子の原料としてもとめつづけられてきたか らであった。衰退作物といえば,ナタネや藍などの伝来的工芸作物も低落がは げしい。ナタネは電灯の普及,藍は化学染料の出現がその低落の原因であった。 第3点は,近年成長いちじるしい農産物群の存在である。それらはすでに述 べた繭と麦稗真田のほかに,果実や野菜などの園芸作物,それに養鶏・養豚な どであった。第1次大戦後の戦後恐慌のもとで停滞傾向におちいった繭や麦梓 真田にかわって生産をのばしていったのはこれら園芸作物と畜産であった。園 芸作物や果実の主なる仕向地が大阪や神戸の大都市であったことはいうまでも ない。 最後に表

3

からもう 1点言及しておけば,大正中期以降,その生産高は園芸 作物や畜産に遠くおよばないが成長が急速で、あった作物に除虫菊と葉タバコが

(25)

ある。除虫菊は殺虫剤や蚊取り線香の原料となる作物で,夏期,温暖な海岸線 や島艇部の傾斜地に除虫菊が白く咲くさまは戦前香川の代表的な風物詩のひと つであった。専売局の統制下にあった葉タバコについては,戦前の代表的な農 民文学のひとつであるところの,香川の東讃地方がその舞台となった『生活の 探究~ (昭和12年刊)にも,専売局員とのやりとりをふくめその栽培の様子が生 き生きと描写されていることを,ここにつけくわえておこう。

*

産額が米につぐ香川県の麦は畑作よりも水田表作の比重がはるかに高く,麦の裏作 がおこなわれる水田は全体の9割におよぶ。初夏のころの讃岐の大地は回も畑も,収穫 前の麦の寅一色でほぼぬりつくされた。ところで,ほとんどの水田で麦の裏作がおこな われているというこの事実は,これらの水田が,必要なときに水を入れ不必要になれば 水が落とせるところのかん排水操作が可能な水田,つまり乾回であるという証拠にほ かならない。香川県の乾固化率は全国で最上位にあった。ちなみに米の反収が全国最上 位にあることは前稿でも指摘したが,麦も反収は高く,裸麦・小麦とも全国最上位に あった。 次に農業構造はこの当時どのようであったか,この点もあわせて確認してお こう。表6によれば,大正6年当時,香川県の耕地面積は田が3万 9,857町歩, 畑が1万 538町歩で,農家1戸当たり一一農家総数は8万 9,651戸一ーにする と 5反6畝である。わずか5反6畝というこの1戸当たり耕地面積は,全国 平均

1

5

畝に比べてほぼその半分でしかなかった。農家

1

戸当たり耕地面積 がせまければ経営規模(=耕作規模)も小さくならざるをえないが,経営規模別 農家構成を示した表?をみると,全国と比較して

1

町歩以上経営農家の比重の 低さとともに 5反未満の零細経営農家の比重の高さがわかるであろう。ちな 表6 香川県の耕地(大正6年) 面 積 1戸当たり面積 回 39,801町歩 4反4畝 (5反3畝) 畑 10,691町歩 1反2畝 (5反2畝) 計 50,492町歩 5反6畝(1町5畝) 資 料 香 川 県 統 計 書 』 ・ 『 改 訂 日本農業基礎統計.1. 注) 1戸 当 た り の 面 積 ( )内は全国平均.

(26)

-46ー 戸 数 比 率 (%) 香川大学経済論叢 表7 香川県の経営規模別農家構成(大正 6年) 総 戸 数 69,651 46 資 料 香 川 新 報 ! (大正6年5月9

10

12日)に掲載の記事「香川県の農業一一全国の 上より見たる一一“」より作成.原資料は『農事統計表!. 注 ) 比 率 の ( )内は全国平均. みに

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町歩以上経営農家の比重の低さも

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反未満の零細経営農家の比重の高さ も,全国一であった。さきに表

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において明治

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年当時の香川県農業の零細性 を確認したが,大正期においても事態に大きな変わりはない。 ところで,農業の零細性との関連で言及しておくべきことは,農村の過剰人 口問題である。明治

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年代以降,紡績製糸業を中心とする軽工業部門の発達は いちじるしく,第1次世界大戦以降は重工業部門も飛躍的発展の第1歩をあゆ みはじめたが,しかし労働市場の展開が緩慢であった戦前の日本資本主義のも とでは,零細農業経営内の家族労働力は,農外に就業の機会がないまま,農村 に滞留せざるをえなかった。これがいわゆる戦前日本の農村過剰人口問題であ る。過剰人口である農家のこ,三男たちは農村に暮らしているかぎり家族労働 に埋没して失業者にはならないがその暮らしぶりは惨めで貧ししその大量の 存在が日本の農村を低い生活水準におしとどめていたのであった。香川県の場 合,大正3年9月の香川新報に掲載された県農会技手の論説によると,県下約

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戸の専業農家がかかえる余剰労働力は年間

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万人と推定されてい る。年間労働日数を

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日とすれば

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日当たり

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人以上の労働が余剰と いう計算である。経営規模が零細であった香川の農家が土地の利用度を高めて 農業を集約化しようとした背景には農家収益の増大をはかるという明白な目的 のほかに,こうした余剰労働力をすこしでも解消しようという意図があった。 しかしこれを解消するには零細農業という制約はあまりも大きし香川県の農 家はさらなる余剰労働力の燃焼と家計を補充する現金収入の獲得をめざして本

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業である米麦作以外のさまざまな副業に取り組んでいったのである。昭和

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年 の『香川総合郷土研究~ (昭和51年復刻)に掲載の論文「人口増減と産業(殊に 農業)との関係」は79種類もの副業の存在を指摘している。 こうした副業とともに出稼ぎも過剰人口のはけ口となった。個別的なケース はべつにして,香川県の出稼ぎといえば,一般に岡山の蘭草労働,徳島の養蚕 労働であった。出稼ぎによる農家所得の補充は農家の兼業化をうながすことに なるのであるが,しかし兼業化をうながす都市的・工業的発展が顕著な阪神地 帯は,香川県からは瀬戸内海をへだてた遠い距離にあった。香川県の専業農家 率は70%弱ときわめて高しこれは東北的水準に近い。 香川県産業概観 明治初年における香川県農業の地位を検討することからは じめた本節を,明治初年から 30年以上を経過した明治の末においてその地位が どうなったか,また大正期以降どう変わっていったかを確認することで,しめ くくろう。表8ならびにこれを図示した図8をみると,明治43年の時点、におい て農産物の割合は55..0%,これに水産物を加えると 58..5%である。やはり総生 産額の過半は農林水産物が占め,したがって明治末の段階でも香川県が農業生 産を基軸とする農業県であるという明治初年の状況は変わっていなしユ。他方, 35%を占める工業の実態はといえば,醸造業・製紙業・糖業などの幕藩時代か 表8 産業別生産価額の推移 (単位:万円) 総生産額 農 業

業 水 産 業 明治43年 3,754(100) 1,965(550) 1,485{416) 124(3..5) 大正4年 4,110(100) 2,027(493) 1,889(460) 194 (4 7) 9年 14,532(100) 7,565(520) 6,336(43 6) 631 (43) 14年 14,290(100) 6,300(440) 7,548 (52..8) 442 (3..1) 昭和5年 11,616 (100) 3,850(330) 7,532(633) 414 (3 6) 10年 16,320(100) 5,380(33 0) 10,544(64 6) 396(2 4) 資 料 香 川 県 統 計 書J. 注)1. 畜産業・林業は農業に,鉱業・製塩業は工業にそれぞれ含ましめた.ちなみに, 大正10年時点における畜産業,林業,鉱業,製塩業の総生産物価額に占める割合 は,それぞれ2%, 1 %, 2 %, 5

%

.

2 ()内は%.

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十 48-12000 10000 8000 6000 4000 2000

香川大学経済論叢 農業 9 14 図 8 産業別生産物価額の推移 資料)同前. 48 10 らつづく在来産業,それに漆器・団扇・素麺・保多織などの伝統的家内工業で あって,その生産の形態は近代以前の生産様式をそのまま継承したものであっ た。しかし第 l次世界大戦がはじまると,香川の工業も生産額が増えはじめ, 大正14年には工業生産額が農林水産額を抜き去るに至った。が,急増した工業 生産額の内容を香川県統計書で確認すると,その大半は,右に指摘の伝統的在 来産業から構成される「飲食工業」と「雑工業」で占められているという状況 であった。香川の伝統的在来産業に対して,近代的な工場施設をもっ紡績業(倉 敷紡績の坂出工場・高松工場など)や機械工業(船舶用発動機の槙田鉄工所や野田式発動機の 野田興農商会など)も大戦期から戦後の時期に生産をのばしていくが全体からみ ればその比重は小さい。 以上を総括していえば,たしかに大正末以降,工業生産額が農業生産額を凌 駕する事態が現出したが,産業の実態からみればやはり香川県の中心産業は農 業であった。ちなみに昭和5年の香川県有業者人口総計の職業比率を示す表9 によると,有業者人口の567%が農業よって占められており,戦時下の昭和10 年代も

50%

を下回ることはなかった(昭和

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=

5

7

%

)

。職業比率からみても戦 前の香川県の産業はやはり農業が中心であったのである。

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表g 職業別人口 農 業 195,967 56 7 水 産 業 9,170 2..7 工 業 54,476 15..8 商 業 43,541 12 6 そ の f也 42,743 12 2 総有業人口 345,897 100 0 資 料 国 勢 調 査J(昭和5年) 注)鉱業は工業に含ましめるその他」は,交通業・ 公務自由業・家事使用人など. III 大正期香川の農民運動と農村 IIでくわしく考察したところの香川の地主制,さらには日本の地主制は,第 1次世界大戦後聞ない大正10年代に展開した農民運動を契機として衰退期に 入る。大戦期に,日本初の本格的大衆運動である米騒動が勃発し,大戦期から 戦後の時期,階級闘争的性格を強く帯びた労働運動が本格的に展開するのであ るが,こうした労働運動・大衆運動につづいて大正の 10年代,農民運動が展開 した。以下,香川の農民運動を考察するにあたって,これを触発しこれに強い 影響をあたえた労働運動と米騒動について,はじめに言及しておこう。 激化する労働運動 日露戦後から大正初年にかけて慢性的不況のもとに苦し んでいた日本資本主義にとって第 1 次世界大戦(大正 3~7 年)の勃発は,はか らずも今後の飛躍的発展をもたらす絶好の踏台となった。欧米諸国からの軍需 物資,生活資料両面にわたる大量注文などが契機となって日本国中が熱狂的景 気にわき,資本家階級のふところには予期せぬ巨利が転がり込んできたのであ る。いま,好況の絶頂期であった大正8年を大正3年の時点と比較すれば,職 工

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人以上の工場の工業生産額は約

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倍に高まった。大戦期におけるこうした 工業の発展がこれまでと様相を呉にしていた点は,金属・機械・化学工業,さ らには鉄鋼業などの重化学工業が急速に発展し,そしてこれを背後からささえ

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50 香川大学経済論叢 50 るべく,電力事業もまた急速に発展したことであった。ここに,産業構成にお いてこれまで長く,紡績業を中心とする軽工業が優勢で,重化学工業が逆にい ちじるしく劣勢であった日本資本主義は,大戦を契機にようやく本格的な重化 学工業化を開始することになる。香川県の場合も,大戦中に工業生産額は図8 にみたとおり急増しているが,ただ,その実質的内容においては重工業部門は もちろん軽工業部門でも近代的産業の発展と呼ぶにはほど遠い状態にあったこ とはさきに指摘したとおりである。 第1次世界大戦を契機とする日本資本主義の急速な展開のもとで,京浜地方 や京阪神地方を中心に,労働力に対する需要も急増した(大正8年の時点における 職工5人以上の工場の労働者数は大正3年の時点の18倍)。そして大戦が進行するなか でのはげしい物価騰貴のもとで資本家や投機的商人,大地主たちが獲得する巨 利と彼らの享楽的生活を眼前にしつつ窮乏生活を強いられる労働者たちの階級 的自覚がすすみ,労働組合が結成され,ストライキが続出した。戦前,労働争 議参加人数が最大を数えたのは大戦直後の大正8年のことであり,東京上野公 園で日本最初のメーデーが挙行されたのはその翌年の大正9年5月のことであ る。『香川県史 6 近代IIAに掲載の「大正期労働争議一覧表」によると,香 川県では大正期14年間を通じて62件,大戦後の大正8年以降には45件の労働 争議が発生している。ただ,労働争議といっても当時の県下の工場はそのほと んどが町や村の従業員

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人以下の小さな工場であって,資本家階級に対する労 働者の階級的連帯などといった状況からはほど遠い,小人数の非組織的労働者 による散発的・偶発的な労働争議であった。 米騒動の勃発 さらにまた,大正 7年に米騒動が勃発した。近代日本がはじ めて経験した全国的規模での大衆蜂起であるこの米騒動をひきおこした直接の 原因は,いうまでもなく米価の暴騰である。第1次世界大戦勃発以降,都市人 口が急増して米消費量が増大するという状況のうえに,米穀商や地主による米 の買占め・売惜しみ,さらには大正6年の不作,シベリア出兵による軍需米調 達という事情がかさなって大正7年の米価は天井知らずの勢いで暴騰し r古今 未曽有の沸騰」をきたした。米価暴騰によって生活窮迫のぎりぎりの状態にお

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いこまれた一般大衆は米商人や富豪に実力をもって米の廉売と寄付を要求し, 世情は騒然となった。米騒動には都市に居住する一般大衆だけではなく,農民 たちもくわわった。米をつくる農家がなぜくわわったのかといえば,一口に農 民といっても米を売り惜しむ地主もいれば,出来秋にはすでに米を売りつくし て端境期には米を買わなければならぬ貧しい農民たちもいたのである。米騒動 が勃発したのはまさにこの端境期の時期であった。 自然発生的・一接的性格が強く組織性と指導性を欠いた米騒動であったが, 富山県の小さな漁村からはじまったこの騒動の嵐はまたたく聞に近畿を中心に ほぽ全国を席巻した。香川県の場合,

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日に

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銭であった白米の値段 は9日には 50銭代にまではねあがるという米価高騰のもとで, 8月 14日の高 松市を皮ぎりに,以降,県下あちこちの町や村で騒動が勃発した。米騒動のこ とを報じた香川新報の記事の r津田町漁民の暴動ー雷鳴中の活劇」,「西浜漁民, 不穏の形勢j,r米商の好手段一細民のt憤激j,r騒擾事件大検挙

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名の召喚j, 「商人,米を売らず一町内の警戒」などの題目からだけでも,騒動のありさま の一端がうかがわれよう。 f米騒動の研究 第 4巻D (昭和36年)によれば,県下 で米騒動が発生した地は,高松市のほか,丸亀・津田・志度・庵治・草壁・池 田・直島・栗林・鷺田・東浜・由佐・観音寺・豊浜の各市町村である。大半は 市街地か市街地に近い漁村であるが,由佐村や鷺田村のような純然たる農村地 帯も含まれている。 香川県の米騒動がほぼおさまったのは8月

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日ごろ,そして都市によっては その鎮圧のために軍隊までが出動した全国の米騒動が最終的におさまったのは 8月の末のことであった。およそ 2ヵ月間もの長い間,騒動の嵐が日本全国を 吹き荒れたことになる。 農民運動の展開 米騒動で煽られた小作争議の炎は,大正

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年の戦後恐慌を 契機に急速に全国に燃え広まっていった。農林省の統計に小作争議が登場する 最初の年は大正6年であるが,この大正 6年における全国小作争議件数 85件 は,大正 10年には一挙に 1,680件へと急増した。大正後期の小作争議がこれま での小作争議と違っていたのは,こうした量的躍進とともに,それが農民運動

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52- 香川大学経済論叢 52 として,つまり寄生地主制に対する小作農民層の階級闘争として展開するにい たったということである。もちろん農林省が統計に掲げる以前から,小作争議 は全国各地にあった。香川県の場合も明治期を通じて各地に小作争議が発生し ていたことは香川新報の紙面でも確認できるところであり,また,米穀検査の 実施が契機となって小作争議が発生したことは前稿で指摘したところである が,その多くは地主の温情をあてにした懇請の域を出るものでなく,階級的自 覚にもとづく農民運動と呼ぶ、にはほど遠い状況にあった。 これに対し,小作農民の階級的覚醒がすすみ,彼らが組織的に結集して地主 との本格的な闘争に立ち上がったのが,大正後期の小作争議で、あった。都市の 労働者が労働組合を結成したように,小作農たちは小作人組合を結成した。小 作人組合を結成することによっで彼らは地主との闘いを開始したのである。小 作人組合の全国的政治組織である日本農民組合が設立されたのは,大正11年の ことである。日本農民組合つまり日農に加盟し,日農の指導のもとに農民運動 を実践せんとする小作人組合を,以下,農民組合と呼ぼう。 全国の農民組合を率いる日農が大きくかかげた闘いの旗印は I小作料永久3 割減」であった。ただ減額しろというのではない,われわれ農民も労働者なの だから働いた労働にみあう正当な報酬は確保されなければならない,そう主張 したうえでの小作料減額要求であった。ところで,この時期に至つてなぜ,農 家経営にとって自家労働力が労働賃金を支払われるべき費用として認識される ようになったか。それはまさしく,大戦期以降,急速に展開する資本主義的労 働市場に農業労働力がくみこまれることによって,農民みずからが自己の労働 に対して価値意識と評価を高めていったその結果にほかならない;そうした事 情から農民運動はまず近畿や東海の大工場地帯にある大都市において大戦期か ら戦後にかけて発生し,そののち周辺の地域に及んでいった。香川県において 農民運動が本格的に展開するのは,大正 10年以降のことである。以下,香川県 の農民運動を考察するにあたって,はじめにその略年表である表 10をかかげて おこう。

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表 11は,香川県綾歌郡岡田村の農民組合(日本農民組合岡田支部)の作成になる「回

参照

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