ベトナムの日本兵が残していった日本語
―ベトミンに加わったあるベトナム人の語りから―
中川 康弘 要 旨 本稿は、第二次大戦後フランスからの独立を掲げるベトナム独立同盟(ベトミン)におい て、残留日本兵と関わったあるベトナム人対象者の日本語接触経験を半構造化インタビュ ーにより記した研究ノートである。調査時に 86 歳になる対象者が、当時の日本兵との日本 語接触状況やその出来事についてどう感じているかをまとめることで、多くの歴史的事象 の中に埋もれてしまう無名の一個人の日本語接触の記録を残すと同時に、歴史から日本語 教育のあり方を学ぶ日本語教育史の一端を担う研究として本稿を位置づけた。 調査の結果、ベトナム人対象者は警察業務を通じて日本兵と共に行動し、その過程で日 本語を学んでいたことがわかった。また半世紀経った現在でも僅かながら文単位で日本語 を記憶し、語彙や表記の知識も併せ持っていることが確認された。そして日本兵との接触 は対象者にとって今でも印象深いものになっていることがうかがえ、この歴史的出来事か ら実利主義にとらわれない日本語教育の意義が示唆された。 【キーワード】 ベトミン、残留日本兵、日本語接触、半構造化インタビュー、日本語教育 史研究 1.はじめに 近年、ベトナムは市場経済化と国際経済への統合を推進させ、2007 年1月に WTO に正 式加盟、2008 年 1 月には国連安全保障理事会非常任理事国に就任した。東南アジアで最も 進展著しいこの国にとって、今年 2009 年は、対フランス、対アメリカとの戦争を経て、 1975 年 4 月の南北統一に至るインドシナ戦争の始まりから 63 年目にあたる年である。1887 年に始まったフランスのインドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)統治以来、日本軍は 1940 年にベトナムに進駐、1945 年 3 月にはクーデターによりフランスを追いやり、8月の 日本の無条件降伏までの5か月間、ベトナムを単独支配していた。その後、日本軍に代わ りかつての宗主国フランスは再び統治を画策し、1946 年 12 月、自国の完全独立を掲げる ベトミン(Viê4t Minh:ベトナム独立同盟)との間で戦争が始まる。フランス軍との戦争は、 1954 年 5 月の北部ディエンビエンフーでの戦いでベトミンの勝利に終わり、やがてアメリ カの介入によりベトナム戦争が本格化していくが、フランス軍との戦いに際し、日本に帰 国せずベトミンに力を貸し、また指導者として兵員の軍事教育にあたった残留日本兵がベ トナムにいたことが、ベトナム研究者、歴史学者の間で広く知られている。 だが、彼らがベトミンと関わりを持つ過程で、ベトナム兵とどのような日本語接触があ̶研究ノート̶
ったのかという言語研究は管見の限り見当たらない。 2.残留日本兵の歴史的背景 本論に入る前に、ここではベトナムに残留した日本兵の歴史的背景について整理してお きたい。そもそも日本軍のベトナム進駐は、どのようなきっかけで推進されたのだろうか。 田渕(1980)によると、進駐は当時の日本国内における鉱農産物資源難の解消と、中国国民 党の指導者である蒋介石へのベトナム側からの軍事物資支援輸送路(いわゆる「援蒋ルー ト」)を絶ち、日本と交戦状態にあった中国の軍事力を弱めることの2点を目的に行われた としている。また小沼(1988)は、上記2つのほかに、将来アメリカをはじめとする連合国 側との戦争を見据えた東南アジア方面の作戦基地拡大を挙げ、1940 年6月の国境監視団約 3万5千人のハノイ進駐が、日本軍のベトナム進駐の第一歩であると記している。 ベトナムにおける日本軍の政策として、支配構造はフランス植民地時代の形式を維持す る方針をとっていた。だが実際は失策が多く、無条件降伏間際の 1945 年には日本軍の食料 略奪行為によりベトナム北部で餓死者が続出したという報告もある1。このことから、当 時の民衆の日本兵に対する印象は良いものではなかったことが考えられる。 そうした状況の中、ベトナムで敗戦を迎えた日本兵の何人かは、その後も帰国せず対フ ランス戦に備えていたベトミンに加わっていった。その実態については、ベトナム現代史 研究者として知られた吉沢(1986)が、その著書の中で触れている。ライフヒストリー手 法を用いて庶民の視点から歴史を考察することを試みた吉沢は、ベトナム進駐に関わった 調査対象の日本人4名のうち、地方部隊でベトミン兵を訓練した日本兵についての記述を 残している。また井川(2006)は、ベトミンで軍事教育、実践指導に関わった者の活動状況 を詳細に記録し、残留日本兵がベトミンに参加する際、名前を日本名から「新ベトナム人 “Nguòi Viê4t mói”」としてベトナム名に改めていた事実にも触れている。
この「残留日本兵=新ベトナム人」はベトナムでもメディアを通じて紹介され、2005 年 12 月 26 日付の現地新聞“Tuôi Tre”の残留日本兵についての特集2では、ベトナムに進駐し た日本兵約8万人のうち、約 800 人が現地に残ったとしている。そこにはベトミンに参加 した残留日本兵数人の紹介とともに、1946 年6月からの半年間、中部クアンガイ省の陸軍 中学において、約 400 人のベトナム人に軍事教育を施した 11 人の日本人についての記事が 載せられている。同記事によると、ベトナムに留まった理由として、敗戦によりアメリカ の占領下に置かれるのに耐えられない、戦争犯罪人となる恐れなど、帰国に対する悲観的 感情とともに、フランスからの完全独立を掲げるベトナム人に共感を覚えたという彼らの コメントが随所に紹介され、このことから、自らの軍事知識や経験をベトミンに伝えてい こうと決心し残留した日本兵も少なからず存在していたことがわかる。 1 これについては、1945 年8月4日に起こったベトミン弾圧にかかわる村民襲撃事件を調査した吉沢(1993) が詳しくまとめている。 2 詳しくは、同新聞 2005 年 12 月 26 日付記事を参照 http://www.tuoitre.com.vn/Tianyon/Index.aspx?ArticleID=115288&ChannelID=89(2009.1.7 閲覧) “nhà máy” chô`ng HÁN VIE4 ˘ T 『–DA4I TÙ –DIE ˘ N TIE ˘ ´ NG VIE4 ˘ T』) “phan d-ô´i”“phan d-ô´i”“phan d-ô´i”“chu nhân” Lu, Lê Nguyê˜n (2002) TÙ CHU˜ HÁN -DE
˘ ´ N CHU˜ NÔM : NHÀ XUA ˘ ´ T BAN THUA4 ˘ N HÓA. Yê´n, Nguyê´n Thi4 Hoàng Viê4t DIE
˘
3.先行研究と本稿の位置付け これまで、日本語教育の歴史的研究を概観するには、1)言語政策、2)教授法・教科書・ 教材、3)国語教育との関係史、の3点が主要なアプローチとされていた(関 1997)。だが 戦前、戦中の日本軍政下を対象としたものには当時の学習者や日本語使用者に焦点を当て た研究も幾つかなされている。その中でも日本語使用の実態、日本語教育政策を扱った代 表的なものには、ミクロネシア連邦ヤップ州における可能表現の特徴を調査した渋谷 (1995)、台湾のリンガフランカとしての日本語や、パラオの可能表現をまとめた渋谷他 (2002)、マレーシアにおける日本語教育政策の実態を詳細にまとめつつ、当時日本語教育 を受けた人々に対してインタビュー調査を行い考察した松永(2000)などがある。 一方、ベトナムの同時代における日本語教育史研究で学習者や日本語使用者を扱ったも のには、1940 年から 1945 年にかけてベトナムにおける日本語教育状況をまとめた風間 (2004)が唯一あるのみである。風間は、ベトナムにおける日本軍の統治形態がフランスと の共同支配であったことから、マレーシア、インドネシアのように学校教育において日本 語教育が行われなかったことや、フランス側も日本語の普及を黙認していたことなど、当 時の日本語教育政策事情をまとめながら、外務省により設立された日本語普及会の実態や、 南洋学院付属日本語学校の関係者数名にインタビュー調査を試み、そこでの使用教材、教 授内容について記している。 本稿は、独立戦争時のベトナム人と日本人の関係に触れているが、歴史的事実の是非や 残留日本兵の特定に迫るものではない。またベトミンという軍事組織において一定期間日 本語接触のあったベトナム人に着目しているゆえ、国家による意図的な日本語教育政策に ついて論じた研究や、ある時代の特定の教育機関における学習者を対象とした研究とも趣 を異にするものである。だが多くの歴史的事象の中に、ともすれば埋もれてしまう無名の 一個人の日本語接触状況を記録として残しておくことも、日本語教育史の研究対象として 意義があるものと考える。よって、そうした意義を踏まえた研究ノートとして本稿を位置 付け、ベトミンに参加し残留日本兵と行動を共にしていたベトナム人を綴っていく。 4.調査概要 4. 1 調査対象者 調査対象者は、2007 年3月の調査時点で 86 歳になるホーチミン市在住ベトナム人男性 ブイ・ホアン(Bùi Hóang:本名、以下ホアンさん)である。なお本稿は、当時を経験した ベトナム人の個人史であり、歴史的資料としての性質を持つため、筆者は調査時に本人お よび家族に本名で記述することの承諾を得ている。 ホアンさんは、1920 年北部ベトナムのゲアン省に生まれた。この土地はホー・チ・ミン をはじめとする革命家や政治家を多く輩出した地域である。成人後は警察に勤務し、1944 年にベトミンに参加する。1945 年の南部ビントゥアン省ファンティエットの武装蜂起に加 わり、翌 1946 年に同省でベトミンに加入した2人の日本兵と知り合う。それまでホアンさ んは、日本語学習は無論のこと日本人との接触経験もなかったという。
1954 年、ベトミンが北部ディエンビエンフーの戦いでフランス軍に勝利した後、北部ハタ イ省にある警察大学での教鞭に立つ。そして南北統一後の 1976 年からは、ホーチミン市に 妻と 2 人で暮らし現在に至っている。以下、聞き取りデータを基に作成した年表3を記す。 なお調査内容は 50 年以上も前の出来事であるゆえ、ホアンさんには当時のエピソードや 歴史的事実についての具体的な年代の記憶が曖昧な部分もあった。よって年表のうち、特 に経歴に関してはホアンさんが語った事実を中心に記していることを断っておく4。 表1 ベトナム現代史とホアンさんの経歴 年 ベトナム現代史 ホアンさんの経歴 1920 グエン・アイ・クオック(後のホー・チ・ミン)、フランス 社会党 18 回大会でインドシナ代表として出席(12.26) 5月、北部ゲアン省で 生まれる 1940 西原一策団長の国境監視団、ハノイ進駐(6.29) 日本軍、北部都市ハイフォン進駐(9.23) 南部ビントゥアン省フ ァンティエットの警察 学校で学ぶ(20 歳) 1941 インドシナ共産党第8回中央委員会、ベトミン創設(5.19)、 日本軍、南部都市ニャチャン進駐(7.28) 公 安 警 察 に 勤 務(21 歳) 1944 北部を中心に大勢の餓死者発生 ビントゥアン省でベト ミンに参加、警察業務 を担当(24 歳) 1945 日本軍のクーデターにより、フランス軍を武装解除(3.9) 北部タンチャオ(現トゥエンクアン省)にて、ベトミン全 国会議開催、各地における対日武装蜂起を決定(8.13) 日本、無条件降伏(8.15) ホー・チ・ミンによる独立宣言、ベトナム民主共和国(9.2) フランス軍がサイゴンを占拠((9.23) 会議決定によりビント ゥアン省ファンティエ ット武装蜂起(8.19 ∼ 28)に参加、政権奪回 後、同省で結婚(25 歳) 1946 仏・越予備協約(5年後フランス完全撤退予定)(3.6) フランス軍が協約を破棄し、ベトミンと衝突(インドシナ 戦争)(12.19) ビントゥアン省でベト ミンに加わった日本人 2名と出会う(26 歳) 1954 北部ディエンビエンフーでフランス軍降伏(5.7) ジュネーブでインドシナ休戦協定調印、南北分割(7.20) ベトミン勝利の報告を 同省で受け、妻とハノ イに移住(34 歳) 3 表1については小倉(1997)、小沼(1988)を参照し筆者が作成した。 4 たいていのベトナム人は、就職や進学の際に本人の経歴のみならず家族の出自、職業、または仏領インド シナ時代、抗米戦争時代の活動などを記載する履歴書を所持している。ホアンさんの語った経歴について も、本人ならびに家族の承諾を得てその履歴書に従い表1に記述した。
1959 北ベトナム政府、第 15 回党拡大中央委員会で南ベトナム の武力解放を決定(1.13) ハノイ近郊の省である 北部ハタイ省の中央警 察大学に勤務(39 歳)、 以降、同大学でアメリ カとの抗戦のために幹 部を指(∼ 1976 年) 1960 南部タイニン省で南ベトナム解放民族戦線樹立(12.20) 1962 アメリカ南ベトナム援助軍司令部(MACV)設置(2.8) 1964 アメリカ議会が 「東南アジア(トンキン湾)決議」 可決 (アメリカがベトナムに本格的軍事介入)(8.7) 1968 北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が旧正月に南部 主要都市を一斉攻撃(テト攻勢)(1.30) 1973 北、南臨時革命政府(解放戦線)と米、南政府の4者によ るパリ和平協定締結(1.27)、アメリカ軍撤退(3.29) 1975 サイゴン陥落、ベトナム戦争終結(4.30) 1976 ベトナム社会主義共和国成立(7.1) 警察学校(現在、警察 大学)創設のため、ホ ーチミン市に移住(56 歳)、60 歳で定年を迎 え、現在に至る 1986 第6回共産党大会、ドイモイ政策採択(12.15 ∼ 18) 1995 ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟(7.28) 2007 世界貿易機構(WTO)正式加盟(1.11) 4. 2 調査方法 筆者はベトナムに赴く以前から現地の知り合いを通じて、ベトミンに参加した日本人と 接触があったベトナム人がいるという情報を得ていた。そして 2007 年2月にホーチミン市 に赴き、知り合いを通じてホアンさんとの接触を図った。郊外にある自宅で昼食に招かれ た後、調査を開始した。 調査方法は、質問項目をあらかじめ用意しつつ、調査対象者の意識の流れや内省を重視 して柔軟に対応していく半構造化インタビュー(村岡 2002)を取り入れ、当時遭遇した出 来事やその時の意識についての聞き取りを1時間程度行った。インタビューにあたっての 心構えとしては、ホルスタイン&グブリアム(2004)を参考に、筆者自身のアイデンティテ ィ呈示、背景知の活用(筆者のベトナム経験など)、さらに調査対象者の情報ストックに刺 激を促すためにインタビュー行為に能動的に関わるよう心がけた。調査後、インタビュー の音声資料を元に清書版フィールドノーツ(佐藤 2002)を作成、録音データの部分的文字 化を行い、ベトナム語ネイティブスピーカーのチェックを受けたものを分析資料とした。 次に、質問内容を大きく2つのトピックに分け、事前に用意していた質問項目を記す。
表2 インタビュー質問項目 A.残留日本兵との接触に関するトピック 1.ベトミンに参加したのはいつごろか 2.ベトミンで出会った日本兵の名前は何か 3.その日本兵はベトミンで主にどんな業務にあたっていたか 4.その日本兵との関係はどうだったか(親密だったか、距離を置いていたかなど) 5.その日本兵と別れたのはいつごろか 6.ベトミンで出会った日本兵はその後の人生に何か影響を与えたか B.日本語使用に関するトピック 1.ベトミン参加時、日本兵とはどのようにコミュニケーションを図っていたか 2.日本語接触時間:どのくらい接触していたか 3.どのようにして日本語を覚えたか 4.どんな日本語を使用していたか 5.今も日本語を使用することがあるか 5.調査結果 以下、インタビューにより得られたデータから、残留日本兵との接触に関するトピック と日本語使用に関するトピックに分類し質問順に記述していく。なお、データは斜体、補 足事項は{ }で記し、( ) にはベトナム語データの日本語訳をつける。 5. 1 A.残留日本兵との接触に関するトピック ベトミン参加して2年後の 1946 年、ホアンさんは2人の残留日本兵と出会う。2人につ いて、以下のように紹介している。 データ1)ベトミンで接触した日本兵について
2 nguòi lính Nhâ4t hàng binh tro thành s˜ quan quân d - ô4i VN, không biê´t tên chính là cái gì.
Nhung mà vê` vó i hàng ngu˜ cách ma4ng{中略}, quân d - ô4i mình d - a4˘t 1 nguòi tên là -Ðông, 1 nguòi
tên là Hô`ng. – Nguyê˜n Thái Hô`ng. Ông Hô`ng tên thâ4t là Yamada.
(日本兵2人はベトナム軍の士官になった。正式名はわからない。でもベトナム革命軍 側に付いて{中略}、私たちは1人に「ドン」という名前を、もう一人には「ホン」という 名前を付けた。ホンはグエン・タイ・ホン。そう、本名はヤマダだった。)
また、2人に出会えたことについては、「Truòng ho4p có nguòi Nhâ4t o cùng nhu tôi hiê´m la˘´m. (私のように日本人と一緒に行動したのはとても珍しいケースだ)」と述べていた。
ベトミンでのドン氏とホン氏の職務、およびホアンさんとの関係はどうだったのだろう か。質問3、4に関連した内容を聞いたところ、2人のうち、ホアンさんはインタビュー で特に「ヤマダ」という日本名のホン氏について多くを語りはじめた。よって以下、ベトミ ン活動時のホアンさんとホン氏の関係に限定して記す。
データ2)ベトミンにおけるホン氏の職務、およびホアンさんとの関係
Lâ`n d - â`u ga4ˇ p ông Hô` ng o Bình Thuâ4n Hô`i d - ó là khoang tháng 8/1946. Lúc d - ó tôi làm ch huy
công an, Chô´ng Pháp. Nhung cuô´i chô´ng Nhâ4t.{中略} Ông Hô`ng theo tôi d - ê´n hê´t cuô4c kháng
chiê´n chô´ng Pháp. Tôi d - i tuâ`n tra hay d - ánh o d - âu là ông â´y d - i theo d - ê´n d - â´y. Anh Hô`ng này
luôn luôn bên tôi.
(ホン氏に初めてあったのは、ビントゥアン(南部にある省)。その頃は 1946 年8月ぐら いだったと思う。そのとき私は対フランス、でも対日の終わりごろ警察指導をしていた { 中略 }。ホン氏は私に従ってフランスとの戦いの終わりまでいた。私が巡査に行くとき、 また戦うときは彼も一緒だった。ホンはいつも私のそばにいた。) データから、2人が行動を共にしていたのは 1946 年からフランスに勝利する 1954 年ご ろまでの間であり、ベトミンでは主に戦地の巡査、監視などの警察業務に一緒にあたって いたことがわかる。 なお、ベトナム語では呼称表現を名前の前に付ける。データ中の下線に示したとおり、 ホアンさんはインタビューでホン氏のことを「Ông Hô`ng」と年長者や敬意を払う相手につ ける表現“Ông”を使っていたが、昔を思い出したのか、時折、後半部分にあるように「Anh Hô`ng」と、友人関係の呼称である“Anh”を使っていたことに触れておく。 1954 年ごろ、ホン氏は帰国のためホアンさんと別れることになる。それはいつ頃か、と いう質問5に対し、ホアンさんは次のように答えていた。 データ3)ホン氏との別れ
Tôi chia tay vó i ông Hô`ng truóc khi có Ðiê4n Biên Phu. Ngòai Ba˘´c d - ã yên rô`i nên cho mâ´y ông
â´y vê` Nhâ4t. Chú cú o bên này làm aˇn khó khaˇn, nghèo la˘´m.
(私がホン氏と別れたのは、ディエンビエンフーの戦いの前。北部のほかは平和になっ たので何人かの日本人は日本に帰っていった。ベトナムでは食べることもままならない し、貧しかったからね) 「2.残留日本兵の歴史的背景」で触れた先行研究では、ベトミンに加わった日本兵の多 くは、ベトミンがフランスを破る 1954 年のディエンビエンフーの戦いの前後にその役割を 終え帰国したとされている。ホアンさんはこの時期に南部ファンティエットにいたため、 この戦いには参加していないが、上記データによるとホン氏とはその直前に別れたことに
なる。1946 年の出会いからおよそ8年間、ベトミンで行動を共にしてきたホン氏と過ごし た日々について、ホアンさんはどのような印象を持っているだろうか。質問6についての データを記す。
データ4)ホン氏と過ごした日々について
Tôi không bao giò quên d - u4oc nhu˜ng ngày sô´ng vó i ông â´y, và trong thò i gian d - ó, tôi d - ã có
d p nói chuyê4n vó i ông aˇ´y ba˘´ng tiê´ng Nhâ4t.
(ホン氏と生活を共にしていたこと、そして日本語を話していたことは決して忘れるこ とはできない。) 以上、ベトミンにおけるホン氏との接触状況を踏まえた上で、続いて「B.日本語使用に 関するトピック」から、ホアンさんの日本語使用の状況について記す。 5. 2 B.日本語使用に関するトピック フランスとの独立戦争の只中にある状況において、教材を手元に置き日本語を学ぶとい うような時間を作ることが不可能であることは想像に難くない。そうした中、日本語接触 および学び方についてはどのような状況であったか、質問2、3に関連した話題に触れる と、以下のように述べていた。 データ5)日本語接触状況と日本語の学び方
Ông Hô`ng da4y tiê´ng Nhâ4t cho tôi trong nhu˜ng lúc d - i cùng tôi. Ho4c trong suô´t thò i kì d - i theo
nhau. Ông Hô`ng tu4 nguyê4n da4y tôi nói chuyê4n tiê´ng Nhâ4t d - òi thuòng. Tôi thì da4y la4i tiê´ng Viêt
cho ông â´y, ho4c d - ê giao tiê´p vói nhau. O trong rùng truyê`n da4y cho nhau â´y mà. Nói tùng tiê´ng
1 rô`i ghép la4i. Khi ông Hô`ng vê` Nhâ4t thì viê4c ho4c cua tôi cu˜ng bi4 gián d - oa4n luôn.
(ホン氏は私と一緒に行くときはいつも日本語を教えてくれた。一緒に行くときはいつ でも勉強していたよ。ホン氏は自分から私によく日本語で話しかけてくれた。私のほう はお互いの交流のために彼にベトナム語を教えた。森の中で伝え教えあったものだ。そ れぞれお互いの言葉を組み合わせてね。ホン氏が日本に帰国するときが私の日本語学習 が終わる時だった。) 上記データのような方法により学んだ日本語は、どのような内容のものだろうか。質問 4を聞いた後、筆者はホアンさんとのやりとりに少し時間を開け、覚えている日本語表現 や言葉を発するのを待った。ホアンさんは当時の記憶を思い出そうとしばし沈黙していた が、やがて覚えている日本語をゆっくり話しはじめた。得られた録音データとノートに記 述した内容を、表出順にまとめて次に記す。 データ6)ホアンさんの表出した日本語(録音データおよび記録ノートより)
―わたくしは、ベトナム人です。 ―ありがとう。さようなら。
―Ví du4 Anh thì cú OK, còn Nhâ4t thì はい。いいえ。
(例えば、英語では OK、日本語は「はい」「いいえ」)
―Truó c thì わたくし、 bây giò thìわたし。(以前は「わたくし」、今は「わたし」)
―{ 筆者のノートとペンを取り、表出しながら紙に縦書きする} あいうえおかきくけこ、ひらがなカタカナ、いち、に、さん、し、ご ―わたくしは、わたくしは、少しわかります。にっぽんご、少し話します ―あなたの名前は何ですか わたくしはベトナム人です。 あなたは にっぽん人ですか これら記憶していた日本語表現は、現在も使用することがあるかどうか、質問5につい て触れると、ホアンさんは、 データ7)
Tôi quên nhiê`u tiê´ng Nhâ4t vì tôi d - ã ho4c tiê´ng Nhâ4t cách d - ây na˘m mâ´y na˘m và d - ã lâu không
dùng d - ê´n. (日本語を勉強したのはもう何年も前だし、この出来事はもう 50 数年も使っていないか ら、もうたくさん忘れたよ。) と感慨深げに述べていた。 そしてこの時点で既に1時間が経過したことから、筆者はお礼を言い、調査を終えた。 6.まとめ 以下、トピックについて得られたデータについてまとめていく。 まず「A.残留日本兵との接触に関するトピック」について、データ1)で、ホアンさん はベトミンにおいてドン氏とホン氏という2人の残留日本兵と出会えたことについて、 「Truòng ho4p có nguòi Nhâ4t o cùng nhu tôi hiê´m la˘´m.(私のように日本人と一緒に行動した
のはとても珍しいケースだ)」と自ら述べている。これは推測だが、「2.残留日本兵の歴史 的背景」で触れたように、ベトミン戦列に加わった日本人の多くは軍事知識や経験を伝え ていこうとした使命感を持ち、指導的立場にあったことから、ベトミン兵との日本語接触
の機会はそう多くはなかったのではないだろうか。一方、ホアンさんの場合は、特に記憶 に残っていたホン氏と戦地の巡査や監視など警察に関わる業務に携わり、戦いの際も常に 行動を共にしていたことがうかがえるデータ2)、3)から、他のべトミン兵に比べて日本 語での接触機会も多かったことが考えられる。 またデータ2)では親密さを表す呼称表現が確認され、データ4)では共に過ごした日々 を語っていた。日本軍政下のマレーシアにおける日本語教育政策について記した前述の松 永(2000)は、日本語偏重のカリキュラムによりイデオロギーを注入されたと否定的に捉え る者がいる反面、それらで培った日本的規律や精神教育がその後の人間形成に寄与する役 割を持ったと評価するマレー人もいたと述べている。ベトナムの場合、その統治形態から マレーシアの政策とは異なるが、これらデータ2)、4)から、ホアンさんにとって日本兵 と苦楽を共にした経験は今でも印象深いものになっていることがわかる。 次に「B.日本語使用に関するトピック」を見ると、ホアンさんの日本語の学び方につい てはデータ5)のとおり、ホン氏との日々の関わりの中で日本語を覚えていったようであ る。このことから、軍事活動という緊張状態にある中でも、お互いが業務の合間に母語を 伝え教えあっていた様子が同データから想像できると同時に、ホアンさんの日本語を学ぶ 動機は、ホン氏との日々のやりとりや自身の知識欲から生じていることがうかがえる。 約8年にわたるホン氏とのやりとりの中で身につけ、その後現在までベトナム語環境に いたホアンさんが覚えていた日本語表現や言葉はデータ6)に記したとおりである。そこ にまとめた日本語表現について特筆されるのは、まず「わたくしは、少しわかります。にっ ぽんご、少し話します/あなたの名前は何ですか。わたくしはベトナム人です。あなたはにっ ぽん人ですか」など、表現を文単位で記憶していることである。どれも日本語母語話者か ら見ると基本的な表現であり、かつわずかではあるが、当時から 50 年以上経過した現在で も単語レベルではなく文として表出できることを考えると、ホン氏との日本語接触がそれ だけ印象深いものであったことが読み取れる。また次に着目させられるのは、「Ví du4 Anh
thì cú OK, còn Nhâ4t thì (例えば、英語ではOK、日本語は)はい。いいえ。/ Truó c thì(以前は)
わたくし、 bây giò thì(今は)わたし。」など、語彙使用についての知識を持っている点である。 特に「以前はわたくし」だったというホアンさんの指摘は、おそらくベトミンでの日本兵の 言葉遣いに影響を受けていることが考えられるが、その後の生活で触れたと思われる「わ たし」という言葉と比較して述べていることから、ホアンさん自身、言葉に対する関心が あることがうかがえる。さらに、インタビュー中に筆者の記録ノートに縦書きで自ら「あ いうえおかきくけこ/ひらがなカタカナ/いち、に、さん、し、ご」と書き取っていったこと も特記事項として挙げられ、このことから、ホン氏とのやりとりの中で日本語の表記につ いても学んだ可能性が高いことがわかる。この他、ベトミンという軍事組織に長く属し、 職務において常にホン氏と行動を共にしていたにもかかわらず、調査ではホアンさんに軍 事関連の専門用語が表出されなかった点も興味深い。これも推測の域を出ないが、職務で は軍事用語の必要性があまり高くなかったと同時に、ホアンさんにとっては職務中よりも、 むしろその合間を縫ってホン氏との日本語によるやりとりをしていた一つ一つの瞬間のほ
うに、日本語の印象が刻み込まれているように思われる。 ホアンさんが表出した日本語データについて、以下に改めて整理しておく。 ①文レベルで記憶している ②語彙についての知識がある ③文字表記について学んだ形跡があり、また表記についての記憶も少し残っている ④軍事関連の日本語での専門用語について、ベトミンではあまり触れなかった、もしく は印象が薄かったため記憶に残っていない 7.おわりに 日本語教育史研究の第一人者である関(1995)は、文献資料のみでは成しえずインタビュ ー調査が必要な研究領域では、時間の経過によりインフォーマントが漸減していくゆえデ ータ収集は時間との勝負を強いられることになると述べている。今回の調査により、自国 の独立戦争という時代の大きな波にもまれながらも、それとは別次元に日本兵と接触して いたベトナム人対象者からは、ごく限られたものであったが記憶に残していた日本語を書 き留めることができた。また日本兵との日本語接触経験が、対象者にとって今でも印象深 いものになっていたことがうかがえるデータを示すことで、実利主義にとらわれない日本 語教育の意義を示唆すると同時に、歴史から日本語教育のあり方を学ぶ日本語教育史の一 端を担う研究として本稿を位置付けることが多少なりともできたのではないかと考える。 以上、ベトミンにおいて残留日本兵と接触した一人のベトナム人のデータから、日本語 接触状況をまとめた。調査対象者の年齢、体調への配慮も必要だったこともあるが、記憶 を活性化させるためのインタビュー技術、データと歴史的事象を絡めた記述など、筆者自 身が省察すべき点も多い。より効果的な研究手法と記述方法を模索しつつ、日本語教育史 という研究分野におけるベトナムと日本の関係を追っていくことを今後の課題としたい。 参考文献 井川一久(2006)『日越関係の方途を探る研究 ヴェトナム独立戦争参加日本人―その実態 と日越両国にとっての歴史的意味』東京財団研究報告書 2006-2. http://www.tkfd.or.jp/admin/files/2006-2.pdf#search=(2009.1.6 閲覧) 小倉貞男(1997)『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』中公新書. 風間梨沙(2004)『日仏共同支配時代のベトナムにおける日本語教育』日本語教育史研究会 2004 年 10 月 23 日研究報告会資料. 小沼新(1988)『ベトナム民族解放運動史―ベトミンから解放戦線へ―』法律文化社. 佐藤郁哉(2002)「第5章 聞き取りをする―「面接」と「問わず語り」の間」『フィールドワ ークの技法』新曜社. 渋谷勝己(1995)「旧南洋群島に残存する日本語の可能表現」 『無差』2、京都外国語大学. 渋谷勝己編(2002)『環太平洋地域に残存する日本語の諸相(1)』文部科学省特定領域研究
(A)環太平洋の「消滅に瀕した言語」にかんする緊急調査研究. 関正昭(1997)「研究の動向―日本語教育史」『日本語教育』94 号、日本語教育学会. 関正昭(2005)「日本語教育史研究の領域―これまでの日本語教育史研究とこれからの研究 展望」 『開かれた日本語教育の扉』松岡弘、五味政信編著、スリーエーネットワーク. 田渕幸親(1980)「日本の対インドシナ「植民地」化プランとその実態」 『東南アジア―歴史 と文化―』第 9 号、東南アジア学会. ホルスタイン, J、グブリアム, J(2004)「アクティヴなインタビュアー」 『アクティヴ・イ ンタビュー ―相互行為としての社会調査』せりか書房. 松永典子(2000)『日本軍政下のマラヤにおける日本語教育』風間書房. 村岡英裕(2002)「質問調査 インタビューとアンケート」『言語研究の方法』J.V. ネウスト プニー、宮崎里司共著、くろしお出版. 吉沢南(1986)『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』朝日選書 314. 吉沢南(1993)『ベトナムの日本軍―キムソン村襲撃事件』岩波ブックレット No.310.