日本カレドニア学会の夕
― ロ バ ー ト ・ バ ー ン ズ の 「 友 情 」 に つ い て ―
「学会
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とは英語 にせ よ,独語 にせ よ, 学問上 の発表 ・交換を 目的 とす る組織団体であ る ことを意味す るが,然 し,学者 な り研究者 な りが, その研究途上 に副産物 として派生 した問題 を提 出 して, 自他共 にその問題 た る問題 を究明す るとい ふ こともあって よいので はないか とも思はれ る。 従って,
「学会」はまたギ リシア語か らのままを使 って,ac
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とも言ほれてゐ る。ac
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・(7カデーマイ7)か ら借用 された も のであ るが, アカデーマイア自体 は本来, アテネ の郊外 にあった林中の建物を指すが, プラ トー ン が ここで,その学弟を前 に し,静かにイデアを想 ひつつ純理 を論講 した ことか ら,その一党 を もア カデ-マイアと称す るに至 り,つ ひにはそれが「学 会」 を意味 して今 日に及 んでゐ る。然 し,学会 の 本質 はや は りs
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とも呼ばれ な い ところに,何か割 り切れ ない ものが感ぜ られ る。 と こ ろ で,
「学 会」 が 事 実 上,C
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ftとか呼 ばれ るや うになった ら, そ の結果 は ど うな るであ ら うか。そ こには,単 な る 語学上 の問題 をばか りでな く,志 向上 ・組織上 の 問題 を も,提起す ることになるのではないだ ら う か。 これにつ いては,思索 の完成 ・時間の余裕 を 供って,斯界の検討を仰 ぎたい と思ふ。 私 に与- られた紙面を以て,「カ レ ドニア学会 の 夕」といふ名 目の下 に筆 を取ったのは,
「学会」本 来 の面 目とは, い ささか毛色を異 にす るか も知 れ ないためであ る。何故 な らば,私 の場合 は,別 に 新発見 ・新研究 といふ ものではな く, また研究途 上 の副産物 を提起す るといふ ことで もな く, 自分 の ささや か な研 究 の経緯 を発表 す るに過 ぎな い し, また同好 の士(
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に何 ら かの 「つなが り」 が出来 れば といふ程度 に し,要富 田 光 行
は 「肩 の凝 る夕」 に した くない といふ気持で臨む ことに決めた。 事の起 りを言へは, ヒョソな ことか ら,本学の 山崎金造先生か ら, ス コ ッ トラン ドの詩 聖 ロバ ー ト・バ ーンズについては世界的 な研究家難波利夫 先生 (日本大学教授であ られ,今度,国際バ ーン ズ協 会会長t
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日であった。 さて, カ レ ドニア学会 なるものにつ いて, その 名称 を二 ・三年前 に, これ また本学 の三輪先生か らお聞 きしておいた と記憶す るが, まあ私 はそれ ほ どに田舎者であ るが,その カレ ドニア学会 とい ふ名称が気 に入って しまった。 カ レ ドニ ア とは N.
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に よ る と,
「北部 プ リトンの一部 に関す るローマ名で,堤 荏 では, ス コッ トラン ドまたはスコ ッ トラン ド高 地 に当てはめて,詩的 にまたは修辞的 に用い られ てゐる」(
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とあ る。 この名辞 は我 々 日 本人 に とって も,何 とな く幻想的 ・古典的 ・追慕 的 な感銘を与へて くれ るものであ る。 日本 カレ ドニア学会 は,今年で創立二十五年 に な り,現在 では,その本部が早稲 田大学理工学部 東浦研究室 にあ り,その会員は旧新凡そ45名で, 他会 ・他団のそ丸 と比較 した ら,少 い方 だ と思ふ が,多い方だ とも言ふ人がある。 まあ,その数は さて置 き,受 ける印象は地味 ・健実 ・友好 といっ た ところであ る。 さて,その名称 が示すや うに, ス コ ッ トラン ドの文学 を主軸 として,その歴史 ・文物 ・習慣 ・風 俗等にわたって,その研究テーマは全体 として, ス コテ ィッシ ュであ る。それだ けに,入 口は狭 く, 奥行は広い といふべ きか。それに,学会の大御所 達 はすべて, ス コッ トラン ドを幾度 とな く,足を 泣かせての実地探査 ・資料蒐集 ・文献検討 な どと 手の混 んだ方 々で,市販 の紹会物 で満足 している の とはちがふ。 昭和57年5月 9日附で,私 は カ レ ドニア学会本 部 か ら6月19日 (土) に, ロバ ー ト・バ ーンズ関 係の話 を しろ との要請があって,全 く面喰 らって しまった。何故 な らば, バーンズにつ いては,そ の研究 を志 して か ら,具体的 には,二十年 そ こそ こ,- ッキ リ筆 を執 り始めてか ら五 ・六年 に しか な らない上 に, それ ら大御所 の前で, この田舎住 人・一年生が, どんな名義でにせ よ,「話 をす るこ と」 は 「カレ ドニア学会の夕」 の埋草 に過 ぎない ので,速刻お断 りしよ うと思ったが,推薦者が例 の難波先生であってみれば,さ うも行かないので, 入会後,一年 にな らぬのにお引 き受 けを したので ある。 い よい よ新緑 かな る都 の西北 (今は ?)・早稲 田 大学 の大隈会館 に,「カ レ ドニア学会 の夕」を持つ ことになった。 ケ ッ ト姿 の田園詩人バ ーンズが絢 欄華麗 なる-ヂ ンバ ラの夜会 に臨む立場 に相通ず るものを私 は少 し感ず る ところがあった。 私が掲げた題 目は 「ロバー ト・バ ーンズの友情 - 昔 に,そ して今 に」といふのであった。「昔 に」 では,バ ーンズの詩 に於 ては,「友情」がその主軸 となっ て,彼を詩聖た らしむ るに至った過去に戻 り,「今 に」.では,近 くわが周辺の者達 ・旧友 ・学 友 ・会友 ・凡そ 「友情」 の名 に値す る者達問 にそ の実践 を望む といふ気持を述べ る問 に, バ ーンズ 誕生二百二十年祭 に当って,彼の「生涯 と詩想 と」 に関す る拙著
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これ は, 内外 で,感動 して下 さった方 が少 しくあった)の発刊経緯 を述べ る ことも加味 されてゐた。午 後5
時半 か ら4
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分にわたっての談 話は次の如 くで あった。*
私 は,唯今 ご紹介をいただ きま した富 田光行 と 申す もので ございます。 私 は測 らず も今回の談話 をす るよ うに と,会長東 浦先生 ・顧問難波先生 ・ 幹事 曽我先生 な どか ら,大命 が降下 され,実 に ビ ック リいた しま した。 といふのは,私が この名誉 あ るカ レ ドニア学会 に入会 を許 され ま したのは, つ ひ昨年 の暮 あた りで, まだ半年 ほ ど経ってゐ る に過 ぎませ ん。 また,それ に,私 は 「バ ーンズ研 究」 な どといって も,ほ んの初学老であ るに過 ぎ ません。 さ ういふ私が この講壇 に立つ といふ こと は,本会 のために, どうか と思はれ ますが,折角 の ご指名故,何 とか大任 の一部を果 したい と存 じ ます。 さて,私 は長野市の南 凡 そ20マイル,軽井沢の 北西凡そ80マイルの農村 で,1905年 に生れ ま した。 私 よ り15歳年上 の従兄に英語 の好 きな青年 があっ て, この従兄か ら片言(
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の英語 を 聞 いて,英語 に興味をもつ よ うになったのであ り ます。 1912年 (7
歳 の年)3
月28日, この 日,私達 の 小学校 で,児童 の卒業式が行 ほれたのであ ります。 静 ま りか-つた講堂で,私達 は先生達や村人達や に囲まれて, い よいよ, 日本版 「蛍の光」 をそれ の メロデ ィーが誰の作った ものか も知 らず に,小 さな ロを開 き,歌 い出 した のであ るが, あの崇高 に して感傷的 な メロデ ィーに感極って, いつ しか 目には涙 をたたへて,去 り行 く卒業生 を送 り出 し たのであ ります。知 らぬ こととはいひなが ら, こ れがバ ー ンズに近ず く第一歩 といへたであ りま し ょ うか。 それか ら数-て,約10年,私が16歳の ころ,明 治の文豪高山樗牛が書いた 「たそがれの辞」(
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といふ題 目が私 の眼 に とび こんで来 たのであ ります。その第一 行 は次のや うに走って い るのであ りま した。 「吾れ,バ ーンズが詩を読 み,「天上の メ リーに」 と題す る-篇 に到 る毎に,未 だ曽て巻 を掩 ふて哀 失せず んはあ らざるな り。 --」(
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然 し,16歳 の 少 年 は, こ の - 篇 に,「情」
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の状態にあったのです。 それか ら, またバーンズは,私の意識か ら静か に消 え去って,実に凡そ4
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年,当時私は自分の郷 里に近 い高校 で,あのポ ピュラーな民謡 「アンニ ー・ロー リー」(
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を生徒達 に教へて ゐたのであ りますが,私は この甘 く美 しい歌詞 と 歌 曲 とに,心 を惹 かれて,彼女 の史実(
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の町長宛に史料を求め る手紙 を送 ったのであ りますが,5
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の 市長G.
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ll閣下か ら,親切 な手紙 に添 へて,博物館長A.
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ll博士の調査による 史料 を送って下 さったのであ ります。 この時の感 激はまさに筆舌に表 はせないほ どであ りました。 と同時に,私 が誤って抱いてゐたスコッ トラン ド 人に対す る偏見が雪に熱湯の如 く消 え去って しま ったのであ ります。そ こで,私は感激の手紙 に自 己紹介的な ものを書 き添-て送った ところ,それ が直 に,かの地の新聞Du
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に載せ られ,可成のセ ンセーシ ョンを起 した らしいのであ ります。〔といふのは,後 に述べ るや うに,私 の手紙をその新聞で よんだDumf
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の若 い退 役 軍 人(
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日突然 私を訪問 したか らであ ります。〕 それか ら,市長閣下に差 し上げる手紙は一つ一 つその新聞に載せ られ,その年(
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年)の碁 に, 市長閣下か ら,「来年はバーンズ誕生二百年になる か ら,Du
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で も盛大な祝賀が行ほれるので, それに参加 されたい」 といふ有難い招待状を頂戴 したのであ りますが,その時の状況甚だ よくない ので,年が改 まって,1
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日に,Du
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の市 民各位-祝賀の メ ッセ-ヂを送った ところ, この メ ッセーヂ もまたかの地 の新 聞Dumf
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に載 り,私は参加不可能の残 念 さとメッセ-ヂを送っておいてよかった ことの 満足 さとで,複雑感情のBu
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誕生 日を迎-送っ たのであ ります。 祝賀のメ ッセーヂ とは,次の如 きものであった。 ここでは,紙面の都合で,邦文のみを掲げること にいた しま しょ う。 私 の最 も親愛 な るダムフ リースの市民諸 君 .′ 私はかの美 しくして永遠なる詩 アン二 一 ・ロー リーの調査について,昨年博物館長A.
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ll氏 と共 に幾多の御親切 を寄せ られた諸君の又私の親愛なる市長G
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ll閣下を通 じて, この メ ッセ -ヂを送 ることに,非常な幸福を感ず るものであ りま す。全世界が知 るや うに,今年は恰度 ロバー ト・バーンズの誕生二百年に当 ります。 さ う いふ訳で,私は貴国か ら迄かなる日本 に住む 英語の一 日本人教師 として,一言申 し上げ ざ るを得 ません。 私が彼について,若干の事 どもを知 るや う になったのは凡そ十六歳の年であ ります。然 し,私 はそれ よ りも十年以前,つ ま り六歳の 午,彼によって影響 されてゐたのです。何故 ならば,私はかのオール ド・ラング ・サイン (「蛍の光」の原歌)杏,それが誰に よって作 られたかを知 らなかった とはい-,小学校で 一年生の時,それを歌 うことが出来たか らで す。私は今年五十三歳であ りますが,それ故 私の先生達, また若干の村人達に囲 まれて, 小学校の講堂で,卒業式にあた り,小 さな 口 を開 き, 目には涙を湛へて, この頬 まれなる 崇高 に して感傷的な歌を初めて うたったのは 凡そ凡五十年以前の ことで した.然 し,私の 最 も親切なるダムフ リースの市民諸君,私が かよ うに印象的な初めての出来事に遭遇 した のは,つひ昨 日の ことのや うに思ほれ るので す。それで,私 は今,彼の誕生 日と日本に於 ける卒業式 とがやがてやって来 るので,当時 とまさに同 じ感傷を以って甚 しく心動かされ て, 日々を過 しています。 さて,彼の誕生二百年祭が,おお ・ワンダ フ ル .′ 諸君の市 ダムフ リースに於 て行はれ や うとしてゐることを,市長G
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閣下か ら承 り,私は非常に うれ しく思 います。 彼 (ロバー ト・バーンズ)がかの荒涼た る冬 の 日, アロウェーの粘土造 りの小屋で- お おこの一月二十五 日に生れた ことを知ってい る私はそれが他の如何なる場所に於てで もな く,おお,実 に諸君の市 ダムフ リースに於て,永遠の憩 ひに移 された彼の偉大 に して然 も安 らふ ことな き生涯 を院想せ ざるを得 ない と共 に,又彼の誕生 日に対す る頼 まれなる絢欄 た る祝賀祭の故 に,諸君 に,深 く高 く感謝せ ざ るを得 ません。 世界が曽て見 た中で,最 も偉大 なる詩人の 一人 ロバ ー ト・,I-ンズを生み出 した ところ のス コッ トラン ドの国は幸であ り,又彼にそ の永遠 なる平和 を与へた ところの ダムフ リー ス市民諸君は幸である。 もし,我 々が心の中 に二つの歌 ・アン二一・ロー リー とオール ド・ ラング ・サ インとを さへ もっているな らは, 他に如何なる歌 を我 々は求め ましょ う。 この 二つの歌 は全世界いた るところで,老若 ・貧 富 ・高低 ・男女 を問はず,か くも大いに影響 を与-てゐるので,我 々 日本人がそれ らを忘 れてゐる理 由はないぢや あ りませ んか。 この 永遠 に記憶 さるべ き年祭 に,私が諸君に参加 す るの も, このためであ ります。 今, 日本では雪が降って居 ります。雪 は二 百年前に生れた この最大 なる詩人の人生 に於 ける最初 の 日を思 ひ出 させ よ うと試みてゐる のか も知れ ませ ん。私 は思ふ,全人類の平和 は唯単 に政治上 ののみな らず,亦精神上 の, つなが りか ら出て来 るのです。それか ら又私 は諸氏の祖国ス コッ トラン ドが 曽て演 じた と ころの人煩の理想 に対す る役割が非常 に偉大 であ り,それ故 に又大 いに尊敬 され ざるを得 ない もの と信ず る次第であ ります。私の最 も 親愛 なるダムフ リース市民諸君並 に一般 にス コッ トラン ドの国民諸君 .′ 他の如何なる国 もな し得 ない所 を- 即 ち諸君が最大 なる詩 人を次 々 と生み出 され るや うに と,望みつつ, この辺で私のペ ソを摘 きますQ 一九五九年一月
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〇 日 日本長野県稲荷山町 富 田 光 行 さて, このや うな祝賀の メ ッセ -ヂを ダム フ リースの市民各位 に送った ところ, これ も 亦, かの地 の新 聞Du
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にの り,私 は参加不可能 な ことの残 念 とメ ッセ-ヂを送っておいた ことの満足 と の複合感情で,バ ーンズ誕生二百年祭を迎へ 送 ったのであ ります。 一 月二十五 日を中心 とす る一週間にわたっ て行われ る祭典 に,市長Mc
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ll閣下,悼 物 館 長A.
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ll博 士 な ど,そ れ ぞ れBu
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に関 して,演説を されたのであ ります が,そ の 様 子 は 一 々新 聞Dumf
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の紙 上 に於 て報 告 され ま したが,実 に絢欄 た る(
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な)祭典 が繰 り広げ られたのであ ります。奇 しき縁 に 結 ばれた二百回 目の誕生 日に,祝賀の メ ッセ -ヂで参賀出来た ことは幸 ひであ りました。 同 じ1959年5月10日(日曜 日),私 の従兄(私 よ り十五歳年上で,私 に小 さい時,片言の英 語 を教へて くれた人)を訪問 しよ うか と思っ て, まさに昼食の箸 を とら うとした瞬間 .′そ の従兄が 「スコ ッ トラン ドか ら,お客 さんが-
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」 と, オ ドオ ドしなが ら,玄関に立っ てゐ る。私 は,早速,飛 び出 してみ ると,一 人 の外人が街路 に立ってゐ る。然 し,それが 去 る4
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日ごろ,横浜の グラン ド・ホテル か ら,手紙を私 に くれておいたFr
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氏だ と直感 されたが,私の驚いたのは,全 く 何 の結 びつ きもない従 兄が, ど うしてKe
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氏 を私の家へつれて来たか といふ ことであ り ま した 。 それは, ともか く,私 は思わず「
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U と言って しまって,彼 を招 き入れ, それか ら, いろいろ と話 してゐ る中に,やつ と謎めいた従兄 とKe
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・活劇的(
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なス トー リーが あった訳です けれ ども,それは省略 いた しま す。 やがて,午后三時 も過 ぎる頃になったので 「私 はLe
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と言って, ささや かな夕食を始めたのであ りますが,私達 は 日 本 人 対 ス コ ッ トラ ン ド人 とい ふ 対 立 意 識(
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が殆 どな く,民謡Anni
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を初め として,ス コ ッ トラン ドの民謡 を次 々 と歌 ひ,最後 に私達 は円陣を作 り,感 激 こめて,射 し入 る夕 日を眺めなが ら,Aul
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- 108-LangSyneを声高 らかに歌ふ のであ りま し た。今に して思へは,摂理 (Providence)の 手はいよい よ差 しのべ られて来てゐた訳でご ざい ます。 バ ー ンズを中心 とす る 「友情」 (friendship)が,か うしてKelly氏 との問に 於て,初 まったのであ ります。 それか ら
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年はいつの間にか過 ぎ去って,1
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時半 ごろ, 目が さめ ると,今 日は 日本で 「廿 日正月」であること, そ して今 日か ら新 な春が初 まることが放送 さ れてゐるのであ りま した。「今 日は一 月二十 日/ さ うす ると, も う五 日で,バーンズの 誕生 日がやって来 る。 それでは, よし.′ い よいよバ ーンズの勉強を始め よ う。」と,漸 く に して,決心がついたのであ ります。時に, 私はすでに71歳になら うとしてゐるのであ り ました。 さて,私がバーンズの勉強を発心 した理 由 は, これ まで申 し上げて来たや うに,バーン ズを前に して,その背後に,私にとっては6
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年 に余る摂理 の導 きがあった ことを加へて, 二 ・三の理 由があったのです。 1.彼 バ ー ン ズ の一 応 は泥 く さい (mud・ smelling)生立 と生涯 とが,私の趣味に合った ことなのです。彼の先祖を探われは,遠 く1
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年 の昔に潮れ もします。そ して,社会的にも, 必ず しも下積みな階級ではなかったのであ り ます。彼 らの中には,市長 ・陸軍大佐 ・作家 ・ 州長 官代 理 (sheriff substitute)・町会議員 等 々があったのですが,然 しバーンズはこん なことに少 しも関心な く,人に会ふ毎に,
「わ しの親爺は百姓で してねえ」(Myfatherisa farmer.)と言って,通 したのです。 バーンズは,文字通 りに,土その ものか ら 出て来て,そ してそれ故に,その ことが美 と 崇高な詩歌 の無限なる可能性の温床ではなか ったか。然 し,彼の短 い三十七年の生涯はそ の一端をrevealしたに過 ぎないで しょ う。 2.彼がその詩歌 を 日毎の体験か ら作 り出 し た といふ ことに,私は心を惹 きつけられたの であ ります。 シェークスピアは偉大, ワ-ズ ワースも偉大, ゲーテまた偉大。然 し, これ ら偉大な詩人達の作品は,いはば 「知性的」 (intellectual)なもの,つ ま り詩を作るため に,「詩を考- ること」(thinking)の上に生 ま れたや うに,私には思ほれ るのです。だか ら, 「知性」(intellect)に訴へ る力があ り,知性 豊かな人には好かれるで しょう。そのや うに して咲 き出した詩歌は非常 に精練 された花 に も比すべ きであるが,それは「造花」(artiBcial flower)の美に較す る感 じとなる。私は造花 の美にはあま り動か されないのです。 然 るに,バーンズの詩歌は 「感ず ること」 (feeling)によって,作 り出されたや うに見 うけ られ る。それはthinkingを無視す ること で は な く して,そ れ を 「止 揚 す る こ と」 (sublating-au什leben)であ りましょ う。 彼の詩歌は 「妥協」(compromise)も 「ご まか し」(deception)も許 さぬ野良仕事 (丘eld work)の汗 と挨 とか ら生れた ものだ と,私は 思ふのです。「今 日は,詩で も書か うかなあ」 などと思ひ立 ち,ゆった りと足軽やかに,請 材を探 し歩 くとか,香 りの高い コー ヒーを畷 りなが ら,時には朝か ら高価なウィスキーを 乾 しなが ら,詩歌を 「考- る」有閑な(leisur -ed)詩人 とは,ちがってゐるバーソズで した。 勤勉 な一 日の労働 を した後 に, グ ッタ リ (dog-tired)と身を家に転は しこんで,物を 言はず に,一気珂成 (atastretch)に筆 を走 らせ戒二のであ ります。彼の詩歌は,花 にた と - るな らば,大地の中か ら咲 き出た 自然な花 - 素朴で,純粋で,その故に,いつ まで も 飽 きない真実の美を感 じさせ るや うな気がす るのです。3.
さ ういふ訳で,バーンズは自然を愛す る 詩人であ り,「自然」の子であった と思ほれて, そ こに,私は心を惹かれたのです。彼が叙事 詩人(epical)であるとか,叙情詩人(lyrical) であるとか,決めつけるのは, ど うか。彼は 野鼠 ・雛菊 ・林・
川 ・丘 ・鳥 ・羊あた りに見 られ る殆 どすべてq)様相が,そのテーマにな ってゐた。然 し,彼はそれ らをその ままに歌 ひ綴 るだけでな く,その一つ一つ に人間を投 影 (project)して,そ こに人間 と自然 との融 合を見 るバ ーンズであった と私 は思ふ のです。彼は一体二面(onebodywithtwosides) の詩人であった といふべ きではないで しょ う か。
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.ここまでのや うに申し上げ るとノミ-ソズ は まことに,innocentでsaintlikeな詩 人 の や うに聞えて来 る。然 し,果 して如何か。最初の詩集KilmarnockEdition(1786年7
月
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日)が出版 され, これが遠 く-ヂソバ ラ の上流社交界を惹 きつけ,1786年11月27日(日 曜 日)の夜,歓迎会に臨む と,かの紳士淑女 達は,彼の詩歌朗読に酔はされたはか りでは な く,彼の風貌 ・対話 ・物腰 に,高級淑女達 は, いや といふほ ど悩殺 されて しまったが, この光栄を,かの少年WalterScottがつぶ さ に覚 えておいた ことはその後 日琴が物語 ると ころであ ります。彼 には,身心 共 に悪 魔 的 (devilish)な魅力があって, この魅力が実は 紅顔可憐な15歳の少年か らその死に至 る37歳 の青年 までの22年間 「相手は14歳の少女か ら 夫ある淑女に至 るまで,その詩材 となる女性 だけで も,5
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名に上 る,いはは立派 な ドン ・ フアン(DonJuan-libertine)で もあった。 然 るに, また面 白いことには,彼が愛 し彼が 捨てた女性で,彼を一度は憎んだが,結局彼 の上 に祝福を祈 りつつ,去って行ったのであ ります。 私達は, とか く 「大物」を美化 (beautify) した り,時には神化 (deify)した り, しがち であ ります。然 し, これは厳 に慎 まねはな ら ないことであ りましょ う。バーンズについて も, この ことを十分に警戒せねばな らない と 思ひます。 さ うす ることは,彼に対 して,袷 胆にな ることではないで しょう。 彼は,
「私 に於ては,
「恋心」(Love)と「歌 心」(Poesie)とが同時に発生 したのです」と 告 白してゐたのが,後に,LoveintheGuise ofFriendship.(友情を擬装 した愛)の第-節 に於て,Talknotoflove,itgivesmepain,Forlovehasbeenmyfoe.(恋のことは言は ないで くれ。苦 しいんだ。 なぜって,恋は こ れまで僕の仇だったんだ」 とア ッサ リ変心 し たや うな言ひ方を してゐるのです。
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さて, このバーンズがそのLoveintheGuiseofFriendship(友情を擬装 した愛)の 第二節に於て,Butfriendshipispureand lastingjoys(然 し,友情は純粋に して永久的 な歓喜である) と絶叫 してゐるのです。 1788年(29歳)秋 も半 となった ころ,Ellis・ landの農場で,疲れた体を乾草の上にのせ, 青空の下,去来す る雲の千切を眺めなが ら, 幼 き日よ りの友 また友 を思ひ浮べ,感情 こめ て作ったあのAuldLangSyneはその歌詞 と いひ,その歌 曲といひ,崇高に して感傷,甘 美に して純情, まさに 「友情の詩人」に相応 は しい詩歌 となって生 まれたのであ.ります。 このAuld Lang SyneはバーンズのOrigi・ nalityを否定す る人 もあるが,結局彼の完成 した もの と考へて よいであ りましょ う。 さて,バーンズのスコットラン ド文学, ひ いては イギ リス文学 に及 ぼ した過去 の歴史 は,言ふ まで もな く,多大なるものがあ りま す。1800年に入った或 る日の こと,文学の旅 をつづけてゐる二人の見知 らぬ男達がた また まAllowayBridgeにやって来, とある家に 立 ち寄 り,バ ーンズについての何か研究資料 をたづれ そ してそれか ら,年長者の方がバ ーンズの詩を一つ声高か らかに読むのを許 し て くれ と頼むので した。それか ら彼は甚だ関 心 の大 な る- 篇 を取 り出 した。そ れ はTo MaryinHeavenであった。彼はそれをおご そかに読んだ り吟んだ りしたのであるが,そ れを聞いてゐた人 々はみな感極 まって, どっ と泣 き出 して しまった。そ こでBegg夫人 は 彼の氏名を知 りたい と熱望 したが,「彼は匿名 で旅を したがってゐるのです よ」 と年少者の 方が言った。然 し,いよいよ立 ち去 らうとい ふ時になると,その朗読者は老夫人の手を取 って
,「
Beggさん,私 は故あって,或 る場合, 匿名で旅をす るのです よ。それで も,あなた は少 くとも二 ・.三 日間 この辺で私の氏名が判 らないままに しておいていただけると思ひま す。不朽なるBurnsの妹 さんに,今,私は よ ろこんで, 自分の名前を打ち明けることにい た しま しょ う- AlfredTennysonですっ て。」バーンズに於ける「友情の讃歌」AuldLang Syneは造 かに遠 くアメ リカにまで及び,彼の 作品に感 動 した少年Whittier
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G.:1807 -92)はあのや うにまた優れた詩人 となったの であ ります。バ ーソズが生れて,やがて223年, そ して, 彼が讃-て歌った 「友情」は昔 に今 に,否後 々まで,唯単 に口で歌はれるばか り ではな くして, また心で も歌はれ,人間のあ るところ,友情を必要 とす る限 り,必ずや, 声高 らか に歌 ひっづけ られ, ミューズの衣を 肩 にかけたバーンズは不滅の詩人 として語 ら れ ることであ りましょ う。 これにて,私の談話 を終 りといた します。 このカレ ドニア学会の一層発展あ らんことを 祈 ります。 ご静聴あ りが とうございました。* * *
すでに, あた りは夕闇に包 まれ,夕腎の時間 に 移って行った。一流学者達 との歓談を恵 まれ るこ と- 凡そ一時間, 8時 にもなってゐた。 いよい よ閉会解散す ることになった。そ こで,私が持っ て来てゐたAuldLangSyneのプ リン トで,すで に会員各位 にお届け してあった ものを開いて,人 もあ らうに新参者の私が音頭を取 るや うに指名 さ れたので,熱誠 こめて声高 らかに歌 ひ出 したので あ る。それで,幸 ひにも,省略す ることもな く, 最後 まで,歌 ひっづけることが出来た。私は この ことあるを予想 して,携へ来たカセ ッ トに, この 合唱を納めるのであった。 「都の西北,早稲田の森」 は次第に静 ま りかへ って行 き,夜学生のためにか,白亜の学舎か らも, 漏れ出る電燈の光は薄れゆ く暗いキ ャムパスを抜 けて,三 々五 々,再会を契 ひつつ,四散 したので ある。 日本 カレ ドニア学会は年 と共に栄 え来て今 日に 至 り,最近,当会の中か ら,驚 く勿れ,Burnsの 研究に関 して,私達が畏敬 して極 ま りなき難波利 夫先生 (日本大学教授)が世界最大級の名誉た るPresidentofWorldBurnsFederation(国際バ ーンズ協会会長)に就任 されたのである。 まこと に歓喜の次第であ る。当会の発展 と先生の栄進 と を祈って, この稿を終 るちとにす る.
信濃路の千曲河畔 ・篠山の麓 にて