説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉
はじめに
妻照手の父横山によって毒殺された小栗は、閻魔大王の裁きにより娑婆に送り返される。相模国藤沢に近い墓 場からこの世に姿を現した小栗は、藤沢の御上人によって餓鬼阿弥陀仏と名づけられ、紀州熊野本宮湯の峯をめ ざしてよみがえりの旅に出る。餓鬼阿弥を乗せた土車を、人々は「えいさらえい」の掛け声で引いた。一方照手 も殺されかかり、死はまぬがれたものの人買の手に渡り、売られ売られて美濃国青墓の宿に流れ着いた。常陸小 萩と名を変え水仕として酷使される照手の前に、餓鬼阿弥の車が着く。夫小栗とも知らぬ照手は亡き夫の供養と ばかり、五日の休みをもらい、近江国大津まで狂気の姿にもてなして餓鬼阿弥の車を引く。大津関寺で照手は後
説経『をくり』の離陸
瀬
田
勝
哉
─「引く物語」は何を語るか─
ろ髪を引かれる思いで餓鬼阿弥と別れ、青墓に戻らねばならなかった。 青墓から大津までの照手の車引きは、この物語のクライマックスシーンである。広末保のことばを借りると、説経 『 を く り 』 は さ ま ざ ま な 在 地 的 伝 説、 伝 承 を 底 流 に し な が ら も、 一 つ の 物 語 と し て「 離 陸 」 し た (( ( 。 離 陸 に は、 個 々 の 伝 説・ 伝 承 を 組 織 し 直 す こ と の で き る 視 点 が 必 要 で あ っ た と い う。 広 末 は、 小 栗 が 持 つ 英 雄 に 独 特 の 異 常 な 力「 不 調」をそれに充てたし、荒木繁は、早くから照手が示した女性の「愛と献身」にそれを見てい た (( ( 。これらがそれぞれ に重要な視点であることはいうまでもない。 し か し 忘 れ て な ら な い の は、 こ の 物 語 の 中 に も ち こ ま れ た 新 し く て 太 い 柱、 「 車 引 き 」 と い う こ と で あ る。 こ の 「 引 く 物 語 」 は、 日 本 の 文 芸 史 上 他 に 類 例 を 見 な い 展 開 を も っ て い る。 視 点 と い う よ り は 仕 掛 け と い っ た ほ う が ふ さ わ し い が、 こ れ な く し て は、 「 を く り 」 の 物 語 は 離 陸 し 得 な か っ た だ ろ う。 そ こ で 本 稿 で は、 車 引 き と い う こ と に 着 目することで『をくり』の話からどんな問題が見えてくるのか、順次明らかにしていこうと思う。 その際に私がとった基本的姿勢は、説経の正本かそれに準ずると認められているもの、つまり文字として定着して いるものにこだわるという点である。小栗の話には小栗伝説とか伝承といわれるものが各地に数多くあり、それを使 っての研究も少なくな い (( ( 。この伝説・伝承は離陸した説経『をくり』の親でもあり先祖であることもあるが、逆に離 陸した『をくり』の子であり孫であり、末裔であるということも十分あり得る。このはなはだ流動的で「地をはうよ うにして伝播し、増殖してい く (( ( 」伝説・伝承を史料批判的検討を加えることなく論のなかに滑り込ませることは、歴 史的な時間の後先を見失わせかねない大きな危険をはらんでいる。実際そうなったと思える論も少なくない。だから 本稿では、この魅力的だが危なくもあるものには意識的に近づかず、文字に定着した確実なものだけに頼って考察を
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 進めていこうと思う。そうすると、説経正本を収集し、翻刻し、さらに注釈を加えていった横山重、室木弥太郎、荒 木繁という説経研究の基礎を築いた人たちの仕事の大きさに改めて出会うことになる。そしてかれらがすでに気づい ていながら、実はそれに続く者たちが十分発展させて来なかった問題点にも気付かされることになるのである。何が わかっていて、何がわかっていないのか、単純だがそこを見定めていくことが大事だろう。
一
よみがえりの旅の起点
小栗が閻魔大王から送り返されてこの世に帰還した場所は相模国藤沢に近い上野が原で、発見して餓鬼阿弥陀仏と 名付けたのが藤沢の御上人というのは、この物語に少しでもなじんだ者ならたいていは知っている。現在活字になり も っ と も 流 布 し て い る『 絵 巻 を く り (( ( 』( 以 下 a ) で は そ う な っ て い る し、 そ の 他 の 正 本 と い わ れ る 説 経 の 台 本 も 藤 沢 の上人となっているからだ。 と こ ろ が、 文 字 化 さ れ た も の と し て は 現 存 す る も の で 最 も 古 い と い わ れ る『 古 活 字 版 を く り (( ( 』( 以 下 b ) と、 そ れ に極めて近いとされる『奈良絵本おく り (( ( 』(以下 c )ではそうはなっていない。 「ふちさは」の「うはのかはら」 ( a ) は「 ふ し さ ん の す そ の う は の か は ら 」( b ・ c ) に、 「 ふ ち さ は の お し や う に ん 」( a ) は「 ふ し さ ん の ふ も と 一 の み てし」 「ふしさんのみてし」 ( b ・ c )になっている。つまり b ・ c では、小栗は富士山の裾野あるいは麓の墓地から 娑婆にもどり、これを発見し救出したのは「一の御弟子」 「富士山の御弟子」という者であった。 紀州の熊野本宮湯の峯までよみがえりの旅をしようとする小栗(餓鬼阿弥陀仏)にとって、旅の起点は、実はこの ように奇妙に食い違っていた。もちろん、たいていの人は富士山は藤沢の崩れたものと判断して、 b ・ c より a に信頼性をおくだろう。しかしことはそれ ほ ど簡単にすませられる問題ではない。 b は何といっても現存最古、寛永初年 の正本ともいわれるものだからである。一体これはどう考えたらいいのか。まずはこのよみがえりの旅の起点を、場 所と関わった人の面から確定する作業を始めなければならない。 両者の違いを理解するために、閻魔大王が小栗を託した相手(それは小栗を発見し救出した人物でもあるが)がど のように書かれているかを抜き出して比較し検討してみよう。 ちなみに比較するものは次の通り(表記および成立・刊行年は ほぼ『説経正本集』に従う) a 絵巻をくり(寛永年 間 (( ( ) b 古活字版丹緑本をくり(寛永初) c 奈良絵本おくり(近世初期) d 草子形おぐり物語(江戸鶴屋版 寛文末・延宝初) e 正本おぐり判官(延宝三) f 正本をくりの判官(佐渡七太夫豊孝本 正徳・享保頃) a ふちさはのおしやうにんのめいたうひしりのいちのみてしにわたしもうす b (この部分は欠けているが、残存部の記述からして c と同じと判断) c ふしさんのふもと一のみてしにおわたしあり d 藤さはの上人参る e ふぢさはの上人へ
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 f 藤沢の上人へ参る これを見ると、 d 、 e 、 f はいずれも「藤沢の上人」とあり単純明快である。問題は a と b ・ c の違いにある。 b ・ c は 一 見 簡 単 に み え る。 閻 魔 大 王 が 託 し た の は「 富 士 山 の 麓 の 一 の 御 弟 子 」「 富 士 山 の 御 弟 子 」 と い う 者 に 確 定できるからだ。ただし誰の弟子かが分からないという問題がある。何も書かれていないから、閻魔大王の御弟子と いうことになろうか。 a は 単 純 に 藤 沢 の 御 上 人 と し て し ま い そ う だ が、 実 は 複 雑 で 簡 単 に は い か な い。 「 め い た う ひ し り (( ( 」 と い う も の が わからない。しかもここにも「いちのみてしにわたしもうす」と出てくる。 b ・ c の「一のみてしにおわたしあり」 と ほぼ同じ文言である。しかしはたして両者は同じ内容なのだろうか。 a を単純に読めば、閻魔大王は「藤沢の御上人(めいどう聖という名)の一番弟子である人物(一の御弟子)に小 栗を託した」ということになるだろう。ところが a では、この後「いちのみてし」という人物は全く姿を現さない。 餓鬼阿弥陀仏と名付けるのも藤沢の御上人、土車を造るのも藤沢の御上人、引くのも藤沢の御上人である。閻魔大王 から託されてよみがえりの旅に関わった者は藤沢の御上人以外ありえない。つまりこの読みでは大きな矛盾が生じて しまうのである 厳然としてある矛盾を解決する読みは一つしかない。 「いちのみてしに」の「に」を、小栗を託す相手を示す「に」 とみるのではなく、資格を表す助詞とみて「いちのみてしとして」と解し、小栗その人を「藤沢の御上人の一のみで し」にするということで閻魔大王は小栗を娑婆に送り返したと解釈することである。託されたのは藤沢の御上人(め い ど う 聖 ) そ の 人、 「 一 の み て し 」 は 小 栗 自 身 と な る。 そ う 考 え れ ば、 そ の 後「 い ち の み て し 」 が 現 れ な い と い う 矛
盾も消える。 b ・ c のように閻魔が託す相手が「一のみてし」というのとは全く違う解釈になるのである。 このような解釈は、何も私一人の新しい見解というわけではない。すでに室木弥太郎も気づいていた。新潮日本古 典集成『説経集』の『をくり』の傍注に「として」と口語訳している。また荒木繁は直接この点には触れないものの、 この部分でははっきりと b ・ c は a を簡略化したもの、形が崩れたものといってい る ((( ( 。 いま荒木の指摘にもう少し付け加えれば、 b ・ c では富士山からすぐに駿河の国なかに車を引き出してしまうこと になる。そもそも小栗の物語は相模国が主要な舞台の一つである。常陸小栗が強引に婿入りするのは相模の横 山 ((( ( 。横 山の娘が照手で、話もこの相模で展開する。馬の鬼鹿毛もここに登場し、小栗もここで毒殺される。照手も相模川に 流され、人買いに売られる旅の起点も相模の六浦。よみがえった小栗が報復しようとした相手も相模の横山親子。こ のようにこの物語にとって最も重要な国相模をどう描くかは、非常に重要なはずである。娑婆に帰還した小栗が、相 模 抜 き で 富 士 山 か ら そ の ま ま 駿 河 の 国 な か に 引 き 出 さ れ た の で は、 敵 かたき の 横 山 家 中 が 餓 鬼 阿 弥 の 小 栗 を 相 模 畷 で 引 く という皮肉な場面もなくなってしまい、話に緊張感が伴わない。 b ・ c は相模という本来あるはずの重要な要素を完 全に切り落としてしまっているのである。 もちろんこれが説経という生きた芸能でもあるのだろう。そもそも説経とは、可変性、流動性のあるもので、その 時その場にふさわしく語られる以上、若干の変化は避けられない。だから b ・ c はまちがっているというわけではな い。しかし余りに大きな改作である。ではこの出発点を富士山の裾野や麓とし、閻魔大王から託された人物を身分不 明の「一の御弟子」として、相模国も藤沢上人も切り落としてしまうような改作の発想はどこから来たものだろうか。 問題解決の手がかりは「一のみでし」という共通した言葉が両方にあることである。そもそも a のこの部分はわか りにくい文章である。 「藤沢の御上人のめいどう聖の一の御弟子に渡し申す。 」これでは音で聞いたとしても目で読ん
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 だとしても、スムーズには関係が頭に入ってこない。 b ・ c の改作者は時期的にいっても a の絵巻を見たわけではな いから、きっと a の基となったもの(これを『原をくり』と呼んでおく)に出会ったのだろうが、はなはだ理解しに くくわからなかったのではなかろうか。そこで「一のみでしに」の意味を取り違えたまま、印象に残ったこの言葉だ け を 残 し、 さ ら に 藤 沢 を 富 士 山 に 変 え て 話 を 組 み 立 て て し ま っ た の で あ る。 時 間 的 に は a ・ b ・ c よ り 後 に 来 る d ・ e ・ f は、そうしたややこしさや誤解を避けるべく単純化を進め、 「藤沢の上人」だけにしたのであろう。 こ の よ う に し て 確 か め ら れ た こ と は こ う で あ る。 a の『 絵 巻 を く り 』 の 制 作 は 寛 永 年 間( 一 六 二 四 〜 一 六 四 四 )、 b の古活字版の成立は寛永初年( c は b を踏まえたもの) 、故に、 b が基にした『原をくり』 ( a の親でもある)は寛 永 初 年 よ り 以 前 に は 成 立 し て い た と い う こ と で あ る。 言 い 換 え れ ば、 『 原 を く り 』 が 寛 永 以 前 に ま ず 成 立 し て、 そ れ を忠実に踏まえたものが a の『絵巻をくり』 、省略しつつ大幅に改作したのが b の『古活字版をくり』 、それをまた写 したものが c の『奈良絵本をくり』ということになる。この結論自体はこれまでの研究でも早くから言われているこ とであり、別段新しい見解でもなんでもな い ((( ( 。藤沢と御上人といった、小栗よみがえりの旅の起点に関わる土地と人 物に注目することで、同じ結論が出たというにとどまっている。 すでに寛永初年の時点では、説経『をぐり』にも二つのタイプがあることが再確認できたが、その一つ b ・ c は小 栗帰還の場面で藤沢上人も相模国も切り捨ててしまっている。大胆に改作したことになるが、それでもこのタイプも 何の支障もなくそれなりに聴かれ、読まれ享受されていたと思われる。そこで次には、どういう場でこのような改作 がすすめられたのかを考えてみたい。 表 Ⅰ は a と b ・ c 両タイプのそれぞれについて、小栗が娑婆に現れた場所から最後の熊野本宮湯の峯まで道行の地 名を、国ごとに取り上げ比較したものである。進行の順序としては正しくない場合もあるが、手を加えず記載順に並
a 絵巻をくり b 古活字版をくり c 奈良絵本おくり 相 模 上野が原 相模畷 九日峠 酒匂の宿 おいその森 小田原せはい小路 けはの橋 湯本の地蔵 足柄 箱根 a 絵巻をくり b 古活字版をくり c 奈良絵本おくり 近 江 草津の宿 野路 篠原 瀬田の唐橋 石山寺 馬場 松本 大津 関寺 関 あはらの宿 なかはら︵永原︶ 野洲の市場 野洲川 守山 草津の宿 野路 篠原 瀬田の唐橋 石山寺 大津 関寺 追分 山 城 京 山科 粟田口 東寺 四つの塚 鳥羽恋塚 秋の山 桂の川 山崎千軒 山科 四の宮河原 十禅師 日岡峠 粟田口 花のみやこ 七条朱雀権現堂 東寺 四つ塚 鳥羽恋塚 秋の山 こひたの川 久我畷 淀の橋 狐川 桂川 山崎千軒 摂 津 広瀬 芥川 太田の宿 中島 三法師の渡り 天王寺 阿倍野 住吉四社大明神 広瀬 広瀬の川 芥川 大坂天王寺 堺の浦 住吉四社大明神 和 泉 堺の浜 堺の浜 紀 伊 小松原 渡辺 南部 四十八坂 なか井坂 いとか峠 蕪坂 鹿背 仏坂 こんか坂 熊野本宮湯の峯 かむろの宿︵橋本︶ 熊野本宮とつ川の湯、 湯の峯 伊 豆 山中三里 四つの辻 三島 駿 河 三枚橋︵沼津 ︶ 浮島が原 吉原 富士の裾野 富士川 大宮浅間︵富士浅間︶ 吹上六本松 清見が関 三保の松原 田子の入海 袖師が浦︵してしが浦︶ 清見寺 江尻 府内 今浅間 鞠子の宿 宇津の谷峠 岡部畷 藤枝 富士山の裾野 うはのかはら ふちのもりえた︵藤枝︶ 遠 江 菊川 小夜の中山 日坂峠 掛川 袋井畷 見付の郷 池田の宿 今切 潮見坂 ︵日坂︶ 掛川 うつの山︵内山 カ ︶ 庄野の宿︵カ︶ ︵伊勢︶ 島田の宿 大井川 島田の宿 三 河 吉田今橋 五井のこた橋 赤坂 矢作の宿 八橋 吉田 尾 張 鳴海 頭護の地蔵 星が崎 熱田の宮︵熱田大明神︶ うたう坂 古渡 黒田 熱田の宮 美 濃 杭瀬川 小熊河原︵尾張︶ 青墓の宿 垂井の宿 青墓の宿 近 江 長競 二本杉 寝物語 高宮川原 武佐の宿 鏡の宿 鏡の宿︵美濃・近江の境︶ ○ a﹃絵巻をくり﹄の記載順に並べた 。 実際の順序と異なる場合もそのままにした。 ○ b﹃古活字版をくり ﹄c ﹃奈良絵本おくり﹄は a の下に同地名 を対応させたため、若干順序は入れかわっている。 ○原文の仮名を漢字に宛てたが ﹃説経節﹄ ︵東洋文庫︶ に従った。 ○地名について厳密な比定は行っていない。 表 Ⅰ
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 a 絵巻をくり b 古活字版をくり c 奈良絵本おくり 相 模 上野が原 相模畷 九日峠 酒匂の宿 おいその森 小田原せはい小路 けはの橋 湯本の地蔵 足柄 箱根 a 絵巻をくり b 古活字版をくり c 奈良絵本おくり 近 江 草津の宿 野路 篠原 瀬田の唐橋 石山寺 馬場 松本 大津 関寺 関 あはらの宿 なかはら︵永原︶ 野洲の市場 野洲川 守山 草津の宿 野路 篠原 瀬田の唐橋 石山寺 大津 関寺 追分 山 城 京 山科 粟田口 東寺 四つの塚 鳥羽恋塚 秋の山 桂の川 山崎千軒 山科 四の宮河原 十禅師 日岡峠 粟田口 花のみやこ 七条朱雀権現堂 東寺 四つ塚 鳥羽恋塚 秋の山 こひたの川 久我畷 淀の橋 狐川 桂川 山崎千軒 摂 津 広瀬 芥川 太田の宿 中島 三法師の渡り 天王寺 阿倍野 住吉四社大明神 広瀬 広瀬の川 芥川 大坂天王寺 堺の浦 住吉四社大明神 和 泉 堺の浜 堺の浜 紀 伊 小松原 渡辺 南部 四十八坂 なか井坂 いとか峠 蕪坂 鹿背 仏坂 こんか坂 熊野本宮湯の峯 かむろの宿︵橋本︶ 熊野本宮とつ川の湯、 湯の峯 伊 豆 山中三里 四つの辻 三島 駿 河 三枚橋︵沼津 ︶ 浮島が原 吉原 富士の裾野 富士川 大宮浅間︵富士浅間︶ 吹上六本松 清見が関 三保の松原 田子の入海 袖師が浦︵してしが浦︶ 清見寺 江尻 府内 今浅間 鞠子の宿 宇津の谷峠 岡部畷 藤枝 富士山の裾野 うはのかはら ふちのもりえた︵藤枝︶ 遠 江 菊川 小夜の中山 日坂峠 掛川 袋井畷 見付の郷 池田の宿 今切 潮見坂 ︵日坂︶ 掛川 うつの山︵内山 カ ︶ 庄野の宿︵カ︶ ︵伊勢︶ 島田の宿 大井川 島田の宿 三 河 吉田今橋 五井のこた橋 赤坂 矢作の宿 八橋 吉田 尾 張 鳴海 頭護の地蔵 星が崎 熱田の宮︵熱田大明神︶ うたう坂 古渡 黒田 熱田の宮 美 濃 杭瀬川 小熊河原︵尾張︶ 青墓の宿 垂井の宿 青墓の宿 近 江 長競 二本杉 寝物語 高宮川原 武佐の宿 鏡の宿 鏡の宿︵美濃・近江の境︶ ○ a﹃絵巻をくり﹄の記載順に並べた 。 実際の順序と異なる場合もそのままにした。 ○ b﹃古活字版をくり ﹄c ﹃奈良絵本おくり﹄は a の下に同地名 を対応させたため、若干順序は入れかわっている。 ○原文の仮名を漢字に宛てたが ﹃説経節﹄ ︵東洋文庫︶ に従った。 ○地名について厳密な比定は行っていない。 表 Ⅰ
べた。不明の地名も少なくないが、それも同様にそのまま載せた。 b ・ c は、娑婆に戻ってきた時点で相模国がないのはもちろんのこと、美濃以東の国の地名が極端に少ないことは 一目瞭然である。各国ごとに一つか二つ、遠江国に至っては日坂(にっさか)は正しくは駿河国内だし、庄野の宿に 至っては伊勢国というように、地名が正確に把握できていない。ところが近江に入るや鏡の宿以降は a に勝るくらい の詳しさであり、山城・京に入る辺りは追分・山科、四宮河原・十禅師・日岡峠とさらに詳しく、説経『山椒大夫』 にも出てくる七条朱雀権現堂を通り、淀周辺にも目を配っている。摂津から先はやや簡略になり、紀州になるとこれ また極端に少なくなる。 こうしてみると b ・ c の聴き手・読み手が近江・山城・京といった限られた地域のものであることはまちがいのな いところだろう。この地の享受者にとっては、小栗なるものがどこの地で娑婆にもどってきたのか、よみがえりの旅 の起点の詳細などは関心の外にあった。とにかくあの世からもどり餓鬼阿弥陀仏と名付けられた異形の者が東の方か ら車に引かれてやってきたことが大事で、東といえばなんといってもその代表は富士山である。小栗を発見しよみが えりの旅に送り出した人物が一の御弟子という身分不詳の者であっても別段何の支障もなかったのである。 説経のような語りの芸能では、現場感、臨場感、在地感といったことは、話し手と聴き手が一体感を持つ上では極 め て 重 要 な こ と で あ る。 「 あ あ、 あ そ こ だ、 こ こ だ 」 と い っ た 身 近 な 土 地 へ の 共 感 で ぐ ん ぐ ん 話 の 中 に 引 き ず り 込 ま れていくからだ。 b ・ c では、小栗の話の主舞台の一つ相模国については、引き出す場所が無視されるだけでない。 そもそも照手が相模川に流された場も、流れ着いた場も、人買いに売られる旅の始まりの六浦についても、無視する かあるいは混乱していて、地理感覚、現場感覚の欠如は顕著である。しかし京・近江辺りの者が享受者である限り、 そんなことは全く支障にはならなかった。
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 一方、 a の『絵巻をくり』では、相模国は丁寧に描かれる。照手が沈められた相模川の「おりからが淵」に始まり、 流 れ 着 い た「 ゆ き と せ が 浦 」、 人 買 い 商 人 の い る「 六 浦 が 浦 」 ま で の 川 か ら 海 へ の 行 程 も 自 然 で あ る ((( ( 。 ま た 相 模 の 丁 寧さもそうだが、全体的にいっても東海道から熊野までの道行の地名に大きな偏りがない。和泉が ほ とんど出てこな いのは不思議だが、全体的には小栗の旅は、道行の地名に沿って着実に続けられたのであろう。紀州における最後の 坂の連続はこの旅の困難さをさらに際立たせるものといえようか。 以上から言えることは、 a は相模国をはじめとして東国を丁寧に書き、東国の者を享受者として想定しているとい うことである。ことに相模国は主舞台として心が配られている。こんな場面もある。物語の由来を語り始めてすぐ小 栗 の 両 親 を 紹 介 す る と こ ろ で、 「 そ れ 都 に 一 の 大 臣、 二 の 大 臣、 三 に 相 模 の 左 大 臣、 四 位 に 少 将、 五 位 の 蔵 人 」 な ど と 突 然 相 模 を 登 場 さ せ て い る。 単 な る 語 呂 合 わ せ な ら ば「 讃 岐 」 で も「 佐 渡 」「 薩 摩 」 で も よ さ そ う な と こ ろ に「 相 模」を登場させるのは、聴き手、読み手として相模の者を強く意識したサービス精神からに違いない。 逆に b ・ c は京・山城・近江の享受者を予想したものであった。 c の語りおさめのところ( b は欠けている)に、 小 栗・ 照 手 が 今、 神 仏 と し て 祝 わ れ て い る と い う く だ り が あ る が、 「 み や こ の き た の( 北 野 ) に み た う( 御 堂 ) を た て給ふて、いまの世にいたるまですえはんしやうと、いつきかしつき、おかみ申はかりなり」となっている。京都の 北野社境内に祀られているというのだ が ((( ( 、それは b ・ c がみやこ周辺の人々を対象としていたことを裏付けるものだ ろう。相模国も藤沢の御上人も切り落としてしまうような発想は、こうした説経享受の場の問題と密接に関わってい たのである。 二つのタイプを、小栗よみがえりの旅の起点というところから場と人に焦点をあてて見てきたが、 a の『絵巻をく り』の元になった『原をくり』が、東国で生まれ主に東国で享受されたことは間違いなかろう。それがあまり時間を
おかずに京辺に持ち込まれ、改作されて b や c になったと考えられるのである。
二
藤沢の御上人は何をしたか
藤沢の御上人がいなくとも、帰還の地相模国がなくとも、小栗の話は享受された。しかしそれは京都周辺のことで、 この物語が生まれた東国では藤沢の御上人も相模国も、話には必須の要素である。こうした具体があってこそ、聴く 者 読 む 者 の 親 近 感、 臨 場 感 は 満 た さ れ た。 と は い え、 a の『 絵 巻 を く り 』( 以 下 本 稿 で は『 を く り 』 と 記 す。 こ れ は 『絵巻をくり』と『原をくり』が近似するものとの認識による。 )においても、藤沢の御上人は何度も出てくるという ものではなく、特別存在感が大きいようには見えない。律儀に報恩と復讐を忘れず行うのが説経の特徴だが、藤沢の 御上人が後に報恩にあずかるということもないし、藤沢道場の清浄光寺が脚光を浴びるということもない。それでは、 藤沢の御上人もまた、物語のあちこちに一時登場する周辺的な人物と同列の存在とみなしていいだろうか。 物語の中で、藤沢の御上人が登場する場所は小栗が娑婆に帰還した現場、藤沢の近く上野が原である。そこは真の よみがえりの地、紀州の熊野本宮湯の峯までの長い旅の起点であった。周知のように、熊野は時宗にとっては、始祖 一遍が熊野権現から神託を受け阿弥陀如来への信心を確実にした最大の聖地である。そして湯の峯は、人を文字通り 再生させる力のある聖なる湯として、時宗をはじめとして広く信仰を集めていたところである。一方藤沢は、遊行第 四代上人呑海がここに道場(当初の名は清浄光院)を開き、後には遊行派最大の拠点(清浄光寺)として布教の要に なった地であ る ((( ( 。藤沢と熊野本宮湯の峯は、時宗にとっては布教活動をする実社会の拠点と、信仰上の聖地という、 際立ったシン ボ ル的二点である。小栗はその二点をつなぐパイプラインに沿って、始点から終点へとよみがえりの旅
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 をしていくわけである。物語のクライマックスともいうべき餓鬼阿弥と照手の再会、照手の車引き、二人の別れが繰 り広げられる美濃国青墓宿から近江国大津関寺までの道行も、この線上での出来事である。 それでは、この道の起点である藤沢において、御上人は具体的に何をしたのだろうか 1 上野が原で小栗を発見する 小 栗 が 姿 を 現 し た 所 は「 小 栗 塚 」 と も い わ れ、 卒 塔 婆 も 立 ち、 群 れ の 烏 も 啼 い て い る 墓 地 で あ っ た。 上 野 が 原 に つ い て は 実 際 に 現 地 を 比 定 す る 研 究 も あ る が ((( ( 、 こ こ で は 問 題 に し な い。 い わ ゆ る 埋 墓 で あ ろ う。 横 山 の 所 で 毒 殺 さ れ た 人 間 が、 ど う い う わ け か 距 離 的 に も 離 れ た 藤 沢 近 く の 墓 場 か ら 娑 婆 に 帰 還 し て く る。 横 山 の 屋 敷 は 少 な く と も こ の 物 語 の 本 文 か ら は 相 模 川 の 中 流 域 と 感 じ ら れ、 海 に 近 く て 相 模 川 か ら も や や 距 離 の あ る 藤 沢 と は か な り 距 離 が あ っ た は ず で あ る。 不 思 議 と い え ば 不 思 議 だ が、 実 は こ の 娑 婆 へ の 帰 還 の 地 は、 物 語 の 前 半 で す で に 準 備 さ れ 暗 に 示 唆 さ れ て い た。 照 手 が 小 栗 の 死 を 予 見 す る 不 吉 な 夢 を 見 た と き、 「 上 野 が 原 に 卒 塔 婆 が 立 つ 」 情 景 を 見 て い た か ら で あ る。 藤 沢 の 御 上 人 こ そ 夢 の 中 に は 現 れ な い が、 御 上 人 が 上 野 が 原 で 小 栗 を 発 見 す る 伏 線 は 早 く から敷かれていたことになる。 2 餓鬼阿弥陀仏と名付ける 上 野 が 原 に 現 れ た 異 様 な 姿 を 見 て 御 上 人 は す ぐ に 小 栗 と 識 別 す る。 殺 害 し た 横 山 一 門 に 知 ら れ な い よ う に と 髪 を 剃 り、 餓 鬼 阿 弥 陀 仏 と 名 付 け た。 頭 を 剃 っ て 坊 主 に す る こ と と い い、 即 座 に 阿 弥 号 を つ け る こ と と い い、 こ れ は 自 分 の 弟 子 に し て、 時 衆 に す る こ と と い え る だ ろ う。 話 の 流 れ か ら す る と、 閻 魔 大 王 の 自 筆 の 御 判 が 据 え ら れ た 胸 札 の 字 を 読 ん だ 後 に 御 上 人 が そ う す れ ば、 「 一 の み で し 」 に つ い て も 先 の よ う な 誤 解 を 生 む こ と な く ス ム ー ズ に理解されたのだろうが、 本文では胸札を見る前に名付けを行ったことになっている。こうした矛盾はあるものの、
餓 鬼 阿 弥 陀 仏 の 名 付 け は 御 上 人 が 小 栗 を 自 分 の 弟 子 に し た こ と の 証 で あ り、 旅 す る 時 衆 の 安 全 通 行 手 形 を 与 え た ことにもなるわけである。 3 土車を作る 閻 魔 大 王 か ら の 依 頼 は 小 栗 を 熊 野 本 宮 湯 の 峯 の 湯 に 入 れ て や っ て く れ と い う も の だ っ た。 こ れ を 実 行 す る に は は る か な 道 の り を 移 動 し て い く 車、 当 時 の 言 葉 で い え ば「 土 車 」 が い る。 御 上 人 は 早 速 こ の 土 車 を 作 る 作 業 に と りかからねばならなかった。 土 車 は 元 来 は 砂 や 土 を 載 せ て 運 ぶ も の だ ろ う が、 中 世 で は 障 害 者 な ど も こ れ で 移 動 し た こ と が 推 測 さ れ て い る。 有 名 な『 一 遍 聖 絵 』 で は 摂 津 天 王 寺 の 塀 の 外 に 乞 食 小 屋 が ず ら り と 並 ん で い て、 そ の 中 に 四 つ の 車 輪 を 付 け た 小 屋 も 数 台 描 か れ て い る。 屋 根 が つ い て い て 土 車 と は 言 え な い が、 障 害 者 の う ち で も 限 ら れ た 者 た ち は、 こ う し た 車 で 移 動 し て い た こ と は ま ち が い な い ((( ( 。 ど の く ら い の 距 離 を 移 動 し た の か は わ か ら な い が、 自 分 だ け で は 動 け な い 以 上、 引 く 人 も 必 要 だ っ た だ ろ う。 そ う し た 貴 重 な 絵 が ほ か な ら ぬ『 一 遍 聖 絵 』 に 描 か れ て い る こ と は、 一 遍 や 時 衆 の 周 辺 に は こ の よ う な 車 で 移 動 す る 人 が 日 常 的 に 見 ら れ た も の で あ ろ う か。 数 少 な い 車 の 絵 画 資 料 の 中 に は 信 濃 の『 善 光 寺 参 詣 曼 荼 羅 』 が あ る が ((( ( 、 こ れ は 覆 い の な い 土 車 を 子 供 ら し き も の が 引 い て い る。 善 光 寺 も ま た 時宗とは極めて関係の深い寺院であった。 土 車 を 作 る と い う よ う な 文 献 史 料 に は ま だ 出 あ っ て い な い が、 少 な く と も 時 宗 や 遊 行 上 人・ 藤 沢 上 人 と 車、 土 車 は 歴 史 的 に も 密 接 な 関 わ り を 持 っ て い る こ と が 絵 画 資 料 か ら わ か っ て い る。 そ う し た こ と か ら 考 え る と、 現 実 の社会でもかれらが車を作り、 さらに改良を加えるなどの作業にも携わった可能性は十分ある。この小栗の物語で、 藤 沢 の 御 上 人 が 土 車 を 作 る こ と に 何 ら 違 和 感 を 抱 か ず ス ム ー ズ に 作 業 に 入 っ て い る と い う の も、 そ う い う 認 識 が
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 す で に で き て い る か ら だ ろ う。 車 と い う 道 具 に 綱 が つ い て い た こ と は 当 然 で あ る。 こ こ で は 女 綱・ 男 綱 が つ け ら れた。 4 胸札に書き添えをする 帰 還 し た 小 栗 の 胸 に は 閻 魔 大 王 か ら 御 上 人 に 宛 て た 文 字 が 書 か れ て い た。 そ れ に 応 え て 小 栗 を 熊 野 本 宮 湯 の 峯 ま で 連 れ て い く と し て も、 こ の 遠 距 離 を 自 分 と 門 弟 達 だ け で 引 い て い く わ け に は い か な い。 多 く の 一 般 の 人 の 力 を 借 り な け れ ば な ら な い。 そ こ で 御 上 人 は 胸 札 に 書 き 添 え を し て、 人 々 に 支 援 を 呼 び か け る の で あ る。 「 こ の 者 を、 一 引 き 引 い た は 千 僧 供 養、 二 引 き 引 い た は 万 僧 供 養 」、 ひ と 引 き す れ ば 千 人 の 僧 で お 経 を 読 ん で 供 養 し た こ と に な り ま す、 二 引 き す れ ば 万 人 の 僧 で 供 養 し た こ と に な り ま す よ、 そ れ ほ ど 大 き な 供 養 に つ な が る 車 引 き で す。 さ あ さみなさん、というわけである。 こ の 有 名 な 文 句 が い つ、 ど こ で 発 生 し た か は わ か ら な い が、 説 経『 山 椒 大 夫 』 で も、 竹 の こ ぎ り で 首 を 引 き 落 と す と き の 唱 え ご と に も 使 わ れ て お り、 す で に 定 着 を み た 親 し み の あ る 唱 え ご と で あ っ た よ う だ。 引 く こ と の 功 徳 を 端 的 に 教 え る い わ ば 施 行 の す す め で も あ っ た の で あ る。 「 施 行 車 の こ と な れ ば ((( ( 」 と い う い い か た を し て い る こ とからもわかるように、車引きは施行を引く行為の一つだった。 『 を く り 』 の 中 で、 胸 札 へ の 書 き 込 み は 三 人 が す る。 一 人 目 は 閻 魔 大 王、 二 人 目 は 藤 沢 の 御 上 人、 そ し て も う 一 人が照手である。閻魔大王は藤沢の御上人に宛て、 照手は餓鬼阿弥陀仏に宛てた。いずれも個人一人に宛てている。 そ れ に 対 し て 藤 沢 の 御 上 人 の 書 き 込 み は、 「 一 引 き す れ ば 千 僧 供 養、 二 引 き す れ ば 万 僧 供 養 」 と い う よ う に、 ま さ に 万 人 に 向 け て の 呼 び か け で あ っ た。 だ か ら そ れ は、 目 の 前 に あ る 餓 鬼 阿 弥 の 乗 っ た 車 を 引 く と い う 単 純 な 行 為 へ の 誘 い に も な る し、 さ ら に も っ と 大 が か り な 施 行、 つ ま り 檀 那 と し て 面 倒 を み る と い う こ と へ の 誘 い で も あ っ
た の で あ る。 『 を く り 』 で は 三 か 所 に 檀 那 が 出 て く る。 「 檀 那 が つ い て 引 く ほ ど に 」「 車 の 檀 那 御 覧 じ て 」「 車 の 檀 那 出 で 来 け れ ば ((( ( 」。 傷 ん だ 車 を 修 理 し、 あ る い は 作 り 替 え、 餓 鬼 阿 弥 の 世 話 を し、 引 き 子 の 食 事 な ど も 用 意 し、 そ う や っ て 餓 鬼 阿 弥 の 車 は 進 ん で い く の で あ る。 檀 那 が つ か な か っ た ら 車 は 止 ま っ て し ま う。 美 濃 国 青 墓 宿 で 車 が 放置され、それが結果として照手との再会につながったのは、こうした檀那の問題があった。 も ち ろ ん そ ん な 檀 那 へ の 呼 び か け ま で 御 上 人 が 胸 札 に 認 め た と い う こ と は 物 語 本 文 に は 書 か れ て い な い。 し か し 人 に 車 引 き を 勧 め、 小 栗 を 実 際 に は る か 遠 く ま で 導 い て い く と い う こ と は そ う い う こ と で あ る。 そ う い っ た 仕 組 み を 作 る こ と が「 一 引 き す れ ば 千 僧 供 養、 二 引 き す れ ば 万 僧 供 養 」 の 言 葉 の 背 後 に は あ る。 こ の 長 距 離 移 動 を 可能にする仕組み、仕掛けを藤沢の御上人が作っているということを十分理解しておく必要があるだろう。 5 自ら引く 藤 沢 の 御 上 人 は 餓 鬼 阿 弥 を 上 野 が 原 か ら 引 き 出 し た。 自 ら 引 い た の で あ る。 絵 巻 の 詞 書 に は 簡 単 に し か 出 て こ ないが、 絵になると、 十六の場面にわたっていずれも総勢七人の僧が引っ張っている姿が描かれているようである。 老 僧 一 人 に 僧 が 四 人、 そ れ に 荷 物 を 持 っ た り 雑 役 に も 従 う 下 級 の 僧 二 人。 こ の 中 の 老 僧 が 御 上 人 で あ ろ う。 相 模 畷 か ら 小 田 原、 湯 本、 足 柄 箱 根 を 越 え て 三 島、 吉 原 と 引 き、 富 士 川 で 水 垢 離 を と っ て 富 士 浅 間 を 伏 し 拝 み、 こ こ で「さらばさらば」と餓鬼阿弥に別れを告げ、藤沢をさして帰るのであ る ((( ( 。 こ の 中 で「 エ イ サ ラ エ イ 」 と 音 頭 を と っ て い る。 こ れ は 謡 曲『 百 万 』 の 中 で「 重 く と も 引 け や え い さ ら え い さ と 一 同 に 頼 む 弥 陀 の 力 頼 め や 頼 め 南 無 阿 弥 陀 仏 」 と か け 声 を か け て い る の と よ く 似 て い る。 『 百 万 』 の 場 合 は 人 を 乗 せ た 土 車 で は な く も っ と 重 い も の を 運 ぶ 車 の よ う だ が、 こ れ ら の か け 声 に は と も に 阿 弥 陀 信 仰 が 底 流にあり、意識の上でも共通性があるのかもしれない。
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 それでは中世の道をこんなふうにして人々が車を引いていくという光景は実際にあったのだろうか。 かつて私は、 奥州衣川にあった弁慶石が京に帰りたいと声を発し、 それを聞いた人々が協力して弁慶石を京に運んだという話を、 史 実 と 伝 承 の 面 か ら 書 い た こ と が あ る ((( ( 。 弁 慶 石 は き っ と 輿 に で も 担 が れ て や っ て き た こ と と 思 わ れ る が、 そ の 際、 別 の 例 と し て、 神 霊 の の り 移 っ た 牛 が 備 州 か ら 車 に 乗 せ ら れ、 人 に 引 か れ て 京 ま で や っ て き た と い う 史 実 を 紹 介 し た。 人 間 に せ よ 動 物 に せ よ、 あ る い は 石 に せ よ、 神 霊 を 負 っ た も の、 異 形 の も の、 そ し て 障 害 者 は、 時 と 場 を 得 れ ば 人 々 に 引 か れ 担 が れ て 旅 を し た の で あ っ た。 説 経『 山 椒 大 夫 』 で も、 足 の 立 た な く な っ た 厨 子 王 丸 を 七 条 朱 雀 権 現 堂 か ら 洛 中 へ、 さ ら に そ の 後 摂 津 南 北 天 王 寺 ま で 引 い て い る。 宿 送 り・ 村 送 り し た の で あ る。 こ れ ら の こ と は 決 し て 文 学 的 空 想 力 に よ る 虚 構 で は な い。 宿 送 り・ 村 送 り は 深 く 社 会 に 根 付 い た 慣 行 だ っ た。 『 を く り 』 で も、 か た き 小 栗 と も 知 ら ず、 や む な く 死 な せ て し ま っ た( と 思 い こ ん で い る ) 照 手 の 供 養 の た め に、 横 山 家 中 の 侍 た ち は「 因 果 の 車 に す が り つ き、 五 町 ぎ り こ そ 引 か れ け る 」 と 引 い た。 五 町 だ け 引 く と か 十 町 引 く と か、 あ る い は「 一 日 の 車 道 」 な ど の よ う に、 人 々 は 自 分 の 都 合 と 志 に 合 わ せ て 車 を 引 い た の で あ る。 説 経『 を く り 』 は そ う し た 社 会 的 慣 行 を 物 語 の 中 に 取 り 入 れ た。 し か も そ れ が 十 分 機 能 し て い く よ う な 仕 組 み に し て 物 語 を 大 き く 盛 りあげたのだった。 以上 1 から 5 まで考察を加えたところからしても、藤沢の御上人は決して物語の折り返し地点で少し現れるといっ た小さな存在ではないことは明らかだろう。説経『をくり』の物語は、しばしば人や動物、つまり小栗や照手、ある いは鬼鹿毛という馬、深泥池の竜などに焦点が当てられ、そこに生まれる感情や情念、あるいは土葬・火葬、蘇りと いった生死の問題に目が向けられてきた。文学や思想からすればそうしたことが問題になるのは至極当然である。し
かし忘れられてきたものがある。それは道具としての「車」であり、行為としての「引く」であり、それら全体を機 能させていく「仕組み」のことである。こうした舞台や仕組みがあってこそ人間の生死や恩愛の物語も躍動させるこ と が で き る。 そ う い う 意 味 で も、 私 は 土 車 と 車 引 き を こ の 物 語 の「 影 の 主 役 」 と 呼 ん で み た い。 説 経『 を く り 』 を 「 引 く 物 語 」 と 称 し た 所 以 で あ る。 そ し て こ の 車 引 き と い う よ み が え り の 旅 の 仕 組 み を 作 っ た 藤 沢 の 御 上 人 こ そ は、 この物語の舞台を回す重要な仕掛け人の役割を負っていたとみるのである。
三
「物語」の離陸はどこで起きたか
広末保がいう「物語としての離陸」がいつ、どこで起きたか、それが次の検討課題である。これまで述べてきたこ とは、あくまでも説経『をくり』という物語の中での藤沢の御上人の役割であり、位置づけであった。そこから一足 飛びに、この物語の制作者が藤沢の御上人であったなどと結論づけることはできない。しかし、その可能性はある。 そこで以下この点について、さらに考えをすすめてみよう。 まず「離陸」という見事な表現を使った広末は、それがどこで起きたのかを問うた時、美濃国青墓辺りを考え、そ こを拠点に活動したであろう説経語りの集団に離陸の推進力を求めた。これを念仏比丘尼とか熊野比丘尼といいかえ る 研 究 者 も い る が ((( ( 、『 を く り 』 の 物 語 が 説 経 と い う 芸 能 で あ る 以 上、 漂 泊 の 芸 能 民 や 宗 教 者 に そ れ を 求 め る こ と は 自 然 で あ る。 小 栗 と 照 手 が 死 ん で 後、 墨 す の ま た 俣 ・ 結 むすぶ と い う 美 濃 国 内 の 地 に 祀 ら れ た こ と も 合 わ せ 考 え て み れ ば、 ま す ま す 美濃国内の芸能者や宗教者を離陸の推進者として考えたくなるのは当然のことともいえるだろう。実際、青墓は平安 末期から鎌倉初期にかけて世に名だたる 傀 く ぐ つ 儡子 の本場でもあった。固有名詞の知られた遊女が『梁塵秘抄口伝集』や説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 『 平 治 物 語 』 に も 出 て く る し、 史 実 と し て も、 源 氏 が 宿 の 長 者 大 炊 氏 と 深 い 関 係 に あ っ た こ と は 周 知 の こ と が ら で あ る ((( ( 。 そ れ で は ほ ん と う に 中 世 後 半 か ら 近 世 に か け て の 青 墓 は、 『 を く り 』 の 物 語 を 離 陸 さ せ る よ う な 強 力 な 文 化 的 影 響 力を持つ地であったろうか。榎原雅治が最近発表した中世東海道の研究には、鎌倉初期から室町中期までの宿一覧が あがってい る ((( ( 。『吾妻鏡』以下十四の文献資料によって旅行者がどこを通ったかを調べたものだが、宿泊地 ・ 休憩地 ・ 経由せずの三つに分類されて記入されている。それを見ると、青墓は最初の『吾妻鏡』の記事として一一九〇年に一 度出たきりで、あとは一切出てこない。圧倒的に隣の垂井宿が多く、赤坂宿が休憩地として加わるくらいである。少 な く と も 青 墓 の 宿 と し て の 機 能 は、 中 世 後 半 に は 大 き く 減 退 し て し ま っ て い る と し か 見 え な い。 『 大 垣 市 史 青 墓 編』にも鎌倉初期の活動以後は青墓は登場せず、同様の感じを受け る ((( ( 。ただ『岐阜県の地名』を見ると、織豊期の年 未詳浅野長吉折紙(市田靖氏所蔵文書)は「大墓宿町人中」に宛てて、戦乱で逃げ出した町人を還住させようとして お り、 「 遊 女 の 宿 と し て の 性 格 は 失 い な が ら も、 戦 国 期 ま で 東 山 道 の 宿 と し て 存 続 し て い た と 思 わ れ る 」 と 書 か れ て い る ((( ( 。 これらから考えると、中世後半から近世にかけての青墓は、町場としては残っていた。しかし都と東国を上下する 旅行者が利用するような宿、ことに歴史的にも由緒ある遊女の宿としての機能はすでに持ち合わせていなかったと判 断できる。ここには聖観音を本尊とする円興寺という古刹があり、源氏と関係の深かった大檀越青墓の長者大炊氏一 族の墓がある。確かに中世を通じて青墓の宿周辺に唱導文学を生みだすような環境がなかったとはいえな い ((( ( 。しかし こうした中世後半の青墓の社会的・文化的環境から、説経『をくり』のような強烈なエネルギーを発散するダイナミ ックな物語が作られ、世に向けて離陸していけるものだろうか。
『 を く り 』 の 物 語 は 京 か ら 始 ま る。 広 末 の い う「 み か ど 空 間 」 で あ る。 そ こ で 起 こ る 鞍 馬 の 申 し 子、 妻 嫌 い、 深 泥 が池の竜との交わり、これらのいくつかには坂上田村麻呂伝説の影響が濃いといわれてい る ((( ( 。この京に始まり、追い やられる常陸、さらに中心舞台となった相模、そこから一方は東海道を上り、一方は日本海から美濃へ、そしてさら に紀州熊野へ、再び京、美濃、相模、常陸、最後はまた美濃というように、空間的な展開の大きさは現存する諸説経 の中でも群を抜いている。さらに現世と冥界との行き来をも含めて、この物語がもつさまざまな視点や構想は、単に 在地を歩き、あるいは在地にとどまって唱導するといった活動だけで持てるものではない。より以上の高い視点、広 い視野、知識の豊富さ、経験の豊かさを備えてはじめて、ダイナミックな小栗の物語としての離陸を実現できるので はないか。こうした離陸させる力、エネルギーがどこにあるかを『をくり』の中で観察したとき、物語の中で舞台を 回す要に位置し、その後の展開を仕組んでいった「藤沢の御上人」が大きくクローズアップされてくるのである。 重要なことは、この物語の登場人物はすべて死んでしまっていて、今は生きていないということである。主人公の 小栗も照手も人生を全うし、今はともに神に祀られている。当然小栗に手をさしのべた藤沢の御上人も亡くなってい るはずである。ところが、実はそうではなかった。藤沢の御上人だけは襲名という行為によって、この『をくり』が 語られ読まれている時代、つまり先に考察したところからいえば寛永以前の中世末、近世初頭にも生き続けているの で あ る。 生 命 と し て の 個 体、 固 有 名 詞 は 違 っ て も、 「 藤 沢 の 御 上 人 」 は 唯 一 生 き 続 け て こ の 物 語 を 保 証 し て い る。 あ え て い え ば、 ほ ん の 一 瞬 出 て く る 帝 も そ う で あ る に は 違 い な い が、 話 の 中 で の 存 在 感 は 比 較 に な ら な い。 ま さ し く 「 藤 沢 の 御 上 人 」 こ そ は、 こ の 今 も 生 き 証 人 0 0 0 0 と し て 物 語 に リ ア リ テ ィ ー を 与 え て い る。 復 活 し そ の 後 祀 ら れ た 小 栗、 復活させ同じく後に祀られた照手のカミとしてのただならぬ威力を証明してくれているのである。 このように考えると、物語の中で小栗よみがえりの旅を仕組んでいった藤沢の御上人は、実は物語そのものを制作
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 し、離陸させた当の人物でもあったのではないかという考えが現実に浮上してくる。離陸に関わった者の候補として 十分検討に値するであろう。 実はこのような考えに似たものは、早くから研究者により提起されていた。藤沢上人の居所である清浄光寺(藤沢 道場、遊行寺)への注目である。例えば福田晃は、語り物が常陸の小栗地方から時宗の本山藤沢の遊行寺に運び込ま れたとき、この物語は飛躍的に成長し発展したと言ってい る ((( ( 。この物語が時宗に管理されていた時代に脚色が加えら れ大きく成長したというのである。このような見方は、説経『をくり』研究で疑うものは ほ とんどなく、通説になっ ているといってもいいだろ う ((( ( 。 それでは、私の考えは通説とどう違うのか。私が通説に対し抱く根本的な疑問は、伝説・伝承が遊行寺に運び込ま れて成長し発展したといいながら、その先がないということである。そこから先は、楽観的とも思えるくらい一挙に 美濃国青墓に飛んでしまう。今、押さえなければならない重要なことは何か。それは物語の「離陸」ということであ る。さまざまな伝説・伝承を取捨選択し、構想し、練り上げ、説経『をくり』の物語として離陸させていった時と場 と関わった人を明らかにしていくことである。その有力候補として藤沢上人・清浄光寺にまで近づいた以上は、ここ に 焦 点 を 定 め、 そ の 可 能 性 の 有 無 を 探 ら な け れ ば な ら な い。 そ の た め に は、 藤 沢 上 人 や 清 浄 光 寺 を「 時 宗 だ 」「 遊 行 寺だ」というだけの超歴史的、一般的なことばで済ましてしまうのではなく、当面する具体的な時代のただ中に入っ て、その可能性を考察していかねばならないだろう。歴史的に見ることが重要である。藤沢上人や清浄光寺にとって いったいそれはどんな時代で、物語の離陸に関われるような、あるいはそれを必要とするような条件や環境がそこに あったかどうかを検証していかなければならないのである。
四
清浄光寺再建の道
藤沢上人とは何か。まずこの点を確認しておこう。鎌倉中期、一遍は一所に止住することなく諸国を巡歴し、賦算 活動によって念仏を広めた。一遍の死後、後継者たちもその精神を受け継いで活動し、遊行上人と呼ばれた。しかし 同時に念仏の道場が各地に建てられ、そこに止住する僧も現れて次第に時宗の教団が形成されるようになる。いくつ にも分派した時宗の中心でもあった遊行派は、それまでと変わらず遊行上人が回国巡行を続けたが、遊行を続けるこ とが困難になると、相模国藤沢の清浄光寺(藤沢道場 通称遊行寺)に引退した。これを独住といい、寺に住むよう になった上人は藤沢上人と呼ばれる。鎌倉末以降は藤沢上人が没すると、諸国を回国中の遊行上人はその地位を後継 者に譲って自らは清浄光寺に入り、藤沢上人を継いで独住するのが時宗遊行派の慣例となった。一遍を初代の遊行上 人とすると、第四代の遊行上人呑海が初代藤沢上人となる。この時以来、遊行上人と藤沢上人とは併存することにな るわけであ る ((( ( 。 『をくり』の物語は、室町中期の応永三十 年 (一四二三) 、鎌倉公方足利持氏に対して謀反を起こして没落した常陸 小栗氏の事件が源流にあると考えられている。小栗氏が関東の政治的舞台に登場し話題になるのは室町中期だから、 ここではそれ以降の藤沢上人の歴史について考えることとする。 表 Ⅱ は『時衆年 表 ((( ( 』と橘俊道『時宗史論 考 ((( ( 』を参照しながら、遊行上人と藤沢上人の関係をわかりやすくするため に作成した対照表である。具体的に表を見ながら話を進めよう。最初の太空という人物は第十四代遊行上人で、応永 十 九 年 ( 一 四 一 二 ) に 遊 行 上 人 に な っ て い る が、 応 永 二 十 四 年 ( 一 四 一 七 )、 先 代 藤 沢 上 人 の 死 去 に と も な い 第 八 代 藤 沢 上 人 に な っ て い る。 そ し て 永 享 十 一 年 ( 一 四 三 九 )、 六 十 五 歳 で 亡 く な っ て い る。 こ の 人 物 の 藤 沢 上 人 時 代 に 小説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 栗満重の足利持氏に対する謀反があり、小栗氏は敗北する。小栗の事件を年代記と説話的叙述の両方から記した『鎌 倉大草紙』の中に、満重の息小次郎助重が藤沢道場に逃げ込み、藤沢上人が助けてこれを三河国まで落とすという話 があるが、その時の藤沢上人がこの太空に相当することは従来も説かれる通りであ る ((( ( 。 太 空 の 譲 り を 受 け て 第 十 五 代 遊 行 上 人 に な っ た 尊 恵 と い う 人 物 は、 太 空 が 亡 く な る 前 に、 正 長 二 年 ( 一 四 二 九 )、 遊行廻国中、京都の七条道場において六十六歳で亡くなっている。そのため尊恵は藤沢上人にはならないままで終わ ることになる。 さて、この表を見て意外なことは、藤沢上人が第十二代の一峯以後、第十三代普光までの間、大きく飛んでいる点 で あ る。 そ の 間 に は 六 名 の 人 物 の 名 前 が 右 に 小 さ く 入 っ て い る が、 彼 ら は『 遊 行・ 藤 沢 両 上 人 御 歴 代 系 譜 ((( ( 』( 以 下 『 歴 代 系 譜 』 と 略 す ) に よ る と、 歴 代 藤 沢 上 人 に は 数 え ら れ て い な い。 つ ま り そ の 間 の 七 十 七 年 間、 藤 沢 上 人 は い な かったかに見える。これはどういうことだろうか。 表の右側には、該当する時代の清浄光寺、および藤沢上人に関する重要な事件などが記されている。これを見ると、 第 十 二 代 藤 沢 上 人 一 峯 が 亡 く な っ た 永 正 九 年 ( 一 五 一 二 ) の 翌 十 年 ( 一 五 一 三 )、 清 浄 光 寺 は 当 時 こ の 地 方 に 勢 力 を 扶植していた三浦氏とこれを攻める北条氏の交戦による兵火を受け、焼失してしまっていたのである。当然一峯のあ と第十三代藤沢上人に就任するはずの第二十一代遊行上人知蓮は藤沢に居ることはできず、その年滞在先の駿河長蓮 寺で亡くなった。焼失時清浄光寺の本尊も駿河に移されたが、知蓮の死後、さらに甲斐の一蓮寺に移された。こうし て以後七十七年間、遊行上人は引退した後藤沢上人として藤沢に入ることはなかったことになる。また清浄光寺本尊 も藤沢にはなかっ た ((( ( 。 しかし相模国藤沢にはいなくても、藤沢上人はいた。前任者が亡くなった知らせを受けると遊行上人を後継者に譲
1400 10 20 30 40 50 60 70 80 90 1500 10 20 30 40 50 60 70 80 90 1600 10 20 30 40 50 1400 10 20 30 40 50 60 70 80 90 1500 10 20 30 40 50 60 70 80 90 1600 10 20 30 40 50
遊行上人
表 Ⅱ藤沢上人
関連事項
④呑海 ⑭太空 ⑮尊恵 ⑯南要 ⑰暉幽 ⑱如象 ⑲尊皓 知蓮 意楽 称愚 不外 仏天 空達 真寂 遍 円 体光 有三 同 念 普光 満悟 燈外 法爾 如短 託資 ⑳一峯 太 空 呑 海 1325 ( 正 中 2) 1417 (応永24) ● 1418 (応永25) 藤沢敵御方供養塔建立 ● 1423 (応永30) 小栗満重 、足利持 氏 に 謀反 敗北 没落 ● 1438 (永享10) 永 享 の 乱 、足利持氏 自 殺 ● 1440 (永享12) 結城合戦 、小 栗 氏 一 旦 回 復 ● 1441 (嘉吉元) 持氏遺児殺 さ る ● 1455 (康正元) 足利成氏 、小栗 氏 を 滅 ぼ す ● 1479 (文明11) 『 鎌倉大草紙 』こ れ 以後 に 成 立 ● 1513 (永正10) 北 条・ 三浦 氏 の 戦 い に より 清浄光寺焼 失 本尊 駿河長善 寺 に 遷 座 ● 1520 (永正17) 本尊 甲 斐一蓮 寺 に 遷 座 ● 1558 (永禄元) 体光上人 、旧 跡 の こ と で 玉縄北条 氏 に 抗 議 ● 1559 (永禄2 ) 北条氏 、寺領 の 一 部 を 寄 進 ● 1571 ( 元亀2 ) 武 田 信 玄 、清浄光 寺 に 藤沢200貫 、俣野内100 貫 の 土 地 を 寄進 ● 1588 ( 天正1 6 ) 藤沢火災 ● 1603 ( 慶長8 ) 普 光・ 満悟 、伏 見 で 家 康 に 面 会 ● 1604 ( 慶長9 ) 留主僧看守法阿死去 ● 1607 ( 慶長1 2 ) 普 光 、清浄光 寺 に 帰 住 寛永 初『 古活字版 を くり 』成立 これ 以前 『 原 を くり 』成立 寛永年間 『 絵 巻 を くり 』成立 ● 1590 ( 天正1 8 ) 北条氏滅亡 ● 1591 ( 天正1 9 ) 家 康 、清浄光 寺 に 600石寄進 普 光 、水 戸 に 藤沢道場創建 ○ 表 作 成 に あ た っ て は 、 基 本 的 に は 『 時 衆 年 表 』 に よ っ た 。 交 代 時 期 に 若 干 の ズ レ が 出 る が 、 無 視 し た 。 ○ 第 二 十 一 代 遊 行 上 人 知 蓮 を 藤 沢 上 人 に 入 れ た の は 橘 俊 道 の 説 に よ っ た 。 1470 (文明2) 1327 (嘉暦2 ) 1514 (永正11) 1518 (永正15) 1514 (永正11) 1518 (永正15) 1518 (永正15) 1549 (天文18) 1551 (天文20) 藤沢 63 才 1439 (永享11) 藤沢 65 才 1412 (応永19) 1417 (応永24) 1429 (正長2) 京都七条道場 66才 1466 (文正元) 京都七条道場 69才 1536 (天文5) 1536 (天文5) 越後極楽寺 57才 1562 (永禄5) 1563 (永禄6) 1573 (元亀4) 1584 (天正12) 1589 (天正17) 出 羽 長泉寺 62才 1612 (慶長17) 1613 (慶長18) 1627 (寛永4) 1640 (寛永17) 1641 (寛永18) 1645 (正保2) 周防善福寺 70才 甲 府一蓮寺 78才 1548 (天文17) 1552 (天文21) 伊予願成寺 49才 安芸 廿 日 市 43才 薩摩浄光明寺 49才 1429 (正長2) 1440 (永享12) 1471 (文明3) 1495 (明応4) 1497 (明応6) 1513 (永正10) 1520 (永正17) 1528 (享禄元) 1467 (応仁元) 藤沢 84 才 1494 (明応3) 1528 (享禄元) 藤沢 76 才 1526 (大永6) 豊前西教 寺 67才 1571 (元亀2) 越前新善光寺 85 才 1583 (天正11) 越前西方寺 72 才 1626 (寛永3) 藤沢 84 才 1644 (寛永21) 藤沢 84 才 1646 (正保3) 藤沢 69 才 1587 (天正15) 1589 (天正17) 日 向 光照寺 70 才 1513 (永正10) 駿河長善寺 55 才 近江乗台 寺 54才 1496 (明応5) 藤沢 70 才 南 要 如 象 尊 皓 知蓮 意楽 不外 仏天 有三 同 念 普 光 燈 外 如 短 一 峯 示寂地 年齢 示寂地 年 齢 1512 (永正9) 藤沢 63 才説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 1400 10 20 30 40 50 60 70 80 90 1500 10 20 30 40 50 60 70 80 90 1600 10 20 30 40 50 1400 10 20 30 40 50 60 70 80 90 1500 10 20 30 40 50 60 70 80 90 1600 10 20 30 40 50
遊行上人
表 Ⅱ藤沢上人
関連事項
④呑海 ⑭太空 ⑮尊恵 ⑯南要 ⑰暉幽 ⑱如象 ⑲尊皓 知蓮 意楽 称愚 不外 仏天 空達 真寂 遍 円 体光 有三 同 念 普光 満悟 燈外 法爾 如短 託資 ⑳一峯 太 空 呑 海 1325 ( 正 中 2) 1417 (応永24) ● 1418 (応永25) 藤沢敵御方供養塔建立 ● 1423 (応永30) 小栗満重 、足利持 氏 に 謀反 敗北 没落 ● 1438 (永享10) 永 享 の 乱 、足利持氏 自 殺 ● 1440 (永享12) 結城合戦 、小 栗 氏 一 旦 回 復 ● 1441 (嘉吉元) 持氏遺児殺 さ る ● 1455 (康正元) 足利成氏 、小栗 氏 を 滅 ぼ す ● 1479 (文明11) 『 鎌倉大草紙 』こ れ 以後 に 成 立 ● 1513 (永正10) 北 条・ 三浦 氏 の 戦 い に より 清浄光寺焼 失 本尊 駿河長善 寺 に 遷 座 ● 1520 (永正17) 本尊 甲 斐一蓮 寺 に 遷 座 ● 1558 (永禄元) 体光上人 、旧 跡 の こ と で 玉縄北条 氏 に 抗 議 ● 1559 (永禄2 ) 北条氏 、寺領 の 一 部 を 寄 進 ● 1571 ( 元亀2 ) 武 田 信 玄 、清浄光 寺 に 藤沢200貫 、俣野内100 貫 の 土 地 を 寄進 ● 1588 ( 天正1 6 ) 藤沢火災 ● 1603 ( 慶長8 ) 普 光・ 満悟 、伏 見 で 家 康 に 面 会 ● 1604 ( 慶長9 ) 留主僧看守法阿死去 ● 1607 ( 慶長1 2 ) 普 光 、清浄光 寺 に 帰 住 寛永 初『 古活字版 を くり 』成立 これ 以前 『 原 を くり 』成立 寛永年間 『 絵 巻 を くり 』成立 ● 1590 ( 天正1 8 ) 北条氏滅亡 ● 1591 ( 天正1 9 ) 家 康 、清浄光 寺 に 600石寄進 普 光 、水 戸 に 藤沢道場創建 ○ 表 作 成 に あ た っ て は 、 基 本 的 に は 『 時 衆 年 表 』 に よ っ た 。 交 代 時 期 に 若 干 の ズ レ が 出 る が 、 無 視 し た 。 ○ 第 二 十 一 代 遊 行 上 人 知 蓮 を 藤 沢 上 人 に 入 れ た の は 橘 俊 道 の 説 に よ っ た 。 1470 (文明2) 1327 (嘉暦2 ) 1514 (永正11) 1518 (永正15) 1514 (永正11) 1518 (永正15) 1518 (永正15) 1549 (天文18) 1551 (天文20) 藤沢 63 才 1439 (永享11) 藤沢 65 才 1412 (応永19) 1417 (応永24) 1429 (正長2) 京都七条道場 66才 1466 (文正元) 京都七条道場 69才 1536 (天文5) 1536 (天文5) 越後極楽寺 57才 1562 (永禄5) 1563 (永禄6) 1573 (元亀4) 1584 (天正12) 1589 (天正17) 出 羽 長泉寺 62才 1612 (慶長17) 1613 (慶長18) 1627 (寛永4) 1640 (寛永17) 1641 (寛永18) 1645 (正保2) 周防善福寺 70才 甲 府一蓮寺 78才 1548 (天文17) 1552 (天文21) 伊予願成寺 49才 安芸 廿 日 市 43才 薩摩浄光明寺 49才 1429 (正長2) 1440 (永享12) 1471 (文明3) 1495 (明応4) 1497 (明応6) 1513 (永正10) 1520 (永正17) 1528 (享禄元) 1467 (応仁元) 藤沢 84 才 1494 (明応3) 1528 (享禄元) 藤沢 76 才 1526 (大永6) 豊前西教 寺 67才 1571 (元亀2) 越前新善光寺 85 才 1583 (天正11) 越前西方寺 72 才 1626 (寛永3) 藤沢 84 才 1644 (寛永21) 藤沢 84 才 1646 (正保3) 藤沢 69 才 1587 (天正15) 1589 (天正17) 日 向 光照寺 70 才 1513 (永正10) 駿河長善寺 55 才 近江乗台 寺 54才 1496 (明応5) 藤沢 70 才 南 要 如 象 尊 皓 知蓮 意楽 不外 仏天 有三 同 念 普 光 燈 外 如 短 一 峯 示寂地 年齢 示寂地 年 齢 1512 (永正9) 藤沢 63 才って自らは藤沢上人となり、地方の寺院に入って独住した。時には移動しつつも、最後にはある寺院に居を定めてそ こ で 亡 く な っ た。 『 歴 代 系 譜 』 で は 勘 定 さ れ て い な い が、 第 二 十 一 代 遊 行 上 人 知 蓮 以 下、 第 二 十 二 代 意 楽、 第 二 十 四 代不外、第二十五代仏天、第三十代有三、第三十一代同念がそうである。それぞれ駿河、近江、豊前、越前、越前、 日向各地の寺院で亡くなっている。かれらの中にはその地を新たな藤沢山にしたいと望む者もあったようだが、結局 は戦乱が激しく実現には至らなかっ た ((( ( 。 こ の よ う な 変 転 を 経 た 後、 天 正 十 七 年 ( 一 五 八 九 )、 北 条 氏 が 豊 臣 秀 吉 に 攻 め ら れ 滅 亡 す る 前 の 年 に な っ て、 七十七年ぶりに第三十二代遊行上人普光が、越後から藤沢上人の名を負って「帰国」することにな る ((( ( 。しかしその普 光も実際に藤沢の地に入り独住するようになるのは、後述するような事情から慶長十二 年 (一六〇七)のことであっ た。永正十 年 (一五一三)清浄光寺が焼かれてから九十四年目のことである。 室町中期以降、近世初頭までの清浄光寺と藤沢上人の動向をおおまかに追ってみた。これらの歴史を踏まえること が、藤沢道場清浄光寺がこの物語の離陸の場ということが本当にあり得たかどうかを考えるには不可欠である。あり 得るとしたらそれはどの藤沢上人の時が条件的に最もふさわしいか。それを考察するために、この時期を大きく四段 階に分けて考えてみることとする。 1 小栗事件が起きた応永三十 年 (一四二三)から清浄光寺が焼ける永正十 年 (一五一三)までの間は、藤沢上人の 藤沢独住も行われ、遊行派本山としての活動も活発であった。この時代、関東では鎌倉公方をめぐる戦乱が激しくな り、小栗を滅ぼした鎌倉公方足利持氏が京都方に攻められて滅亡する永享の乱や、持氏の遺児を結城氏が担いで蜂起 した結城合戦が続いている。特に結城合戦では、捕えられて京都に護送される春王丸・安王丸兄弟が、美濃の垂井宿
説経『をくり』の離陸 瀬田勝哉 で斬首される話が『結城戦場物語』となって世に知られている。応仁の乱以前にすでに成立していたとされる叙情性 豊かなこの作品は、垂井宿の時衆道場金蓮寺で管理され語り広められたといわれているよう に ((( ( 、この時代の時衆文学 の代表的なものでもある。こうした唱導性が色濃く漂う作品に比べ、説経『をくり』は話の調子があまりにも異って い て、 時 衆 に 関 わ る 同 時 代 的 な 作 品 と は と て も 考 え ら れ な い。 『 を く り 』 の 離 陸 が こ の 時 代 の 清 浄 光 寺 に お い て 起 き る可能性はないといってよい。 もう一つこの時代に関連するものとしてふれておかなければならないのは『鎌倉大草紙』のことである。この書の 成立は文明十一 年 (一四七九)以後、戦国末期までの間とされるだけで、詳しいことはよくわかっていな い ((( ( 。ここに は小栗事件の経過を年代記的に記述する部分と、後日譚を説話的に記す部分が併存している。説話的な部分は、説経 『 を く り 』 の 登 場 人 物 や 場 所、 設 定 な ど と 共 通 す る と こ ろ が 多 く、 和 辻 哲 郎 以 来 早 く か ら 注 目 さ れ て き た ((( ( 。 常 陸 小 栗 氏、 相 模 00 権 現 堂、 遊 女 照 姫( 照 手 )、 毒 殺、 馬 の 鬼 鹿 毛、 さ ら に 藤 沢 上 人 と い う よ う に、 説 経『 を く り 』 の 物 語 の 主 要な要素が出揃っている。このよく似た二つにどんな影響関係があったのかがこれまでも議論されてきたところだ が ((( ( 、 いま問題の箇所は、藤沢の上人が盗賊の手から逃がれてきた小栗をかくまい、その領地の三河まで門弟の僧を付けて 送ったというところである。無事三河に逃げのびた小栗は力を蓄えて再び東下し、自分を殺そうとした盗賊を誅伐し、 また自分を救ってくれた遊女を見つけ出して報謝している。 この『鎌倉大草紙』で押さえておかなければならない藤沢上人の役割は、駆け込んだ小栗をかくまい三河に逃がし てやったというものである。決してそれ以上の関与ではない。時宗寺院に限らず、当時かなり多くの寺院がアジール 的性格をもっていたことはよく知られたことであ る ((( ( 。ここでもそれで、特に小栗事件があったころの清浄光寺=藤沢 上 人 は「 敵 御 み 方 かた 供 養 塔( 怨 オン 親 ジン 平 等 碑 )」 で も 名 高 い 太 空 上 人 で あ っ た か ら、 三 河 小 栗 氏 は そ う し た 清 浄 光 寺 = 藤 沢 上
人の庇護というエピソードも含み込んで、 一族の先祖の話として語り伝えたのであろ う ((( ( 。それが戦国期の関東でも流 布 し て い て、 『 鎌 倉 大 草 紙 』 の 編 者 が 掬 い あ げ た と 考 え る の が 無 理 の な い と こ ろ で あ る。 こ の 話 に 藤 沢 上 人 が 出 て く るからといって、その前提には室町から戦国のころすでに小栗滅亡やよみがえりの話が清浄光寺に管理されていたと まで言うことは到底できない。根拠が乏しすぎ る ((( ( 。そうしたことからも、この時期『をくり』の物語が清浄光寺で離 陸態勢に入っていたということはあり得ない。 2 永 禄 二 年 ( 一 五 五 九 )、 第 二 十 九 代 遊 行 上 人 体 光 は 藤 沢 道 場 再 興 に つ い て 北 条 氏 と 交 渉 し、 十 三 貫 七 百 二 十 六 文 の寺領を安堵され た ((( ( 。清浄光寺再建への歩みとして、 まずは寺領回復の動きが始まる。焼失した永正十年(一五一三) からこの永禄二年までの間を考えると、その間は廻国を続ける遊行上人とは別に、藤沢上人は駿河、近江、豊前、越 前、越前、日向の各寺院に独住してそれぞれそこで亡くなった。相模の藤沢からははるか遠く離れた地であった。そ れでは当の藤沢の寺はどうなっていたか。この間については、空白の時代ともいえる ほ どで、 ほ とんど何も分かって いない。一時駿河長蓮寺にあった本尊も永正十七 年 (一五二〇)には甲斐武田領内の一蓮寺に移されている。寺の焼 け跡は「旧跡藤沢」 「藤沢古跡」 「元藤沢」などと呼ばれているか ら ((( ( 、この地を支配した北条氏は清浄光寺を保護して 復興させる姿勢は全く示さなかったようである。門前には以前から寺と関係をもっていた非僧非俗の客寮と呼ばれる 職人や商人は残っていてそれなりの都市的展開は示していた し ((( ( 、寺域には、若干の時衆僧尼も何らかの理由でいたで あろうが、およそ積極的・求心的な動きのできる状況とは言えず、清浄光寺としては先の見えないもっとも暗い時代 であったと思われる。説経『をくり』が離陸できるような環境とは程遠かったにちがいない。