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チャールズ・テイラーの有神論的地平に関する考察

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Academic year: 2021

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Comparison of International Human Trafficking Issue and Policy Formation Process

between Japan and Korea

This study compares the dynamics of policy changes of Japan and Korea with respect to international human trafficking. Most of previous studies evaluated that the policy changes of Korea and Japan were due to the pressures from the UN Protocol and the Human Trafficking Report by U.S. State Department. As a matter of fact, Japan and Korea have quickly established the policies for punishment, prevention and protection when there was a criticism from the US. Therefore, the mainstream of previous studies has understood and argued that the policy changes were due to external pressures. It, however, cannot be asserted that the external pressures were the only cause of policy changes. In addition, most of the numerous papers or reports in both Korea and Japan focus more on evaluation of the established policies, not on the process of policy formation. This study attempts to analyze the policy changes with multilateral comparative analyses, focusing on the process of policy formation. As a result of the analyses, the study concluded that the changes in both countries were made more by domestic factors (social and political factors) than external pressures. Furthermore, understanding this fact will be helpful in terms of policy responses of both countries in the future, and meaningful in the strategic aspects of civil societies,which request policy change.

(KWAK, BYUNG IK, Doctor Program in International Relations, Graduate School of International Relations,Ritsumeikan University)

論�

チャールズ・テイラーの有神論的地平に�する��

松井信之

目次 序 1. テイラーの哲学的人間学の諸相 1-1. 「全体論的個人主義」 1-2. テイラーの有神論批判と応答 1-3.テイラーの宗教論への取り組み 2. テイラーの有神論と善の地平 2-1.「世俗性」の諸相と宗教の定義 2-2. 善を開く 3. 善の開示、あるいはキリスト教的なるもの 3-1. 規律と愛 3-2. 回心 3-3. 断絶と全一性 結論 序 今日における宗教とは、あるいは(ユダヤ‐)キリスト教とは何か 1 過去の伝統的な地平からの断絶、至高性や意味からの切断という感覚に対して、テイラー が抱く「小さからぬ希望」、すなわち、「…ユダヤ‐キリスト教の有神論に――歴史における その信奉者の前科がどれほどおぞましくとも――内在していると思う希望」、「およそ人間が 独力で成就できるものよりも完全な、神による人間の肯定というこの有神論の核にある約束 。今日において宗教 的であること、キリスト教的であること――それは存在論的にいかなる存在の仕方、、、、、であるの か。チャールズ・テイラー(Charles Taylor 1931-)に対して、この問いを発すること、そ して、この問いにおいて開かれるテイラーの哲学の様相を見据えることが本稿の主題である。

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に内在していると思う希望」、この希望は、生の十全性の回復へと向けられており、その十 全性は超越性と接して生起するのである 2 しかし、むしろ断絶とともに存在するなかで、生起する継続性があるのではないか。つま り、ユダヤ‐キリスト教的伝統に内在する「人間の肯定という…約束」が現在の地平から露 顕し、過去と未来を含めた歴史的時間の和解が実現し、また、その歴史的時間へと生が多様 に開かれて在ることのうちに顕現する継続性であり、こうして生の肯定という贈与性が連な り、全一的な継続性――本稿ではこの継続の概念を「存在肯定の全一的連繋」、あるいは単 に「全一的連繋」と呼ぶ――が生じるということだ。本稿の目的は、テイラー哲学から、以 上の継続性の概念を取り出すことである。そして、こうした時間概念がテイラーの有神論的 地平に核心として内在するものにほかならない。 。だが、地平の断絶と回復を敵対的に扱うことに 注意しなければならない。私たちは、断絶を乗り越える、、、、、ことで生を回復するとしばしば考え る。あるいは、継続は断絶と対をなすと考える傾向がある。意味の継続性の喪失による断絶 に対して、、、、、意味の継続性に向き直ることで、その断絶は否定されることになる、継続性は、 継続性である、と。 この際、彼をコミュニタリアン、多文化主義者という理解から切り離してみよう。地平の 断絶としての近代によって、共同体の共通善から切断された人間存在が「負荷なき自己 (unencumbered self)」であることは疑いのない 3 だが、これは、テイラー哲学がコミュニタリアン、多文化主義の側面を含まないことを意 味しない。むしろ、共通善や文化間の和解は、テイラー哲学の基調をなす。では、なぜそう した側面から切り離すのか。それは、彼の哲学を有神論において解釈することで、善や他者 との和解についての別の見方が可能になると考えられるからだ。すなわち、キリスト教的な 神の愛の伝統において開かれた存在にあることにおける共通善、諸善の善の、、、、、顕現=生起、、、、、にお ける他者との統一、こうした善と他者理解に関するヴィジョンが、テイラーの有神論的地平 から明らかになることなのだ。 。だが、そうした「負荷なき自己」と、 それに伴う政治的な機能不全を助長したとしてリベラリズムを「善に対する正の優位」と非 難したとして、どのような意味があるのか。共通善の伝統と人間存在を取り結んでみたとこ ろで、断絶と継続の対立的論理へと落ち込んでしまう。

1. テイラーの哲学的人間学の諸�

テイラーは、自らの思考を「哲学的人間学(philosophical anthropology)」の系譜に置く。 それは、人文・社会科学の「人間の研究において、自然科学をモデルにしようとする野望」、 すなわち「自然主義(naturalism)」の対抗軸としての知であり、「行為者(agency)として の自己の能力について議論を深める学問」である 4 テイラーの哲学的人間学を軸とする知の体系に対してどのような理解が提示されている のか。以下では、それについて整理し、批判的に吟味する。 。ここから、善、共同体、歴史、宗教な どの意味が問われる。 1-1. 「�体論的個人主義」 リベラリズムとコミュニタリアンの間の論争は、「個人か共同体か」という両者の優先順 位に関わるアポリアに集約される。論争の内部では、この問いに対して、共通善、寛容、多 様性、権利などの概念を軸に解答が提出される。周知のごとく、コミュニタリアンへの一般 的な批判は、共同体の優先による文化的多様性や諸個人の自由の抑圧が生じるというものだ。 コミュニタリアンとしてのテイラーも、この批判の対象として例外ではない。 だが、ここで取り上げたい議論は他にある。すなわちそれは、個人と共同体の両者の統合 の論理を模索する議論である。そして、そうした論理をコミュニタリアンから、あるいはテ イラーに看取する議論である。 井上達夫(1999)の「逞しきリベラリズム」論は、この論理の代表例であろう。井上は、 サンデル(およびテイラー)の共同体を基盤とした、「自己解釈的存在」論は、その基礎と しての「構成的共同体観」を掘り崩すものであり、むしろ、「正義の基底性」においてそう した存在論を再編成することで、リベラリズムに存在論的な「負荷」を加えようとする 5 井上は、この存在論に理解を示しつつも、それが単一の善の構想と結びつくことの不可能 性を指摘する。伝統に内在する善は、現在を生きる私たちの善き生の自律的な解釈によって のみ存在可能だ。「善き生を追求する伝統が生ける伝統であるかぎり、それは自己の単純再 生産ではありえず、模倣への意志すらもが創造的誤解の能動性を孕んでしまうような我々の 解釈的自律性によって活性化された伝統解釈の分裂・分化による自己増殖、すなわち『複生 。 自己解釈的存在(動物)は、歴史的に構成された共同体における善に自己が解釈を加えるこ とによって、人格を形成することを示す存在論的概念である。さらに、自己解釈的存在(動 物)としての自己は、共同体によって共有される善に対して能動的に解釈を加えるとだけで なく、そうした地平につねに、すでに規定されることによって道徳的直観を持ちつつ、存在 するのである。

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に内在していると思う希望」、この希望は、生の十全性の回復へと向けられており、その十 全性は超越性と接して生起するのである 2 しかし、むしろ断絶とともに存在するなかで、生起する継続性があるのではないか。つま り、ユダヤ‐キリスト教的伝統に内在する「人間の肯定という…約束」が現在の地平から露 顕し、過去と未来を含めた歴史的時間の和解が実現し、また、その歴史的時間へと生が多様 に開かれて在ることのうちに顕現する継続性であり、こうして生の肯定という贈与性が連な り、全一的な継続性――本稿ではこの継続の概念を「存在肯定の全一的連繋」、あるいは単 に「全一的連繋」と呼ぶ――が生じるということだ。本稿の目的は、テイラー哲学から、以 上の継続性の概念を取り出すことである。そして、こうした時間概念がテイラーの有神論的 地平に核心として内在するものにほかならない。 。だが、地平の断絶と回復を敵対的に扱うことに 注意しなければならない。私たちは、断絶を乗り越える、、、、、ことで生を回復するとしばしば考え る。あるいは、継続は断絶と対をなすと考える傾向がある。意味の継続性の喪失による断絶 に対して、、、、、意味の継続性に向き直ることで、その断絶は否定されることになる、継続性は、 継続性である、と。 この際、彼をコミュニタリアン、多文化主義者という理解から切り離してみよう。地平の 断絶としての近代によって、共同体の共通善から切断された人間存在が「負荷なき自己 (unencumbered self)」であることは疑いのない 3 だが、これは、テイラー哲学がコミュニタリアン、多文化主義の側面を含まないことを意 味しない。むしろ、共通善や文化間の和解は、テイラー哲学の基調をなす。では、なぜそう した側面から切り離すのか。それは、彼の哲学を有神論において解釈することで、善や他者 との和解についての別の見方が可能になると考えられるからだ。すなわち、キリスト教的な 神の愛の伝統において開かれた存在にあることにおける共通善、諸善の善の、、、、、顕現=生起、、、、、にお ける他者との統一、こうした善と他者理解に関するヴィジョンが、テイラーの有神論的地平 から明らかになることなのだ。 。だが、そうした「負荷なき自己」と、 それに伴う政治的な機能不全を助長したとしてリベラリズムを「善に対する正の優位」と非 難したとして、どのような意味があるのか。共通善の伝統と人間存在を取り結んでみたとこ ろで、断絶と継続の対立的論理へと落ち込んでしまう。

1. テイラーの哲学的人間学の諸�

テイラーは、自らの思考を「哲学的人間学(philosophical anthropology)」の系譜に置く。 それは、人文・社会科学の「人間の研究において、自然科学をモデルにしようとする野望」、 すなわち「自然主義(naturalism)」の対抗軸としての知であり、「行為者(agency)として の自己の能力について議論を深める学問」である 4 テイラーの哲学的人間学を軸とする知の体系に対してどのような理解が提示されている のか。以下では、それについて整理し、批判的に吟味する。 。ここから、善、共同体、歴史、宗教な どの意味が問われる。 1-1. 「�体論的個人主義」 リベラリズムとコミュニタリアンの間の論争は、「個人か共同体か」という両者の優先順 位に関わるアポリアに集約される。論争の内部では、この問いに対して、共通善、寛容、多 様性、権利などの概念を軸に解答が提出される。周知のごとく、コミュニタリアンへの一般 的な批判は、共同体の優先による文化的多様性や諸個人の自由の抑圧が生じるというものだ。 コミュニタリアンとしてのテイラーも、この批判の対象として例外ではない。 だが、ここで取り上げたい議論は他にある。すなわちそれは、個人と共同体の両者の統合 の論理を模索する議論である。そして、そうした論理をコミュニタリアンから、あるいはテ イラーに看取する議論である。 井上達夫(1999)の「逞しきリベラリズム」論は、この論理の代表例であろう。井上は、 サンデル(およびテイラー)の共同体を基盤とした、「自己解釈的存在」論は、その基礎と しての「構成的共同体観」を掘り崩すものであり、むしろ、「正義の基底性」においてそう した存在論を再編成することで、リベラリズムに存在論的な「負荷」を加えようとする 5 井上は、この存在論に理解を示しつつも、それが単一の善の構想と結びつくことの不可能 性を指摘する。伝統に内在する善は、現在を生きる私たちの善き生の自律的な解釈によって のみ存在可能だ。「善き生を追求する伝統が生ける伝統であるかぎり、それは自己の単純再 生産ではありえず、模倣への意志すらもが創造的誤解の能動性を孕んでしまうような我々の 解釈的自律性によって活性化された伝統解釈の分裂・分化による自己増殖、すなわち『複生 。 自己解釈的存在(動物)は、歴史的に構成された共同体における善に自己が解釈を加えるこ とによって、人格を形成することを示す存在論的概念である。さらに、自己解釈的存在(動 物)としての自己は、共同体によって共有される善に対して能動的に解釈を加えるとだけで なく、そうした地平につねに、すでに規定されることによって道徳的直観を持ちつつ、存在 するのである。

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proliferation)』の過程に絶えず置かれている6 中野(2007)は、以上の批判点に応答しようと試みている。彼は、「『リベラル‐コミュニ タリアン論争』においては、『コミュニタリアン』内部の差異は真剣に考察されることがほ とんどない 」。井上によれば、解釈的自律性の実践は、 コミュニタリアン的な政治の領域での卓抜性の実現にのみ見出されるのではなく、政治外的 な領域においても追求される諸個人の善の構想でなければならない。この理解を前提として、 善の構想の多様性への認識、また相互に学び合う姿勢を促す人間の可謬性を意識する倫理が 必要とされる。そして、善の多様性を内包しうる政治的原理が「正義の基底性」となる。 7」として、この論争における両者の平行線を打破する必要性を強調し、テイラ ー哲学の実相をより厳密に吟味し、コミュニタリアン内部の差異を明確化しようと試みる。 そこでの鍵概念が「全体論的個人主義」であり、その理論家としてのテイラー像である8 中野は、テイラー哲学を自己論、社会‐存在論、政治論へと分類し、個人主義的な倫理の 存立要件としての全体論の重要性を指摘し、ここから共和主義的な政治主体としてのコミュ ニタリアニズムが析出されることを明らかにした。言い換えれば、これらの三つの異なる領 域が、テイラーの議論では一貫性をもつ「全体論的個人主義」として体系化されているのだ。 この体系において、善により統合される共同体と諸個人の自由が両立可能であると理解され る。 。 確かに、自己‐社会‐政治の有機的連関において民主主義を考える視点は、テイラー哲学 に本質的なものだろう。だが、ここでの課題は、井上と中野の議論の優劣を決することでは ない。問題とすべきは、「個人も共同体も」という論理それ自体である。統合原理、、としての 善、統合作用、、としての正義は、当の論争のアポリアを解決するロジックとして提示されてい る。しかし、むしろ、そうした論争のアポリアを解くということへの拘泥が、問いを閉じて いないか。諸善の多様性は正義の基底性においてでしか存在できないのか。また、諸個人の 自由と倫理的な生を可能とする善とは、いかなる善であるのか。諸善の多様性を可能とする より高次な、、、、、〈善〉の地平があるのではないか。正義とは、むしろそうした〈善〉の帰結とし ての様態の一つではないのか。したがって、帰結としての正義の「基底性」を打ち破る〈善〉 があるのではないか9 すべきことは、問いを開くということではないのか。なぜなら、テイラー哲学が開拓した 領野は、長期的な歴史の展望のもとに善についての問いを開くものであると考えられるから である。私たちは、その視野から、共同体における伝統的な善の継続的な単純再生産ではな く、過去との断絶に、、、、、、、おいて、、、善の源泉に対する関係を築くということを読み取ることができる のである。そう考えたときに直面する問題が「われわれにとって宗教(キリスト教)的伝統」 。 とは何かということにほかならない。 1-2. テイラーの有神論批判と応� テイラー哲学の有神論的特徴は、しばしば指摘され、批判されてきた。例えば、ジェイム ズ(Susan James, 1994)は、テイラーの宗教論的な構想を前近代的な秩序へのノスタルジ ア、失われた神への回帰として批判する10 あるいは、テイラーの師であるバーリン(Isaiah Berlin, 1994)は、テイラーを評して、 「人間、あるいは全体的な宇宙(universe)が…根本的な目標を有していると心から信じる 者」と位置づける 。 11。バーリンは、目的が「自然や世界に対して彼ら(人間)によって課さ れるものである」と応酬する。バーリンにとって、テイラーの思想は、静態的、外的な目的 論・有神論を含んでおり、人間はその秩序を具現することを決定づけられているという特徴 を持っていることになる12 スキナー(Quentin Skinner, 1994)は、テイラーの有神論的ヴィジョンに対する最も苛 烈な批判を行っている 。 13。スキナーは、テイラーによって示された有神論的な構想、つまり 「神の存在を信じなければならない」と言うことを、歴史的誤認だと批判する。なぜなら、 近代の推進力としての啓蒙主義の功績は、神の存在への「直観を打ち砕いたこと」にあるか らだ。スキナーによれば、「神の死によって、人々は、人間性の価値を過去のいかなる時代 よりも十分に肯定する機会を与えられたのであり、それが義務として課されたのである」。 そして、人間の独立という近代的理念にもかかわらず、直観として有神論を示すことは無責 任ではないかという批判を投げかけている14 この種の批判は、「個人か共同体か」という静態的な二項対立の図式と類比的である。つ まり、有神論的伝統を共同体的抑圧と見なすことで、近代的な個人の自由を廃絶してしまう という論理だ。しかし、テイラーの有神論は、過去の単純再生産ではないことに注目せねば ならない。言い換えれば、神への信仰が自然であった地平から断絶した近代という時代の条 件下で、「有神論的」であるとはどういうことなのかを問うていると考えねばならない。 。 中野は、テイラーへの先の諸批判を捉えつつ、それらを「誤解」とし、モーガン(Michael Morgan, 1994)の見解、すなわち、「彼(テイラー)は、神と宗教がわれわれの道徳的生に おいて中心的役割を果たす『べき』だと直接論じているのではない…むしろ彼は細部にわた る分析によって、それが『可能である』ことを示しているのである15」という考えを妥当と 見なす。

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proliferation)』の過程に絶えず置かれている6 中野(2007)は、以上の批判点に応答しようと試みている。彼は、「『リベラル‐コミュニ タリアン論争』においては、『コミュニタリアン』内部の差異は真剣に考察されることがほ とんどない 」。井上によれば、解釈的自律性の実践は、 コミュニタリアン的な政治の領域での卓抜性の実現にのみ見出されるのではなく、政治外的 な領域においても追求される諸個人の善の構想でなければならない。この理解を前提として、 善の構想の多様性への認識、また相互に学び合う姿勢を促す人間の可謬性を意識する倫理が 必要とされる。そして、善の多様性を内包しうる政治的原理が「正義の基底性」となる。 7」として、この論争における両者の平行線を打破する必要性を強調し、テイラ ー哲学の実相をより厳密に吟味し、コミュニタリアン内部の差異を明確化しようと試みる。 そこでの鍵概念が「全体論的個人主義」であり、その理論家としてのテイラー像である8 中野は、テイラー哲学を自己論、社会‐存在論、政治論へと分類し、個人主義的な倫理の 存立要件としての全体論の重要性を指摘し、ここから共和主義的な政治主体としてのコミュ ニタリアニズムが析出されることを明らかにした。言い換えれば、これらの三つの異なる領 域が、テイラーの議論では一貫性をもつ「全体論的個人主義」として体系化されているのだ。 この体系において、善により統合される共同体と諸個人の自由が両立可能であると理解され る。 。 確かに、自己‐社会‐政治の有機的連関において民主主義を考える視点は、テイラー哲学 に本質的なものだろう。だが、ここでの課題は、井上と中野の議論の優劣を決することでは ない。問題とすべきは、「個人も共同体も」という論理それ自体である。統合原理、、としての 善、統合作用、、としての正義は、当の論争のアポリアを解決するロジックとして提示されてい る。しかし、むしろ、そうした論争のアポリアを解くということへの拘泥が、問いを閉じて いないか。諸善の多様性は正義の基底性においてでしか存在できないのか。また、諸個人の 自由と倫理的な生を可能とする善とは、いかなる善であるのか。諸善の多様性を可能とする より高次な、、、、、〈善〉の地平があるのではないか。正義とは、むしろそうした〈善〉の帰結とし ての様態の一つではないのか。したがって、帰結としての正義の「基底性」を打ち破る〈善〉 があるのではないか9 すべきことは、問いを開くということではないのか。なぜなら、テイラー哲学が開拓した 領野は、長期的な歴史の展望のもとに善についての問いを開くものであると考えられるから である。私たちは、その視野から、共同体における伝統的な善の継続的な単純再生産ではな く、過去との断絶に、、、、、、、おいて、、、善の源泉に対する関係を築くということを読み取ることができる のである。そう考えたときに直面する問題が「われわれにとって宗教(キリスト教)的伝統」 。 とは何かということにほかならない。 1-2. テイラーの有神論批判と応� テイラー哲学の有神論的特徴は、しばしば指摘され、批判されてきた。例えば、ジェイム ズ(Susan James, 1994)は、テイラーの宗教論的な構想を前近代的な秩序へのノスタルジ ア、失われた神への回帰として批判する10 あるいは、テイラーの師であるバーリン(Isaiah Berlin, 1994)は、テイラーを評して、 「人間、あるいは全体的な宇宙(universe)が…根本的な目標を有していると心から信じる 者」と位置づける 。 11。バーリンは、目的が「自然や世界に対して彼ら(人間)によって課さ れるものである」と応酬する。バーリンにとって、テイラーの思想は、静態的、外的な目的 論・有神論を含んでおり、人間はその秩序を具現することを決定づけられているという特徴 を持っていることになる12 スキナー(Quentin Skinner, 1994)は、テイラーの有神論的ヴィジョンに対する最も苛 烈な批判を行っている 。 13。スキナーは、テイラーによって示された有神論的な構想、つまり 「神の存在を信じなければならない」と言うことを、歴史的誤認だと批判する。なぜなら、 近代の推進力としての啓蒙主義の功績は、神の存在への「直観を打ち砕いたこと」にあるか らだ。スキナーによれば、「神の死によって、人々は、人間性の価値を過去のいかなる時代 よりも十分に肯定する機会を与えられたのであり、それが義務として課されたのである」。 そして、人間の独立という近代的理念にもかかわらず、直観として有神論を示すことは無責 任ではないかという批判を投げかけている14 この種の批判は、「個人か共同体か」という静態的な二項対立の図式と類比的である。つ まり、有神論的伝統を共同体的抑圧と見なすことで、近代的な個人の自由を廃絶してしまう という論理だ。しかし、テイラーの有神論は、過去の単純再生産ではないことに注目せねば ならない。言い換えれば、神への信仰が自然であった地平から断絶した近代という時代の条 件下で、「有神論的」であるとはどういうことなのかを問うていると考えねばならない。 。 中野は、テイラーへの先の諸批判を捉えつつ、それらを「誤解」とし、モーガン(Michael Morgan, 1994)の見解、すなわち、「彼(テイラー)は、神と宗教がわれわれの道徳的生に おいて中心的役割を果たす『べき』だと直接論じているのではない…むしろ彼は細部にわた る分析によって、それが『可能である』ことを示しているのである15」という考えを妥当と 見なす。

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また、スキナーの批判に対するテイラー自身の応答によれば、問題は、「信仰の有無」で はないと述べ、こうした論点に縛られると近代における新たな倫理的態度の可能性が逸せら れると危惧している。テイラーは、近代という条件において「いかなる肯定が可能か」と問 うているのである。すなわち、「神を拒絶することでは得られないような、神による人間性 の豊かな肯定という可能性もあるのではないか」ということであり、この可能性の追求は「た だやってみるしかない」という。反対に、リベラリな文化において生の肯定が完遂されたと 考えるのであれば、それは「リベラルの思い上がり」であると批判する16 小田川大典(2011)は、テイラーとスキナーの論争に際して、テイラーは、「…特定の『肯 定』の仕方を唯一の正解と捉えることの愚を指摘したに過ぎない」としている 。 17 しかし、テイラーが、多元的な生の肯定の在り方を認めれば問題に収拾がつくと考えてい るとは言えない。この意味で、私たちは、中野、モーガン、小田川らによって示された宗教 論についての考察から一歩踏み出さなければならない。言い換えれば、テイラーの宗教論を、 多元的な近代において宗教に居場所を与えるための理論であると考えるのではなく、それ以 上に強い意味で、テイラー哲学における、宗教(特にキリスト教)の存在意義を捉えなけれ ばならない。 。ここで、 小田川は、近代において可能となった態度を前提としてテイラーの有神論が展開されている ことに注目していると理解できる。 1-3.テイラーの宗教論への取り組み では、実際に、テイラーの宗教論を内在的に理解する試みは、どのようになされてきたか。 スミス(Nicholas Smith, 2002)は、テイラー哲学の体系的分析を通して、彼の宗教論が 啓蒙主義における「没文化的(acultural)」な自己論への批判の一環であり、啓蒙の「価値 中立性」は歴史的な道徳的想像力の構想と切り離すことはできないことを指摘する。すなわ ち、啓蒙主義における理性的自我は、歴史的必然性のなかで決定論的に形成されるのではな く、様々な歴史的な影響を被るなかで、何らかの善についての理解に規定されているという ことだ。スミスによれば、テイラーは近代において生じた諸々の思想潮流(ニーチェ主義も 含む)に含まれる善の構想が「あまりにも狭い」と批判し、善を開くという構想に取り組み、 宗教論もそのプロジェクトに含まれるという18 だが、むしろそうしたプロジェクトそれ自体が宗教的、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ユダヤ、、、‐キリスト教的と等価の関、、、、、、、、、、、 係にあるのではないか、、、、、、、、、、。テイラーは、キリスト教が現代においても信ずるに足ると言ってい 。 るのではない。今日において、ユダヤ‐キリスト教的であるとはいかなることであるのか、 そして、そうした存在の仕方の哲学的言明として「善を開く」と言っているのだ。 高田宏史(2011)は、日本において最もまとまった形でテイラーの有神論に関する研究を 提出している。高田は、テイラーの宗教論の全貌は明らかではないという問題意識から、テ イラーのカトリック的な思想と政治理論との関係性を明らかにしている。高田は、テイラー のカトリック的な理解から、特に文化的多元性を保持したまま統一性をもたらす民主政治の 可能性を看取している19 しかし、高田の議論においては、有神論と哲学的人間学の相互的内在関係が捉えられてい ない。一神教の現代的移行形態を、文化的多様性に統一性をもたらす世界の諸事物に内在的 な神の刻印というヘルダー的な神概念に見出し、それとテイラーの有神論の共鳴関係を論じ る点で一面的に妥当だが、他面では、テイラーにとってヘルダーの有神論は一つの哲学史的 参照点でしかないとも言えるのであり、その有神論的地平をいかにして哲学的に展開し、現 前させようとするのか明らかではない。ここに、テイラー哲学の有神論的地平を引き受ける 際の分岐点がある。すなわち、有神論的伝統を近代の多元的状況を承認することにおいて有 効な地平として見るか、あるいは、過去との断絶において善の開示を試みるなかで閉じられ た諸善が〈善〉の源泉なる愛へと露呈され、世界への関係性の基底変換が生じることにおい て有神論的、キリスト教的である在り方という展望において再解釈するか、という岐路であ る。本稿は、後者の道筋を探ることを試みる。 。

2. テイラーの有神論と善の地平

テイラーの『世俗の時代』(以下、『世俗』と表記)は、前近代から近代への移行における 宗教の漸進的消滅という議論に対して、「世俗性」という条件下での宗教とは何かを問う。 また、「世俗的」社会において、宗教が衰退していくのではないことは、事実として、宗教 的原理主義運動の問題化を見ても明らかであるが、現代的現象としての原理主義の回帰をし て宗教を定義するのではない仕方で、宗教を問うことが求められる。この課題こそ、テイラ ーの宗教論における、「キリスト教的なるもの」の現代的な発現に関わるものである。以下 では、過去との断絶としての近代が生じ、善の地平が閉じられるなかで、多元化した近代社 会像が前景化する世俗化の議論を見ていく。

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また、スキナーの批判に対するテイラー自身の応答によれば、問題は、「信仰の有無」で はないと述べ、こうした論点に縛られると近代における新たな倫理的態度の可能性が逸せら れると危惧している。テイラーは、近代という条件において「いかなる肯定が可能か」と問 うているのである。すなわち、「神を拒絶することでは得られないような、神による人間性 の豊かな肯定という可能性もあるのではないか」ということであり、この可能性の追求は「た だやってみるしかない」という。反対に、リベラリな文化において生の肯定が完遂されたと 考えるのであれば、それは「リベラルの思い上がり」であると批判する16 小田川大典(2011)は、テイラーとスキナーの論争に際して、テイラーは、「…特定の『肯 定』の仕方を唯一の正解と捉えることの愚を指摘したに過ぎない」としている 。 17 しかし、テイラーが、多元的な生の肯定の在り方を認めれば問題に収拾がつくと考えてい るとは言えない。この意味で、私たちは、中野、モーガン、小田川らによって示された宗教 論についての考察から一歩踏み出さなければならない。言い換えれば、テイラーの宗教論を、 多元的な近代において宗教に居場所を与えるための理論であると考えるのではなく、それ以 上に強い意味で、テイラー哲学における、宗教(特にキリスト教)の存在意義を捉えなけれ ばならない。 。ここで、 小田川は、近代において可能となった態度を前提としてテイラーの有神論が展開されている ことに注目していると理解できる。 1-3.テイラーの宗教論への取り組み では、実際に、テイラーの宗教論を内在的に理解する試みは、どのようになされてきたか。 スミス(Nicholas Smith, 2002)は、テイラー哲学の体系的分析を通して、彼の宗教論が 啓蒙主義における「没文化的(acultural)」な自己論への批判の一環であり、啓蒙の「価値 中立性」は歴史的な道徳的想像力の構想と切り離すことはできないことを指摘する。すなわ ち、啓蒙主義における理性的自我は、歴史的必然性のなかで決定論的に形成されるのではな く、様々な歴史的な影響を被るなかで、何らかの善についての理解に規定されているという ことだ。スミスによれば、テイラーは近代において生じた諸々の思想潮流(ニーチェ主義も 含む)に含まれる善の構想が「あまりにも狭い」と批判し、善を開くという構想に取り組み、 宗教論もそのプロジェクトに含まれるという18 だが、むしろそうしたプロジェクトそれ自体が宗教的、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ユダヤ、、、‐キリスト教的と等価の関、、、、、、、、、、、 係にあるのではないか、、、、、、、、、、。テイラーは、キリスト教が現代においても信ずるに足ると言ってい 。 るのではない。今日において、ユダヤ‐キリスト教的であるとはいかなることであるのか、 そして、そうした存在の仕方の哲学的言明として「善を開く」と言っているのだ。 高田宏史(2011)は、日本において最もまとまった形でテイラーの有神論に関する研究を 提出している。高田は、テイラーの宗教論の全貌は明らかではないという問題意識から、テ イラーのカトリック的な思想と政治理論との関係性を明らかにしている。高田は、テイラー のカトリック的な理解から、特に文化的多元性を保持したまま統一性をもたらす民主政治の 可能性を看取している19 しかし、高田の議論においては、有神論と哲学的人間学の相互的内在関係が捉えられてい ない。一神教の現代的移行形態を、文化的多様性に統一性をもたらす世界の諸事物に内在的 な神の刻印というヘルダー的な神概念に見出し、それとテイラーの有神論の共鳴関係を論じ る点で一面的に妥当だが、他面では、テイラーにとってヘルダーの有神論は一つの哲学史的 参照点でしかないとも言えるのであり、その有神論的地平をいかにして哲学的に展開し、現 前させようとするのか明らかではない。ここに、テイラー哲学の有神論的地平を引き受ける 際の分岐点がある。すなわち、有神論的伝統を近代の多元的状況を承認することにおいて有 効な地平として見るか、あるいは、過去との断絶において善の開示を試みるなかで閉じられ た諸善が〈善〉の源泉なる愛へと露呈され、世界への関係性の基底変換が生じることにおい て有神論的、キリスト教的である在り方という展望において再解釈するか、という岐路であ る。本稿は、後者の道筋を探ることを試みる。 。

2. テイラーの有神論と善の地平

テイラーの『世俗の時代』(以下、『世俗』と表記)は、前近代から近代への移行における 宗教の漸進的消滅という議論に対して、「世俗性」という条件下での宗教とは何かを問う。 また、「世俗的」社会において、宗教が衰退していくのではないことは、事実として、宗教 的原理主義運動の問題化を見ても明らかであるが、現代的現象としての原理主義の回帰をし て宗教を定義するのではない仕方で、宗教を問うことが求められる。この課題こそ、テイラ ーの宗教論における、「キリスト教的なるもの」の現代的な発現に関わるものである。以下 では、過去との断絶としての近代が生じ、善の地平が閉じられるなかで、多元化した近代社 会像が前景化する世俗化の議論を見ていく。

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2-1. 「世俗性」の諸�と宗教の�義 テイラーは、「世俗性」概念の問題性に注目する。彼は、「世俗性」という語が、主に二つ の意味において使用されると指摘する。 第一の意味での世俗化(「世俗主義1」)は、近代における公共圏と宗教の結びつきの解体 を意味するときの「世俗性」である。前近代の政治組織の正統性は、宗教的権威に基づき保 証された。人々の生活も、宗教と隣接して組織化され、「神と対面する」ことなしに社会的 空間に参与することができなかった。いわば、宗教が「どこにでも」あったのだ。これに対 し、近代における人々の準拠点は、「経済における最大利得」や「政治領域における最大多 数の最大幸福」などの分化した各領域における合理性に存する20 第二の意味での世俗化(「世俗主義2」)は、政教分離にもかかわらず、宗教的とされる国 家に関わる。例えばアメリカなどは、政教分離を謳う「世俗」国家だが、民衆の宗教的実践 への意識が比較的高い値を示している 。 21。この現象は「世俗主義1」の意味からでは説明で きない。ここから世俗性に関する第二の意味が生じる。すなわち、「人々が神に背を向け、 もはや教会には行かなくなるということ」を「世俗化」と解するということだ22 しかし、第三の意味での「世俗性」をテイラーは指摘する。それは、「信仰の諸条件」に 焦点を合わせるものである。信仰の諸条件ということによって、神を信じることが自明の前 提であった秩序から、神への信仰が「オプションの一つ」へと移行したことに「世俗性」の 意味を見出すことを示している。この意味で世俗性を捉えると、「宗教的な」アメリカでさ え「世俗的」だ。なぜなら、アメリカ社会における宗教への意識が高いとはいえ、それでも 宗教的信仰はオプションの一つだからだ。例えば、数字の上でアメリカ社会がイスラム諸国 やインドなどに信仰への参与率が匹敵していても、これらの間では「信じるとはどういうこ となのか(what it is to believe)」について異なる見解を持っていることは明らかである 。 23 そして、テイラーが『世俗』において依拠するのは、この第三の意味での世俗性(「世俗 主義3」)にほかならない。テイラーは、「世俗主義 3」における世俗性が、人間の生の背景 を構成していると理解している。そして、生の「理解の背景」としての世俗性、すなわち多 元的社会におけるオプショナルな宗教を問い直すことがテイラーの課題である。この課題を、 私たちは、生の条件としての「世俗性」を(過去との)地平‐断絶と読み替え、そこにおけ る「宗教とは何か」を問う試みとして理解できる。 。 ところで、テイラーは、宗教の「衰退論(subtraction story)」(無神論)と原理主義と の裂け目にある宗教性を探究しようと試みている24。また、無神論と宗教のそれぞれを、自 己の生における「生きられた経験(lived experience)」の異なる理解として再解釈する必要 性を主張している。これはどういうことだろうか。結局、無神論と宗教は、異なる生きられ た経験として引き裂かれるということか。あるいは、そういうものとして相互の領域侵犯を 制止しようとするのか。 テイラーは、人間を「特定の道徳的・精神的な輪郭を持つものとして見ている」存在であ るという。そうした人間の生きられた経験は、特定の場所、活動、状況などにおいて豊かさ、 「十全性(fullness)」、「濃密さ(richness)」を得るのであるが、これらの感覚は各人の道 徳的な輪郭においての経験ということになる25 ここで、問いが生じる――諸々の精神的輪郭への〈善〉の現前ということにおいて、存在 者が多様化し、開かれるなかで調和する統一性があるのではないか。さらに、こうした〈善〉 における存在の開かれと統一こそ、「神の愛(アガペー)」と名付けられた「ユダヤ‐キリス ト教的なるもの」ではないのか。 。だが、テイラー哲学が善を開示するという 構想において貫かれているのであれば、無神論や宗教を規定する暗黙の善の枠組は露呈され なければならないことになる。無神論と宗教は、生きられた経験として暗黙の善の地平へと 開かれなければならない。 これらの問いに引き止められつつ、テイラーにとって「宗教」とは何かを見ることは無駄 ではないだろう。彼は、宗教を超越性/内在性という区別から理解する。明確化のために、 デュルケムの宗教概念を見てみよう。すなわち、「一般に、あらゆる宗教的なものの特質と みなされているのは超自然の概念である。…われわれの悟性の範囲を超えた…超自然とは神 秘・不可知・不可解の世界である。…宗教とは科学あるいは全般的には明瞭な思惟を脱した ものすべてに対する一種の思索であろう 26 このことは、人間社会の繁栄についての記述に表れる。人間社会は、何らかの繁栄につい ての道徳的理解とともに成立する。例えば、キリスト教における人間の繁栄は、神によって 望まれるものだが、それ自体を目的としない。しばしばキリスト教においては実生活を断念 することが強調されるが、これは人間的繁栄が無価値だからではない。むしろ、キリスト教 はその価値を認め、他者の繁栄や神の意志であるところの繁栄を回復させるために、自己の 繁栄を断念すると理解される。これに対して、近代社会は、人間的な繁栄をいかなる超越性 によっても根拠づけることを認めない社会である 」。デュルケムにおいては、超越と内在の各領域 は、基本的に相互浸透するものとして考えられていない。これに対して、テイラーは、宗教 を「生きられた経験」とともに考えることにおいて、現実の生が超越/内在の相互浸透した 領域であると理解していると考えられる。 27。テイラーは、あらゆる超越性を排除す

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2-1. 「世俗性」の諸�と宗教の�義 テイラーは、「世俗性」概念の問題性に注目する。彼は、「世俗性」という語が、主に二つ の意味において使用されると指摘する。 第一の意味での世俗化(「世俗主義1」)は、近代における公共圏と宗教の結びつきの解体 を意味するときの「世俗性」である。前近代の政治組織の正統性は、宗教的権威に基づき保 証された。人々の生活も、宗教と隣接して組織化され、「神と対面する」ことなしに社会的 空間に参与することができなかった。いわば、宗教が「どこにでも」あったのだ。これに対 し、近代における人々の準拠点は、「経済における最大利得」や「政治領域における最大多 数の最大幸福」などの分化した各領域における合理性に存する20 第二の意味での世俗化(「世俗主義2」)は、政教分離にもかかわらず、宗教的とされる国 家に関わる。例えばアメリカなどは、政教分離を謳う「世俗」国家だが、民衆の宗教的実践 への意識が比較的高い値を示している 。 21。この現象は「世俗主義1」の意味からでは説明で きない。ここから世俗性に関する第二の意味が生じる。すなわち、「人々が神に背を向け、 もはや教会には行かなくなるということ」を「世俗化」と解するということだ22 しかし、第三の意味での「世俗性」をテイラーは指摘する。それは、「信仰の諸条件」に 焦点を合わせるものである。信仰の諸条件ということによって、神を信じることが自明の前 提であった秩序から、神への信仰が「オプションの一つ」へと移行したことに「世俗性」の 意味を見出すことを示している。この意味で世俗性を捉えると、「宗教的な」アメリカでさ え「世俗的」だ。なぜなら、アメリカ社会における宗教への意識が高いとはいえ、それでも 宗教的信仰はオプションの一つだからだ。例えば、数字の上でアメリカ社会がイスラム諸国 やインドなどに信仰への参与率が匹敵していても、これらの間では「信じるとはどういうこ となのか(what it is to believe)」について異なる見解を持っていることは明らかである 。 23 そして、テイラーが『世俗』において依拠するのは、この第三の意味での世俗性(「世俗 主義3」)にほかならない。テイラーは、「世俗主義 3」における世俗性が、人間の生の背景 を構成していると理解している。そして、生の「理解の背景」としての世俗性、すなわち多 元的社会におけるオプショナルな宗教を問い直すことがテイラーの課題である。この課題を、 私たちは、生の条件としての「世俗性」を(過去との)地平‐断絶と読み替え、そこにおけ る「宗教とは何か」を問う試みとして理解できる。 。 ところで、テイラーは、宗教の「衰退論(subtraction story)」(無神論)と原理主義と の裂け目にある宗教性を探究しようと試みている24。また、無神論と宗教のそれぞれを、自 己の生における「生きられた経験(lived experience)」の異なる理解として再解釈する必要 性を主張している。これはどういうことだろうか。結局、無神論と宗教は、異なる生きられ た経験として引き裂かれるということか。あるいは、そういうものとして相互の領域侵犯を 制止しようとするのか。 テイラーは、人間を「特定の道徳的・精神的な輪郭を持つものとして見ている」存在であ るという。そうした人間の生きられた経験は、特定の場所、活動、状況などにおいて豊かさ、 「十全性(fullness)」、「濃密さ(richness)」を得るのであるが、これらの感覚は各人の道 徳的な輪郭においての経験ということになる25 ここで、問いが生じる――諸々の精神的輪郭への〈善〉の現前ということにおいて、存在 者が多様化し、開かれるなかで調和する統一性があるのではないか。さらに、こうした〈善〉 における存在の開かれと統一こそ、「神の愛(アガペー)」と名付けられた「ユダヤ‐キリス ト教的なるもの」ではないのか。 。だが、テイラー哲学が善を開示するという 構想において貫かれているのであれば、無神論や宗教を規定する暗黙の善の枠組は露呈され なければならないことになる。無神論と宗教は、生きられた経験として暗黙の善の地平へと 開かれなければならない。 これらの問いに引き止められつつ、テイラーにとって「宗教」とは何かを見ることは無駄 ではないだろう。彼は、宗教を超越性/内在性という区別から理解する。明確化のために、 デュルケムの宗教概念を見てみよう。すなわち、「一般に、あらゆる宗教的なものの特質と みなされているのは超自然の概念である。…われわれの悟性の範囲を超えた…超自然とは神 秘・不可知・不可解の世界である。…宗教とは科学あるいは全般的には明瞭な思惟を脱した ものすべてに対する一種の思索であろう 26 このことは、人間社会の繁栄についての記述に表れる。人間社会は、何らかの繁栄につい ての道徳的理解とともに成立する。例えば、キリスト教における人間の繁栄は、神によって 望まれるものだが、それ自体を目的としない。しばしばキリスト教においては実生活を断念 することが強調されるが、これは人間的繁栄が無価値だからではない。むしろ、キリスト教 はその価値を認め、他者の繁栄や神の意志であるところの繁栄を回復させるために、自己の 繁栄を断念すると理解される。これに対して、近代社会は、人間的な繁栄をいかなる超越性 によっても根拠づけることを認めない社会である 」。デュルケムにおいては、超越と内在の各領域 は、基本的に相互浸透するものとして考えられていない。これに対して、テイラーは、宗教 を「生きられた経験」とともに考えることにおいて、現実の生が超越/内在の相互浸透した 領域であると理解していると考えられる。 27。テイラーは、あらゆる超越性を排除す

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る自己概念を「排他的人間主義(exclusive humanism)」と呼ぶ28 このことからテイラーは、宗教を、以下の三つの視点から定義する。第一に、「人間的繁 栄を超えた善なる高き存在があるという感覚」であり、例えばそれは、「アガペー」、すなわ ち神が人間に注ぐ愛ということに示される。第二に、神への愛や超越性へと自己を開くこと による自己の変容の可能性である。したがって、第三に、自然の領域や自己充足的な生を超 えて広がる生の可能性である 。 29 また、排他的人間主義でさえも、何らかの善の輪郭における生きられた経験であると理解 しなければならない。言い換えれば、この思想においても、超越論的な基底性が暗黙の地平 として伏在していると考えられるのである。 。だが、宗教を善なる超越的存在への信仰による内在的自己 の超越の経験と単に理解することはできない。むしろ、存在の閉じられた有限性=内在性を、 超越性の現前によって世界内に異なる内在性を持ち込むという経験を「宗教的」なるものと 理解することができる。 ここでテイラーの善の存在論を見る必要がある。そこにおいて、どのように善の地平が開 かれ、その開かれにおいて善く在ることとはどういうことなのか。 2-2. 善を開く 繰り返せば、「自我のあり方と善、…自我のあり方と道徳は、実は相互に分かちがたく結 び」ついている30。自己には、欲求に関して、それが望ましい/望ましくない、あるいは諸々 の質的な区別を明確にする言語を用いた反省と「分節化(articulation)」をする能力が備わ っている31。同時に、人間が生により善い、、、、説明を付与する、言い換えれば「私とは何者か」 ということのより善い、、、、説明ためには、先行的な自己解釈へと分け入り、質的区別のための言 語を獲得しなければならない。「自我(self)」であることは、「アイデンティティをもつ(あ るいはそれを見出そうと苦闘する)のに必要な深さと複雑さを備えた存在者だということ」 である。さらに、アイデンティティは、「ある言語の中へ導かれることなし」には成立しな い。「私たちが道徳的・精神的識別に関わる言語を最初に学ぶのは、私たちを育てる人々の 継続的会話の中へと連れていかれることによってである。…対話者たちとの関係においての み、私は自我たりうる…32 以上の善と自我との関係は、テイラーの哲学的人間学の骨子である。だが、この関係性を、 」。つまり自我は、「対話の網の目」の内部においてのみ存在しう るのであり、その対話における言語は、人間の生についての善や価値判断と密接に結びつい ている。 共同体の先行的な善の網の目に埋没するにすぎない自我と解釈することはできない。重要な ことは、善による自己規定性という条件において、人間は善を明確化しうるということであ る。 テイラーは、人間存在とは、何らかの善の明確化を通して人格的に形成されると述べる33。 すなわち、「…明確化が私たちを道徳の一源泉としての善へと近づけ、その善に力を与える ことができる…34 これがテイラーの言う「構成善(constitutive good)」にほかならない 」。ここで、「道徳の一源泉」たる「善」への接近とは何を意味するか。 35 そして、「道徳」は、「生活善(life good)」と言い換えることができる。この善は、構成 善から定義される、生活における善き行為や考え方の総称である。構成善との関係で定義さ れる生活善は、生の領域における義務や禁止の項目からなる。 。構成善は、人 間の行為における善/悪の境界を設定する。しかし、より重要なのは、構成善への愛が、私 たちを善き行為へと鼓舞することだ。また、構成善は「道徳的源泉」と換言される。「〈道徳 的源泉〉とは、それへの愛が私たちに力を与え、私たちが善をなし、善くあることを可能に するもののことである。この意味において、構成善は一つの道徳的源泉である」。したがっ て、善は、善/悪の境界設定を本質とはしない。構成善(道徳的源泉)として考えられるも のには、歴史的に大きく分けて三つのものが挙げられる。すなわち、古代ギリシアにおける 善のイデア、ユダヤ‐キリスト教的な神、そして近代における理性的自律性である。構成善 とは、さまざまな善のなかでも、階層的に最も高次の位置にあり、それぞれの構成善の特質 に従って、私たちの世界における内在的な諸善の構成を促す。したがって、構成善とは、人 間にとっての超越論的条件である。超越論的条件としての構成善は、人間が行為する世界に 対する理解を構成するという意味で、地平の基底としての絶対条件である。 さらに、生活善のなかで最も高次のものと見なされる善の類型が「最高善(hyper good)」 と呼ばれる。これは人や文化ごとにその位置づけが異なるが、人種差別の禁止や他者の権利 の侵害の禁止など、様々な義務や道徳的命題のなかでも、最も侵してはいけない、あるいは 守るべきものを示す。 重要なことは、構成善に目を向けることが、「義務的行為に関わる道徳理論の範囲をはる かに超えたところまで私たちを連れて行く36」ことだ。逆に言えば、もし私たちが、生活善 (最高善)の領域でのみ行為するならば、義務や禁止の項目に束縛され、生活善の正統性さ え危ういものになっていく可能性すらあると考えられる。 近代の内在的ヒューマニズムはもはや構成善に居場所を提供しない、あるいは、近代以前

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る自己概念を「排他的人間主義(exclusive humanism)」と呼ぶ28 このことからテイラーは、宗教を、以下の三つの視点から定義する。第一に、「人間的繁 栄を超えた善なる高き存在があるという感覚」であり、例えばそれは、「アガペー」、すなわ ち神が人間に注ぐ愛ということに示される。第二に、神への愛や超越性へと自己を開くこと による自己の変容の可能性である。したがって、第三に、自然の領域や自己充足的な生を超 えて広がる生の可能性である 。 29 また、排他的人間主義でさえも、何らかの善の輪郭における生きられた経験であると理解 しなければならない。言い換えれば、この思想においても、超越論的な基底性が暗黙の地平 として伏在していると考えられるのである。 。だが、宗教を善なる超越的存在への信仰による内在的自己 の超越の経験と単に理解することはできない。むしろ、存在の閉じられた有限性=内在性を、 超越性の現前によって世界内に異なる内在性を持ち込むという経験を「宗教的」なるものと 理解することができる。 ここでテイラーの善の存在論を見る必要がある。そこにおいて、どのように善の地平が開 かれ、その開かれにおいて善く在ることとはどういうことなのか。 2-2. 善を開く 繰り返せば、「自我のあり方と善、…自我のあり方と道徳は、実は相互に分かちがたく結 び」ついている30。自己には、欲求に関して、それが望ましい/望ましくない、あるいは諸々 の質的な区別を明確にする言語を用いた反省と「分節化(articulation)」をする能力が備わ っている31。同時に、人間が生により善い、、、、説明を付与する、言い換えれば「私とは何者か」 ということのより善い、、、、説明ためには、先行的な自己解釈へと分け入り、質的区別のための言 語を獲得しなければならない。「自我(self)」であることは、「アイデンティティをもつ(あ るいはそれを見出そうと苦闘する)のに必要な深さと複雑さを備えた存在者だということ」 である。さらに、アイデンティティは、「ある言語の中へ導かれることなし」には成立しな い。「私たちが道徳的・精神的識別に関わる言語を最初に学ぶのは、私たちを育てる人々の 継続的会話の中へと連れていかれることによってである。…対話者たちとの関係においての み、私は自我たりうる…32 以上の善と自我との関係は、テイラーの哲学的人間学の骨子である。だが、この関係性を、 」。つまり自我は、「対話の網の目」の内部においてのみ存在しう るのであり、その対話における言語は、人間の生についての善や価値判断と密接に結びつい ている。 共同体の先行的な善の網の目に埋没するにすぎない自我と解釈することはできない。重要な ことは、善による自己規定性という条件において、人間は善を明確化しうるということであ る。 テイラーは、人間存在とは、何らかの善の明確化を通して人格的に形成されると述べる33。 すなわち、「…明確化が私たちを道徳の一源泉としての善へと近づけ、その善に力を与える ことができる…34 これがテイラーの言う「構成善(constitutive good)」にほかならない 」。ここで、「道徳の一源泉」たる「善」への接近とは何を意味するか。 35 そして、「道徳」は、「生活善(life good)」と言い換えることができる。この善は、構成 善から定義される、生活における善き行為や考え方の総称である。構成善との関係で定義さ れる生活善は、生の領域における義務や禁止の項目からなる。 。構成善は、人 間の行為における善/悪の境界を設定する。しかし、より重要なのは、構成善への愛が、私 たちを善き行為へと鼓舞することだ。また、構成善は「道徳的源泉」と換言される。「〈道徳 的源泉〉とは、それへの愛が私たちに力を与え、私たちが善をなし、善くあることを可能に するもののことである。この意味において、構成善は一つの道徳的源泉である」。したがっ て、善は、善/悪の境界設定を本質とはしない。構成善(道徳的源泉)として考えられるも のには、歴史的に大きく分けて三つのものが挙げられる。すなわち、古代ギリシアにおける 善のイデア、ユダヤ‐キリスト教的な神、そして近代における理性的自律性である。構成善 とは、さまざまな善のなかでも、階層的に最も高次の位置にあり、それぞれの構成善の特質 に従って、私たちの世界における内在的な諸善の構成を促す。したがって、構成善とは、人 間にとっての超越論的条件である。超越論的条件としての構成善は、人間が行為する世界に 対する理解を構成するという意味で、地平の基底としての絶対条件である。 さらに、生活善のなかで最も高次のものと見なされる善の類型が「最高善(hyper good)」 と呼ばれる。これは人や文化ごとにその位置づけが異なるが、人種差別の禁止や他者の権利 の侵害の禁止など、様々な義務や道徳的命題のなかでも、最も侵してはいけない、あるいは 守るべきものを示す。 重要なことは、構成善に目を向けることが、「義務的行為に関わる道徳理論の範囲をはる かに超えたところまで私たちを連れて行く36」ことだ。逆に言えば、もし私たちが、生活善 (最高善)の領域でのみ行為するならば、義務や禁止の項目に束縛され、生活善の正統性さ え危ういものになっていく可能性すらあると考えられる。 近代の内在的ヒューマニズムはもはや構成善に居場所を提供しない、あるいは、近代以前

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の諸理論の道徳的源泉とまったく同じように機能するものは何もないと誰かが言ったと しても、それはかまわない。ただし、何かが依然として同じような役割を果たすというこ とに変わりはない。つまり、それとの関係がいくつかの行為や動機を高次のものとして定 義するような、そうした何かが存在するのである37。 テイラーは、近代においても、前近代とは異なる形で構成善へと関係する仕方が存在すると 主張している。その構成善の所在は、通常は前景化されていない。この前景化されていない 暗黙の地平を露顕させることこそ、善の明確化が意味するところである。諸善の彼方まで入 り込み、構成善の次元を露顕させる。そこに存在する多元的な構成善の様相――理性的自律 性、神の愛、イデア的宇宙観(、絶対的自由における主体の生成)――が現れるのだ。 だが、善の明確化はここで終わらない。むしろ、ここから始まると言える。もっと言えば、 テイラー哲学が暗黙の地平たる構成善から、、踏み出すことによって、理性的自律性という構成 善を歴史的に相対化し、神の愛(アガペー)を構成善として現前させている点で、構成善と いう多元的闘技場ア リ ー ナは、有神論的地平がそのエネルギーを生起=現前させる本領でもある。こ こに、近代の地平‐断絶において、アガペーの衝動を一身に引き受け、善へと存在者を開く ために論争を開始せんとする挑戦的なテイラーを見て取れる。 したがって、キリスト教の歴史的な探究は、善を開くための論争的な性格を示す。「善に ついての近代のさまざまな理解を明確化することは、歴史的な企てでなくてはならない。… 過去との関連でこのように自らを定義するという事実があるからこそ、私たちはこの過去を 再検討し、どのようにその過去を取り入れ、あるいは否認したのかを再検討せざるをえなく なる 38」。つまり、善を開くということは、構成善の多元的理解を許容することに重点があ るのではなく、それらの歴史的な相対性を暴き出し、より十全な生とは何かという問いに対 して、キリスト教的な神の愛に突き動かされ、存在者を人間的なるものを超えた領域へと開 くことを意味する。つまり、善の明確化とは、近代的な枠組における諸善の彼方にある高次 の〈善〉への意志であり、地平‐断絶を断絶そのものにおいて、ニヒリズムのうちから乗り 越え、より十全な善の地平を開示する存在論的な脱人間中心主義の試みなのだ。

3. 善の開示、あるいはキリスト教的なるもの

「歴史的な企て」としての善の明確化と有神論的地平との関係性とはどのようなものか。 ここでは、近代における宗教的世界観における規律化と、その世界像がアガペーの伝統に内 在する回心において開かれる様相をテイラーの有神論から取り出し、最後のH・G・ガダマ ーの哲学的解釈学における「地平の融合」に引き付けることによって、テイラーの有神論的 地平の内実をより厳密に規定する。 3-1. 規律と愛 ここで、テイラーの『世俗』における洞察を、規律と愛の伝統という区分において見る。 テイラーは、このような区分を用いていないが、彼の歴史的な考察をそのように区分して考 えることが有効と考えられる。だが、それらの伝統の系譜は長期的な展望に及んでいるため、 議論の詳細に立ち入ることはできない。したがって、それらの伝統の意味を確認し、それら の対置によって明らかになるものを論究する。 キリスト教における規律の伝統は、近代社会の出現と切り離すことができない。マック ス ・ ウ ェ ー バ ー が 「 脱 魔 術 化 」 と 呼 ぶ 過 程 は 、 宗 教 改 革 以 来 の 「 内 省 的 な 自 己 認 識 (introspective self-awareness)」の深化において進展した。呪術的世界においては、人間 に対して外因的な諸力が意味を課していたのに対し、脱魔術化の過程においては、意味が人 間自身によって再帰的に生み出されるようになる。これは、自己に外在的なものを排除し、 自己を対象化する遊離したスタンスを取ることを可能とする39 近代自然科学の発達は、脱魔術化の進路と関係している。そこにおいては、時間の内部 において因果的に作動する諸法則が導出される。すなわち、内在的に完結するメカニズムを 前提として、超越的時間という観念を排除し、観察が行なわれる。テイラーは、このような 時間や世界認識の変化を、「コスモス」から「ユニヴァース」への移行として捉える。「コス モス」は、超越的な実在を頂点として、世界の諸事物に意味が付与され、階層的に統合され た世界を意味しており、「ユニヴァース」は、それらの超越的な意味が剥奪され、内在的な 因果関係の観察を中心として諸事物の連関が探求され、またそうした法則において作動する 世界を意味する 。 40 世界との内在的な関係の構築にとって、宗教改革以後の歴史的展開は決定的である。宗教 改革以降、信仰をラディカルに問い直す態度が形成されていく。それに伴い、人間の世界と の関係は、道具的に規定されていく。つまり、神の目的は世界の内在的メカニズムにおいて 観察されるはずであり、その世界との効果的で合理的な関係性というものがあるという考え が形成されるのだ 。 41。さらに、カルヴァンによる規律的社会の構築が試行される。これは、 真のキリスト教的教義についての理解を一元化することによって導かれる普遍化(=同質

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