文徴明の庭園 : 明代蘇州文人の生活に関する一考
察
著者
緒方 賢一
雑誌名
日本文藝研究
巻
70
号
1
ページ
25-42
発行年
2018-10-30
URL
http://hdl.handle.net/10236/00027340
文徴明の庭園
──明代蘇州文人の生活に関する一考察──
緒 方 賢 一
はじめに
本稿では明代中後期の文人である文徴明と庭園との関係について述べ る(1)。資料としては、彼が大量に著した詩を主に用い、補助資料として散 文を用いる。当然ながら詩などという主観的要素が多分に入り込むテキス トを資料に用いる事に懸念を持たれるに違いないので、その疑念を払拭し ておきたい。まず挙げられるのは、その数が 1271 首と圧倒的であること である。さらにそのほぼ全ての詩の製作年が特定できるため変化変遷の有 無が確認できること(2)、そして詩題及び詩そのものに固有名詞が多用され ているので人間関係や彼の置かれた環境を把握する手立てとなることなど である。白居易や蘇軾などといったいくつもの官職を経た人物であれば、 その経歴から詩文との突き合わせが可能であるが、文徴明は 50 代の数年 を除いて官職に就かず、基本的に蘇州で生涯を終えている。 とりあえず文徴明という人物について簡単に紹介しておきたい。 文徴明(1470-1559)、名は壁であるが字の徴明が通用している。号は衡 ──────────── ⑴ 2014 年に出版された周道振編『文徴明集』全 3 册(上海古籍出版社)をテキ ストとして用いる。 ⑵ 文徴明生前に出版された詩集『甫田集』4 巻には、それぞれの詩に、その詩が 書かれた年次が記されている。文徴明死後に増補された『甫田集』35 巻も年 次に従って編集されている。現行の『文徴明集』はこの『甫田集』35 巻本を もとに、その他の詩文集から採録されたものを配列したものである。 25山。江蘇長洲(蘇州)の出身。祖父は文洪、父は文林、母は祁守瑞。文林 (1445-1499)は、成化 8 年(1472)に進士及第、永嘉・博平二県の知事、 南京太僕寺丞を経て温州知府となり、文徴明が 30 歳の時に 55 歳で任地に おいて没する。 古文を呉寛(1435-1504)に、書を李応禎(1431-1498)に、絵画を蘇州 画壇の重鎮である沈周(1427-1509)に学ぶ。その人となりは温和にして 高潔。科挙を十度受けるが及第しなかった。理由は八股文形式で答案を書 くことをよしとしなかったためと述懐している(「上守谿先生書」)。当時 の蘇州には高名な文人や芸術家が集まっており、文徴明もその中にあっ て、徐々に頭角を現し、徐禎卿、祝允明、唐寅とともに「呉中の四才子」 と称された(『明史』徐禎卿伝)。 嘉靖二年(1523)、54 歳の時に声望をもって翰林院待詔(従九位)とし て都に招かれ『武宗実録』の製作に参与する。同時期の翰林院には楊慎 (1488-1559)や黄佐(3)らがいた。長年の念願かなって手にした都でのポス トだったが、望郷の思いがつのり、『実録』が完成し 3 年の任期が切れた 嘉靖 5 年(1526)に帰郷。その際に黄佐と共に南下し、数々の詩を残して いる。 帰郷後は自宅の東側に玉磬山房という書斎を築き、芸術三昧の余生を送 る。彼のもとには、詩文書画を乞う者が紛紛と至ったという。詩文集とし て『甫田集』がある(4)。 小論では文徴明の庭園の再現を可能な限り試みたい。彼が過ごした庭園 は二つある。停雲館と玉磬山房である。いずれに関しても断片的な資料し ──────────── ⑶ 黄佐(1490-1566 年)、字才伯、号希齋、 号泰泉、諡文裕、広東香山(中山) の出身。正徳 16 年(1521)に進士及第。庶吉士、編修、江西僉事、広西学督、 南京翰林院の管理官、南京国子祭酒、少詹事などを務め、引退後は郷里にて泰 泉書院を起こし、後学を指導する。『明史』巻 287 に伝あり。 ⑷ 文徴明の事跡に関しては周道振『文徴明年譜』(上海・百家出版社、1998 年) が周到を極める。日本語文献では内山知也「文徴明の生涯と芸術」(『明代文人 論』〔木耳社、1986 年〕所収)が詳しい。 26 文徴明の庭園
か残っていないのであるが(もちろん現存していない)、その概略だけで も確認しておきたい。
一.停雲館について
停雲館は、父の文林が建設している。「停雲」の名は陶淵明の同タイト ルの詩にもとづく。光緒 9 年(1883)の『蘇州府志』「第宅園林」に「文 温州林宅、在三條橋西北曹家巷、中有停雲館。子待詔徴明亦居此。所勒停 雲館帖十二種、世甚珍之」とあり、その後ろに小字で文林の「停雲館所 成」と文徴明の「重葺停雲館」を載せる(5)。乾隆 10 年(1745)の『姑蘇 城図』によれば曹家巷は蘇州城の北西部に位置している。停雲館竣工につ いては文林の詩が残っている。 「停雲館初成」(6) 「屋西隙地舊生涯、小室幽軒次第加。久矣青山終老願、居然白板野人家。 百銭湖上輸奇石、四季牆根樹雜花。儘有功名都置却、酒䖇詩卷送年坡。 (建物の西側の空き地には昔から水が湧いており、そこに小室幽軒を徐々 に加えた。青山で余生を終えるのが長らくの願いであったが、やっと素朴 で隠者の住む家を手に入れた。大枚はたいて奇石を湖上に据え、垣根には 四季折々の花を植えた。功名はみなうち捨て、酒杯と詩巻を手に余生を送 る)」 「屋西隙地」とあることから、もとからある建物の西側の空き地に停雲 ──────────── ⑸ 民国 22 年(1933)『呉県志』「第宅園林」にも「文温州林宅、在三條橋西北曹 家巷、中有停雲館。子待詔徴明亦居此。所勒停雲館帖十二種、世甚珍之」と同 様の記載がある。正徳元年(1506)の『姑蘇志』には記載無し。また『文氏族 譜』では、府県志を引いたとしつつ「三條橋」が「徳慶橋」となっている。紹 定 2 年(1229)の『平江図』を参照すると、徳慶橋の方が曹家巷に近いようで ある。また『呉県志』編纂の時点で徳慶橋はなくなっていた可能性が高い。 ⑹ 『文温州集』巻一 文徴明の庭園 27館を構えたことがわかる。水が湧いていてそこに奇石を置き、草花をめぐ らせ、建物は小さく素朴な作りであった。また「初作小山」(7)では、窪地 に水をためて池を作り、土を盛り上げて小山(台)を作りそこに登ったと 記す。「家居小楼会客今得足字」(8)「宦游本夙好、負痾厭馳逐。黽勉歸故 園、䆝鳥今止宿。朋舊月一飲、輪我會再續。布韋偕縉紳、班坐人五六。! 䤤夜猶鮮、漉酒冬已"。薄言讌樓居、飽豈在粱肉。白雲堕書几、鳴鳧隔林 屋。過雨阻新暑、首夏氣清淑。及茲風日佳、泥飲勿辭足」では、招いた客 とともに詩作を行ったとある。 この停雲館がいつ頃建設されたかについては次の詩が参考になる。 「赴温留別停雲館」(9) 「書館不能別、凝情撫曲欄。心知爲樂淺、䲦覺去家 。水(石)性終在、 菊松盟又寒。殷 向兒子、好護碧琅玕。(この書斎と別れることはできな い、思いをこめて欄干を撫でる。私の楽しみなど大したものではないこと はわかってはいるが、それでもただただ家を去り難い。水や石の様子もよ うやく整い、菊と松との盟友関係は質朴なものとなった。子供達にこの庭 園を管理するよう繰り返し言い聞かせる。)」 この詩題から停雲館竣工は、温州赴任の 1498 年以前だとわかる。『文温 州集』には、この「停雲館初成」の直後に「栽竹」「陸全卿送牡丹栽」(10) という二つの詩が載るが、停雲館に植えた植物を詠っていると考えられ る。ただし停雲館竣工がいつであったかは特定しがたい。おそらくは文林 ──────────── ⑺ 「青山一簇似移來、絶磴飛梁面面開。汲水埋盆聊作沼、 巒疊嶂舊封苔。類余 䲝磈澆䘫酒、與物逍遙登有臺。老欲藏春成別塢、及時還買雜花栽」『文温州集』 巻二。 ⑻ 『文温州集』巻一 ⑼ 『文温州集』巻一 ⑽ 陸全卿は、陸完(1458-1526)の字。号水村、長洲の人。成化 23 年(1487)の 進士、太子少保、兵部尚書、吏部尚書を歴任。 28 文徴明の庭園
が南京太僕寺丞を病気で退職した 1492 年以後のことかと推定される。こ の詩から菊と松が植えられていることがわかる。また赴任に際して停雲館 を去りがたいこと、ここをしっかり管理するよう子供達に伝えたと記して いる。 次に文徴明の停雲館に関する記述を見てみたい。 まず彼には「停雲館言別図」(11)と題する絵が残っている。この絵は、残 念なことに全体を描いたものではない。4 本の真っ直ぐに伸びる木、地に は 3 個の石、画面左には腰掛けて語り合う文人らしき男性が 2 人、木々の 間には童僕が 2 人描かれている、というものである。左上には文徴明の詩 が書きつけられており、「春來日日雨兼風……」(12)と見え、末尾には「履 吉將赴南雍、過停雲館、言別輒此奉 、時辛卯五月十日」と記されてい る。「辛卯」と記されていることから、これが嘉靖 10(1531)年徴明 62 歳の時に、履吉こと友人の王寵(13)が南雍(南京の国子監)に赴く際に記 念としてこの詩と絵を贈ったものであり、絵に描かれている二人の人物は 文徴明と王寵であることがわかる。 詩や詩題及び詩序に停雲館の名がはっきりと記されているものとして は、「停雲館燕坐有懷昌國」(弘治 12・1499 年 30 歳)、「懷錢孔周徐昌國」 の 詩「停 雲 寂 寞 病 中 身、旅 夢 秦 淮 夜 夜 新。……」(弘 治 14・1501 年 32 歳)、「立春前一日昌國過訪停雲館同賦」二首(弘治 14・1501 年 32 歳)、 「停雲館與昌國閒坐」(弘治 15・1502 年 33 歳)、「癸亥除夕抱病停雲館悵然 有作」(弘治 16・1503 年 34 歳)、「人日停雲館小集」(弘治 18・1505 年 36 ──────────── ⑾ 画軸、紙本、彩色、縦 52 センチ×横 25.2 センチ、ベルリン東アジア美術館 蔵。Richard Edwards,“The Art of Wen Cheng-ming(1470-1559)”(The Univer-sity of Michigan, 1976)で は 1531 年 の 作 と 比 定 し、Craig Clunas“Elegant Depts : The Social Art of Wen Zhengming”(University of Hawai’I Press, 2004) も同様である。それに対し『文徴明集』の編纂者周道振は、嘉靖 6(1527)年 と推定するが、その根拠は不明である。 ⑿ 詩全体は「春來日日雨兼風、雨過春歸緑更濃。白首已無朝市夢、蒼苔時有故人 蹤。意中樂事樽前鳥、天際修眉郭外峰。可是別離能作惡、尚堪老眼送飛鴻」。 ⒀ 王寵(1494-1533)、字履仁、後履吉に改める。号雅宜山人。文徴明による「王 履吉墓志銘」がある。 文徴明の庭園 29
歳)、「正德庚午春仲、坐雨停雲館、秉之持佳紙索圖、戲爲寫此」(正徳 5 ・1510 年 41 歳)、「三答子重」の詩「寂寞停雲晝闔扉……」(正徳 5・1510 年 41 歳)、「歳暮撤停雲館有作」(正徳 9・1514 年 45 歳)、「初歸檢理停雲 館有感」(正徳 11・1516 年 47 歳)、「舊歳、王敬止移竹數枝種停雲館前、 經歳遂活雨中相對、輒賦二詩寄謝敬止」(正徳 13・1518 年 49 歳)、「白貞 夫夜話」の詩「金陵談笑重留連、再見停雲又隔年。……」(正徳 15・1520 年 51 歳)、「缺題」の序「正德庚辰三月既望、漫書近詩十五首於停雲館」 (正徳 15・1520 年 51 歳)、「觀瀑圖」の序「嘉靖己丑六月二十又二日寫於 停雲館中」(嘉靖 8・1529 年 60 歳)、「顧華玉宿余停雲館用韻奉 」(嘉靖 8・1529 年 60 歳)、「題畫」の序「嘉靖己酉七月畫於停雲館中」(嘉靖 28・ 1549 年 80 歳)などが挙げられる。 散文では跋文「畫册」に「丙申五月廿日、與禄之燕坐停雲館中。……」 (嘉靖 15・1536 年 67 歳)が確認できる。 また「小斎」「西斎(書斎の意)」「斎前」「小庭」「庭前」「庭中」など、 停雲館を間接的に指している詩はかなりの数がある(14)。 1510 年の年末には停雲館のリフォームを行っている。 「歳暮重葺停雲館」「偶葺南榮逸此身、也堪展席對嘉賓。窗光落几盈盈水、 簷隙封泥䉡䉡春。如復高明離故處、依然儉陋比先人。堆牀更有圖書在、歳 晩相看不厭貧。」(正徳 5・1510 年 41 歳) また小山の手直しを兄が行ったという記述も見える。「齋前小山穢翳久 矣。家兄召工治之。剪薙一新、殊覺秀爽。晩晴獨坐、誦王臨川『掃石出古 色、洗松納空光』之句、因以爲韻賦小詩十首」(正徳 3・1508 年 39 歳)。 また同詩其一には「埋盆作小池、便有江湖適」とあり、小さな池を作った ことが確認できる。文林の時にも池を作ったという記述が見られたが、文 徴明 39 歳の時点で以前の池はなくなっていたのであろうか。 ──────────── ⒁ 他人の庭園や書斎の場合には「昌國西齋」「錢氏西齋」「子畏小樓」「陳氏池亭」 というように頭に「某某の草堂」「某某の園亭」などと記されるため、単に 「小斎」などと記されている場合は自身のものを指すと考えてよいと思われる。 30 文徴明の庭園
北京赴任帰還後は自身の書斎である玉磬山房が建設されるため、停雲館 の名はあまり見られなくなる。徴明にとって停雲館は、友人と会い(15)、 人を呼んで宴会を催し(16)、一人でまたは友人達と詩作にふけり、絵画を 作成する場所であった(17)。また茶を点て香を焚き(18)、囲碁を打ち(19)、四 季を、雨や風を(20)、草花を感じる場であった。さらに「重葺停雲館」に よれば図書を保管する書庫でもあった。そこは社交の場であり、また個人 的な空間でもあり、芸術鑑賞、芸術創作のための、つまり幾重もの層を持 つ多面的な空間であった。一方でこの空間から排除されているのは、日常 の世俗的な欲求や生活感である。 ちなみに飲食に関しては、彼は淡泊で、美食や酒についての作品はほと んど見られない。ただ蟹だけは好物だったようで、「某某から蟹が届く」 といった詩がいくつか確認できる。 ──────────── ⒂ 「停雲館與昌國閒坐」「山齋雨歇晝沈沈、得與幽人一散襟。矮榻薰消、茗碗、小 窗棋局轉桐陰。笑談未覺風流減、違闊翻憐契分深。莫自匆匆騎馬去、遶簷斜日 亂蝉吟。」 ⒃ 「人日停雲館小集」(『人日書畫巻』作「乙丑人日友人朱君性甫・呉君次明・錢 君孔周・門生陳淳・淳弟津、集余停雲館、談讌甚歡、輒賦小詩樂、客是日期不 至者、邢君麗文・朱君守中・塾賓閻菜蘭」)「新年便覺景光遲、猶有餘寒宿敝 帷。寂寞一杯人日雨、風流千載草堂詩。花枝未動臨佳節、菜飯相淹亦勝期。春 草到今深幾許、小山南畔草痕知。」(弘治 18・1505 年 36 歳)、詩題「病起辱次 明・孔周・君求・履約・履吉䔬樽過訪」(正徳 7・1512 年 43 歳) ⒄ 「觀瀑圖」序「嘉靖己丑六月二十又二日寫於停雲館中」「小堰迴塘曲曲通、一溪 寒瀬漱松風。忙身見畫剛生愧、安得身閒似畫中。」、「題畫」序「嘉靖己酉七月 畫於停雲館中」「松竹人家在崦西、水迴山抱路常迷。幽窗相對談今昔、更聽林 間雜鳥啼。」 ⒅ 跋文「畫册」「丙申五月廿日、與禄之燕坐停雲館中。時夏雨崇朝、坐無雜客、 煮茗焚香、清談抵暮。禄之出示素册索畫、余不能辭、漫爲寫此、共得十四幅。 此老人寄興一時、工拙非所較也。不知禄之以何如」 ⒆ 「停雲館與昌國閒坐」「山齋雨歇晝沈沈、得與幽人一散襟。矮榻薰消、茗碗、小 窗棋局轉桐陰。笑談未覺風流減、違闊翻憐契分深。莫自匆匆騎馬去、遶簷斜日 亂蝉吟。」昌國とは徐禎卿(1479-1511)のこと。字昌䖫、一字昌国、呉県の 人。 ⒇ 「春雨」「春雨蕭蕭草滿除、春風吾自愛吾廬」(嘉靖 8・1529 年 60 歳) 文徴明の庭園 31
二.玉蘭堂について
次に玉蘭堂について考えてみたい。これに関しては詩が 5 首しかなく、 不明なところが多い。北京赴任前の詩に現れているので、停雲館と何らか の関係があるのかもしれない。停雲館の一部がそう呼ばれたのか、それと も別の建物として建っていたのか。文林が言及していないところから、文 林の温州赴任後に建設もしくは命名された可能性が高い。また徴明 48 歳 の詩「 金陵楊進卿」(21)にその名が初めて登場するので、彼自身が建てた のかもしれないが、それを示す証拠はない。 「驟雨」 「引雷破柱蟄龍驚、萬點飛濤木葉鳴。何處長雨吹海立、一時行潦看渠成。 不愁涇渚迷牛馬、願瀉天河洗甲兵。秋到江南今幾日、玉蘭堂下待涼生。 (雷鳴が隠れている龍を驚かせ、激しい雨粒に葉が音を立てる。どこかで 長雨が を沸き立たせ、地を流れる水は水路となる。水流が牛馬を困らせ ることはともかく、願わくば兵士たちを洗ってやって欲しい。秋が江南に も訪れた、玉蘭堂にて涼風を待つ)」(正徳 14・1519 年 50 歳) 「夏日閒居」 「門巷遊深白日長、清風時灑玉蘭堂。粉牆樹色交深夏、羽扇茶甌共晩涼。 病起經時疏筆硯、晏居終日懶衣裳。偶然無事成偸惰、不是栖遅與世忘。 (門の奥までに陽光が差し込んでいるが、清風が時に玉蘭堂をさわやかに してくれる。白壁に木々の緑が影を落とす盛夏に、扇や湯飲みを手に涼夜 を過ごす。病床から起きたものの筆硯とも間遠になり、ブラブラとして服 ──────────── 「蹤跡憐君似雪鴻、南來歳歳逐秋風。無端白髪重逢處、又是黄花細雨中。十載 聲名慚海内、一時冠蓋夢江東。玉蘭堂上瞻行色、欲咏江雲苦不工」(正徳 12・ 1517 年 48 歳) 32 文徴明の庭園を整えるのも億劫である。たまたま何もないから怠けているだけで、隠居 して世の中のことを忘れたわけではない)」(正徳 14・1520 年 51 歳) 「丙戌十月致仕出京二首・其二」 「白髪蕭疏老秘書、倦游零落病相如。三年漫索長安米、一日歸乘下澤車。 坐對西山朝氣爽、夢回東壁夜窗虚。玉蘭堂下秋風早、幽竹黄花不負我。 (白髪もまばらな老いた秘書(の私)、倦み疲れ落ちぶれた私はまるで病気 の司馬相如である。三年間都で働き、やっと帰ることができる。西山に対 坐すれば朝の気が私を爽快にする、東壁の何も映らない夜の窓を夢に見 た。玉蘭堂では早くも秋風が吹いているだろう、竹や菊よ私を待っていて おくれ)」(嘉靖 5・1526 年 57 歳) これは北京での任期が終了し、帰途についた時の詩である。十月のこの 時、玉蘭堂では秋風が吹いていることだろうと詠んでいる。前二つの詩と 合わせると、玉蘭堂は爽やかな風の吹く清らかな空間として捉えられてい ることがわかる。 「九日招孔周諸君」 「芙蓉波冷桂風涼、晤語蕭疏白髪長。青眼平生幾親舊、黄花荏苒又重陽。 越樽久湛金華露、呉蟹初肥笠澤霜。擬合羣賢酬一醉、呼兒爲掃玉蘭堂(22) (芙蓉の生える水面は波が冷たく桂に吹く風は涼しく、話をしているこの 私の長く伸びた白髪はまばら。普段から親しい人などどれほどもいない、 菊の季節も徐々に過ぎてまた重陽が来た。越州の酒樽は金華の露に満たさ れ、呉の蟹は笠沢に霜が降りる頃ようやく肥える。賢人たちを招いて一献 酌み交わすのだから、子らに言いつけて玉蘭堂を掃除させよう)」 ここでは来客に備えて子供に玉蘭堂の掃除を言いつけている。 ──────────── 編年不詳。 文徴明の庭園 33
また文徴明の孫である文肇祉に「玉蘭堂即事」という詩があり、その時 点で玉蘭堂が残っていたことは確認できる(23)。ちなみに現在の拙政園内 には玉蘭堂という名の建物が建設されているが、この停雲館の玉蘭堂にち なんでいると思われる。
三.玉磬山房について
文徴明が北京での任期が終わり蘇州に帰った後の 1527 年に建設した建 物である。「玉磬」とは玉器でできた打楽器であるが、詩にもよく詠われ る。例えば元稹「見人詠韓舍人新律詩因有戯贈」の「喜聞韓古調、兼愛近 詩篇。玉磬聲聲徹、金鈴箇箇圓」、李白「詠方広詩」「滿窗明月天風静、玉 磬時聞一兩聲」などがある。前者は古詩の素朴な調べを譬え、後者は夜の 静謐さをより一層際立てる効果音として用いられている。いずれにしても 「玉磬」は詩情に満ちたイメージをその語に担わされていることが理解で きる。「山房」は、原義は山中の家や別荘であるが、ここでは隠者の隠れ 住む書斎を表していよう。文徴明は詩の中で時々停雲館を「山斎」(24)と、 そして自分を「山人」と表現しているが、それと同様である。 文徴明の次男である文嘉「先君行略」(25)に次のようにある。 「到家、築室於舎東、名玉磬山房。樹兩桐於庭、日徘徊嘯咏其中、人望之 若神仙焉(〔北京から帰り〕家に着くと、室を家屋の東側に築き、玉磬山 房と名付けた。二本の桐を庭に植え、日々そこを歩きながら詩を吟じた が、その様子を見た人は神仙のようだと言った)。」 ──────────── 『文氏五家集』巻 13。ただしこの玉蘭堂が文徴明生存時のものと同一であるか は確認できない。 例えば「 閻秀卿」の「坐添佳客山齋重」(弘治 15・1502 年 32 歳)や「病起 書事」の「十日山齋不賦詩」(弘治 17・1504 年 35 歳)、「雪後庭中梅花盛開病 目不能出看黙誦成詠」(弘治 18・1505 年 36 歳)など。 35 巻本『甫田集』附録。 34 文徴明の庭園「玉磬山房」(又は「新闢小齋燕坐有作(新たに小斎を闢き燕坐して作る 有り)」に作る) 「橫窗偃曲帶修垣、一室都來斗樣寛。誰信曲肱能自樂、我知容膝易爲安。 春風薙草通幽径、夜雨編籬護藥欄。笑殺杜陵常寄泊、却思廣廈庇人寒。 (横長の窓が屈曲し、まわりには垣を巡らし、部屋はみな一斗ほどの広さ。 私が清貧さを楽しんでいることを誰も信じないが、この小さな空間でこそ 容易に心が安らぐのだ。春風が草を撫でてほの暗い道を吹き抜け、垣根が 夜の雨から欄干を守る。杜甫が狭い宿に泊まりながら広い屋敷があれば 人々の寒さを覆うことができると言っていたのが可笑しく思われる)」(嘉 靖 6・1527 年 58 歳) 『文徴明集』に「玉磬山房」の名はあまり出てこない(26)。おそらく「小 斎」「山斎」などと表現されていると思われる。ただその場合、それが停 雲館を指すのか、玉磬山房を指すのかは不明となるが、北京より帰還して 以降のものは玉磬山房を指すと考えてよいように思う。 詩題「十月十三夜、與客小醉〔壯陶作「十月十三夜子朗小酌玉磬山房微 醉」〕起歩中庭、月色如晝時。碧桐蕭疏、流影在地。人境 寂、顧視欣然。 因命童子烹苦茗啜之還。坐風簷、不覺至丙夜。東坡云、『何有無月、何處 竹柏影、但無我輩閒適耳』。嘉靖壬辰徴明識」(嘉靖 11・1532 年 63 歳) 客と酒を飲みやや酔っぱらいつつ玉磬山房の庭を歩くと、月が明るくて まるで昼のようである。碧桐が地に影を落とし、人も周りもシンとしてい ──────────── 玉磬山房の名が記されているものを確認できた限りで載せておく。跋文「醉翁 亭記」の末尾に「時嘉靖三十年辛亥七月二十四日、長洲文徴明書於玉磬山房、 時年八十有二(嘉靖 30・1551 年 82 歳)、「溪山深秀圖」の序文「石田先生䇭黄 子久『溪山深秀圖』、是正德元年春寫于金陵弘濟寺、䋻今嘉靖戊午、五十餘年 矣。而筆 畦逕、真趣天然、不下于子久、予每每在念。入春來、久雨積悶、無 以遺懷、偶客攜此卷至玉磬山房見示、視之令人醒然、不忍去手。淹留半載、䇭 臨一過、聊彷彿萬一、并賦小詩」(嘉靖 37・1558 年 89 歳) 文徴明の庭園 35
る。童僕に苦茶を入れさせて、風の吹く軒先に坐っていると、深夜になっ たことも気づかない。 玉磬山房を詠った友人の詩をいくつか紹介しておきたい。 湯珍(27)「文太史新成玉磬山房賦詩奉賀」 「精廬結搆敞虚明、曲折中如玉磬成。藉石浄宜敷翠樾、栽花深許護柴荊。 壁間歳月藏書舊、天上功名拂袖輕。草罷太玄無客到、晩涼高棟看雲行。 (この度構えた精巧な庵は広々として明るく、それは曲折している石から 玉磬が生まれるようだ。石をきれいに木々の下に敷き詰めて、花を植えて 書斎を守らせる。壁には古い蔵書を並べ、功名など相手にしない。『太玄』 を書く手を止める、客の一人も来ない、涼夜に高階にて雲の行くを見る)」 文徴明が玉磬山房を建てたことをことほぐ詩である。 顧璘(28)には玉磬山房を詠った二首の詩があるが(29)、二首目を紹介した い。 「寄題文徴仲玉磬山房二首・其二」 「小搆山房護竹垣、道人行坐自云寛。湘廉散映圖書亂、石枕横支夢寐安。 世禄後先三曳綬、詩懷今古一凭闌。堪怜海月經檐白、正照前溪綠水寒。 (山房を構えて竹垣をめぐらし、道人は何をするのもゆったりと言う。湘 竹の簾は散乱した本に影を落とし、玉枕に横たわって安らかに眠る。世は お金のために常に官職を求め、詩の今昔を思って欄干に寄り掛かる。愛す ──────────── 湯珍、字子重、長洲の出身。歳貢に応じて崇徳県丞となる。詩文集に『迪功 集』あり。「文太史新成玉磬山房賦詩奉賀」は曹学佺(1574-1646)撰『石倉歴 代詩選巻』巻 496 に採録されている。 顧璘(1476-1545)、字華玉、号東橋居士、蘇州の出身。弘治 9(1496)年の進 士。広平県知事、南京刑部尚書などを務める。文徴明による墓志銘がある。 『顧華玉集』「山中集巻四」「寄題文徴仲玉磬山房二首・其一」は「曲房平向廣 堂分、壁立端如礼器陳。拊瑟便應来鳳鳥、折腰那肯揖時人。詩華價并金聲賦、 壽酒歡生玉樹春。法象泗濵真不忝、画梁文藻翠光匀。」 36 文徴明の庭園
べきは海上の月が軒先をかすめて、小川の冷たい水を照らし出す様)」 二首目のこの詩は玉磬山房の様子を詠っている。周囲には竹垣がめぐら されており、湘竹のすだれが掛かり、書物が散乱し、夏用の玉器の枕が置 かれているとある。 ここまで見てきた停雲館と玉磬山房の位置関係簡単な図にしてみると以 下のようになる。 ここで少し系統の異なる文献を紹介しておきたい。『文氏族譜続集』(30) という書物がある。族譜というのは宋代あたりから中国で盛んに作られる ようになった一族の系譜をまとめた書物である。文氏一族も族譜を編纂し ているのであるが、その中の「歴世第宅坊表志」に「待詔公停雲館三楹、 前一璧山、大梧一枝、後竹百餘竿。晤言室在館之東。中有玉蘭堂、玉璧山 房、歌斯樓(文徴明の停雲館は建物が三列になっており、前には璧山〔石 の山〕が一つ、大きな桐の木が一本、後ろには竹が百本余りある。晤言室 は館の東にある。その中には、玉蘭堂、玉璧山房、歌斯樓がある)」とい う一文がある。この記述に拠れば、停雲館の東側には晤言室という建物が ──────────── 清、文含重修。中国西南文献叢書二編第二輯・西南稀見叢書文献第三巻(北 京、学苑出版社、2009 年)所収。 「文家邸宅図」 文徴明の庭園 37
あり、さらにその中に玉蘭堂、玉璧山房、歌斯樓の三つがあると記述され ている。つまり今まで見てきた建物の配置と随分異なっているのである。 これをどう解釈すべきだろうか。まず晤言室と歌斯樓は、文徴明の詩文に は見られず、彼の存命中に存在したかは現存するテキストからは確認でき ない。『文氏族譜続集』は、清朝雍正年間に子孫の文含が編んだ族譜であ り、文徴明の時代からは 200 年ほど隔たっている。文含は『雁門家集』か ら上の記述を引いているが、この『雁門家集』なる書物が、いついかなる 人物によって編纂されたのかは現在不明である。中国庭園の特徴という観 点からこのことを考えてみたい。 例えば拙政園でいえば、王献臣が庭園を作った最初期(1509 年∼)に、 文徴明が「王氏拙政園記」を作り、そこには「嘉実亭」「得真亭」「小飛 虹」「聴松風処」などの施設が記されているが、これらの名を冠する建築 物は今の拙政園にも残っているものの、当然全くの別物である。そもそも 初代園主王献臣が亡くなって二代目が継承した時に拙政園はバクチのかた に他人に奪われ、その後分割され、所有者の思うままに経営されてきたの である。名称が一致したのは後世の所有者がたまたま創建時のものを採用 したに過ぎない。 停雲館や玉磬山房についても同様のことが起こったと考えるのが自然で はないだろうか。つまり名称だけが残っており、後から建てた建築物に由 来ある名を付けたということではないのか。「晤言室」「歌斯樓」といった 名前が文徴明のテキストに全く現れないのがその証左といえよう。
四.文氏庭園に見られる植物
停雲館と玉磬山房には様々な植物が植えられおり、主人の文徴明や客人 を喜ばせてきた。ここでは詩題及び詩に表現された植物の種類を確認して いきたい。 蘭:「小齋盆蘭一幹數花、山谷所謂『蕙也初秋忽抽數幹芬馥可愛』因與 38 文徴明の庭園次明道復賞而賦之」(31)「風泛崇蘭滿几香」(32) 黄梅:「漠漠黃 生濕潤」(33) 梅:「西齋種梅」(34)「穡事望梅霖」(35)「雪簷和霧看梅花」(36)「想見梅花太 痩生」(37) 桃:「桃花三月已終旬」(38) 松:「獨有蒼松領歳華」(39) 竹:「紙窗獵獵風生竹」(40)「午翠揺窗竹色虚」(41)「五月十三日種竹」(42) 梧・桐:「梧桐小砌陰如許」(43)、「徑草侵衫色、庭梧生晝陰」(44)「小窗棋 局轉桐陰」(45)「虚井梧桐漠漠烟」(46)「把酒臨軒疏雨潤、捲簾深院碧桐 涼」(47) 海棠:「庭中海棠一枝連雨謝去作詩悼之」(48)「山齋十日無行迹、開却海 棠無限花」(49)「微風簾幙海棠花」(50)「海棠開遍小堂前」(51)「庭中海棠爲 ──────────── 詩題(正徳 2・1507 年 38 歳) 「題蘭」(嘉靖 7・1528 年 59 歳) 「停雲館燕坐有懷昌國」(弘治 12・1499 年 30 歳) 詩題(弘治 15・1502 年 32 歳) 「五月」(嘉靖 36・1557 年 88 歳) 「病目愁坐有懷陳淳」(弘治 18・1505 年 36 歳) 「雪後庭中梅花盛開病目不能出看黙誦成詠」(弘治 18・1505 年 36 歳) 「春日懷陳淳・其二」(弘治 17・1504 年 35 歳) 「歳暮齋居二首・其一」(弘治 13・1500 年 31 歳) 「歳暮齋居二首・其一」(弘治 13・1500 年 31 歳) 「病中承諸友過訪」(弘治 16・1503 年 34 歳) 詩題(正徳 6・1511 年 42 歳) 「停雲館燕坐有懷昌國」(弘治 12・1499 年 30 歳) 「五月」(嘉靖 36・1557 年 88 歳) 「停雲館與昌國閒坐」(弘治 15・1502 年 33 歳) 「中秋夜西齋看月」(弘治 15・1502 年 33 歳) 「病中承次河䔬樽過訪」(嘉靖 34・1555 年 86 歳) 詩題(弘治 14・1501 年 31 歳) 「春日懷陳淳・其一」(弘治 17・1504 年 35 歳) 「清明日陳淳過訪」(弘治 18・1505 年 36 歳) 「小庭海棠盛開適家人不在、不能設客、客有許載酒者、亦竟失約、意思索然爲 不小句」(正徳 3・1508 年 39 歳) 文徴明の庭園 39
風雨所敗」(52)二首 葵:「庭下戎葵高十尺」(53) 柳:「游人漫自穿花柳」(54) 牡丹:「盡斂東風屬牡丹」(55) 菊:「詠庭前叢菊」(56) 芙蓉:「手把芙蓉驚欲暮」(57)「倚闌涼思芙蓉露」(58) 文氏の庭園には大体以上のような植物が植えられていたようである。な お庭園では草花が必ず栽培される。これほどの種類を手入れするのは大変 だったであろうが、いずれの季節もまんべんなく花の色彩を楽しむよう配 置されていたともいえる。春には桃や海棠がピンクの花を咲かせ、夏には 牡丹や芙蓉が大きな花びらを開き、秋には菊が庭先を黄色く彩り、冬には 梅や黄梅が寒空の下に小さなつぼみをつける。 植物全体に再度目を向けると、文徴明の詩に特に多く出現するのは竹と 梅である。玉磬山房が竹の垣根で周囲を囲まれていたことは先に確認し た。また、拙政園の園主王獻臣が竹を停雲館に贈ってくれたことを感謝す る詩も残っている。梅は最晩年に「……次第梅花春滿目、可容愁到酒樽 前」(59)と述べた詩が残されている。薔薇(玫瑰)と椿(山茶)、藤に関す る言及がないが、それらは植えられなかったのであろうか。友人の王獻臣 が経営する拙政園には「玫瑰柴」という一区画が設けられ、また椿は拙政 園を代表する花と言われ、多くの詩に詠われている。また拙政園内には文 徴明が植えたといわれる藤の木が今も残っているが、自身の庭園には植え なかったのは、棚を作る必要のある藤を配置するための空間が文氏のつつ ──────────── 詩題(正徳 4・1509 年 40 歳) 「庭前蜀葵」(嘉靖 8・1529 年 60 歳) 「春日」(正徳 5・1510 年 41 歳) 「庭中海棠一枝連雨謝去作詩悼之」(弘治 14・1501 年 31 歳) 詩題(正徳 7・1512 年 43 歳) 「新秋」(正徳 15・1520 年 51 歳) 「八月十六夜對月」(正徳 15・1520 年 51 歳) 「己未元旦」(嘉靖 38・1559 年 90 歳) 40 文徴明の庭園
ましい庭園内に確保できなかったためではないだろうか。もしくは庭全体 の調和を藤棚が乱してしまうと考えたのかもしれない。
終わりに
最後に停雲館と玉磬山房の特徴を今一度確認しておきたい。 両者は様々な名前で呼ばれるが、そのいくつかを挙げておくと「西 斎」(60)「空斎」(61)「茅屋」(62)などがある。また停雲館には「南楼」と呼ば れる楼閣があり登ることができるようになっている(63)。停雲館の両壁に は図書が並んでいる「兩壁圖書一炷香」(64)。絵を描くアトリエである「與 逵甫燕坐小齋爲寫竹石」(65)。停雲館の前には小さな山があったが、その姿 があまりよくなかったので、兄が工事させた。また「怪石吁可拜」(66)「怪 石」とあるのは太湖石などの形の変わった石が置いてあったのであろう。 建築、植物、石、山、水など庭園を構成する要素は基本的に備わっている が、決して贅を凝らしたものではない。明代中後期は拙政園をはじめとし て広大で瀟洒な庭園がいくつも作られたが、文徴明の庭園はそのようなも のではなかった。経済的な理由もあったのかもしれないが、その辺りは文 献では確認できない。ただその生真面目さを友人の唐寅にからかわれた り、王世貞の「文先生伝」に「子どもでも(文徴明)先生の名前を知って おり、まちなかで誰かが似合わない善行を施したりすると、周りに『あん ──────────── 詩題「秋日西齋」(正徳 7・1512 年 43 歳) 「除夕感懷」「江城日暮生寒烟、空齋雨收更漏傳……」(正徳 12・1517 年 48 歳) 「春日」「茅屋泥香燕飛」(正徳 5・1510 年 41 歳) 詩題「穀日孔周・子重・禄之南樓小集」(嘉靖 19・1540 年 71 歳)、詩題「月夜 登南樓、有懷唐子畏」(弘治 7・1494 年 25 歳) 「立春前一日昌國過訪停雲館同賦・其二」(弘治 14・1501 年 32 歳) 詩題(弘治 15・1502 年 33 歳) 「齋前小山穢翳久矣。家兄召工治之。剪薙一新、殊覺秀爽。晩晴獨坐、誦王臨 川『掃石出古色、洗松納空光』之句、因以爲韻賦小詩十首・其二」(正徳 3・ 1508 年 39 歳) 文徴明の庭園 41たも文なにがしかね』とからかわれた」(67)と記されるほどであったのであ れば、その庭園はおそらくさぞ質朴なものであったであろう。 (おがた けんいち・関西学院大学非常勤講師) ──────────── 『弇州山人四部稿』巻 83 42 文徴明の庭園