.はじめに 四方を海に囲まれた日本では、古来より人的交流や物資輸送の重要な手段として、山間部の 内陸部と大都市や沿海域とを結ぶ河川の水運が発達してきた。特に、幕藩体制が成立した近世 初期には、年貢米を中心とした物資の大量の輸送需要を担うほぼ唯一の手段として舟運が大き く発達し、各地の河川で航路の開発が行われ、またそれぞれの河川の状況に適した舟が発達し た ) ) 。しかし、近代化の過程で、物資輸送の中心が鉄道や道路によるトラック輸送が発達す るとともに舟運や筏流しなど河川における水運はほぼ完全に姿を消した。 しかし、京都府の保津川や熊本県の球磨川などいくつかの河川では、河川舟運は観光川下り に姿を変え、地域の重要な観光資源となるとともに、水運文化を現在に伝えている(表 ))。 また、和歌山県の北山川や長野県の天竜川では材木輸送に活躍した筏流しが復活し、新たな観 光資源として注目されているほか、佐渡島ではたらい舟の建造方法を米国人木造船研究家が記 録し、技術伝承に成功し、現在では観光名物にもなっている。 川下りは経済的に つの側面から評価することができる。第 は、観光産業としての経済波 及効果など地域活性化の側面である。第 は川下りの持つ様々な価値の側面であり、川下りを 取り巻く様々な人々のつながりを通じてもたらされる価値である。川下りにおける操船技術や 造船技術、航路確保の技術はそれぞれの河川の特徴を反映した固有のものであり、また 船頭 の里 のような文化的景観・歴史的景観も育んできた。しかしながら、これまでは観光産業と しての川下りがもつ文化的な背景が十分に顧みられることは少なかったために、時代とともに 失われてきたものも多い。また、自然の河川を利用した川下りの性質上、天候などにより安定 した収入の確保が難しい場合も多く、また舟や筏の操縦や建造には熟練を要するため、各地で 後継者育成は大きな困難に直面している。さらに、多くの河川では、水質悪化やごみの急増、
水運文化の再生と地域における
文化ツーリズム振興に関する研究
原
田
禎
夫
さらに治水を重視した河川改修が進むなど、観光川下りの振興には厳しい状況が続いている ) 。 現在では、地域のこうした水運に関わる技術や文化を、地域の文化財と位置づけ、公的な支 援が行われている事例も見られる。その背景には文化遺産を含め、文化的財は公共財的な性 質、すなわち、文化的な財( )は市場価値だけではなく、排除不可能で非競合 的な価値を備えていることがある。 ( )はこうした文化的な財がもつ非市場的価値 として、オプション価値( )、存在価値( )、威信価値( )、 遺贈価値( )、教育価値( )を指摘し、なんらかの形 での公共政策の必要性を述べた。 そこで本研究では、国内の観光川下り事業者への聞き取り調査や関係者への実地調査をもと に、わが国の観光川下りを取り巻く課題や文化資源としての価値について文化ツーリズムの観 点から考察する。本稿の構成は次の通りである。 節では京都府亀岡市を流れる保津川におけ る保津川下りを事例に、環境保全活動と水運文化の伝承について述べる。 節では、長野県飯 田市を流れる天竜川における天竜舟下りを事例に、環境保全活動とそれをもとにした新たな観 光資源の創出について述べる。 節では、和船の船大工であるダグラス・ブルックス氏の取り 組みを事例に、伝統的な木造和船の造船技術の伝承と文化ツーリズムについて述べ、 節で本 稿のまとめとする。 表 全国河川旅客船協会加盟事業者の旅客輸送実績(平成 年度) 事業者名 都道府県 乗船客数(人) 保津川遊船企 京都府 げいび観光センター 岩手県 大歩危峡観光遊船 徳島県 東鉄商事 岐阜県 鬼怒高原開発 栃木県 最上川芭蕉ライン観光 山形県 熊野交通 和歌山県 天竜舟下り ・天竜ライン遊船 長野県 阿賀の里 新潟県 くま川下り 熊本県 事業者名 都道府県 乗船客数(人) 出所 全国河川旅客船協会提供の資料をもとに筆者作成
.保津川下り(京都)における取り組み 現在では京都を代表する観光地の一つとなっている保津川下りは、慶長 年( )の角倉 了以による保津川開削を機に始まり、全国の川下りの中でも最古の歴史を有するとともに、運 航距離、旅客数、所属船頭数とも最多を誇っている。 上林( )によれば、江戸時代にも荷舟に有償で人を乗せていたほか、観光として保津川 下りを個人的に楽しまれていた記録は存在しているとのことである ) 。明治時代になると、ま ず欧米人が観光としての保津川下りに注目するようになり )、小谷( )によると、明治 年( )に京都 園部間に京都鉄道が開業した同じ年に城丹運送株式会社が設立され、保津 川での観光川下りが始まったとされる。そして、明治 年( )には、保津川遊船株式会社 が設立され、本格的な観光川下りへと転換することとなる )。戦後の一時期は阪急電鉄などに よって運営された時期もあったものの、激しい労働争議の末、労働組合( 船頭組織)による 自主運行を経て、 年より現在の保津川遊船企業組合(以下、保津川遊船)という船頭衆の 組合組織として運行されている。このような運営形態は、わが国の観光川下り事業者でも唯一 のものである ) 。 平成 年( )の嵯峨野観光鉄道開業時には大きく乗船客数を伸ばしたものの、その後の 相次ぐ天災による運休が相次いだこともあって、乗船客数は漸減傾向にあるが、近年は外国人 観光客の急増もあって、年間 万人前後の乗船客数を維持している(図 )。 .水運文化の伝承と河川管理のレジティマシー 保津川の河川利用を巡っては、現存する国内最古の川下りであり 年を超える歴史を持つ 保津川下りの船頭衆が実質的な河川管理におけるレジティマシー( )を保ってき た。ここで興味深いのは、武士や商人、資本家という支配階級ではなく、労働者階級にすぎな い船頭たちが保津川の利用に関するレジティマシーを長い時間の中で獲得してきたということ である ) 。宮内( )は、地域の共同体のような集団がレジティマシーを獲得する要件とし て、 地域性、 歴史性、 シナリオ力、 発言力、 当事者性、 創造性、 共同性、 感 性を挙げた )。保津川水運にかかるレジティマシー獲得のプロセスにおいては、これらの要件 に加えて 技術性 、すなわち巨岩と急流が連続する保津峡という流域随一の難所を安全に、 しかも速く下ることができる操船の特殊技術や、船頭自らが行ってきた航路の維持管理作業で
ある 川作 が、古代の筏流しの時代からこの区間の水運を担ってきた保津と山本(ともに京 都府亀岡市)という つの集落の人々に、流域の中でも際立って強いレジティマシーをもたら した ) )。 図 保津川下りの乗船客数の推移 出所 保津川遊船企業組合提供の資料をもとに筆者作成 図 川作による岩石除去のようす 写真提供 保津川遊船企業組合
日本の多くの河川では、特に第 次世界大戦後の河川水運や内水面漁業の衰退や、ダム、高 水工事の普及が人々と河川とを物理的にも遠ざけ、その関係性に大きな変化をもたらし、河川 環境への人々の関心の低下をもたらした。しかし保津川では、物資輸送から観光川下りに姿を 変えたものの、今日まで人力の和船による伝統的な形態での水運が続き、河川管理のためのさ まざまな伝統技術も現代まで引き継がれることとなった。そして、そのことが集落を基本単位 とした伝統的な運営形態をも必然的に残すこととなった ) 。 .川ごみ問題と保津川下り 平成 年( )には嵯峨野観光鉄道が開業し、京都を代表する観光名所の一つへと成長し たこともあって、全国の他の観光川下りとは対照的に保津川下りの乗船客数は景気後退の影響 も大きく受けることなく推移してきた。しかし、そのような中で新たな環境問題として持ち上 がってきたのが漂着ごみ問題であった。曲がりくねった急流が続く保津峡では大雨のたびに ペットボトルやさまざまなシート類、袋類などのプラスチック製品が 年代半ば以降大量に 漂着するようになった。従来から、毎年 月 日の春の川開き前には船頭による保津峡の一斉 清掃活動が毎年 月下旬に行われてはいたものの、それは行政の補助金をもとにした乗船客が 激減する冬季の失業対策として始まったものであった。またごみは年中を通して発生するた め、年に 度の清掃活動だけでは追い付かない事態となった。 こうした中で、若手船頭らが平成 年( )に自主的な活動として清掃活動をスタートさ せた。現在、 代目となる保津川遊船エコグリーン環境対策委員長を務める森田孝義氏への聞 き取り調査でも、徒弟制が色濃く残る組合の中では、技術的に一人前と認められるようになる までは、清掃活動の組織化をベテラン船頭たちに提案することは難しかったという。彼らは、 必ずしもそれまでの世襲的な流れの中で船頭となったものばかりではなく、他業種からの転職 者が多かったことも特筆すべきことである。彼らは、漂着ごみ問題という、いわばそれまで 仕方がない どうしようもない と諦められていた問題に、観光産業というビジネスの視 点からも看過できない問題として、最初は個人レベルから積極的に取り組むようになった。そ して平成 年( )の保津川下り開航 年記念事業を契機として、市民や行政も一体と なった保津川の清掃活動が行われ、組合内においても エコグリーン環境対策委員会 が平成 年( ) 月に設立され、保津川の環境保全に組織的に取り組むようになった。さらに、 船頭らも理事として参画する 法人プロジェクト保津川が設立され、市民や行政との協働 のプラットフォームが確立され、現在に至っている )。
保津川遊船の船頭らの取り組みは、川ごみの問題提起が地元だけに留まらず、 との連 携によって、その対象範囲を全国レベルに置いていることも特筆される。環境省や全国の などが実施する海洋ごみ対策の会議に、保津川遊船の船頭らも参加し、川ごみの現状を 訴えている ) 。 こうした取り組みもあり、地元の亀岡市では第 次総合計画において、内陸部の自治体とし ては全国で初めてとなる 漂着ごみの発生抑制 に取り組むことを掲げ(亀岡市、 )、平 成 年( ) 月には内陸部初開催となる 第 回海ごみサミット 亀岡保津川会議 を 誘致、開催した。また、このサミットでの取り組みをさらに発展させるために 川と海つなが り共創プロジェクト が市内の の団体や行政機関によって組織され(表 )、活発な活動を 続けている。 こうした動きを受けて、保津川遊船では保津川下りの運行区間である亀岡市から京都市右京 区嵐山までの保津峡区間での清掃活動を組み込んだエコツアーを 川と海つながり共創プロ ジェクト などとの連携により実施している。 このエコツアーは、高校や大学の教育旅行の一環として、また企業や行政機関の研修やプロ 表 川と海つながり共創プロジェクトの構成団体 団体種別 団体名 地域団体 亀岡市自治会連合会 事業者など 保津川遊船企業組合 西日本旅客鉄道株式会社(亀岡駅) 嵯峨野観光鉄道株式会社 保津川漁業協同組合 京都農業協同組合 亀岡商工会議所 一般社団法人亀岡市観光協会 学校 京都学園大学 非営利団体 法人亀岡 人と自然のネットワーク 法人プロジェクト保津川 公益財団法人亀岡市環境事業公社 保津川の世界遺産登録をめざす会 行政機関 京都府南丹広域振興局 亀岡市 団体種別 団体名 出所 筆者作成
モーション活動の場として多数活用されているほか、前述の 川と海つながり共創プロジェク ト の中心的な事業である こども海ごみ探偵団 事業でも清掃ツアーが実施されている )。 一連のエコツアーの特徴は、清掃活動だけではなく、 (国際海岸クリーンアップ)デー タカードを用いて回収したごみの組成調査を実施し、収集したデータを参加者だけではなく、 海洋ごみの発生抑制策の立案に向けた基礎的データとして国内外の や などとも共 有している点が挙げられる。 このように、保津川下りにおける環境保全活動の取り組みは、船頭たちだけではなく、地元 の市民や行政機関との協働のプラットフォームを確立し、それをもとに清掃活動を体験型の環 境教育の観光商品へと発展させることで行政機関からの補助金だけに依存しない経済的にも持 続可能な仕組みを構築しつつある点が特筆される。 .天竜舟下り(長野)における取り組み 長野県飯田市内を流れる天竜川では、古来より信州からの物資の輸送や木材を組んだ筏によ る往来で非常に賑わっていた。江戸時代初期には、幕府の命を受けた角倉了以によって峡谷部 の開削が始まり、幾度もの失敗を経て文政期( 年ごろ)になって開削工事は完了し、荷船 による物資の輸送体系が完成する(村瀬、 )。近代に入っても、戦前戦後を通じて行われ た天竜川電源開発事業によりダムが建設されるまで、山間地では水上交通が主流であった。さ らに大正 年( )には遊覧専門の川下りが営業を開始し、その後、事業者の変更や戦争で 図 こども海ごみ探偵団 での調査のようす
の中断はあったものの、現在も天龍ライン下りと天竜舟下りの 社が観光川下りを運営してお り、観光川下りとしては全国で 番目に古い歴史を有する。 平成 年( )には、これらの 社が運航する川下りが 天竜川の舟下り として飯田市 民俗文化財に指定された ) 。文化財指定に際しては、現在観光川下りを運行する 社が平成 年( ) 月に共同で申請し、平成 年( ) 月の市文化財審議委員会による答申を経 て、飯田市教育委員会が市民俗文化財に指定するという、事業者自らの申請に基づく文化財指 定という珍しい形を取っている。飯田市文化財保護係のウェブサイトでは文化財指定の理由と して、 日本における観光川下り舟の草分けの一つであること、 操船・造船技術に地域的な 特徴が認められ、その技術が継承されたこと、 天竜川の舟下りが生んだ文化が存在するこ と、 名勝天龍峡を楽しむためのもっともすぐれた手段であること、の 点を挙げている )。 本研究では、このうち上流側の県立公園鵞流峡を含む弁天港から時又港までの約 の区間 を運行している天竜舟下りを訪問し、関係者への聞き取り調査と実地調査を行った。 .天竜舟下りにおける木造和船建造技術の伝承 天竜舟下り、天龍ライン下りの両社とも、遊覧船には自社建造の木造和船を用いている。出 口・出口( )によれば、木造和船を用いた川下りは、現在では全国で ヶ所に留まり、そ れぞれが木造和船を内製している。 天竜舟下りで現在、木造和船建造に当たっているのは船頭でもある矢沢啓志氏で、他に若手 船頭の南島純氏が船大工見習いとして、作業の補助に当たっている。天竜舟下りで用いられて いる木造和船は、同社が所有する造船所で建造、補修が行われている。この造船所は信南交通 図 天竜舟下りの造船所で整備中の木造船
が川下りを運航していた当時から使われていたものを譲り受けたものである(図 )) 。現在建造さ れている舟は、かつて荷船として天竜川を下っていたものとは異なるとのことであった )。 以前は、船大工は 人体制であったが、現在は 名体制となっており、船大工の定年退職が 近づくと若手の育成が始まるそうである。船大工の育成は、先輩船大工が若手の船頭の中から 希望者を募るか、または手先の器用な人に声をかけて始まる )。 天竜舟下りでは、大型の 号船から小型の 号船まで 種類の舟を合計 艘程度、常に運行 可能な状態で保有している )。このうち冬季は 艘が営業運行に使用され、残りの舟の補 修が行われている。これらの舟の図面(寸法図)は先代の船大工の親方が残しており、それを 元に作業が行われる。また、 艘の舟の寿命は約 年であり、 艘の新造船の建造には半年を 要するため、見習い期間中に多くの経験を積むことができ、後継者育成にはそれほどの時間を 要しないとのことであった ) 。 さらに、舟の部材として使用する材木は、本社のすぐ前にある製材所に委託されており、す ぐに調達が可能である。舟に用いる材木は、 尺ないし 尺の長さで船体の下部には三河杉の 赤身、上部には木曽桧が用いられている ) 。また、 艘の舟には約 本の舟釘が用いられ ており、その調達先は 年ほど前までは愛知県蒲郡市のメーカーであったが、鍛治職人の死去 に伴い、現在は新潟県燕三条市のメーカーから購入している。船体上部を覆う屋根を支える鉄 製の部品については自社で製造している ) 。 なお、操船に欠かせない櫂や舵は現在では外注により製作されているが、これも職人の高齢 化により、近い将来、調達が困難になることが予想される。そこで新しい試みとして、飯田市 内の家具職人に試作を依頼するなど、新しい取り組みも始まっている。 .天竜舟下りにおける環境保全活動と新しいツーリズムの展開 天竜舟下りの運行区間における最大の景勝地は、県立公園第 種特別地域に指定され、豊か な自然環境と渓谷美を有する鵞流峡と呼ばれる約 の区間である。しかし、 年代半ばか ら上部を通る道路からの不法投棄が深刻化し、船頭らによる清掃活動が活発に行われるように なった。そうした中、従来は広葉樹林が中心であった峡谷の斜面で、竹林が急速に拡大し峡谷 内や道路に光が差し込まなくなっていることが不法投棄を誘発しているのではないか、と船頭 たちは考えるようになった。そこで、船頭の曽根原宗夫氏を中心とした有志のグループが山林 の地主と交渉し、平成 年( ) 月より竹林の間伐を始めた(図 )。 当初は船頭有志のボランティアによる伐採作業であったが、伐採エリアをより広範囲に広げ
るため地元にある竜丘自治振興センター長に相談したところ、取組への賛同を得ることが出来 たことから活動は本格化する )。センター長の紹介もあり、鵞流峡右岸 の伐採対象エリ アを所有する竜丘財産区と長野原財産区からは 年間の伐採事業への承諾書を得た。そして、 平成 年( ) 月 日には竜丘地域自治会と船頭らの呼びかけにより、関係者 人による 天竜川鵞流峡復活プロジェクト(以下、鵞流峡復活プロジェクト)が設立された。代表にはこ の事業の呼びかけ人でもあり天竜舟下りの船頭である曽根原氏が、副代表には地元の竜丘区長 が就任した。また事務局は竜丘自治振興センター長が務めている )。 この鵞流峡復活プロジェクトは、 放置竹林の伐採作業、その竹を活用した環境教育体験活 動を展開し、地域資源の保全・活用、景観形成、地域人材の育成、地域の産業活性化を目指し て いる )。事業の中心となるのは鵞流峡の放置竹林の整備であり、伐採した竹は下流の時又 港まで舟で運搬する ) 。そして、伐り出された竹の活用策として、竹筏制作や筏下り体験、竹 炭作り体験、門松作り体験、竹をエネルギーとした薪ストーブの活用、森林インストラクター による森林塾などを開催することとした。同年には、環境省の 二酸化炭素排出抑制対策事業 費等補助金(地域における草の根活動支援事業) を、また翌年には林野庁の 森林・山村多 面的機能発揮対策交付金 を得て活動が本格化する。 特に中心的な活動が、平成 年 月から始まった 竹林伐採バスターズ である。当初、 名程度のボランティアの参加を見込んでいたが、回覧板を通じて地域住民に参加を呼びかけた ところ、初年度は中学生から高齢者まで 人の応募があり、 日間の作業に述べ 人が従事 し、約 本の竹を伐採した )。 図 整備された竹林を案内する曽根原氏
この事業の特筆すべき点として、伐採した竹を様々な方法で活用していることが挙げられ る。その中心に据えられているのが、 竹いかだ を活用した体験型のツーリズムである。 放置竹林の伐採によって出た大量の竹の有効利用を模索する中で、天竜川の川下りのルーツ が筏にあることを学んだ鵞流峡復活プロジェクトのメンバーは、平成 年( ) 月ごろか ら、まず自分たちが 遊び として伐採した竹で組んだ筏を用いて筏流しを行なった )。これ が人々の間に広がり問い合わせも相次いだことから、安全性を高めた筏を開発し天竜舟下りに よる 復刻版!天竜筏流し として運行されるようになっている )。さらに、参加者自らが、 竹の伐採から筏組み、筏流しを行い、筏に利用した枯竹を燃料にした竹ボイラ─で沸かした足 湯で暖まる 竹いかだ体験ツーリズム や、ラフティングボートで川下りを体験しながら、天 竜川の河川清掃や放置竹林の伐採現場の見学、竹炭作りや地元産鹿肉を利用したバーベキュー を通じて河川や里山の環境を学ぶ 天竜川クリーンアップ 環境学習ツーリズム といった 体験型環境教育プログラムも開発され、天竜舟下りのほか大手旅行代理店でも販売されるな ど、新たな旅行需要の開拓に成功している。 こうした取り組みを船頭らが続ける理由として、曽根原氏は 水の番人 としての船頭自身 の気づきを挙げている。すなわち、川下りには良好な河川環境は不可欠であり、水源である里 山の保水力や浄化力を高めることは長期的には川下りの振興に貢献することはいうまでもな い。しかし、それは船頭だけの力で実現不可能で、鵞流峡復活プロジェクトは地域との接点づ くりとなっている。川下りのように地域の環境資源を活用した観光業は地域との繋がりを欠い ては持続不可能であり、放置竹林の伐採は季節に応じて無理なく実施可能で、その結果として 水環境の保全にも繋がっており、そうしたことを船頭自らが気づくための新たなツーリズムと 見ることも出来るだろう。 .ダグラス・ブルックス氏の木造和船の技術伝承の取り組み 日本には縄文時代以来、約 万年に及ぶ木造船の造船技術の歴史があり、各地の川や海では それぞれの地理的、気象的条件に適した舟が発達してきた。しかし、戦後の高度成長期以降、 (強化プラスチック)など新しい素材の普及や舟そのものの需要が減少し、木造船は姿 を消しつつある。また、それに伴って独自の造船技術やその周辺技術、さらに舟を取り巻く信 仰や祭祀、舟によって結ばれる人々の紐帯など、舟を取り巻く文化が急速に失われつつある )。
特に木造和船の建造技術に関しては、その伝承は危機的な状況にある。多くの場合、建造の ためのマニュアルや詳細な図面はなく、船大工は師匠から受け継いだ単純な線で描かれた 板 図 と呼ばれる簡易な図面だけを用いて舟を建造してきた。また、後継者育成についても、徒 弟制度のもとで 技術は見て盗む という手法を取ってきた。さらに、木造和船はその使用目 的や使用される海や川の自然条件に最適となるよう各地で独自の発展を遂げてきたため、現在 のように木造船への需要がほとんど皆無の状況になると、その技術は急速に消滅している。こ うした状況に危機感を覚え、全国各地で木造和船の建造技術を記録し、自らも木造和船を建造 する取り組みを続けているのがアメリカ人和船研究者で船大工のダグラス・ブルックス氏であ る。 ( )によれば、欧米では、古くから標準化された木造船の建造技法の記録方 法が残されており、例えばアメリカでは、伝統的な木造船が姿を消すよりも早く、 年代初 頭から設計図を残す取り組みが始まった。 年代には、ミスティック・シーポート博物館 (コネチカット州)がその建造技術を教える講座を開講し、現在では毎年、アマチュアの船大 工のフェスティバルが開催されるなど、伝統的な木造船の建造技術の伝承に努めている。 平成 年( )から木造和船の研究に取り組むブルックス氏が初めて実際に建造に取り組 んだのは、佐渡島小木町に伝えられてきた たらい舟 の建造であった ) 。以後、日本各地の 木造和船の造船技術の記録と伝承に取り組んでいる )。本稿では、ブルックス氏が取り組んだ 木造和船の建造プロジェクトのうち、京都府亀岡市で行われた 舟をつくる と富 山県氷見市で行われた ズッタテンマ をもとに、木造和船の技術伝承の社会的意義について 考察する。 .鮎舟建造プロジェクト(京都府亀岡市) ブルックス氏が平成 年( )に京都府亀岡市で建造プロジェクトに取り組んだ 鮎舟 は、保津川で鮎漁師が用いてきた舟であり、保津川下りで用いられている高瀬舟を小さくした ような形状をしている )。亀岡市内では、鮎舟は以前は鮎漁に使うほか、洪水時の避難用とし て保津川沿いの各家庭で所有されていた。この鮎舟と保津川下りの舟には類似点が多く見られ るが、保津川下りの舟が昭和 年代に 船に順次置き換えられたため、最後まで残った鮎 舟は 年前から伝わる保津川の高瀬舟の造船技術の集大成とも言えるものである。 ブルックス氏が亀岡市で鮎舟建造に取り組むきっかけとなったのは、保津川下りの船頭らが 市民や行政と共に取り組む 京筏組(保津川筏復活プロジェクト連絡協議会) が主催した 年のシンポジウムでのブルックス氏の講演で、このシンポジウムに参加していたみずのき
美術館の奥山理子氏が同美術館の事業として木造和船の建造を思いつき、(公財)日本財団の 助成金を得て招聘したことで実現した。 舟をつくる プロジェクトは、ブルックス氏の指導のもとニートや引きこもり といった課題を抱えた 代から 代の青年 名が、社会復帰プログラムの一環として取り組ん だ )。また、鮎舟の建造過程そのものが美術館の展示プログラムでもあった。舟の建造にあ たっては、現存する鮎舟を実測し、設計図を作成して建造当初の技法を再現する、いわゆるリ バースエンジニアリングの手法によって行われた。また、作業にあたっては保津川遊船の船大 工である山内博氏や船頭たちの協力を得て行われた。 また、作業の過程では引退した保津川遊船の元船大工である裏川栄一氏からも助言を得ら れ、細部の詳細な技法も明らかになると共に、保津川独特の進水式の作法についても情報を得 ることができた ) 。 平成 年( ) 月 日から始まった鮎舟の建造は同月 日に完成し、その後、みずのき 美術館で同年 月 日まで展示された。この間、近隣の住民が自由に作業風景を見学し、また 美術館でもワークショップが開催され、多くの来場者で賑わった。さらに、かつて木造船に関 わった経験を持つ鍛治職人や道具職人との交流も進み、今まで分からなかったこの地域での木 造船建造に関わる周辺技術の解明も進んだ。また、 みずのき では以前から引きこもりなど の課題を抱えた人々の社会復帰支援プログラムとして農作業などを行ってきたが、従来のプロ グラムは成果が目に見える形で表れるまで非常に長い時間を要するために途中で挫折する人も 多く、参加者がある程度短期間で成果を実感できるという意味でも、この事業は美術館などの 図 みずのき美術館での鮎舟建造と展示のようす
文化施設の今後のあり方に大きな示唆を与えるものであった。 .ズッタテンマ建造プロジェクト(富山県氷見市) 富山県氷見市では、氷見市立博物館が開館以来市内外の漁撈用具の収集と調査を行ってき た。そうした中で、平成 年( )に市内で平安時代末期頃の丸木舟が出土したのを機に、 氷見市立博物館が中心となって市内外に現存する木造船や船大工用具の収集、調査を行い、木 造和船の建造技術の伝承にも取り組むようになった。平成 年( ) 月には、これらの漁 撈用具 点が、 氷見及び周辺地域の漁撈用具 として国の登録有形民俗文化財の指定を受 けた(氷見市立博物館、 )。 ブルックス氏が氷見市を初めて訪れたのは、亀岡市で鮎舟の建造に取り組んでいた 月 日 から 日にかけてであった。氷見市では、芸術を通じた地域振興に取り組む 法人アート ヒミング(以下、ヒミング)が、平成 年( )と同 年( )に 年ぶりに天馬 船を建造し、以来、毎年 月に ヒミング天馬船花見遊覧 を市内の湊川で行うなど、新しい 観光資源としても活用している ) 。休日を利用して氷見市を訪れたブルックス氏は、天馬船を 利用した市民参加型のレースイベント テンマッチ に参加するとともに、天馬船の復活に取 り組んできたヒミングのメンバーや富山県でただ一人現役の木造和船建造技術を持つ船大工で ある番匠光昭氏 ) と交流を深め、氷見市での木造和船建造に取り組む方策を探った。 氷見市では、平成 年( ) 月に、漁業交流施設 魚々座(ととざ) を開館させてい た。氷見市は漁業文化を基盤としたまちづくりを目指しており、その一環として氷見市、ヒミ ング、日本財団の共同事業として整備された。この魚々座では、漁業にまつわる展示物も市民 からの無償提供により収集しており、その一環として木造和船に関する展示も行っている。ま た、館内には木造船の建造や補修が可能なワークショップスペースも設けられている。ブルッ クス氏はこのワークショップスペースで、平成 年( ) 月から 月にかけてズッタテン マまたは田舟 )とよばれる、 年ほど前まで水田地帯の用水路で農家が利用していた木造和 船の建造に取り組んだ。 このプロジェクトは、ヒミングが船大工の番匠光昭氏と取り組んでいる天馬船プロジェクト の延長と位置付けられる。日本海側屈指の漁場を持つ港町であり、その背後に豊かな森を抱え る氷見では、舟は地元産の材木を用いて作られてきた。船大工らが用材を確保するために適度 に伐採をすることで、山の環境は良好に保たれ、また山主である農家は漁船などのための用材 を供給することで現金収入を得ていたという。一方、漁業者は良好な森林環境とそこから供給
される豊かな栄養塩類のおかげで 天然のいけす とも呼ばれるほどの豊かな富山湾の漁場で 漁業を営むことができた。そして、これらの人々をつなぐ存在であったのが船大工であった。 ヒミングではこうした循環の再生を 生態地域主義 と定義し、そのシンボルとして木造和船 を位置づけ、山から海へと様々なプロジェクトを展開してきた。 このようなプロジェクトが目的を達するためには非常に長い時間を要することは言うまでも なく、持続可能なプロジェクトとするためには地域住民の理解と支援が不可欠である。例え ば、最初の木造和船の復活プロジェクトの際には、それに先立って平成 年( )から平成 年( )まで、建築廃材を利用したミニ天馬船レースを開催し、市民からの参加費で 万円近くの収益金を得て、建造費用に充てた ) 。また、ブルックス氏のズッタテンマ建造プロ 図 ズッタテンマを建造するダグラス・ブルックス氏 図 氷見市文化財センターに収蔵されている木造和船群
ジェクトでも作業の様子は常時公開され、また完成後には魚々座開館時に天馬船を建造してい た北海道出身のアーティスト小川智彦氏とブルックス氏のトークイベントが開催されるなど、 木造船建造の意義を市民に広く伝える工夫がなされていた。 現在では、氷見市では天馬船を使ったイベントは年間を通じて多数開催され、観光資源とし て根付くとともに、木造和船に子供の頃から親しんできた高齢者がその運営を支えている。ま た、氷見市立博物館や氷見市文化財センターでは日本海側では屈指の規模で木造和船を収集、 保存しており、国内屈指の木造和船研究の拠点となりつつある。 .おわりに 本研究では、伝統的な観光川下りや木造和船の復活が地域振興に果たしうる役割について分 析した。その結果、 観光川下りが盛んな河川では、船頭たち自らが河川環境の保全に向けた 取り組みを積極的に行なっていること、 そうした取り組みが、幅広い市民や行政機関の共感 を得て積極的な支援を獲得していること、また 伝統的な技術の記録や伝承は新しいツーリズ ムの創出を実現しうること、が明らかになった。 近年、各地の観光川下り事業者が、市民団体や行政機関など連携して水運文化の検証と価値 づけを試みる取り組みが多く見られる。その背景には国内外の旅行者を問わず、旅行のあり方 が団体旅行から個人旅行へ、また体験を重視する者へと変わりつつあることが挙げられる。従 来は、各地の観光川下りとも団体旅行を多く引き受け、景勝地を単に下るだけというスタイル が多かったが、レジャーが多様化する中で、それだけでは乗船客数を維持することが難しく なっている。 ( )は、 経験経済 ( )を提唱し、コモディ ティ、製品、サービスに続く第 の経済価値として、経験顧客にどのような 経験価値 を知 覚させられるかが重要であることを指摘した。そして、顧客に 経験価値 を知覚させる重要 な要素として、 つの 、すなわち (教育)、 (娯楽)、 (美的)、 (脱日常)を挙げた。これを観光川下りについて考えると、 (娯楽)や (美的)、 (脱日常)については、川下り固 有の迫力や景勝地の景観でこれまでにもある程度の経験価値を提供することができていたと考 えられる。ただし、かつては存在しなかったテーマパークのアトラクションのように手軽に迫
力ある乗り物を体験できるようになったり、交通網の整備でこれまではアクセスが容易でな かった景勝地を手軽に訪問できるようになった現代において、さらなる 経験価値 を知覚さ せるためには (教育)がより重要な意味を持つと考えられる。すなわち、それ ぞれの河川が独自に育んできた水運の歴史や技術、文化、あるいは自然環境の持つ意味をどの ように乗船客に伝えられるか、について十分に検討する必要がある。その意味で、文化財等へ の指定はより高い 経験価値 を知覚させるための基本となる施策といえよう。 また、市民とともに取り組む環境保全活動や木造船の建造は、水運文化を観光資源として伝 承していくためのそれ自体がわかりやすいシンボルであるだけではなく、新しい紐帯を人々の 間に生み出す、ソーシャル・キャピタルとなりうる可能性も持っている。実際に、本研究で取 り上げた保津川や天竜川、氷見市での取り組みは、それぞれが地域やコミュニティに対する一 層の関心を引き付け、新しい人々のつながりを生み出し、単なる観光資源としてだけではない 社会的な意義を見出すことに成功している。 相次ぐ天災や後継者不足など、日本の観光川下りを取り巻く状況は厳しく、今後、ますます 加速する地方の人口減少の中で、従来型の観光振興策だけではその維持は困難なことは言うま でもない。長い歴史を持つ河川の水運文化の伝承のためには、その社会的な価値を評価し、ま た高めていくことが不可欠であり、本稿がその一助になれば幸いである。 この研究は、平成 年度大阪商業大学アミューズメント産業研究所研究費を受けて行ったも のである。 〔注〕 )日本の河川水運史の研究は、海運のそれに比べて少ないが、例えば石井( )、豊田・児玉( )、石 井( )などにおいて、日本の河川水運史の魁となる研究が行われてきた。また、横山( )のように 民俗学的な観点からの研究も近年盛んに行われている。 )川名( )及び川名( )では、全国各地の水運の歴史的展開と川舟の網羅的な研究をまとめてい る。 )現在、わが国には全国河川旅客船協会加盟の観光川下り事業者は 社ある(天竜舟下り と天竜ライン遊 船 は平成 年( )以降は 社で共同加盟)。このうち、第 次世界大戦以前より現在まで運行が継続 されているのは保津川下り(慶長 年開航)と球磨川下り(明治 年開航)のみであり、多くは戦後の観光 ブームに乗って運航を開始したものである。ただし、その他の河川においても運航にあたっては、船頭の経 験を持った者が従事していた例が大半である。例えば、筆者の行った聞き取り調査では、乗船客数国内第 位である最上川下りは、昭和 年( )の創業時には渡し船の船頭をつとめていた地元住民を観光船の船 頭として雇用したとのことであった。 )全国河川旅客船協会加盟の事業者数は平成 年( )には 社であったのが、平成 年には 社へと減 少している。
)上林( )によると、たとえば、寛政 年( )に記された 丹波志 は保津(京都府亀岡市)から 嵯峨(京都市右京区)までの運賃は 人 升(約 文)と記録されている。また、儒学者や武士、商人など が娯楽として保津川を下る舟に乗船した記録が紹介されている。 )上林( )は、イギリス駐日公使館に勤めていたアーネスト・サトウが明治 年( )に出版したガ イドブック において保津川下りを大きく紹介してお り、これがきっかけとなってイギリス王室のアルバート・ビクター王子とジョージ王子兄弟が来日し、同年 月 日に保津川下りを訪れるきかっけになったと推察している。 ) イ ギ リ ス の 写 真 家 ハー バー ト・ ・ ポ ン ティ ン グ が 記 し た が 明 治 年 ( )に刊行され(ポンティング、 )、この中で保津川下りが大きく取り上げられ、その後の観光とし ての川下りの発展に大きく寄与することとなる。 )労働争議から組合による運営体制への転換期については、小谷( )に詳しい。 )保津川の河川利用を巡る船頭衆のレジティマシーの獲得過程に関する詳細については、原田( )を参 照せよ。 )これらの要件はすべてが必要とされるわけではなく、時代や地域によって重視される要件は異なり、単 一、もしくはいくつかの要件の組み合わせによってレジティマシーが獲得される。 )保津川における川作の詳細については、豊田( )、手塚( )に詳しい。 )これらの集落には代々船頭を務める家も多く、独特の景観が形成されている。そのため、亀岡市では 船 頭の里 として国の 重要文化的景観 選定を目指す取り組みを進めている。詳細は亀岡市教育委員会 ( )を参照せよ。 )現在の遊船も、近隣の つの集落を基礎とする つの支部からなっており、地縁集団の連合体としての性 格が強いものである。 年以降は船頭の一般採用も行われているが、これらの集落以外に居住する船頭 も、これらの つの支部のいずれかに属する必要があり、徒弟制による技術伝承が行われている。また、技 術伝承だけではなく、それぞれの支部ごとの年中行事などにも必ず参加しなければならない。 )一連の詳細についてはセブンイレブン記念財団( )、原田( )に詳しい。 )保津川下りの船頭がこうした全国規模の会議に初めて参加したのは 年の 第 回海ゴミプラット フォーム・ (主催 )である。詳細は右記を参照せよ。 ) こども海ごみ探偵団 は、国の海岸漂着物処理推進基金を活用した京都府下における海岸漂着物処理推進 事業の一環として実施されており、亀岡市内在住の小中学生と保護者を対象に、毎年夏に実施されている。 保津川での清掃ツアーの他、源流域(京都市右京区黒田地区・片波川源流域)や河口部(大阪市福島区・淀 川海老江干潟)、及び瀬戸内海(兵庫県洲本市・成ヶ島)を訪問し、各地で清掃活動とごみのデータ収集をお こなっている。 )文化財指定に際しては、現在観光川下りを運行する 社が平成 年( ) 月に共同で申請し、平成 年( ) 月の市文化財審議委員会による答申を経て、飯田市教育委員会が市民俗文化財に指定した。 )詳細は飯田市生涯学習スポーツ課文化財保護係 文化財保護いいだ のウェブサイトを参照せよ。 )信南交通 は、昭和 年( )に創業した天竜川舟行株式会社の営業権の譲渡を受けて昭和 年 ( )から天竜川での遊船事業を行なっていたが、昭和 年( )にその経営権を譲渡する形で、上流 部で天竜舟下り株式会社が、下流部で天竜ライン遊舟有限会社が設立され、現在に至っている。詳細は天竜 舟下り( )を参照せよ。 )川名( )によると、江戸時代に天竜川で用いられていた舟は 角倉舟(高瀬舟) と 鵜飼舟 の 種 である。日下部( )によると、現在の舟はこのうち鵜飼舟から発展した サッパ舟 であり、現在の天 竜舟下りが運行されている伊那谷では明治から大正期にかけて導入された。 )天竜舟下りには、近年では 名の船頭が所属しているが、給与体系は全員同じで、また船頭全員が操 船以外にも何らかの役を担っている。 )各船の全長は以下の通り。 号船 ( 間)、 号船 ( 間 寸)、 号船 ( 間 尺)。 )新造船を建造する場合、資材の手配は夏頃から始まる。船体の建造に取り掛かるのは 月ごろであり、
人で約 ヶ月をかけて完成させる。従来は毎年 艘の舟を建造していたが、最近では数年おきに 艘を同時 に建造しているということである。 )長寿命化のため、木造の船体の外側をグラスファイバー樹脂で固めている。樹脂加工を施すようになった のは昭和 年代( 年代)になってからである。樹脂で固めることにより、高額の廃棄費用が必要となる が、安全面への配慮を重視するということで導入が決まった。 )新造船 艘の建造費用は、おおむね 万円とのことである。 )長野県飯田市は、公民館活動が古くから活発な地域であると同時に、環境への取り組みが熱心な地域でも ある。例えば 年代以降、市民共同発電事業が進められ、さらに、平成 年( ) 月には 飯田市再 生可能エネルギー導入による持続可能な地域づくりに関する条例 が制定され、地域自治組織による発電事 業が始まっている。詳細は白井( )を参照せよ。 )現在は 人がプロジェクトメンバーとして参加している。 )詳細は 天竜川鵞流峡復活プロジェクト。とは を参照せよ。 )整備対象となっているのは鵞流峡のうち特に竹林の繁茂が著しい湯の瀬( )のほか、黒瀬ヶ淵 ( )、御万堂坂( )の合計 である。 )最近では伐採も進み、伐採量は年間 本 本程度となっている。この他、ごみの清掃活動や不法 投棄多発地帯のガードレールの清掃作業なども行われている。 )天竜川の水運が本格化するのは、慶長 年( )に徳川家康による江戸城天守閣造営に際して良質の材 木が遠山郷から霜月衆によって筏で運ばれて以降である。 )一連の経緯は曽根原( )にまとめられている。なお、筏流しは現在では 月から 月にかけての第 ・ 土曜日に運行されている。 )現在、木造和船の建造技術を持つ船大工がどれくらいいるのか、正確な資料はないが、石原( )によ ると、 年時点で 人から 人程度と推計されている。 )ダグラス氏は、最後のたらい舟建造技術を持つ船大工である藤井孝一氏(故人)のもとに平成 年 ( )に弟子入りして技術を学んだ。藤井氏の死後、平成 年( )には鼓童文化財団の支援を得て、 たらい舟の建造技術を記録する取り組みを進め、佐渡島におけるたらい舟の伝承に貢献した。一連の取り組 みはブルックス( )にまとめられている。 )平成 年( )に日本財団が行った 全国の個人船大工存在確認調査 では、ブルックス氏は唯一日本 人以外の船大工として名を連ねた。こうした活動はアメリカでも高く評価され、平成 年( )には米国 工芸協議会の希少工芸親交賞を受賞した。ブルックス氏のこれまでの取り組みは ( )に詳しい。 )保津川の鮎舟は現在確認されているものだけでも 尺(約 )、 尺(約 )、 尺(約 )の 種 類がある。 ) 舟をつくる の詳細はみずのき美術館( )を参照せよ。 ) こ の 時 得 ら れ た 知 見 を も と に、 年 に は ブ ルッ ク ス 氏 が 嘱 託 講 師 を 務 め る ミ ド ル バ リー 大 学 の の授業の一環で、 尺の鮎舟が学生たちによって建造された。 )荷物などを運ぶ、甲板を持たない小型の船のこと。多くの地域では伝馬船と書くが、氷見では天馬船と表 されてきた。 )氷見市在住の船大工。氷見市立博物館の学芸員らと設立した和船建造技術を後世に伝える会代表も務め る。平成 年度( )には 森の名手・名人 (国土緑化推進機構)に選ばれた。 )水田での稲作のために用いられた平底の舟でタズルともいう。大型の舟をオオフネ、小型の舟をテンマと も称した。詳細は氷見市立博物館( )を参照せよ。 )ミニ天馬船レースは、 人 円の参加費で参加者を募り、その %が 木造和船技術伝承のための木造 船造船の基金 に寄付され、残りの %は運営費とレース上位入賞者の賞品に充てられた。 回目のレース は平成 年( ) 月 日に実施され、 艘のエントリーがあった。 回目のレースは平成 年( ) 月 日に開催され、 艘のエントリーがあった。また、 艘目の建造資金を募るために 回目のレースが 平成 年( ) 月 日に開催され、 艘のエントリーがあった。これらの資金に、民間企業の助成金な どをあわせて氷見市での木造和船の建造が再開された。一連の取り組みについてはヒミング( )に詳しい。
〔参考文献〕 ( )“ ”、 京筏組(保津川筏復活プロジェ クト連絡協議会)シンポジウム ちいきの大切なものってなんだろう? 歴史・文化・自然でまちおこし 報告資料。 (岡本慶二・ 小高尚子訳 新訳 経験経済 脱コモディティ化のマーケティング戦略 ダイヤモンド社、 ) 石井謙治( ) 日本の船 、東京創元社。 石井謙治( ) 図説和船史話 図説日本海事史話叢書 、至誠堂。 石原義剛( ) 船大工の継承はできないのか 第 号。 小谷正治( ) 保津川下り船頭夜話 文理閣。 上林ひろえ( ) 保津川下り─江戸時代に観光としての保津川下りはあったのか─ 角倉一族とその時 代 森洋久編、思文閣出版。 亀岡市( ) 亀岡市第 次総合計画 夢ビジョン 前期基本計画 亀岡市教育委員会( ) 保津川船下りの文化的景観保存調査報告書 亀岡市文化財調査報告書、第 集。 川名登( ) 近世日本の川船研究 上 ─近世河川水運史 日本経済評論社。 川名登( ) 近世日本の川船研究 下 ─近世河川水運史 日本経済評論社。 日下部新一( ) 天竜川の水運 語りつぐ天竜川 第 号、建設省中部地方建設局天竜川工事事務所。 白井信雄( ) 再生可能エネルギーによる地域社会の構造的再生の理論的枠組みの設定と有効性の確認 長 野県飯田市の取組みの分析 サステイナビリティ研究 第 巻、 。 セブンイレブン記念財団( ) 保津川下り 年 清流を守る船頭の心意気 みどりの風 一般社団法人セ ブンイレブン記念財団、 。 曽根原宗夫( ) 荒れた竹林何とかするぞ 季刊地域 、 。 ダグラス・ブルックス( ) 佐渡のたらい舟─職人の技法 鼓童文化財団。 出口晶子、出口正登( ) 和船を活かした河川観光舟運 甲南大學紀要文学編 第 号、 。 手塚恵子( ) 桂川の水運に関する慣行について─筏と船の操船と川作を中心として 水資源・環境研 究 第 巻第 号、 。 天竜舟下り( ) 天竜に棹さして 二十五年史 豊田武・児玉幸多( ) 体系日本史叢書 交通史 山川出版社。 豊田知八( ) 保津川下り船頭の操船技術と精神─角倉伝来の技術を継承する保津川船頭の仕事から─ 角倉一族とその時代 森洋久編、思文閣出版。 ハーバード・ ・ポンティング 英国人写真家の見た明治日本 長岡祥三訳、講談社学術文庫。 原田禎夫( ) 水運文化の伝承を通じた流域連携再生 保津川筏復活プロジェクトを事例に 実践型地域 研究最終報告書 ざいちのち 。 氷見市立博物館( ) 特別展 とやまの船と船大工 船が支えた人びとのくらし ヒミング( ) 氷見 集い、創り、繋げる。ヒミング 年の場・人・活動。 特定非営利活動法人アー ト ヒミング。 みずのき美術館( ) 舟をつくる みずのき美術館。 村瀬典章( ) 幕末・明治初年の天竜川通船 交通史研究 第 巻、 。 横山昭男( ) 最上川舟運と山形文化 東北出版企画。