• 検索結果がありません。

婦人運動家の女子職業教育論 : 女性と産業の教育関係史 ; 4

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "婦人運動家の女子職業教育論 : 女性と産業の教育関係史 ; 4"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)婦 人運 動家 の女子職業教育論 一―女性 と産業 の教育関係 史. 三 は. 好. 信 め. 第 4報―一. 浩 に. 本誌 に発 表 した前 2稿 では, 日本産業 の近代化過程 にお い て指導 的役割 を 果 た した 3人 の産業啓蒙家 (渋 沢栄 一 ・手 島精 一 ・横井時敬 )と 3人 の女性 教育家 (下 田歌子 ・鳩 山春子 ・嘉悦孝子 )を 取 り上 げ ,女 子職業教 育論 につ い て考察 をな した゛。特 に 3人 の女性教 育家 は,大 正期 以 降 とみ に力 を増 し て きた婦 人解放運動 に対 して ひ とし く批判 的立場 を と り,良 妻賢母主義 とい う規範 の中で女子 の職業教育 を提 唱 し実践 した。 そ こで次 なる課題 が生 まれて きた。それは女性教育家 によって批判 された 婦 人運動家 たちは,産 業社会 にお ける女性 の教 育 につい て どの よ うな見解 を 持 っていたか とい う こ とで あ る。本稿 はその新 たな課題 に こたえ よ う とす る ものであ る。 本稿 で も 3人 の 人物 を登 場 させ るこ とにす るが ,そ の 人選 は前 2稿 と同 じ く容易 ではない 。そ こで選考 の基準 は,上 記 3人 の女性教育家 と最 もきび し く対決 した山川 菊栄 を対極 に置 き,そ の 中間 に,山 川 によって女 性解放 の先 覚者 として一 定 の評価 を受 け た平塚 らい て う と,そ の平塚 に自立 した女性 と して一 定 の評価 を与 え られた羽仁 もと子 の 2人 を配置す る こととす る。 ウー マ ン リブ以後 の女性解放論 の 中で は,少 な くとも羽仁 を含 み入れ ることには 異論 が 出 るであろ うが ,本 稿 で は 日本 の婦 人運動 の思想 をで きるだけ幅広 く 理解 してみ たい と考 える。 ちなみ に,大 正 末年 に満 月会 の編集 した 『婦人問題 の諸相』 には,神 近市.

(2) 112. 婦人運動家の女子職業教育論. 子 ,市 川房枝 ,大 山郁夫 ,賀 川豊彦 ら47名 が執筆 して い て,そ の 中 に,山 ││は 「職業婦人問題 の諸相」 り ,平 塚 は「社会改革 に対する婦人の使命」,羽 仁. は「詰込主義 の教育 と自由主義 の教育」 と題する論説 を発 表 してい る'。 当 然 とはいえ上記 3人 の女性教育家 は含 まれていない。以下 3人 の婦人運動家 について,生 年順 に考察 を進めたい。. 1.羽 仁 (1)婦. も と子. 人記者第 1号. 羽仁 もと子 (1873∼ 1952)に は,自 己 の 前 半 生 を記 した 自伝 『半 生 を語 る』 や娘羽仁恵子 の まとめた 「羽仁 もと子評伝」 な どがあ り,い ずれ も『羽 仁 もと子著作集 』 に収 め られ て い る。 そ の 著作 集 は,1927(昭 和. 2)年 か ら. 刊 行 が 始 ま り,戦 前 に第 17巻 までが干J行 され ,戦 後 に 4巻 が加 え られ て全. 21巻 となった。版 を重 ね ,特 に戦後 の新刷 で は仮 名 づ か い な どの 改 訂 が な され たが ,本 稿 で は 国会 図書 館 に所 蔵 され る初 期 の 刊 本 を使 う こ とにす る3,。 青森 県 八戸 町 の松 岡家 の 長女 に生 まれ た羽 仁 は,H歳 の と き養 子 の 父 が 離縁 され たため ,祖 父 の 感化 を受 ける こ とにな る。 16歳 にな る と祖 父 に連 れ られて上京 し,新 設 の 府 立 第 一 女学校 に 1回 生 として入 学 した。 在校 中 キ リス ト教 の洗礼 を受 け,卒 業後 は巌本善治 の 明治女学校 に進学 し,巌 本 の編 集す る 『女学雑誌』 のか なつ け の仕事 を与 え られ た。2度 目の 夏休 み に帰郷 した折 ,そ の まま小学校 の教員 とな り,さ らにカ トリック系 の盛 岡女学校 に 転 じた。. 26歳 の とき結婚 して京都 に住 んだが ,半 年 に して離 婚 して東 京 に戻 って ヽ が男 亡 きた。羽仁 は この こ とについ て多 くを語 つてはいない が ,彼 女 の 自立 ′ 性 へ の忍従 を許 さなか ったためで あ った。「私 は 自分 の 愛 の ため に 自分 の全 人格 を奴 隷 に し,ま た相手 の 虫 の よい手前勝手 な愛情 の 冒漬 に,意 気地 な く も この生 涯 を任 せ なか った こ とを難 有 い と思 ってゐ る」 と,『 半 生 を語 る』.

(3) 三 好 信. 浩. 113. の中でわずかにそのことにふれてい る°。 上京 した羽仁 は,自 活す るために女中 となったが,そ の行 き先は日本 の女 子医学教育 の創始者吉岡弥生 の家 であ った。偶然 の もたらす幸運 に恵 まれた 彼女 は,吉 岡夫妻か ら,「 もっとよい仕事 につ くや うに,ま た世 に出るや う にと始終励 まして頂 い た」 とい う動。以後 ,吉 岡 と羽仁 の交友関係 は羽仁 の 死去 まで続 く。吉岡はその ときの事情 にはふれることな く,羽 仁 に対 して高 い敬意 を表 した。「私 は如何 なる因縁か,羽 仁女史 とは三十年来 の長 き交は りを続けて居 る。女史の思想 ,生 活 については,何 人より深 く精 しく知 って 居 る積 りである。その半生 の波瀾曲折 を熟知せるものは,僣 越なが ら私 を措 いて外 にない と思 ふ」「一人に して,思 想家 に して教育家 ,事 業家 を兼 ね備 ふる ものは蓼々星 の如 しといはなければならない。女性 にして斯 る人は,此 の意味 に於て古今東西稀 に見 る婦人 といふべ きであ らう」 とい う°。『羽仁 も と子著作集』の刊行開始 に寄せた祝詞 の一節 である。 吉岡夫妻 の激励 を受けて,い ったん小学校 の教員 となったが,羽 仁 はそこ に安住す ることがで きず,『 報知新聞』 の職業欄 の広告 を手 がか りに同社 の 校正係 に応募 し,首 尾 よ く採用 され,や がてその才能が認 め られて記者 とな つた。 日本 の婦人記者第 1号 である。編集局 に隣接 して工場があ り,「 動物 園に女が来た と,職 工の人たちが盛んにいつてゐるのが聞 える。動物園 とは 編集局 の ことだった」 と当時 を回顧す るようにつ,周 囲か ら好奇 の 日で見 ら れた。 羽仁 より少 し遅れて羽仁吉一 とい う記者が入社 してきた。羽仁 より7歳 年 下であ つたが,2人 は恋愛関係 にな り結婚 した。彼女が羽仁姓 を名乗 るのは この ときか らである。以後生涯 にわたる婦唱夫随 の二人三脚 によって 2大 事 業が手 がけられてい く。 第 1の 事業 は,女 性雑誌 の刊行 であ って,羽 仁 が出産のため家庭 に入った. 1903(明 治 36)年 に『家庭之友』 と題 号 して創刊 され,1908(明 治 41)年 か ら『婦人之友』 と改題 された。 この時期 の多 くの婦人雑誌が短命 に終 わっ たのに比べ て,今 日まで継続する息 の長 さを誇 っている。羽仁 は,主 筆 とし.

(4) l14. 婦人運動家の女子職業教育論. てお よそ 600件 の巻頭論 説 を執 筆 した。改題 に際 して羽仁 の記 した一文 の 中 に,「 如何 に して 私共 の 家庭 を向上せ しむべ きか ,如 何 に して私共 の 智見 を 広 め徳性 を高 めて ,よ り有用 なる生涯 を送 るべ きか といふ こ とは,過 去 に於 て も現 在 に於 て も,ま た永 く続 くべ き未来 に於 て も,本 誌 の使 命 と して始終 ・ 熱心 に講究 せ らるべ き問題 で御座 い ます 」 と記 して い る ように. ,そ の編集. にかける使 命感が読者 の心 を引 きつ けて離 さなか った こ とが 永続 の秘密 で あ る と思 われ る。 第 2の 事 業 は ,女 学校 の経営 であ って ,『 婦 人之友』 の 主張 を実際社 会 で 実現 す る女子教 育 の 実験 場 と して 1921(大 正 10)年 に創立 した 自由学 園が それ で あ る。後 に男子部 も加 えた男女 共学校 に して ,『 婦 人之友』 同様 今 日 まで継続 して い る。羽仁 の 自伝 に よれ ば ,自 由学 園 は,「 婦 人之友 の 若 き芽 のの び る所」 で あ り,「 今 それ 自身 ,一 個 の 新社 会 をな して成長 しつ ヽあ り ます。婦 人之友 の 主張 は,こ の社会生活 にお い て実際 に試 み られ ,旧 い世界 か ら新 しい世界 に代 って行 く生 きた働 きを,自 信 を もって全社会 に及 ぼ して り 行 くこ とが 出来 るのです 」 とい う 。 婦 人記者 と しての体験 が ,婦 人雑誌 の編集 に生 か され ,そ の婦 人雑誌 の主 張 と小学校 や女 学校 の教職体験 が重 ね合 わ されて ,自 由学 園 の教育 へ と発展 した ので あ る。「思想 しつ ゝ生 活 しつ ゝ」 とい う著作 集 の 標題 (第 203・ 4 巻 )が 物語 る ように,思 索 と生 活 の 中か ら羽仁 の思想 と実践 は社会的 に広 い 支持 を得 るに至 った。精神面 ・実務面 か ら彼女 を支 えたのは夫吉 一で あ り ,. 娘 の説子 と恵子 は両親 の事業 を継承 し発展 させ た。. (2)婦. 人の職業 と収入. 羽仁 自らは「筆 を執 る仕事」 に従事す る「職業 を とる一 人の女」 であ るこ とを認 めつつ も,女 性 の職業 につい ては多 くを論 じてはい ない。そ の数少 な い論説 の 中か ら彼女 の職業観 の一 端 を探 つてみ る こととす る。 まず注 目す べ き もの は,1904(明 治 37)年 に発 表 した 「主婦 と職 業」 と 題 す る論 説 で あ って ,「 自分 に適 当 な る仕 事 が 家 政 以 外 に もな ほ あ る な ら.

(5) 三. 好. 信. 浩. ば,そ して健康 が許す ならば,一 家 の主婦 であ りなが ら,更 にそれ以外 にも 働 くといふ ことは,家 庭 に取 って些少 の不便 を感ず る代 りに,更 により多 く の利益 を得 られるものであると思 ひます」 と,条 件づ きなが らも家庭主婦 の 職業進出を奨励 してい る。家庭 は男女が相依 り相助けるところであって,そ のことは女性が男性 に従属す ることを意味す る ものではない。「いづ れ も立 派 に独立 の出来る資格ある男女が,更 に相依 り相扶けて双方単独 で居 たよ り も一層光輝あ る生涯 を送 り得 るためでなければな りません」 とD,職 業 に就 くか否かは別 に して独立 自活 で きる女性 を理想像 としている。 女性 は,男 性 と同 じように独立 自活 の資格 を身 につ け よとい う主張 はその 後 も続 い て い く。例 えば,1913(大 正 2)年 の論説 では,「 学問 の方面 に も 女性 の頭が必要であ り,学 校及 び社会 の教育 にも男 と女 の手 を要 し,工 業 に も商業 にも多 くの女 が参加す るや うにな りました」「婦人 も職業 を持 って よ いではな く,婦 人 も職業 を持 たなけれ ばならないのであ ります」「貧 しき人 の子 も富める人の子 も,男 も女 も一様 に独立 自営 といふ ことを,人 間生活 の 大切 な最初の出発 点 とす る慣 は しは,私 たちの学ぶべ き緊要な ことであると 思 ひます」 とい うH)。 あるい は,1921(大 正 lo)年 の論説 では,「 アメ リカ 人の強味 の一つ はどんな富豪 の子供 で も,自 活 といふこ とをめいめいの生活 と人格 の出発点だ と,確 かに心得 てゐる所 にあると思 ひます」 とり,西 洋 の 事例 を出 してい る。 しか しなが ら,羽 仁 の説 く独立 自活論 は,婦 人の天職 を逸脱 しないこ とと い う歯止 めがかけられていた。 この点 で女性解放論者 の説 く自活論 との径庭 が出て くる。上 に引用 した 1917年 の論説では,「 最 も進歩 した部類 に属する 婦人職業論 も,男 女 にか ゝはらず人間はその天賦 の才能や力 を出来るだけ発 揮す ることが出来 るや うに生活すべ きであるといふ,根 本 の道理 を主張す る ばか りで,母 といふ特 に女に与へ られた天職 と職業 との関係 について,多 く の人の実際 に疑 ってゐる問題 に,細 かに適切な解決 を与へ てはゐないや うに 思 はれるのは遺憾 だ と思 ってゐ ます」 とB),は っ き.り と女性解放論者 に挑戦 してい る。.

(6) 116. 婦人運動家の女子職業教育論. 翌 1918(大 正 7)年 の 「婦 人 の職業 と収 入」 と題す る論説 も これ と変 わ ら ない。「女 は家 を治 め 子供 を育 て る といふ 先 天 的 の仕事 を持 ってゐ ます。 こ の 点男 と同 じで は あ りませ ん」「家事子 育 ての役 目は女性 に負 は され た仕事 です 。 そ の仕事 を主 とたて ゝ,さ う して女 は職業 の こ とも考 へ て見 るのが 当 然 で す。それ には収 入 の必 要 といふ 条件 もまざってゐ ます 」 といい ,収 入 の. 必要性 を認めつつ も,女 性 の天職論から「家庭婦人の職業 の限度」 を規画す るのである‖。 なぜ この ような論理 になるのか。家事子育 てを女性 の天職 と見 たことがそ の第 1の 理由であるが,そ の裏 には女性 の天性論が下敷 きとなっていた。女 性 は感情面 において男性 と異なった天性 を有す るとい うのが彼女 の 主張であ る。 1916(大 正 5)年 に『婦人週報』が 「女 なる事 を感謝す る点」 と題 して 各界 で活躍す る女性の意見 を徴 したとき,羽 仁 は,「 人間の社会 では道理 よ りも感情 の方が力強い と思 ひます。その力強い感情が特 に女性の ものだとい ふ ことは,何 よ りも常 に自分 を励 ましてゐるや うに思 ひます」「母 としての 心持 を味 ひ得 ること,こ れはその次 に私 の女 としての性 に対す る感謝のある い 所 です」 と回答 している 。 女性 の感情 を生か した職業 として彼女が まず考 えたのは教育職 であ った。. 1921(大 正 10)年 の「女性 の第一義的能力」 と題する論説 では,「 ひとり家 庭 の教育 ばか りでな く,男 女 の学校教育,社 会教育 まで,さ まざまの専門学 科 の教授 は別 として,主 たる教育者 は婦 人であるや うにな る筈 だ と思 ひま す。 さうして これは家庭生活 と両立 させる方が,む しろ本当の教育者 である %。. 資格 を充実 させることになると思 ひます」 と記 した. 家庭生活 と両立 させる職業 とい うとき,家 庭 と職業 のいずれが主でいずれ が従 か とい う問題 が生 じる。羽仁 の立場 は明瞭 である。「男子 が職業 をとる 態度 と婦人が職業 をとる態度 との間には著 しい違 ひがな くてはな りません。 男子 の職業 は本業 で婦人の職業 は副業だか らでござい ます」「私 たちの副業 であ る職業に よつて養 ひ得 た力が遺伝 とな り,賢 い教育法 となって子供 を益 し,進 歩 した常識 となつて家 の ため夫 の ため になってゆ く筈 で す」 とい.

(7) 三. 好. 信. 117. 浩. ぅ. 17)。. 婦人の職業 を副業 と見 るとき,職 業 か ら得 られる金銭的収入は第二義的 な もの となる。職業はむ しろ 自立的精神 の発揚 に意義があるとい う精神論が表 に出て くる。羽仁 自身 は,最 初 は収入 目的で職業 についた ものの,職 業 に深 くかかわる間にそこか ら得 られる精神的充実感 によ り大 きな価値 を感 じるよ うになった。「私 の職業 に就かなければならない と思 ったのは生活 の必要 か らであ りました。けれ ども私 は職業 に従事 して,職 業 は私 の才能 の子供 であ るといふ ことを段 々深 く思 はせ られて来 るのです」 とい う。 1917(大 正 6) 年発表 の「職業は才能の子供」 と題す る論説 の一節 である。「子供 は夫婦 の 全生活の産物 であ り,職 業 は 自分 の才能 の産物です」「私 は私 の子供 を育て るや うな気持 で私 の職業 に対 してゐます」 とい うのである掲. )。. そのことは,男 性 の職業観 と女性 の それ との基本 的な差異 となる。 1920 (大 正 9)年. の「この生の使 ひ方」 と題する論説 では,「 女 の職業 は収入本位. の考 では到底問題 になる ものではあ りません」「職業 といふ私 たちの才能 の 子供 を楽 しんで育 て ゝゆ くや うな思 ひであれば,そ れにか ゝりきる時間は一 ),職 に 日としては僅かで も,積 り積 って多 くの時 になる筈 です」 としてり 業 費す時間はあまり長 くならない ほ うが よい とした。女性 の適職 と見な した教 育職 で も, もっと勤務時間を短縮するような手 だてを講ぜ よと主張 した。 主婦 としての女性が収入 と関係 して真 に力量 を発揮で きるのは,家 事経済 におい てで ある。羽仁 は,彼 女 の雑誌 で,こ れ に関す る多数 の論説 を発 表 し,基 本的な考え方か ら具体的な方法 に至 るまでの提言 をした。彼女が家計 簿 を創案出版 したのは 19o4(明 治 37)年 とい う早 い時期 であ り,以 後婦人 之友社 の家計簿 として全国に普及 し,今 日に及んでい る。 婦人の職業 と収入 について,以 上のような考 え方 に立つ以上 ,本 稿 で問題 としている農業 ・工業 ・商業 の産業分野 における女性 の仕事 は,副 業の域 を 出る ことは ない。 これ らの分 野 の専 門的業務 は,い きお い男性 の専業 とな る。.

(8) 婦人運動家の女子職業教育論 (3)自. 由学 園 の女子教育. 1932(昭 和 7)年 ,羽 仁 は,フ ラ ンスのニー スで 開 かれ た第 6回 世 界新教 育会議 に出席 して ,「 それ 自身 一つ の 社 会 と して生 き成長 しさう して働 きか けつ ヽあ る学校」 とい う長 い 演題 の講演 をな し,自 由学 園創設後 10有 余年 の教育成果 を披 露 した。「千 九百 二 十 一 年 の春 ,私 は私 の 夫 の助 け に よって 自由学 園 を創 立 しま した。七年 の 中等学校 で満十 二 歳 か ら十九 歳 までの女 の 子 の勉 強す る ところです。 そ こに私 た ちは まづ 最 初 の一 年 生 だけ を募 集 し て ,二 十六人 の 少女 とともに新 しい一 と歩 み をは じめ ま した」 とい う。 そ の 少女 の 中に長女 の説子 が 含 まれて い て ,わ が子 に理想 的 な教育 を した い とい う羽仁 の念願が込 め られて い た。. 26人 の新 入生 は 5つ の 家族 に分 け られ ,学 園内 の小 社 会 の 単位 を構 成 し た。「個 人 の 人格 を単位 と した よ き小社 会 をつ くり,そ の小 社 会 の 集 合 に よ って更 に学校 といふ一つの よい社 会 をつ くり,そ れが 一般社会 ,す なわち世 の 中 に働 きか け て ゆ く」 こ とを 目 ざ した。生徒 は「 自労 自活」「 自1台 自労」 の精神 を培 われ ,「 学校 自身 の経 済問題」 に まで入 り込 んだ。「 自分 の 属す る 社 会 の経済問題 を取扱 って ,そ こには じめてかれ らが 真実 に経済 を理 解 し ,. 経 済問題 を処理 し得 る実力 の基礎 を据 え得 るのだ と思 い ます 」 とい う考 えに 基 づ くもので あ った。生徒 の支払 う月謝 だけで学校 の経済 は成 り立 つ もので な く,そ こに「創立者 の光栄 あ る義務」 が果 た されて い る こ とを生 徒 自身が 理解す る こ とは ,学 校 に対す る感謝 の念 を生み出す こ とに役立 った。 自治 自労 の体験 を身 につ けた卒業生 たちは ,一 般社会 に対 して働 きかける 活動 をな した。第 1回 卒業 生 の うち 17名 は消 費組 合運動 を実践 し,第 2回 卒業 生 の大部分 は学校 に近 い農村 セ ツルメ ン トを作 り,第 3回 卒業 生 は工 芸 美術 の研究製作 をな し,第 4回 卒業 生 は家庭 生活合理化展 覧会 を開催 し,当 年度 の 第 5回 卒業 生 は英文雑誌 を編集 して海外 の若者 との交流 を開始 した。 「以上 の卒業 生 の仕事 は 同時 に一 方 に結婚 生 活 を予想 した婦 人 の職業 問題 の 解決 に も役立 ちつ ゝ進 んでゐ ます」 とい うのが ,ニ ース にお ける羽仁 の講演 の骨子 であ るЮ。.

(9) 三 好 信. 浩. 自由学 園 の 設 け られ た 1921(大 正 lo)年 は,い わゆ る大 正 自由教 育 の 全 盛期 で あ った。八 大教 育 主 張 講演 会 が 開催 され たの も この 年 で あ る。 1917 (大 正. 6)年 に沢 柳 政太郎 の創 設 した成 城小 学校 をは じめ と して,各 地 の 師. 範学校 附属小学校 で な された新教育 の実践 は,い ず れ も小学校 を基盤 とした 教育改革 で あ ったの に対 して ,自 由学 園 の教 育 は,小 学校 を卒業 した 12歳 の女子 を入 学 させ 7年 間 の一 貫教育 を行 う こ とを特色 と して い た。各種学校 に して文部省 の規制 を少 な くす る道 を選 んだため法規 上 の卒業資格 は与 え ら れ なか ったが ,一 般 的 にい えば高等女学校 と女子専 門学校 を合 体 した もので あ る。 そ の 後 ,1928(昭 和. 3)年 には初等部 を加 え,さ らに 1935(昭 和. 10). 年 には男子部 を加 えて男女共学校 に して,総 合学 園 と しての発展 を期 した も のの ,女 子教育 を特色 とす る学 園 の性格 に変化 はなか った。 男女共学校 に したの は,そ の こ とに よって女子教育 の光彩 を増す とい う羽 仁 の 考 え方 に よる もの で あ った。男子 部 加 設 に際 して発 表 した 「新教 育 の 春」 と題 す る論 説 で は,「 過去 十五年 間 ,自 由学 園 の女 の子 に与 へ て きた教 育 と生 活 は,今 幸 ひに して音楽 ,美 術 ,工 芸 ,科 学 的研 究 な ど特殊 の 能力 ば か りで な く,そ の 自治生活 の全体 を通 して ,健 全 に成 長 してゆ くかれ らの人 格 に よって ,段 々広 い世 の 中 に も認 め て い た ゞけ るや うにな って来 ま した。 今 日 この 時機 にお い て男子部 が 出来 るや う にな ったの は あ りが た い こ とで す」 といい つつ も,男 女 共修 とい う考 えは とらなか った。「男女 と も性 別 を 意識す る頃 になれば,そ の興味 に も能力 に も蓋j然 たる相違 を現 は して くる時 です か ら,学 校 がそれ に与 へ る生 活環境 に して もそれ に課す る学科 に して も 違 った もので な くて はな らな い筈 で す」「別 々の傾 向 に離 れ てゆ きなが ら. ,. 互 に意 識 しあふ 少年少女時代 に,男 の子 には女 の子 の ,女 の子 には男 の子 の 長所 と力量 を認 めて ,こ れか ら自然 に う まれ出 る真面 目な敬 意 を もたせ る こ とが ,両 性 の 間 を最 も清 潔 に調和 させ る唯 一 の道 で す。 それが よい女 の学校 の あ る所 にのみ ,は じめて よい男 の学校 の あ り得 る筈 だ と思 ふ有力 な理 由 の 一 つ で す」 とい う劉)。 学校 にお ける生活環境 も学科 も男女 に違 い を設 け る と い う こ とになれ ば,先 述 の羽仁 の天職論 や天性 論 か らして ,女 子 の産業教 育.

(10) 婦人運動家 の女子職業教育論. 120. とい う概念 は成立 しに くくなる。 女子 を専 門職業 人 にす る こ とよ りも自由人 にす るこ とが よ り重要 となる。 自由学 園 では ,女 性 が将来婦 人 と して ,ま た職 業 人 と して生活す るための人 間教 育 に主 眼 を置 い た。「思想 しつ ゝ,生 活 しつ ゝ,祈 りつ ゝ」 をモ ッ トー. に しつつ,「 人間の生地の教育」 を行 った。「専門は織物 でいへ ば,よ い模様 に当るであ らう大切 なもので,よ い模様 はよい織物 の地質の上 にこそ生 きる ものである。地質のない また地質の悪 い ところにほんとうのよい織物 はあ り 得 ない」「模様 は どんなに派手 で も盛んで も大切 なもので も,そ れ を生み出 してゐるその人間その もの ゝ生地は,モ ッ ト豊かに美 しく,モ ット盛 んな生 22。 専門家になる前 に人間になれ とい う 命その ものである筈 である」 とい う. 主張 は,自 由学園 にその後 も引 き継がれてい くため,専 門職業教育 とい う点 における自由学園の実践 は,直 接的なものではな くなって くる。. 2。. (1)愛. 平塚 らいてう. と反逆の青春. ,明 子 ,雷 鳥,1886∼ 1971)の 自伝 『元始 ,女 性 は太陽 であった』 (上 ・下 ・続 ・完 の 4巻 ,大 月書店刊 )の 編集 に協力 し,平 塚 の 平塚 らいて う. (明. 没後 にそれの刊行責任 を果た した小林登美枝の評伝 『平塚 らいて う』 には. ,. 「愛 と反逆 の青春」 とい う副題 が添 えられた“。平塚 の著作物 は,上 記 の 自 伝 を除 いて全 8巻 にまとめ られ,『 平塚 らいて う著作集』 として刊行 され 〕 小林登美枝 の作成 した「年譜」 もつ けられてい る 。. ,. 会計検査院の官吏 を父 とする東京の典型的な中流階級 の家 に生 まれ,姉 に つづいて女子高等師範学校 の附属高等女学校 に入学 した。「海老茶式部」 と もてはや される当時の トップレベ ルの女学校 であったが,平 塚 の心 には早 く か ら学校へ の反抗心が芽生え,学 業 よ リテニスに熱中 した。 自伝 によれば. ,. 「文部省直属 の この学校 では,日 本 の家族制度維持 を根本思想 として,聡 明 で家政上手 な妻 ,子 女の教育者 としての賢母 をつ くるための,徹 底 した良妻.

(11) 三. 好. 信. 浩. 賢母主義教育が行 なわれてい ました」 とい う. 25)。. 成瀬仁蔵 の著 わ した 『女子教育』 に感動 して,日 本女子大学校 に進学 し た。父 は反対 したが,英 文科 でな く家政科 ならば とい う母 の と りな しで,同 校 の 3回 生 となった。成瀬 の担当す る「実践倫理」 の授業 に胸 を躍 らせた彼 女 であ ったが,や がてそれに失望 し,寮 生活 での「成瀬宗」 の信奉者 たちの 挙動 にも不信感 を抱 くようになった。その中には,第 1回 生で後 に成瀬 の後 継者 となる井上秀 も含 まれていた。何 とか卒業 は した ものの,思 想 の彿往 は 続 き,禅 の修業 をした り,自 活 のために速記術 の練習 をした りした。夏 目漱 石門下の若 い文学士森田草平 と塩原温泉 でのいわゆる情死未遂事件 を起 こ し マスコ ミを賑 わせ るのはそのころのことである。 新 しい平塚像 を世 にア ピール したのは, 日本女子大学校 を卒業 して 5年 後 の 19H(明 治 44)年 のことで ある。彼女は 5人 の仲 間. (う. ち 4人 は 日本女. 子大学校卒)と 雑誌 『青踏』 を発刊 し,そ れまでの うっせ きした感情 を打 ち 払 うがごとく,16頁 にお よぶ発干Jの 辞 を一夜 に して書 き上げた。「原始 ,女 性 は実 に太 陽であ った。真正 の人であ った」「今 ,女 性 は月であ る。他 に依 って生 き,他 の光 によって輝 く,病 人のや うな蒼 白い顔 の月である」 とい う 有名 な言葉が盛 られた20。 それ以後 の平塚 は,「 新 しい女」 と称 されたように,既 成 の秩序 に対 して 反逆 を続けてい く。「 自分 は新 しい女 であ る」「新 しい女 は男 の利己心 の為 に 無智 にされ,奴 隷 にされ,肉 塊 にされた如 き女 の生活 に満足 しない」「新 し い女 は菅 に男 の利己心 の上 に築 かれた旧道徳や法律 を破壊す るばか りでな く, 日に日に新 な太陽の明徳 を以て心霊の上 に新宗教 ,新 道徳 ,新 法律 の行 はれる新王国 を創造 しや うとしてゐる」 と,そ の「新 しい女」 の姿 を描 き出 した. 27)。. 『青踏』創刊 4年 後 ,平 塚 自身は,『 青踏』 について次 のように評価 した。 「たとへ いかに私達 の言 ふ ところが幼稚 だった として も,又 いかに多 くの無 智 と偏見 と矛盾 と不徹底 とが其所 にあったとして も,私 は猶 も今 日,私 達が 婦人 の真 の解放 は其内生活 か らまづ 始 め られなければな らぬ と言 ったこと.

(12) 122. 婦人運動家の女子職業教育論. と,婦 人 の新 ら しい生 活 はその 第 一 歩 と して ,ま たその必 要条件 と して ,歴 史や因襲 を打破 し,直 接現代 の婦 人 自身 の欲 求 とその個性 の権威 の上 に築 か れねばな らぬ と言 った こ とに於 て ,そ の着眼点 と出発点 とを誤 っては しなか った こ とを信 じて居 ります。 と同時 に,私 は これが 真 の意味 での 日本 に於 け る 婦 人 問題 の 最 初 の 提 供 で あ る と言 つ て 差 支 あ る ま い と思 つ て い ます 」 と2,。 平塚 の この 自己評価 は,歴 史家 たちに よって もそ の まま認 め られて い る。 『青踏』時代 の平塚 は,1914(大 正 3)年 に,5歳 年下 の 画家志望 の青年奥 村博 (の ち博 史 と改 名 )と 共 同 生 活 に入 った。 これが 機縁 となって ,「 新 し い女」 と並 んで 「若 い燕」 とい う流行語が生 まれた。在来 の結婚 生 活 の殻 を 破 るため入 籍 をせず ,2人 の子供 の「未婚 の 母」 となった。 しか し,家 庭 に お い ては,妻 ,主 婦 ,母 とい う役割 を存分 に果 た し,そ こか ら彼女 の母性論 が生 まれ る。. (2)女 性 の職業 と母性. 『青踏』 は「婦 人問題 の最 初 の提供」 であ ったが ,さ てその婦 人が い か に 生 くべ きか につ い て は,「 先進 国 の先覚婦 人」 の 理論 を必 要 と した。 彼女 の この 欲 求 に こた え た の が ,ス ウ ェー デ ンの 婦 人 思 想 家 エ レ ン・ ケ イ あι(勤 グ Key)で あ っ た。 ケ イは,そ の 著 の 英 訳 本 動θCθ κ″ッ げ ′ J′. (E.. (1909). “ が 原 田実 に よつて 『児童 の 世紀』 (1919)と して邦訳 され て以 来 ,大 正 新 教. 育 に多大 の影響 を与 えた人物 であ るが ,平 塚 は ,ケ イの婦 人論 に注 目 した。 ιακグE′ んJε s(1912) す で に早 く 1913(大 正 2)年 か ら『青 踏』 にケ イの Lθ ソ の 翻訳 を発 表 し始 め ,動 ιRι καJssα κθ ιげ νθ′ た乃θθグ (1914)が 発 刊 され る と,1919(大 正. 8)年 には 『母性 の復 興』 (新 潮 社刊 )と 題 してそ の訳 書 を. 29。. 出版 した. ケ イは,母 性至 上主 義 と評 され るほ ど母性尊重 の思想 を持 っていて ,平 塚 をその思 想 の と りこ に した。平塚 は,女 性 が収入 を求 めて職 業 に従事 す る こ とに よ り母性 が損 なわれ る と主 張 し始 め ,1918(大 正 7)年 には,与 謝野 晶.

(13) 三 好 信. 浩. 123. 子 との間で「母性保護論争」 を展開することになる。鉄幹 との間に生 まれた 10人 の子持 ちで当時 40歳 の与謝野 は,女 性 は徹底 した独立 を呆 たす ために 経済的 に自立せ よと主張 したのに対 し,32歳 で 2人 の子供 を持 つ平塚 は. ,. 職業 よ りも母性 を優先 させ よと主張 した。平塚 の 自伝 によれば,「 ふた りの 間の論点 となっている母性保護 と女子 の経済的独 立 とい う問題 は, もっと身 近 に言へ ば,結 婚 と職業 の両立が可能か不可能か とい うことにしぼ られます が,こ の両立 を容易 とする与謝野 さんのお考 えは,わ た くしの実感 としてと うてい納得 しかねるもので した」 とい う。その実感 とは,平 塚 が第 2子 を産 んだ とき,徹 夜 で原稿書 きしていたことが影響 して乳が涸れ,職 業 のために 「授乳 によつて得 られる母子 の幸福」 を奪 われた体験 をさしてい る30。 この論争以後 ,平 塚 の主張は,職 業 よ り母性 を優先 させ よとい う方向へ の 傾斜 を強めてい く。大正期 の語録 のい くつかを年代順 に紹介 してみ よう。 「婦人が子供 を産む ことと労働す ることとのこの二 つ の創造的本能 は,二 つ を同時に全然満足 させ ることも出来ず,と いって二つ を全然区画 して分け 離 して しまふ ことも出来ない」「今や婦人 は労働 をなすの権利 を要求す る時 ではあ りません。人種 に対す る任務 を併せ もつ労働婦人 としての権利 を主張 引 すべ き時が来たのであ ります」 )。. 「国庫 が母の生活 を保 障す る,委 しく言へ ば子供 が母の手 を必要 とす るあ る期間,国 庫が母 の仕事 に対 して報酬 を支払ふ といふ欧洲 に於ける母性保護 の主張 に十分の賛意 を表す ると共に,私 共 日本 の家庭婦人等 も十分な経済的 自覚 をもって,自 己の労働 に対す る一一 わけて も母 の仕事 に対する正当な権 利 を社会 に向か って要求す ることを,婦 人 自身 とその子供 の有益 のために望 3'。 んで止みません」. 「婦人の生活 の真 の意義 と価値 とを種族的意志 の示現 の上 に認 めねばなら ぬ事 と,そ して個人的意志 の上 にのみ築 かれた現代 の男性文化 に種族的意志 の上 に築 かれた文化 を加へ るところに現代婦人の使命 を感 じてゐるものだ と いふ事 を一 言付 して この 問題 の解決 に対す る私 の態度 を暗示 して置 きま す」. 33)。.

(14) 124. 婦人運動家の女子職業教育論. 「家庭 といふ ものが 存在 す る限 り,夫 婦愛 の 創造 ,そ の 愛 を通 じての男女 相互 の 人格 の完成 ,出 産 ,育 児 ,教 育 といふ や うな大事業が婦 人 の手 を待 っ て居 ない筈 があ りませ ん。寧 ろ将来 の家庭 は体 的労働 か ら婦 人 を解放す るに 従 って益 々精神 的方面 の デ リケ ー トな仕事 を加 へ て 行 くばか りで あ りませ う。又 さうで なければ新 ら しい 家庭 の使 命 は果 せ ませ ん」. 34。. 「現代 ほど母性が悲鳴 をあげてゐる時代 が 曽てあ ったでせ うか。母性 は今 虐げ られ,堕 落 し,さ うして破壊 されつ ゝあるのです」「母性 の破壊 は,人 類が生命の世界 と別 れることであ り,大 地 を失 ふことであ り,さ うしてそれ 3'。 はやがて人類 の衰減 でなければな りません」. このような母性保護論 に立つ とき,女 性が男性 と対等 の職業 に従事す るこ とは不可能 となる。「今 日この男性文化 の社会 に於 て職業婦人 として或 い は 労働婦人 として成功す るといふことは,彼 女が最 もよく男性化 し機械化す る ことで なければな りません。然 るに女性が男性化 し機械化するといふ ことは ノ て も両立 母性すなはち人間創造 の最高芸術家 としての女性 の生活 とはどうし 36,職 す る ものではあ りませ ん」 と 業 における男女 の役割 を明確 に区分 し た。 この ような主張 の背後 には,母 乳が出なか った とい う自己 の体験 のほか に,生 活難 か ら紡績工場 の現場 に送 り出される女工 の問題があ った。すでに 早 く 1919(大 正 8)年 に,彼 女 は愛知県下の繊維工場 を視察 しその惨状 を自 分 の 日で確 かめてい る。 この年 ,「 女工 国 日本」「我 が 国 に於 ける女工問題」 「名古屋地方 の女工生活」 といった論説 に,女 工の母性 が無惨 にふみに じら れてい る状況 を生 々 しく記述 した。女性が男性 と同様 に工場 で労働す ること も彼女 には許容 で きないこ とであった。 彼女 自身を含 めたいわゆる知識婦人 は どうであるか。 1928(昭 和 3)年 に 発表 した「知識婦人についての考察」 と題す る論説 では,「 是等 の知識婦人 の大部分 は,婦 人の人格的自由や独立 は,経 済的独立 をその基礎的条件 とし て始 めて確保 されるといふ幻影 に導かれ,自 か ら好 んで職業生活へ、 ,社 会生 活へ と進出 し,教 員 ,記 者 ,官 公吏,事 務員 ,社 会事業家 ,社 会運動家,女.

(15) 三. 好. 信. 125. 浩. 医,著 述家 ,女 優 ,芸 術家等 々の知的労働婦人の一群が社会的新存在 として 勤 出現 した」 ものの,そ の 自由 と独立 は「幻影」 に過 ぎなか ったと解 した 。 抜本的 な解決策 は何か。昭和初期 の平塚 は社会の経済的組織 その ものの変 革が必要 だ と考 えるようになる。婦人は無産政党 を支持せ よとい う発言 も出 て くる。エ レン・ケイか らクロポ トキ ンヘ のシフ トが見 られるのである。 こ の点 では,山 川菊栄 に近づ くものの,マ ルクス主義 と共産主義 ソビエ トに賛 同す ることはなかった。 ソビエ トにおける強制支配による母性 の破壊 を批判 す るとい う点で,ケ イの思想の域 を越 える ことはなか ったか らである。 平塚 の主張の中で注 目すべ きことがある。それは女性 の家事労働 につい て,そ れ を職業 の一種 と見 な し経済的価値 を付与 せ よと主 張 した ことで あ る。 1925(大 正 14)年 に発 表 した「家庭 の仕事 を職業 と見 る」 と題す る論 説 では,「 家庭 の仕事 をさまざまの職業 と同列 な一つの職業 と見倣 し,経 済 的価値 を与へ ること,言 ひ換へ れば適 当 な方法 によつて社会が結婚婦人に報 にも同 じような主張 をな 酬 を支払 ふ ことを主張 したいのです」 といい期. ,他. した。 この 問題 は,「 成瀬宗」 の信者 として彼女 が冷ややかな眼差 を向け た, 日本女子大学校 の先輩井上秀 によって,家 庭 の「真 の収入」 とい う概念 で理論化 されることはり 肉な ことであ った。. ,皮. (3)女 子教育家の論難. 平塚 は,女 高師の附属高等女学校か ら日本女子大学校へ と,当 時の最高学 府 で学ぶ ことがで きたに もかかわ らず,在 学中か らそれ らの教育 に懐疑の念 を抱 いた。 彼女 の最初 の標的 となったのは成瀬仁蔵 であ る。平塚 が「塩原事件」 で騒 がれた折 ,日 本女子大学校 の校友会. (桜 楓会)は. ,平 塚明 を除名処分 にした. し,『 青踏』が発刊 された とき,成 瀬 は「新 しい女」 を批 判 した。 1913(大 正 2)年 に欧米視察 か ら帰国 した成瀬は,欧 米諸国の女子教育 は職業教育 に 向かいつつあるけれ ども,日 本 では良妻賢母教育 の美風 が守 られてい ること は悦 ば しいことである旨の発言 をした。 これ を見た平塚 は成瀬に対 しきび し.

(16) 126. 婦 人運動家 の女子職業教育論. い批判 の言葉 を発 した。「時流 を抜 いた熱誠 な校長 も最早老 い込 まれたので はないか。老 いてはあ ヽまで俗論 に媚 びねばならぬのか もと悲 しみました。 校長 の所謂人格教育 か ら見 て職業教育 は成程理想的なものではないでせ う。 けれ ど今 日のあの惨 れむべ き良妻賢母主義 の女子教育 を何 となさい ますか」 と40。 ただ し,平 塚 自身が欧米女子教育 の職業教育へ の傾斜 に賛成 したわけ ではない。 平塚 の女子教育家批判 は,成 瀬 だけでな く,当 時の「女流教育家」 に向け られ,前 稿 で取 り上げた下田歌子 ,鳩 山春子 ,嘉 悦孝子 らの女性教育家 も総 なめにされた。青踏社に対す る「荒唐無稽 な女子教育家の非難」が よほどか んに触 わった もの とみえ,「 下田歌子 を筆頭 に,鳩 山春子 ,嘉 悦孝子,津 田 梅子 とい うような人 びとが,お そ らく『青踏』 は全然読 み もせずに,頭 ごな 引 その 中で も真正面か ら槍 しに見当外れの批判 をしました」 と記 してい る '。. 玉にあげられたのは嘉悦孝子 であ って,1918(大 正 7)年 には「嘉悦孝子女 史の愚言」 と題す る論説が出 された。「今回の物価騰貴 が家庭 の主婦たちに 家事経済 とか勤倹 とかいふや うな点で莫大な教訓 を与へ た」 として嘉悦 が 日 本女子商業学校 の生徒 を動員 して青物格安小売市場 の売子 として働 かせたこ とをとらえ,「 商業学校 の学監 といふ氏 の公職か ら言 って も,そ んなことよ りも今 日の我が国民 の経済生活 について,ま た今回の物価騰貴 やその調整策 につい て こそ相 当 の理解 と見識 とを示 さるべ きはず だ と思 ひ ます」 とい ぃ42,嘉 悦 の発言 を愚言 と決 めつ けた。 平塚 の批判す る女流教育家 の中に羽仁 もと子は含 まれない。 む しろ,羽 仁 に対 しては敬意 と称賛 の念 を抱 いてい た。「信仰 と愛 と聡明 とによって,わ た くし達 と同 じこの時代 に,個 人 として,家 庭人 として,又 社会人 として円 満な発達 をとげられたひとりの完成 された女性 らしい女性 の生涯に対 して. ,. 厳粛 な尊敬 と感謝 の心 を捧げてゐます」 と,平 塚 としては異例の称 え方であ る 。平塚 は娘 を羽仁 の 自由学園 に入学 させ るが,そ れは羽仁 の著 した 『み 4〕. どりごの心』 に心打 たれたか らである。「いっ さいの新 しきもの,新 しき時 、 亡 ,そ れでい 代 に対す る無理解 ,堅 い殻 の うちに閉 じ込 め られたや うな頑な′.

(17) 三. 好. 信. 127. 浩. て世評 に対 してだけはいたず らに敏感 なずるい,臆 病な態度 ,む しろ習慣的 な虚偽 と偽善,無 知な独 りよが りと,図 々 しさ,こ うした在来 の女流教育家 に対す る私 の,や うや く固定 しかけた観念 を根 こそ ぎくつがえ して下 さつた のは, ミセス羽仁 で,そ の ことだけで も私 にはおお きなよろ こびであ りま す」 とぃ ぅ. 40。. 「 ミセス羽仁 の思想並 に生活 の独創性 を反映す る」 自由学園. に4",ゎ が娘 を入学 させ ることについて平塚 にため らい はなかった。 羽仁 の教育にこれだけ共鳴す るだけあ って,女 子 の職業教育 については羽 仁 と同 じよ うに消極 的 で あ った。 1927(昭 和 2)年 に発 表 した平塚 の論説 「女子教育 における母性主義 につい て」 は,平 塚 のこの面 に関す る教育観 が よ くあ らわれてい る。「わた くしは,女 学校 に,無 理想 な,例 へ ば手 っ取 り 早 く実際 に間に合ふや うな実用主義 の教育や,す ぐ生活 に役立つや うな職業 教育 を望んでゐる ものでは決 してあ りません」「わた くしの願 ふ ところは今 日の女学校 が女性生活 の理想 として又使命 として母性 の完成 を説 き乍 ら,そ の手段 として今なほ結婚 に於て経済力あ る男子 を選択することを第一条件 と して教へ る代 りに,現 代 を知 らせ ,今 日の社会組織 ,経 済組織 を理解 させ 生活 に対する女子 の正 しい 自覚 を促 してほ しいのであ ります」 とい う. 40。. ,. 職. 業教育 よ り前 に人 間の生地 をつ くれ とい う羽仁 の論調 と相通 じてい る。 平塚 は,羽 仁 と同 じように男女共学 に賛同す るが,羽 仁 が共学 であ りなが らも,女 子 には女子 の教育 をと主張 したのに対 し,平 塚 は女学校教育その も のを不要 と見 る。息子 を入学 させた成城小学校 に高等女学校 を増設す る議 が 出たとき,父 兄 の一人 として小原国芳主事 の考 え方 に疑義 を呈 した。女学校 で長年月かけて教 える家事 ,裁 縫 ,育 児 などは数時間で学ぶ ことがで きる と まで極言す る。それ よ りも,社 会的 ・経済的 な理解力 と自力 で物事 を解決す ることので きる実践力 を培 えと主張す るのである。 男女共学 を実現す る捷径 は,男 子 の高等教育機関 を女子 に開放す ることで ある と主張 し,こ の点 で文部省 の教育政策 を論 難す る。 1927(昭 和 2)年 に 発表 した「現下 の女子高等教育問題 について文部当局 に」 と題す る論説がそ れであって,文 部省 が 日本女子大学校 を大学 として認可 しないこ との非 を指.

(18) 128. 婦人運動家の女子職業教育論. 弾 した。「文部省 は,人 も知 る通 り,殆 ど伝統的 に女子教育 を無視 し,蔑 視 し,継 子扱 い して来 ました」 と女子教育 に対す る無為無策 を批判 した うえ で,「 現 にある男子 のための各種 の高等教育機関 を――専門学校 の多 くと高 等学校 と大学 とを,女 子 に開放 し,高 等教育 に於ける男女共学制 をとること ′ た4"。 高 が今 日最 も実現 し易 い,賢 明な解決策 ではないでせ うか」 と提言 ヒ 等教育 を女性 に開放せ よとい う主張 は,羽 仁 よ りもむ しろ山川菊栄 に近 い も の となるが,山 川 は職業教育 をも視野 に入れたのに対 して,平 塚 にはその言 及 はない。. 3.山 川 菊 栄 (1)社 会主義 の理論家. 山川菊栄 (1890∼ 1980)は ,森 田家 の第 3子 として東京 に生 まれ,祖 父 の 家 を継 いで一時青山姓 を名 の り,26歳 の とき,10歳 年長 の社会主義者山川 均 と結婚 し,山 川姓 に変 わった。1956年 刊行 の 自伝 『女 二代 の記』 (日 本評 論新社刊)で は,「 わた しの半 自叙伝」 と副題 をつ けて,水 戸弘道館 の教授 青山延寿 の娘 で菊栄 の母 で ある千世 と自身 の 2人 の女 の生 き相 を描 き出 し た。その後 『覚書幕末 の水戸藩』 (岩 波書店刊 )を 執筆す るの も母方 の系譜 と関係 してい る。山川 については,評 伝 も多 い し0,ま たその著作物 も上記 の 2書 を含 めて全. H巻 にまとめ られ,『 山川菊栄集』 として出版 されて い. る. 491。. 少 女 時代 の 山川 は順 風 満 帆 の 日 々 を過 した。 東 京 府 立 第 二 高等 女 学 校 を経 て ,1912(明 治. 45)年. に津 田梅 子 の 女 子 英 学 塾 を 卒 業 した。 卒 業 の こ ろ か. ら平塚 らいて うらの青踏社主催 の講演会に足 を運ぶ ようにな り,同 じく青踏 社 に加盟 してい た,同 じ女子英学塾 の 出身で 2歳 年長 の神近市子 に誘 われ て,社 会主義者 の集 まりにも顔 を出す ようにな った。 1915(大 正 4)年 に大 杉栄 ・荒畑寒村 らの平民講演会 に参加 し,翌 年 には,そ の平民講演会 の出席 者が警察 に連行 されたとき,留 置場 で山川均 と会話 を交わ した ことが機縁 と.

(19) 三 好 信. 129. 浩. な り,9か 月後 に結婚 生 活 に入 った。 夫 山川均 は,同 志社 を中退 後社会主義活動 に入 り,幸 徳秋水 の影響 を受 け たが ,大 逆事件 の ときにはた また ま入獄 中 で あ つたため命拾 い を した。 1922 (大 正. H)年 の 第 1次 共産党 の結成 に参加 したけれ ども,第. 2次 共産党 には. 加 わ らず ,彼 の理論 が 前衛党 の役割 を呆 たそ う とす る主流 派 か ら排斥 され た の ちは,山 川 イズム と称 され る独 自な社会主義理論 (労 農派 )の 唱道者 とな り,第 2次 大戦後 は 日本社会党左 派 にその理論 は引 き継がれた。 山川 は ,夫 均 の思想 の影響 を色 濃 く受 けなが ら,マ ル クス主義 の立 場 か ら 婦 人解放 の論客 となった。 1917年 の ロ シア 10月 革命 の成功 を夫 どともに悦 び ,地 球 上 に初 め ての 社 会 主 義 国家 が 成立 した こ とに 自信 を強 め た。 1921 (大 正. 10)年 3月 には,夫 とと もに 『社 会主義研 究』 の主 筆 とな り,4月 に. は,堺 真柄 ・伊藤野枝 らと日本社会主義 同盟 に属す る最初 の婦 人社 会主義 団 体 「赤瀾会」 を結成 して ,政 治活動 の 中に入 り込 んで い った。 しか し,山 川 の 真 骨 頂 は,そ の 旺盛 な著作 活 動 に発 揮 され ,単 著 だ けで も 20件 に達 す る。. 山川の本格的な著作活動 は,1919(大 正 8)年 に始 ま り,こ の年 に『婦人 の勝利』 (日 本評論社刊 ),『 現代生活 と婦人』 (叢 文閣刊 ),『 女 の立場 か ら』. ,3冊 もの婦人論 を刊行 した。結婚直後 に,結 核 と診断 さ れて鎌倉 に転地療養 し,長 男振作 を出産 した 2年 後 か ら,堰 を切 つたかのよ (三. 田書房刊)と. うに著作物が続 くことになる。 1922(大 正. H)年 の 『女性 の反逆』 (三 徳社. 干J),1925(大 正 14)年 の『婦人問題 と婦人運動』(文 化学会出版部刊),1928 (昭 和. 3)年 の 『無産者運動 と婦人 の問題』 (均 との共著 ,白 揚社刊),1933. (昭 和. 8)年 の 『女性五十講』 (改 造社刊 ),1937(昭 和 12)年 の 『婦人 と世. 相』 (北 斗書房刊 ),1940(昭 和 15)年 の 『女 は働 いてゐる』 (育 生社刊 )な どは,戦 前 ・戦中期 の代表的 な著作物 であ る。訳書 も数多 くもの し,特 にベ ーベルの 『婦人論』 (ア ルス刊 )は 有名 であ って,版 を重ねるとともに改造 文庫 にも収 め られた。 第 2次 大戦が終わると,山 川は夫均 とともに日本社会党 に入 り,片 山哲社.

(20) 130. 婦人運動家の女千職業教育論. 会党政権 の もとで誕生 した労働 省婦 人少年局長 に就任 した。片 山内閣 は短命 に終 わ ったけれ ども,山 川 は 4年 近 くそ の職 にあ って ,戦 後 の婦 人問題 の解 決 に当 たった。戦 後 にお い て も婦 人問題 につい ての著書 や論 説 を書 き続 ける とともに,夫 均 の 自伝や全集 の編集 に携 わ った。 一 人虐、 子 の 山川振作 と協 力 して 『山川菊栄集』 の編集 に携 わ った 田中寿美子 に よれ ば ,「 山川 さんはは じめて マ ルキ シズムの基礎 に立 って社会主義 と婦 人解放 のかかわ りを透徹 し 50。. た理 論 で分析解 明 した唯 一 の婦 人 の理論 的指導者 で した」 とい う. (2)婦. 人問題 の経済的基礎. 山川が 日本 の婦 人問題 に関す る生 々 しい体験 を持 ったの は,女 子 英学塾 に 入 ってす ぐの こ とであ った。 日本救世軍 の創設者 山室軍平 らに同行 して東京 府下 の紡績 工 場 を見学 し,女 工 たちの悲惨 な青春 にシ ョック を受 けた のが そ れで あ る。 10年 後 の 1919(大 正. 8)年 に,山 川 はそ の と きの鮮 烈 な印 象 を. 「労働 階級 の 姉妹 へ 」 と題 す る論 説 で 切 々 と語 ってい る。「あ ゝこれ が 人 間 だ ,こ れが 私達 の姉妹 だ,そ う思 つた時 ,私 の胸 はか きむ しられ る よ うに感 じた。 彼等 の魂 ,彼 等 の青春 は早 く已 に何物 か に吸 ひ尽 されて ,ル にあ るの は只 だ彼等 の残骸 なので はない か ,生 き乍 ら屍 とな らん と しつ ヽあ る彼等 で はあ る まい か」 とい う到。 この論説 を出 した ころには,す で に彼女 の胸 中に はその解決策 が秘 め られ て い た。そ れ は,キ リス ト教 に よつてで はな く,前 年 の ロ シア革命 に よって 実現 した社 会主 義 国 家 の 政 策 に よつて で あ る。 この の ち,1921(大 正. lo). 年 に山川 は夫均 との 共著 『労農露西 亜 の研 究』 (ア ルス刊 )を 出版 し,教 育 制 度 ,文 化施 設 ,婦 人 の 解放 の 3章 を担 当 して ,そ の 婦 人 の 解 放 の 中 で. ,. 「要す るに ソヴ イエ ッ ト治下 の 露 国 は,政 治 ,教 育 ,経 済 ,社 会 の総 ての 方 面 に於 て婦 人 に男子 と同等 の 権 利 を与 へ ,平 等 な る発 達 の 機 会 を与 へ て居 る。斯様 なる婦 人 の解放 が 決 して婦 人 の性 を否定 し,其 母 と して の生 活 を抑 圧す る もので ない こ とは,世 界 の 賢母良妻 が夢想 だ もし難 い周到 な母性保 護 の施設 が行 はれて居 るに見 て も明か で あ る」 と記 した52。.

(21) 三. 好. 信. 浩. 山川の婦人論 は,労 農 ロシアの社会主義 を目標 とし,ま た解決策 としてい ただけに,日 本 に出ていた各種 の婦人論 を明快 に論破す ることがで きた。1918 (大 正 7)年. と翌 1919(大 正 8)年 にかけて発 表 された 6件 の論説 を引用 し. てみ よう。 その 1は ,「 婦人 を裏切 る婦人論 を評す」 とい う,ま さに真向か ら切 り込 んだ論説 を『新 日本』 に発 表 した。山田わか子 の「今後 の婦人問題 を提 唱 す」 を俎上 に乗せた ものであ って,そ こで平塚 らいて うも傾倒 していたエ レ ン・ケイを斬 った。「私 の見 る所 では,エ レン・ケイは畢克一個 の陳套 なる 社会政策論者 に過 ぎない」「1生 的区別 の誇張 に立脚す るケイの主張 はどう見 て も一個 の反動思想 で ある」 と決 めつ け,返 す刀 で 山田わか子 に対 し,「 か の性的区別 の過大視 をもって立 つ家庭論者 の如 きは男子中心 に立脚 して居 る 現代 の社会組織 の一産物 であ り,そ の支柱 の一つである家庭 を謳歌 し,女 子 の 自由 と権威 とを無みす ることによって手づ か ら自家 に火 を放たん とす るも のである」 と難 じた 。 5勢. その 2は ,平 塚 らいて うの批判 である。山川 と平塚 の出会 いは,成 美女学 校 の教師生田長江 の きも入 りでで きた閏秀文学会 とい う文学サ ー クルにおい てであるため,19o7(明 治 40)年 にさかのぼる。その翌年 ,平 塚 は山川 の 自宅 を訪問 した こともある。平塚 と与謝野晶子 が母性保護論争 を始めると ,. 山川 はその中に割 って入 り,論 点 を整理するとともに両者 ともに考 え方 に甘 さのある ことを指摘 した。平塚 については,「 旧来 の女権運動 に対抗 し,そ の補足 としてまた修正案 として二十世紀初頭 に北欧に起 った母権運動 の系譜 をひ く」 もの と位置づ け,そ の「一面 の真理」 を認 めるものの,山 田わか子 に対 してな したように,「 婦人問題 の根本的解決」 は望むべ くもない と断 じ た。山川に よれば,「 現在 の経済問題 てふ根本的原因の絶減 によるほか実現 の道 はない」 か らである5a。 ちなみ に,山 川 の平塚 評 はその後 も続 いてい く。例 えば,1925(大 正 14)年 の論説 では,「 平塚 さんのブルジ ョア的教養 や貴族的 な趣味 は,そ の思想 の究極 の徹底 を妨げは した もの ゝ,伝 統的 な倫 理観念 と家族制度 との破壊 といふ,日 本婦人 にとっての最初 の必要な仕事 は.

(22) 132. 婦人運動家の女子職業教育論. 先覚者 と して の平塚 さん の 手 に よつて 十分 に成 しとげ られ た と云 って よい」 と して“',青 踏社 の活動 に対 しては一 定 の評価 を与 えた。. その 3は ,羽 仁 もと子であ って,そ の批判 の語調 は上記 の 2者 よ りさらに きび しさを増す。「誤 れる婦人職業論 の一標型」 と題 し,羽 仁 の婦人職業論 を誤謬 の典型 と評 したのである。前述 の ように,羽 仁 は,婦 人を職業 につか せ社会 を知 らせることの必要を認 めた ものの,婦 人の職業 は収入目当てであ ってはならない と主張 した ことに反発 した。「羽仁氏 は,婦 人は男子 と異 な って職業に よる収入以外 に必ず衣食の保障あ るもの とみな してお られるよう である」「家庭 を維持するうえに絶対 に必 要 である階級 の婦人 は,氏 の限界 か ら全閉されてい る」「婦人の知識 の開発 とか進歩 とか を必要視せ られる羽 仁氏 は,か かる無 自覚不徹底 なる言論 によって,自 ら自己の目的を破壊せ ら れつ ゝあるばか りでな く,た またま日本 の資本家 に低廉 なる労力 を供給す る の役 目を果たされてい るものである」 と ,羽 仁 の階級問題へ の無 自覚 を指 5・. 弾 した。山川は これ より先 ,社 会政策学会 でな した「婦人職業問題 二就テ」 と題す る講演 において も,羽 仁 の職業論 について批判 してい る 。 5■. 以上の 3人 は,こ の時代 の代表的な女性の女性論者 であるが,そ のほかに も与謝野晶子 や伊藤野枝 な ど,山 川の鋭 い論鋒 の難 に遭 った女性論者 は多 い。 もちろん,山 川は,女 性 だけを問題 に したのではな く,男 性 の女性論 に 対 して も,そ の反動性 を批判す る手 をゆるめなかった。つづいて 3件 の論説 を例 に出 してみる。 その 4は ,「 山川帝大総長 の女性観」 と題する もので,東 京帝国大学総長 山川健次郎 が府下のあ る女子専門学校 の卒業式 で「結婚 を励 む」 と題する講 話 をな した ことを取 り上げ,女 性 には独身の権利 もあると主張 した。「女子 を目して家庭 の奴隷 とし,兵 士 の製出機 とし,人 民 を見 るに砲丸をもってす るが如 き人物 に主宰せ らる ヽの間は,我 が最高学府 はいつ まで も官僚 の士官 58。 山川総長が女子 の結婚 ・出 学校 たる大任 を全 うし得べ きであ る」 とい う. 産 を国防上の必要 と結 びつ けた ことを突 いたのである。 その 5は ,湯 原元一 を議長 として開催 された高等女学校長会議 に対す る批.

(23) 三. 好. 信. 浩. 133. 判 であ って,一 方 に「女子 の職業教育普及,大 学開放 ,理 科奨励 ,学 年延長 等 を可 決」 し,他 方 に英 語 の必修 を認 め ず,「 裁縫 ,家 事 ,習 字 ,作 法等 些 々たる末枝」 の教育 をなす こ とで,「 在来 の糠味口 曽女房製造所」 の域 を出 ようとしない女子教育家の固随 さを難 じた5"。 論題 は「 自減 を急 ぐ女子教育 家」 となっていて,当 時隆盛 を見せていた高等女学校 の校長 たちが 自減 の道 を辿 ってい るとい う,大 胆な発言である。 その 6は ,大 正デモ クラシーの波 に乗 って浮上 してきた厨川白村や宮田修 の「新賢母良妻主義」 を批判 したことである。「一見進歩的 に似 て其 の実旧 来 の賢母良妻主義 と五十歩百歩 に過 ぎざる女子教育論」 であって,「 始末 に 悪 いの は,新 旧の 中間に灰色 の保護色 をかぶって介在 し,常 に首鼠両端 を持 して,愈 々となれば保守主義 の走狗たる実 をあ らはす癖 に,平 生はともすれ ば新人のお味方ぶって,却 って其 の足手纏 ひとなる,妥 協 に生 きて居 る狡猾 な不正直な自由主義者や進歩主義者の徒 である」 と60,そ の偽善性 を指弾 し た。 このの ち,1921(大 正 lo)年 に発 表 した「明治文化 と婦 人」 は,近 代 日 本 の婦人論 を総括 した論説 として注 目されるもので,近 代 日本の最大 の啓蒙 家 ともい うべ き福沢諭吉 を取 り上げてい る。福沢 の 『女大学評論』 は,「 封 建的婦人道徳 をブルジョア的見地か ら忌憚 な く批評 した」 もの として一定 の 歴史的価値 を有す るものの,そ れに代 わるもの として福沢 の著 わ した『新女 大学』 は,「 ブルジ ョア的婦人道徳 を鼓吹 した もの」 であ り,そ の影響 は多 大 であ った とい う。「今 日のブルジ ョア階級 には,今 なほ福沢氏 の婦人論 に 共鳴 してい る輩 も少な くな く,進 歩的な女子教育家 とみなされる連中はこと ご と くそれであるといって もよい くらいである」 とい うのである。青踏派 の 婦人解放論 もその域 を出るものではな く,「 福沢翁 のそれをい っそ う実質化 し,深 刻化 し,完 成 した」 ものであ り,「 結局 ,自 由主義 と賢母良妻主義 と に社会改革 を加味 したエ レン・ケイの思想あた りの ところへ悠 々と腰 をおろ して しまった」 とい う. 61)。. 既発 の女性論や婦人解放論 を,こ とごと くブルジ ョア的だ とか反動的だ と.

(24) 134. 婦人運動家の女子職業教育論. してな ぎ伊lし たつ む じ風 の ような論説 を次 々 と発 表 した山川 の思想 の根底 に あ った ものは ,経 済組織 そ の もの に切 り込 まな い か ぎ り何事 も解決で きない とい う一 点 であ った。 い う ところの唯 物論 的歴 史観 であ る。 1924(大 正 13) 年 の論 説 では ,彼 女 の立場が単刀直入 に次 の よ うに表明 され て い る。 「婦 人問題 は純 然 た る経 済 問題 に端 を発 して居 る。随 って婦 人解放論 の取 扱 ふ 当面 の 問題 は,両 性 の本 質的差異乃 至優劣 の 問題 で もなけれ ば ,両 性 の 自然 的分業 の精密 なる範 囲如何 の 問題 で もな くて ,婦 人 の生 活 及 び労働 の 条 件 を一 層有利 な ら しめ ,男 女 の社会的平等 を実現 しや うとす るだけの事 に尽 きて居 る。 それ以上 の 問題 ,即 ち将来 の社会 に於 ける両性分業 の範 囲 とか. ,. 両性 の 自然的差異 に基 づ く性 能如何 とか いふ こ とは,経 済 問題 としての婦 人 62。. 問題 が 解決 され た後 に自ら解決 の緒 につ く問題 で あ る」. (3)職. 業 と教育 の 完全解放. 各界 か ら出 された著名 人 の婦 人論 を槍玉 にあげて批判す る とき,山 川 の念 頭 には労 農 ロ シアの 目 ざ して い る理 想 社 会 のモ デ ルが あ った。 1922(大 正. H)年 に著 わ した 『女性 の 反逆』 には,経 済問題 に解決 の緒 をつ けた ソビエ トで は,日 本 に生 じて い る婦 人問題 は一 挙 に解決 して い る とまで 断言 した。 同書 の 中 の 「母性 と職 業 との調和」 と題 す る論 説 で は ,「 此 点 で最 も興味 あ る解決策 を提供 して居 るのは露西亜です。社会主義 の露西 亜 は,総 ての 母親 を国庫 で扶養 し,母 親 の職業 的活動 を助 ける為 め に,大 仕掛 な託 児所 ,幼 稚 63,「 労 農露 国 の 園等 の 設備 が全 国 に普 及 され よ う と して 居 ります」 と記 し. 子供 と母」 と題 す る論 説 で は,「 社 会主義 の 露西亜 は慈 善事 業 を全廃 して. ,. 労働 階級 の男女 を扶養す る こ とは 国家及 び社 会 の義務 であ る といふ信念 を事 64。. 実 の上 に体現 した」 と記 して い る. このモデル を基 にす る以上 , 日本 の よ うに職業や教育 な どにお い て男女 間 に差異 の あ るこ とは許 し難 い こ とであ った。職業 と教育 の完全解放 とい う山 川 の主 張 は熱気 を帯 びて くる。時代順 に 4件 の語録 を紹介 してみ よ う。. 1920(大 正 9)年 の論 説 で は,「 職業 は唯 一 の生 活 の 道 で あ り,学 校 教 育.

(25) 三. 好. 信. 135. 浩. は職業 へ の殆 ど唯 一の通路 で あ る以上 ,生 活 問題 が 男女 を等 しく襲 ふ現代 に 於 て ,女 子 も男子 と等 しく学校教育 に依 って職業生活 へ の通行券 を得 よ う と す るに不思議 は な い 。 して見 れ ば ,国 家 が 男 子 に許 す所 を女 子 に禁ず るの は,飽 まで不 当 で あ り不合理 で あ る」 とい う“. )。. 同 じ年 の別 の論 説 で は ,「 何 の必 要 もな くして 固守 され て居 る男女教 育 の 相違 な どは不 自然 と不合理 の極致 で あ る と考 へ て居 る。男女 に依 て智識 を異 にす る必 要 な き以上 ,特 に女子教育 と呼 ぶ 片輪 な教育 法 を保存す る理 由 は塁 も無 い。総 ての被教育者 は 自己 の能 に依 り趣味 に依 て学課 を選択す る 自由 を 持 たな けれ ばな らない」 とい う66)。. 1925(大 正 14)年 の論 説 で は,「 今 日一般 的 に職業婦 人 の 地位 が劣悪 な こ とに関づ か つ て居 る理 由 の一 として ,婦 人 に職業 的素養が な く,大 抵 の仕事 には最 も低級 な不 熟練 工 と して傭 はれ る外 は な い こ とを挙 げ る こ とが 出来 る。 この 点 に就 ては,一 般 に女 子 の職業教育 を普及 させ ,一 定 の技術 を習 得 し,高 級 の職業 につ く機会 を増 加 させ る必 要が認 め られ る」 とい う6"。 翌 1926(大 正 15)年 の論説 で は,「 婦人 を高級 な,熟 練 した生産者 と して 訓練 し,自 己 の性 能 に適 した職 業 を選択す る機 会 を与 へ ,健 康 や母性 を十分 に保護す る労働 条件 の もとで働 かせ る社会 となった時 に,始 めて婦 人労働 の 弊害 は除 かれ ,そ の有利 な点 だ けが発達 させ られ るで あ ろ う」 とい う69。 これ らの語録 を見 ただ けで も,山 川 の論理 は明快 で あ る。本稿 よ り先 に考 察 をす ませた産 業啓蒙家や女性教育家 は当然 の こ となが ら,本 稿 で取 り上 げ た婦 人運動家 と しての羽仁 もと子 や平塚 らい て う と比 較 してみて も,女 性解 放 につい ての思想 の信念 は撃 固 で あ る。 と りわけ注 目す べ きこ とは,解 放 さ れ た婦 人 は男性 と同 じよ うに生産活動 に従事 す る こ とになるため ,産 業 に関 す る専 門的 な職業教育 を必 要 とす るこ とを認 めた こ とであ る。戦前期 の 日本 にお ける女性 と産 業 の教育 関係 史 は 山川 の主張 を もって極 に達す る。 しか し,そ こには,山 川 に批判 され た人 々 に とって ,若 しかす れば山川 自 身 に とって も,割 り切 れ ない 問題 が残 ってい た。前稿 で ,下 田歌子 が女性 の 職業論 に関す る難点 と して挙 げた 5つ の 問題 点 もその中に含 まれて い る。職.

(26) 136. 婦人運動家の女子職業教育論. 業 と教 育 の 完 全 解 放 とい う山 川 の 主張 に限 ってみ て も,少 な くと も 2つ の 間. 題 があ りそ うで あ る。 そ の 1は ,婦 人 の経済条件 を確 立す るため には,ロ シアの よ うな革命 を必 要 とす る とい う こ とであ る。 日本 で 山川 の理想 を達成 しようとすれば ,社 会 主義 国家 に移 行 しない か ぎ りそ の論 は砂 上 の楼 閣 となるか らであ る。 山川 は 夫均 とともにその方 向 での運 動 を続 けた。 ところが ,そ の後 の 山川 は,ソ ビ エ トだけで な くイギ リス に も注 目を怠 らなか った。 イギ リス には,山 川 らと 同 じように ソ ビエ ト革命 に歓喜 した炭鉱 労働 者 の指導 者 ベ バ ン (A.Bevan) の ような人物 が い て イギ リス労働 党左 派 の理論 家 として頭 角 をあ らわ して い た。「社会主義 の 道 は一 つ で な い」 と考 え始 め た 山川夫妻 は,ソ 連本位 の コ ミンテル ンに追 従す るこ とをやめた。本 稿 で拾 い上 げた山川語録 は ,比 較 的 初期 の ものであ り,そ の論詰 は激 烈 で あ り教条的であ るが ,ソ ビエ トの 内情 が分 か るにつ れて ,資 本主義社会 の 中で も可能 な条件 は何 か を模索す る方 向 に動 い て い く。戦 後 の こ とで あ るが ,『 平 和 革 命 の 国― イギ リス』 (慶 友 社 刊 ,1954年 )と い った本 も出 して い る。 そ の 2は. ,15年 戦争 下 の 日本 の非常事 態 の 中 で ,戦 争 と産 業教 育 につ い. ての新 しい 関係 が生 じた こ とを是 認 した こ とであ る。 山川 は大平洋戦争が勃 発 す る まで の 間 ,『 読売新 聞』 や 『婦 人公論 』 な どに女性 の 立 場 か ら辛辣 な 社 会時評 の論 説 を発 表 し続 け た。 1940(昭 和 15)年 に公 刊 した 『女 は働 い てゐ る』 (育 生社刊 )に は,「 男 は戦 ひ,女 は働 く」「大戦 は婦 人 を ど う変 ヘ 69。 たか」「婦 人 の 国策協 力」 とい った論説 が 含 まれ て い る 「非常 時 は女子 労. 働 に対す る偏見 を許 さな くな る」 か らであ る。 山川 は この こ とを肯定 も否定 もして い ないが ,事 実 と して ,そ の よ うな情況が生 まれ た中で ,農 ・工 ・商 の各産業分野 における専 門教育 の 門戸 を女性 に も解放せ よとい う年来 の主張 が 現実味 を帯 びて くる。 日本 の女子職業教育 に及 ぼ した戦争 の影響 関係 につ い ては,先 の拙稿 (第 3報 )で そ の実態 を指摘 したが ,そ の解釈 には慎 重 さ を要す るに して も考察 に値す る問題 で あ り,こ の 間 にお ける山川 の主 張 の動 きもまたそれ に迫 る一 つ の鍵 とな り得 る。 もちろん,山 川 に とってはジ レン.

(27) 三. 好. 信. 浩. 137. マであったにちがいない。 お. わ. り. に. 本稿 で取 り上 げ た 3人 の婦 人運動家 の 共通点 を探 してみ る と,ま ず文筆業 で名 をあげた こ と,女 性 に対 して 自立性 や主体性 を求 め た こ と,前 稿 (第 2 稿 )で 取 り上 げ た 3人 の女性教 育家 に比 べ る と時代 を先 取 りした新 しい発想 を した こ とな どを挙 げ るこ とがで きよう。羽仁 は,自 由主義 を提 唱す る とと もにその実 践 の場 としての 自由学 園 をつ くり,平 塚 は,女 性解放 へ の最初 の 叫 び を発 した し,山 川 は ,経 済基盤 の上 に女性 解放 を理 論化 した。 しか し. ,. 3人 の相違点 も大 き く,は じめ に予想 した とお り,羽 仁 か ら平塚 を経 て 山川 に至 る まで には,か な りの懸隔 が あ る こと もは っ き りした。 そ の 開 きの最 たる点 は,職 業役 割 にお い て男女 の性差 を認 め るか否 かであ って ,そ れ を否定す る 山川 とそれ を肯定す る羽仁 お よび平塚 との溝 は最後 ま で埋 まる こ とはなか った。 山川 は ,「 家庭 労働 の全 部又 は少 く とも大部分 は 共 同的組織 の下 に移 し,育 児 を専 門家 の手 に委 ねて ,婦 人 を して各 自の好 む 社会的勤 労 に従 は じむべ し」「男女 は一 層健全 に して高 尚 なる関係 へ ,子 供 は母 の原始 的本 能 よ り最新 の科学 的育児法 へ ,斯 の如 く将来 の変化 を観 察す れ ば婦 人職業問題 の前途 を悲 観 す べ き何等 の理 由 も見 出 され ない」 と割 り切 るの に対 して70,羽 仁 は家庭 にお け る婦 人 の 天職 を説 き,婦 人 の 職業 を副業 的 な もの とみ な し,平 塚 は家庭 にお け る母性 の意義 を説 き,そ れ を保 護す る ため に職 業 に対 しての制 限 を設 け よと主 張 した。家庭 にお け る婦 人 の役割 を 強調 すれ ば ,い きお い社会 にお ける婦 人 の職業 は,男 性 とちが った もの にな るが ,そ の点 にお け る 3人 の見解 の ちが い は ,婦 人解放 の前提 となる重 要問 題 で あ つた。男女 の差 は ,同 性 間 にお け る性格 の差 と同 じ程度 の ものであ る ため考慮 の必要 は少 ない とい う山川 の主 張 は,今 日の ジ ェ ンダー論 か ら見 て も議論 の あ る ところであ る。. 3人 の婦 人運動家 の うち山川 の提示 した思想 は重 い。女性 の職業教 育 を男.

参照

関連したドキュメント

問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

 ファミリーホームとは家庭に問題がある子ど

また自分で育てようとした母親達にとっても、女性が働く職場が限られていた当時の

海に携わる事業者の高齢化と一般家庭の核家族化の進行により、子育て世代との

里親委託…里親とは、さまざまな事情で家庭で育てられない子どもを、自分の家庭に