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LRAの基準 ―他に選択し得る基準が存する場合における本基準のより制限的な利用の勧め―

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(1). LRA の基準. 論 説. LRA の基準 ―他に選択し得る基準が存する場合における 本基準のより制限的な利用の勧め―. . 君塚 正臣. はじめに 法学部や法科大学院において憲法学に触れた人で、 「LRA(Less Restrictive Alternative)の基準」という言葉を知らぬ者は稀であろう。また、専門用語と. しての香りも適度にして、一度は使ってみたい誘惑に駆られること、この上な い。だが、その適切な用い方について、十分な議論がなされてきたのかについ ては、些か疑問である。 「LRA」 、 「より制限的でない」 、もしくはこれに類す る語で検索しても、極僅かの文献しか現れてこない1)ことは、その語が人口 に膾炙している度合いと、その分析・考察の深さが比例していないことを雄弁 に物語る。また、この基準については、 「必ずしも一貫した用法をもつもので はなく、学説の評価も一定していない」2)とも評され、実際にその捉え方は 拡散していると言って過言ではない。 しかし、このように、結局、何がその内容か、論者による齟齬が大きいまま 議論を進めることが適切であろうか。そして、この基準はどのように用いられ るべきであろうか。本稿は、改めて、この基準が日本で注目されるきっかけと なった猿払事件下級審判決と芦部信喜説の考察などから説き起こし、本基準の 103.

(2) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 意味と役割を再考することを目的とする。 1.裁判例再考 LRA の基準は、日本では何よりもまず、裁判例の中で登場し、注目された点 に特徴がある。そして、日本の裁判所が、明示的か暗示的かに拘らず、LRA の 基準による判断を下したのは、猿払事件一審判決が下されてから、これが最高 裁で覆されるまでの時期であり、 しかも、 ほぼ下級審限りであると言ってよい。 1968 年の猿払事件一審判決3)は、 「国家公務員法」が「米連邦のいわゆるハ ツチ法9条を母法とした」点から説き起こし、それ(「現行の連邦法典第5篇 7324 条」 )が「政治活動の禁止につき、我国国公法 110 条1項 19 号と異りもともと. 刑事罰による制裁の定めはない」ことを指摘し、また、 「イギリスにおいては、 1948 年および 53 年の公務員制度の改革により全公務員の約 62%にあたる、現 業公務員を含む下級公務員約 65 万人については、全く政治活動の制約が行わ れていない。憲法 15 条にいう全体の奉仕者なる概念はワイマール憲法に由来 するものであるが現在の西ドイツにおいて連邦官吏法の下で公務員は全体の奉 仕者である者を定められながら、他方その職業上の義務に抵触しない限り政治 活動の自由が認められている。我国の場合、昭和 42 年現在国公法の適用を受 ける公務員の総数中3割が現業公務員であり、米合衆国におけるとその様相を 異にし、むしろ、イギリスの現状に近い」点や、 「ILO105 号条約1条(a)は、 政治的な見解若しくは既存の政治的、社会的若しくは経済的制度に思想的に反 対する見解を抱き、若しくは発表することに対する制裁としてすべての種類の 強制労働を禁止し、かつこれを利用しないことを加盟諸国に求めるものであり、 我国としては、批准する方向で検討する旨国会で、政府の見解が示されている」 ことなども取り上げ、総じて、 「米合衆国においては勿論その余の近代民主主 義国家において公務員の政治活動禁止違反の行為に対し刑事罰を科している国 はない。法がある行為を禁じその禁止によつて国民の憲法上の権利にある程度 104.

(3) . LRA の基準. の制約が加えられる場合、その禁止行為に違反した場合に加えられるべき制裁 は、法目的を達成するに必要最小限度のものでなければならないと解される。 法の定めている制裁方法よりも、より狭い範囲の制裁方法があり、これによつ てもひとしく法目的を達成することができる場合には、法の定めている広い制 裁方法は法目的達成の必要最小限度を超えたものとして、違憲となる場合があ る」とし、 「通例の場合、懲戒処分のみというより狭い制裁方法で十分法目的 を達成することができることを示す」などと判示したのである。 その上で、 「国の政策決定に関与する高級公務員等が勤務時間中に組織的に 反政府的政治活動を行い、これが国の行政の能率的運営に重大な影響を及ぼす ことがある場合を考えれば、右政治活動に対し 82 条の懲役処分の制裁に止ま らず、110 条の刑事罰を科することも合理的と考えられる場合もないではない」 として、法令違憲とはしなかったものの、本件事案に適用すれば、 「労働組合が、 労働組合の目的の範囲内で政治活動を行うことは法の禁止するところでなく、 労働組合が、公職の候補者について特定人を組合として支援することを決定し、 且つ支援活動をすることは、その具体的方法が公職選挙法にふれない限り、法 の禁止していない」以上、 「国公法 110 条1項 19 号の刑事罰を科することは、 5現業に属する非管理職である職員に対する労働関係の規則を,国公法から公 労法に移し労働関係についての制約を緩和した趣旨に沿わないものであり、ひ いては公労法の適用を受ける労働組合の表現の自由を間接に制約するに至るも のである」ので、 「非管理職である現業公務員で、その職務内容が機械的労務 の提供に止まるものが、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ職 務を利用し、若しくはその公正を害する意図なしで行つた人事院規則 14-7、6 項 13 号の行為で且つ労働組合活動の一環として行われたと認められる所為に 刑事罰を加えることをその適用の範囲内に予定している国公法 110 条1項 19 号は、このような行為に適用される限度において、行為に対する制裁としては、 合理的にして必要最小限の域を超えたものと断ぜざるを得ない」として、 「被 告人に適用することができない」としたものである。判決文には、 「LRA」と 105.

(4) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). も「より制限的でない他に選択できる」そのものなどの語句は用いられていな いが、この判決は、LRA の基準による判断の日本における原点として考える べきものと言えよう4)。 同事件の控訴審判決5)も、 「立法府が国民の意思に基き右の調和点として秤 量選択したところが、法として制定された以上、よしんばおよそ立法に時とし て免れ難い不合理や不均衡ないし誤謬逸脱の廉があっても、それが顕著の故に 違憲であること明白と断じえない限りは、一般的にはできる限り司法審査の介 入はこれを差し控え、ひとえに国民の多数意思を反映する政治過程自体の裡に おいて是正修復されるべきものとする民主政の基本的機能に期待するのが、ま さに三権分立の建前と民主政の仕組に鑑みて司法審査の原則といわなければな らない」としながら、一審が「合理性の基準を採らず『同じ目的を達成できる、 より制限的でない他の選びうる手段』という基準に準拠したゆえんを考察する に、凡そ民主政はその自らの政治過程の裡に前記の如き柔軟な復元機能を喪う ことなく保持する限りにおいて生存しうるという意味において、言論の自由な いし政治活動の自由こそがまさに民主政の中核としてその死命を制する根本原 理というべきであるから、如何なる理由原因によるにせよひとたび右の自由が 制約されるにおいてはそれ丈右の復元機能は柔軟性を喪い、民主主義政治過程 に本質的な是正修復の方途を喪い果は麻痺硬塞という事態を招来することもあ りうるという重要性の故に、言論の自由ないし政治活動の自由をめぐる司法審 査については立法府の広汎な裁量を前提とする合理性の基準は必ずしも適切で ないとの配慮に基くと理解される」となどして、一審の判断を是認した。 また、全逓プラカード事件一審判決6)も、 「一般職の国家公務員のうち、ど の範囲のものについて政治的行為を制限するか、どの範囲の政治的行為を禁 止・制限するかは、第一次的に立法事項として国会の権限に属する。しかし、 ことは、憲法の保障する表現の自由の制限に関する問題であるから、国会が選 択した制限よりも『より制限的でない他の選択しうる手段』がある場合には、 その制限は法目的達成の必要最小限をこえるものとして違憲というべきであ 106.

(5) . LRA の基準. る」などと判示したのだった。但し、以上の判決は法令違憲の結論を導かず、 適用違憲の判断にとどまっていた7)点にも注意が必要である。 そして、 全逓本所支部横断幕事件控訴審判決8)も、 「控訴人の主張は、 理論上、 問題を混同しているばかりではなく、一般職の国家公務員の政治活動を職務、 権限にかかわりなく一律広汎に制限することによつて、憲法第 13 条の規定す る比例の原則を無視する結果となり、労働基本権や表現の自由についての違憲 審査の接近方法として、 『合理性』の基準をとらず、比例の原則ないし『より 制限的でない他の選択しうる手段』の原則を採用している判例の動向にも反す るのである」などと判示した。このほか、宮崎県青少年育成条例に関する一審 判決9)が、 「表現の自由が一般に優越的地位を有する人権であるとはいえ、そ れが青少年に向けられている限りにおいては、その表現の自由の制約に関する 合憲性判断の審査基準(より制限的でない他の手段が存するときは他の手段によらなけ ればならない、事前の抑制は原則として許されない、規制の対象は明確でなければならない). は、通常の場合ほど厳格性を要求されないものというべきである」と述べ、消 極的ではあるが、一般的には表現規制に関しては LRA の基準等が存在するこ とを示唆した例もある。判決としてはこの程度に留まるが、原告や控訴人の主 張として主張されることは非常に多いのである 10)。 以上は、表現の自由の侵害の事案であったが、それ以外の事例において LRA の基準に言及したとも考えられる判決もある。 「弊害除去の目的のため在 宅投票制度を廃止する場合に、右措置が合理性があると評価されるのは、右弊 害除去という同じ立法目的を達成できるより制限的でない他の選びうる手段が 存せずもしくはこれを利用できない場合に限られるものと解すべきであつて、 被告において右のようなより制限的でない他の選びうる手段が存せずもしくは これを利用できなかつたことを主張・立証しない限り、右制度を廃止した法律 改正は、違憲の措置となることを免れない」とする在宅投票制度違憲訴訟一審 11) は、LRA の基準によったという指摘もある 12)。そうであれば、表現の自由で はない、専ら選挙権に関する事例にも同基準は用いられたことになろう。また、 107.

(6) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 「争議行為が労組法1条1項の目的を達成するためのものであり、かつ、たん なる罷業または怠業等の不作為が存在するにとどまり、暴力の行使その他の不 当性を伴わない場合には、刑事制裁の対象とはならないと解するのが相当であ る」などと判示する、全逓東京中郵事件最高裁判決 13)についても、LRA の基 準による判断だと読めなくはない。そうであれば、労働基本権の領域でも、ま た、最高裁にまで、この基準の適用が拡大されたということになろう。 ところが、猿払事件最高裁判決 14)は「懲戒処分と刑罰とは、その目的、性 質、効果を異にする別個の制裁なのであるから、前者と後者を同列に置いて比 較し、司法判断によつて前者をもつてより制限的でない他の選びうる手段であ ると軽々に断定することは、相当ではないというべき」などと判示し、以上の ような流れは否定された。これにより、日本の裁判所による LRA の基準の適 用はほぼ終息してしまったのである。このため、国家公務員法 110 条を違憲と 判断した 2010 年3月の東京高裁判決 15)においてすらも、LRA の基準を主と して用いることなく、猿払事件最高裁判決が「指導判例として、その後長年に わたり,同様の法規制の合憲性判断の基準として機能してきた」ので、 「その 大枠に従い、この基準に準拠して判断」することとなったのであった 16)。 このように、LRA のテストとは、そのテストを否定した最高裁の理解まで 含めて考えても、 「その文言からもわかるように、規制の手段に焦点をあてて 違憲性の審査をする点に大きな特色を持っている」のであり、 「ある立法の合 憲性が問題となったとき、たとえその立法目的が適法であったとしても、その 立法目的を達成するためにその立法が採用している手段が必要最小限のもので あるかどうかを問い、その目的達成のためにより制限的でない他の手段を利用 することが可能であると判断される場合には、そこで採用されている手段が憲 法上保障された権利を必要以上に制限するものとして、その立法が違憲とされ る、というもの」17)の筈であった。そして、端緒は表現の自由の規制の事例 であり、ほかでは、判例が選挙権や労働基本権に足を伸ばした段階であったと もとれるレベルに過ぎず、いかなる人権侵害事例の場面でも用いられる一般的 108.

(7) . LRA の基準. 基準という認識はなかった点も、確認されるべきだったであろう。 2.日本における学説の受容 これに対して、日本の学界では、 「 『より制限的でない他の選択しうる手段』 の原則とは、結局、基本的人権の制約の程度は必要最小限度のものでなけれ ばならないという原則である」18)という田中和夫の初期の集約もあってか、 LRA の基準の有用性を疑問視し、あくまでも必要最小限度の基準によるべき だとする見解 19)も有力であった。しかし、田中も、続けて、 「単に『必要最小 限度』というよりは具体的な形をとつたものである」20)と述べており、裁判 例の理解のように、その基準の具体的適用の基準、特に、手段選択の際の最 小限度をより具体的に判断するテストであると理解が、萌芽としてあった 21)。 そしてまた、アメリカの判例法理としても、また日本における継受としても、 その基準がより積極的に展開されてきた場面が表現権規制の場面であったこ とも、見逃されなかった。佐藤幸治も、LRA の基準について、 「 『表現の自由』 については、その『優越的地位』に鑑み、とくに、 」 「より制限的でない他の選 択しうる手段が存しないか否か、が厳密に問われなければならない」と説明し た 22)。また、伊藤正己も、公務員の政治活動の自由に関して、 「かりに右のよ うな理由により、国家公務員法およびその委任をうけた人事院規則が違憲とは いえないとしても、具体的適用において、公務員の政治的中立性あるいはそれ に対する国民の信頼感を覆えす『明白かつ現在の危険』のある場合、 『より制 限的でない他の手段』の存在しない場合に初めて罰則を発動するように限定し、 精神的自由の制限を必要最小限度に限ることが妥当である」23)と述べ、それ が「厳格な審査に伴うものである」24)としているのは、これらの原則・基準 が主に法令審査の場面に妥当するのではないかとの疑義はあるものの、裁判例、 延いてはその引用してきた米判例理論に忠実なものだったように思われた 25)。 LRA の基準の日本の憲法学界での定着に大きく貢献したのは、芦部信喜で 109.

(8) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). ある。芦部は、LRA の基準がもともとアメリカの連邦最高裁が経済的自由の 分野で用いた基準であるものの、1940 年代になるとそれは放棄され、 「言論、 宗教の公使、結社および海外渡航のような基本的な個人的自由を侵害する国 家権力の規制にだけ適用している」26)点を紹介し、日本「における同種の憲 法事件にも、これとほぼ同じアプローチが妥当する」27)と主張した。そして、 より具体的には、この基準が、 「国家権力が特に精神的自由を間接的に規制す る場合、すなわち自由の内容に直接かかわりのない実質的で正当な利益(たと えば、行政の政治的中立性の維持、拘禁と戒護ないし矯正強化などの在監目的)を追求す. ることの結果、権利・自由が制限される場合に、主として用いられるところに 最も重要な一つの特色をもつもの」28)であると述べた。規制権力側に重い挙 証責任を負わせ 29)、これを厳格に適用することも含めて 30)、これが芦部説の 基軸であることは明らかであった 31)。このことは、教科書検定制度をこの観 点から憲法上疑問としている 32)ことや、在監者の新聞閲読の自由の事案への LRA の基準の適用を主張していること 33)からも傍証できる点である。 芦部は、LRA の基準とは、一方では、 「 『目的は正当で実質的でも、その目 的がより制限的に達成されうるときは、基本的な個人的自由の息を広汎にとめ るような手段で目的を追求することはできない。議会による(自由の)制限の 範囲は、同じ基本的目的を達成する、より徹底的でない手段に照らして考察さ れねばならない』 、という趣旨の基準である」34)としながら、他方では、 「立 法目的を無条件に正当なものと前提し、ただ目的を達成するための手段の合理 性を問題にする」もの「ではない」と説明していた 35)。そして、 「本来は主と して規制方法の面で用いられる基準」ではあるが、ただ、 「規制違反に対する 制裁の面で問題になり得ないかといえば、必ずしもそうではない」として 36)、 猿払事件下級審の立場を擁護したのであった。 ところが、芦部は、 「LRA の原則は、規制目的に民主的価値が認められ規制 権力側に権利・自由に対して一定の制約を加える理由がある場合で、しかも裁 判所が広汎な規制を設ける実質的利益がどの程度あるのか種々の要件を衡量し 110.

(9) . LRA の基準. て決定する場合に、通常用いられる」37)とする、一般性のある説明もしており、 そこから芦部説の LRA の基準の意味の変遷が始まりつつあった。LRA の基準 が「規制手段が広汎であり、裁判所がそういう手段をとる実質的利益がどの程 度あるのか種々の要件を衡量して決定する場合に、通常用いられる基準である。 これは、LRA がいわゆる『過度の広汎性』(overbreadth)の理論と結合して適 用される基準だということを意味する」38)との記述からは、過度に広汎性ゆ え無効の法理などとの区別が曖昧となっている印象もあったのである 39)。 そして、 「規制方法の面」で活用されるべきとした勢いから、芦部は、まず、 「時・所・方法の規制立法の場合には」表現「内容規制の場合よりも厳格度の 弱い基準で合憲性を検討すべきだと」し、 「具体的には事実判断を重視する『よ り制限的でない他の選びうる手段』 (Less Restrictive Alternative)の基準が適切だ」 とした 40)のである。この記述は、表現内容規制に関してはない 41)ので、芦部 が、LRA の基準を、表現内容中立規制の場面での合憲性判断基準もしくは司 法審査基準そのものと理解されていることを示していよう 42)。芦部は、これ らを纏めて、 「表現の自由の問題に適用される LRA の基準とは、立法目的は 表現内容には直接かかわりのない一定の正当な利益を追求している点で『十分 に重要なもの』として是認できるが、規制手段が広汎である点に問題のある法 令について、立法目的を達成できる他のより制限的でない手段の有無を具体的 に審査することによって、違憲か合憲かの結論を導き出す基準である」とした のである 43)。これは、 「過度の広汎性」に軸を置いた LRA の基準の理解と異 なるばかりか、猿払事件という、政治的表現であるが故に規制された事案で同 基準が用いられたことから離れ始めたように思われたのである。 「LRA の基準はいわゆる合理性の基準とその基本思想を大きく異にする」44) という点も強調していた芦部はまた、労働基本権についても、日本国憲法に関 しては「合衆国憲法のように明文で定められていない場合」とは異なり、全逓 東京中郵事件最高裁判決の判示するように、それが「 『生存権の保障を基本理 念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべき』目的を有している」 111.

(10) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). のであるから、 「 『合理性の認められる必要最小限度』の原則を具体化する憲法 判断の準則として、LRA の基準が適切ではないか」と述べ 45)、精神的自由以 外にも適用範囲を拡大した。経済的自由の規制に関しても、最高裁の薬事法違 憲判決 46)を、 「消極目的規制の場合には規制の『必要性・合理性』と、 『同じ 目的を達成できる、よりゆるやかな規制手段』の有無を、立法事実と関連づけ て審査する必要がある、という考え方を明らかにしたもの」47)と論評し、表 現内容中立規制の場面とは「合憲性推定原則の働き方に強弱の違いがあ」るも のの、 「この考え方は LRA の基準に当たる」と述べ 48)、更には、指紋押捺拒 否の事案について、 「この種のケースは『厳格な合理性』の基準(LRA 基準)に よって判断すべき」だと述べ 49)、ほぼ専ら中間的な司法審査基準が妥当する 領域で用いられる基準であるという誘導を行ったのである 50)。 このような、LRA の基準の変遷もしくは戦線拡大は、諸学説の随所に見ら れる。例えば、同基準を表現権規制の際の判断基準であるとしながらも、 「実 際に問題となるのは、そこで選択された手段・方法による人権侵害であるから、 この手段の実質的合理性を問う必要がある。表現の自由規制の現代的傾向は、 表現の時、場所、態様による規制だから、これらの合憲性を審査する方法とし て、この基準の有用性が期待されている」51)との叙述はその例である。 ま た、経済的自由の「警察的・消極目的規制 で あ る 場合 に は」 、 「規制目的 ととられた手段との実質的関連性を『必要最小限度の基準』とか『LRA の基 準』などの判断基準を用いて、立ち入って審査する『厳格な合理性の基準』が とられるべきである」52)などとする見解も多い。加えて、そのような説では、 精神的自由の領域では「厳格な審査基準」が妥当するなどとされ、そこには LRA の基準が触れられていない 53)ので、LRA の基準は専ら中間審査(厳格な 合理性の基準)下の判断基準であることが示唆されているのである. 54). 。突き進ん. で、中間審査とは、 「目的が『重要な(実質的な)政府利益』か否か、その手段 には『十分な合理性』が有り目的と手段との間に『実質的関連性』があるか否 か、 一般には『より制限的でない他に選び得る手段(LRA)』であるか否か」 「で 112.

(11) . LRA の基準. 判断される」もの 55)だとして、LRA の基準が中間審査基準の専属的一要素で あるという記述も一般化するようになってきたのである 56)。 右崎正博は、在宅投票制度違憲訴訟第一審判決を LRA の基準による判決と して紹介する 57)。判決は「被告において右のようなより制限的でない他の選 びうる手段が存せずもしくはこれを利用できなかったことを主張・立証しない 限り、右制度を廃止した法律改正は、違憲の措置となることを免れない」と判 示しているが、右崎もこれを LRA の基準、特に、立証責任を国側に負わせた ものとして紹介した。これに続いて、右崎は、最高裁による薬事法違憲判決も また、LRA の基準による判断であるという紹介をしている 58)。LRA の基準は、 「制裁の部分に向けて適用」するばかりではなく、 「制裁の範囲・程度も『必要 最小限度』の原則に服する」ので、規制範囲の問題もまたこの原則の射程内で あると理解した 59)。そして、本判決についても、 「医薬品の製造、貯蔵、販売 の全過程を通じてその品質の保障及び保全上の種々の厳重な規制」 、 「罰則及び 許可又は免許の取消等の制裁」 、 「競争が激化している一部地域に限つて重点的 に監視を強化する」などの手段があると述べている点などを重視し、LRA の 基準によるものであると理解したのである。LRA の基準は拡張され、違憲判 断の際に、人権抑圧的でない手段が例示されたものは、広く同基準の適用され たものとして理解されていったのである。 以上のような立場を集大成したものとして、藤井俊夫説があるように思える。 藤井は、 「LRA のテスト(基準)とは、合衆国の違憲審査において、ある法律 によって採用されている規制が強力すぎるために、その法律は憲法上保障さ れた権利を侵害するものとして無効であると宣言される際の、一つの根拠」60) であると定義して議論を始め、この意味を広げていったのである。 藤井は、アメリカ連邦最高裁判所の判例を分析する中で、まずは経済規制の 判例を分析するが、20 世紀初頭の経済的実体的デュー・プロセス理論の時代 61) には、 「法律が、正当な立法目的を達成するために必要なもの以上のことを、 自由権とか財産権に対して押しつけてはならない」62)とされていたが、経済 113.

(12) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 的実体的デュー・プロセス理論の衰退 63)があり、その結果、 「立法裁量が強調 されればされる程、LRA の吟味の意義が失われ」64)たと指摘した。藤井の指 摘するように、立法裁量が広く、司法審査基準が低い場面で、LRA の基準は、 理論的に殆ど意味をなさないのであった 65)。 藤井は続けて、表現の自由等の米判例を分析し、教員採用及び継続採用に際 して、過去5年間の所属団体を宣誓書として提出を命じた州法を違憲とした判 決 66)を、 「LRA 論を宣言した判決の代表例」として取り上げた 67)。これは、 「猛 烈さのより少ない手段(less drastic means)」に言及したものであるが、藤井はこ れを「(すなわち LRA)」と直ちに言い換えている 68)。警察署長等の許可なく戸 別訪問等を禁じる条例などを無効とした判決 69)を、 「LRA 論に関する先例と しての位置を与えられてよい」としている 70)こと、共産主義的活動組織が登 録すべき最終通告を受けているときには、その組織の会員を防衛施設のあらゆ る仕事に従事させてはならないとする条項を文面違憲とした判決 71)を「条項 の適用範囲の過度の広汎さを強調するもの」と指摘 72)しつつ、ここに引用し ていることで、その立場は確認できよう 73)。藤井は更に、これらの判決は、 「平 等保護の分野における立法の合憲性審査に対しても一定の影響を与えていると いってよい」74)として、福祉受給資格を得るためにはその州等に1年間居住し 続けていなければならないとする州法等を違憲とする判決 75)などを説明した。 藤井は、これらを纏めて、LRA の理論とは、第1に、 「ある法律の適用範囲 が広すぎたり、規制が厳しすぎたりする場合に、その適用範囲を狭めたりある いは規制の仕方をより緩いものに改めたりしたもの、すなわち、一般的に言 えば、問題となっている法律が適当な形に切り縮められたもの」だとしてい る 76)。藤井は、これは「いわゆる修正第一条の overbreadth 論とか平等条項 の overinclusiveness 論そのもの」である 77)と述べつつ、日本で導入すれば、 「人権の価値(序列)に応じた(したがって、逆に言えば権利ごとに許容されうる規制の 強弱に応じた)形での、相対的意味での必要最小限度論であるといえないことも. ない」78)とした。また、猿払事件の事例は、 「 『狭められた法律』が考えられ 114.

(13) . LRA の基準. なかったか」という意味で、この第1の例であると指摘している 79)。そして、 第2に、 「問題となっている規制法の立法目的と同じ目的を達成することがで きるようなもので、かつ、問題となっている規制手段とは種類の異なる代替手 段」についてのものである 80)とする。但し、藤井は、代替手段が明らかであ るときには、 「言論の弾圧がはじめから立法府の真の目的」となり、 「かえって LRA 論自体が不必要となるかもしれない」とも指摘したのである 81)。 このように、藤井による LRA 論は、当初から、規制が過度に広汎であるも のも射程に入れたものであった。また、広汎な人権条項についてその理論は普 く及ぶものとして紹介しており、 「その意味では、これは、わが国では憲法 13 条の中に含まれている必要最小限度の原則(すなわち、かりに公共の福祉を理由とし て人権が制約を受けることがあっても、その制約は必要最小限のものでなければならないと する原則)の一つの具体的な適用基準としての性格を与えられ得るもの」とも. 述べる 82)のである。そして、ずばり、 「わが国ではこの原則はとくに表現の自由 の制約立法に関する審査基準として理解されることが多いのであるが、論理的に はそれに限定すべき必要性はない」83)との記述や、 「比例原則(LRA 原則)」84)と いう記述もあり、LRA 論は一般原則化されている 85)。この点は、経済的自由 の規制に関する最高裁の薬事法違憲判決を LRA 論の判例として紹介している こと 86)や、 「経済的自由の規制に関しては」 「比例原則にもとづく規制手段の 正当性の吟味だけが問題となる」87)として、その「規制方式の中で最も強い ものとしては一般的禁止がある」としている 88)ことに現れている。また、藤 井は、憲法 14 条の平等原則 89)についても、 「立法目的が一応正当性を認めら れた場合には、次に、差別のしかた、すなわち、差別方法とか差別の程度など が立法目的を実現する上で必要最小限のものであるか否かが問われなければな らない」90)としており、 「同じく立法目的を実現しうる手段であり、かつ、現 実に問題の法律が採用した法的手段よりも差別の方法および程度においてより 差別的でない手段(LRA)が考えられる場合には、その手段は正当なものとは いえないという吟味方法」がある 91)と説明しているほか、選挙権制約につい 115.

(14) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). ても同様の検討が可能だとしているのである 92)。 但し、藤井も、 「修正第1条」に関しては、 「LRA 論よりも overbreadth 論 の方が幅広い概念である」と認め 93)、 「人権に対する制約は必要最小限度でな ければならないとする、すなわち、厳格な違憲審査に服さねばならないとする 考え方と密接な関連性を有している」94)と認識している。LRA の基準の最も 活用されねばならない領域が表現の自由の侵害の場面などであることは、藤井 説の中に、まだ強く認識されているように感じられる。また、藤井の主張の中 では、主に法令審査の基準として判例が紹介されており、適用審査の場面の紹 介がほぼないことも併せて注目できよう。 以上のような、LRA の基準を人権一般に拡張的に用いるべきとする立場を 最もはっきりと主張するのが、ドイツ行政法学者の須藤陽子であろう。須藤は、 「比例原則」とは「19 世紀後半のプロイセン上級行政裁判所によって警察法上 の原則として生成された」もので、 「目的と手段は不釣合いであってはならな い、規制は必要最小限であらなければならない」という「法治国家においては 極めて自然かつ正当」な原則であるとする 95)。それは、日本では、 「警察比例 の原則」などとして、行政法総論の理論として提唱され、福祉国家・社会国家 においては警察作用に限らないものと理解され、より広範な理解がなされるに 至っているものだと言う 96)。また、須藤によると、比例原則は「過度の禁止」 そのものとは異なり、 「国家が個人に対して規制的にその権力を発動する際に 個人の被る不利益が『過度あるいは過剰』である」わけではない、と言う 97)。 そして、比例原則の部分原則は、適合性の原則、必要性の原則、狭義の比例原 則であると整理する 98)。また、須藤は、憲法訴訟論が主に法令違憲を問題とし、 適用違憲の場面を中心課題としていないため、公権力の行使、処分を題材とす る、行政法学の要請に答えていないことを批判する 99)。処分が違法であると いう結論を得るためには、実定法の解釈論ないし行政裁量論を展開すればよく、 憲法論を欲しないとも述べ 100)、更には、 「 『違法である』と言うために『違憲 である』と言わねばならない」101)事例は、 君が代ピアノ伴奏事件 102)のような、 116.

(15) . LRA の基準. 「比例原則が違憲審査基準として機能することが困難な事例」であるとも述べ ており 103)、あくまでもいわばドイツ行政法学天動説である。 その流れの中で、須藤は、日本「の憲法学には、アメリカ法に由来する ママ. LRA( l ess Restrictive Alternative)」 基準とドイツ警察法に由来する比例原則が 『混 在』して」おり、 「両者は、 よく似たものとして受け止められていると思われる」 が、 「異なる2つの基準ないし原則の関係は、必ずしもはっきりしたものでは ない」と整理する 104)。 「LRA の基準とは、立法目的に対する手段審査の基準 であり、 」 「厳格度の高い審査基準として適用される場合」は、必要最小限の手 段の審査を意味する」のであるが、 「他方、比例原則も、 『目的と手段』間の関 係を問う原則」であって 105)、 「両者ともに『目的と手段』間の関係に適用され、 『必要最小限の手段』の審査、ないしは『より規制的でない他の手段』の有無 を審査するという点において、よく似たものである」とする 106)。そして、比 例原則は「柔軟に様々な考慮要素を取り込むことが出来る」点で、アメリカ流 の司法審査基準論に優るとし、加えて、 「行政法研究者からすれば、人権ごと に段階的に厳格さの異なる審査基準を設定すると発想することは、非現実的な 議論と思われてならない。行政法規の制定目的は、憲法学にいう積極目的規制 か消極目的規制かといった二分法で明確に区分できるものばかり」ではないこ となどから、ドイツ行政法学の枠組に適合しないことを主たる根拠として憲法 訴訟論を総じて非難する 107)。更に、 「行政裁量統制の手法という観点からすれ ば、比例原則は法令審査と適用審査の両方に適用可能な法原則であるが、他方、 LRA の基準についていえば、憲法学では法令審査ないし立法裁量統制のため の基準として議論されているのであって、アメリカ法でも行政裁量統制に適用 し得るものとは考えられていない」のであって 108)、このことが「人権ごとに 段階的に厳格さの異なる審査を設定するという発想と分かち難く結びついてい るのであれば、その硬直さゆえに、行政裁量統制の手法として受け入れられる ことは難しい」と断じる 109)のである。須藤は、憲法学が、比例原則をどう位 置付けるかを積極的に発言していないことに不満を示している 110)。 117.

(16) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 須藤は、補足して、 「わが国の行政裁判例で多く用いられているのは『必要 最小限』という意味での必要性の原則ではなく、 『著しさ』に着目する狭義の 比例原則である。行政裁量統制において発達した比例原則には、憲法学にいう 『ものさし』である LRA の基準にはない一面がある」とし、その例として不 法入国者の退去処分が「これをもやむを得ないとする特段の事情が存しない限 り、人道に悖る苛酷な行為であり正義に反する」とされた判決 111)を挙げ、こ のようなことは LRA の基準では無理であり、比例原則だからこそであると強 く主張するのである 112)。そして、日本の裁判所は、薬事法違憲判決が比例原 則のうちの必要性の原則に基づくものであると解せるのであり、森林法違憲判 決 113)は「警察規制の違憲審査基準として、LRA の基準よりもまず比例原則 の適用を考えるほうが理に適ったこと」であって、 「戦前には警察法上の一原 則に過ぎなかった比例原則を、この2つの最高裁判決は違憲判断を導き得る憲 法上の原則にまで高めたものとして理解すべき」だと断じたのである 114)。 このほかにも、比例原則を前面に押し出し、LRA の基準を特に必要としな い学説は、近時特に多くなっている。三段階審査を主張する小山剛も、 「手段 の必要性は、立法目的の実現に対して等しく効果的であるが、基本権を制限 する程度が低い他の手段が存在する場合に否定される」という点を、比例原則 の一つの審査に挙げる 115)。長尾一紘も、 「比例の原則」の第2の「必要性の原 則の趣旨は」 「LRA の原則とほぼ同様である」とする 116)。また、戸波江二は、 LRA の基準を表現の自由の違憲審査基準の一つとして解説しながら、それは、 「比例原則(Grundsatz der Verhältnismäßigkeit)と同種のものであり、また、一般 的にいわれる必要最小限度の原則とも類似している。そのため、果たして表現 の自由の規制立法に対する厳格な審査基準ということができるかという疑問が あ」り、同「基準は、精神的自由規制立法の合憲性審査のみに限定されず、む しろ人権制限一般の審査基準となると解するのが妥当」とするのである 117)。 更には、堀内健志も、LRA の基準を「これと別」の「アメリカ判例法系」の ものであると紹介しつつ、 「憲法上の複数の利益間の衡量」に際し、 「一方の権 118.

(17) . LRA の基準. 利を制限することになる権利保障は、その制約される権利が重大であればある ほど保障される権利・利益もそれにみあうものでなくてはならず、また制約も 最小限に留まらなくてはならない」118)と述べている。 もしも、これらの、主にドイツ公法研究者が近時に提唱しているような見解 を無条件に受諾するのなら、LRA の基準は、比例原則に包含されることにな ろうから、無益な概念となろう。本基準は憲法学の言葉として廃さねばならな い運命となり、本基準の考察は最早無価値と言うべきである。 3.LRA の基準に関する学説の再検討 このように、日本における LRA の基準についての理解は、非常に広汎なも のとなり、また、不統一なものとなった。人権制約は必要最小限度でなければ ならないとする一般原則と同じとする見解や、中間審査基準を換言したものと する見解、ドイツ流の比例原則の一部に過ぎないという主張の通りだとすれば、 LRA の基準は無用にして寧ろ有害であるので、このような概念はもはや廃し た方が適当であろう。だが、本当に LRA の基準は、三段階審査・比例原則論 者などが展開するように、有害無益なものなのであろうか。また、通説の言う ように、中間審査基準の言い換えとでも言えるものなのであろうか。 ドイツ公法研究者であっても、民主主義社会における言論の自由の価値を思 い起こせば、以上のような主張を言い切って終わりとすることは、まさかあり 得まい。民主的な立法を非民主的に選抜された少数の裁判官が覆せるかが問題 となる、憲法訴訟の場面で、比例原則一本の解決はあり得ず、司法審査基準 論、もしくは審査密度の議論は回避できるわけはないと考えられる 119)。そし て、比例原則と言っても、何と何が何を基準に等価だと考えるかについての基 準なくしては、それは適切な憲法判断とはならず、従前の利益衡量論、 「合理 性」の基準論、延いては「公共の福祉」論に先祖返りする危険を大いに孕んで いよう 120)。ドイツ憲法学者である堀内でも、民主主義と基本的人権の尊重や 119.

(18) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 自由主義、権力分立との相克があることを背景に、 「立法と違憲審査制の関係、 つまりは民主的正当性と個別的正義維持という両者のいずれの局面が問題にさ れているかという配慮も重要である」121)と述べているほか、 「比較衡量論には 一定の評価を与えうるが、 」 「一方の利益が公共的なものであるから容易に裁判 官が公平な第三者たりえない恐れがある」点も指摘しており 122)、勿論、須藤 説のような、いわば裸の比例原則論は、さすがに採用するところではない。 一般論として、人権の制限は必要最小限でなければならないということは妥 当であり、その根拠は日本国憲法の場合は 13 条にあると言え、また、人権の 重要度に比例して、規制が憲法上許されなくなる範囲が広がるということも、 これを比例原則と呼ぶかはさておき、憲法 13 条を根拠にできるとしても 123)、 実際に、何が許されざる過剰な規制なのかはこれだけでは不明であり、空虚な 基準である。特に、重要な人権が規制される場面では、あまりにもラフな審 査であると言わざるを得ない。LRA の基準やブランデンバーグ基準などの合 憲性判断基準は、表現の自由の問題など、まさに重要な人権の侵害を審査する 場面で登場し、目的・手段審査を厳格に行うという審査を補完するものなの であって、 「合憲性の推定を排除して用いられてこそ意味がある」124)ものであ る。これらは、比例原則と同じではない。ある場面に特化し、ある観点から合 憲性を判定する 「ものさし」として憲法判断において活用されるべきものである。 本来、LRA の基準とは、前述のように、人権を制限・抑止するために、何 らかの制裁を課す場合、より軽微な制裁であっても効果が同じものがあるので あれば、少なくとも当初の制裁は許されない、というものであった。元判事の 香城敏麿は、 「アメリカの判例で用いられている」この「基準」が、 「大別して 3つの適用場面をもつことは、ほぼ承認されている。第1は、法令が達成しよ うとしている目的があまりに軽小であり、憲法上の権利の制約を正当化するに 足りない場合(ないしは立法目的と立法手段との間に実質的な関連性がない場合)、第2 は、立法目的が合憲であっても、これを達成するのに、その法令が採用した手 段より憲法上の権利を侵害することのすくない(より制限的でない)手段がある 120.

(19) . LRA の基準. 場合、第3は、合憲な立法目的を達成するためにでも規制することの許されな い、いわば絶対的な憲法上の権利を侵害している場合であり、狭義には第2の 場合をいう」125)と述べている。香城説の第1のものは、適用審査か法令審査 において手段審査で違憲となるものか、表現権規制立法のうち極端なものであ れば、 「過度に広汎ゆえ」文面違憲となるものである 126)。また、第3のものは、 「検閲」の禁止に関する狭義・二元説の下での審査や、 純粋な内心の自由の侵害、 奴隷的拘束を伴う事例を想定すれば、やはりこれらをわざわざ LRA の基準の 一部と言う必要はない。このため、LRA の基準は第2のものに収斂すると述 べている香城説は、妥当であると考えられる 127)。 また、この点は、当該規制が表現内容規制であっても、表現内容中立の時・ 場所・態様規制であっても、同じである。猿払事件は、他の表現行為と区別し て、公務員の政治的行為を禁じている点で表現内容規制であると考えられるが、 それを超えて一律に表現行為を禁じる法令があった場合、まずは、規制の範囲 が過度に広汎であることが文面違憲となろうが、併せて、その処罰が、規制 目的に比して過酷であるときは LRA の基準に抵触すると言える筈である 128)。 LRA があるときには、当該表現権規制は等しく無効であろう 129)。表現内容規 制のときに LRA の基準を排除する理由はない。そもそも、規制手段の侵害度 の大小で、それに応じて目的・手段図式を変更するのは、論理的混乱であろう 130)。 LRA の基準が文字通り、 「より制限的でない他に選択し得る手段」を探す手法 であるとすれば、これと結び付く司法審査基準は「必要最小限度の手段」審査 を含む厳格審査であって、中間審査ではない 131)。まして、表現内容規制・表 現内容中立規制二分論が否定される 132)のであれば、このような区分けはそも そも成り立ち得ないことになろう 133)。 そして、司法審査基準が緩やか、あるいは審査密度が粗い、司法消極主義が 妥当する場面では、当該規制手段については政治部門の判断に合憲性の推定が 及ぶ。だとすれば、具体的には、経済的自由を規制し、その実効性を担保する のに、どの程度のサンクションを課すと目的を達成できるかについては、著し 121.

(20) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). く不合理でない限りは、立法府や行政府の判断を尊重せざるを得ないのではな かろうか。しばしば LRA の基準が用いられた判例として引用される、薬事法 違憲判決は、 「不良医薬品の供給の防止等の目的のために必要かつ合理的な規 制を定めたものということができない」という、ごく一般的な手段違憲の判断 だったのではなかろうか。このような場面では、著しく不合理な目的・手段だ けを違憲と評価すれば十分であったのではあるまいか。また、積極目的規制・ 消極目的規制の二分論が困難であるとすれば、その一部にだけ LRA の基準が 妥当するというのは無理であり 134)、経済的自由規制事案全体を覆う緩やかな 合理性の基準の下で、LRA の基準は用いるべきでないと言うべきである。 経済的自由の規制の局面でも LRA の基準が妥当するとした藤井俊夫も、 「一般的禁止とか競争制限的許可制あるいは特許制などという手段は、規制手 段としては強力にすぎるため原則として採用できないと考えられるのである」135) としながら、 「規制しないことによる弊害がきわめて大きかったり、あるいは、 規制によって保障しようとする利益が重大であるという場合」には、まず「例 外的にそれが許容され得るかもしれない」136)と述べている。そうであれば、 LRA の基準は切り札的な判断基準ではなく、単なる比較衡量の言い換えとなっ ているのであろう。更に、その例外的場合に「当該規制の基本的性格は消極目 的であると思われるが、しかし同時に、それが積極目的としての性格も有して いるというような場合」137)も同様に挙げられると、もはや規制の大きさを理 由に違憲とならないばかりか、保護する利益を十全に守るためには、ときとし て規制が大きい方が望ましいことを含んでおり、LRA の基準の核心部分は最 早溶解しているように思われてならず、同基準を用いる意味はない。 このようなことが生じるのは、端的に、同基準を経済的自由の規制の場面等 にも拡大したからであって、あくまでも表現権規制の場面を典型に、選挙権 規制や、憲法 14 条1項後段列挙事由による差別、刑罰法規、刑事手続などの、 相対的に合憲性の推定が及ばない、その立証責任を合憲主張側が負う事案に同 基準の活用を留めるべきことを、裏から証明しているようにさえ思えるもので 122.

(21) . LRA の基準. ある 138)。そうであれば、この基準の下では、 「より制限的でない他に選択し得 る手段」については、それが存在しない旨の立証責任を、合憲だと主張する側 が負うことは自明のことになろう。また、 「より制限的でない他に選択し得る 手段」という語感からしても、これが厳格審査下での合憲性判断基準である 139) ことが相応しい。立証責任が当該事案での合憲主張側にあるからこそ、また、 このような場面に限定するからこそ、例えば猿払事件のような公務員の政治活 動に関する事例で、懲戒処分ではなく、なぜ諸先進諸国で殆ど例のない刑事制 裁まで科す必要があるのかという点は国側が立証するべきものとなり 140)、そ れができない限りは被告の有利にという裁判所の判断が生まれるのである。 結局、LRA の基準が妥当するのは、相対的に厳格度の高い司法審査基準が 妥当する、審査密度が密な、司法積極主義が妥当する場面に限定されてこよう。 この意味で、同基準が表現の自由の特殊法理として、例えば、 「表現の自由を 規制する」 「必要性が肯定された場合、その必要性を満たすための手段が、目 的を達成するために考えられる手段(規制)のなかで、もっとも表現の自由を 制限しないものでなければならない、という原則である」141)などという説明 こそが、適切であると思われる。そして、LRA の基準が厳格審査と密接に結 び付くと考えると、この基準を用いたときの主効果は法令違憲を導くことにな ろう。但し、専ら法令違憲を導くための基準と硬く考える必要はなく、この基 準の下での適用違憲の判断は、理論的にはあり得るものと思われる。特に、法 令審査を第一とすべきである表現の自由の場面以外となる、憲法 14 条1項後 段列挙事由による差別、選挙権、刑罰・刑事手続の領域では、そのような手法 は寧ろ当然のものであると考えるべきであろう。 これに対して、LRA の基準を一つの明示的な基準として立てずとも、ドイ ツ公法理論を援用し、比例原則の一局面、一現象として説明可能であるという 見解も、なお、ありそうである。確かに、外国判例の収拾により目立った人権 擁護的な法理をアドバルーン的に掲げるのは望ましくなく、一貫した理論の中 で説明するべきだという点は首肯できる。その意味で、数々の合憲性判断基準 123.

(22) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). は理論的整理が求められるであろう。だがそれには、ではなぜドイツ公法理論 に日本で従わねばならないのか、という素朴な疑問が出されよう。LRA の基 準とは、憲法を静的に捉えて抽出されるものというより、司法審査制の下で裁 判法理として生まれた 142)、いわば動的な産物という特色付けができ、だから こそ、特定の人権、立証責任の転換、審査の厳格度と結び付いて理解される方 が当然であるように考えられるのである。一般原則を起点としても、その中で 抽出され、定型化され、範疇化されたテストだと捉えることはできる筈である。 そして、LRA の基準を立てることの意義は、何よりも、精神的自由をはじめ とする重要な人権の規制において、規制の程度が過剰であることは厳格に許さ れず、なおかつ、その立証責任は規制側が負うという点にある。この点は「表 現の自由の優越的地位」の保障として、重要な要素だった筈である。だが、そ ういった主張が、ドイツ流のいわゆる三段階審査モデル、比例原則論の中から され得るのか、 雲散霧消してしまうのではないのか、 甚だ心もとない 143)。 「LRA の基準」をわざわざ一旦否定して、新たな命名を行う(或いはそれも行わない) 実践的意図は不明である 144)。比例原則や比較衝量論に還元すれば憲法判断は 適切に行われるという主張は、極論すれば、これまでの憲法学の考察の蓄積を 矮小化し、憲法明文にある「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」を軽 率に扱うものと考えざるを得ないのではなかろうか。 おわりに 本稿は、LRA の基準を、いわば原点に回帰して、厳格審査基準の下で運用し、 また、そこで用いられる場合の合憲性判断基準の名称に限定すべきだというこ とを主張するものである。そうすることで、この基準は有意・必要な概念とな り、 「公共 の 福祉」 、必要最小限度、比較衝量、 「合理性」の 基準、比例原則 の ような無内容化を避けられるものと考える。勿論、そのようにして、この概念 を残すべきことを主張する。そして、それは同時に、何もかも救おうとして何 124.

(23) . LRA の基準. も救えない道を避け、近代立憲主義国家の司法権の憲法判断のあるべき主役割 を胸に、司法審査基準の領域的確定を求める主張でもあるのである。 ところで、本稿は、LRA の基準の対象に憲法 31 条以下の刑事手続条項など も含むことを示唆してきた。そのことは、刑罰法規やその適用が過度に苛酷で あるとき、違憲となる場合があることを示している 145)。これは、従来、刑事 法の謙抑性として展開されてきたものであり、憲法 36 条の残虐な刑罰の禁止 の発展形として論じられたものである。このようなことは、刑事裁判における 適正手続 146)や罪刑法定主義の要請とともに、刑事法の憲法化を進めるものと なろう。二重の基準論を前提にすれば、これからの憲法学が、行政法というよ りも、情報法、宗教法、教育法、ジェンダー法、家族法などと並んで、刑事法 との対話が求められるようになるであろう 147)ことを予言して、本稿を閉じる こととしたい。. 1)発見 で き る 論説 は、田中和夫「 『よ り 制限的 で な い 他 の 選択 し う る 手段』 (“less restrictive alternative”)の原則」訟務月報 19 巻3号 87 頁(1973) 、芦部信喜「公務員の 政治活動の自由と LRA 基準」同『憲法訴訟の現代的展開』189 頁(有斐閣、1981) (初出、 ジュリスト 569 号(1974) ) 、藤井俊夫「違憲審査における LRA の基準」同『憲法訴訟 の 基礎理論』261 頁(成文堂、1981) [以下、藤井前掲註1)Ⅰ書、と 引用] 、同『憲法 訴訟と違憲審査基準』 (成文堂、1985) [以下、 藤井前掲註1)Ⅱ書、 と引用] 、 右崎正博「 『よ り制限的でない他の選びうる手段』の基準」芦部信喜編『講座憲法訴訟第2巻』197 頁 (有斐閣、1987) 、高野敏樹「LRA の基準」中谷実編『憲法訴訟の基本問題』196 頁(法 曹同人、1989) 、須藤陽子「LRA の基準と『比例原則』 」同『比例原則の現代的意義と機 能』 (法律文化社、2010)などに限定される。 「LRA」での検索では、今や、アフリカ・ ウガンダの武装勢力「神の抵抗軍(the Lord’s Resistance Army) 」 (詳細は、宮田律『過 激派で読む世界地図』117 頁以下(筑摩書房、2011)など参照)の方が上位にヒットす る傾向にある。なお、君塚正臣「公法系第1問解説」Law School 演習5号 48 頁、52­―53 頁(2011)も参照。 2)香城敏麿『憲法解釈の法理』95 頁(信山社、2004) 。 3)旭川地判昭和 43 年3月 25 日下刑集 10 巻3号 293 頁。 4)芦部信喜『憲法学Ⅱ』263 頁(有斐閣、1994)も、 「一審判決は、 その合憲性判定基準が 『合 125.

(24) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 理性』の基準なのか、LRA の基準なのか、判文上必ずしも明確でないが、その基本思想 は明らかに後者の考え方に立つものと評価される」とする。 5)札幌高判昭和 44 年6月 24 判時 560 号 30 頁。 6)東京地判昭和 46 年 11 月1日行集 22 巻 11=12 号 1755 頁。 7)右崎前掲註1)論文 206-207 頁などもこの点を批判する。 8)東京高判昭和 48 年9月 19 日行集 24 巻 8=9 号 1018 頁。 9)宮崎地判平成6年1月 24 日判時 1495 号 57 頁。 10)最判昭和 50 年 10 月 24 日刑集 29 巻9号 777 頁、最大判昭和 52 年5月4日刑集 31 巻3 号 182 頁、仙台高判昭和 58 年 10 月5日高刑集(昭 58)3 頁、最判昭和 59 年2月 21 日 刑集 38 巻3号 387 頁、東京地判平成元年 10 月3日判時平成2年2月 15 日臨時増刊号3 頁、富山地判平成 10 年 12 月 16 日判時 1699 号 120 頁、大阪高判平成 12 年 10 月 24 日高 刑集(平 12)146 頁、東京地判平成 13 年 12 月6日判例集未登載、東京高判平成 16 年6 月 30 日判例集未登載、仙台高判平成 17 年 12 月7日訟月 52 巻 12 号 3597 頁、那覇地判 平成 18 年2月 22 日判例集未登載、大阪地判平成 19 年2月 16 日判時 1986 号 91 頁、福 岡高判平成 19 年9月7日判例集未登載、東京高判平成 21 年3月 11 日訟務月報 56 巻2 号 176 頁、大阪高判平成 21 年6月 11 日判時 2056 号 65 頁、名古屋高判平成 21 年 10 月 23 日判例集未登載など。 11)札幌地小樽支判昭和 49 年 12 月9日判時 762 号8頁。 12)芦部前掲註1)書 44 頁註 17。また、野中俊彦『憲法訴訟の原理と技術』65 頁(有斐閣、 1995)は、LRA の存在を検討していない控訴審判決(札幌高判昭和 53 年5月 24 日高民 集 31 巻2号 231 頁)を批判する。 13)最大判昭和 41 年 10 月 26 日刑集 20 巻8号 901 頁。 14)最大判昭和 49 年 11 月6日刑集 28 巻9号 393 頁。 15)東京高判平成 22 年3月 29 日判例集未登載。上告されたため、最高裁の判断が待たれて いる。大久保史郎「刑事裁判官の時代認識 - 公務員の政治活動をめぐる2つの東京高裁 判決」法律時報 82 巻8号1頁(2010) 、中島徹「 『公務員は一切,政治活動をしてはなら ない』のか - 猿払の呪縛」法学セミナー 668 号 46 頁(2010) 、三宅裕一郎「判批」法学 セミナー 670 号 134 頁(2010) 、 など参照。但し、 戸松秀典「違憲・合憲の審査の動向」ジュ リスト 1414 号 21 頁、23 頁(2011)は、近時、違憲判決が数多く見られ、傾向が変わっ てきたと思われる最高裁であっても、判例変更は望み薄と予言する。 16)そして本判決は未だに判例である。同上と同様の公務員の政治活動に関する事案で、同 じ裁判所が、東京高判平成 22 年5月 13 日判例集未登載では合憲判決を下している。君 塚正臣「国家公務員法違反事件鑑定意見書」横浜国際経済法学 19 巻1号 89 頁(2010) も参照。 17)右崎前掲註1)論文 197-198 頁。 126.

(25) . LRA の基準. 18)田中前掲註1)論文 93 頁。 19)今村成和『人権 と 裁判』27-31 頁(北海道大学図書刊行会、1973) 、有倉遼吉「公務員 の 政治的行為」法律時報 46 巻3号 15 頁、20-22 頁(1974) 、浦部法穂『憲法学教室』 〔全訂 第2版〕94-95 頁(日本評論社、2006)など。 20)田中前掲註1)論文 93 頁。内野正幸『憲法解釈の論点』 〔第4版〕168 頁(日本評論社、 2005)も同様の表現を用いる。 21)右崎前掲註1)論文 205 頁同旨。 22)佐藤幸治『憲法』 〔第3版〕523 頁(青林書院、1995) 。同書 524 頁 は、こ の 基準 は、利 益衡量、 「明白かつ現在の危険」テスト、範疇化テストなどとは異なり、 「概して形式的 な判定基準である」としている。なお、榎原猛『憲法−体系と争点』161-162 頁(法律文 化社、1986)が、同基準を表現の自由のケースの特殊法理とする点では佐藤説と同じで あるが、 「利益衡量の入り込む余地の多い」ことを指摘している点は対照的である。 23)伊藤正己『憲法』 〔第3版〕204 頁注2(弘文堂、1995) 。 24)同上 318 頁。 25)猿払事件一審判決を執筆した時國康夫も、アメリカで裁判官が「精神的自由権を制約す る法の憲法適合性が問題となる場合」で 「衡量(Weighing) 」のアプローチを選択するとき、 「憲法判断の安定性、予測性に難があり、間接的には、修正1条の権利の抑制にもつな がるとの見地から、より狭い判断基準である、いわゆる『より制限的でない他の選びう る手段』の基準が最近用いられる傾向が強い」と述べ、同基準が主に表現権規制の場面 に用いられるべきものであることを示している。同『憲法訴訟とその判断の手法』63 頁 (第一法規、1996) 。 26)G. Struve, The Less-Restrictive-Alternative Principle and Economic Due Process , 80 HARV. L. REV. 1463, 1464(1967) .芦部信喜『現代人権論』270 頁(有斐閣、1974)より引用。 27)芦部同上 272 頁。 28)芦部前掲註1)書 212 頁。 29)芦部前掲註 26)書 272 頁。 30)芦部信喜『人権 と 憲法訴訟』415 頁(有斐閣、1994)も、 「精神的自由 の 場合 に 適用 さ れる LRA は、制限の厳しさが最小限度の手段か否かを審査すべきだという趣旨で the least drastic means のテストでなければならない」と述べている。 31)芦部信喜『憲法叢説2』67 頁(信山社、1995)も、この基準が、 「裁判所は表現の自由 に対する国家権力の規制については特別に強力で積極的な正当化を要求するという思 想」をもつことに「根本的特色」があることを述べている。 32)芦部前掲註 30) 書 302-303 頁参照。 芦部信喜 「教科書裁判の憲法訴訟的意義と課題」 同編 『教 科書裁判と憲法学』3頁、8-9 頁(学陽書房、1990)も参照。 33)芦部前掲註4)書 276-277 頁参照。 127.

(26) 横浜国際経済法学第 19 巻第3号(2011 年3月). 34)芦部前掲註 31)書 66-67 頁。 35)芦部前掲註 26)書 274 頁。佐々木弘通「猿払事件判決批判・覚書」成城法学 77 号 49 頁、 74 頁(2008)同旨か。 36)芦部前掲註1)書 212 頁。 37)芦部前掲註 26)書 290 頁。 38)芦部前掲註1)書 213 頁。芦部前掲註 26)書 299 頁 も、LRA の 基準 は「価値衡量 に も とづいて広汎な規制立法を排除することをねらいとしている」と述べている。他方、同 書 291 頁には、 「LRA の原則は、規制が広汎でしかも規制の目的と手段との間に合理的 な関連がない場合や、規制があまりにも広汎であって規制自体から当然に他により制限 的でない選びうる手段の存在しうることが明白であるようなばあいに、本来適用される ものではない」とも述べている点には注意したい。 39)藤井樹也『 「権利」の 発想転換』118-119 頁(成文堂、1998)も、司法審査基準 と 個別的 審査基準の関係が複雑かつ曖昧であることを批判する。松井茂記『日本国憲法』 〔第3版〕 115 頁(有斐閣、2007)同旨。 40)芦部前掲註 30)書 439 頁。芦部信喜『憲法学Ⅲ』 〔増補版〕435 頁(有斐閣、2000)も参 照。川岸令和ほか『憲法』 〔新版〕154 頁(青林書院、2005) [高橋義人] 、野中俊彦ほか 『憲法Ⅰ』 〔第4版〕347 頁(有斐閣、2006) [中村睦男] 、 野中俊彦ほか『憲法Ⅱ』 〔第4版〕 297 頁(有斐閣、2006) [野中] 、川又伸彦 114 頁(立花書房、2009)など同旨。 41)芦部前掲註 30)書 438-439 頁参照。 42)この点で、芦部が、 「猿払事件で問題の表現の自由の規制は、内容規制かそれとも内容 中立規制かと言えば、最高裁判所はこれを内容中立規制、すなわち、スピーチ・プラス に対する規制だとみなしている。そう考えてよいか大変議論のある問題で、私は猿払事 件の考え方に批判的であるが、もし政治活動は行動を伴う表現であり、その規制は内容 中立規制であると考えれば、合理的関連性の基準を適用することも、一つの論理として は成り立つということができるかもしれない」と述べているのは、示唆的である。同上 305 頁。 43)芦部前掲註4)書 234 頁。青柳幸一『個人 の 尊重 と 人間 の 尊厳』274-275 頁(尚学社、 1996) 、浦部前掲註 19)書 149 頁もほぼ同旨。 44)芦部前掲註 26)書 302 頁。 45)芦部前掲註1)書 114 頁。芦部前掲註 30)書 445 頁、芦部前掲註4)書 241 頁同旨。長 谷部恭男『憲法』 〔第4版〕297 頁(新世社、2008) 、 田中前掲註1)論文 115 頁もほぼ同旨。 46)最大判昭和 50 年4月 30 日民集 29 巻4号 572 頁。 47)芦部前掲註 30)書 440-441 頁。 48)同上 441 頁。芦部前掲註4)書 237 頁も参照。同様の見解として、 佐藤功『日本国憲法概説』 〔全訂第5版〕227 頁(学陽書房、1995)などがある。 128.

(27) . LRA の基準. 49)芦部同上 387 頁。 50)渋谷秀樹『憲法』657 頁(有斐閣、2007) 、 笹田栄司編『Law Practice 憲法』51 頁(商事法務、 2009) [鈴木秀美]同旨。また、高橋和之『立憲主義と日本国憲法』 〔第2版〕126 頁(有 斐閣、2010)の米判例理解もこうである。 51)浦部法穂=大久保史郎=森英樹『現代憲法講義1 〔講義編〕 〔 』第3版〕164 頁(法律文化社、 2002) [大久保] 。 52)初谷良彦『憲法講義Ⅰ』 〔第2版〕190 頁(成文堂、2001) 。 53)同上同頁。 54)但し、一方で、同上 318 頁は、LRA の基準を「表現の自由」の「違憲審査基準」の一つ として肯定的に取り上げており、一貫性に疑問がある。 55)杉原泰雄編『新版体系憲法事典』422 頁(青林書院、2008) [日笠完治] 。 56)内野前掲註 20)書 80 頁は、選挙運動の自由の制限についても、 「LRA の基準の適用を 主張する説は」厳格審査基準を「やや緩和したもの」と解説した上で、 「厳格な合理性 の基準が適用されるべき」だとする。 57)右崎前掲註1)論文 201-202 頁。 58)同上 203-204 頁。 59)同上 206 頁参照。 60)藤井前掲註1)Ⅰ書 261 頁。 61)Adams v. Tanner, 244 U.S. 590(1916); Liggett Co. v. Baldride, 278 U.S. 105(1928) . 62)藤井前掲註1)Ⅰ書 265 頁。 63)United States v. Carplene Products Co., 304 U.S. 144(1938); Willoamson v. Lee Optical Co., 348 U.S. 483(1955); Ferguson v. Skrupa, 372 U.S. 726(1963) . 64)藤井前掲註1)Ⅰ書 268 頁。 65)なお、右崎前掲註1)論文 215 頁以下は、平等保護領域の米判例を紹介する。 66)Shelton v. Tucker, Carr v. Young, 364 U.S. 479(1960) . 67)藤井前掲註1)Ⅰ書 268 頁。 68)同上 270 頁。 69)S chneider v. Irvington; Young v. California; Sayder v. Milwaukee; Nichols v. Massachusetts, 308 U.S. 147(1939) . 70)藤井前掲註1)Ⅰ書 272 頁。 71)United States v. Rlobel, 389 U.S. 258(1967) . 72)藤井前掲註1)Ⅰ書 274 頁。 73)同上 22 頁は、過度の広汎さ「のテストは、精神的自由を制約する法律はより狭く規定 され more narrowly drawn ねばならないとする点において LRA のテストと基本的に同 一の思想から発している」と述べる。 129.

参照

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