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『経覚私要鈔』の茶

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『経覚私要紗』の茶

『経覚私要紗』の茶

中 村 修 也

Tea h

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Kyohgaku-shiyohshoh"経 覚 私 要 紗

Shuya Nakamura

1 examined the record in the Muromachi age on the tea. It is

historical materials of Kyohgaku-shiyohshoh W 経党私要紗~. The

result showed that bath and tea party “林間茶湯" were not

being set in the tea between forests. And, the work of which the

Furuichi-family “古市一族" was important was a1so proven in

the culture of the tea of Nara. Especially 古 市 澄 胤 was

important, and the culture of the tea was made to develop by his

cultural property more. In the future, it is necessary to study the

Furuichi-family more well-informed.

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はじめに 茶の湯の歴史については、戦国時代の千利休以降 の研究が主体で、それ以前の研究は数えるほどしか なされていないのが現状である。林屋辰三郎氏の﹃図 録茶道史﹄(一九六二年、淡交新社)や﹃図説茶道大 系 2 茶の文化史﹄(角川書居、一九六二年)に触れ られているほかは、芳賀幸四郎﹃わび茶の研究﹄(一 九 七 八 年 、 淡 交 社 ) 、 村 井 康 彦 氏 の ﹃ 茶 の 文 化 史 ﹄ ( 一 九七九年、岩波書底)、熊倉功夫氏の﹃茶の湯の歴史 千利休まで﹄(一九九

O

年、朝日新聞社)といった茶 の湯通史の項目に取り上げられているにすぎない。 その中で、永島福太郎氏の一連の珠光研究は、室町 末期の茶道史を代表する研究ということができよう。 永島氏の研究は、わぴ茶の創始者としての珠光研 究に主題があり、その関係の中で奈良の土豪である 古市播磨澄胤の検討も行われているが、あくまで﹁わ び茶﹂の研究が中心となっており、一般的な﹁飲茶﹂ への関心は薄い。その中で、古市氏が行った﹁林間 茶湯﹂が民衆的喫茶として取り上げられていること は注目すべきであろう。 本論では、﹁林間茶湯﹂の再検討をすると同時に、 室町末期の奈良の茶の状況を検討したいと考える。 以前に大乗院別当尋尊の日記﹃大乗院寺社雑事記﹄ に描かれた茶を概観したが、今回は同じく大乗院の 別当を務めた安位寺経覚の記録をとりあげたい。経 覚の日記である﹃経覚私要紗﹄と尋尊のそれとを比 較検討することは、室町末期の文化を理解するうえ で非常に興味深いと考えるからである。 ﹃経覚私要紗﹄は応永二十二年(一四一五)十月 一日より筆を起こして、経覚が亡くなる前年の文明 四年(一四七二)までの五十八年間の記事が書き記 されているが、現在、翻刻されているのは寛正五年 十月二十九日までである(続群書類従完成会刊行、 史料纂集、既刊六冊)。本来、本文に当たって全文を 検討すべきであろうが、今回は翻刻されている寛正 五年までの検討にとどめ、後日を期した。 また本論では、特に断らない限り引用史料は﹃経 -174

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覚私要紗﹄(続群書類従完成会刊行)によるものとす る 。 一、経覚と古市家 『結党私要紗』の茶 経覚は応永二年(一三九五)十一月六日に関白九 条経教の男として生まれている。安位寺殿・後五大 院殿とも号した。ここで経覚の来歴について﹁後五 大院殿御伝﹂にしたがって概観してみよう。 経覚は、応永十四年十二月二十九日、十三歳の時 に出家し、大乗院の大僧正孝円の弟子となり、翌十 五年十二月二十四日、東大寺において受戒している。 同十七年三月二十六日には師孝円が入滅し、同年十 一月十六日に経覚が大乗院門跡となっている。同二 十二年少僧都、同二十三年大僧都と昇進し、同三十 三年には興福寺の別当となっている。永享三年(一 四三一)に興福寺別当に再任した時、大僧正に任ぜ ら れ て い る 。 その後、経覚は多くの寺院に入っている。永享十 年八月七日に己心寺に入るが、上意を得ることが出 来ず、五日後の十二日に立野に移り、嘉吉元年(一 四四一)二月十日に尋尊が新門主として大乗院門跡 となるに従い、経覚も同年十月二日に隠居して同月 八日に己心寺に入ることが出来た。ところが同年十 一月十五日には己心寺より禅定院に移り、文安二年 (一四四五)に安位寺に入御して安位寺殿と号するよ うになる。さらに同四年四月十三日には安位寺より 古市の迎福寺に移り、文明五年(一四七三)八月二 十七日に入滅するまで、この迎福寺に住することと な る 。 いささか細かく経覚の履歴を追ったが、注目した いのは文安四年に経覚が古市に住することになった ことである。ここに経覚と古市一族との関係が明確 に読み取れる。﹃大乗院寺社雑事記﹄文明五年九月二 十日条によると、経覚は料所を古市家に預けている。 一、後五大院御料所事、古市在所ニ各可致其沙 汰之曲、諸口井諸座(庄)薗可下知之由、奉行 三人消賢、慶舜、泰弘召之仰付之、定使慶力慶 -173ー (14)

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万定之丁、(後略) これを見てもわかるように、経覚と古市家とは深 い関係にあった。それは経覚の臨終の前後の記事を 見てもわかる。﹃大乗院寺社雑事記﹄文明五年八月二 十六日の記事をみよう。 て予令参安位寺殿、於筑前守(長田家則)在 所、色々古市ヨリ申合之、御葬礼以下御仏事大 儀事、御跡様、九条家門事等也、料所注文等書 之、古市ニ令取納、可進上之由仰了、畏入云々、 則借下等事仰付之、予帰禅定院了、 尋尊が経覚の危篤を聞いて迎福寺に駆けつけた。 そして長田家則邸において、経党入滅後の葬儀や仏 事について古市と相談したわけである。また料所に ついても、先の九月二十日条と対応するように、書 類を取り揃えて古市氏が取り納めるように段取りを つけている。そのような臨終後の諸事について一応 の整理を指示した上で、尋尊は神定院に帰っている。 さらに翌二十七日の記事には次のように明記され て い る 。 て辰初御入滅之由、泰坊・泰弘来申、則午時 内々儀ニテ、己心寺へ恋出申、御板興、御共細々 儀也、上下風情也、古市小衣ニテ一族等悉以召 具参申、其帰ニ此院ニ参申、二千定引違事仰之、 可 進 上 云 々 、 葬礼日次事、相尋幸徳井三位(友重)、廿九日申 時成時云々、申時可然旨古市申入之、御共等事、 可相催之曲、仰泰坊了、安位寺殿御座古市事、 去文安四年四月十三日より、至当年二十七年也、 此間ニ寺務二箇度也、寺務事昨日辞退由、仰公 文目代所々相触之、今日文入滅子細、以書状申 遺権別当方了、悦入云々、 ﹁辰初﹂とあるから、経覚は午前七時ごろに入滅 したようである。尋尊のもとには泰坊・泰弘の二人 が知らせに来た。昼の十二時ごろまでは内密にして、 己心寺に葬儀の板輿や細々した段取りについて申し 伝えた。経覚の入滅を知って古市一族が小衣を着し て総出で見参し、尋尊の院にも立ち寄った。 尋尊が葬儀の日取りなどについて陰陽師の賀茂 -172-(15)

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『献立紅型鯵』の茶 大 東 院 南 築 地 塀 跡 友幸に相談したところ、 二 十九日の申時(午後四時 頃)がよかろうという 。 得噂は、申時に弊悦を行う 旨を古市氏に申し入れて、お供やその他については 泰坊に都備するよう申し付けている。安位寺殿こと 経日比が文安四年より古市に居住するようになって、 今年で 二 十七年目であると 尋 噂は感慨深げに記して い る 。 いかに経党と古市氏の関係が親密なものであ っ たかを物詩る 尋 噂の感慨である 。 経党の日記に古市氏が受場するのは、嘉吉 三年 ( 一 四 四 一 ニ )四月六日である 。 月次述駄の来会衆の 一 人に ﹁ 古市胤仙 ︹ 術郎研 ごの名が見える。その日の 記事に、﹁事終了有抑制口﹂とあるから、述紙会の後で 蹴仰の練習もあ っ たようである 。 古市氏は興縞寺の 衆徒であるから、興 ︺ 仙 寺の別当になっている経党と 関係があってもおかしくはない 。 しかし、当日の顔 ぶれを見る と 、 出 世 十 舟 ・ 災意 ・消祐法眼 ・ 降 府 内 ・ 木山 ・ 町 民 秀 ・ 善 康 懐 弘 ・ 道英 ・ 鼠 剛 山 ・ 倣 全 宮 鶴 教 法 院 消 承 ・ 経覚といった僧侶中心であり 、胤仙は 破

171ー ( 16) 絡の扱い で あ っ た 。

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というのも、その後の表現をみると、﹁兵士︹古 市、但代官一族︺﹂(嘉吉三年四月九日)、﹁兵士古市 依鳥見煩罷出了﹂(同年五月五日)、﹁兵士古市矯磨房 相替五日歴々也﹂(同年五月十日)とあり、胤仙は兵 士として認識されているからである。常識的に考え ると、﹁兵士﹂を文雅の会である﹁連歌会﹂には呼ば な い で あ ろ う 。 しかし胤仙は度々経覚の連歌会に召されている ようである。翌嘉吉四年正月六日の連歌会にも﹁古 市胤仙﹂の名前が見える。また、嘉吉四年正月十四 日 の 記 事 に は 、 て去年没落人等可乱入南都之由結構、東西馳 廻旨古市等亥刻馳申了、仰成身院井観禅院仰遺 了 、 とあり、没落人たちが南都に乱入した際に、胤仙が 経覚のために東奔西走している。おそらく、嘉吉三 年四月に連歌会に呼ばれる以前から、胤仙は経覚と 親しい関係にあり、経覚にその連歌の教養を認めら れるとともに、兵力としての価値も充分に理解され ていたのであろう。 経覚が古市郷の迎福寺に住するようになってか らは、気軽な連歌会も行われたようである。文安五 年十一月二十四日条に﹁在連寄、播州以下十余人、 発句予沙汰了﹂とあり、播州こと古市胤仙とその関 係者十人が、経覚との連歌会を楽しんでいる。同六 年正月二十六日条にも﹁於古市城在連帯云々﹂とあ り、また同年二月七日条には﹁今日三百韻在之、世 俗古市播州沙汰之、済々煩也、申刻事終了、其後有 風目、予入了﹂などとみえる。両者の関係は処々に 見出せるが、連歌会や風呂を楽しんだ様子がいくつ も見出せる。経覚の迎福寺下向以前にも、文安元年 (一四四四)二月十一日条には、 て古市陣へ遺櫨了、日々随分粉骨之故のミな らず、京都・門跡之奉公、兼寺社之忠者也、 とあり、胤仙の忠勤振りが経覚に褒め上げられてい る。事実、古市胤仙は相当な忠勤を励んでいた。﹃経 覚私要紗﹄には、毎日のように古市氏の記事が記さ れている。古市氏は澄胤の時代に、かなりあくどく -170-(17)

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『経覚私要紗』の茶 奈良・南山城内での勢力伸張を図るが、胤仙の時代 は勢力伸張を考慮しつつも、経覚の文化的な面に悲 きつけられている傾向が窺える。 ところで、経覚と尋尊の関係について、従来は尋 尊が経覚を嫌っていたかのように説明されている。 たしかに、﹃大乗院寺社雑事記﹄文明五年九月十五日 条 に は 、 安位寺殿事、自京都御成敗以後予令入室子細条 々井自立野殿御出頭以後、猶以予為大乗院之 由、謹文等論旨同詩文等事、 とあるように、尋尊が経覚との関係を明確に切り離 していることが窺え、そういった面があったことは 否定できない。 しかし、経覚から尋尊への感情には、それほど明 確な嫌悪は感じられない。たとえば、﹃経覚私要紗﹄ 寛正二年(一四六一)四月八日条には、 午刻出禅定院、為湯治也、今日尤錐可為水湯、 昨日令行水之問自今日薬湯引僧正同被入了、 とあり、経覚と尋尊は一緒の薬湯に入っている。嫌 いなもの同志が、いかに湯治のためとはいえ、同じ 湯に入るとは考えがたい。日記は個人的感情もスト レートに書くこともあり、かつ長期にわたるもので あるから、いつまでもひとつの感情に囚われている と考えることは危険である。 ことは薬湯に限らず、普段の風呂に関しても、お 互いに入りあうことがあった。﹁於門跡有風呂、入了﹂ といった記録が散見される。また﹁向禅定院遊了﹂ (﹃経覚私要紗﹄寛正三年正月十五日)ともみえる。 禅定院は尋尊が住している寺院である。文面上は両 者の交流はむしろさかんである。 経覚は食べ物についての関心も深く、日記にもそ の様子が現れている。寛正五年七月七日条には、次 のような記載がある。 て聖護院准后被送状、昨日瓜悦賜之次、江瓜 廿館賜之、名物済々拝領賞翫無比類之曲、献愚 報 了 、 聖護院准后満意から昨日の瓜の礼状と江州瓜が 贈られてきた。その江州瓜に対して、経党は比類な -169ー (18)

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き名物であると言って喜びの返書を認めている。ま た、長禄元年(一四五七)十一月十八日条には、 一、江州納豆五十自三宝院給之、好物之間殊自 愛 之 由 返 答 了 、 とある。江州納豆もまた﹁好物﹂であったようだ。 このように経覚は比較的詳細に食品についての記事 も残してくれている。何が好物かという意識が明確 にある人物は、きちんとした食文化記事を残してく れる。食品記事の少ない尋尊とは、こういった点で は対照的である。 二、林間茶湯の意味 ﹃経覚私要紗﹄には﹁林間﹂という言葉がしばし ば登場する。これまで﹁林間﹂とは﹁淋汗﹂のこと と考えられてきた。﹁淋汗﹂とは仏教用語で夏の風自 のことをさす。いくつかの仏教用語辞典の解説をみ る こ と に し よ う 。 中村元﹃悌教語大辞典﹄(東京書籍、 一 九 七 五 年 ) ︻淋汗︼淋は水でそそぐこと。禅宗において夏の 入浴をいう。行水。 織田得能﹃悌教大辞典﹄(名著普及会、一九八一 年復刊、一九一七年初版) リンカン淋汗﹁雑語﹂禅家に夏月の入浴を淋汗 と云ふ。琳は︻説文︼に﹁以水沃也。﹂蓋し熱時 には常に汗あり、故に毎日入浴して汗を沃くな れ ソ 。 とある。また土井忠生代表編集﹃時代別国語大辞典 室町時代編五﹄(三省堂、二

OO

一 年 ) に は 、 ﹁ 禅 家 で、汗を流す程度の夏の風呂をいう﹂として、諸本 を紹介している。それによると、 ﹁ 淋 汗 ︹ 夏 風 呂 也 ︺ ﹂ ( 下 学 集 ) ﹁淋汗︹夏中風目︺﹂(正宗・天正・易林節用) ﹁淋汗︹夏中風日也、僧家用之也︺﹂(広本節用) ﹁禅家ニ風日ヲリンカント云何ゾ。淋汗ト書ク。 汗淋トテ夏ノ風呂ヲ云也﹂(塩嚢紗七) ﹁禅宗清規何トニモ、冬寒時五日-二度ヅツ入浴 也。夏中日々淋汗ト云ゾ。:・淋汗ハアセヲソ、 -168-(19)

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『経世紅型紗』の茶 jj!元大}f~院 1m面l ク ノ 心 ゾ﹂(湯山聯句抄停) とあって、どの辞書も共通して 、 禅宗における夏風 呂を意味する話として﹁淋汗﹂が説明されている。 そ の 一 方 で 、 ﹁ 林 間 ﹂ は ﹁ 林 の 中 、 を い う 詩 初 ﹂ ( ﹃ 同 代別国語大辞典室町時代編五﹄)と説明されており、 ﹁淋汗﹂と は区別されている 。 ﹃日葡辞書﹄にも ﹁

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岳 ( 林 の 間 ) ﹂ と さ れ て お り 、 ﹁ 淋 汗 ﹂ との共通性はない。しかし 、 ﹃ 経党ね袈紗 ﹄ における ﹁ 林川 ﹂ が夏風呂の意味であることは間逃いない 。 な ぜならば、﹁有林問、当坊上人焼之﹂(宝徳 二 年六月 二十二日) 、 ﹁ 有 林 問 、 山 神 実 焼 之 ﹂ ( 宝 徳 二年七月三 日 ) 等のように、﹁林間 ﹂ は﹁焼之﹂ているからである 。 つまり風呂を炎く行為が﹁林 間 ﹂ にある以上、夏風 呂であることは疑いない。 -16iー (20) ただし、史料を検索する限りでは、五月

1

八月に かけて﹁ 林間﹂が笠場するから 、 夏だけではなく秋 にかけても行われた入浴行為と考えるべきであろう 。 ところで﹁ 林間 ﹂ については、﹁林間茶揚 ﹂ と 凶 字 削 問 茶の湯と結び付けて理解されてきた絞綿 語 に し て 、

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がある。それは永島福太郎氏の次の論考に知実に現 れ て い る 。 経覚のもとには遁世者などの文化人が螺集して いた。これらが一座して娯楽したのである。そ れを盆風流とかね合わせて趣向をこらじたのが 淋汗茶湯だった。古市では林間茶湯といってい るが、文字どおり林間茶湯の風情をこらした。 いわば古市氏が貴族僧侶の経覚の慰安のために 催した遊興だったのである。 永島氏は、古市氏が文明元年(一四六九)五月二 十三日から八月二十六日にかけて十二回も淋汗茶の 湯を催していると指摘する。たしかに五月二十三日 条 に は 、 今日林間初之、召仕者共並古市一族若党相交可 焼之由仰付了、於風目ハ茶湯在之、茶上下二器 [ 一 ハ 宇 治 茶 、 一 ハ 椎 茶 ︺ 、 白 瓜 二 桶 、 山 桃 一 盆 、 又 素 麺 在 之 、 荷 葉 相 副 之 ﹁ 有 黒 塩 ﹂ 、 樟 ﹁ 斗 櫨 五 ﹂ 置之、予入畢、則有一献、上後古市以下一族若 党長井、横井、厳原者共大方百五十人計入云々、 男党悉上テ後、古市女中入了、則自是可入之由 仰 故 也 、 とある。まず経覚が入浴し、その後、茶の湯が催さ れている。お茶には宇治茶と椎茶の二種が使われて いる。菓子として白瓜と桃が出され、軽食には素麺 が供された。味付けとして黒塩が蓮葉に盛られてい た。その後、胤栄や古市家の家来逮百五十人も入浴 し、古市夫人・女中衆も入浴している。翌二十四日 には郷民も入浴の恩恵に預かっている。 同年七月三日条の記事は次のようである。 今日有林問、迎福寺坊主勝観坊井恵光坊・伯書 記・今阿四人焼之云々、折三合・瓜済々、値等、 又有茶湯、文被立花、風呂中荘観見物ナル者也、 この時は、古市家ではなく、迎福寺の僧侶達が林 聞を催している。食事・酒宴・茶の湯が伴い、さら に立花まで行われている。このような状況を見ると、 まさに﹁淋汗茶湯﹂が古市氏を中心に盛んに行われ ていたかのように思われる。 だが、そう簡単に﹁林間﹂と﹁茶の湯﹂をセット -166ー (21)

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『経党私要紗』の茶 にして考えてよいものであろうか。少くとも右の史 料を見る限りにおいては﹁林間茶湯﹂という熟語は 存在しない。そのうえ、林聞が必ずしも酒食や茶の 湯を伴わないからである。ここで表 2 ﹁ ﹃ 経 覚 私 要 紗 ﹄ の茶史料年表﹂をご覧いただきたい。たとえば、康 正三年も六月十一日より七月五日までの二十四日間 で七回の林聞が行われているが、茶会は一度も聞か れていない。長禄二年の場合も同様である。五月四 日から六月十九日までの四十四日間の聞に六回の林 聞が行われているが、やはり茶会は一度もない。 つまり、林聞が行われると必ず茶会が催されるわ けではないのである。言い換えれば、林間と茶の湯 はこれまで考えられてきたようにはセット性はない のである。さらに夏季に行われた風呂がすべて林間 というわけでもない。享徳二年五月二十六日条の記 事 を 見 る と 、 一、在風目、懐舜︹観禅院︺焼之、於風呂以藤 葉素麺等令賞玩了、学侶・方衆等七八人在之、 井玄深・経胤・弊舜来合了、 とある。時期的にも五月という夏に催され、学侶・ 六方衆などの複数の人々で、風呂場で素麺等を食べ ているが、これは林間とは-記されていない。ところ が、康正三年六月二十六日条の記事をみると、 有林問、明教焼之、有蓮葉素麺等、風目先調進 之 、 面 々 賞 翫 了 、 とある。林聞を催したのが同じく僧侶で、複数の ﹁面々﹂が風自場で素麺を食している点も共通してい るが、こちらは﹁有林間﹂と表現されている。この 二つの記事を比較する限りでは、﹁林間﹂と﹁風呂﹂ に違いはないといわざるを得ない。 他方、﹃大乗院寺社雑事記﹄文明十五年五月二十 日条には次のような記事もある。 一、自昨日善勝寺之勧進久世舞於西伝(転)害 初之、六方下知、祇園郷ニ茶屋之カサリ仰付之、 大儀之沙汰也云々、在風呂、合木也、 大乗院においても風呂はしばしば開催されてい る。ここでは砥園郷の荘民に茶屋飾りの費用を負担 させ、同日に風日も沸かせている。茶会が催された F D

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かどうかは確実ではないが、五月という夏季に、茶 屋の飾りつけが行われ、風巴も焚かれているのに、 林間とは記されていない。 克正三年六月十四日条には﹁有風目、入了、林間 也﹂とある。連歌興行や茶の湯などの特別なことを しなくても、風目だけで林聞が成立している。一方、 風自の後に茶の湯を行うのは夏だけではない。たと えば寛正三年正月五日条によると、 一 在 風 日 初 、 ( 中 略 ) 一今夜有茶会、一献予加下知了、素麺以下三献 在之、今夜一矢数不動寺・尊藤・春福各十二種 也、人数廿人在之、 とあり、風日があった夜に茶会が催されている。で は一体、﹁林間﹂とは何なのだろうか。その問題を解 くためのヒントになるのが、﹁林開始之﹂という表現 ではなかろうか。﹁自今日林間在之、播州始之﹂(宝 徳 二 年 六 月 七 日 ) 、 ﹁ 林 開 始 之 ﹂ ( 康 正 三 年 六 月 十 一 日 ) 、 ﹁自今日林開始之、覚朝焼之﹂(長禄二年五月四日) という表現は、林間というものが、 のではなく、何日間か連続して行われることを予想 させる表現である。﹁今日より林間の時期に入りまし た﹂といった意味合いに受け取れるのである。 ようするに林聞が始まったことの具体的な現わ れが風呂だったのであろう。そして風自の後には食 事があったり、酒宴が聞かれたり、連歌会が興行さ れたり、茶会が催されたりと、さまざまな趣向があ ったのではなかろうか。それゆえ、茶の湯を林聞と 直接結びつけ必然性はない。茶の湯もあくまで、入 浴後の一つの趣向でしかなかったのであろう。 また、淋汗の風目は、これまで功徳風呂と考えら れてきたが、経覚の日記を見る限りでは、必ずしも そうとはいえない。経党の風呂に関する表現として、 次のようなものがある。 一日で終わるも -164

(23) 風 呂 功徳風巴 里湯 郷湯(郷風呂)

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郷功徳湯 薬湯(薬風呂) 水湯 石風呂 『純党私要紗』の茶 毛湯 番湯 功徳風目が、寺院が民衆のために行う施浴風呂で あるならば、里(郷)湯・風目は民衆が在地で焚い た風巴であろう。この里(郷)湯・風呂が林間の期 間にも見出せるのである。たとえば、事徳二年は五 月三日に林聞が始まっているが、五月三十日には﹁有 郷風呂、入了﹂という記事がある。康正三年の場合 も、六月十一日に林聞が始まり七月五日までは林間 記事が確認できるが、やはり同年六月三十日に﹁有 郷風目、入了﹂という記事がある。 また古市氏が行った林聞は、少なくとも形式上は 寺院による功徳風呂ではない。民聞が焚いた風自で ある。林間に施浴的な面があることを否定するもの ではないが、﹁有林間﹂という簡潔な記載しかされて いない林聞に関しては、在地の人々が多く入浴した ようには思えない。経覚は、食事や一般の風

E

など についても、事細かに記録している。それゆえ、林 間においても、人々の参加があれば比較的正確に記 録すると考えられる。その記載がない場合は、民衆 の参加もなかったと考えるべきではなかろうか。 もし、そのように考えることが許されるのならば、 広く民衆に聞かれた施浴としての林聞は意外に少な いことがわかる。 次に、当時の茶会のあり方であるが、それを示す 記事として、例えば嘉吉四年正月十七日条があげら れ る 。 -163-(24) 入夜有茶会、其衆予・慶寿・沙弥乗観・良均房・ 英盛・菊寿・宮鶴、一勝賞翫之由令約諾了、慶 寿一勝也、則先良均房可沙汰由申之、点心等沙 汰之、不思寄者也、予沙汰事可為後夜之由申了、 茶会で慶寿が一勝したという。つまり闘茶勝負を しているわけである。さらに明確になるのは文安四 年正月十日条である。

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夜茶興行、若衆等十八人、懸物予出之、弓一張・ 杉原十帖・円鏡一面・髪剃一手・扇也、有少、 盃但面々日中酒宴、事外沈酔之口及大飲而退散 了 、 ヨ 語 と 文 化 第 若衆十八人で闘茶を行ったが、その勝負の景品 (懸物)は経党が出したというのである。経覚が出し た景品は、弓・杉原・円鏡・髪剃・扇であった。彼 らは昼間から酒を飲んでおり、その勢いで夜に賭け 事である茶会を催して、﹁大飲市退散﹂したというわ け で あ る 。 これは室町初期のパサラの茶となんら変わりが ない。規模が縮小しただけである。康正二年正月十 七 日 条 は 、 一、陰陽師従三位友幸直垂来、祝言申之閥、令 対面、檀紙・扇遺了、茶両種[本非]給之、仰賞 翫 之 由 了 、 て於北向四間有茶会、知意賀以下張行云々、 事終有酒宴、及音曲乱舞了、 とあり、陰陽師の友幸が本非二種類の茶を持ってき たので、早速、賞翫することになり、北向き四聞の 部屋で茶会が聞かれることになった。まさに﹃看聞 御記﹄などにみえる闘茶会である。 もし林間茶湯が存在したとして、それが施裕的性 格を持つならば、茶湯も振舞い茶的存在でなければ ならないであろう。ところが、当時の茶会は基本的 に闘茶であった。これにどれほどの民衆が参加でき たであろうか。いささか疑問である。よしんば、林 間の後に茶会があったとしても、それはごく限られ た人々の中で行われたのではなかろうか。 林間と茶の湯は単純に結び付けられるものでは ないかもしれない。 -162ー (25) 三、古市春藤丸胤栄 さて、文明元年の林聞を催したのは、古市胤栄で あるが、彼はどのような人物であろうか。寛正三年 (一四六二)二月二十六日条をみると、 て於古市館有連寄、可来之由申間向了、春藤

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『経党私婆紗』の茶 発句沙汰了、有一献・供御等、 とあり、連歌が古市館で興行され、その発句を春藤 丸が勤めている様子が窺える。春藤丸こと胤栄は、 経党たちを招いて連歌会を開催する風流人であり、 発句を担当することも出来る人物と考えることが出 来る。もちろん連歌会の場所が古市館であるから、 その主人に花を持たせたということもありえようが、 古市氏は父親の胤仙の頃から連歌に親しんでいたか ら、息子の胤栄の実力もさほど低いものでもなかっ たのではなかろうか。 父胤仙の連歌については、嘉吉三年(一四四三) 六 月 六 日 条 に 、 一、月次連寄在之、発句予、頭人清承不下向之 閥 、 予 沙 汰 了 、 い と 早 く 秋 引 か せ の 扇 哉 脇 古 市 胤 仙 と記録されており、経覚の評価に適う読み手であっ たことが確認できる。 ところで経覚や胤栄の連歌について、まことに興 味深い記事がある。寛正三年三月十九日条である。 十九日、甲寅、少雨、 今 日 可 有 連 寄 之 問 、 向 三 宝 院 門 跡 、 予 ︹ 生 少 衣 ︺ ・ 斎尊・経胤・吉阿召具之、連衆未整之問、理准 后 閑 談 、 ( 中 略 ) 、 然 市 於 連 寄 先 始 之 、 発 句 惣 匠 、 庭 そ こ れ 花 さ く 松 の 千 と せ 山 能 阿 准 后 万木の春 雨の日ハかすミのこれる方もなし ここに見える﹁能阿﹂とは、足利義政の同朋衆と して活臨した能阿弥のことである。能阿弥は応永四 年(一三九七)生まれで、文明三年(一四七一)年 に没しているから、この時六十六歳である。実は能 阿弥の記事は、六日前の三月十三日条にもみえる。 ( 有 カ } 一、自三宝院白書状、昨日能阿︹惣匠也︺不来 之間無念問、両三日内可召之由存候、光臨候者 可悦存云々、令在京必可参之由申返事了、昨日 子細ヲハ今朝申了、 昨日の連歌会に能阿弥が出席していなかったの は、まことに残念であるから、二、三日中になんと しても能阿弥を召し寄せようという経覚の感慨が記 予 -161ー (26)

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されている。それというのも、十二日に三宝院にお いて、当代一流の文化人たる一条兼良を迎えての大 連歌会が催されたからである。参加者は、第一に兼 良であり、次いで准后義賢・経覚。武家には小笠原 美乃教長・武田中務大輔賢信・佐竹三入入道・杉原 伊賀守賢盛・姥川周防守親度の五人。それ以外に顕 郷・その息子・惣持坊行助・聖道など計十人がおり、 古市一族の畑経胤も参加していた。 十四日以降も連歌会の記事が続く。次に能阿弥の 記事が書かれるのは、さきほどの三月十九日条であ る。おそらく能阿弥は京中より呼び出されて、十八 日か十九日に醍醐三宝院に到着したのであろう。先 の記事の後に、次のような記載がある。 一、今日連寄惣匠能阿・行助・専順当時地下上 手也、武家小笠原美乃入道宗元・杉原伊賀守賢 盛、其外者不断参来者共也、十人計在之、 経覚の念願かなって、この日は能阿弥が参加して くれた。﹁能阿・行助・専順﹂の三人が、当時の地下 人の中の名人宗匠であると、経覚は評価している。 経覚の連歌の実力は簡単にはかれないが、その造詣 の深さはこのことより相当のものであると理解され る。その経覚から、古市胤仙・胤栄は一応の連歌の 評価を得ていると考えてよかろう。 さて、胤栄が経覚の日記に最初に登場するのは、 文安四年四月十三日条である。 胤仙ニ大刀︹守次︺遺了、畏申入者也、次子息 ︹九歳︺為礼来之閥、食健一︹唐︺・杉原十帖遺 了 、 -160ー (27) ここでは名前は記されていないが、年齢が九歳と 注記されている。ついで同年四月十九日条には﹁子 息小法師丸﹂と名前が記されており、逆算すると、 胤栄は永享元年(一四三九)生まれで、幼名を小法 師丸と称したことがわかる。ところが小法師丸は二 年後の宝徳元年には﹁春藤丸﹂と改名している。少々 長いが宝徳元年(一四四九)六月五日の関連記事を 引 用 す る 。 春 藤 丸 所 労 火 急 之 問 、 珍 事 云 々 、 品 川 重 雄 可 立 願 、 猶無心元之問、予秘蔵之馬︹月毛︺可進神馬之

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『経党私婆紗』の茶 由仰付了、尤錐可付し、遺播州所献神馬可祈春 藤所労之本復之旨仰遺了、撰手長申者也、然及 難義云々、則当坊上人(久光)招請、言語道断 次第也、彼春藤事、年齢雄幼稚︹十一歳︺也、 心操ヲトナシクシテ成長人ニモ抜群者也、此間 又手ナレ了、不便中々無申計、只迷惑之外無他 之処、及五更無相違取直了云々、歓喜無比類、 喜悦太不少、併神馬等献上之故敗、 改名記事は見当たらないが、﹁春藤丸﹂は小法師 丸と同一人物と考えられる。それは春藤丸の年齢が 十一歳と記されているからである。宝徳元年に十一 歳ということはその二年前の文安四年には九歳とな り、先の文安四年四月十三日の記事と符合するから で あ る 。 だが、同年七月七日には﹁御童子小法師丸﹂と記 され、翌宝徳二年四月二十日にも﹁口州息小法師﹂ と記されているので、﹁春藤丸﹂の名前は一時的であ ったかもしれない。ところが、宝徳三年正月二十五 日に﹁春藤︹播州息ごと記されて以降は、﹁春藤丸﹂ が 通 称 と な る 。 考えるに、文安四年四月十三日に小法師丸は﹁所 労﹂を患った。しかもそれは﹁火急﹂の所労であっ た。つまり小法師丸は突然、大病を患ったのである。 そこで改名して本復を願ったのではなかろうか。そ して本復後は、本来の小法師丸で呼ばれるようにな り、それがしばらく続いたが、宝徳三年にあること を契機に再び春藤丸を称するようになったのであろ λ ノ 。 -159ー (28) その契機とは小法師丸の元服ではないかと考え る。なぜなら、この年十一月に春藤丸は経党に﹁参 候﹂しているからである。宝徳三年十一月十六日の こ と で あ る 。 一未刻播州息春藤丸召愚部屋問、則着当色了、 父子少膳用意之、其外来者共能(輿)之畢、両 瓶・一合・腐一持参了、 ( 中 略 ) 一自門跡宛春藤丸少恩給之、自先年執達之事 也、当参候之目、殊祝着之由播州申之、例大刀

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一 腰 口 口 口 口 数 云 々 、 ﹁参候﹂とは﹁貴人のもとへ参上してごきげんを うかがうこと﹂(﹃日本国語大辞典﹄)である。この場 合、興福寺の衆徒として、長老である経覚に正式謁 見することを指すのであろう。門跡尋尊から恩給を 賜っているのもそのことを裏付ける。また、これ以 降、﹁小法師丸﹂が登場しないことも、小法師丸 H 春 藤丸であることを確認させてくれる。 それはともかく、﹁年齢雄幼稚︹十一歳︺也、心 操ヲトナシクシテ成長人ニモ抜群者也﹂と手放しで 経覚は春藤丸を褒めちぎっている。ところが、経党 の考えたように順調にはいかなかった。父胤仙の死 が突然、春藤丸を襲うことになる。 胤仙は享徳二年(一四五三)の年末に病に犯され 病没したため、春藤丸は十五歳で古市本家を継承し なければならなかった。康正二年(一四五六)頃か ら、正式に古市家の主になったようで、経覚への音 物などを行うようになっている。そして同三年七月 二十日に窪城順専の女を妻に迎えている。この時十 九 歳 で あ る 。 また、康正二年正月十五日には﹁古市兄弟﹂が登 場する。兄は春藤丸胤栄であることは確かだが、弟 は不明である。あるいは後の澄胤その人かもしれな い。長禄三年(一四五九)正月一日条には﹁藤寿丸 ︹古市弟ごと記されている。 この後、春藤丸は寛正六年(一四六五)八月二十 八日、出家して胤栄と称するようになるが、その時 には古市一族の主導権は山村武蔵坊胤慶に移ってお り、文正元年(一四六六)七月十三日には両者は衝 突し、胤慶が逐電するという事件も起こっている。 そして文明七年(一四七五)には、胤栄は家督を 弟澄胤に譲ることになる。この理由についてはさら に検討が必要であるが、要は古市一族が乱世を生き ぬくためには、弟澄胤の方が適していると判断され たからであろう。 -158ー (29) また、家督交代後も胤栄は古市西家として澄胤に 協力していることをみても、胤栄が納得したうえで の家督交代であったと考えられる。想像をたくまし

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くすれば、応仁・文明の乱が勃発する以前の年少期 に、経覚という文化人との交わりを深めたことが、 胤栄にとって武力・軍事面よりも文化的な面を強く 育てたと考えることもあながち的外れではないので は な か ろ う か 。 この問題については、弟澄胤の茶の湯との関係で 改めて論じたいと考えている。 『経覚私要紗』の茶 [ 註 ] ( 1 ) 永島氏の研究は、﹃茶道文化論集(上・下)﹄(淡 交社、一九八二年)に収められている。他に永 島﹁珠光の茶の湯と京衆﹂(﹃茶道楽錦 2 茶 の 湯 の 成 立 ﹄ 所 収 、 小 学 館 、 一 九 八 四 年 ) 等 が あ る 。 ( 2 ) 永島福太郎﹁古市播磨と林間茶湯﹂﹃茶道文化論 集 ( 上 ) ﹄ ( 淡 交 社 、 一 九 八 二 年 ) 。 ( 3 ) 中村修也﹁﹃大乗院寺社雑事記﹄にみえる茶史料﹂ (﹃言語と文化﹄一四号掲載、二

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一 年 ) 。 ( 4 ) 室町末期における古市氏の動向については、熱 田公﹁古市澄胤の登場﹂(日本史研究会史料研究 部会編﹃中世日本の歴史像﹄所収、創元社、 九七八年)を参照。 ( 5 ) 永島前掲註 ( 2 ) 論 文 。 ( 6 ) 古市氏の趣向性については、和田義昭﹁中世南 都の郷民と風流﹂(日本史研究会史料研究部会編 ﹃中世日本の歴史像﹄所収、創元社、一九七八年) 参 照 。 ( 7 ) 永島福太郎﹁第七章郷より町へ﹂(奈良市史料 編集審議会編﹃奈良市史通史一一﹄所収、古川 弘文館、一九九四年)に、﹁孟蘭盆に寺院では 功徳風呂を設営した。施浴である。その風呂場 に茶会を持ちこんだのである。淋汗茶湯は闘茶 会をさらに風流化したもの。貴族らの遊興だが、 これを田舎で孟蘭盆の施俗に組み合わせたの は前代未開である。林間風自の文字や趣向は文 化人経覚僧正の発案である。﹂とする。 (8)能阿弥については、山下裕二﹁能阿弥伝の再検 証 ﹂ ( ﹃ 美 術 研 究 ﹄ 一

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八号、一九九一

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