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わたくしの「研究」事始め--平成23年度教職教育部内FD報告より

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Academic year: 2021

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(1)わ た く しの 「研 究 」 事 始 め 平成23年 度教職教育部 内FD報 中 The. Origin. 田. 睦. 1研. 美*. A nd Development (NAKATA. 告 より. of My. Study. Mutsumi). 究 の 〈原 点 〉 を め ぐ る 回 想 的 問 答 か ら. 本 日は、 「 研 究 の ス タ ー トー わ た く しの 場 合 」 と い う題(タ. イ トル)で 、 極 めて 私 的 な 話 題. で 、 な ん とか 責 めを 果 た そ う と思 って お ります 。 私 は、 高 校 の 現 場 で 十 一 年 間 、 国 語 の 教 師 を 勤 めて お りま して 、 そ の 経 験 が ヒ ョンな こ とか ら生 か され る形 とな って 、 本 学 の 教 職 教 育 部 の 一 員 と して 教 壇 に立 って お ります 。 しか し、 本 来 は、 日本 近 代 文 学 研 究 が 私 の 専 門 で あ りま して 、 極 めて 乏 しい 「研 究 」 な が ら、 そ の 足 跡 を 踏 ん で 参 りま した。 そ う した私 の 「研 究 の ス ター ト」 の 実 際 を お話 しす る こ とが 、 果 た して 教 職 教 育 部 で のFD研. 究 会 に どれ ほ どふ さ わ しい発 表 か ど うか は な は だ疑 問 で あ ります が、 少 し. は、 専 門 領 域 の 枠 を 超 え た 「研 究 」 の ス ター トにか か わ る材 料 にな れ ば と思 って お 話 しさせ て い た だ き ます 。 私 は、 「倉 橋 由美 子 」 とい う極 め て トンガ ッた観 念 的 な作 家 を学 部 の卒 業 論 文 で選 び ま した。 と こ ろ が 、 大 学 院 に 入 っ て、 修 士 論 文 の テ ー マ を考 え あ ぐね て い る と き、 実 質 的 な 指 導 教 授 だ っ た浅 野 先 生 に相 談 しま した と こ ろ、 「卒 論 を 持 っ て来 な さい 」 と言 わ れ 、 おず お ず と差 し 出 しま した。 す る と、 先 生 は、 一 読 され た後 、 「これ は 出来 の悪 い作 文 だ。 意 味 が な い。」 と全 否 定 され ま した。 そ れ か ら、 先 生 は、 「大 学 院 に進 学 して き た以 上 、 君 は、 既 に 〈 研 究 者 〉 の 一 員 で あ り、 ボ ク と も五 分 五 分(フ. ィフ テ ィ ・フ ィ フ テ ィ)だ 」 と仰 言 い ま した。 そ れ か ら、 諄 々 と 「研 究 」. と は何 か を説 明 さ れ、 「君 が 取 り組 む修 士 論 文 は 、 す で に 「研 究 論 文 」 で な けれ ば な らな い」 と言 わ れ 、 「研 究 論 文 」 とは何 か につ い て分 か り易 く説 明 して くだ さ い ま した。 浅 野 先 生 い わ く、 「研 究 論 文 」 の 〈価 値 〉 は、 そ の オ リ ジ ナ リテ ィー に あ る、 と。 そ して、 *近 畿大学教職教育部講師. 75.

(2) 近畿大学教育論叢. 第24巻 第1号(2012・11). 「文 学 研 究 に お け る論 文 の オ リジ ナ リテ ィ ー とは、 た とえ ば以 下 の よ うな もの だ」 と言 わ れ、 次 の 三 要 素 を掲 げ られ ま した。 ①. 新 しい 〈資 料 〉 の 発 掘. ②. 新 しい 〈方 法 〉 の 提 唱. ③. 新 しい 〈読 み 〉 の 提 示. この 三 つ で あ る と。 そ して 、 この 三 つ の 要 素 を 兼 ね 備 え た論 文 こそ 、 本 当 の 「オ リジ ナル な 研 究 論 文 で あ る」 と。 「研 究 」 の 何 た るか な ど、 何 ひ とつ 考 え る こ とな く、 い わ ば漠 然 た るモ ラ トリア ム気 分 で 大 学 院 に進 学 して き た私 は、 半 ば  然 と し、 か つ ひ ど く落 ち込 み ま した 。 しか し、 先 生 は、 そ ん な 私 の 表 情 を見 て 、 半 ば笑 いな が ら、 次 の よ う に仰 い ま した。 「心 配 しな くて よ ろ しい。 ボ クが大 学 院 に進 学 した 当初 、今 、君 に ボ クが 言 った の と 同 じこ と を僕 の 先 生 か ら言 わ れ て   然 と した。 しか し、 先 生 は、 そん な ボ クを 見 て 「心 配 しな くて よ ろ しい。 オ レも そん な 三 つ の 要 素 を 兼 ね 備 え たオ リジ ナル な 理 想 的 な 論 文 な ど一 本 も書 けて いな い。 しか し、 この 三 つ の 要 素 の 、 せ めて 一 つ の 要 素 だ けで も満 た さな い論 文 は、 資 源 の 無 駄 で あ る』 と言 わ れ た よ。 だ か ら、 ボ ク は、 せ めて その 一 つ の 要 素 だ けで も満 た す 論 文 を と、 心 掛 けて き た ンだ。 と こ ろで ね 、 論 文 を 書 くに は大 まか に分 けて 二 つ の 方 法 が あ る。 ひ とつ は 〈頭 で 書 く〉 論 文 、 も う ひ とつ は、 〈足 で稼 ぐ〉 論 文 だ。 前 者(〈 頭 で 書 く〉 論 文)の 方 法 は、 格 好 は良 いが 本 当 に優 れ た もの にな る に は図 抜 け た相 当の 地 力 が な けれ ばな らな い。 しか し、 後 者 (〈足 で稼 ぐ〉 論 文)の. 方 法 は、 多 くの人 に開 か れ て い る。 君 に も十 分 可 能 な 方 法 だ 。 そ して、. 後 者 の(〈 足 で稼 ぐ〉)論 文 の 方 が 、 実 は風 雪 に堪 え る場 合 が 多 い。 シ ャ レた 流 行 して い る理 屈 先 行 の研 究 論 文 は、 極 々少 数 を 除 いて 、 論 文 の寿 命 は 三 年 、 せ いぜ い で五 年 だ ろ う。 しか し、 〈足 で稼 い だ論 文 〉は、発 表 当初 は注 目 され な くと も、十 年 、二 十 年 後 に も生 き る可 能 性 が高 い。 何 しろ身 を粉 に して 発 掘 した 〈事 実 〉 の 方 が 動 か し難 いの だ か ら。 そ れ は、 いず れ 〈歴 史 〉 が 証 明 す るか ら」 と先 生 は言 い ま した。 その うえ で 、 先 生 は次 の よ う に付 け加 え ま した。 「新 しい 〈方 法 〉 の 提 唱、 す な わ ち そ れ ま で の 〈研 究〉 の パ ラ ダ イ ム の 転 換 を 提 示 で き る研 究 者 は、 十 年 に一 人 か 、 二 十 年 に一 人 の 天 才 だ 。 ボ ク に は とて も無 理 な 話 だ 。 そ れ か ら、 新 し い資 料 の 発 掘 だ って 、 生 前 か ら有 名 だ っ た メ ジ ャー な 作 家 で は困 難 な 話 だ 。 な ぜ って 、 そ ん な 作 家 の 新 たな 資 料 の 発 見 な ん て 困 難 だ か らね 。 だ か ら、 ボ ク に可 能 な の は、 せ いぜ いが く新 し. 76.

(3) わ た く しの 「 研 究」 事 始 め一 平 成23年 度 教 職 教 育 部 内FD報. 告 よ り一. い読 み 〉 の 提 示 で あ って 、 それ だ け は心 掛 けて き たつ も りだ 。 だ か ら、 君 は 〈足 で 稼 ぐ〉 こ と の 可 能 な 対 象 を、 しか も、 人 々が 適 当 に 〈常 識 化 〉 して き た対 象 を 〈再 発 見 〉 す る材 料 を 捜 し な さ い」 と。 そ こで 、 先 生 と相 談 した結 果 、 私 が 、 卒 業 論 文 で 「倉 橋 由美 子 」 を 選 ん だ こ と と い い、 女 性 と い う存 在 や 社 会 的 立 場 につ いて 、(つ ま り、 女 性 学 を指 します が、)元 来 関 心 の 高 か っ た こ と も手 伝 い ま して 、 そ こで 、 芥 川 龍 之 介 の 浮 気 相 手 で あ る人 妻 で 、 芥 川 文 学 に も大 き な 影 響 を及 ぼ した 「秀 しげ子 」 と い う女 性 に注 目 したの で した。 芥 川 龍 之 介 の 遺 書 の 中 に、 伏 せ字 と は い え、 自殺 した 芥 川 の 遺 言 に ま で、 そ の 名 を 記 さ れ、 芥 川 作 品 の 〈読 み 〉 に も影 響 を 果 た した 「秀 しげ子 」 につ いて は、 これ まで に も芥 川 研 究 の 中 で 、 しば しば言 及 され て き ま した。 しか し、 少 し調 べ 始 めて み る と、 彼 女 の 〈実 態 〉 につ いて は、 あ る い は、 彼 女 の 具 体 的 な 生 涯 につ いて は、 ほ とん ど明 らか に され な い ま ま、 も っぱ ら芥 川 側 の 立 場 に立 っ た、 一 方 的 な 〈予 断 〉 に基 づ いて 論 評 され て き た にす ぎな いの で す 。 も う ひ とつ、 浅 野 先 生 が そ れ とな く ヒ ン トを 下 さ っ た の は、 君 は 〈女 性 〉 だ か ら、 〈女 性 的 視 点 〉 に立 って 、 す な わ ち ジ ェ ン ダー の 問 題 を 多 少 な りと も意 識 す べ きだ 、 と。 いわ ば、 自分 に と って 〈身 近 〉 な 、 あ る い は他 人 事 で はな い問 題 意 識 を 持 って 取 り組 め る テー マ か ら始 め る べ き だ、 と。 学 界 の 〈流 行 〉 や 〈借 り物 〉 の 言 語 で 語 る よ うな 〈研 究 〉 は止 しな さ い と。 つ ま り、 〈自分 自身 〉 を 大 切 に しな さ い、 と。 そ れ と同 時 に、 従 来 の研 究 で 〈常 識 〉 と さ れ て きた もの を、 その ま ま鵜 呑 み にす るの で はな く、 自分 自身 の 眼 で 確 認 しな さ い、 と。 つ ま り、 専 門 家 が(こ の 場 合 は、 近 代 文 学 研 究 者 で す が)〈 常 識 〉 と して き た事 象 に して も、 その 大 半 が 以 前 か らの 〈受 け売 り〉 にす ぎず 、 み ず か ら確 認 ・検 討 した もの で はな いの で 、 そ の ま ま信 用 して はな らな い、 と。 と も あれ 、〈研 究 論 文 と は何 か 〉、〈研 究 者 の一 員 とい う 自覚 〉、〈先 行 研 究 と い う常 識 か らの 脱 却 〉 な ど種 々 の 懇 切 丁 寧 な、 しか し手 厳 しい先 生 の 指 導 に、 「大 学 院 な ん て 、 トンデ モ ナ イ と こ ろ に足 を踏 み 入 れ て しま っ た」 と い う事 実 に今 更 な が ら打 ち ひ しが れ つ つ も、 まず は、 芥 川 龍 之 介 の 自殺 の 一 因 と され た 「秀 しげ子 」 の 生 涯 を 、 手 探 りで は あ りま した が 、 調 査 を 開 始 す る こ と に い た しま した。 な ぜ 、 秀 しげ子 を 調 査 したの か につ き ま して は、 まず は、 芥 川 研 究 史 の 側 面 か ら簡 単 に述 べ た い と思 い ます 。 昭 和 二 年 七 月 二 十 四 日未 明 、 芥 川 龍 之 介 は、 三 十 五 歳 で この 世 に決 別 しま し た。 大 正 期 文 壇 に燦 然 と輝 いて い た彼 の あ ま りに も早 過 ぎ る死 は、 今 も って な お 、 確 た る理 由 が 明 らか に され て い ませ ん 。 わ ず か に 「ぼん や り した不 安 」 と い う意 味 深 長 な 言 葉 を 残 した だ. 77.

(4) 近畿大学教育論叢. 第24巻 第1号(2012・11). けの 彼 の 自殺 が 、動 機 を め ぐって、当 時 さま ざま な憶 測 を 呼 ん だ こ とは想 像 に難 くあ りませ ん。 ま た、 芥 川 自身 、 そ う した こ とを 想 定 して か、 遺 書(「 或 旧友 へ送 る手 記 」 昭 和 二 年 七 月)の 中で 、 その 理 由 を 「生 活 難 」 や 「病 苦 」 ま た 「精 神 的 苦 痛 」 な ど 自 ら列 挙 し、 そ う した 「三 面 記 事 」的扱 い を受 け る こ とに苦 言 を呈 して い ます 。 これ ら現 実 的 な一 切 の理 由 を忌 避 す る形 で、 自殺 が 自 らの 将 来 に対 す る 「漠 然 た る不 安 」 の た めだ と う回 答 だ けを 残 します 。 一 方 、 友 人 小 穴 隆 一 に宛 て た 遺 書(昭. 和 二 年 七 月)の. 中 で は、 「過 去 の総 決 算 の為 に 自殺 」. す るの だ と しつ つ も、 自分 が 二 十 九 歳 の 時 に 「口 夫 人 と罪 を 犯 した こ と」 が 生 涯 の 大 事 件 だ と 告 げ て い ます 。 「ぼ ん や り した不 安 」 と い う言 葉 で 終 わ りを 告 げ た 「或 旧 友 へ 送 る手 記 」 が、 対 世 間 用 に示 す 〈公 〉 の 遺 書 で あ る とす れ ば、 友 人 小 穴 に宛 て た遺 書 は、 ま さ に 〈私 〉 的 な も の と して 一 対 の 形 を 取 って い ます 。 しか も芥 川 は この 〈私 〉 的 遺 書 が 未 公 開 の ま まで あ る と も 思 って いな い よ うで す(注1)。 芥 川 の 晩 年 に最 も深 い親 交 を 結 ん だ 小 穴 に宛 て て 残 され た、 と一 見 思 え る 〈私 〉 的 遺 書 の 存 在 。 だが 、 この 〈 私 〉 的遺 書 の全 編 が、果 た して小 穴 一 個 人 に対 す る遺 言 だ った の で し ょ うか。 自 らの 女 性 関 係 につ いて 触 れ 、 その こ と に対 す る 〈申 し開 き〉 と い った 観 が 拭 え な い この 遺 書 は(注2)、小 穴 とい う人 物 を媒 介 に して 、 そ の後 方 に在 る 女 性 達 に も何 らか の メ ッセ ー ジを 告 げ る もの で あ っ た と言 え るの で はな いで し ょうか 。 こ う した見 方 は粗 略 な 推 測 にす ぎな いか も し れ ませ ん が 、 それ に して も、 自 らの 死 の 「三 面 記 事 」 的 扱 いを 拒 否 し、 死 後 にお いて も世 間 の 眼 に 曝 され る遺 書 に、 わ ざ わ ざ女 性 関 係 の こ とを 言 及 した 彼 の態 度 に は、 そ れ 相 応 の意 図 が あ っ た と考 え ざ るを 得 ませ ん 。 な か で も、 伏 せ 字 の 形 を 取 り、 何 や ら謎 めか した 表 現 で 語 られ る 「口 夫 人 」 は、 彼 の 「生 存 に不 利 を 生 じた」 相 手 で も あ る と語 られ て お り、 そ の 代 表 的 存 在 で あ る こ と は確 か で す 。 芥 川 が 遺 書 の 中 に残 した 「口 夫 人 」 が 秀 しげ子 と い う女 性 で あ った こ と は、 今 日で は ほぼ 定 説 とな って い ます 。 後 に詳 し く述 べ ます が 、秀 しげ 子 の 存在 は、そ の 出会 い か ら死 に至 る ま で、 遂 に芥 川 の 脳 裏 を離 れ る こ との な か っ た女 性 で した。 繰 り返 せ ば、 だ か ら こそ 、 彼 の 生 涯 にお け る 「大 事 件 」 と して 、 遺 書 に まで その 存 在 が 刻 印 され る こ と にな った の で し ょう。 こ こで は さ しあ た り、 秀 しげ子 と い う女 性 が 、 芥 川 自身 、 死 の 間 際 に お いて もな お 語 るべ き存 在 で あ っ た と い う こ と を確 認 す る に留 め た い と思 い ます 。. 78.

(5) わ た く しの 「 研 究」 事 始 め一 平 成23年 度 教 職 教 育 部 内FD報. 2秀. 告 よ り一. しげ 子 と い う 女 性. 秀 しげ子 と い う女 性 の 軌 跡 の う ち、 主 と して 歌 人 と して の 活 動 を 中心 に、 多 少 そ の 社 会 的 活 動 も含 め た一 面 を述 べ て み た い と思 い ます 。 ま た、 同時 代 作 家 の 作 品 中 に秀 しげ子 像 が どの よ う に描 か れ たか 等 につ いて も後 ほ ど触 れ て み た い と思 い ます 。 秀 しげ子 は、 大 正 八 年 六 月 に岩 野 泡 鳴 の 主 催 す る十 日会 の 席 上 で 芥 川 龍 之 介 と 出会 い、 間 も な く深 い仲 に な っ た と され る人 妻 で す が、 当 初 は 芥 川 か ら 「愁 人 」(別 稿 「餓 鬼 窟 日録」 大 正 八 年 六 月 十 日か ら同年 九 月 二 十 九 日)と 呼 ば れ、そ の恋 情 を か き た て る存 在 で あ った よ うです 。 しか し、 や が て 深 情 けの 女 と して 持 て 余 され 、 晩 年 の 作 品(「 或 る 阿呆 の一 生 」 や 「歯 車 」)で は、「狂 人 の娘 」 や 「復 讐 の 神」 と記 され た 女 性 の モ デ ル と 目 され 、或 る種 の 色 の つ いた イ メー ジで と らえ られ て き ま した。 これ まで の 芥 川 研 究 史 で は、 芥 川 との 関 係 も彼 女 の 方 か ら一 方 的 に ま とわ りつ き、 芥 川 に災 厄 を も た らす だ けの 文 壇 グル ー ピー 的 存 在 にす ぎず 、 芥 川 自裁 の 日 まで 悩 み の タ ネ とな っ たや っか いな 人 妻 と い っ た見 方 に落 ち着 いて い ます 。 その せ いか 、 彼 女 の 生 涯 や 足 跡 につ いて 、 あ る い は、 文 学 者 た ち との 交 流 や 〈新 しい女 〉 と して の 活 動 、 ま た、 歌 人 と して の 位 置 づ けな ど につ いて 、 具 体 的 な 言 及 は ほ とん どな され て き て こな か っ た と い って よ いで し ょう。 た とえ ば、 しげ子 を 「歌 人 」 と呼 びな が ら、 彼 女 の 歌 そ の もの の 紹 介 は、これ まで わ ず か十 余 首 にす ぎ ませ ん。 つ ま り、 さま ざ ま な 〈噂 〉だ け は伝 わ っ て くるの で す が 、 その 実 態 は少 しも明 らか で はな い、 と い う状 態 だ った と いえ るの で す 。 そ こ で 、 ひ と まず 秀 しげ子 に関 す る基 本 的 な 資 料 の 収 集 と整 理 を 心 が け、 当 時 の 新 聞 や 雑 誌 な どの 調 査 を試 み ま した と こ ろ、 これ まで 未 紹 介 の 短 歌 四 百 十 四首 と短 文 二 篇 を新 た に 発 掘 し ま し た。 彼 女 が歌 を 詠 む こ と 自体 は、 「五 十 年 集 」(「春 草 会 五 十 年 周 記 念 歌 集 」 昭 和 四十 八 年 十 二 月 、 金 剛 出版)(注3)に 見 え る よ う に、 晩 年 ま で続 け られ た は ず で す が 、 芥 川 没 後 の しげ 子 の 足 跡 につ いて は ま だ十 分 な 調 査 を 行 って お らず 、 ま た、 彼 女 の 表 舞 台 にお け る活 動 の 時 期 も考 え ま して 、 今 回 の 報 告 は ひ と まず 関 東 大 震 災 前 後 まで の しげ子 を と りあ げた い と思 い ます 。 彼 女 の 消 息 は、 当時 の 女 性 誌 や 讃 貢 新 聞 紙 上 お よ び短 歌 雑 誌 等 、 意 外 に多 くの メデ ィ アか ら うか が え 、 活 動 の 範 囲 や 人 脈 も、 小 説 家 や 歌 人 か ら劇 界 お よ び女 性 運 動 に まで お よん で お り、 本 報 告 で は 「歌 人 」 しげ子 の 位 置 や 足 跡 を 紹 介 して み た い と思 い ます 。 秀 しげ子 の 名 前 が 表 立 って 見 られ る よ う にな るの は、 大 正 五(1916)年. の こ ろか ら とお もわ. れ ます 。 た とえ ば、 その 年 の 十 月 二 十 三 日付 「東 京 朝 日新 聞』 で、 「「新 しい女 」 の新 しい 団膿 」 と い う記 事 に、 当時 の 〈新 しい女 〉 た ちの 団 体 と して 発 足 した ビア トリス社 の 活 動 と、 そ の 機. 79.

(6) 近畿大学教育論叢. 第24巻 第1号(2012・11). 関 誌 『ビア トリス』 の 紹 介 が み え ます 。 二 列 に並 ん だ 女 性 社 員 の 前 列 に は しげ子 の 姿 とキ ャ プ シ ョ ン も見 え ま す(注4)。そ こで 、 秀 しげ子 と ビア トリス との 関 係 を 探 る た め に も、 ビア トリス が どの よ うな 女 性 団 体 で あ っ たの か 、 少 し触 れ て み ます 。 『ビア トリス』 創 刊 号(大 五 ・七)の. 「ビア トリス社 清 規 」 に よ ります と、 社 の発 足 目的 は、. 「本 當 の 藝 術 に封 す る愛1青で 團結 」 した 女 性 た ちの 団 体 を作 る こ とで あ りま した(注5)。『ビ ア ト リス』 創 刊 号 の 形 式 は、 「青 鞘 』 の 方 法 を踏 襲 した よ う で もあ ります 。 た とえ ば 「青 轄 』 の 巻 頭 詩 に は与 謝 野 晶 子 の 『そ ぞ ろ ご と』 が 掲 げ られ、 一 方 、 『ビア ト リス 』 の 巻 頭 歌 は ダ ンテ の 『神 曲』 か らの借 用 で は あ る もの の、 『青 鞘 』 巻 頭 詩 の 表 現 と よ く似 て い ます 。 また 、 社 の 中心 的 な 立 場 に あ っ た生 田花 世 が 、 発 行 に到 る経 緯 につ いて 「「青 轄 』 「番 紅 花 』 とが 私 達 の 前 に本 當 に好 い収 穫 を残 し(中 略)私. は この 雑 誌 に盲(マ. マ)て. られ て 來 た 」 と先 行 雑 誌 の 恩 恵 を 吐. 露 し、 『青 轄 』 が 次 世 代 の女 性 達 に与 え た精 神 的 影 響 が 見 て とれ ます 。 先 に掲 げ ま した 『東 京 朝 日新 聞 』 の 記 事 に は 「四 散 した 『青 轄 』 に次 いで 興 っ た ビ ア トリス社 」 と い うふ う に位 置 づ け られ て い た り、大 正 十 二 年 四月 二 十 六 日付 け の 『讃 責 新 聞』 に も 「『青 轄 』 『ビア トリス』『処 女 地 』 な ど婦 人 の 文 藝 雑 誌 は」 な ど と い う並 称 も見 え 、 ビア トリスが 青 轄 を 引 き継 ぐ女 性 団 体 で あ る こ とを 社 員 や 会 員 みず か ら も 自覚 し、 世 評 もそ の よ う に認 め て い た こ とが わ か ります 。 『ビア トリス』 の創 刊 、 す な わ ち青 轄 か ら ビア トリスへ の移 行 は、 〈新 しい女 〉 た ちの 世 代 交 代 と新 たな 段 階 へ の 変 質 を 示 す ひ とつ の 指 標 と も言 え るの で はな いか と位 置 付 け られ ます 。 ビ ァ トリスの 短 い活 動 自体 に大 きな 実 りはな か っ た にせ よ、 ビ ア トリス に参 加 した 女 性 た ちの 活 動 は、 一 部 の突 出 した 女 性 た ち の運 動 を よ り一 般 化 し、 そ の 底 辺 を拡 大 した 現 れ と して、 ま た、 その 後 の 女 性 た ちの 広 汎 な 文 学 的 ・社 会 的 活 動 の 揺 藍 とな っ た可 能 性 が 高 い と思 わ れ ます 。 前 に掲 げ ま した 「東 京 朝 日新 聞 』 の 記 事 は、 秀 しげ子 を 「ビ ア トリス社 の 頭 目」 の 一 人 とみ な す と と も に、 大 正 五 年 十 月 十 五 日 に ビ ア トリス社 が 主 催 した第 一 回 「故 女 流 作 家 追 慕 會 」 の 活 動 につ いて も報 告 して い ます 。 しげ子 が 、 いつ 頃 か らビ ア トリス社 に顔 を 出 し始 め たの か 明 確 で は あ りませ ん が 、 彼 女 の 短 歌 が 大 正 五 年 十 一 月 の 第 一 巻 五 号 か ら見 られ る こ とや 、 十 月 十 五 日の 追 慕 会 に 出席 して い る こ と、 ま た社 規 に は原 稿 の 締 め切 りが 「毎 月 厳 に十 日限 」 と あ るの で 彼 女 の 入 稿 が 十 月 十 日 まで で あ っ た こ と、 ま た、 発 足 時 の 社 員 名 簿 に彼 女 の 名 前 が 見 当 た らな い こ とな どか ら、 大 正 五 年 の 十 月 、 あ る い は女 流 作 家 追 慕 会 よ り少 し前 の 九 月 ご ろ よ り参 加 し始 めた の で はな いか と思 わ れ ます 。. 80.

(7) わ た く しの 「 研 究」 事 始 め一 平 成23年 度 教 職 教 育 部 内FD報. 告 よ り一. 大 正 五 年 七 月 の 発 足 か らわ ず か 三 ケ 月 後 、 大 正 五 年 の 十 月 に は、 ビ ア トリス社 は、 社 員 ・会 員 を合 わ せ て す で に 二 百 余 名 を数 え て い ま す(注6)。雑 誌 「女 の 世 界 』 の特 集 す る 「大 正 婦 人 録 補 遺 」(大 正 五 年 八 月)と. 「大 正 婦 人 録 」(大 正 六 年 五 月)で 、 秀 しげ子 の 略 歴 が 掲 載 され 、 一. 部 で は 『現 代 婦 人 』 の 寄 稿 家 と して 有 名 だ った とい う伝 聞(「 秀 夫 人 の片 影 」23頁)な. どを 併. せ 考 え れ ば、 彼 女 が ビア トリス に参 加 して 間 もな く、 二 百 余 名 の 中の 主 要 な 構 成 員 と して 認 め られ 、〈新 しい 女〉 の 「頭 目」 の 一 人 に 目 され た とい うの も充 分 肯 け ます 。 しか も、「女 の世 界 』 に会 見 記 が 掲 載 され 、 雑 誌 『新 潮 』 に批 評 を 発 表 し、 一 時 は歌 壇 の 中心 に近 い位 置 で 歌 を 発 表 し続 け た こ とな どか らす れ ば、 彼 女 が 相 当の 素 養 を 具 え て い た女 性 だ った こ と は確 か で す 。 前 述 の 会 見 記 「秀 夫 人 の 片 影 」 に よ る と、 泉 鏡 花 の 作 品 に親 灸 し、 外 国 文 学 で は トル ス トイ ・ ド ス トエ フ ス キ ー ・ゲ ー テ ・イ プセ ンな どを 読 み 、 当時 の 日本 の 「新 しい小 説 」 か ら古 典 の 「源 氏 物 語 」 に至 る まで 、 その 読 書 範 囲 は多 岐 にわ た り、 大 抵 の 文 学 に通 じて いた と語 られ る彼 女 を、 女 子 大 生 じみ た文 学 趣 味 に染 ま っ ただ けの 女 性 と して 片 付 け るわ け に は いか な いの で はな い だ ろ う と考 え ま した。 も っ と も、 そ の 一 方 で 、 彼 女 が ど こ まで 〈新 しい女 〉 を 自覚 し、 そ の 信 条 を貫 い た の か は、 簡 単 に は決 めつ け られ ず 、彼 女 に は古 風 な 側 面 もあ っ た よ うで 、 た とえ ば、 〈新 しい 女〉 の 「頭 目」 の ひ と りと 目 され な が らも、 本 人 は 「今 で も平 凡 な 女 で す が 、 學 校 時 代 に は ほん と に何 ん に も知 りま せ ん で した」 と語 って い ます 。 こ こ に は、 〈新 しい女 〉 を もて は や す 時 勢 に踊 ら さ れ ま い とす る 自負 、 も し くは世 評 の 中の 自分 と実 際 の 〈平 凡 な 女 〉 で あ る 自身 との 落 差 に と ま ど う微 妙 な 心 理 な どが 垣 間 み られ て 興 味 深 いで す 。 しげ子 と会 見 を した安 成 二 郎 は、 彼 女 の こ とを 「小 學 校 の 一 二 年 頃 か ら、 さ う いふ もの(村 ママ. 井 絃 齊)に 讃 み 耽 るや うな 、 早 塾 の 少 女 」 と述 べ て い ます 。 この 「早 熟 」 さ に は、 心 臓 が 丈 夫 で な く、 病 身 で あ るが ゆえ の 特 有 の 観 察 眼 や 、 読 書 に い そ しむ しか な い と い った 事 情 な どが 反 映 して い る と思 わ れ ます 。 少 女 期 の 〈早 熟 〉 な 眼 と 〈病 弱 〉 な 身 体 と い う要 素 は、 しげ子 と い う女 性 と その 歌 を読 み 解 くひ とつ の カギ か も しれ ませ ん 。. ◎〔 「ビア トリス」 の 終 刊 〕 こ こ で、 再 び ビア トリス の状 況 を確 認 して み ま す と、 『東 京 朝 日新 聞 』 な どで そ の 旺盛 な 活 動 が 伝 え られ る一 方 、 ビ ア トリス社 は社 の 副 事 業 と して ビ ア トリス文 藝 研 究 會 を 設 立 し、 新 た に文 芸 雑 誌 『女 性 』 を 刊 行 しよ う と して い ます 。 一 見 盛 況 と見 え る ビ ア トリス も 「同人 雑 誌 共. 81.

(8) 近畿大学教育論叢. 第24巻 第1号(2012・11). 通 の 経 営 難 」に よ って次 第 に休 刊 月 も出 は じめ、発 足 か ら八 ケ月 後 の大 正 六 年 二 月 に は雑 誌(2 巻1号)を. 縮 小 します 。 推 測 に す ぎ ませ ん が、 『女 性 』 刊 行 の背 景 は、 社 の 健 全 な運 営 を 維 持. で き る ほ ど会 員 数 が 揃 わ な い に もか か わ らず 、 中途 半 端 に増 え て ゆ く会 員 の 投 稿 作 品 を 処 理 す る た めの 措 置 だ っ たの で はな いで し ょうか 。 しか し、 本 来 か らいえ ば、 芸 術 を 愛 す る女 性 の 名 を象 徴 させ た 『ビア トリス』 に作 品 を 掲 載 す る こ と に こ そ意 味 が あ った はず で 、 ど こか ラ ン ク の 下 が る姉 妹 誌 「女 性 』 に作 品 を 回 す と い う方 針 が ど こ まで 会 員 た ち に受 け入 れ られ た か は疑 問 で す 。 本 体 の 『ビア トリス』 自体 の 足 取 りが 不 安 定 な 中、 新 た に刊 行 を 予 告 され た 雑 誌 『女 性 』 も ま た発 行 を延 期 され 、 中止 に至 っ た よ うで す 。 や が て 、 ビア トリス社 の 女 性 社 員 同士 の 間 に も齪 齪 が 生 じ始 め た よ うで す 。 創 刊 号 の 編 集 雑 観 な どを 眺 めて も、 ビ ア トリス発 足 時 、 す で に 目的 意 識 の 違 いが 潜 在 して い た様 子 が 伺 え ます 。 そ して 、 運 営 が 苦 し くな る につ れ 、 見 解 の 相 違 が 顕 在 化 し、 その こ と も社 の 衰 勢 を 早 め た一 因 か も しれ ませ ん 。 こ う した 状 況 か ら、 大 正 六 年 四 月 の二 巻 三 号 が、 お そ ら く ビア ト リス社 に と っ て最 後 の 雑 誌 にな った とお もわ れ ま す 。 「高 踏 的」 な も の を 目指 し、 縮 小 され た 『ビア トリス』 終 刊 号 の 目次 に は、 わ ず か八 名 の 女 性 の 名 前 しか あ りませ ん 。 その な か に秀 しげ子 の 短 歌 が 掲 載 され て い ます 。. ◎〔 潮 音 社 と の交 流 〕 ∼ 「潮 音 」 へ の参 加 『ビア ト リス 』 終 刊 後 、 秀 しげ子 の 作 品(短 歌)は 、 太 田 水 穂 の主 宰 す る短 歌 雑 誌 『潮 音 』 に見 え る よ う にな ります 。 しげ子 が 、 いつ ご ろか ら水 穂 に師 事 し始 めた か は定 か で は あ りませ ん が 、 しげ子 が 『潮 音 』 へ 参 加 す る に至 った 経 緯 を 考 え て み た い とお もい ます(注7)。まず、 「ビ ア トリス』 と 『潮 音 』 の接 点 を検 討 して み ます と、大 正 五(1916)年 (一 巻 六 号)に. 十 二 月 号 の 『ビア トリス』. そ の寄 贈 先 が 記 さ れ 、 「潮 音 』 の 名 が 見 え ま す 。 ま た、 潮 音 社 の 「編 輯 消 息 」. (「潮 音 』 二 巻 八 号)に 、 山 田 邦 子 ・若 山喜 志 子 の 両 名 が、 「 登 行 さ れ た ビア トリス 同人 と して 活 躍 」 と の報 告 が あ ります 。 ほ か に、 『潮 音 』 主 宰 者 の 水 穂 も、 ビア ト リス の 賛 助 員 と して 名 を連 ね て い ま す 。 これ らの事 実 か ら推 測 す る と、 も と も と 『ビア トリス 』 「潮 音 』 両 誌 の 同 人 の 一 部 が重 な り合 って お り、 「ビア トリス』 の休 刊 が 目立 ち は じめ た の を 期 に、 短 歌 を詠 む 社 員 や 会 員 の 幾 人 か が 新 たな 発 表 誌 を 求 めて 移 動 したか 、 潮 音 社 に属 す る女 性 歌 人 の 方 か らの 誘 いな ど も あ っ たの で はな いで し ょうか 。 そ して 、 しげ子 も ま た そ う した 一 人 と して 徐 々 に発 表 の 舞 台 を 「潮 音 』 に移 した と お もわ れ ます 。 以 上 の こ とを 考 え 併 せ ま す と、 『ビア ト リス』 の 「頭 目」 の一 人 で あ った しげ子 は、 そ の 活. 82.

(9) わ た く しの 「 研 究」 事 始 め一 平 成23年 度 教 職 教 育 部 内FD報. 告 よ り一. 動 の末 期(大 六 ・四)(注8)を 責 任 を も って見 と り、 一 呼 吸 を お い て、 遅 くと も大 正 六 年 十 月 頃 に は 「潮 音 』 に参 加 しは じめ た と思 わ れ ます 。 秀 しげ子 の 作 品 が 『潮 音 』 に登 場 し始 め るの は 大 正 六 年 十 一 月 の 第 三 巻 第 十 一 号 か らで あ り、 以 後 、 毎 月 の よ う に彼 女 の 作 品 が 掲 載 され 、 し げ子 は歌 人 と して の 精 力 的 な 活 動 を 続 け る こ と にな ります 。. ◎〔 雑 誌 「潮 音 」 の作 品(第 一 期)〕 『潮 音 』 を 調 査 した か ぎ りで は、 しげ子 の短 歌 は、 大 正 六(1917)年. 十 一 月 か ら大 正 十 二. (1923)年 二 月 ま で の約 七 年 間 に わ た り掲 載 され て い ます 。 この約 七 年 間 に は、 『潮 音 』 社 の 彼 女 に対 す る評 価 や 位 置 づ け に変 化 が あ り、また、 しげ子 の詠 風 に も微 妙 な変 化 が見 られ る の で、 潮 音 時 代 の 彼 女 の 活 動 を あえ て 三 期 に分 けて み ま した。 まず 、 しげ子 が 『潮 音 』 へ 参 加 し始 め た大 正 六(1917)年. 十 一 月 か ら大 正 七(1918)年. 末ま. で の 十 四 ケ月 間 が 、 第 一 期 に相 当す る と お もえ ます 。 先 に も触 れ ま した よ う に、 この 時 期 、 し げ子 は月 平 均 十 首 近 くの 歌 を ほ ぼ毎 月 発 表 して お り、 靹 音 ・秀 靹 音 子 ・秀 靹 音 な ど彼 女 の 雅 号 が 、 『潮 音 』 の 目次 に必 ず 姿 を見 せ ます 。 「潮 音 』 誌 上 で の最 初 の 発 表 歌 「霧 の流 れ」 に対 し、主 宰 の水 穂 は 「自由 自在 な る詠 嘆 に驚 く」 と評 価 して い ます 。 一 方 、 同 じ号 の 「編 輯 消 息 」 は、 水 穂 の 古 くか らの 社 友 で あ る歌 人 た ち に 「緩 怠 」 が み られ る と叱 咤 す る一 方 、 若 い歌 人 た ちの 気 鋭 に 「欣 快 を 禁 じ」 え な い と記 し て い ま す。 『潮 音 』 の 目次 の構 成 か ら推 す と、 そ こ に名 前 が 載 る こ とは 、 結 社 の 第 一 線 に ふ さ わ しい力 量 を もつ 歌 人 と して 、 ま た潮 音 の 歌 風 を 実 践 し得 た人 物 と して の 、 評 価 を 意 味 す る扱 いの よ うで す 。 こ う した事 情 か らす る と、 この 時 期 の しげ子 は、 潮 音 の 新 進 歌 人 と して 相 当 に 高 い評 価 を与 え られ た存 在 だ っ た と いえ ます 。 資 料 皿のFに. その 一 例 を あ げて お き ま した の で. ご参 照 下 さ い(注11)。 ちな み に、 この 第 一 期 に詠 まれ た 歌 は全 部 で 百 二 十 五 首 あ ります 。. ◎〔 「潮 音 」 の 作 品(第 二 期)〕 次 に、 大 正 八(1919)年. 度 か ら大 正 九(1920)年. 末 まで の 約 二 年 間 を 、 潮 音 時 代 の 第 二 期 と. 考 え た い とお も い ます 。 こ の 時期 も、 しげ子 は毎 月 の よ う に 『潮 音 』 に歌 を寄 せ て い ます が、 しだ い に 目次 に その 氏 名(雅 号)が 載 る こ とは稀 に な り、 「一 人 八 詠 」 や 「潮 音 社 選 集」 と い っ た、 定 番 的 な 項 目の 中 に組 み こ まれ る よ う にな ります 。 この 扱 いが 、 潮 音 社 の 古 参 歌 人 と して の 安 定 した地 位 を意 味 す るの か 、 それ と も色 あせ た周 縁 的 同人 と して の 扱 いな の か は判 然 と し. 83.

(10) 近畿大学教育論叢. 第24巻 第1号(2012・11). ませ ん が 、 選 者 や 雑 誌 同人 らの 度 重 な る批 評 や 感 想 な どを 見 ます と、 彼 女 が 依 然 と して 一 定 の 注 目す べ き詠 み 手(歌 人)の 一 人 だ っ た こ と は確 か な よ うで す 。 その 意 味 で は潮 音 社 にお け る 彼 女 の 立 場 が 次 第 に 中堅 に移 りつ つ あ っ た もの と考 え られ ます 。 ま た、 しげ子 は、 秀 靹 音 子 ・秀 靹 音 ・靹 音 ・と もね 子 と い っ た雅 号 を 、 大 正 八 年 の 四 月 まで しか 使 用 して お らず 、 大 正 八 年 五 月 以 降 の 作 品 に は、 も っぱ ら 「秀 しげ子 」 と い う本 名 を 用 い て い ます 。 この 時 期 、 彼 女 に心 境 の 変 化 を も た らす 何 らか の 事 件 が あ った の か 、 また 、 靹 音 と い う雅 号 が しだ い に しげ子 の 心 境 に は合 わ な くな って き たの か 、 その 理 由 は まだ 不 明 で す 。 も しか す る と、 当時 、 文 展 の 審 査 員 な どを 歴 任 した画 家 ・小 堀 靹 音 と重 な る混 乱 へ の お もん ぱ か りが あ っ たか らか も しれ ませ ん 。 冒頭 で も述 べ ま した よ う に、 大 正 八 年 六 月 十 日、 彼 女 は岩 野 泡 鳴 の 主 催 す る十 日会 の 席 上 で 芥 川 と 出逢 うわ けで す が 、 本 名 を 使 用 し始 め るの が その 一 ケ月 前 で あ る こ とか ら します と、 芥 川 との 出会 いが 原 因 にな っ た可 能 性 は少 な い と お もわ れ ます 。 む しろ、 しげ子 自身 の 内面 に即 して 、靹 音 とい う雅 号 か らイ メー ジ され る ど こか 中性 的 な仮 面 を脱 ぎ捨 て、一 個 の人 間 と して、 あ る い は一 女 性 と して の 内実 を 率 直 に歌 う と い う意 志 の 表 明 と して 受 け と る方 が よ い よ う に思 え ます 。 この 第 二 期 に は全 部 で 百 二 十 一 首 の 歌 を 詠 ん で い ます 。. ◎〔 「潮 音 」 の 作 品(第 三 期)〕 次 に、 大 正 十(1921)年. か ら大 正 十 二(1923)年. 二 月 まで の 二 年 余 を 第 三 期 とみ た い とお も. い ます 。 第 二 期 と同 様 、 彼 女 の氏 名 が 目次 に見 られ る こ と は ほ と ん ど無 く、 「潮 音 社 選 集 」 の 形 式 で 掲 載 され る こ とが 多 くな ります 。 大 正 十 一 年 九 月 の 『潮 音 』(八 巻 九 号)「 編 輯 消 息 」 に は、 古 くか らの 社 友 に心 の 緩 み が 感 じ られ 、 代 わ りに新 人 らの 力 強 さ に喜 びを 覚 え る と い う水 穂 の 批 判 が あ ります 。 これ は、 か つ て しげ子 自身 が 『潮 音 』 の 新 進 歌 人 と して 頭 角 を 現 し、 作 品 を 精 力 的 に発 表 し始 めた 大 正 六 年 十 一 月 の 評 と酷 似 して い ます 。 しげ子 を 含 め たベ テ ラ ン た ちへ の こ う した 酷 評 は、 そ れ だ け歌 人 と して の 経 歴 の 長 さを 示 す もの で も あ ります が 、 彼 女 の 立 場 は今 や 新 進 の 勢 い に押 され 、 徐 々 に隅 に押 しや られ る と い う気 配 だ っ た と推 測 され ます 。 ま た、 大 正 十 年 五 月 に刊 行 され た 『現 代 婦 人 詩 歌 選 集 』 の な か に、 正 富 江 洋 の 執 筆 に よ る 「明治 大 正 婦 人 詩 歌 小 史 」 が あ り、 秀 しげ 子 の 略 歴 と歌 三 首 が 掲 載 さ れ て い ます(注9)。こ こで は、 彼 女 は 「春 草 会 」 の 会 員 で あ る もの の 、 歌 壇 的 に は どの 派 に も属 さな い歌 人 の ひ と りと し. 84.

(11) わ た く しの 「 研 究」 事 始 め一 平 成23年 度 教 職 教 育 部 内FD報. 告 よ り一. て 紹 介 され て い ます 。 今 回 の 調 査 に よ る と、 『春 草 會 詠 草 』 と して確 認 で き る しげ子 の 歌 は、 大 正 十 年 七 月 の 春 草 会 例 会 か らで あ り、 正 富 の 記 述 に根 拠 が あ る とす れ ば、 紙 上 に詠 草 が 掲 載 され る前 か ら、 しげ子 は春 草 会 の 会 員 で も あ っ た と い う こ と にな ります 。 で す が 、 彼 女 は大 正 十 年 か ら十 一 年 にか けて 依 然 と して 『潮 音 』 に作 品 を 発 表 し続 けて お り、 正 富 の 付 記 が そ の ま ま しげ子 に と って 容 認 で き る もの で あ っ たか ど うか は微 妙 だ と いえ ます 。 た とえ ば、 大 正 十 年 十 月 十 日、 潮 音 社 の 東 京 地 区 の 催 しと して 「潮 音 社 十 日會 」 の 十 月 例 會 が 田端 潮 音 社 で 午 後 六 時 よ り開 か れ て お り、 しげ子 も 出席 して い ます 。 この 十 月 例 會 に しげ子 が 参 加 した動 機 を推 測 します と、 水 穂 の め ざす 歌 風 と 自身 の 創 作 態 度 との 間 に微 妙 な 亀 裂 を 覚 え つ つ も、 と き に は 自分 の 作 品 が 一 応 評 価 され る こ と も あ っ たの で 、 潮 音 社 の 理 念 や 歌 風 を 再 確 認 して み よ う と い う気 分 で も抱 い たの か も しれ ませ ん 。 ただ し、 大 正 十 一 年 一 月 一 日の 『讃 賞 新 聞』 に は、 『潮 音 』 と全 く無 関 係 に、 彼 女 個 人 の 作 品 と して 「早 春」 十 首 が 単 独 で掲 載 さ れ て い ます 。 こ う した発 表 機 会 の 実 現 が 、 あ る い は しげ子 に歌 人 と して の 新 た な 出発 を 感 じさ せ 、 『潮 音 』 との別 れ を促 した の か も しれ ませ ん。 現 在 の と こ ろ、 大 正 十 二 年 二 月 以 降 、 彼 女 の 歌 は 『潮 音 』 誌 上 に見 当 た りませ ん 。 た だ 、 大 正 十 二 年 九 月 の 関 東 大 震 災 に際 して は潮 音 社 へ の 義 摘 金 に応 じて い ます 。 この 第 三 期 に は、 全 部 で 八 十 二 首 の 歌 を 詠 ん で い ます 。. ◎〔 春 草 会 と の交 流 ・茅 野 雅 子 と春 草 会 の発 足 〕 『潮 音 』 誌 上 に歌 を発 表 し続 け るか た わ ら、 や が て し げ子 は春 草 会 の 例 会 へ も出席 し始 め ま す 。 彼 女 の 活 動 拠 点 が 、 春 草 会 へ 完 全 に移 行 す るの は大 正 十 二 年 以 降 で す が 、 春 草 会 にお け る しげ子 の 足 跡 を眺 め る た め に、 まず 春 草 会 に関 す る概 略 を ま と めて お き ます 。 春 草 会 は、 茅 野 雅 子 を 中心 に して 始 め られ た歌 会 で 、 大 正 七 年 二 月 に発 足 しま した 。 春 草 会 は、 ほ ぼ月 一 回 の 例 会 を行 って い た よ うで、 不 定 期 で は あ りま す が、 『讃 責 新 聞』 の 「よ み う り文 藝 〔よ み う り抄 〕」 な どに 春 草 会 の 開 催 日が 告 知 され て い る例 も散 見 で き ま す 。 た だ し、 彼 女 が 具 体 的 に いつ 頃 か ら春 草 会 に参 加 し始 め たの か 検 討 の 余 地 が あ り、 そ の 時 期 を 考 察 す る た め に も、 春 草 会 発 足 当初 の 状 況 を 眺 めて み ます 。 大 正 七(1918)年. 二 月 六 日の 夜 、 茅 野 薫 々の 自宅 で 、 妻 ・雅 子 を 中心 に 「女 流 短 歌 會 」 と し. て 「第 一 回 歌 會 」 が 催 さ れ ま した。 会 に は、 与 謝 野 晶子 ・神 尾 み つ 子 ・宮 坂 み ち子(水. 町京. 子)・ 山 川柳 子 らが参 加 して い ます 。 翌 月 、 三 月 十 日午 後 一 時 よ り、 改 め て 「春 草 會 第 一 回 短. 85.

(12) 近畿大学教育論叢. 第24巻 第1号(2012・11). 歌 會 」 と して 紙 上 に告 知 され て い ます 。 この 告 知 に は 「茅 野 雅 子 氏 等 に よ りて 登 せ られ た る 同 會 は與 謝 野 晶 子 氏 の 賛 助 を 得 て 」 と い う記 事 が み られ 、 ま た、 大 正 十 五 年 六 月 二 十 七 日の よみ う り抄 に も 「與 謝 野 晶 子 夫 人 が 名 づ け親 の歌 の 集 ま り 「春 草 會 』」 とあ る こ とか ら、 お そ ら く 二 月 の 「第 一 回 歌 會 」 に参 加 した晶 子 が その 場 で 春 草 会 の 名 を 発 案 し、 三 月 十 日の 会 か ら正 式 に春 草 会 と して の ス ター トを 切 っ たの だ と お もわ れ ます 。 同 じ く、 よみ う り抄 に 「男 子 の 参 加 は紹 介 を 要 す る 由」 との 規 定 が あ る こ とか ら、 当初 は 女 性 中心 の 歌 会 と して組 織 す るつ も り だ っ たの で し ょう。 四 月 十 八 日午 後 六 時 よ り、春 草 会 の 「第二 回短 歌 會 」 が 「赤 坂 山王 清 風 亭 」 で 開 会 され て お り、 以 後 、 春 草 会 は月 一 度 の 例 会 を も ち始 め た よ うで す 。 な おr読 売 新 聞 』 も 初 め は春 草 会 の 開 催 を 告 知 す るだ けで 、 詠 草 の 掲 載 は大 正 七(1918)年. 十 一 月 まで 待 た ね ばな. りませ ん 。. ◎〔 春 草 会 へ の参 加 〕 で は、 しげ子 自身 、 いつ 頃 か ら会 に参 加 したの で し ょうか 。 まず 、 青 木 生 子 氏 の 著 書 『茅 野 雅 子 』の 中扉 の最 後 に添 え られ た写 真 に、秀 しげ子 ら しき人 物 が 見 え ます(注1°)。 中列 左 か ら六 人 目 の女 性 で あ ります が 、 写 真 の キ ャ プ シ ョ ンに は、 「大 正 八 年 春 草 会 第 三 回 」 と記 さ れ て い る だ け で、 個 々 の 人 物 名 は記 され て お りま せ ん 。 『朝 日新 聞 』 に も 『讃 責 新 聞』 に も、 第 三 回 を 告 知 す る記 事 は 確 認 で き ま せ ん で した。 正 式 な 「春 草 會 第 一 回 短 歌 会 」(初 回 か らは第 二 回 で す が)が 大 正 七 年 三 月 十 日 に行 わ れ て い る点 、 同 じ く 「春 草 會 第 二 回 短 歌 会 」 が 同年 四 月 十 八 日 に 開催 され て い る点 な どか ら、 第 三 回 は、 大 正 八 年 で はな く、 〈 大 正 七 年 五 月 〉 に 開催 され た と お もわ れ ます 。 ちな み に、 春 草 會 会 員 の 岡 田道 一 が 、 第 二 回 まで は女 性 の 歌 会 で あ った 春 草 会 へ 、 茅 野 薫 々 ・岡 嶋 敬 治 ・竹 久 夢 二 と 自分 の 「四 人 が 割 り込 み 」、 以 後 「男 性 女 性 混 合 」 の 歌 会 にな っ た と述 べ て い ます 。 ただ し、 青 木 氏 著 の 当該 写 真 に は、 四 人 で はな く、 十 三 人 の 男 性 会 員 が み え 、 これ は四 人 の 割 り込 み か ら回 数 を 重 ね た後 の 例 会 だ と考 え られ 、 また 、 そ の 服装 〔 羽 織 〕 か ら推 して 、 一 月 か ら三 月 あ た りの 寒 い時 期 に開 催 され た 会 だ った 可 能 性 が 高 い よ う に思 え ます 。 いず れ にせ よ、 大 正 七 年 四 月 十 八 日の 「第 二 回 」 か ら約 一 カ月 後 の 会 と は考 え に く く、 キ ャ プ シ ョンの 「第 三 回 」 と は 〈第 十 三 回 〉 の 間 違 い(も. し くは誤 植)で. はな いか. と思 わ れ ます 。 つ ま り、 この 写 真 が 撮 られ た実 際 の 時 期 は、 大 正 八 年 一 月 か ら三 月 あた りの 可 能 性 も想 定 で き るの で はな いか と思 わ れ ます 。 これ まで に見 る こ との で き た秀 しげ子 の 他 の 写 真 と照 合 します と、 青 木 氏 著 に掲 出 され た 写. 86.

(13) わ た く しの 「 研 究」 事 始 め一 平 成23年 度 教 職 教 育 部 内FD報. 告 よ り一. 真 の 人 物 は、 秀 しげ子 当人 に ほ ぼ間 違 いな い と思 わ れ ます 。 その 根 拠 の ひ とつ は、 まず 、 当 該 写 真 に見 え る岡 本 か の子 の参 加 で す 。 岡本 か の 子 の 姿 は、 先 に掲 げ た 「「新 しい女 」 の新 し い 團 体 」 の ビア トリス社 会 員 の ひ と りと して 、 しげ子 と と も に記 念 写 真 に写 って い ます 。 そ の 紙 面 と照 ら し合 わ せ て み て も、 か の 子 の 表 情 は この 写 真 に酷 似 して お り、 また 、 しげ子 と思 わ れ る女 性 も この 写 真 と表 情 が 似 て い ます(注11)。r讃 賞 新 聞』 大 正 七 年 十 月 六 日の 「十 日會 」 の 記 事 で す が 、 こ こ に も彼 女 ら二 人 の 姿 が み え 、 その 表 情 も問 題(春 草 会 第 三 回)の 写 真 と似 て い ま す。 以 上 の 点 か ら、 青 木 氏 著 の 写 真 に写 る人 物 を 秀 しげ子 と推 察 した いの で す が 、 とす れ ば、 し げ子 は、 遅 くと も大 正 八 年 三 月 以 前 まで に は春 草 会 に参 加 し始 めて いた と考 え られ ます 。 た だ し、 『春 草 會 詠 草 』 に彼 女 の作 品 が掲 載 され る の は、 大 正 十 年 八 月 二 日ま で待 た ね ば な らなず 、 その 間 の 動 き は必 ず しも明 確 で は あ りませ ん 。 秀 しげ子 が 歌 人 と して の 活 動 の 基 盤 を 潮 音 社 か ら春 草 會 へ と移 して い った 理 由 は い くつ か 考 え られ ます 。 た とえ ば、 茅 野 雅 子 が 同 じ日本 女 子 大 学 の 出身 で あ る こ と、 問 題 の 春 草 会 写 真 に 写 る 岡本 か の 子 もか つ て ビア トリス社 員 の 一 人 で あ り、 か つ 、 しげ子 と と も に十 日会 に参 加 し て い た こ と、 「潮 音 』 創 刊 号(大. 四 ・七)に 茅 野 雅 子 も寄 稿 して い る こ とな ど、 と い った 人 脈. や 事 情 か ら、 しげ子 も春 草 会 に移 っ た と考 え られ ます 。 ま た、 『潮 音 』 時 代 の 第 三 期 で触 れ た よ うに、 歌 風 の違 いや 自作 へ の 評 価 お よ び扱 い の軽 さ な どか ら、 しげ子 の 心 が 次 第 に潮 音 社 を 離 れ て い っ た よ う に も思 わ れ ます 。 春 草 會 会 員 の 原 三 郎(『 五 十 年 集 』)に よれ ば、 春 草 会 は 「特 に野 心 もな く歌 が 好 きで 詠 まず に は い られ な い」 者 の 集 ま りと い う気 楽 さが あ っ た よ うで 、 そ う した居 心 地 の 良 さ も彼 女 を ひ きつ けた 理 由の ひ と つ だ っ たの で はな いの で し ょうか 。 晩 年 に至 る まで 長 く春 草 会 に安 住 した しげ子 の 気 持 ちを 推 測 します と、 ビ ア トリスや 潮 音 な どが 理 想 を掲 げ、 その 理 念 を 真 剣 に追 求 して ゆ くと い っ た緊 迫 した 空 気 に ど こか な じめな い本 質 を もつ女 性 だ っ た の か も しれ ませ ん 。 言 い換 え れ ば 、 しげ 子 は、 歌 を詠 む こ と 自体 を望 み、 歌 詠 み と い う立 場 か ら何 か 理 念 を追 い 求 め る と い っ た 貧 欲 さ や情 熱 を持 続 で き な い、 結 局 は 「市 井 の歌 人 」 に お さま るべ き存 在 だ った の か も しれ ませ ん。 も っ と も、 何 ら野 心 の な い穏 健 な 歌 好 きの 集 ま りと は いえ 、 戦 時 中 に も防 空 壕 の な か で 会 を 続 けて い た春 草 会 の 姿 は、 ひ たす ら歌 を 詠 む と い う魅 力 に取 りつ か れ た 人 々の 、 別 の 凄 さを 示 す 事 例 で あ るか も しれ ませ ん 。 細 々 とで あれ 、 現 在 もな お休 む こ とな く続 け られ て い る春 草 会. 87.

(14) 近畿大学教育論叢. 第24巻 第1号(2012・11). の 存 在 は 、 ビ ア トリス や 潮 音 社 な ど と は 異 質 の 団体 と して そ の 意 義 は 大 き い よ う に思 わ れ ま す 。 す で に触 れ ま した よ う に、 大 正 五 、 六 年 当時 、 新 しい女 の 一 人 と して 注 目 され て いた 時 期 に、 安 成 二 郎 との 会 見 で 「今 で も平 凡 な 女 で す が 」 と語 っ た しげ子 の こ と ば と、 最 終 的 に春 草 会 に行 き着 い た彼 女 の 選 択 に は通 底 す る と こ ろが あ り、 こ こ に も また 〈秀 しげ子 〉 と い う女 性 の ま ぎれ もな い本 質 の ひ とつ が あ る と考 え られ ます 。 ま た、 歌 人 と して の 活 動 以 外 に も、 秀 しげ子 は岩 野 泡 鳴 の 主 催 す る十 日会 の 初 期 か らの 会 員 で あ りま した。 た とえ ば、 大 正 九 年 四 月 の 十 日會 春 季 大 會 で は世 話 人 を 、 また 、 大 正 十 一 年 一・ 月 お よ び十 月 の 十 日會 月 例 會 で は幹 事 を 、 と い っ たふ う に、 彼 女 の 活 動 が 紙 上 に記 され て い ま す 。 彼 女 の著 作 で は、 周 知 の 評 論 「根 本 に触 れ た る描 写 」 の ほか に(注12)、 今 回 の調 査 で 見 出 さ れ た短 文 「日光 にて 」 や 、 雑 誌 『女 の世 界』 が主 催 した歌 留 多 会 の 印象 記 「歌 留 多 會 の 後 に」 な ど も あ ります 。 ま た、 馬 場 孤 蝶 ・若 山牧 水 らが 発 起 人 とな っ た福 永 挽 歌 の 短 篇 集 出版 記 念 会 (大九 ・四 ・十 九)や 、 同 じ く安 成 二 郎 の 出版 記 念 会(大 十 四 ・十 二 ・八)、 お よ び泉 鏡 花 の 全 集 出版 記 念 会(大 十 四 ・三 ・一)な. ど に も列 席 して い ます 。 ちな み に、 この 泉 鏡 花 の 出版 記 念. 会 に は、 芥 川 も出席 して い ま した(注13)。 現 在 ま で に収 集 し得 た 四 〇 〇 首 以 上 の歌 と併 せ 、 こ う した活 動 や 消 息 をみ て い き ます と、秀 しげ 子 の 存在 は、大 正 期 の文 学 世 界 を見 つ め直 す うえ で、 意 外 に重 要 な 入 り口の ひ とつ とな り得 るか も しれ ませ ん 。. 3文. 学 作 品 に 描 か れ た 秀 しげ 子 像. これ まで 、 秀 しげ子 が 公 の 場 に姿 を 現 し始 め た頃 か ら関 東 大 震 災 の 頃 まで を 中心 に、 彼 女 の 歌 人 と して の 足 跡 を 中心 に、 な るべ く客 観 的 な 資 料 を も と に一 個 の 独 立 した 女 性 と して な が め て き ま した。 しか し、 彼 女 が 現 在 まで どの よ う に他 者 の 眼 に映 じ、 語 られ て きた の か 、 そ の 点 に関 す る具 体 的 な 形 を 示 して お りませ ん 。 その 点 につ いて 多 少 述 べ て お き ます と、 断 片 的 な 描 写 も含 めれ ば、 彼 女 に言 及 して い る作 品 や 文 章 は意 外 に多 く、 た とえ ば、周 知 の 岡本 か の子 の 「鶴 は病 み き」(「文 學 界 』 昭和 十 一 ・六) を は じめ、 広 津 和 郎 の 「彼 女 」(「小 説 新 潮 』 昭 和 二 十 五 ・五)、 瀧 井 孝 作 の 「純 潔 」(『改 造 』 昭 和 二 十 六 ・一)、 江 口漢 の 「我 が文 学 半 生 記 」(『新 日本 文 学 』 昭和 二 十 七 ・七 ∼二 十 八 ・四、 新 日本 文 学 社)、 宇 野 浩 二 の 『芥 川 龍 之 介 』(昭 和 二 十 八 ・五 、 文 藝 春 秋 新 社)の. ほか 、 村 松 梢. 風 、 小 島政 二 郎 らに も しげ子 へ の 言 及 が あ ります 。 これ らの 書 き手 は、 ほ とん どが 芥 川 に近 い 知 己 た ちで 、 芥 川 の 周 辺 に お いて 作 家 活 動 を 始 め た人 々で す 。 そ して 、 そ う した 人 々の 描 く表. 88.

(15) わ た く しの 「 研 究」 事 始 め一 平 成23年 度 教 職 教 育 部 内FD報. 告 よ り一. 現 に よ って 「秀 しげ子 」 その 人 の 映 像 が 形 成 され て き た こ と は改 めて 確 認 して お いて よ い と思 い ます 。 ま た、 芥 川 と 同時 代 で は あ りませ ん が 、 比 較 的 近 年 に書 か れ た 「秀 しげ子 像 」 の ひ と つ に松 本 清 張 の 「芥 川 龍 之 介 」(「昭 和 史 発 掘 』 昭 和 四 十 九 ・九 、 文 藝 春 秋)が. あ ります が 、 こ. れ も ま た、 従 来 通 りの 妖 婦 型 の イ メー ジを その ま ま踏 襲 す る もの で しか あ りませ ん 。 いわ ば芥 川 サ イ ドに立 つ 一 方 的 な 〈まな ざ し〉 の 中で 、 秀 しげ子 は固 定 され た イ メー ジを 強 い られ て き た と言 って も よ いの で はな いで し ょうか(注14)。 と こ ろで 、 秀 しげ子 と芥 川 龍 之 介 を 引 き合 わ せ たの は広 津 和 郎 で す 。 そ の 時 の 経 緯 を 広 津 自 身 が 描 い た短 篇 「彼 女 」 の 描 写 が 、 従 来 、 最 も しげ子 の 実 像 に近 い と い う評 価 を 受 けて き ま し た。 同 じ く広 津 の 短 篇 小 説 で 「哀 れ な 女 」 と い う作 品 が あ ります が 、 この 作 中の 女 性 像 に も ま た秀 しげ子 の 陰 影 が 深 く刻 まれ て い る よ う に感 じま した。 この 作 品 は、 芥 川 の 生 前 、 昭 和 二 年 一 月 号 の 『文 章 倶 楽 部 』 に掲 載 され た もの で 、 この 女 性 像 も しげ子 の 姿 を な ぞ った もの と致 し ます と、 広 津 は、 二 十 三 年 間(「 彼 女 」 は 昭和 二 十 五 年 三 月 『小 説 新 潮 』 発 表)、 同 じ一 人 の 女 性 す な わ ち秀 しげ子 に関 す る モ チー フを 反 甥 し続 け、 二 度 も小 説 の 材 料 に した と い う こ と にな りま す。 前 述 の よ う に何 人 もの 作 家 た ちが と り あ げ、 ま た、 ひ と りの作 家 が か くも長 き に わ た って 反 甥 し続 け る モ チー フ と して の 「秀 しげ子 」 と は、 それ 自体 、 魅 力 の あ る陰 影 に富 ん だ 素 材 だ っ た と い う こ との 証 に もな ります 。 に もか か わ らず 、 しげ子 の 〈実 像 〉 や そ の 足 跡 に は 何 の ア プ ロ ー チ もな され て は き ませ ん で した。 そ こ に はや は り、 スキ ャ ン ダ ラ スな 素 材 や 女 性 を あ る先 入 観 の も と に眺 め、 有 名 作 家 芥 川 側 の 言 い分 だ け は信 ず る と い う一 方 的 な 視 線 の 呪 縛 が あ っ た と考 え られ な いで し ょうか 。 二 人 の 出逢 いの 頃 、 芥 川 は しげ子 を 「愁 人 」 と呼 び、 晩 年 にな る と 「狂 人 の 娘 」 や 「復 讐 の 神 」 と表 現 す る こ と にな ります 。 こ う した表 現 の 変 化 は、 男 性 が 自分 に と って 都 合 の 悪 くな っ た女 性 に投 げか けて き た典 型 的 な 言 説 の ひ とつ で あ り、 深 追 いを す る女 性 は しば しば男 性 か ら 狂 気 の 刻 印 を冠 せ られ ます 。 芥 川 の 「生 存 に不 利 を 生 じた」 と され る秀 しげ子 も また 、 そ う し た言 説 にか らめ と られ 、 断 片 的 な 〈噂〉 ば か りが 先 行 す る 〈虚 像 〉 に包 ま れ た女 性 の ひ と り だ っ たの で はな いで し ょうか 。 芥 川 との 関 係 の た め に不 当 に歪 め られ た 秀 しげ子 の 姿 は、 我 々 の まな ざ しに潜 む 無 意 識 の バ イ ア スや 最 も いや ら しい言 説 の 陥 穽(落. と し穴)を 浮 か び上 が ら. せ る格 好 の ケ ー ス ・ス タデ ィ と言 え るの で はな いで し ょうか 。 重 要 な の は、 先 入 観 や 〈噂 〉 を 排 し、 一 個 の 独 立 した人 間 と して の 〈実 像 〉 を まず 直 視 す る 作 業 だ と お もわ れ ます 。 いず れ に しま して も、 芥 川 周 辺 の 同時 代 の 作 家 た ちが きそ って 、 秀 し. 89.

(16) 近畿大学教育論叢. 第24巻 第1号(2012・11). げ子 を文 学 作 品 の 素 材 と した こ と も、 それ だ け作 家 た ち に と って 魅 力 的 な 存 在 で あ った と も い え るの で はな いで し ょうか 。 秀 しげ子 は芥 川 の 文 学 作 品 に も さ ま ざ まな 形 で 潜 在 しな が ら、 そ の 濃 い陰 影 を投 げ掛 け た女 性 で あ っ た と も いえ ます 。 そ う した芥 川 側 の 一 方 的 な まな ざ しの 呪 縛 か ら離 れ て 、 彼 女 の 人 間 像 を 見 つ め直 す 必 要 が あ る と お もわ れ ま した 。. 4お. わ りに. 文 学 文 学 した研 究(つ ま り、③ 新 しい理 論 武 装 を した 〈読 み〉 の提 示 な どが求 め られ る 昨今) が 称 揚 され て 、 〈文 学 〉 テ クス トそ の もの の 内部 に触 れ る こ との少 な か った わ た く しの研 究 は、 ヘ. ヘ. ー 部 か ら 「文 学 研 究 」 で はな い と いわ れ た時 期 も あ りま した。 た とえ ば、 拙 稿 発 表 か ら約 十 年 後 、 高 宮 檀 氏 の 著 書(『 芥 川 龍 之 介 の愛 した 女 性 「薮 の 中」 と 「或 阿 呆 の 一 生 」 に見 る』平 十 九 ・七 、 彩 流 社)に. は、 私 の 秀 しげ子 に対 す る調 査 へ の 批 判 が い さ さか ヒ ス テ リ ック に 口吻 を. 荒 げ るか の よ う に述 べ られ て い ます 。 一 方 で、 平 成 二 十 二 年 一 月 の 川 西 政 明氏 の 著 作(『 新 ・日本 文 壇 史1』 岩 波 書 店)に. も、 秀. しげ子 の 紹 介 者 と して 私 の 名 前 が 掲 げ られ ま した。 お そ ら くは、 川 西 氏 の 最 後 の 大 きな 仕 事 の ひ とつ で あ ろ う著 作 に、 しか も、 この 著 作 に は、 ほ とん ど、 近 代 文 学 研 究 者 の 名 前 が 掲 げ られ て お りませ ん 。 そ う した 中で 私 の 名 が 取 り上 げ られ た栄 に浴 しつ つ も、 決 して そ の 栄 誉 を 述 べ た いわ けで は あ りませ ん 。 秀 しげ子 と い う女 性 を 、 当時 学 会 で 取 り上 げ た際 、 一 定 の 評 価 を 得 つ つ も、 同時 に、 古 めか しい(オ ー ソ ドック スな)伝 記 研 究 な ど何 を い ま さ らと い う空 気 が 漂 って いた の も確 か で す 。 その 学 会 発 表 か ら、 いつ の 間 にか 十 二 、 三 年 と い う短 か らぬ 時 間 が 流 れ 、 本 人 自身 も研 究 か ら遠 の きつ つ あ っ た年 に、 近 畿 大 学 教 職 教 育 部 に勤 め させ て い ただ くと い う僥 倖 に恵 まれ る こ と と な り、 しか も、 そ の 同 じ年 の暮 れ に、 か つ て作 家 伊 藤 整 が 、 『日本 文 壇 史 』 とい う大 著 作 を残 した よ う に、 伊 藤 の 死 後 、 しば ら くは作 家 瀬 沼 茂 樹 が 引 き継 ぎ、 そ して 今 日再 びそ の 続 編 と も い うべ き仕 事 が 再 開 され たの で す 。 そ して 、 川 西 政 明 氏 の 『新 ・日本 文 壇 史 』 と い う著 作 は、 伊 藤 整 の 遺 髪 を 継 ぐ意 味 合 いが 濃 厚 な 、 そ して 、 川 西 政 明 氏 の 年 齢 か ら察 す る に、 お そ ら くは最 後 の ラ イ フ ワー クの ひ とつ と して な るで あ ろ う(現 在 も刊 行 中 で す)大 き な お仕 事 です 。 そ う した お仕 事 に、 近 代 文 学 研 究 者 と して は、 覚 束 な い私 の 仕 事 が 取 り上 げ られ た こ と、 運 命 論 者 と い う ほ ど信 心 深 くもな いの で す が 、 今 後 、 研 究 者 と して 、 も う一 度 、 改 めて 、 一 歩 一 歩 と、 歩 を進 め て い き な さ い とい う無 言 の 励 ま しを い た だ い た よ う な有 り難 さ を 感 じて お り ま. 90.

(17) わ た く しの 「 研 究」 事 始 め一 平 成23年 度 教 職 教 育 部 内FD報. 告 よ り一. す。 最 後 に 、 昨 秋 、 お 亡 くな り に な られ ま し た 谷 沢 栄 一 氏 の 言 葉 を 紹 介 した い と 存 じ ま す 。 一 昨 年(2009年6月). 、 近 畿 大 学 文 芸 学 部 に お き ま して 、 日本 近 代 文 学 会 関 西 支 部 春 季 大 会. を催 しま した。 その 学 会 で 講 演 な らび に シ ン ポ ジ ウ ムが イ トル で 行 わ れ 、 そ の 席 上 に お き ま し て 、 谷 沢 栄 一 氏(と. 「文 学 に お け る 継 承 と 断 絶 」 と い う タ 平 岡 敏 夫 氏)を. 招 き 、 お 二 人 よ り、. 日 本 の 近 代 文 学 研 究 が ど の よ う に 推 移 し、 現 在 、 ど の よ う な 状 況 に あ り、 さ ら に は 、 文 学 研 究 の 将 来 に お け る展 望 を 語 って い ただ き ま した。 そ の 際 、 谷 沢 栄 一 氏 が お っ し ゃ っ た こ と は 、 こ う で す(注15)。. 研 究 と い う も の は 、 あ る 時 点 に お い て 達 成 さ れ る と い う よ う な こ と は あ り得 な い と 思 っ て お り ま す 。 何 か を 追 っ て 、 年 を 重 ね て 、 世 代 を 継 承 して 、 順 番 に バ トン タ ッ チ さ れ 、 受 け 継 が れ て ゆ く も の だ と考 え て お り ま す 。 そ し て 、 私 が 仮 に 研 究 者 で あ る と す る な ら ば 、 そ れ は 長 い 長 い 研 究 史 の な か で 、 つ ま り大 き な 山 脈 の 上 に ち ょ っ と 小 石 を 一 個 の せ る と い うの が 私 の 仕 事 で あ って 、 その 小 石 の 上 に次 の 方 が ま た一 個 小 石 を の せ る、 と い う こ と に よ っ て 、次 第 に 山 脈 が で き あ が っ て ゆ く、 そ う い う こ と が 研 究 の 歴 史 で あ ろ う と思 い ま す 。 新 し い 研 究 も も ち ろ ん 結 構 で は あ り ま す が 、 研 究 と は 継 承 して ゆ く も の で あ り、 同 時 に 今 日 ま で 研 究 段 階 を 運 ん で き た 先 輩 の 仕 事 に 対 し て も、 十 分 理 解 し、 評 価 し、 そ の こ と に よ っ て 自 分 を 鍛 え る 、 そ れ が 研 究 者 の 生 き 方 で あ る と 思 う の で あ り ま す 。 自 分 と して は ど ん な 熱 心 に 一 生 懸 命 や っ た つ も りで あ ろ う と も 、 そ れ が 学 界 と か 世 間 に 評 価 さ れ る の が い か に 難 し い か 、 つ ま り、 な か な か 評 価 さ れ な い も の で あ り、 そ の こ と に 耐 え て ゆ く こ と が 、 研 究 者 の 一 つ の 腹 の 据 え 方 と い う もの で あ ります 。 それ に耐 え る こ とが で きな い、 いつ も 他 人 か ら拍 手 して も らわ な け れ ば 気 が す ま な い と い う よ う な 名 誉 欲 は よ ろ し くな い と 考 え る 次 第 で あ り ま して 、 そ の 一 例 と し ま して 、 私 の 研 究 論 文 が ど う い う ふ う に 評 価 さ れ な か っ た か 、 あ る い は 評 価 さ れ た か に つ い て 、 ち ょ っ と 昔 話 を した い と 思 い ま す 。 私 が 研 究 と して こ れ は 、 と い う テ ー マ を 見 つ け た の は 、 旧 制 中 学 四 年 生 の 時 で あ り ま し た 。 い つ も の 古 本 屋 さ ん で 、 な ん だ か 知 らな い け れ ど 、 ち ょ っ と 心 ひ か れ る 本 を 見 つ け ま し た 。 そ の テ ー マ も そ の 著 者 名 も 全 く知 らな か っ た 。 しか し、 そ れ を 持 っ て 帰 っ て 読 ん で み る と、 文 藝 評 論 と は 、 文 学 研 究 と は な ん と 面 白 い も の か と い う こ と を つ くづ く と思 い 知 っ た の で あ り ま して 、 そ の 本 が 中 野 重 治 の 『齋 藤 茂 吉 ノ オ ト』 で あ り ま した 。. 91.

(18) 近畿大学教育論叢. 第24巻 第1号(2012・11). この ほん との 出会 いが 、 私 が 出発 す る た め に背 中を 押 して くれ た の で す 。 私 は まず 、 中 野 重 治 に も感 心 しま した。 けれ ど も 同時 に、 中野 重 治 に よ って こ こ まで 力 を た めて 、 四 つ 相 撲 の よ う に土 俵 の 真 ん 中で が っ と取 っ組 み 合 って い る、 齋 藤 茂 吉 の 偉 大 さ に打 た れ た の で あ ります 。 中野 重 治 は その 本 の 書 き始 めの と こ ろ に、 「齋 藤 茂 吉 の発 育 史 」、 つ ま り自分 は齋藤 茂 吉 が 齋 藤 茂 吉 と して 自 己を 確 立 す る に至 っ た その プ ロセ スを 究 明 した いの で あ る と書 いて お ります 。 しか し、(私 の独 断 と偏 見 で は あ ります が)あ の 本 に は齋 藤 茂 吉 の い ろ い ろな こ と が 述 べ て あ ります けれ ど も、 齋 藤 茂 吉 の 発 育 史 につ いて はつ い に何 事 も論 じられ て いな い こ と を私 は発 見 い た しま した。 そ こで 、 非 常 に厚 か ま しい こ とで は ご ざ い ます が 、 で は 中 野 重 治 が や ろ う と して や らな か っ た こ とで あ る、 齋 藤 茂 吉 が な ぜ 『赤 光 』 『あ らた ま』 の よ うな 日本 の 短 歌 史 に決 然 と そ びえ る立 派 な もの を 作 り上 げ る に至 った か 、 そ の 茂 吉 の 生 育 史 を私 自身 で や って み よ う、 そ う い う野 心 を 持 っ たの で あ ります 。 齋 藤 茂 吉 の 『赤 光 』 『あ らた ま 』 とい っ た見 事 な短 歌 、 日本 の近 代 詩 歌 史 上 あ れ以 上 の 短 歌 はな い と言 って も い い と思 い ます 。 芥 川 龍 之 介 も、 自分 に詩 歌 の 目を 開 か せ て くれ た の は他 の 誰 で もな い、 齋 藤 茂 吉 で あ る、 と言 って お ります が 、 今 日で も感 服 せ ざ るを 得 な い もの を彼 自身 の な か で ど う い うふ う に築 き上 げて い っ たの か 、 そ れ を テー マ と して 選 ん だつ も りで す 。(中 略)茂 吉 の エ ッセ イ は短 い もの で、ま と ま った こ と は 申 して お りませ ん けれ ど も、 その 短 い文 の ひだ と ひだ の 間 に あ る茂 吉 自身 の こ と ばを 拾 い上 げて い って 、 そ して 、 それ を組 み 立 て て い って 、 茂 吉 の 自 己形 成 史 を 茂 吉 自身 の こ と ば に よ って 語 ら しめ る。 それ を ち ょう ど二 十 歳 の と きで あ りま したが 、「え ん ぴつ 」と い う 同人 雑 誌 に百 五 十 枚 書 き ま した。 そ して 、 の ち に それ を 九 十 枚 く らい に縮 約 して 、 「齋 藤 茂 吉 「作 歌 の態 度 』」 と 題 し(福 田恒 存 の 評 論 集 『作 家 の 態 度 』 を も じ った の で す)、 関 西 大 学 の 「国文 学」 と い う学 術 雑 誌 に載 せ ま した。 昭 和 二 十 八 年 、 私 が 大 学 院 に入 っ た年 で あ ります 。 当 時 、 関 西 大 学 は、 今 と違 い ま して 、 そん な 学 校 ど こ に あ るの か と いわ れ る よ うな と こ ろで した 。 で す か ら、せ っか く私 は載 せ ま した けれ ど も、そ れ につ い て触 れ た人 は全 然 い ませ ん。 ま た、 それ につ いて 引 用 した り評 価 した り した人 も一 人 も い ませ ん 。(中 略)さ て、私 の 茂 吉 論 の 発 表 か ら四十 年 近 く経 ち ま した。 この 四 十 年 間 の 間 に、 私 の この 論 文 につ いて 一 言 一 句 で も触 れ た人 は一 人 も あ りませ ん 。 しか し、 平 成 四 年 、 小 西 甚 一 先 生 が 『日本 文 藝 史. 92. 第五.

(19) わ た く しの 「 研 究」 事 始 め一 平 成23年 度 教 職 教 育 部 内FD報. 告 よ り一. 巻 』 の 中で 、 他 に あ る齋 藤 茂 吉 研 究 は全 部 除 けて 、 初 めて 私 の 齋 藤 茂 吉 の この 論 文 を 引 用 し、 文 献 目録 に記 録 され た の で す 。 こ の論 文 は も ち ろ ん私 の 論 文 集 に入 れ て あ る の で す が 、 それ で はな しに、 ち ゃん と私 の 論 文 を 最 初 に 出 した昭 和 二 十 八 年 の そ の 雑 誌 まで 突 き と めて 、 そ して それ を 引 用 して 、 齋 藤 茂 吉 につ いて の 論 文 と して 評 価 す る と は っ き りと明 記 され て い たの で す 。 うれ しか っ たで す ね え。 『日本 文 藝 史. 第 五 巻 』が届 い て、私 の 論 文. が 引 用 され て 評 価 され て い るの を 見 た時 の うれ しさ と い っ た ら、 これ は今 日 まで の あ ら ゆ る経 験 の な か で 、 最 も うれ しい こ とで あ りま した。 その 間 、 四十 年 の 時 間 が 経 って い ます 。 四 十 年 は長 いで す よ。 しか し、 そ れ に耐 え る こ とが 必 要 で あ る と、 私 は現 在 で も思 って お ります 。 す ぐに反 応 が な くて 、 す ぐに評 価 され な くて も、 論 文 を 書 くの に若 す ぎ る こ と はな いわ けで 、 いか に若 くて も い い、 自分 の 問 題 をつ か ん で 、 論 理 を 構 築 した時 に は、 書 いて お くべ きで あ る。 そ の 時 を 外 した ら、 も う次 に チ ャ ンス はな いん だ と、 私 は皆 さん 方 に 申 し上 げ た い。 そ して 、 頑 張 って くだ さ い。 い か に若 くて も、 当分 は黙 殺 され て 無 視 され て いて も、 いつ か は必 ず 日の 目を 見 る時 は あ り ます 。 世 間 は広 い よ うで 狭 く、 狭 い よ うで 広 く、 い ろん な 人 が い ます 。. 長 い引 用 にな りま したが 、 私 自身 、 当時 、 感 銘 深 い言 葉 と して 、 研 究 の 励 み に して ゆ こ う と 思 って い たの で したが 、 その 二 年 ほ ど後 に、 川 西 氏 の お仕 事 に私 の 名 前 が 刻 まれ た と い う僥 倖 を思 い ます と、 研 究 と い う もの は、 陽 の 目を 見 る こ とが 必 ず と は限 らな い けれ ど も、 研 究 は長 い タ イ ム スパ ンで 考 え な けれ ばな らな い こ とを 改 めて 思 い知 らされ ま した 。 こ こ で、 冒頭 に 申 し上 げ ま した、 浅 野 先 生 の言 葉 を 思 い 起 こ しま す と、 そ れ は、 「足 で 書 い た論 文 は、 必 ず 、 五 年 、 十 年 の 風 雪 に耐 え る はず だ 」、 と。 改 め て 申 し上 げ ます が、 こ う し た谷 沢 氏 や 浅 野 先 生 の言 葉 は、 何 も文 学 研 究 とい う分 野 に 限 っ た こ とで はな く、い ず れ の、 どの 分 野 の 研 究 にお き ま して も、お そ ら く同様 の こ とで あ り、 我 々 は 常 に、 こ う した 姿 勢 で研 究 に臨 ま な けれ ば けれ ば な らな い よ う に 自戒 を 込 め て 思 い ま す。 も う一 度 、 最 後 に、 谷 沢 氏 の言 葉 を読 み上 げ て、 今 回 のFD研. 究 会 の 報 告 に代 え させ て いた. だ き た い と思 い ます 。. つ ま らん と 思 わ れ て い る も の の な か に 、 埋 も れ て い る 。 そ の こ と を 皆 さ ん の 頭 の ど こ か. 93.

参照

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