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53 Kyushu Communication Studies, Vol.14, 2016, pp. 53-61 ©2016 日本コミュニケーション学会九州支部

【 特別企画:公開基調講演 】

2015 年 10 月 3 日、於:水俣市民会館

水俣の環境問題と健康被害

山下 善寛

(エコネットみなまた代表理事、水俣の暮らしを守る・みんなの会代表 水俣病被害市民の会事務局長、 熊本学園大学・水俣学研究センター客員研究員) 1.水俣の環境汚染のはじまり みなさんこんにちは。山下善寛です。私は、チッソのOB で、現在 75 歳になります。今日は水 俣の環境問題と健康被害についてお話させていただきたいと思います。 水俣市は三方を九州山地に囲まれ、豊富な水と、自然の恵み豊かな土地です。市内を流れる二 つの川は、下流で一つになって不知火海に注ぎ、魚介類を育み、平地の少ない水俣市民の食生活 を支えてきました。市内には山側には湯の鶴、海側には湯の児という二つの温泉があります。水 俣の人は美しいリアス式海岸の海で捕れた魚介類や山菜、農産物を食べ、豊かな自然のなかで、 貧しいながらも、助け合いながら平和な暮らしを送っていました。 この村に工場ができたのは1908 年(明治 41 年)。「日本窒素肥料株式会社」で、チッソの前身 になります。工場ができて、村人が工場に働きに行くようになって生活は一変します。それまで 狭い田畑を耕し、塩田とか漁業、林業を営んでいた人たちが労働者になり、近隣からも人が働き に来て、水俣村が水俣町となります。 「日本窒素肥料株式会社」が現在の地に工場建設を始めて、梅戸港の整備や、工場と山を隔て た先にあった港を結ぶトンネル工事を進めていきました。工場の排水は百間港と、丸島港に無処 理で流しました。 被害を最初に受けたのは、海の幸の魚介類を捕って食べていた沿岸住民と、農作物を作って生 活していた工場周辺の住民です。工場のガスや粉じん、振動などで日常生活が脅かされていまし た。農作物の被害についての古い記録は残っておりません。しかし、水俣の人はご存じだと思い ますが、チッソの裏山にある墓石がガスや粉じんで汚され、チッソに洗浄設備などをつけるよう に要求し、設置させております。漁業被害については、大正時代に漁業組合がチッソに漁業補償 要求を行っております。 環境がどう悪化したのか、水俣市のガスや粉じんなどの濃度はどうであったかについては、た

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54 とえば、1964 年頃の水俣市の月別降下煤じん量の最高値は最大 79.2 トンで、北九州の若松、釜 石、八幡、大阪に次いで高く、川崎や四日市の工業地帯より上です。亜硫酸ガスの最高値は最大 で 1.41mg で、京浜、中京、北九州、阪神の各地区に次いでいます。これらは、北九州や阪神工 業地帯と肩を並べる値で、この主な排出源はチッソ水俣工場であったわけです。 2.水俣病の原因企業だったチッソ 次に水俣病についてお話をさせていただきます。水俣病は、チッソが垂れ流したメチル水銀に よって魚介類が汚染され、それを食べた人間が罹患した病気で、食物連鎖による水銀中毒である ことは皆さんもご存じだと思います。チッソが流した水銀の量は、100 トンから 200 トン、いや 300 トンから 600 トンというような話もあります。しかし、確かな量はわかっておりません。 水銀以外にも鉛、カドミウム、ヒ素、タリウム、マンガンなどの重金属類を流しています。そ ういったことで初期の頃は、いろいろな原因説が出ました。チッソ水俣工場では、1932 年(昭和 7年)から酢酸を製造しています。水俣病の原因物質の廃液を流した工場からの排水は、簡単な つくりの池に貯めて、無処理で流していました。 水俣病患者の発生は、公式には 1956 年とされていますが、1953 年に発症した人がいるので、 それ以前から発生していたと思われます。水俣病は当初は奇病と呼ばれていました。奇病発生に 驚いた水俣市、熊本県は、初めは熊本大学を中心に原因究明を一所懸命行い、患者を救済するた めの努力を献身的にしたと思います。それに比べチッソは、技術部(特殊研究室)を中心に、チ ッソ附属病院で猫を飼育するなどして秘密裏に実験し、1957 年頃から工場内に二つの池を作って、 阿久根市などから海水を運んできて、魚などを飼い、魚介類や毛髪などの水銀分析を行っていま した。 私が働いていた研究室でも、初めは動物実験用の飼料作りの応援を求められ、次第に水俣病の 研究に重点を移して、ドジョウや金魚を樽で飼い、排水を使って実験をしていました。魚介類や 毛髪、猫やネズミなどの内臓の水銀分析も行いました。 実際に分析を行う者には、分析資料の実態がわからないように、サンプル番号だけを教え、分 析結果を上司に報告させるという仕組みをとっておりました。私たちの研究グループも片仮名の キを丸で囲んだ「まるキ研究室」、奇病の奇を丸で囲んだ「まる奇研究室」と、他の人からはわか らないようにして呼んでいました。上司の人は知っていたと思いますが、私たちはチッソが原因 企業だとは思っていませんでした。 1962 年の 2 月か 3 月頃だったと思いますが、工場排水から有機水銀を抽出した石原俊一さんの 下で働いておられた嵐一也さんという方が、「これが今問題になっている有機水銀だ」といって、 ビーカーに入った有機水銀を見せてくれました。それを見て「やっぱりチッソが原因企業であっ たか」と大きなショックを受け、何とも言えない複雑な思いがしました。 3.新日窒労組の「恥宣言」から水俣病患者支援へ 一方、漁民はチッソに操業中止を求めて、1958 年 11 月にチッソ正門前に座り込み、誠意を見 せないチッソに対して、工場内に乱入して事務所や研究室の器物を壊し、後に器物損壊罪で逮捕 者も出ました。そのとき私たちは、新しく建設された総合研究室で水俣病の研究をしていました。 漁民の人たちが、私たちの建屋に押しかけ、近くにあった建物の角材で入口のドアをドーン、ド

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55 ーンと何回も衝いて、今にも乱入しそうになったとき、私たちは2階から3階の踊り場で、クロ トンアルデヒドの試薬を手に持って、うずくまっていました。侵入してきたら、床にそれを撒く 計画だったわけです。クロトンアルデヒドは刺激性の強い液体で、目や鼻を刺激し、皮膚の弱い ところからひりひりと痛んでくる毒劇物です。 幸い漁民は侵入してきませんでした。隣の特殊研究室などに石が投げられ、窓ガラスが割れ、 部屋にあった硫酸とか塩酸の入った試薬瓶の液が、机や床にこぼれたという話を聞きました。私 たちに直接の被害はなかったのですが、やっと買うことができた自転車を排水溝の中にぶち込ま れ、「なんで我々の自転車をぶち込むのか」と正直、敵意を感じました。 チッソと水俣病患者は、その後「見舞金契約1)」を結び、チッソがサイクレ―ター2)を設置した ことで、騒動は終息したかのように見えました。しかし、新潟で第二の水俣病が発生し、それま で見舞金契約という低額補償で苦しい生活をしていた水俣病患者が、政府の水俣病公害認定を受 け、チッソに補償要求をしました。チッソは応じず、補償処理委員会に任せようと働きかけられ ましたが、患者家族 28 所帯 112 名が、補償処理員会に任せるのではなく、裁判で闘うことにな って、1969 年 6 月にチッソと国を相手に損害賠償訴訟が行われたわけです。 その前年の1968 年 1 月、新潟から胎児性患者を含む新潟水俣病患者が水俣に来るというので、 「水俣病患者対策市民会議」が発足しました。ここに来られているチッソの OB の方も含めて、 この市民会議には多くの人が参加しました。8 月には、水俣地協(水俣地区の総評系の組合の地 域組織)が患者支援を決定し、新日窒労組も8 月 30 日の定期大会で「恥宣言」を行い、「水俣病 に対し、これまで闘ってこなかったことは人間として、労働者として恥ずかしいことであり、今 後水俣病と闘う」という決議をしました。 同時に、新日窒労組はチッソが水銀の入った酢酸母液を韓国に輸出しようとしていることを知 り、団体交渉を行い、これを阻止しました。その後、日本初の公害ストライキを実施しました。 全国の水俣病患者支援組織の「水俣病を告発する会」への参加、水俣病研究会の裁判支援、第一 組合労働者の裁判での証言、また株主総会に乗り込むなどの全国的な広がりを見せ、裁判に勝利 しました。私も水俣病患者さんとそろって株主総会に行きました。 それから判決後、水俣病患者や支援者は、それまで水俣工場前やチッソ本社前で座り込みを続 けていた川本輝夫さん、また現在第二世代訴訟 3)をやっておられる佐藤英樹さんのお父さんの武 春さんなどの自主交渉派と共に、日本興業銀行とチッソ本社に乗り込み、本社交渉で社長に契約 書を書かせ、のちの補償協定 4)や銀行の債権放棄につながる成果をあげることができました。こ れらの患者と支援者の行動には、水俣の農民会や新日窒労組も参加しました。本社交渉では責任 者の岡本委員長の後を受けて、私が水俣病患者と支援者の間に立ち、チッソとの交渉を進めまし た。 4.終わらない水俣病患者の闘い 水俣病患者の闘いでは、その後多くの裁判が続きました。しかし、1995 年に政治解決が図られ、 各地で闘いを進めていた患者11,152 名は、高齢を理由に「生きているうちに救済を」ということ で苦渋の選択を行い、医療費などを支払う和解案を受け入れ、一時金260 万円を受け取りました。 この和解を拒否し、あくまで水俣病患者として認めさせる裁判を続けたのが関西訴訟で、2004 年 10 月、最高裁は川上さんら 58 名に対し水俣病であることを認め、450 万円~850 万円の賠償額

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56 を決定しました。また、それまで末梢説を採っていた感覚障害を中枢説とし、これまで認められ ていなかった行政の責任も認めました。 最高裁判決後、「公健法5)」による申請が増え続け、国、県は2010 年、「水俣病に関する特別措 置法」を決定しました。一人210 万円を支払い、被害者手帳を支給するとして、2012 年まで申し 込みを受け付け、それまで裁判を行っていた人を含め 65,151 名もの多くの人が申請をしました。 これでもまだ少ないと私は思っています。その内、一時金対象者が 32,247 名、医療手帳のみが 22,837 名、対象外が 9,646 名ということになりました。「特措法」は、「患者救済」を謳っており ますけれども、患者の救済よりチッソの救済法で、チッソを合法的に新会社に移行することを定 めています。チッソは現在、患者の補償部門だけを残して、JNC と名前を変えて、政府の支援を 受けながら企業活動を行っております。 なお、特措法の判定については、地域や生年月日による線引きをめぐって新たな裁判が起きて おり、全面救済を目指すとしたこの法の趣旨とはかけ離れたものになっています。公健法による 申請者は、熊本県だけで現在 1,173 名おり、私も申請中です。最近、これまで休止していた認定 審査会が、溝口さんの最高裁判所判決以降に出した「新通知6)、これは問題のある通知なんです けれども、これによって30 名全員を棄却処分としました。このことで、不服審査請求が出される など、新たな紛争が起こっております。 5.工場の内と外で起きた被害 次に、チッソ水俣工場の労働災害と職業病についてお話をさせていただきます。労働災害・職 業病と水俣病との関係については、工場の内と外との関係であって、根っこは同じだと思います。 工場内の労働者が労働災害・職業病の問題を軽視し、発生源で防止しなかったために、工場外で 水俣病のような悲惨な公害が発生したのです。そのような意味で労働者の責任は重大です。我々 労働者がもっと安全・衛生問題について注意を払い、職場で闘っていれば、水俣病の被害はもっ と小さかったはずで、多くの人が水俣病にかからずにすんだかもしれません。ですから労働者は、 労働災害・職業病の被害者であり、公害に対する加害者でもあるのです。 しかし、労働者は家に帰ると、工場の排水やガス、粉じん、臭気、振動などで公害の被害者に なるケースもあります。水俣病の公式確認前に4名のチッソ労働者が水俣病に罹患し、3名が死 亡しています。いずれの人もチッソで働き、近くの海で魚を捕り、食べていた人たちです。その 中のN さんは、チッソの硝酸工場で働いて、事故で硝酸を全身に被って、薬傷でケロイドができ、 労災職業病と認められました。しかし、働くことが困難になり、チッソを依願退職され、余生を 好きな魚を釣って食べた結果、水俣病に罹患し認定されましたが、死亡しています。この方の奥 さんと娘さんが第一次訴訟の原告となって闘ってこられました。N さんは労働災害・職業病の被 害者であり、水俣病の被害者でもあります。工場の内と外の被害を受けております。このように 労働者は両方の被害者になる可能性もあるのです。 6.頻発する労働災害と職業病 チッソ水俣工場は、1910 年、水俣の地でいち早くカーバイドから石灰窒素肥料の硫安を製造し、 日本における化学工場の草分けとして発展しました。水俣で莫大な利益を上げたチッソは、戦前、 朝鮮や満州に進出し、政府や軍と結託して朝鮮の人たちを劣悪な労働条件下で奴隷のように働か

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57 せ、興南、現在の北朝鮮なんですが、そこに東洋一といわれる一大コンビナートを建設しました。 しかし、敗戦でチッソは海外資産のすべてを失いました。 戦後、水俣の労働者と引き揚げ労働者が力を合わせて、戦火で大破した水俣工場の復興に努め、 驚くことに終戦から2か月後の1945 年 10 月 15 日には、硫安肥料の出荷を行い、食糧増産体制 下で莫大な利益を上げました。チッソはこの 10 月 15 日を復興記念祭として、運動会をしたり、 記念品を配ったりしておりました。今は運動会などはやっていませんが、記念品は今でもあるの ではないかと思います。その後、戦後復興や朝鮮戦争特需などを経て、酢酸や塩化ビニール、可 塑剤などの売り上げを伸ばしています。安全性無視、利益第一主義で増産に次ぐ増産を続け、莫 大な利益をあげ、会社の規模を大きくしていきました。 チッソの労働災害と職業病は、日本の他の化学工場と比較して、度数率で2倍以上に達し、水 俣病が発生し始めた1953 年頃には、熊本県の労働基準監督署から、事故や災害が多いとして「特 別指定工場」に指定され、結核、喘息、高血圧などの患者も多く見られました。「特別指定工場」 が解除された後も、爆発事故、労働災害、職業病の発生は続きます。 1961 年 8 月、「塩化ビニール(ニポリット)工場の大爆発」が発生し、死亡者4名、重軽傷者 3名を出し、また同じ年に技術部過酢酸工場でも爆発事故を起こし、ここでも死亡者1名、重軽 傷者5名を出しています。しかし、その後も人員削減を進め、労働者を骨抜きにし弱体化する狙 いで安定賃金を労働組合に提案し、組合を分裂させ、183 日の労働争議に発展しました。この争 議で操業が止まっている間、労働災害、職業病は急に下がっていますが、争議が終わるとまた急 に上がっています。 1967 年には、オスマーワッカー工場の爆発事故が起こりました。アンモニアガスの爆発だった ので、一歩間違えれば、水俣工場だけでなく、町の大半を被害に巻き込む大惨事になるところで した。 また 1973 年には、千葉県の五井工場でもポリプロ工場で爆発事故を起こして、死亡者4名、 重軽傷者5名を出しました。コンビナート災害の恐ろしさを実感するとともに、憤りを感じます。 今日は、その爆発したときに五井工場におられた労働者の方も来ていらっしゃいます。先ほどお 話した水俣の塩化ビニール工場の爆発事故でお父さんを亡くし、その代りにとでもいいましょう か、身代わり採用されて五井工場で働いていた息子さんが、このポリプロ工場の爆発事故で亡く なっています。親子そろって殺されたということです。 チッソでは重大事故が続発し、劣悪な職場環境で働く労働者の健康状態はどうだったかという と、1958 年から 60 年までのチッソの資料を見ると、呼吸器や歯科、眼科、皮膚科などの疾患が 多く、結核、高血圧などが多くを占めていることがわかります。 1987 年、私たちの組合(新日窒労組)は、久留米医大の高松誠先生や当時熊大におられた原田 正純先生、同じく堀田先生、現在熊本学園大におられる宮北先生たちの協力を得て、「チッソ労働 者の健康調査」を行いました。その結果、現職者および退職者に多かった労働災害や職業病が、 外傷や打撲、骨折、腰痛などです。臨床症状で多かったのは、高血圧、血管障害、糖尿病、肝臓 障害などでした。これは新聞でも大きく報道されました。 7.公表されない健康被害 職業病の問題の最後に、チッソ労働者の塩化ビニールモノマーガスによる健康被害についてお

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58 話をしたいと思います。塩化ビニールの原料である塩ビモノマーガスが発がん物質であるから、 取り扱いに注意するようにと労働省から通達が出され、全国の塩ビ作業従事者の健康調査が行な われました。まず、アメリカで発がん物質が見つかったのですが、日本でもあるんじゃないかと いうので調べられました。 その結果、三井東圧名古屋工場で、塩ビモノマーガスによる健康被害患者が見つかり、よく調 べてみると、6年前にも同じ様な症状で亡くなった従業員がいたということが判明し、1975 年 10 月の朝日新聞が報道しました。その新聞の横に「チッソ水俣工場でも若年死」という記事があ ります。つまり、水俣でも起きていたわけです。 チッソ水俣工場は、日本で最初に塩化ビニールを製造した企業です。塩ビ作業従事経験が 20 年以上の人もおり、調べてみると過去に塩ビモノマーガスによる健康被害で死んだと思われる人 がかなりいました。合化労連調査部の協力を得て、1974 年にチッソに残っていた名簿をもとに、 組合の名簿も含めて871 名について、組合独自で、亡くなった久木田執行委員を中心に調査を進 めました。 その結果を名古屋大学の吉村功先生に分析してもらい、塩ビモノマーガスの中毒による影響と 思われる人たち10 名の労災申請を行いました。しかし、労働基準監督署は1名を労災職業病に認 めましたが、他は認めませんでした。その後私たちが調べたところ、多くの人が塩ビモノマーガ スによる影響を受けていた可能性があることがわかってきました。しかし、水俣病多発地帯に住 み、日常的に汚染された魚介類を食べていたことから、検査をすると水俣病の症状もあり、塩化 ビニールによる塩ビ病の症状も混在していました。結局、塩ビ病とも診断されず、水俣病の認定 も受けられず、死亡されたのです。 かなりの人が影響を受けていると思います。さらに問題なのは、この工場周辺の住民の塩ビに よる健康被害の調査が行われていないことです。塩ビ病は潜伏期間が30 年ぐらいだといわれてお り、アメリカでは工場周辺にたくさんの患者が見つかっています。しかし日本では調査が行われ ておりませんし、工場内の人についても塩ビ協会の力が強くて、公にされていないというのが実 態です。 8.明らかにされないダイオキシン問題 次に、チッソが流したダイオキシンについてお話をしたいと思います。ダイオキシンは化学物 質で一番毒性が強いといわれている物質です。熊本県が、水俣市のチッソ水俣本部から高濃度の ダイオキシンを検出したことを公にしたのが、2003 年の 3 月 7 日です。熊本日日新聞が、「基準 550 倍のダイオキシン」「県の公表 判明から3日後 水俣病の教訓どこに…」という見出しで記事 を書いています。チッソの工場内から 83,000Pg のダイオキシン類が検出されたと、県議会環境 対策特別委員会で明らかにされました。この数字を見て水俣市民は非常に驚いたわけです。 しかし現実は、新聞報道の3年前の 2000 年 6 月、水俣市百間排水口の緑橋付近の水質調査で 基準値の4倍近い3.8Pg がすでに検出されていました。熊本県民、水俣市民に明らかにされてい なかっただけで、水俣病と同じような過ちが繰り返されているのです。 チッソは水俣病を発生させ、その後の対応を非難されながら、ダイオキシンについても、事業 主体は熊本県であるとして説明会にも参加せず、「加里変成以外でのダイオキシンの発生はないの か」と問われても、その実態については明らかにせず、原因企業としての責任をまったく感じて

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59 いないばかりか、反対に開き直っています。 現在、チッソ構内に処分されているダイオキシンがどうなっているのかは明らかではありませ んが、梅戸のチッソヘリポート跡に処分されているダイオキシンについては、6か月に1回、住 民も参加し、検証が行われています。しかしダイオキシンによる付近住民の健康調査は水俣病と 同じように1回も行われず、ここでも水俣病の教訓は生かされていないのです。 9.水俣市内に残る土壌汚染 次に、水俣市の土壌汚染についてお話をさせていただきたいと思います。水俣市の水源地とも いうべき、木臼野地区に「産業廃棄物処分場建設」が計画され、多くの市民が水俣市と一緒にな って反対運動を行い、2008 年 6 月にこの計画を撤回させました。この時の活動経験が、その後の 市民運動のプラスになり、ものの考え方、行動の面で役立っています。今日も一緒に闘った多く の人が来ています。たとえば、水俣湾の埋立地や八幡の残渣プール、自動車学校、ひばりが丘運 動場、大迫の埋立地など、それまで単なる埋立地として見過ごしていましたが、実はチッソの産 業廃棄物が水俣市のいたるところに埋め立てられていることに気づかせてくれました。 水銀だけでなく、先ほども言いましたように、鉛、カドミウム、ヒ素、亜鉛、クロムなどの重 金属、それから猛毒のダイオキシンなどを含む有害物質が埋め立てられ、その上に市営住宅やア パート、学校、消防署、警察署、運動場などの公共物が建設され、個人住宅が建てられています。 水俣市やチッソは土壌分析を行い、汚染されていることを知りながら、水俣市民に知らせず、何 も問題がないかのような顔をしていたのです。 今回我々は、熊本学園大学の中地先生の指導を受けながら、水俣湾周辺の底質と土壌を採取し、 検査機関に送って、水銀分析をしていただきました。分析の結果、底質は18 か所のなかで、基準 値の25ppm を超える水銀が出たところはなかったものの、7.0ppm、6.6ppm のところがあり、「こ のまま放置しておけば、水生生物に蓄積されることが確実であり、何らかの対策が必要」という 助言をいただきました。 また、土壌分析の結果は、10 か所中2か所から土壌対策法の溶出基準を超える水銀が確認され、 「地下水を利用する可能性があれば、掘削除去対策を講じる必要がある」という助言もいただき ました。 含有量調査では、基準値の8倍から11 倍の 110ppm、あるいは 170ppm という水銀値が検出さ れました。鉛については、基準値の3倍から17倍の値が検出され、「表面に盛土するなどの対策 が必要だ」という話でした。このように水俣市内では、チッソが捨てた産業廃棄物による汚染が 現在も続いております。 なお、明神の旧プラスチック工場横の土地は、危険個所であるにもかかわらず、防護柵やロー プなどによる囲いや立て札などがなく、荒れ地で誰でも入れる状態になっていました。ところが 高い水銀値が検出されたことがわかると、JNC はその土地を急いで盛土し、コンクリートで鋪装 しました。今は周りに柵を設け、立ち入り禁止の立て札が立てられています。 10.水俣から福島につながる公害の「教訓」 最後に、原発事故と水俣病事件の教訓についてお話をさせていただきたいと思います。福島原 発事故から4年半が過ぎました。しかし問題は何ひとつ解決していないばかりか、原因究明すら

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60 されておらず、今なお12万の人が避難し、約7万人が仮設住宅で不自由な生活を送っておられ ることは皆さんもご存じだと思います。がれき処理も不十分で、袋詰されたフレコンは山積みさ れ、最終処分場の場所も決まっておりません。汚染水対策も不十分なままで、海洋投棄が始まっ ています。 今日の新聞に、高濃度の放射性汚染水を流出させた問題で、東電の幹部・元幹部が書類送検さ れたという記事が載っていましたけれども、東京電力や国は、避難解除や補償金の打ち切りを行 い、安全宣言を繰り返し、帰還を呼び掛けています。また、自治体への補償を打ち切るなど、さ まざまな圧力をかけています。 福島をはじめ東北で、多くの被害者が今なお大変な状況下で苦しみ、悩み、生活し、全国民の 6割~7割は原発はいらないと再稼働反対を訴え、座り込みや抗議行動、デモ行進をするなか、 九州電力は川内原発の再稼働を決め、鹿児島県議会も安全基準に合格したということで、地域住 民の合意を得ないまま、圧倒的な自民党議員の数のもとで再稼働に合意しました。これを受け九 州電力は、一部で住民説明会を行っただけで、避難計画や対策も不十分なまま、8 月 11 日に、川 内原発1号機の再稼働を強行しました。 しかし、8 月 20 日に復水器に海水が混入する事故を起こしました。この事故で、九州電力は運 転を止めて完全な修理を行うべきところですが、予備器を使って修理を行うなど、何が何でも営 業ありきで対処し、今日の新聞によりますと、10 月 15 日に2号機を再稼働すると言っておりま す。 九州電力はなぜ原発を運転するのでしょうか。それは、人間の命、健康、市民生活より企業の 利益を第一に考え、安全を軽視しているからです。また川内原発に続き、高浜原発、伊方原発再 稼働につなげ、全国で停止している原発を再稼働させたいという電力業界の要請を受けてのこと と思われます。 水俣病事件は、来年公式確認から60 年を迎えます。しかし今でも何も解決しておらず、被害の 全容解明のための健康調査は行われていませんし、認定制度や補償の問題も解決していません。 問題が解決しないのは、加害企業チッソ、行政の対応が不十分だからなのです。 原発事故は、水俣病事件以上に解決に時間がかかると思います。子どもの甲状腺がんの問題、 次の世代への影響、汚染水による魚介類への影響と食物連鎖による人への健康被害など、問題が 数多くあります。一度失われた命は、戻りません。健康も簡単には回復しません。汚染された環 境が復元するには時間がかかります。それは水俣病事件が証明しています。 今は亡き熊本学園大学の原田正純先生は、「水俣病の研究は100 年経っても終わらない」と言っ ておられましたけれども、私は、水俣病問題そのものが100 年経っても終わらないんじゃないか というふうに思っております。水俣病の教訓は、予防原則を徹底し、安全が確認されない限り操 業すべきではないということです。原発の安全神話が崩壊した今こそ、原発ゼロを目指し、安全 で平和な社会づくりを力を合わせてさらに進めていきましょう。ご清聴ありがとうございました。 註 1) 補償金ではなく見舞金という名目で、チッソと水俣病患者家庭互助会が 1959 年 12 月 30 日に結んだ契約。「将 来、水俣病が工場排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わない」とい う条項が含まれており、その後の裁判で公序良俗に反するとしてこの契約は無効とされる。 2) チッソが設置した凝集沈澱処理装置の商品名。このサイクレーターの完成で排水処理は完璧なものになった とチッソが公言したにもかかわらず、有機水銀の除去にはこの装置はまったく効果がなかったことがその後

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61 判明する。 3) 2007 年 10 月に提訴された国賠訴訟で、2016 年 9 月現在、福岡高等裁判所で係争中。原告は9名(後に1名 が公健法での認定を受けたので8名になる)が「胎児性世代」であり、水俣病第一次訴訟原告や原告らとと もに闘った自主交渉派の家族が多いため、このように呼ばれている。 4) 公健法(註5)に基づき熊本県や鹿児島県に水俣病と認定された患者がチッソと結ぶ協定。補償協定を結ぶ と、1,600~1,800 万円の慰謝料と、医療費や年金などが支払われる。 5) 公害健康被害の補償等に関する法律。1974 年に施行。認定業務は県が行う。 6) 2014 年に環境省より出される。「水銀摂取や体内濃度などを証明する『客観的資料の裏づけが必要』」とした こと、「発症時期について『水銀摂取後1カ月から1年程度』が目安と例示」するなど、認定のハードルが高 くなったといわれている。http://www.mmjp.or.jp/hannan-union/minamata58.htm(最終アクセス日:2016 年9 月 13 日)より引用。

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