優良盲導犬の育成に関する生殖工学的研究
代 表 者:鈴木 宏志(帯広畜産大学原虫病研究セ ンター) 責 任 機 関:帯広畜産大学I. 研究の全体計画
1. 研究の趣旨 視覚障害者の生活の向上に資するために,生殖工学によ るイヌの人工繁殖技術の開発とその応用によって,我が国 における盲導犬の質の改善を図ろうとするものである。よ り具体的には,精子の凍結保存法と人工授精法の確立によ る海外からの遺伝子資源の導入と確保,および胚の凍結保 存法の確立による育種の促進を図り,優良盲導犬の効率的 な確保を推進する計画である。我が国に導入された盲導 犬の汎用犬種であるラブラドールレトリバーでは,補助犬 としては不適格な股関節形成不全症や進行性網膜委縮など の重篤な遺伝性疾患のキャリアーが高頻度で存在すること が明らかとなってきており,緊急な対処が必要である。ま た,我が国のイヌの人工繁殖技術は欧米のみならず,近隣 国と比べても立遅れており,視覚障害者に優秀な盲導犬を 提供するためには,早急なキャッチアップが求められる。 そこで本研究では,精子の凍結保存技術と人工授精技術を 確立するとともに,海外からの遺伝子資源の導入を図り, 遺伝子バンクを設立する。また,胚の凍結保存技術と受精 卵移植技術の開発によって,雌側からの優良盲導犬の育種 スピードの促進をも図る。本研究は動物の遺伝子資源の確 保と流通の促進を図る生殖生理学的,生殖工学的研究と, この成果を盲導犬の育成,実用過程で検証する二つの過程 から構成され,単独府省では対処が難しいかと思われる。 また,これらの二つの構成要素について,生殖工学研究に 精通している研究機関と,この成果を検証,実用化する機 関の双方が一体となって推進することが必要であると考え る。 2. 研究の概要 a. イヌ精子の超急速凍結保存法の開発に関する研究 フィールドでの精子の凍結を可能とする簡便な凍結保存 法を開発する。これまでの精子の凍結保存は,煩雑な操作 を要するので,実用性に難点がある。16 ~ 17 年度にお いては,帯広畜産大学にて糖類を凍結保護剤とした凍結保 存液を開発し,簡便で実用性の高いイヌ精子の凍結保存法 を開発する。 (1) 糖類を凍結保存液としたイヌ精子の耐凍能に関する研究 マウス精子の超急速凍結保存法に用いられている凍結保 護剤の組成を改良し,イヌ精子の凍結保存に適した凍結保 存液を開発する。 (2) 凍結融解精子の評価法に関する研究 凍結融解後のイヌ精子のin vitroにおける正常性の評価 を可能とするために,先体膜の安定性や受精能に着目した アッセイ系を開発する。 b. イヌの人工授精法の開発に関する研究 イヌの生殖器は解剖学的に特徴的であるために,精子の 生殖道内への注入が容易ではなく,さらに大型犬であるラ ブラドールレトリバー種では,一般的な内視鏡の使用は困 難である。そこで,大型犬の人工授精法を確立するために, ヒト用膀胱鏡を用いた人工授精術を開発する。北海道盲導 犬協会において,16 年度は人工授精術の開発,17 年度で は海外からの凍結精子を導入して盲導犬の繁殖に応用し, 18 年度には産仔の能力検定を実施する。また,人工繁殖 においては親子鑑定が必須となることから,帯広畜産大学 では,17 年度に親子鑑別法を開発する。 (1) ヒト用膀胱鏡の応用による大型犬の人工授精法の開発 大型犬における再現性の高い人工授精法を開発するため に,ヒト用膀胱鏡を応用して,新鮮精液および凍結精子を 用いた人工授精を行い,超音波診断装置による妊娠診断に よって受胎率を判定する。 (a) ヒト用膀胱鏡の応用による大型犬の人工授精法の開発 北海道盲導犬協会では,ヒト用膀胱鏡を応用して大型犬 における再現性の高い人工授精技術を確立し,国内外の優 秀な雄犬の精液を使用することで,優良盲導犬の育成を図 る。 (b) ヒト用膀胱鏡の応用による人工授精法の開発およびこれ を支援する新規技術の開発 ヒト用膀胱鏡を用いた人工授精法の確立と盲導犬への応 用を果たす。帯広畜産大学では,主に精巣上体精子の凍結 融解精子による人工授精と凍結融解精子の授精能力を検定 する。これに加え,卵巣の凍結保存および卵巣移植技術の 開発も実施する。 (2) 授精適期の判別法の開発に関する研究 イヌの排卵時期の適切な把握は,現在でも困難であるが, 加齢性の変化への対応は全くなされておらず,人工繁殖の 再現性の確保には重要な課題である。そこで,ホルモンレ ベルと内視鏡検査像を指標とした加齢に伴う授精適期の判 定法を開発する。(3) 親子鑑別法の開発 雄の後代検定を効率的に実施するためには,1 頭の雌に 複数の雄由来の精子を注入して産仔を得て,それらの産仔 の能力検定を実施することが望ましい。これを可能とする ために,サテライトマーカーを用いた DNA 診断による親 子鑑別法を開発する。 (a) 親子鑑別法と産仔の能力検定法の開発 雄犬の後代検定には,1 頭の雌犬に複数の雄由来の精子 を注入して産仔を得て,それらの産仔の能力検定を実施す るのが効率的である。また,人工繁殖においては,親子関 係の保証が必要である。帯広畜産大学では,産仔の能力検 定の一環として,サテライトマーカーによる親子鑑別法の 開発・実用化を図る。また,疾患・性格関連遺伝子のジェ ノタイピングを実施して,優良盲導犬の選抜に寄与する。 (b) 産仔の能力検定のための比較ゲノム解析 遺伝子解析により優良犬を選別し,盲導犬に適した子犬 を育成することによって,盲導犬合格率を向上させるとと もに,イヌの性格の理解を強力に押し進めるためには,ゲ ノム情報の取得が必要不可欠である。理化学研究所では, ラブラドールレトリバーのゲノム BAC ラブラリーの構築 および BAC クローン整列によるゲノム地図を作成するこ とにより,遺伝性疾患の回避および性格関連遺伝子の同定 のためのゲノム基盤情報を提供する。 (4) 海外からの凍結精子の導入と人工繁殖の実用化 優良な盲導犬の遺伝子資源の確保を目的として,海外の 先進施設からの遺伝的背景が明確な凍結精子を導入して人 工授精による繁殖の実用化を図るとともに,得られた産仔 の盲導犬としての能力検定を実施する。 (a) 海外からの凍結精子の導入と人工繁殖の実用化 北海道盲導犬協会では,優良な盲導犬の遺伝子資源の確 保を目的として,海外の先進施設からの遺伝的背景が明確 な凍結精子を導入して人工授精による繁殖の実用化を図る とともに,得られた産仔の稟性,健康面の能力検定を実施 する。 (b) 海外からの凍結精子の導入と人工繁殖の実用化および SP の設定と検査系の開発 帯広畜産大学では,北海道盲導犬協会と協力して,海外 からの凍結精子の導入と人工授精によって優良な盲導犬の 増産を図るとともに,得られた産仔の能力検定を実施する。 また,エンドユーザーに安全で安心な盲導犬を供給するた めに,特に,人獣共通感染症に着目した盲導犬の Specific Pathogen の設定と検査系の開発を実施する。 c. イヌ胚の凍結保存法および胚移植法の開発に関する研究 盲導犬では,訓練開始に先立って避妊手術を施すために, 優秀なイヌであっても次世代を残すことができない。そこ で,避妊手術前に人工授精を施して胚を回収し,これを凍 結保存しておけば,能力検定後に優秀な雌の次世代を確保 することが可能となる。17 ~ 18 年度においては,帯広 畜産大学にて胚の超急速保存法を開発し,バンキングを開 始する。 (1) ヒト用膀胱鏡を用いた胚の回収方法の開発 ヒト用膀胱鏡とバルーンカテーテルを用いた子宮角から の桑実胚および胚盤胞の回収法を開発する。 (a) ヒト用膀胱鏡を用いた胚の回収方法の開発 北海道盲導犬協会では,ヒト用膀胱鏡を用いて胚の回収 を行い,胚の凍結保存技術と受精卵移植技術の開発によっ て,雌側からの優良盲導犬の育種スピードの促進をも図 る。 (b) ヒト用膀胱鏡を用いた胚の回収方法の開発および未成熟 卵子の人為的成熟法の開発 帯広畜産大学では,北海道盲導犬協会と協力して,ヒト 用膀胱鏡を用いた胚の回収方法を開発する。卵巣摘出前に 人工授精を施し,受精卵子を回収することによって,遺伝 子資源を確保,有効利用するシステムを開発する。特に, 摘出された卵巣の有効利用を図るべく,未成熟卵子の人為 的成熟方法の開発を行い,遺伝子資源の一層の有効利用を 目指す。 (2) イヌ胚の超急速凍結保存法の開発 マウス胚の凍結保存液である DAP213 を基本としたイ ヌ胚用の保存液を開発して,イヌ胚の超急速凍結融解法を 確立する。 (a) イヌ胚の超急速凍結保存法の開発 人工授精後に子宮から回収された胚,および未成熟卵子 の人為的成熟後に精子を注入して受精させた卵子をバンキ ングするためには,胚の凍結保存法の確立が必須である。 帯広畜産大学では,イヌ胚の超急速凍結保存法の開発を行 う。 (b) イヌ胚の超急速凍結保存法の開発,特に受精卵の発育に 及ぼす要因の解析 岐阜大学では,雌犬の内分泌状態をモニターして精査し, 人工授精後における受精卵の発育との関連性を検討する。 (3) イヌ胚の子宮内移植法の開発 ヒト用膀胱鏡を用いた胚の子宮内移植法を開発する。 d. 優良盲導犬の遺伝子バンクの構築 18 年度には,帯広畜産大学において,海外から導入し た精子および本研究で開発された凍結保存法による精子, 胚のバンキングを行うことによって,国内外の遺伝子資源 の需要に対応する体制を構築する。また,海外の研究機関 も含めた遺伝子資源データベースの構築を実施する。 (1) 優良盲導犬の精子,胚の凍結保存による遺伝子のバンキン グ実用化 凍結精子および胚の情報を広く公開して,内外の優良盲 導犬の需要に対応する体制を構築するとともに,世界の主 要機関のデータベースを構築して情報の収集,提供を図 る。 (a) 優良盲導犬の精子,胚の凍結保存による遺伝子のバンキ
ング実用化 帯広畜産大学では,盲導犬の人工繁殖技術を確立し,海 外からの遺伝子資源の導入を図るとともに,遺伝子バンク を設立する。本研究課題の成果を全国の盲導犬施設に波及 させるためには,国内の遺伝子資源の需要に対応すること ができるような盲導犬の遺伝子バンクの構築が不可欠であ る。本バンキングにおいては,盲導犬種の生殖細胞のみな らず,盲導犬のゲノム DNA,血清,病歴,家系などにつ いても保存とデータベース化 (K9 バイオバンク ),優良盲 導犬の育成に貢献する。 (b) 遺伝子バンクデータベースの構築とその実用化 生物遺伝資源情報総合センターでは,バンクに保存して いる優良盲導犬の胚・精子の基本情報,および当該犬の個 体情報(血統,病歴,病因遺伝子,家系など)をデータ ベース化し,ユーザーに対して必要な情報へのアクセスと 情報の有効活用を可能とする。 3. 年次計画
III. 研究運営委員会
IV. ミッションステートメント
我が国においても,盲導犬,聴導犬,介助犬など,いわ ゆる補助犬の社会生活へのアクセス保障のみならず,補助 犬の育成や使用者の責務までに踏み込んだ法整備が開始さ れた。しかしながら,生物学,獣医学的な観点から補助犬 の適切な活用および育成を支えようとするアプローチはほ とんど見られない。社会生活の多様化,医療の発達あるい は超高齢化社会の到来によって,補助犬の用途が細分化さ れてきている現状を鑑みた場合,各種補助犬に要求される 能力とその適合犬種の選定のための行動学,遺伝学的研究 や補助犬の社会への浸透を確保するためのイヌ由来の人畜 共通感染症に関する公衆衛生学的研究を含めた,新しい視 点からのいわゆる「イヌ学」を総合的に推進する必要があ る。その一方で,基礎となる遺伝子資源の確保,保存,利 用のための繁殖生理学,特に生殖工学的研究の立ち遅れが これを阻んでいる。イヌの繁殖生理に関する研究は,世界 的にも進んではいないが,我が国の水準も決して高いとは 言えず,早急なキャッチアップが必要である。身体障害者 補助犬の導入によって自立と社会参加を果たし得る障害者は数多く存在しており,その普及には,社会的受け入れ体 制の整備とともに,良質な補助犬の育成体制の整備が不可 欠である。 我が国の盲導犬は,現在,約 900 頭が実働しているが, 盲導犬希望者は約 4800 人,潜在的希望者も加えるとその 需要は約 7800 人と推定される。年間の盲導犬供給数は全 国で 130 頭程度であり,ここ数年,横ばい状態が続いて いる。盲導犬の安定的,効率的繁殖は,最も重要な課題の ひとつであるが,現在,全国の盲導犬訓練施設で使用され ている繁殖犬はわずかに 80 頭余りで,優れた種雄,台雌 の確保が困難であること,外国から導入した繁殖犬の質が 不安定であること,盲導犬の合格率(適格犬数率)のばら つきが大きいなどの問題を抱えている。このため,雌雄の 組み合わせを配慮した交配などによって質の良い盲導犬を 供給する試みが個々になされているが,抜本的な解決策で はない。また,盲導犬は雌雄ともに避妊・去勢を受けた後 に訓練を開始するために,優秀な盲導犬であってもその遺 伝子を繁殖によって次世代に伝える術がない。歴史の浅い 他の補助犬の育成,利用に至っては,その過程のすべてを 民間ボランティアの活動に頼っており,適切な犬種の選定, 繁殖システムなどについて,手探りの状態が続いている。 さらに,我が国に導入されているラブラドールレトリバー については,補助犬としては不適格な股関節形成不全症や 進行性網膜萎縮などの重篤な遺伝性疾患のキャリア-が高 頻度で存在し,今後の補助犬の繁殖育成を鑑みた場合,緊 急に対処を要する状況にある。 本研究の成果は,これらの状況を大きく改善することに 寄与することを目的とし,以下の具体的達成目標を掲げ る。 1. 精子,胚等の遺伝子資源を凍結保存する技術を開発 するとともに,当該技術により遺伝子バンクを設立し,海 外からの遺伝資源の導入・保存,国内において得られる遺 伝子資源を保存する。また,遺伝子バンクに保存している 遺伝子資源の情報のデータベースを構築する。このデータ ベースには世界の主要機関の情報も含まれる。 2. 凍結保存した精子,胚等の遺伝子資源を利用し,盲導 犬の安定的・効率的な繁殖・育成を実現するため,人工授 精法,胚の回収法,胚の子宮内移植法を開発する。 3. 優秀な遺伝子資源の選抜を実現するため,雄の能力の 後代検定(台雌に複数の種雄候補を交配させ,その産仔の 能力により種雄候補の能力を判定)に不可欠な親子鑑別法 を,マイクロサテライトマーカーを用いた DNA 診断技術 により開発する。また,この一環で,性格関連遺伝子の多 型に基づいた盲導犬適正の分類を行うとともに,進行性網 膜萎縮等の疾患関連遺伝子を特定するための基礎となるラ ブラドールレトリバーのゲノム地図を作成する。 本研究の成果として稼働させた盲導犬の遺伝子バンクに ついては,遺伝的背景の明確な凍結精子の導入や人工繁殖 に関するサービスの提供およびデータベースの構築を通し て,帯広畜産大学と北海道盲導犬協会,岐阜大学,遺伝学 研究所および理化学研究所との連携の下,アジアの拠点と して育成する。さらに,行動学,公衆衛生学,育種繁殖学 を含めた,新しい視点から補助犬に関する総合的な研究を 推進するために,盲導犬の遺伝子バンクを基礎とした補助 犬繁殖育成研究センター事業へ発展させ,盲導犬のみなら ず,介助犬,聴導犬を含めた補助犬の優良遺伝子の供給源 として,内外への貢献を果たす。特に,補助犬の適切な養 成と日常的な社会参加を充実させるための優良遺伝子の確 保とその有効利用に関する研究,およびイヌ由来の人畜共 通感染症の調査研究を,それらの対策を含めて推進する。 帯広畜産大学は,人畜共通感染症研究に十分な実績を有す るとともに,冷涼な気候とフィラリアフリーの環境にある ことから,盲導犬研究に至適な条件を備えている。 また,本研究の遂行は,これまでの臨床中心のライセン ス教育から,実学的研究基盤に基づいた社会福祉,障害者 支援に資するための獣医学教育への変革の礎となるものと 考えられる。