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台湾の経済社会の潜在力: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

台湾の経済社会の潜在力

Author(s)

平良, 朝男

Citation

沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 16(2): 1-43

Issue Date

1992-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6841

(2)

台湾の経済社会の潜在力

平良朝男

目次 はじめに 1、アメリカ援助のもたらしたもの (1)復興期(1950年代初期)の社会状況 (2)復興へ向けての産業基盤づくり (3)人材育成 2,民間部門の潜在エネルギー (1)繊維、セメント工業およびその他の産業 (2)外資導入 3、教育 (1)教育制度 (2)その他 おわりに はじめに 歴史の展開は誠に皮肉である。日本はアメリカとの戦いで完敗し、無条件に 降伏した。おかげで自らはなし得なかった農地解放、財閥解体と云った古い社 会的体質を払拭し民主社会を実現することが出来たし、あまつさえ「平和憲法」 まで造っていただいた。そして、戦後復興基金をあてがわれ、復興に向けての 産業基盤づくりを始めた。この基盤づくりに際して、日本はこれまでの生産設 備はほとんど灰塵にきしていたので、当時としては最新鋭の技術・システムの -1-

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施設設備を導入し産業をおこした。最新鋭の技術・システムだから生産性は高

いし、スケールメリットを最大限に効かしてロウコストで生産できる。したが

って、国内市場を満たし、国際市場に出ていくと国際競争力は抜群に強い。日

本には伝統的に“鉄”は産業の源、という考え方があって“鉄”から始めた。

この日本の鉄がアメリカの西海岸市場でピッツパーグの鉄に勝ったのである。

ピッツパーグと言うと製鉄の代名詞になるくらい有名だが、それは良質の鉄鉱

石と石炭そして輸送手段としての五大湖がピッツバーグで結びついて、いわば

集積の利点がうまく結びついて、世界の鉄市場を席巻していた。しかし、ピッ

ツバーグの鉄は西海岸市場には大陸横断鉄道で運ばなければならず、日本は太

平洋を大型タンカーで運べば良いわけであるから、運搬にスケールメリットが

働く分だけ曰本の鉄が有利なわけである。また、品質の面でも最新の技術を導

入しているため勝っていたという事情もあった。以後曰本はこのことに味をし

め、あらゆる分野で「最新の技術」と「スケールメリット」をキーワードにス

クラップアンドビルドを果敢に繰り返し、造船、カメラ、テレビ、自動車、ビ

デオ、半導体等と云う順序で世界市場を席巻し、ついにアメリカの威信・ドル

まで下げてしまった。この反省に立って日本は今、内需主導型経済の構築、国

内市場の解放、地球環境の保護、発展途上国援助等とおおあらわである。

では何故、あの灰塵の中から曰本(ドイツの場合も同様)はここまで経済力

を伸ばす事ができたのか?

これは結果として日本が戦争に負けたためにアメリカの意のままに、地主と

か財閥とかの封建的特権階級の介在する非能率的な社会構造を徹底的に改造し、

あらゆる分野で民主化(自由で、平等で、公正な社会)が進められた。この事

によって国民の自由意志が拡大され、社会全体としての経済活動の効率が格段

に高められたためである。つまり、国民の自由意志が働く場が広ければ広いほ

ど、その社会の社会的効率は高いと云う事ができる。

このような視点は台湾の場合についても考察することができる。1945年、

国民党政府が大陸を敗走し、台湾へ大挙してなだれ込み、アメリカも中国不介

入を発表するにおよんでは、打つ手は尽き落城かと思われた。ここで朝鮮戦争

が勃発し、アメリカが翻って国民党政府をパップアップした。

-2-

(4)

このように脆弱しきった時期のアメリカのバックアップであっただけに、以 後の国民党政府の台湾治世にはアメリカの“台湾社会の民主化と民生の向上” という意図が経済援助を通して一連の経済建設計画を始めあらゆる経済政策に 反映されている。 ただし、台湾の場合は農地改革で農村社会は民主化が進んだが、非常事態と いう大義名分の下で政治的独占と基幹産業部分の独占は残った。この点は曰本 の場合と異なるが、中南米の諸国が台湾よりも早〈にNIES化の緒についた にもかかわらず、農地改革が行われないために農村社会の民主化が進められず、 封建制を引きずって社会的停滞を囲っている事を考え併せると、農村社会の解 放が如何に重要で不可欠であるかが理解できる。 併せて、アメリカの経済援助が台湾経済の初期的産業基盤づくりに大きく貢 献し、特に援助項目の中の人材育成が台湾社会を大きく変えた。今回はこの辺 に焦点をあてて台湾社会の経済的ポテンシャルを考察してみる。 1、アメリカ援助のもたらしたもの (1)復興期(1950年初期)の社会状況 1950年代になって台湾の経済社会も一応の落ち着きを取り戻してきた。 これは①49年6月に通貨改革を断行し、大陸との経済的関係を断ち切る事に よって悪性インフレがようやく収束してきたこと、②強権的に行われた農地改 革によって農民の生産意欲が高まり、農産物の生産水準も戦前の水準まで回復 したこと、③地主への四大官営企業の払い下げにより地主層が工業生産(輸入 代替産業)へ特化したこと、そして、④アメリカの援助を受けながら、復興に 向けての第一期経済建設計画がスタートしたこと等により戦後の混乱を乗り切 り、復興へ向けてのスタートを切る事が出来たからである。 しかし、これまでの道程は政治的には常に薄氷を踏むような状況が続いてい た。この間の概要を述べると次の様なものである。 台湾住民は1945年、50年間に渡る曰本の植民地支配から解き放たれて -3-

(5)

母国としての中国への復帰に歓呼し、母国の再建、復興を誓った。そして光復 後の初代台湾省行政長官として陳儀が任命された。陳儀は曰本の陸士卒で曰本 人を妻にもつ知曰派で、政学系開明官僚派に属しており、台湾住民の多くが先 祖を持つ福建省主席経験者という事もあっての登用で、戦後処理の人事には腐 心した一面も窺える。彼は施政方針からも窺えるように、台湾を大陸から隔離 注:l し、|日台湾総督府体制を踏襲しながら徐々Iこ「自前」の台湾政治の実現を構想 していたようである。そして、「日産」の接収に際しては「長官公署」を窓口 に一本化し、秩序立てて進めようとしたのだが、国民党の台湾支部、中央の派 閥等は、台湾住民をボイコットして「戦果」に群がり、派閥、私欲が入り乱れ て秩序を失っていた。そして、この無秩序な状態は上部から末端まで広がって いた。このように新たに入れ代わった大陸からの為政者集団は、もともと半封 建制を引きずった前近代的、非能率的な集団で、加えて混乱と内戦で疲弊して おりモラルは低下していた。したがって、台湾住民の統治や経済復興よりも中 央との繋がりを持つ組織あるいは派閥間での「曰産」をめぐる戦果の山分け、 利権争いに終始し、私的占拠と流用等と不正行為は目を覆うものがあった。 そのため、生産の停滞と失業の増大、大陸の戦乱をモロに受けた悪性インフ レや経済混乱は台湾住民の生活を困窮の極みに追い込んでいた。 台湾は当時としては曰本の植民地としての統治下ではあったが、初等教育は 70%以上も普及しており、曰本流の高等教育を受けたインテリー層も地主層 を中心にかなり育っていたのである。したがって、大陸に比べると先進地域に 属していたし、土地も肥沃で農産物も豊かなため、住民の気質も寛大で大抵の 事には動じないが、生活難と接収者の不公正で常軌を逸した種々の所行を見る につけ失望と怒りはエスカレートしていった。こういった最中に、些細な闇夕 注:2 バコの取締をきっかけ1こ台湾住民の不満が爆発する形で2.28事件(47年 2月28日)が起きたが、この時、この様なインテリ一層が事件の扇動に加担 した罪で粛正を受ける結果となり癒しがたい傷痕を残す。そして、陳儀一統は 責任をとらされて雛台する。 その後、国府は陳の後任として駐米大使の経験を持つ魏道明を台湾省主席に 任命した。この人事登用は2.28事件の弾圧で米国からの非難を緩和するた -4-

(6)

めの配慮と、台湾での人身安撫を狙ったものと云われている。当時、国民党政 府にとってアメリカの支持と経済的支援を得る事は国際政治情勢の中で不可欠 だったからである。魏は意図的に台湾出身者を省政府高官に登用し、陳儀一統 のやり残した接収と新秩序確立の仕事を引き継いだ。なかんずく経済秩序回復 注:a の過程での資源委員会系統のテクノクラート達lま曰本力、ら接収した砂糖、セメ ント、電気等の生産設備の修復に貢献したばかりでなくその後の経済成長期に おいても活躍した。 このようにして台湾では一応の安定が創り出され、経済面では農業を中心に 戦前の生産レベルを回復してゆくが、一方大陸の政情は不安定の度を増してい った。 戦後、蒋介石は政府を重慶から南京に遷都し、幾度か国共停戦協議も持たれ るが1946年6月30日に決裂し、再び中国の内戦が全面化した。このよう な状況の中で国民党政府はやっとの思いで、「米華相互協定」(1948年7 月3曰)を取付け、一応のアメリカの後ろ盾を得る事が出来た。しかし、皮肉 にもこの協定調印後の国府軍の戦果は無残で、済南、長春陥落に引き続き播陽、 徐州を放棄して敗走を続けるといった状況であった。こういった戦況を見るに つけ、アメリカは1948年12月21曰、5ヵ月前に結んだ協定に基づく 「対華長期援助計画」の中止決定を発表。 1949年、蒋介石は南京も臨時の地と見て、腹心の陳誠を台湾主席に任命 し、台湾での受入れ体制を整わせる。陳誠は間を置かず5月には戒厳令を施行、 6月には通貨改革・デノミ、追って農地改革、官業一部払い下げを断行した。 その間にも1月15曰、天津は陥落し、1月21曰中共軍北京入城、以後、4 ~5ヶ月の間に南京放棄、太原陥落、武漢撤退、上海陥落と追いつめられ、つ いに7月24日廩門から台湾へと渡る。10月1日「中華人民共和国」成立を 宣言、一方、蒋介石は12月7曰台北に臨時首都を遷都、広州陥落、重慶陥落、 腹心の部下李宗仁の亡命。これより少し先、8月5曰ついにアメリカは「中国 白書」を発表、1950年1月5日、トルーマン大統領は中国不介入声明を発 表する。 もう打つ手は絶え、落城かと思っていた矢先、6月25日朝鮮戦争が勃発し、 -5-

(7)

6月27曰トルーマン大統領は翻って第7艦隊を台湾海峡に派遣。台湾防衛に 当たらせた。アメリカの中国政策の変更である。中国不介入から中国共産党封 じ込め政策へと180度の展回をした。この政策転換は危機存亡の淵に立たさ れていた国民党政府に復興基地・台湾での体制の立て直しの時間と凍結されて いた援助の好機をもたらしてくれた。 (2)復興に向けての基盤づくり これまで見てきたような情勢下で、1949年に大陸から移転してきた国民 党中央政府機構と軍隊、それにともなって流入してきた150~200万の人 口増加など、巨額の財政負担と逼迫した食料、住宅事情は台湾経済にとっては 大きな重荷であった。それに対外的には台湾は冷戦体制の渦中にあり、国際環 境は極めて厳しく、暗中模索の状態にあった。そして、当時の一人当たりの国 民所得もインド、パキスタン、バングラディシュといった最貧国並の150ド ル以下で、まさに物無し、資金無し、人材無しの状態だった。 したがって、台湾を大陸での共産党勢力の蔓延に対しての防波堤として、バ ックアップしようというアメリカの政策転換は、国民党政府にとっては政治的 にも経済的にも、存亡の危機を救った千載一遇の幸運であったといえる。 しかし、アメリカとしてもこれまでの軍事介入の経験から、如何に強力に軍 事介入を進めても、所詮その国の国民の生活向上なくしては、共産党の蔓延を 食い止める事は難しい、という事をこれまでの経験から認識している。そのた め、アメリカの台湾バックアップの姿勢は、国府軍に大量の武器を提供して大 陸反撃に手を貸すというものではなく、軍事援助はあくまで台湾住民の安全を 確保する程度にとどめ、国民生活の向上と民主化に重点を置いていた。そして、 台湾を蔓延する共産主義に対する自由主義陣営のショウウインドウに仕立てよ うとする意図すらあった。 このような意図に沿ってアメリカは1951年から68年までの17年間に 余剰農産物を含め約15億ドルもの援助を行っている。その内訳を示したのが 次の表である。 -6-

(8)

表1-1アメリ力援助の受取り額 1970.12318雛 Unit;USSmiIlion 資料:TaiwanStatisticalDateBook(199]年版)より

この援助の内訳を見ると、アメリカの援助は余剰農産物を含め、台湾経済が

戦後復興を果たし、海外企業進出のラッシュを受入れ、大量の資本の流入、技

術のトランスファーをはたし、輸出指向経済へとテイクオフした1965年ま

で続いている。援助項目中、余剰農産物を除くと最大のウエイトを占めている

のは「防衛支援または開発ローン」の8億5,100万ドルで全体の83%を

占めている。これは項目の名称に“防衛”という文字があるために軍事的色彩

-7- 年次 総;↑ 般縫済援肋 ;I. 防衛支援または開発ローン 小計 プログラム・ローン 非プロゼクト授助又は ププ ロロ ゼグ クラ トム

は ● ロ ン 開発援助 技術協力又は 直接防衛支援 小計 非プロゼクト援助 プロゼクト援助 開発ローン審異鐘 余剰 農産物 FYl951-54 '955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 Tbtal 206169-293952432 □●●●●●●●●●●●■●■●● 5218181455364492 730082096185 28 3111 11 1 4 0 1 840J624166J4|’’4 492741406-70 9 72986775 25 2 31 0 1570322J982-一一-6 97873285396 1 89775684 15 5 2 8 899JJ140’81 08977070 92 36432454 11 2 3 ● 3 8 5 868321879 J一一一一3 DOq●●●ら●● 888962053 4 8 5223221 4 6 2 143456407854 ●●□●●●●●●●●● 423332222110 ’一一I 0 3 15078484 ●●●●●●●● 19067632 821 7 ● 7 4 1 89958484|’一一一一-0 94967632 ● 62 1 3 8612一一一一一一一一一一一J 1400 6 1 1 61j’’一|’一一8 096 5 311 6 9660016037212430 ●●●●●●●●■■●CD●●● 0291777893664497 212 25925 28 3

(9)

の強い項目として受けとられる可能性があるが、その内訳は「非プロゼクト援 助またはプログラムローン」と「プロゼクト援助またはプロゼクトローン」で あり、後述するように前者は戦後のもの不足、短期間に流入してきた200万 人もの人口の急増に対応するための緊急援助物資が主であり、後者は戦略産業 の基盤づくりのための支援である。次に大きいのは「直接軍事支援」だが、そ の中の「非プロジェクト援助」は50万人もの将兵の糧米・衣料といった生活 必需品であり前項の緊急援助物資に準ずるものであり、「プロジェクト援助」 も兵舎、指令部といった武器以外のものである。武器の供与等軍事機密に属す るようなものは、事の性質上このような公式統計からは推し計れない。その他 「開発基金」が約6,700万ドルとなっているがこれは後述するように肥料 の自給率を上げるための工場新設の際、貸し付けを受けたものである。あと 「技術協力または開発供与」が3,000万ドルとなっている。 この様にアメリカ援助の内容はアメリカの台湾政策の意図に沿って、まず第 一に極度に不足している食料・衣類等の緊急援助、そして台湾が自立してゆく ための産業基盤づくりの支援となっている事がわかる。 アメリカは差し当たり200万人もの食・住を中心に援助物資を提供すると ともに、農業の増産を支援した。この時の援助物資の内容は表1-2に見る通 りである。 -8-

(10)

表1-2非プロゼクト物資受取り 1970.12.31雛 Unit;USS1,000 《'二次粉ミルク梨,1,',小史粉段タハコ繊維製,ViildIjmj,',1,紙パルプ人ゴム製1W,その他 涜料:TaiwanStatisticalDataBook(]991年版)より -9- 612次 合!;1. 小女 111(綿 人Ⅲ 肥料 金属製品 機械器具 潤滑jlll 化jt製,I/, 獣MFI FYl95I '952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 Total 3103022368290977226 9699961862254121006 8454342867424312432 000▽000000000□□0000 7399695138093764490 767796657675133 20 1 1 I 陥帆別別佃朋駆師皿氾Ⅳ刈閲朋帥一朋別調 909495-90048391 447 000000090000000 000 660718072274654 115 -1-1112 124 2 4 2 Ⅱ船旧師別帥測妬旧卯珊佃加〃〃’一Ⅲ円 037118345843796 16 0DC000000000000 OD I22211949299512 39 11-2211111 11-2 25 2 師渦門別朋甜倒駆加帥塊一㈹一一一一97 1 71976937493 0 1 00000000000 ■ 0 75222008706 9 5 1--11 11 2 肥印Ⅱ’一’’’一明一一一一一一一一船 961 4 1 000 0 772 2 0 111 5 開船側加川旧師一卵鯛一一M肥一一一一Ⅲ 738708- 74 91 1 ●000▽00 DB D0 0 2133822 19 53 5 4 卵旧仙駆旧開鍋朋朋、鋼一閃犯一一一一〃 475286 953 42 1 00009 00 00 0 14424 96 41 1 4 “犯諏別冊、肌一一一一一別一一一一一明 4576355 9 9 0000000 0 9444911 6 3 閲羽粥皿Ⅲ開則一MⅦ一一別加一一一一開 2493053 32 .34 4 0 00、0 00 00 , 5 1372 -3 34 3 3 35 船一佃加肥〃“別岡旧皿弱一枢一一一30 3 6987837165 2 50 D B00000■0 0 00 1 2-222222 2 35 3 イlH次 粉ミルク 薬,1,1, 小炎粉 蛾タバコ 繊維製iV, Wil1lj部iVi 紙パルプ 大麦 ゴム製品 その他 IPY1951 '952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 Total 1 2 5 |師Ⅲ 71 7725 8155 8847 258 649 523 4 9 0 9798 0335 6629 4 8 1- 513123 1 1 95 50 25 7 2 川別朋弧川畑一一M皿羽一閃一一一一一別 047017 878 5 1 ■0 00□ 000 0 -1 26- 333 5 2 ’’一一一一閲刈町泌胆ね加別蛆ね印 38602251413 0、00000000 212243221I 7 8 2 4 9 3 0 4 2 Ⅲ|’一一一加姻刈一㈹卯渦一閲一一一別 0 776 771 2 0 0 096 ■0, 0 0 1 112 115 1 7 印別㈹岡朋川一一一一一一一一一一一一㈹ 12129 7 000 0 535 4 1 2473526 8716467 2635376 一一肥一一船一一一一一 3 6 1 7 6 1141 1 2 1 18 50 52 1 4 3 692 387 499 一閑 7 8 9 9 閑一一朋開 2 44 6 6 5 0 11 11 1 M川閖調肌一冊 21536 9 0000 0 43-1 0 1 |卯羽卯旧駆 17888 9 8 5 胴卵朗一Ⅲ’一’一一鋤 222 7 6 000 0 112 9 69583003363929718 12525177119500326 55299659023311577 000000900090000 555432623534522 1 9 1 6 1 7 1 0 5 7

(11)

これによると1951年から68年までの17年間に11億ドルもの物資の 援助をしており、小麦2.46億ドル、綿花2.6億ドル及び大豆1.25億ドル を中心に肥料0.5億ドル、金属機械0.45億ドル、潤滑油0.37億ドル、 化学製品0.33億ドル、獣脂0.35億ドル、粉ミルク0.27億ドル、医薬品 0.25億ドル、小麦粉0.24億ドル、葉タバコ0.17億ドル、その他繊維製 品、車両及び部品、紙パルプ、ゴム製品等と生活必需品万般にまたがっている。 そして、その援助は当時の状況を反映して50年の初期から60年の初期に集 中しているが、中でも肥料と繊維は後述するように緊急物資として政府が政策 的に育成し、早期にその自給率を高めそれぞれ53年及び56年には援助項目 から姿を消している。

次に、農業の増産についてであるが、台湾の農業はこれまでにもかなりの程

度発達しており、米糖を中心に輸出の余力さえ持っていた。これは豊富な雨量

と温暖な気候に恵まれている事に加えて、巧妙な水利濯概システムと勤勉な国

民性に支えられて、コア栽培として知られる多毛作による土地の高度利用が行

われていたからである。しかし、当時人口600万人の台湾に200万人もの

人口が短期間に流入してきたのであるから、これまでの農法では賄い切れず、

これまで以上の生産性を上げる農法の導入が緊急の課題であった。そこでアメ リカは両国で組織する「中国農村復興連合委員会」を通し資金と技術両面の援 助をおこないつつ、多肥料多収量農法で生産性を高めた。その結果、一連の農 業4ヵ年計画の実施を通し、台湾の農業生産は増加の一途をたどり、食糧およ

び工業原料を供給して賃金や物価を安定させただけでなく、輸出を広げて外貨

注:4 を獲得し、工業発展初期の「農業Iこよって工業を育てる」という目標を達成し、

工業発展の基礎を築いた。そのため、この当時のアメリカの資金と技術援助に

よって支えられたこの「農業によって工業を育てる」という政策の成功が、そ

の後の台湾の経済が順調に伸びてきた理由の一つである、と指摘する識者は多

い。 また、台湾は産業の基盤づくりの戦略として“電力”を要に据えた。「電力 はすべての産業活動のエネルギー源である」という考え方である。前述のよう

な事情から食糧増産は緊急課題である。そのため電力の供給能力を高め、先ず

-10-

(12)

食糧増産に不可欠の肥料工業への供給を優先し、その他鉄鋼、アルミといった

原材料、民生部門の繊維、建設資材のセメントといった部門への電力供給を目

論んでいた。

次の表1-3は表1-1の「防衛支援または開発ローン」および「直接軍事

支援」項目の中の「プロジェクト援助またはプロジェクトローン」項目を「プ

ロジェクトタイプ」として各産業別に見たものである。 表1-3プロジェクトタイプ産業別アメリカ援助受取額

嵜帯EIF晉夛雲:F需亟 ̄

ⅡPG「contage 12,938 12,313 20,728 28,803 35,646 32,102 42,890 29,726 55,176 32,412 23,805 6,629 1,825 46.589 371 381,953 98 252 1.885 1,077 1,925 941 1,345 1,070 ①23,069 1,081 767 327 163 256 59 34.315 677 3772 5,615 14,839 10,760 8,443 11’538 3,636 9,771 15,336 3,286 4.313 370 217 72 92,645

「]」「

1,098 2,070 3,615 5,046 4,612 55 210 195 344 729 3,250 7,190 6504 3599 2,326 2,984 955 785 641 689 240 30,431 83483 2740 721 150 192 271 235 2,0041160706 qRJl U6U 96」 in lLaBook(1991回2Itk -11-

(13)

これによるとプロジェクトタイプとして1951年から65年の14年間で 約3億8,200万ドルの援助を行っており、農業、鉱工業、電力、運輸、公衆 衛生、教育、行政、軍事、その他といった分野でプロジェクトが組まれていた 事がわかる。その中で最大の分野は電力で1億3,928万ドル、比率で見ると 全体の36.5%を占めている。次いで鉱工業の9,265万ドルで、24,2%、 運輸の5,055万ドルで、13.2%、農業の3,432万ドルとこれ等で全体 の約83%を占めている。 これらの事からも復興過程で緊急の程度に応じてプロジェクトが組まれ、援 助が行われてきた事が窺えるが、政府は前述の戦略に即して電力の開発に最も 力点を置き、アメリカの援助資金を最大限に導入してきた。ちなみに、195 2年から64年までに15の電力開発プロジェクトが完成されたが、そのほと んどすべてのプロジェクトがアメリカの資金援助を受けている。 表1-4は主要官営企業の資本支出(設備投資)状況を示したものであるが、 これからも分かるとおり電力部門が圧倒的に大きく5~6割を占めている。そ してより重要な事は、資本支出の源資の65%がアメリカ援助資金による点で ある。 表1-4主要官営企業の資本支出(設備投資)状況(1954-58年) (1.000jt,%)

‘'旧測|“M3`(1m0)|'…,('皿0)|'…('皿`)

費料:哀宏「国桝'二噸馴染経営概況」,)1+リ「台湾経済」1960年6胴.25N. -12- 1954 1956 1958 台湾電力公司 台湾糖案公司 台湾肥料公司 中|列石油公司 台湾アルミ公司 その他10社 307 41 13 33 8 40 952(69.1) 445(9.3) 255(3.0) 605(7.6) 385(1.9) 796(9.1) 518,839(50.7) 137`300(13.4) 246 35 16 69 184(24.0) 535(3.5) 199(1.6) 802(6.8) 1,277 223 288 424(64.6) 077(11.3) 657(14.6) 84.973(4.3) 20 82 445(1.0) 581(4.2) `汁15社 445.438(100.0) 023,859(100.0) 1,977.157(100.0)

(14)

この事からもアメリカの援助が政府の戦略を支えていた、ということができ る。その結果、電力供給量は1952年の14億2,000万kWから63年 には50億1,900万kWと、この間に3.5倍に増加している。そしてエネ ルギー構造も水力から火力へと大きく変化してきている。その間の電力需要の 82%は工業であり、業種別に見ると肥料20.8%、鉄鋼8.9%、アルミニ ュウム8.9%、紡績6.5%、セメント60%、製紙5.9%といった具合で、 政府の目論んだ意図通りに電力が需要されている事が分かる。 なかでも肥料は食糧増産と不可分の関係にあるため、政府はこの肥料工業の 振興に力を入れ、肥料を統制した。台湾肥料公司は1960年までには年間平 均20万トンを生産し国内消費の30%を自給するにすぎず、残り70%を輸 入に依存していた。そこで1960年にアメリカの貸付資金により、第6工場 (南港)が新設され、さらに花蓮窒素肥料公司を合併し第7工場とし、生産規 模を拡大した。これで生産量を一挙に40万トンに増やし、自給率を50%に 引き上げた。さらに1964年には台湾の国策会社中国石油公司とアメリカの スコニー・モビルおよびアイランド・ケミカル三者の共同出資で慕華連合化学 公司が設立され、初の民間肥料会社として肥料工業に参入し、自給率を一挙に 79%に引き上げた。こうして輸入代替をめざした肥料工業はやがて100% の自給率を遂げ、輸出に乗り出すまでに発展を遂げる。 (3)人材育成 この様に経済の基礎をなす基幹産業は目に見えて充実し、経済復興の推進力 として稼動し始め、以後台湾経済の牽引力の役割を十二分に発揮してきている ため、一般的にアメリカ援助の評価がこの辺に集中している。 しかし、ここで私が追加して強調したい事は、アメリカがこの援助項目の中 に「教育」という項目を峻別し、多岐にわたる近代的なエンジニアを中心とし たテクノクラートたちを育成した点である。 つまり、近代国家の経済運営及び基幹産業の育成はそれを企画・立案し、実 施・評価してゆく近代的経済行政プロパーのテクノクラート達が必要であり、 これらの基幹産業を建設し、稼働、維持、管理、補修してゆけるだけの高度の -13-

(15)

エンジニア達の存在が不可欠である。このためアメリカは援助項目の中に人材 育成のための項目を設け、上述の分野のみならず他の分野をも含めた台湾の復 興と併せて近代化のための人材育成を引き受けた。次の表がその内容を示して いる。 表1-5技術援助派遣人数 1990.12.31現在 申位:人 年次合業業迩姶公鰍'けfiliTマスコミw[’111その他 資料:TaiwanStatisticalDataBook(1991年版)より -14- 年次 合計 農業 工業 運輸 公衆衛生 教育 クー イ丁 政 マスコミ 軍事 その他 1 5 9 1 234 555 999 111 5 5 9 1 678 555 999 111 9 5 9 1 0 6 9 1 12 66 99 11 3456 6666 9999 1111 7 6 9 1 8901234567890123 6677777777778888 9999999999999999 1111111111111111 4 8 9 1 56 88 99 1I 7 8 9 1 890- 889a 999t 111o T 947 416 1 19712106180097457771700345432684305 33442777670444566544556454656578890 22222221211 1 56 89 8 9 2 0 4 川6卯帥佃開門閃駆別船舶測朋-8旧田川皿 686 0443 2111 7 3904 1111 74 I 1 2 0 1 10 22 8 6 1 1 1 0 0 1 56412975163988248110516777287783752632 4533556916722111231111111111111 3 62 19 9 l28024449753ll2l2334432300452542333l3l237 l1111121 11 2 2 8 |〃船Ⅳ犯皿 15 1 旧旧Ⅲ’’’一 111 322543624233365615550 8 2 旧一 7 4954680425 2543455453 0 1 ’5434’’一 11 1 127 3 1 9 4570454 1112111 7 3 6 1 |旧鯛 3 1 鋼旧一別旧加㈹ 7 1 7204468526 11111211 78151 11 3 1 3 1 7353273419 1112222332 9 7 6 3 4 12635 12233 5 3602 1112 8826 2331221152 1 1111 7312 6 2 2 6 4 8 4 ’一一ll6lll6一一一一6338631872532636341255 1 9 2822 1116 1

(16)

人材育成は1965年まではアメリカ援助プログラムの中で行われていたが、 以後も政府は人材育成の重要性に鑑み、継続して留学制度を設け、アメリカは それを受け入れている。この表によると1951年から90年までの39年間

に農業、工業、運輸といった基幹分野のみならず、公衆衛生、教育、行政、マ

スコミ、軍事、その他と民生部門も含め前述した各産業分野と並列して約4, 300人の留学・研修生が派遣されているが、これらの人数はアメリカの援助 プログラムが実施された期間に集中していた事が目につく。これは先進国アメ リカのこれらの産業分野のトランスファーのためのプロパー要員で、台湾はこ の援助期間にこれらの分野のシステムないしは技術をビルトインしたことを意 味する。

次に、各分野のトータルを見ると前述した復興期の食糧増産、自立発展へ向

けての基幹産業づくりという戦略を反映して農業および工業分野が最も多く、 この二つの分野で2,003人と、全体の半数近くを占めている。次いで派遣 人数が多いのが行政および教育分野で、それぞれ679人および637人とな っている。この二つの分野はそれぞれ政府の国家運営および国民の資質の向上

という重要な任務を担う分野であり、それぞれの推移を見ると新たな山ができ

てきているのが目につく。これは明らかに政府のこれらの分野を重視している

姿勢の現れであり、今後ともアメリカとの関係維持。強化の姿勢を示唆するも

のとも受け取られる。 次いで公衆衛生の280人、マスコミの262人、運輸の227人、軍事の

48人、その他162人となっている。公衆衛生は戦後の混乱で医療事情は極

度に悪化しており、食糧不足等により栄養摂取量も低下していたためマラリヤ、

風土病、栄養不良といったことから国民の疾病も多く、環境も不衛生であった

ため援助の重点がこの分野にもおかれたという事情もあるが、もともと先進国

はサニテーションにたいする感覚が敏感であることの現れでもある。マスコミ は民衆の公器であり、民主化の道具という観点からすると、この分野にも重点 が置かれたのはうなずけるが、現実には戒厳令下で発禁令が敷かれており、本

来の意図に反して政府の宣伝のための道具としてのみ活用された観がある。運

輸は復興過程はともかく、経済の発展過程ではインフラの充実は急務であり、

-15-

(17)

中でも交通・輸送期間の拡充・整備は緊急課題である。そういう意味ではこの 分野は今後とも戦略的に充実を図る必要があろう。 軍事分野が思ったより少ないが、これも前述のようにアメリカの台湾政策の 現れである。台湾を軍事強国にする意図はなく、有事の際には1945年12 月2曰に調印された「米華相互防衛条約」によりアメリカが表に出るという段 取りである。台湾は戦後以来、兵器のほとんどをアメリカからの贈与や購入に 依存している。ある統計によると1978年までの援助は無償援助31億1, 337万ドル、余剰兵器援助5億6,775万ドルおよび軍事装備購入10億 877万ドル、合計46億8,989万ドルに達しており、この額は前述のア メリカ援助総額の約3倍近くにもなる。しかし、沈剣虹駐米大使の当時の「中 注:5 華民国は現在までにアメリカカ、ら約25億ドルの軍事援助を受けた」という発 言の金額とは大きな乖離がある。 その後世界情勢の変化の過程で、アメリカの中共承認にともなって1979 年1月1曰には台米国交断絶、1980年1月1曰には「米華相互防衛条約」 も廃棄された。しかし、アメリカはその後も台湾の安全については依然重大な 関心をもち、1979年には台湾への武器輸出は停止したが、翌80年には輸 出を再開している。この様な事情と経過から台湾には軍需産業は育っていない。 このように台湾はアメリカの援助を受け、大量の人材を育成する事が出来た。 当時、アメリカはまた別に、沖縄を含め発展途上国を対象にした、人材育成 のためのプログラムを持っており、これらの国々からの派遣留学生を受入れ、 それぞれの国の戦後の指導者を育ててきた。表1-6がその内容を示している。 -16-

(18)

表1-6発展途上国別派遣留学生数 1986.12.31現在 資料:TaiwanStatisticalDataBook(1991年版)より -17- 年次 合計 カンポジア 日本 韓国 ラオス トルコ フィリピン 琉球 タイ ベトナム そOG 4 5 9 1 5 5 9 1 67 55 99 11 890123456 556666666 999999999 111111111 7890 6667 9999 1111 123 777 999 111 4 7 9 1 5678901 7777788 9999999 1111111 23 88 99 11 45 88 99 11 a t 、 4 648403 284457 13 53 71 34 17144 03909 34378 8 4 6 84 57 54 5 2 6 7 6 4 92 84 31 而岨旧〃|’’一一一一 9 0 7 9 7 9 3121 6 1 5 5654 5 2 一一皿 72 1 8720 2483 22 3782 1344 53 1 洲ⅢⅣ凪一一一一一一一一一一一皿 5 I 64 2 7 8 3 2 1 2 1 410622063115 1112633393 44 3 08731 13732 8 旧旧Ⅲ川肥一一一一一一一船 6 一一一一一一鯛 旧閲Ⅲ閃M閉開Ⅳ加肌|’|’’一一一一一一一一一一冊 111 2121 4 1 97 668 116 2 1 1 54315 42598 11 1 3 4 2 15794 02202 33213 3 1 2 脆〃鍋一一一一一一一一一一鍋 1 7 2 |脇印一 4 15258219 29984885 1 2 8 3 32500 69753 122 50 48 2 一一一一一一一一一一一別 2 0 2 1 316513241633 118 4 1 69 |’’一一一|祀

(19)

この表によるとこのプログラムは1954年から始まって、ニクソンのドル 防衛政策により打ち切られる78年まで続けられており、24年間で主に9カ 国を知将に約7,700人の派遣留学生を受け入れている。これはこの表に上 がっている国々から分かるように、当時共産主義と厳しく対時している国々か、 米軍基地を持っている国々で、アメリカの共産主義封じ込め政策の一翼を担っ ている国々である。例外はタイ国である。タイ国は戦後のアジア地域の植民地 からの解放と、その反動としての共産主義の台頭する地域の中にあって、王室

を堅持し、保守体制を維持して政治的にも安定している。そういう意味では共

産主義勢力に対しては格好のショウウインドウ的存在で、アメリカもこの国の

指導者をアメリカ流に育て、同盟化する必要があった。ベトナムは周知のよう

にアメリカが歴史始まって以来、大量に物的人的資源を投入して共産主義勢力

の浸透を食い止めるため南ベトナムを支援していたため、アメリカ流幹部人材

の育成にも熱がこもっていたのはうなずける。この様な事情から、この二ヵ国

で約5,000人に達している。しかし、南ベトナムはこれだけ大量の物的人的

支援を取り込みながら、共産主義の浸透を食い止める事は出来なかった。政府

とは一握りの特権階級の権力維持の為にあるのではなく、国民の安全と生活水

準の向上を信託されているという大前提を軽視し、援助の取り込みだけに専念

し、国民の生活向上が無視されていた為の結末である。結局、大国アメリカの

屋台骨を傾けて、南ベトナムは消滅した。

また、沖縄(資料上の名称は琉球)はその人口の比率からして格段に多い。

これは戦後アメリカの極東戦略上「キーストーン」として極めて重要な地理的

位置を占めており、その軍事的基地機能の維持、そして唯一アメリカの行政権

が及んでいる事等からもアメリカ社会に近い構造が望ましく、行政、民生万般

にわたりアメリカ流人材の育成に努めた事は想像に難くない。事実、当時の民

政府の幹部、大学の教官、政府系の企業の幹部、めぼしい大手企業の幹部はほ

とんどがアメリカ留学の経験者である。その意味で、ここには台湾の縮図の-

面をかいまみる事も出来る。その結果、沖縄は日本の中ではアメリカ留学の経

験者の比率が最も高く、英語人口も最も多く、アメリカ流に育成された人材は

豊富である。しかし、時勢柄か、基地の存在の弊害だけが強調されて、こうい

-18-

(20)

ったポテンシャルが見落とされている。

以上のように人材育成の面で周辺の国々との比較で見ても、台湾は一国とし

ては格段に多く、台湾が如何に人材育成の面でアメリカの援助を通して恩恵を

受けたかと云う事が分かる。

このようにアメリカの高等教育を受けたテクノクラートおよびエンジニア達

が官界、産業界にビルトインされ、戦略産業の育成、将来経済建設計画の策定

とその舵取りを担っていったが、これらのテクノクラート達はアメリカ留学を

通して、すでに世界経済の動向に精通しており、バランスのとれた時代認識を

身につけている。この事はこれまでの国民党の体質をも大きく変えたし、彼ら

の行った各段階での成果は国民の信頼を得るに値するものであったと云う事が

できる。事実、50年代の食糧増産を果たし、「農業をもって工業を育てる」

政策で工業の素地を築き、60年代で韓国に10年も先駆けて外資導入を行い、

不足している資本と技術の導入に成功し、「黄金の60年」を築き、台湾経済

に大きな飛躍をもたらしたし、70年代は二回にわたる石油ショックが起き、

世界経済に大きなインパクトを与えたが、台湾はこの時期「十大建設」に取り

組み、外需の減少を内需でカバーした。そして80年代には産業構造の高度化

とサービス業の発展を図ろための政策が展開されている。

これまでの成果は開発独裁と云われながらも経済面での運営は成功裡に導か

れ、台湾の国民も今の処、現状を是認しており、アメリカが期待していた共産

主義圏に対するショウウインドウの役割は十分に果たしていると云える。

そして、このようなアメリカ援助による留学制度は後述するように、副次的

に一般の民間企業へも影響を与え、政治の不透明さ、徴兵制度、官業あるいは

民間優良企業への就職、ビジネスチャンスの拡大等善悪さまざまな理由と動機

が影響しあって、若者のアメリカ留学の潮流を作り出した。このような潮流が

また台湾社会のアメリカ流近代化を促進し、アメリカを中心とした海外貿易拡

大の先兵の役割をも担っているのである。

-19-

(21)

2.民間部門の潜在的発展エネルギー(ポテンシアル) 一般的に発展途上国の発展段階あるいは戦後の復興期における産業の萌芽は、 その国の民生部門の需要に向けた輸入代替産業の発展をもってはじまる。しか し、これらの輸入代替産業が国内市場を満たし海外市場に打って出るというの は、一般的に難しい。逆に国内が安定し、市場が拡大してくると、この市場を 狙って海外の同業者が参入し、地場産業がシェアー争いに負けてしまうという 場合もある。そしてついに海外の企業に自国の民生部門の産業まで委ねてしま うという場合も住々にして見られる。しかし、台湾の場合はそうではなかった。 台湾においても復興期に食品、繊維、セメント、製紙といった民生部門が輸入 代替産業のリーディングセクターの役割を果たしたのは、他の発展途上国や戦 後の復興期の場合と同様である。しかし、台湾の場合、これらの部門が国内市 場を満たし、いち早く海外市場に乗り出し、成功をおさめ、輸出指向産業のリ ーディングセクターの役割をはたし、貿易立国の基礎を築いたのである。この 辺に台湾の官業が産業の分野で基幹産業部門を独占し、それ以外の分野でしか 活躍の場を与えられなかった民間部門の経済活動のポテンシャルの高さを見る 事ができる。従って、何故台湾のこれらの輸入代替産業が輸出指向産業へと成 長する事ができたのかに焦点をあてて考察してみたい。 また、台湾が貿易立国として飛躍を遂げたのは上述の民間部門の活躍以上に 外資導入の成功にあるが、この事も併せて考察する。 (1)繊維・セメント工業およびその他の産業 食品および繊維部門は発展途上国では発展への初発的産業であるが、台湾に おいても例外ではない。問題はこの部門がいかに国内需要を満たし、輸出産業 として成長していったかという事である。通常、発展途上国においては政府の 意図的な政策誘導がなく自然発生的に放置していては産業の発展は有り得ない。 そこで、ここでは当時の台湾の経済プロパーのテクノクラート達が、その当時 の時代背景の中でこれらの産業をいかに育成し、資本蓄積を可能ならしめ、輸 出余力を持たせ輸出産業のリーディングセクターとして育てていったかを見よ う。 -20-

(22)

食品産業の中の米糖は台湾の伝統的な輸出戦略産業であったため、政府は重

要な資金源としていち早く官営化したので、ここでは民間部門から急成長した

繊維産業とセメント産業についてその発展の過程を追ってみたい。

戦後台湾における繊維産業の起源は国民党とともに流入した、主に上海から

来た大陸資本である。それまでは台湾には一社のみが操業しており、国内需要

の5~10%を満たしているにすぎなかった。それが大陸からの繊維産業資本

の流入によって一挙に12社に増え、かなりの自給率を高めた。しかし、当時

台湾は外貨不足で原綿の入手が困難であったため、アメリカは援助項目の中に

原綿を含めこれをカバーした。しかし、これらの原綿が業者の手に自由に渡っ

たかというと、そうではない。非常事態下とあって軍事に直接間接つながる物

資は大なり小なり国民党政府が抑えていた。従って、この原綿も配給制にし、

かつ委託生産方式を取り、その出来高に応じて工賃として原綿を渡す、という

方式を取っていたのである。業者は工賃として分配された原綿を加工製品化し

て市場に販売し、その中から利潤を得る、というシステムである。これは一見

統制経済で業者の企業努力の限界を意味するが、それでも当時は恒常的な品不

足で売り手市場が続いていて、かなりの利潤をあげることができた。こういう

状況を見て民間部門から新規参入が始まり乱立の傾向が見え始め、当時として

は国民の所得も低かったため、国内市場は狭陰でたちどころに国内市場を満た

すまでになり生産過剰の状態を生み出していた。そこで政府はこの余剰生産物

のはけ口を海外に仕向けるため輸出振興策を制定したが、これがまた輸出の実

績の程度に応じて原綿の配給の量を決めるというかなり強引なものであった。

しかし、当時の民間企業に取っては他に選択の余地は無く、過当競争の中での

生き残りをかけて自ら海外市場開拓に乗り出した。この間の紡績業の生産額、

輸出額、製造業に占める比率、輸出に占める比率等の推移を示したのが表2-

1である。 -21-

(23)

表2-1紡績品の生産、輸出および原綿輸入状況(1952~63年) (100万JL,%)

'1J

注:1.輸出額は綿糸,綿イij,綿衣lUi,31.とおよび化、;繊維などの合`i1. 2.繊維原料の羊毛額には羊毛およびその製品を含む。資料のIRI係f,製品部分を区分 できないので,そのままの数字を列挙した。なお、この部分の金額は米ドルを、W年の 為替レートで台幣に換算したものである。 資料:自由中国之工業発行委員会鶴「円Ih中国之工業」,第20巻第1期(1963年)および第 23巻第2期,台湾銀行経済圏宮室編「台滴之対外貿易」より作成。 これによると生産額の伸びは堅調に伸び、製造業に占める比率は1960年 あたりまでは20%台を維持し、その後は外資系企業の進出に伴う産業構造の 変化の過程で相対的にそのシェアーを低下させている。そして輸出に本格的に 乗り出したのは59年代からで、輸出に占める割合も59年に8%、60年に 12.7%、61年には13.7%とI頂調に増加したが、62年の17.3%を ピークに減少に転じている。これは前述の事情を反映したものである。また繊 維原料の輸入について見ると、50年代の前半は原綿が主だったが60年代に 入ると化繊繊維や羊毛類も増えて製品の高度化の傾向を窺わせている。さらに 輸出額と繊維原料の輸入額の推移が接近してきているが、これは繊維工業の収 支バランスが均衡してきた事を意味し、国内需要分を稼いでいる事を意味して -22- 年次 生産額(指数) 製造業に 占める比 率 輪''1額 総輸'11に IITめる比 率 繊維I1l1料輪人 小51 原棉 化学繊 維原料 羊毛額 234567890123 555555556666 9 1 060357729965044676809878128190286008 くくくくくくくくくくくく1-222224445606035772996504568680987811111J11J1J1 0000009000,0 112222244456 253405730033 ●の●■●●■●●●●● 926318701677 122221122111 5 68862 17656 4 583 561 705 8 0 - -12 3879517734 ●●●●0●●●●● 0021182373 -111 42 65 13 38 18 44 7 7 4 1 6 5 4 8 4 95016 14476 70567 1112 6520 0536 1233 7 4 3 2 5 4 1 9 3 01247 69753 57018 111 6153855917 1221653438 12 2 7 2 9 6 6 42 76 56 115 62 54 58 110 123 181 245 260

(24)

いる。 しかし、一般的に発展途上国が自国で流通しているレベルの余剰商品の海外

市場を開拓するという事は並大抵の事ではなく、これが出来たところに台湾の

民間企業の発展の糸口があったといえる。 では何故これが出来たのか?一つには輸出市場の低所得者層をターゲットに

し、シェアーを拡大していた事があげられる。アメリカのような先進国におい

ても低所得層はいるわけで、繊維製品に限らず日常雑貨を含めた低廉で品質的

にも遜色がない台湾製のこれらの商品は、それなりの需要の隙間をうめていっ た。

また、海外市場開拓で功を奏したのは彼らが伝統的に身Iこってけている商才

に加えて、中小ないしは零細企業で、家族経営の形態が多くワンマン経営の色

彩が強いため、商業的取り引きの決断が早く、小回りを利かせながら臆せず果

敢に海外の市場を開拓していった。さらに、香港をキーペースにし、東南アジ

アを中心にして世界各国に根を張った華僑が彼らの流通のネットワークとして の役割を果たしている。とくに繊維製品の販路拡大には繊維産業の生産と流通 の分野で伝統と実績を持ち、言語、生活習慣的にも共通の香港が大きな役割を

果たした。ちなみに1958年から62年までの主な輸出市場を見ると、香港

30%、アメリカ29.1%、ベトナム10.3%、タイ8.9%といった具合 である。さらに、先程も見たようにアメリカ留学経験者がおり、海外経験者が おり、海外移住者がいて海外市場開拓の橋渡しをしてくれたからである。 次にセメントエ業について見てみよう。台湾は良質な石灰岩に恵まれていた

ため、地場産業として曰本統治の頃からすでにいくつかの近代的セメントエ業

が建設され、操業していた。それが農地改革を機に台湾セメント公司に統合さ

れ民間(当時の地主)に払い下げられたもので、いわば土着資本を代表する産

業部門と云う事が出来る。民営化以降しばらく台湾セメント公司一社が独占し

ていたが、1957年から嘉新、亜洲、環球等の新規参入があり、1963年 には合計10社までに増えたが、基本的には上記4社の寡占体制である。 セメントエ業の資本蓄積も基本的には政府の取った非常時体制下での重要管 理物資という強力な保護政策の下で展開され資本蓄積を可能にした。 -23-

(25)

まず販売対象について用途別に優先順位を決め、第一が純軍用工事、第二が 電力、水利、兵舎、第三が生産、運輸交通事業、公共建設、防空疎開施設、第 四が一般消費となっている。そして販売価格も生産量、コスト、利潤および軍 需の諸要因を判断基準にして政府が決め、さらに軍需と民需の二重価格を設定 した。このように政府の介入は一見統制経済の観がするが、繊維工業と同様、 結果的には手厚い保護として働き、寡占状態で着実に利潤をもたらした。これ によりセメントエ業も急速に自給率を達成し、1958年頃から海外市場に進 出し始めた。表2-2はこの間の状況を表している。 表2-2セメントの生産と消費および輸出状況(1952~64年) (1,000トン,%)

小計|内需1輪ロ.

資料:台湾区水泥工業同業公会資料「台湾銀行季刊」16巻3期 -24- 年次 生産(指数) 売上 ノ」、 計 内需 輸出 生産に占める 輸出の割合 2345678901234 5555555566666 9 1 0623426262315 JJJJjJJJjjJJ1 ●●●●●●●●●●●●● 0602257947712 0123332363100 1111112223455 くくくくくくくくくくくくく 6060135704151 4239901680634 4555560015822 79990ワ9 1111122 150 423 455 6 9 5 6 8 5 62 13 60 549 668 014 926 103 833 990999? 1111122 28 27 44 73668 09815 55567 4 5 9 87304 99425 01334 90999 11111 973 142 3 416 716 21 2 9 2 622 788 498 3035 ●●●● 4940 0464694 ●●●●●●● 7059539 21 1243

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先ず生産量の推移を見ると、台湾セメント公司一社だけの頃は45~60万 トン台であったが、前述の4社が参入した58年頃には約倍に近い100万ト ン台になり、国内市場を満たし輸出余力を持つまでになった。そして初めて生 産量の27%を輸出している。その後、輸出は国内の外資の急増に伴う輸出特 別区の建設等国内需要の急増で、59年には10.4%、60年には5.6%と 減少したが、60年代から始まったベトナム戦争の特需に支えられて再び40 %台まで輸出を延ばしてゆく。しかし、この頃の輸出市場としての東南アジア はセメントエ業が未発達の段階であったため、ベトナムだけではなく東南アジ ア各国を市場にしていた。ちなみに、1958年から64年までの集計ではベ トナムの40.8%が最も多いが、香港21.7%、フィリピン13.5%、韓 国11%となっている。 その生産額は1963年段階で、製造業の6.5%、輸出の3.8%を占めて おり輸出産業の一つに位置づけられている。 セメントエ業は資源依存型産業であり、台湾の場合はその原料としての良質 な石灰岩に恵まれていた事と、歴史的基盤がある事から、初発期から比較的成 熟した産業であり、国際優位性を持っていたため輸出主導型産業になり得た。 しかし、生産技術が比較的単純な装置系産業であるため各国の産業のレベルが 上がって来ると国際優位性を失う運命にあり、次第にその主役の位置を次期主 役産業に譲ってゆく。 また、復興期にはこの外さまざまな群小の業種が国内市場を中心に成長を遂 げた。この様な状況を示したのが次の表である。 -25-

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表2-31954年と1961年の業種別資本形成状況 (100ノノノ亡) l同定寅廠|在1,[‘;fl伯;*:l1IUIiMi(%)

:↑(lii鶴

注:]・各項上段は1954年,下段は1961年のそれぞれの数字。 2.倍率とは1954年の数字に対する1961年のそれの塒人倍数を示す。 3.貨幣値は鯵正せず,当年の貨幣値のままで表示した。なお,街リ 3.貨幣値は修正せず,当年の貨幣値のままで表示した。なお,貨幣値を物価指敗で比較して見ると, 1954年の物価指数を100とすれば1961年のそれは183である。したがって,実質倍率と実質増額は 表示された数字のほぼ55%程1Ⅱとみてよい。 資料:l台湾省工商業軒杏執行小411縄「台湾行I二商業濡査総報告(1954)」1956年,38-45r〔。 2.同「中華民国台湾省BiY二次工商業普査総報告(1961)」第三冊,1962年,2-11頁。 -26- 固定資廉 在1血 汁 イバ率 蝋纈 (%) 汁 (1954イ'二) (1961年) 3 21 718 549 20 89 09 00 27 5 29 800 539 5」 23,739 (100.0) 食品 飲科 夕(. 紡績 靴・帽・服 製材・竹木 家具装飾 製紙 印刷装丁 皮革 ゴム 化学 石油 非鉄金属鉱物 一次金属 金属 機械 電機 輸送機器 その他 6 3 2 1 913 615 134 673 132 453 604 141 34 333 118 841 15 165 310 868 60 326 9 50 48 '94 443 877 127 576 298 521 86 575 57 517 108 354 22 341 108 706 91 422 1 1 679 788 42 271 96 664 327 386 19 68 103 467 10 23 87 240 30 93 12 34 14 103 274 958 48 318 115 300 101 391 22 190 44 159 17 230 25 241 20 65 23648717311858780914277554317 9074213250202890912869-379128 541921954231314 2781848- 00 6 0 0 , 0 0 18 14 1 1 3 1 6 6 9 972 705 71 3 1 5 9 3 13717 73418 51914 34996958708414294614 ● G B ● ● ● ● ● ● 0 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 55447572444554583474 1 18968731935898 16894861263110 878530173 2174 0 0 0 0 0 3 1 6 3 1 9 7 7 812 263 635 46 17 83 1J1JJ11JJ1jjJ11JJ11J 73815670430109365246 ●●●●●●●●■●●●●●●●●●●● 83351403101335321231 2くくlくくIくくくくIくくくくくくくく く く く

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この期間はアメリカの経済援助を受けて復興に向けての一連の経済建設計画 が実施されている過程で、政府独占の戦略的基幹産業も、この間に育成されて ゆくが、同時並行して民生部門の食品、繊維、製材、製紙等の軽工業を中心に あらゆる分野にわたる民間部門の産業が資本蓄積を遂げ成長した事が分かる。 この段階では工業の高度化を表す石油、鉄鋼、機械、金属等の重工業はまだ 本格的な成長を見せていないが、金属、電器、輸送機器といった産業の高度化 への橋渡しをする部門の成長が目立つのは注目に値する。この様に各産業全般 にまたがって零細から中小企業へと成長しながら、同時に産業の高度化への橋 渡しをする部門の成長を伴なっているという点が経済発展のいわば内発要因と して最も重要である。この辺の産業の発達が次に来る外資導入の際の多国籍企 業の進出条件の大きな部分をなした事を考え併せると、ここにも民間部門で培 われたポテンシャルを見いだす事が出来る。というのは多国籍企業の台湾進出 の場合、石油コンビナート等の様な装置系資本集約型産業はワンセットで進出 するケースが多いが、曰本企業を中心とする機械、電器電子、輸送機器等の場 合は、それらを支える裾野産業がどの程度発達しているかが進出の決め手にな るからである。 (2)外資導入 一般に多国籍企業が進出して来る条件を考える場合、外的要因と内的要因が ある。その当時の外的要因としては欧米先進国および戦後の復興を遂げた日本 は、好景気が持続し、完全雇用に近い状況が実現していたため、労働市場で人 手不足が生じ、賃金の上昇が著しくなり、企業経営環境を圧迫していた。その ためこういった多国籍企業は、生産部門を低賃金国へシフトする事によって、 当面している経営難を乗り切る戦略に出たのである。つまり低賃金労働を求め て海外進出ブームが起きていた。一方、台湾には推計100万人もの比較的良 質の過剰労働人口が滞留していた。かくして、需要と供給がタイミングよく一 致した、という結果論的説明がなされる場合が多い。 しかし、この様な状況に積極的に対応するか、消極的に対応するかで、その 後の展開は大きく変わってくるものである。例えば中南米諸国はNIES的発 -27-

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展を早い次期から示しており、市場もある程度拡大していたので海外企業にと っては合併、技術提携あるいは単独進出といった具合に生産部門のシフトだけ でなく、市場拡大の対象にもなり得たので、こういった時期の進出先としては 格好な地域であった。事実、アメリカからは距離的にも近い事もあってかなり の企業が進出していろ。しかし、当時これら諸国の政府は自国の産業育成に対 して確固たる政策を持っていなかったため、大方の産業は外国企業の支配を許 してしまった。そのため、自立発展の余地を失い、その後の発展は緩慢となら ざるを得ず、アジアNIESに先を越されているのである。 次に内的条件を見てみよう。一般的に製造業が進出する条件は政治的安定を 条件として、低廉で安定したエネルギー、豊富な水、良質で安い労働力、成熟 した下請け産業の存在であり、場合によっては市場の存在である。この様な観 点から見た場合、台湾は政治面では不透明な点はあるが、アメリカがバックア ップしているという事で企業の信頼を得る事が出来た。エネルギーは基幹産業 の要として積極的に投資を進めてきており、政策的に必要とあらば、低価格政 策も取る姿勢であったし、水は豊富な年間降雨量を持っており、ダムも整備さ れていた。労働力については前述したようにかなりの程度教育された良質の労 働力が農村に滞留していたし、戒厳令下とあって労働争議は禁止されており、 物価も安定していたので賃金上昇も極めて緩慢だった。そして、電器電子、機 械工業分野に欠かせない下請け企業の成熟があった。 しかし、これらの好条件はあくまでも素地であって、これらの内的、外的好 要因が自然発生的に結び付いただけならば、これ程の発展は見られなかっただ ろう。ここにはアメリカ留学あるいは研修を通して世界の情勢あるいは経済動 向に精通したテクノクラート達が育っており、この様な多国籍企業の動向を察 知していた。そして、彼らが進める経済建設計画の中で目論んでいる戦略を展 開する際に、欠けているのは資本であり、技術である事を痛感していた。資本 と技術に渇望していた時期である。この“渇望”が彼等をして積極的な外資導 入策を打ち出させ、海外へと動き出したアメリカの多国籍企業の台湾進出を促 進させた。その後、曰米欧の多国籍企業がこういった動きを見て続々と台湾へ 進出してきた事は周知の通りである。 -28-

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具体的には、当時外貨獲得能力のある産業の育成を目論んで、輸出指向型工 業化戦略に沿って一連の経済建設計画が進められていたが、これと並行して外 貨を導入するため54年に「外国人投資条例」を制定し、次いで60年に「投 資奨励条例」、62年に「技術合作条例」、65年に「輸出加工区設置管理条 例」等を間断なく制定し、受入れのための法体系の整備を進めると同時に、貿 易面では外国為替レートを一本化し合理化を図った゜ちなみに新台貨(元)の 対米ドルレートは61年以降、1ドル=40元の水準で安定し、外貨の流入と 貿易の拡大の面で有利な条件として働いた。 その結果、台湾に進出した多国籍企業は台湾に欠けていた資本と技術を大量 にもたらしたし、また、地場産業は進出してきたこれらの外資と結び付いて飛 躍的に成長し、官営企業に匹敵するまでに成長した企業が出現するなど、新た な輸出指向型産業の系譜をつくった。 この様に現在の台湾には絶えず変化してゆく世界情勢を的確に捕らえて、経 済戦略を立て、その運営の舵取りをしてゆける人材が育っている。勿論、こう いった人材は官界ばかりではなく一般実業界、教育界、言論界、その他の分野 でも数多く育っており、台湾の経済社会のポテンシャルを高めているのは周知 の通りである。 -29-

参照

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