世
界
の
町
・
i
か
i
、…
靂
》
ら
/世界
の
都
市
か ら
:
チ
ュ
ー
リ
ヒ
佐
藤
滋
一
* は じ め に12345678910
地 理と人口 発 展の歴史 銀 行 鉄道 と交 通 目次 チュー
リヒ空港 チュー
リヒ の教 会 大 学 文 化 施 設 バー
ンホフ・
シュ トラー
セ チュー
リヒ の イベ ン ト 終わ りに 参 考 文 献 チュー
リヒ に関 する ホー
ム ペー
ジは じ め に
スイス連
邦
の首都
は とい えば、 その 旧市街
が ユ ネス コの 世界
遺 産に 登録 さ れ て い るベ ル ン Bじm で あるが、 ス イス 最 大の 都 市で 実 質上 の首都
とい っ てもよい のは チ t一
リヒである。 チュー
リヒ は、
ス イス経済
を 支 える金 融の中 心 地 であ り、2
大 銀 行の本 店だけで な く、 ス イス中央
銀行 Swiss
National
Bank
も首都
の ベ ル ンでは なく、 チュ
ー
リヒ に ある。(
ちな み に、毎
月 中央
銀 行の総 裁が集う
国 際 決 済 銀 行Bank
for
Intemational
Settlement
はバー
ゼ ル にある) チュー
リヒはス イス第一
の都 市である に もか か わ らず、
高 層 建 築 物は郊 外に限 られ、
実に落 ち着 きのある 町 で あ る。 物 価は他のヨー
ロ ッパ の 都市
と比べ れば高
い が、
こ れ は経 済 的 繁 栄の裏
返 し であっ て、 メイン・
ス トリー
トである バー
ンホフ・
シュ トラー
セ に は時 計 をは じ め多
くのブラ ン ド・
シ ョ ッ プが 立 ち並ぶ。 こ のよう な チュー
リヒ の一
部 を紹 介して み よう。
図1
市の紋 章 チュー
リ ヒ市の紋 章は 上 の よ う な もの で、
州の紋 章 もこ れ より もやや複 雑で あ るが、
似 てい る もの で あ る。
なお、
チ ュー
1丿ヒ の旗は 白と青で斜め左下 が 青 でこれ ら は市 内の い たる とこ ろで見ら れる。
ち な み に 市 電 の 色 も チュー
リッ ヒ 色で あ る。1
地
理 と
人
口
ZUエ
ich
(英 語では ズー
リック と発音
し、
ウム ラ ウ トは省 略 される)
は同名の州(
Kanton)
の 州 都で もあ り、
ス イス の 東 北 部に位置する。
地 形 的には、
チュー
リヒ湖Ztirichsee
か ら 流図
2
ス イスの主 要カ ン トン と チュー
リ ヒ州の 地図 れ出る リマ ト川 Limmat と ジー
ル川 Sihlが合 流 する 地域で あ り、
氷河 が運ん で きた推石(
モ レー
ン)
によっ て出 来てい る丘である チュー
リ ヒ ベ ル クZUrichberg
とユ ト リベ ル クUetliberg
との2
つ の斜 面に広がっ てい る。 町の標 高は409
メー
トル で ある。2003
年の チュー
リヒ市の人口 は36
万4528
人で、
その う ち、
スイス の 国 籍 を持つ ものは25
万5649
人、
70
.
1
% である。 したがっ て、
外 国 人の比 率 は29 .
9
%、10
万8879
人であ り、 ス イス の 中でも 外 国 人の比 率は高い 。 ま た、
チュー
リヒ市を含む同 名のチュー
リヒ 州の人口 は123
万7920
人で (2002
年12
月31
凵 現 在 )、
大 都 市 とい え ば人口 が100
万以 上である ヨー
ロ ッパ で は、
ぎ り ぎ り大 都 市に分 類 される が、
ロ ン ドン、
パ リ、
ベ ル リン等の他の 主要 国 の大 都 市と比べ ると、
規 模は はるかに小 さい 。 しか しなが ら、
生活の質はきわ めて高い のも魅 力である。 ス イス の一
入 当た りGDP
は2003
年 のOECD
統計
に よ れば、
ル ク セ ン ブ ル ク、
ノ ル ウェー
に続 き第
3
位で、43 ,
457
ドル で あるが、
こ の、多
くの部 分 が チュー
リヒ を 中 心とする金 融 活 動か ら生 み 出 さ れて い る。ス イス の公用 語は ド イッ語
、
フ ラン ス語、
イ タ リ ア語、 ロ マ ン シ ュ 語の4
つ で あ る が、
チュー
リヒは ド イッ語 圏に位 置 する。 た だ し、
ス イス の ド イツ語 はSwiss
Gerrnan
とい わ れる よう
に、標準
の ド イツ語 か らする とか な り方 言 が強 く、 ま た地 方によっ ては特 徴が あ り チュー
リヒ も独 特の方 言が話さ れてい る。2
発
展
の
歴
史
チュー
リヒの歴 史は紀 元 前3000
年 頃にチュー
リヒ湖の周辺 に ケル ト系の人々が住み始め たこ とに始まる。 湖の まわ りには石 器時 代、
青 銅 器 時代の遺 跡が残
っ て お り、
また、
そ れ らの時 代 の 出土品は国立博 物 館でみ るこ とがで きる。 紀元前15
年に は、
リマ ト川 を 行 き来 する船か ら、
徴 税 を行 うた めの ロー
マ の役 所が作ら れ た。 チ ュー
リ ヒ の 語源 は こ の 関税の た め の 関 所Turicum
に由 来してい る。
今日、
リン デ ン ホフ の丘Lindenhof
と呼ば れ、
リマ ト川を望 む 中 心 部に あ る 公 園 はこ の関 所が 要塞 化し たもの の名 残である。5
世紀 頃、 現在
の人々 の祖 先 とな る ゲルマ ン 系の人々がロー
マ 人を追い 出したが、 町の 重要 性は下がっ た。町 が大 きく発展し たのは
東
フ ラン ク 王国の時
図3
リンデンホフの 丘 よ り リマ ト川 対 岸の旧市 街 方 向を見る。 右端の二 つの塔の あ る の がグロー
ス ミュ ン スター
。 合成写真の た め、
魚眼的に 写っ て お り、
川 が 曲 がっ て 見 え るが、
本 当は こ の 辺 で は まっ すぐ に流れ ている。代に なっ て か らで ある。
853
年に カー
ル 大 帝の 孫の ドイツ の ルー
ドヴィ ヒ王が女 子修
道 院 を寄 進 したの であるが、
これ は、
今日の フラ ウ ミュ ン ス ター
である。12
世紀
頃、す
で に チュー
リヒ は絹 織 物、
毛 織 物、 リン ネル や皮の取 引で栄 えてい た。1300
年
頃には人口は約5000
人で あ り、
市の城 壁 もこ の こ ろ完 成した。1336
年には力を持っ た商 人たちは支 配 階 級で ある貴 族と対立 し た。 この 頃、
ギル ド(
ツン フ トZunft)
が多
く結
成さ れ た。今
日で もこれ ら の ギル ド・
ホー
ル す な わちッ ン フ トハ ウスZunfthaus
が残っ て お り、 その う ちの幾つ か は レ ス トラン とし て用い ら れ てい る。(
Zunfthaus zurnRUden
、
Zunfthaus
zur Saffran、
Zunfthaus zur Zilmnerleuten、 Zunfthaus zur Waag な ど)
ス イス 連邦は
1291
年8
月1
目に ウー
リ、 シュ ヴィー
ッ、
ウン ター
ヴァ ル デン の3
州に よっ て 結 成さ れ た。 チュー
リヒ は1351
年に連 邦に加 盟 し た。 こ の 前 後に、
ル ッ ェ ルン (1832
年 )、
グ ラー
ル ス とツー
ク(
1352年)、
ベ ル ン(
1353
年 )が加盟 し、 8
州 同盟 と な り、
オー
ス トリア のハ プス ブル ク家との抗 争が続い た。1519
年、
ツヴィ ング リ が チュー
リヒに や っ て きて、
宗 教 改 革の 嵐が吹 き荒れ た。 ッ ヴィ ン グ リ (Huldrych Zwingli、1584− 1531
)は22
歳 で グラー
ルス (ス イス の都 市 )の 司 教となっ たが、
や が て、
チ ュー
リヒの グロー
ス ミュ ン ス ター
の 司祭になる。 免 罪 符の売 買 を激しく攻 撃し、
信 仰に お ける唯一
の権 威は聖 書である と宣 言 し た。1523
年1
月チュー
リヒ市 庁 舎で ッ ヴィン グ リ に 反 対するもの と、賛
成 する もの と を集め て行わ れ た 公 開論争
はツヴィング リ側の勝利
に終 わっ た。
市 議 会が、
この新しい考 え方 を受け 入 れる こと を採 択し た か らであ る。 す ぐに チュー
リヒ は宗
教改革
の 拠 点と なっ た。 巡礼や儀 礼的更新、
ある種の 秘蹟 を廃
止 する.
方
で、
聖職 者の結 婚 を認め、 自分で も1524
年に結 婚 した。 ッ ヴィ ン グ リの宗
教 改 革の勢い に恐れ をな したカ トリッ ク系の諸 州(
ル ッェ ル ン、
ウー
リ、
シュ ヴィー
ッ、
ウン ター
ヴァ ル デ ン、
ッー
ク は団 結 して チュー
リヒ と対抗
し た がつ い に戦 争 とな り、
1531
年
10
月11
日 カッペ ル の戦 闘で ツ ヴィ ングリ は戦 死し た。 し か しその後、
宗 教 改 革は ドイツ系
ス イス全域 に広まっ て ゆ くこと となっ た。 ま さ しく 「プロ テス タンテ ィ ズ ム の倫理 と資 本主義の精 神 」がその後のチュー
リヒの繁
栄 を 支えた の で ある。ユ
8
世 紀には、
すで に 文化
的 な繁 栄が見ら れ た。1780
年
に は今 日のNeue
ZUrcher
Zeitung
が 発 行さ れ た。 こ の
新
聞は高 級 紙と して知られてい る。 1780 年に は一
時的に外国の 軍 隊 が チュー
リ ヒ を侵 略し た。1833
年に チュー
リヒ大 学が設立 さ れ た。1834
年には現 在の オペ ラハ ウス の前身
が 設立さ れ、
1850
/51
の シー
ズン には リヒ ャ ル ト・
ワー
グ ナー
Richard
Wagner
も指
揮 棒を振っ た。1847年
にはス イス 初の 鉄 道がパー
デ ン まで 開 通 し た。1869
年
に基 本法
が制 定さ れ た が、
こ の民 卞 的 な 基本法
は、
他の 州の基本 法の みな らず、
部分的に は1874
年
の連邦の 憲 法に も影 響を与え た。1867
年に は ド イッ語 圏で初 めて の女 性の博 士号
をチュー
リヒ大 学が与え た。1893
年には じ め て、市
町村
合併
が行
わ れ、12
万の人口 と なっ た。1916年
に は ダ ダ と呼ば れ る芸 術 運 動がこ の 町 で始まっ た。
1917
年
にレー
ニ ンがロ シ ア革 命 に向けて旅立っ た の もこ の チュー
リヒである。1928
年か ら1949
年
ごろ まで、
赤い チュー
リヒ と呼
ばれ る社 会 民主党が議 会で多
数を占め た。1933
年
か ら1945
年
頃に は、
チュー
リヒ は ナ チ ズ ム か らの逃 亡者の 受け 入 れの 地で あっ た。1946
年に は有 名な
Let
Europe
arise !とい う 演 説を1980− 81
年は、 学生 紛 争 の 時 代 で あっ た。 チュー
リヒは落 ち 着いた町であると上で書い た が、
歴史
を見
る と多
くの 避 難民を受
け入 れ、 ま た そ れ らの人々 の影響
もあっ て前衛
的な町で も ある。3
銀行
1956
年11
月12
日 に英国の労 働 党の影の内 閣の首
相で あっ たハ ロル ド・
ウィル ソ ン の 演 説で 、 ポン ド危機
に関し てスイスの銀 行 家を 批判し た表
現 に由 来 する、
チ ュー
リヒ の子 鬼た ちthe
Gnomes
of・Zurich
という
言 葉は、 こ の 国の銀 行 の世界 経 済に与 える影
響の大
き さ を物 語って い る。2
大 銀 行 (UBS
と ク レデ ィ・
ス イス) を は じ め多 くの銀 行が本 店を置い てい る。 大 銀 行 の本 店の建 物 とい っ て も、
日本の ように ほとん どが本店
の建 物の 中にある という
わ けで は な く、
本 店機構
は市
内外
に散
らばっ てお り、 他の部 署 が市内の 別の 建物 に あっ た り、
何 気 ない 建 物の1
画を入っ て み る と銀 行の機 構の一
部で あっ た りする。 効 率 的に はすべ て1
箇 所に集 まっ てい る日本のオフ ィス の方が優
れ てい るか もし れ な い が、
こ の よ うなオフ ィ ス の作 り方は個々 のオ フ ィサー
の責 任と権 限がは っ き りして い る とい う仕事
のや り方に由 来して い る。4
鉄 道 と交 通
ス イス の連 邦 鉄 道SBB
の 中 央 駅は国 内 だ け で な く、
ヨー
ロ ッ パ の主 要 都 市と結ば れてい る。
また、
ドイツ のICE
や フラン ス のTGV 、
イ タ リ アのCisalpino
な ど各
国 を代表す
る国 際特
急 列 車 をは じ め、S−Bahn
な ど多
くの列車
が乗 り 入 れてい る。 中央 駅 も長い 期間にわ た り改築
が 行われて きてい る。 地 上の ホー
ムはい わ ゆ る大
陸 式の 行 き止 ま りの ホー
ム で あ り、
地 下 はS−
Bahn
な どの通 り抜け方 式の ホー
ムで あ る。構
内に は多
くの商 店や レ ス トラン などが ある。市 内には路面電
車
が走っ てお り、
中心 部に は自
動 車の 乗 り入れ が制 限さ れて い る地区な どが あ る た め、 旅 行 者に とっ ては大
変に便
利な乗
り 物で ある。 ま た、
バ ス、
トロ リー
バ ス など と ともに市 内 の公 共 交通機
関を形 成してい る。中
央
駅の前
に立つ 銅像
はエ ッ シ ャー Alfred
Escher (
1819−
82
)で あ り、 政治 家と して活躍、 ドイツか ら イ タ リ ア ま での鉄 道 建 設資
金を調 達 する た め、
クレデ ィ・
ス イス を創
設し た。 と く にゴ ッダル ト・
トンネル を通し た功 績は大きい 。 図4
チュー
リ ヒ中 央駅1 を バー
ンホフ・
シュ ト ラー
セ か ら望 む。 市 電の上に見 えるの は エ ッ シャー
の銅 像。 通り の真ん中は市 電、 歩 道に は、
熊の人 形が見 える。 中央の上から ぶ ら下 がっ てい る の は
旗状
の 公 的広告
。5
チ
ュー
リ
ヒ
空 港
Flughafen
チュ
ー
リヒの空 港は郊 外のクロー
テン に あ り、1953
年
に 開港 し た。 日本
か らの直行便
もこ こ に 乗り 入 れてい る。 チュー
リヒ空港はヨー
ロ ッパ有数
のハ ブ空 港に なっ てい るの で、
スイス観 光 の 行 き帰 りに利 用さ れ た方 も多
い こ とであろ う。 最近 まで、
空港の大 改 造が行わ れて いた が現在
そ れ は終 了し、
大 変に便 利 な空 港となっ てい る。 空港
の 地 下 に は、 連 邦 鉄 道が乗 り入れてお り、
チュー
リヒ 中央 駅を始め、多
くの国内の.
駅 とも結ば れて い る。6
チ
ュー
リ ヒ の
教会
ヨ
ー
ロ ッパ の都市
の 中心 と なる のは市 庁舎
Rathaus と教 会である。 ●市庁舎
リマ ト側沿い にある
市庁舎
の建物
はバ ロ ッ ク の 建 物で 1694−
98
に建て ら れた もの で ある。
チュー
リヒ の教 会で主 な もの を挙 げてみ よう。 ●グロー
ス ミュ ン ス ター
(
大
聖堂)GrossmUnster
ッヴィ ングリ もい たこ の教 会は11− 13
世 紀に 建て ら れ たスイス最 大のロ マ ネス ク様 式 教 会で ある。 近 代 的なステ ン ド グ ラス は ジャ コ メ ッ テ ィ作
である。
2
つ の塔
は チュー
リヒ の シン ボ ルで もある。 ●フラ ウ ミュ ン ス ター
(
聖母 教会)FraumUnster
リマ ト川 左岸に立 ち、
チュー
リヒ で最 も観光 客 を 集め る こ の 教 会は、
ドイッ の 王ルー
ド ヴィ ッ ヒ2
世 によ り853
年
に建
立 さ れた尼僧
院 に そ の 歴史
は さ か の ぼ る。後
にゴシッ ク の様式
の 手が加 えら れ、
1723
年に時 計 等が付け加 え ら れ た。 教 会自
体は12
−
15
世 紀に建て ら れ た。 な お、
観 光 客を集め る 理由は、
シ ャ ガー
ル の ステ ン ドグラ ス (1970
年 )である。 ●サ ン ク ト・
ベー
ター
ス・
キル ヒ ェ(
聖 ペー
ター
教 会 )St.
Peter
チ ュ
ー
リヒ で もっ とも古
い 教 会で、
857
年
に はすで にその名 前が知ら れてい た。1534
年に建 て ら れた時 計 塔は、
文 字 盤 直 径8
.
7
メー
トル、
分 針4
メー
トル とヨー
ロ ッ パ 最 大の文 字盤であ る。 こ の塔はかつ て火の見や ぐら と して使 用さ れ てい た そうである。7
大学
チュー
リヒに はス イス を代 表 する2
つ の 大 学 が あ る。
(これ以 外に も大 学 レベ ルの 高 等 教 育機
関が幾つ かあるG)
チ ュー
リヒ大 学と連 邦工 科大学で あ る。 も と も と、 チュー
リヒ大 学は州 により創 設さ れ た が、
(現 在で は独立の法 人 )、
1908
年以降、
連 邦 政 府とチ ュー
リヒ州の 間で結
ばれた協 定に より、
密 接 な協 力 体 制が築か れ て い る。 これ ら2
つ の大
学は どち らもレヴェ ル の 高い大
学であ り、
アイン シュ タ イン、 マ ッ クス・
フ ォ ン・
ラウエ、
レ ン ト ゲ ン、
ヘ ル マ ン・
ヘ ッ セ 、 ア ン リ・
デュ ナン を始め、 多 くの ノー
ベ ル賞受賞
者が研 究・
教 鞭を とっ てい る。 ●チュー
リヒ大 学Universitat
・ZUrich
もともとあっ た、
ッ ヴィング リ に さかの ぼ る 神 学、
法学、
医学
の カ レッ ジ と新 し く設立 さ れ た哲学部
を統合
して大学
が設立 さ れ たの は1833
年で、 ヨー
ロ ッパ で 、 君主で は な く、 民 主 的 な 体 制の下 で作ら れ た最 初の大 学であ り、
ス イス 最大の 大 学であ る。 そ も そ も大 学Universiatat
は こ の4
つ の学 部が揃っ たものを言う
ので あ る。 ド イツ語 圏の 大 学で は、 学 部と と も に、 どのInstitut
か が よ く問わ れ る が、140
のlnstitut
があ る。Institut
という
の は 「学 科」
の よう
な 「研 究所 」のよう
な もので、 教 授を頂 点とする教 育・
研 究のグルー
プ・
講座 とい っ た もの である。 特に分 子生物 学、 脳 科 学、 人類 学な どの分 野で よ く知ら れ てい る。 現 在は7
学 部で学生数は23
,
421
人(
03
/04
冬 学 期 )、 内53.1
% が女 子 学生 で あ る。● 連 邦工 科 大 学
Die
Eidgen6ssische
Technische
Hochschule
ZUrich (
ETH
Ztirich
)
1855
年 にEidgen6ssisches
Polytechnikum
とし て設立 さ れ た当 時は
、
唯一
の連邦の大 学で あっ た が、
現在
では、EPF
Lausanne
と 他の4
研究 所と と も に 連邦工科 大 学群 を形成 し てい る。2004
年
現在
の 学生数
は12505
人 である。 な お、
連 邦工科 大 学の 建 物は、 こ この 教 授で も あっ た ゴ ッ トフ リー
ト・
ゼ ン パー Gottfried
Scmpcr
1803− 1879
に よ るもの である。これ らの大 学は中央 駅か ら見る と丘の上にあ り
、
中 央 駅か ら橋 を渡っ た とこ ろ か らケー
ブル カー
が連 絡 して い る。8
文化施
設
チ ュー
リヒ はス イス最 大の都 市である た めに 文 化 的に施 設 も充 実し てい る。 文 化 施設の充 実 は都 市の要 件の ひ とつ である。 ●国
立博物館
Schweizerisches Landesmuseumチュ
ー
リヒ駅のす
ぐ裏側
にあ り、古
城に作
ら れ た先史時代
か ら現在
まで の文化
や 歴史
を紹介
する幅 広い コ レ ク ショ ン を誇っ て い る。 開館 し た19
世 紀 末の頃は、
古い 教 会や 占城に博 物 館を つ くるのが 流 行だっ たが、
適 当 な古 城 が な かっ たの で、
こ のた めに建て ら れ た城である。 ● オペ ラハ ウスOpernhaus
チ ュー
リ ヒ に 初 め て の 常 設 の 劇 場Aktientheater
が出 来た の は1834
年
で、
こ の 劇 場 で は、
リヒャル ト・
ワー
グ ナー
もチュー
リヒ 時 代に活 躍 した。 こ の劇 場が火事
で消 失した後、
1891
年に ウ ィー
ン の建 築 家フ ェ ルナー
とヘ ル マー
に よ りネオバ ロ ッ ク様 式の現在
の 劇場 が建
て られた。1926
年に新 し く芝 居のた めの劇 場が 建てられた た め、
次 第にこの 劇 場は オペ ラ、
オ ペ レッ タ やバ レエ を 中心に上 演 する ように なっ た。
1982
年
か ら84
年に か けて 全面 的に改装 が行
われ た。 座席数
は1100
であ り、
比較
的 に客 席と 舞台
が近い。
また、多
くの著名
な(
という
こと は高 額 な)
指揮 者、
歌手が 出演 する ことで も知 られ、
今日で はもっ とも成 功し てい る オペ ラハ ゥ ス の ひ とつ で ある。 ● トー
ンハ レTonhalle
l895
年に作られたこの音楽
ホー
ル はブラー
ム こけら ス が 柿 落 とし に立 ち 会っ た ことで も知ら れ る 大 変に音 響 効果の よい 音楽
ホー
ル であ る。 ま た、
こ こ の トー
ンハ レ・
オー
ケス トラ の歴史は1868
年にまで遡る。数
々の 著名
な指揮
者が棒 を振っ てきた。 トー
ンハ レは チュー
リヒ市
や州の援 助 だけで な く、 近 くの ッー
ク市の助 成 も受
けて い る。 ス イス・
ロ マ ン ドがスイス の フ ラ ンス語 圏 を代表
する オー
ケス トラ であるな らば、
トー
ン ハ レは ドイツ語 圏 を代 表 する オ ケである。 ● 美 術 館 Kunsthaus ヨー
ロ ッ パ の美 術 館 とし ては、
い わゆ るOld
Masters の作
品は少
な く、 近代
の 画家
の作 品
が 中心 であ り、
フェ ル デ ィナン ト・
ホ ド ラー
、
ア ルベ ル ト・
ジャ コ メ ッテ ィ、
エ ドゥアル ト・
ム ンクなどが 充 実 して いる。1787
年 創 設。 ●ビュー
ル レ・
コ レ ク シ ョ ンSamm
lung
E .
G
BUhrle
実 業 家エ ミ
ー
ル・
ビュー
ル レが 収 集 した絵 画、
彫 刻が収 蔵さ れ てい る。 収 蔵 作 品の中 心は印象
派である。
この コ レク ショ ン はかつ て、
日本
で も公 開さ れ たことがある。 ●動物 園Zoo1925年
に創
立 さ れ た。 チュー
リヒベ ルクの 丘 の上にあ り、
2
,
000
頭 以.
.
ヒの動
物 を飼 育し てい る。市
と州 が そ れ ぞ れ12.
5
% を所有
する株式会
社である。 ●フ ル ン テルン墓 地Friedhof
Fluntern
チュー
リヒはすで に 述べ た ように、
ダ ダ イス ムの よう
な芸
術運動をう
み だ し た り、
ジェー
ム ス・
ジ ョ イスJames
Joyce
が居 住 し た町と して も知
ら れて い る。 ジ ョ イス の墓 はこ の墓 地にあ り、
す ぐ 近 くに はエ リアス・
カ ネッ テ ィElias
Canetti
の墓 もある。
9
バ
ー
ン ホ
フ
・シ
ュトラ
ー
セ
チュ
ー
リヒ 中央
駅か らチュー
リ ヒ湖 畔 まで の バー
ン ホフ・
シュ トラー
セBahnhofstrasse
は多
くの高 級ブティ ッ クやデパー
トなどが 立 ち並ぶ 買い物の中 心 地であるが、
真ん中を市電 が 通 り、
その
脇
が歩道
となっ て お り、自
動 車の交
通は制 限さ れてい る た め、
ま さ に買い 物をする た めの 通り
とい っ て よい 。 グロー
ブス や イェ ル モ リ、
マ ノ アー
な どの デパー
トの 間に、 こ の町の 出 身 で ある教育
者の名
を とっ たペ ス タロ ッチ公園が ある。 また、
バ リー
の本 店 などもこ の通 りの一
角を占めてい る。 市 電 が 分 岐 するパ ラ デ プラッ ッParadeplatz
と呼
ばれ る広 場は、
ホ テルや2
大銀行
の本店
な どのほ か に、
チ ョコ レー
トで有
名な シュ プル ン グ リSprifngli
の本 店がある。 さ ら にす すむ と湖 畔に 至 る。 これ を右
折 すれば トー
ンハ レ、 左 折し、 橋を渡 り、 湖 沿い に行 く と オペ ラハ ウス がある。 やっ た こ とが ある 。終
わ
り
に
チュー
リヒ は、 極めて高 度な イン フ ラを備え てい る に もか か わ らず、
町の中に は緑が残 り、
ま た、 主要 部は歩い て回れる範 囲にある極めて 経 済 的に も豊かな 町である。 郊 外に出 れば、
す ぐに緑
や 湖 が広が り、
また、
ス イス の 豊か な山岳
の観
光 も可能である。 自然資
源は如何
と もし 難い ものがある が、 この よう
な豊か な都 市の情 景を知
り、
我々 の今後
の都 市のあ り方の参
考に するこ と は可 能であろ う。 ま だ ま だ紹 介 すべ き ものも多
い が、
参 考にな れ ば幸い である。10
チ
ュー
リ
ヒ
の イ
ベ ン
ト
筆
者が経 験 し た チ ュー
リヒ の イベ ン トとし て は、 カー
ニ バ ル と テ ディ・
サマー
が ある。 カー
ニ バ ルは仮 装を した人々 が音 楽を奏で な がら練 り歩 く伝 統 行 事である。一
方の テデ ィ・
サマー
のほう
は、
最 近、
し ば しば不 定 期 的に よく行われてい る人気 イベ ン ト の一
つ で あ り、2005
年の夏のテー
マ がテ ディ・
ベ ァ であっ た という
ことである。 これ は、
空 港 や 町 中 に各
スポンサー
が そ れ ぞ れ に デザ インし た630
体
の熊
の 人形
を 置 き、競
い 合う
とい う も の で、
例 え ば、
シュ プル ング リの熊はシュ プル ン グ リ名物
の ル ク セ ン ブ ル グ ル リ とい うお菓 子 を全身
に デザインし たもの であっ た し、
ル イ・
ヴィ トン の熊は その かばん の上に座っ てい たり する ものである。観光局
のスポンサー
の もの の 巾にわ が国の学
生の もの も含
まれてい た。 こ の 種の イベ ン トは不 定 期に 企画さ れ その対象
が、
牛であっ た り、
あ るい はベ ンチ であっ た りする もの で、
また、 他の 町でも、 魚が町 中に お か れ てい たりし たの を見たこ と も あ る。 何年
か前
に 東 京の丸の内で、 牛の ヴァー
ジ ョ ン の もの を 参 考 文 献・
EyeW
liness
Tra vefGuides
Switzerland
2005