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企業家について : カーズナーの企業家的機能論

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企業家について

 一カーズナーの企業家的機能論一

越  後  和  典

 私はかつて:本誌所収の拙稿〔3〕で主流派経済学の競争概念を批判するとと もに,カ・一一一ズナー(1.M、 Kirzner)に代表される新オーストリア学派の競争論 を紹介し,これを肯定的に評価した。そこで明らかにされたように,カーズナ ー型競争とは,市場参加者が企業家的であることを,そして,企業家的である ということ(企業家的機能=企業家精神が十分発揮されていること)は,利潤 機会に対して機敏であることを意味する。  しかし,このようなカーズナーの競争論に果して問題はないであろうか。企 業家概念や利潤概念の学史的検討や系譜論的研究は,その方面の専門家にゆず るとして,さしあたり,カーズナー型の企業家ないし企業家的機能が,現実の 企業社会の解明にとって,果してレリバントであるかどうかは,検討に値する 問題であるように思う。  私がこのように思うのは,たとえば1960年代末から70年代の半ば頃にかけ て,世界の経済論壇を風靡したガルブレイス(J.K:. Galbraith)著r新しい産 業国家』〔4〕に代表されるような見解を支持する論者が,依然として少くない と考えるからである。彼等は,カーズナー型の競争や企業家的機能を,せいぜ い「事業の古さ,規模ならびにその内容の単純さが資本を支配している個人に        わ 対して権力を賦与している法人企業」にある程度妥当するにすぎないと考え, それを,資本と経営の分離が一般化し,「テクノストラクチュア」(technostru一 1)Galbraith〔4〕訳本(河出書房版114ページ. T B Sブリタニカ版13!ページ。因 みにentrepreneurは河出書房版では企業家, T B Sブリタニカ版では事業家と訳さ れているようであるが,私は前者の訳を採用している。

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 2  彦根論叢 第231号 cture)によって支配されるガルブレイス型の「成熟した法人企業」に適用する        ことは,適切でないと考えるのではなかろうか。  ガルブレイスのいう「成熟した法人企業」で追求される企業目標は,「テク ノストラクチュア」自身の安全であり,そのためには成長こそが望まれる。ガ ルブレイスのいうには,利潤は「テクノストラクチュア」の安全に必要な最低 限をこえるかぎり,成長に次ぐ第二義的なものでしかない。さらに,彼の説に よれば,「テクノストラクチュア」の刺激誘因は,もはや金銭的なそれではな く,組織との一体感(identification)や,組織を自己の目標に合わせうるとい        きう う適合(adaptation)であるという。このような,資本と経営の分離,「テクノ ストラクチュア」支配の文脈において,カーズナー型の企業家的機能や,それ を特徴づける機敏性といった要素は,どのように位置づけられ,評価されるの が適切であろうか。  カーズナー自身も,すでにこの点をある程度意識し,ガルブレイス所説に対        む して自己の主張を弁護すべく論陣を張っているが,私の見るところ,卒直にい って,やや説得力に欠けるうらみがある。本稿では,ガルブレイスによって提 起された問題を,カーズナーの議論の核心部分をなすと推測される思想を拡 大・深化する形で批判的に検討し,競争のもつ現代的意義について考察するこ とを目的としている。 1  企業家(entrepreneur)という語は,周知のようにフランス語のentreprendre を語源とするものであり,これに体系的な説明を与えた最初の人は,リシャー        5) ル・ヵンティヨソ(Richard Cantillon)〔1〕であるとされている。 R F.ヘバ  2) ガルブレイスの「テクノストラクチュア」に関する議論は余りにも有名であるの  で,ここではその解説を省略する。その概念等については〔4〕の第6章,第8章を  参照されたい。  3)Galbraith〔4〕第!3,14,15章を参照されたい。  4) Cf,, Kirzner (11) Chap. 6, pp. 91一一一106.  5)Cf., Schumpeter〔25〕p.555.カンティヨン(1680∼1734)はアイルランド系のパ   りの銀行家で,原著は1755年の刊行である。

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       企業家について  3 一ト(H6bert)とA. N.リンク(Link)の共著〔6〕によれば,カンティヨン の示唆する企業家とは「先見の明をもち,危険を進んで引き受け,利潤(もし くは損失)を生み出すのに必要な行動をとる者,ということになる。この自己 利益を目的とした(かつ大胆な)活動は,それが個々の市場において需給の (一時的)バランスを生み出すべく絶えず機能している価格の動き(すなわち 利潤機会)に反応した企業家の行動である限り,重要な社会的帰結を有してい る。企業家とは市場経済に均衡をもたらすメカニズムであるとする考えは,そ       6) もそもカンティヨソの洞察に富んだ見解から生じたのである。」  私はヘバートおよびリンクとともに,上記のカンティヨンのいう企業家の中 に,現代的な企業家的機能のエッセンスが要約されているとみているが,それ はともかくとして,ここで私が問題にしたいのは,資本家と企業家の本質,そ の機能の相違についてである。資本家が生産資源ないし資金,すなわち物的資 産の所有者であることは改めて説明を要しないが,企業家の概念は利潤概念と ともに必ずしも明確ではなく,主流派経済学の内部でも定説を欠いているよう     わ に思われる。 6)H6bert and Llnk〔6〕訳本28∼29ページ。なお訳者はentrepreneurを企業者と  訳しているが,私はこれを企業家とした。以下.本書の訳本の企業者の個所を私は企  業家として訳出していることをここでことわっておく。 7) いわゆる静学的一般均衡理論では,市場過程よりも均衡の結果に注意が向げられる  から,企業家的活動が論じられる余地はない。しかし競争を過程としてとらえる理論  が,新オーストリア学派以外にも決してないわけではない。ヘバート,リンク(6〕  は,企業家的機能に注目するそのような理論のタイプを,④純然たる不確実性.⑧純  然たる革新,◎不確実性と特殊能力あるいは革新,◎直観力と適合・調整力に分類  し,企業家を論じた学者をその分類の下に整理している。詳細は〔6〕第9章,訳本  181一一194ページを参照されたい。なお,現代経済学で利潤の取扱いがいかに混乱し,  かつ定説を欠くかは,たとえば,近年まで世界で最も標準的な経済学の教科書とみな  されてきたと思われるサムエルソン〔22〕第31章で,利潤の1生格を,①「暗黙的」要  素収益としての性格,②新機軸に対する報酬としての性格,③不確実性を原因とする  という説,④危険負担のための割増し金としての要素,⑤独占収益としての性格,⑥  マルクス的剰余価値としての利潤に分類して,たんにこれらを並列的に叙述するにと  どまっていることからも推察できよう。

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 4 彦根論叢第231号

 とりわけ,ア・ダム・スミス(A.Smith)にはじまるイギリス古典派経済学者 の経済分析においては,企業家の役割はかなり不鮮明であるように思われる。 むしろ,「スミスは,経済の中の多種多様な働勉な人々”の中から,企業家        的な意思決定者を切り離すことに失敗した」という評価が当っているように思 われるのである。彼にとって企業家とは,労働,土地および資本という生産要 素の組織者および管理者以上のものではなく,ひとたびこれらの生産要素が結 合されるならば,ビジネスはそれ自身で自律的に進展するかのような印象を与     う えている。  さらに,リカード(D.Ricardo)とその追随者にあっては,マルクス(K. Marx)と同様,企業家は生産における物的生産手段の所有者たる資本家に呑み       ユの 込まれ,その理論体系から消失してしまっている。  イギリスの経済学者の中に企業家という言葉を普及させたのは,ジョン・ス チュアート・ミル(J.S. Mill)であるといわれている。しかし彼は企業家の 機能を,企業の管理者としての特別の技能(skill)に,危険負担を加えたもの と考えたようであるが,後者の点はとくにシュムペーター(J.Schumpeter)に       コ  よって,きびしく批判されている。  企業家を資本家と区別し,利潤を利子と区別する問題は,マーシャル(A. Marsha11)〔4〕によって若干明確i化されたものの,基本的には,「マ・・一シャル       アンタリ ライタ  はイギリス的文脈の伝統から離れず,企業家(厳密には請負人という用語を        ユ ラ 彼は用いた)を多面的要素をもつ資本家として論じた」と評価されよう。  もっとも,このようなマーシャル評価は,マーシャルの真価を不当に低評価 するものであるかもしれない。マーシャル経済学の中には,企業家の役割につ いて,後の経済学者が論じたような多面的な要素,たとえばリスク負担者とし 8)H6bert and Link〔6〕訳本64ページ。 9) Cf,, Shand (26) p. 77. 10) lbid., p. 78. 11) Cf., Schumpeter (25) p. 556. 12)H6bert and Link〔6〕訳本89ページ。

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      企業家について  5 ての役割,技術革新者としての役割,不均衡を発見し,これを是正することを 通じて市場機構の駆動力として機能するという役割等々が,殆んどすべて包含        エの されている,と評価する池本正純教授の近年の研究は注目に値するが,ここは 学説史を論じるところではないので,詳細は割愛したい。  さて,ここでの問題は,前述したように企業家概念と資本家概念の異同につ いてである。ガルブレイス自身は,企業家を「資本の所有または統御を他の生 産要素を組織する能力に結びつけ,そしてさらに大部分の場合,新機軸導入の       14) 能力にも結びつけた個人」と規定している。すなわちこれによれば,企業家と は多くの場合,技術革新能力を持つ機能資本家(オーナー型経営者)を意味す るごとくである。  現にガルブレイスは,このような企業家の典型を,「ロックフェラー,モル ガソ,デューク,ハリマン,グヅゲンハイム,デュラント,デュポン,クライ         スラー,ハートフォード,ヒルトン」などに見出し,彼等が活躍したのは19世 紀後半から20世紀初頭にかけての企業家的法人企業の全盛時代であって,それ はすでに遠い過去のものとなったと説く。  ところで,ガルブレイスの説く「成熟した法人企業」論の骨子は,次の二つ の主張から成立しているように思われる。第1は,「成熟した法人企業」では, もはや所有者(資本家=株主)が支配せず,「テクノストラクチュア」と称す る技術酌専門家集団が麦配しているという主張であり,第2は,利潤は物的資 産の所有者(資本家)に帰属するという主張である。この二つの主張の統合か ら,現代の「成熱した法人企業」では,利潤がインセソティヴとしての力を失 いつつあるという結論が出てくるのである。  しかし,第1の主張は事実認識の点で問題があり,現に批判的異論も提起さ 13)池本正純〔8〕を参照。なお本書は出色の力作であり,私は本書を『経済セミナ  一』No.355(昭和59年8月号)および専修大学社会科学研究所『社会科学年報』第19  号(1985年)で書評しているので,興味のある読者は一読されたい。 !4)Galbraith〔4〕訳本河出書房刊90∼91ページ, T B Sブリタニカ版98∼99ページ。 15)同上,河出書房版!10ページ,TBSブリタニカ版127ページ。

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 6  彦根論叢 第231号    16) れている。ガルブレイス自身も,経営陣が株主=資本家の期待に反し会社に不 利益をもたらすなど,営利企業の経営者として不適格であることが判明した場 合,株主=資本家がこれを放置するものでないことを認めている。経営陣ない し「テクノストストラクチュア」支配といっても,それが安全に行われうるの は,会社が株主を満足させうる水準の利益=配当を実現しうる限りにおいてで ある。もちろん,その範囲がどの程度であるかは,かなり曖昧ではあるが,無       17) 条件で「テクノストラクチュア」支配を認めているわけではない。  しかしこの第1の主張については,実態分析を必要とするのでここではこれ を取上げないことにし,専ら問題を第2の主張にしぼって,カーズナーの議論 と対比しつつその適否を判断したい。        皿          カーズナーによるミーゼス(LMises)解釈の示すところによれば,ミーゼ スは利潤を資産の所有と結びつける立場を否定し,それは,資産の所有者が, その所有者たる資格において獲得しうるものでなく,純粋に企業家的機能(企 業家精神,entrepreneurship)を発揮した人間が入手するものと考える。また 企業家的機能を発揮するのに,物的資産をあらかじめ所有すること,即ち資本        19) 家であることを必要としないという。  事実,ミーーゼスは「利潤が生まれるのは,製品の将来価格を,他の人々より も正確に推定する企業家が,その製品を生産するのに必要とされる生産要素の すべてまたはその若干を,製品市場の将来の状態についての判断からすれば,       20) 余りにも低すぎると思われる価格で購入するからである」といっている。  この叙述は,利潤は異なる市場における価格間の調整の欠如から発生すると いう裁定利潤説(arbitrage theory of profit,鞘取り利潤説)の立場を示すもの 16) Cf., Peterson (18). 17)Galbraith〔4〕河出書房刊102ページ, 18) Cf., Kirzner (10) pp. 84一一一87. 19) C£, Kirzner (11) pp. 94一一95. 20) Mises (17) p. 109. TBSブリタニカ版115ページ参照。

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       企業家について  7 であるが,この点は後に再び論及するとして,ここでは企業家たるには,みず から物的資産の所有者であることを要しない,という考えが示唆されている点 に注目したい。  たとえば,将来の財市場における価格と,その要素市場における現在価格の 差を察知し,これを利用すれば,市場利子率をこえる差額を入手しうることを 発見した者(自称企業家,would−be entrepreneur)が,要素の購入とその結合 に必要とされる資金に対して,十分に魅力的な利子支払いを資金提供者(資本 家)に約束することによって資金提供者を説得し,みずからは無資産であるに もかかわらずその資金を使用する場合がこれに該当する。彼はこのような企業 家的判断によって,利潤を獲得しようと試みるのである。  もっとも,企業家が物的資産の先行的所有を必要とせずに利潤を入手しうる ことは,彼が同時に物的資産の先行的所有者であることを何等妨げるものでは ない。現実的にはむしろ,このケースの方が多いかもしれない。すなわち,資 産所有者=資本家が企業家的に行為することによって利潤を入手する場合がそ れである。カーズナーによれば,このようなケースは,企業家たる彼がその必 要とする物的資産を彼自身から現行の市場価格で購入または借入したものと見        ヨ 傲:せばよいという。  もちろん,企業家が生産要素を購入すれば,彼はその時点でその要素(物的 資産)の所有者となるから,彼が利潤を生む価格でその製品を販売するとき, 彼がその利潤を入手しえたのは所有者としてであるかにみえる。しかし,よく 考えてみれば,利潤を生む原因となったのは,彼が利潤機会に対して機敏に対 処すべく企業家的決定を行ったからであり,その企業家的決定は,彼が販売し たその財ないしその財の生産要素の所有者でなかった時点でなされたのであ る。従って,その企業家的決定は物的資産の所有老たる役割とは無関係であ る,といえよう。  この議論では,資本家はその所有する資産が,一定の期間にわたり経済過程 21) Cf, Kirzner (11) pp, 95一一96.

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 8  彦根論叢 第231号 で使用されることを承認するいわば見返えりとして,企業家から契約上の利子 支払を受ける者であり,企業家は契約上の利子支払を行って余りある収益を上 げうるような資産ないし資源の使用に関し,資本家の知らない方法を知り,機 敏にその知識を活用する者である,といってよい。  自由に処分可能な生産的資源ないし資金を企業家的意思決定に先行して所有 することなしには資本家でありえないことは,労働能力を持たない者が労働者 でありえないことと同様であるが,企業家にとっての本質的要素,その必須の 条件は,物的資産の先行的所有ではなく,利潤機会に対して機敏に対応するこ    き   とである。  およそ以上に要約したような趣旨の議論によって,カーズナーはその師ミー ゼスの議論を発展させ,企業家と資本家を明確に区別するのであるが,ここで とくに注意すべきことは,カーズナーのいう叙上の企業家とは,すでに行論の うちに察知されるように,あくまで分析上の範疇(analytical categorie)であ        23) るという点である。カーズナー型の企業家の現実世界の対応物は,決して特定 化された形で存在するわけではない。企業家的機能を遂行する者が企業家であ るが,それは,現実には資本家であっても,非資本家であってもさしっかえな いわけである。だから現実の法人企業の支配者が非資本家的経営者ないし「テ クノストラクチェア」であることは,彼等が企業家的であることをいささかも 妨げるものではない。利潤を資本家ではなく企業家の入手するものであると考 えるならば,利潤は非資本家的経営者の目標とはなりえないというガルブレイ ス説は,その根拠を失うことになる。  ところで,:企業家たるには資本家たることを必要としないが,資本家は企業 的であることを必要とするのではなかろうか。この点に関し,ミーゼスのいう には,「企業家という言葉は,……あらゆる行為に固有な不確実性の側面から        ヨの とらえられた活動的人間……を意味している」。従って,規則正しく循環する 22) lbid., pp. 96−97. 23) lbid., p. 97. 24) Mises (16) p. 254.

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       :企業家について  9 変化のない経済では企業家は存在しないが,変化しつつある経済への参加者,       のそこにおけるすべての行為者は常に企業家となるというのである。  この論旨からすれば,生産要素の所有者がその資産を貸付ける場合の決定 は,借手にその返済契約を遂行しない可能性が存在する限り,企業家的なもの である,ということになる。ヘバート及びリンクも,将来の不確実性の影響を 受けないような生産要素の所有者は存在しないから,地主も企業家であり,労 働者も賃金が不確実な市場活動によって決定される限り,企業家である,と述 26)      27) べ,ミーゼス説の核心部分を正しく紹介している。  このことは,ミーゼスがリスクを負担する者を企業家と考えていることを示 すものでもある。つまり,利潤機会に対して機敏性を発揮するという特質以外 に,ミーゼスの場合には,不確実性の下で意思決定をし,そのリスクを負担す るという新しい要素が,企業家的機能に追加されていると見ることができよ う。逆にいえば,カーズナーは,このミーゼス的企業家からリスク負担の要素 を捨象し,利潤機会に対する市場参加者の機敏性という点を強調したものと理 解することができよう。  しかし,このことは,カーズナー型の企業家を余りにも狭い範囲におし込め る結果になったとも思われる。現にヘバートおよびリンクは,次のように述べ ている。「ローレンス・ホワイト(L.H. White)〔27〕,ロバート・ヘバート (RF. H6bert)〔7〕,そしてマレー■ロスバード(M. N. Rothbard)〔21〕 は,一連の未公判の論文において,機敏なだけの鞘取り業者を企業家とみるこ との欠点を指摘した。カーズナーの定式化に見られる大きな困難は,それが鞘 取り機能と不確実性負担とを区別していない点にある。……カーズナーは企業 家活動を鞘取り業的な活動に限定することによって,不確実性を無視し,危険 を否定するのであるから,カーズナー理論では企業家利得が説明されるのみ        で,企業家の損失は説明することができない」,と。これは核心を衝いた批判 25) Ibid., p.253. 26)H6bert and Link〔6〕訳本158ページ参照。 27)Cf., Mlses〔!6〕pp.253∼254. 28)H6bert and Link〔6〕訳本164ページ。なおwhiteについては,〔28〕が参考になる。

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10 彦根論叢第231号 というべきではなかろうか。 皿  ところで,利潤機会に対して機敏i生を発揮するところに企業家の本領がある と考えるカーズナーの立場から見れば, 「成熟した法人企業」の現実の支配者 である「テクノストラクチュア」の刺激誘因は金銭的なものではなく,企業目 標との一体感とか,企業目標をある程度自己の目標と合致させることが期待で きることを意味する適合といった要素である,というガルブレイスの主張は, どのように評価されるであろうか。  筆者がカーズナー的な立場から考察した結論を先にいえば,それは次のよう に要約されうる。高度の科学技術を駆使して行われる経済活動の現代的形態を 前提する限り,企業が利潤機会に対し機敏性を発揮するには,企業の内部組織 を構成する従業員が,どこに組織上の弛緩があり,どこに技術上の階路がある か,それを解決するにはどの方法を採用するのが適切であるか,といった諸点 について,鋭い問題意識を持って主体的に取組むことが要求される。そして, そのように従業員の士気を鼓舞し,そのような取組みを行わしめるのに効果的 と考えられる刺激誘因は,おそらくガルブレイスのいうように,金銭的なもの の比重よりも,一体感とか適合といった要素の方が高いかもしれない。企業が 利潤機会に対して機敏に対応することと,経営者を含む従業員を動機づける誘 因が必ずしも金銭的なものであるとはいえないという主張は,次元の異なる問 題についての主張であって,十分に両立しうると思われる。  とはいえ,このような議論が成立するには,企業を組織体としてとらえる視 点が必要となることは論をまたないが,カーズナーにはその視点が欠落してい るように思われる。  ミーゼスやカーズナー型の裁定利潤説は,低い価格で購入できる市場で買っ たものを,高い価格で売ることの可能な市場で売って,利鞘をかせぐという原 始的な形態でのワンマン・ビジネスの商業活動にその典型を見出すことができ るが,複雑な内部組織を抱えた現代的大企業の企業家的活動を,このような単

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       企業家について  11 純なモデルで説明しつくすには無理があろう。  ただカーズナーを好意的に解釈するならば,売買取引の過程で利鞘を稼ぎう る余地があることを発見し,それを実現しようと試みることは,市場参加者の 問に存在する調整の欠如を機敏に察知し,これを取り除こうとすることであっ         て,人間は一般に不安(uneasiness)を除去しようとして行為するものである, というミーゼスの人間行為に関する一般的な仮説に包摂しうるものであるとい える。つまり人間は,自己にとってプラスになることをなしうる機会に注目す るということが,事柄の本質なのであって,利鞘稼ぎはその一つの典型的な事 例にすぎないと理解することができよう。  そして,機敏性を発揮することによって不安を除去しようとする人間の動機 は様々であって,金銭的利益必ずしもその主たるものとはいえず,それは名 声,権力,威信の向上を求めるものであっても,組織に対する献身であっても       30)よく,極端な場合には利他主義的なものであってもさしっかえないであろう。  私企業が利益を追求する組織体であるという事実は,今も昔も不変であろ う。もちろんこのことは,企業がその公表する企業理念なり行動目標に,消費 者へのサービスの徹底とか,地域社会への奉仕等を掲げることといささかも矛 盾しない。企業がいかに消費者にサービスしたかは,長期的には企業の利潤率 や成長率の高さに反映されるからである。企業がどのような目標を掲げよう と,それがより合理的で適切な利潤追求の方法と矛盾しない限り,営利企業と しての本質に背馳するものではありえない。  組織を形成しているのは,異なる目的・動機をもつ個々の人間である。大切 なことは,そうした組織の構成員に,いわゆる「やる気」を起させ,その知識 を動員し,その持てる力を活用して,他企業に先んじて,よりすぐれた製品, 製法,販売方法,企業組織等を開発・採用することである。  現代の主導産業ともいうべき知識集約型の,高度の科学技術に基礎をおく産 業においては,それに従事する構成員の教育水準は高く,その価値観は多様化 29) Cf., Mises (16) p. 240. 30) Cf., Shand (26) pp. 91一一92.

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 12 彦根論叢 第231号 している。たんなる金銭的動機が,彼等の行為の動機づけとなることは,かな り限られた範囲でしか起りえないであろう。そこでは,ガルブレイスのいう一 体感,適合といいった要素が重要な役割を果すと思われるが,そのことと,企 業が利潤を追求する組織体であることとは別に矛盾するものではない。企業家 的機能の発揮とは,カーズナーにあっては繰りかえし述べるように,利鞘の追 求であるが,このことを全く文字通りに解釈するならば,カーズナーの視野は 余りにも狭墜であるといわねばならない。  池本正純教授が鋭く指摘しているように,「ヵーズナーにおいては利潤機会 は,インプットとアウトプットとの直接的媒介の中で価格差として発見される ……B寸描ズナーにはインプットとアウトプットとの仲介者としての企業者 機能の認識はあるものの,その媒介項が実際には組織(多様な生産資源の集合 体)の形態をとっているという認識,また組織であるが故に,企業内資源の能        力が独自性をもちながら進化するという認識がない。」  企業を組織としてとらえるならば,シュルツ(T.Schultz)(23⊃の指摘する ように,カーズナーめ議論も「均衡化のプロセス,とりわけそのプロセスが市 場化されていない活動へと進展する際に,そうしたプロセスをもたらす人々に        きの 生じる報酬をとらえそこなっている」という批判をまぬがれえないであろう。  シュルツは企業家機能を「不均衡に対処する能力」と規定し,「その概念を 市場活動についてはもとより,非市場活動(たとえば家計の意思決定,時間の          ヨの 配分)にまで拡張した」。このことは,企業の内部組織の在り方や,企業に働 く人々の能力を高める教育の効果等が,その企業が企業家的機能を発揮する上 で,きわめて重要な意義を有することを示唆するものである。 カーズナーの企業家論ないし企業家的機能論には,以上で述べたように企業 31) 池本(8〕231∼232ページ。 32)H6bert and Link〔6〕訳本174ページ。 33)同上175ページ。

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       企業家について  13 を組織としてとらえ,企業家的機能を企業組織のさまざまな要素との関連で解 明するという視点にかけている。これはカーズナー理論の欠陥を示すものであ るが,この反面,資本家と企業家とを概念的に区別し,利潤の性格に関して もユニークな見解を提示したことの意義は,やはり高い評価に値するように思 う。  カーズナーの企業家論のすぐれている点は,彼自身が強調してやまないよう に,企業家を所与の目的一手段のフレーム・ワークにおいて,エコノマイズ (economize)する者,極大化(maximize)する者,たんにコンピューターに 代替されるような正確な計算者としての役割を果す者ではないことを明確にし た点であろう。ロビソズ卿(Lord Robbins)〔19〕セこ代表される新古典派経済 学における意思決定者(いわゆるロビンズ的エコノマイザー)と異なり,ミー ゼス』カーズナー型の企業家の特徴は,たんに計算能力を有するだけではな く,変化する状況を的確に「読む」能力,すなわち目的一手段のフレーム・ワ        一クそのものの妥当性を見きわめる能力を賦与されていることである。  このような企業家概念によって,カーズナーが解明しようとした最も重要な 命題は,以下の二つに要約できるように思う。第1は,企業家こそが市場経済 を動かす駆動力であるということであり,第2は,市場経済のみが企業家を生 み出すということである。  第1の命題に関しては,次のような事例によって,その意義を明らかにする ことができよう。周知のように,近代産業において新企業を創設するには,産 業・業種にもよるが,一般に資本の調達は容易でなく,このことが参入障壁と なり,とくに創業に多額の資金を要する産業での競争が阻害されるといった主       あう 張がなされるが,カーズナーは企業家と資本家との区別によって,利潤機会に 対して機敏に行為する企業家が存在し,かつ資本が独占されていないかぎり, 企業家自身の資本不足は,競争の阻害要因となりえないことを明らかにした。  もっとも,どのようにすぐれたアイディアを有する者であっても,無名かっ 34) Cf., Kirzner (10) pp. 32一一一36. 35) Cf., Mason (15) p. 348.

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 14 彦根論叢第231号 無資力の自称企業家(would−be entrepreneur)に対して,資本家が容易に資金 を提供するとは限らないであろう。資本家が自称企業家のもつ企業家的判断と 人間的誠実性に関し,信頼するに足るとする認識をうるには費用がかかると考 えるべきである。しかし,この点に関しカーズナーのいうには,そのような費 用は,どのような経済体制の下においても発生する一種の社会的費用である。 社会主義体制の下でも,計画当局は社会資本の運営を委任する人物について, その適格性や誠実性を確認する問題に直面するに相違ないからである。  問題は,そのような社会的費用を考慮に入れても,なお有利であるような, すぐれたアイディアの持主たる自称企業家に対して,資金の提供者が存在しな い可能性がある場合である。このケースでは,無名・無資力の自称企業家が, たとえ有利な利潤機会を発見したとしても,その産業に参入できず,事実上, その産業での競争は阻害されることにならざるをえない。  カーズナーは,このケースについて,それは資本家の側における企業家的錯        ラ 誤が存在するからである,と説明する。ミーゼスは,「資本家は常に企業家で         ラ あり投機者である」といったが,もし資本家側に錯誤があれば,上記のような 事態も発生するであろう。しかしこの錯誤はそれが錯誤である限り,資本家側 の企業家的競争の結果,いずれは修正され,無名・無資力の自称企業家のプロ ジェクトの適格性と彼の人間的誠実性が正当に認められることになろう,とカ          一ズナーはいう。  この場合に決定的な重要性を有するのが,資本家間の企業家的競争であるこ とは論をまたない。そこで問われるのは,自称企業家を社会の稀少で価値ある 資本の運用に関し,どの程度信用しうるに足るかを洞察し,そこに利潤機会の :有無を発見するとともに,その機会に対して機敏に対応する資本家の企業家的      ラ 役割である。 36) Cf., Kirzner (11) pp. 99−103. 37) Cf., Mises (16) pp. 253一一一254. 38) Cf., Kirzner (11) ibid. 39)近年注目されているベンチャー・キャピタリストは,まさにこのような役割を遂行  している。

(15)

       企業家について  15  このような視点からカーズナーは,ガルブレイス的な「成熟した法人企業」 における経営陣ないし「テクノストラクチュア」支配に対して,概略次のよう な注目すべき評価を下している。  ガルブレイス的法人企業では,経営陣に独立と自由裁量を許しているが,こ れは,企業家的能力を有する人材に,資本を借入させるかわりに(資本の借入 には前述したように社会的費用がかかる),彼等を企業の執行部に登用するこ とによって,資金源泉に接近することを容易にする巧妙で計画されざる手段に ほかならない。資本家は公式的な所有権を留保し,経営の拙劣な企業からはそ の持分を引上げたり,不適格な経営者を追放することも可能であるが,満足の いく経営がなされている限り,そこに介入する必要はない。このことによっ て,非資本家的経営陣に一定の範囲内での自由裁量を認めることは,彼等を企 業家として行為せしめ,そのアイディアを実現することを容易ならしめるので あって,これは資本主義の驚嘆に値する制度的柔軟性を示すものであるといっ   40) てよい。  カーズナーの以上の認識は,上述の第2の命題,すなわち市場経済のみが企 業家を生むという認識と結びつく。その理由は,もし資本が国家に独占されて いるのであれば,資本家間の企業家的競争は存在しえないからである。どの経 営者が真に企業家的であるかを識別することに,みずからの存在を賭けようと する資本家の企業家的競争が,資本所有の国家独占の下においては,全く存在       41) しえないことは論をまたない。そこでは,いわゆる「親方日の丸」式の経営が まかり通り,資源の浪費が不可避的に発生するであろう。資本家概念と企業家 概念を分析上明瞭に区別することの効果が,ここに見事に現われていると評し て過言ではあるまい。  同様な効果は,ミーゼス=ヵーズナー的な利潤概念についてもこれを認めう る。  率直にいって,ミーゼス;カーズナー的な裁定利潤説は,他の利潤説に比べ 40) Cf., Kirzner (11) pp. 104一一105. 4!) Cf,, ibid., pp. 105一一一106.

(16)

 16 彦根論叢第231号 てかなり特異なものであって,これを文字通りに厳格に解釈し,現実に適用す る場合には,かなりの無理が生じるように思われる。とくに企業家を企業の内 部組織との関連でとらえていない弱点が,そこに露呈されることは避け難い。 私は利潤を企業家的成功の指標と見る方が適切であるように思う。  ミ一士ス,カーズナーを中心とする新オーストリア学派の一般的な含意で は,利潤は生産要素(労働土地,資本)に対する報酬でも,たんなる余剰で もない。新古典派経済学の均衡論的モデルでは,利潤は均衡の達成ともに消失 する。このモデルにおける利潤の性格は,おそらくは要素報酬か余剰かのいず      をの れかであろう。しかし,カーズナー的見解では利潤は不断に存在し,企業家的 機敏性をスパークすると同時に,企業家的機敏性によって市場における調整の 欠如を改善することに成功した指標としての意義をもつように思われる。利潤 を要素報酬か余剰かのいずれかの範躊にはめ込もうとする試みは,市場と企業 の役割についての認識不足の産物ということになる。  裁定利潤説のよって来るところを考察し,ミーゼス=カーズナーの真意と思 われるものを推測すれば,大略以上のように要約することが許されよう。

V

 ヵーズナーの企業家論ないし企業家的機能論には,批判されるべき問題点 や,深化・拡大されるべき残された問題領域が少くないように思われる。すで にいくつかの批判論も存在するが,その中には無理解にもとつくものと,建設 的なものとが混在している。         ’  無理解にもとつくと思われる批判論の代表的なものには,たとえば,新古典 派経済学の立場をとると推察される論者の次のような批判がある。「カーズナ ーのいう裁定(利鞘とり)に従事する企業家が正しい価格(right price)を設定       う するに十分な知覚を有するという保証は何もない」。いうまでもな:く,“right 42) Cf., Shand (26) p. 85. 43)Cf., CassQn〔2〕p.380.なおCassonによるオーストリア学派の企業家論批判は,  たんに上記の点にとどまらず,①その主観主議が予測的理論を不可能にしていること

(17)

       企業家について  17 price”とか“wrong price”といった概念自体が,カーズナーのような主観主 義的価値観を前提すれば無意味である。批判者のいう“right price”なるものが 客観的に測定可能とは思われないからである。  しかし,次のような批判はかなり正鵠を射ているように思う。「シュムペー ターと同様にカーズナーも利潤見込みを企業家高機能の刺激要因と考えるが, 利潤の源泉はシュムペーターにあっては革新(innovation)であり,カーズナ ーにあっては利鞘とり(arbitrage)であって,後者の企業家の特徴は,みずか ら変化を惹き起す存在ではなく,変化が発生したことを認識してそれに反応す      る う る存在である」。「カーズナーモデルの一つの限界は,企業家的機能はそれ自身 の成功によって消滅するということである。もちろん,カーズナーは新しい機 会が市場の基礎的データーにおける変化によって継続的に創造されると説く。 しかし,彼のモデルはそのような変化を生む何のインセンチィヴも提供しな 45) い」。  たしかに,カーズナーめ描く企業家は市場の変化とともに発生する利潤機会 に機敏に反応する存在ではあるが,変化の起動力となる存在ではない。もちろ ん,個々の市場参加者が企業家的機敏性を発揮することによって,結果的には 市場は変化し,新しい状況が生まれるのであって,間接的には変化を惹起する 存在であると弁護することもできるが,少くとも,シュンペーターの企業家の 如く,積極的・能動的に変化を惹起する主体でないことはたしかである。  この批判は,カーズナーが企業を組織体としてとらえていないとする前述の 池本教授の批判とも関連する。カーズナーは企業家的機能を論じるが,企業そ のものについての検討を欠き,その内部組織の分析は十分になされていない。 これは拡充・深化されるべき問題領域を将来に残すものといえよう。  ヵーズナーの企業家論に対する批判は,同じ新オーストリア学派の陣営内で  や統計的集計量における予測可能性の認識に失敗したこと等を指摘している。その反  批判としては,Shand〔26〕pp.90・一91.が簡潔で要を得ている。 44) Loasby (13) p. 242. 45) lbid. pp, 243−244.

(18)

 18 彦根論叢 第231号 もなされている。おそらく,ロスバードの批判がその代表的なものであろう。 前述したようにリスク負担を企業家的機能の一つとして重視するロスバード は,カーズナー的な無所有の企業家ではリスクを負うことができないとし,企       るの業家は資本家と一体のものとして把握されるべきであると考える。  もっとも,このロスバードの批判には,前述したシュルツ的人間資本論の立 場から,若干の異論が提起される可能性があるように思われる。けだし,カー ズナ一型企業家は,物的資産については無所有であり,この意味では資本家で はないが,人的資本の所有者であることは当然前提されねばならないからであ る。彼は人的資本の所有者として,当然リスクを負っているといえなくもな い。しかしこのような主張を展開するためには,やはり企業を,池本教授のよ うに,「物的資本を危険にさらす資本家と,人的資本として自らの資質の存在       47) 価値を賭ける経営者との二つの類型の主体によって担われる」組織体,として とらえる視点が必要であろう。  単一ズナー自身は,新オーストリア学派の陣営内での批判を顧慮してか,最       るの 近では従来の所説に若干の補正を施しつつあるようであるが,その詳細は割愛 する。  最後に残された問題は,企業がその企業家的機能を遺憾なく発揮するのに必 要かつ十分な:条件は何か,という点である。かつて私は,新オーストリア学派 の一人組あるアルメンターノー(D.T. Armentano)カミ強調するように,政府 によって妨害されないという意味での自由な市場を実現・維持することが,そ        の必要にしてかつ十分な条件であると述べたが,この見解は企業家的機能の検 討を行った現在では,やや性急な結論,もしくは若干の注釈を要する意見とい 46) たとえば,Rothberd〔20〕p.463日目いては, Capitalist−entrepreneurとして,  すなわち資本家と企業家は一体のものとして取扱われている。なお,彼のこの立場は  Kirzner〔10〕に対する書評(Journa1 of Economic Literature, Vol.12, No.3. Sept・  ember 1974, pp.902一一903.)においても鮮明に表現されている。 47) 池本〔8〕255ページ。 48) Cf., Kirzner ed. (12) Chap. 12 and Chap. 13, and (9). 49)拙稿〔3〕参照。

(19)

       企業家について  19 うべきであるかもしれない。  第1に,企業を一つの組織体として考察するならば,企業が企業家的機敏性 を発揮するには,たんに経営者のみならず従業員がそれぞれの部署において, 積極的に未開発の機会を発見する努力に協力せねばならない。それには然るべ きインセソティヴが必要であることはいうまでもない。経営者の報酬の在り方 や従業員の給与水準を含む労働条件,労使関係,職場環境,雇用や昇進の制度 とその運用等々,企業組織内部の諸条件について検討すべき問題は少くないで あろう。  第2に,企業をとりまく文化的・社会的・経済的・政治的諸条件を考慮に入 れる必要があろう。とりわけ,それらは,企業家的能力を酒養し,その能力を 有する人材を企業社会に送りこみ,その能力を十分に発揮させるのに適したも のであることが必要であるように思われる。  かつてトーニー(R.H. Tawney)〔29〕がプロテスタンティズムの発展の中 に近代資本主義興隆の決定的要因を看取したことからも推察されるように,宗 教を含む社会的・文化的な環境,社会諸階層の社会的流動性の程度,知識人・教 育者の営利企業ないし利潤追求に対する偏見の有無等は,特に重要であろう。  この点に関し,かつてハイエク(F.A. Hayek)は,「偉大なる企業家の思考 の鋳型そのものは,もし彼等の天賦の才を発展させた環境がなかったならば,       らの 存在しなかったであろう」といっている。因みに,ハイエクは,無制限の民主        ろ  主義(unlimited democracy)を企業の精神(sprit of enterprise)の興隆と維 持にとって致命的であると見ているようである。けだし,大衆(住民の過半数 を占める)は,競争の発生を好まず,既存企業の関係者は競争による滅亡を恐 れるからである。 50) Hayek (5) p. 76. 51)Hayekのいう「無制限の民主主義」とは,統治する多数派が,その多数派を麦持  するすべての者の不満の源を取除くことによってのみ,自己を維持しうるような,全  能かつ全権を有する単一の民主主義的議会をもつ場合をいう。Hayek〔5〕p138,参  照。

(20)

 20 彦根論叢第231号  企業家的機能と政治的・制度的環境との関連については,セルデソ(Arthur       らヨ  Selden)の指摘も興味深い。彼は企業家的機敏性に寄与しうる性質はこれを育 成または抑圧することができるとし,東西両ドイツ,南北両朝鮮,台湾と中国 本土等,民族は同一でも制度的環境の相違する諸国での企業家的機敏i生の相違 に着目している。  ヘバートとリンクの次の指摘も注目に値する。「経済的動因として,企業者 (家)を活動へと駆り立てる誘因は,利潤獲得の機会である。しかし利潤の獲 得は,企業者(家)の活動にとって必要条件ではあるが十分条件ではない。企 業者(家)には,合法的に獲得した企業者(家)利潤を自分のものにできると いうことが,正当に保証されていなければならない。かくして,市場経済にお ける以下のような制度的慣行は,高水準の企業者(家)的活動を促進する傾向 をもとう。それは,(1)企業者(家)に対して平等な機会を認める,自由で開か れた経済,(2)合法的に獲得した財産の所有権の保証,そして,(3)以上の(1)と(2)       53) を確立する制度的慣行の安定性,といったことである」。筆者はこれを妥当な 見解と考える。  とはいえ,企業家的機敏性に影響を及ぼす要因についての情報は不足してい る。われわれは,企業家的機敏性を,通常の稀少資源に対するように,供給曲 線の形でえがくことが可能であるとは思わないが,これに影響を及ぼす要因を さらに深く研究する必要があることを痛感する。けだしそれらこそが,市場経 済の効率性を保障する競争を左右する要因と考えられるからである。ただ,す でに別稿で批判したように,産業組織論でいう市場構造がそのような要因であ るとは思われない。       引用文献および参照文献 (1) Cantillon, Richard, Essai sur la nature du commerce en ge’ne’ral, edited with  an English translation and other material by Henry Higgs, C. B.戸田正雄訳『商  比論』日本評論社,昭和18年。 52) Cf., IEA (9) ‘tPreface” pp. xi一一xii. 53)Heb6rt and Link〔6〕訳本pp.19一一20なお引用文中(家)は越後が挿入した。

(21)

      企業家について  21 (2) Casson, Mark., The Entrepreneur: An Economic Theory, 1982. 〔3〕越後和典「競争の概念」『彦根論叢』第2!8号,昭和58年1月。 〔4〕Galbraith, J..K., The New lndustrial State,1967.都留:重.人血.訳r新しい産業国.    家』河出書房版,昭和43年;TBSブリタニカ版,昭和55年。 〔5〕 Hayek, R A, Lazv, Legi’slation and Liberty, Vol.3:The Political Orderげa    Free PeoPle, 1979. (6)Heb6rt, R.. F. and Link, A. N., The Entrepreneur,1982.池本正純,宮本光晴訳    『企業者論の系譜』ホルト・サンダース,昭和59年。 (7) Heb6rt, R. F. “was Richard Cantillon an Austrian Economist?” Pmper Presented    at the .T.iberty Fztnd SymPosium on Richard Cantillon, /980. 〔8) 池本正純『企業者とは何か:経済学における企業者像』有斐閣選書,昭和59年。 〔g〕 Institute of Economic Affairs, Prime MoverげProgress;IEA,1980. (10) Kirzner, 1・ M,, Competition and EntrePreneurshiP 1973. (1!) 一, PercePtion, OpPortunity, ancl Profit, !979. (12) 一ed., Method, Process, and Austrian Economics: Essay tn Honor of Ludwzg    von Mises, 1982. 〔13〕 Loasby, B.」.,“The Entrepreneur in Economic Theory,’”Scottish J伽㍑αZげ    Pogitical EconomJ,, Vol. 29, No. 3, November 1982, 〔14〕Marshall, A., Principles of Economics,9th ed.1961,馬場啓之助訳「経済学原理    工」皿IV』東洋経済新報社,昭和42年。 (15) Mason, E, S, Economic Concentration and the iMonopoly Problem, 1967. (16) Mises, L. von,, Human Actton: A Treatise on Economtcs, 1949. (!7) 一, Planning for Freedom, 1952, !962. (18) Peterson, S. “Corporate Control and Capitalism,” Quarterly Journal of Eeono−    mics, 79, February 1965. (19) Robbins, L., An Essavv on the Nature and Significance of Economic Science,    !962.中山伊知郎監修,辻六兵衛訳『経済学の本質と意、義』東洋経済新報社,昭和32    年。 (20) Rothbard, M. N., Man, Economy, an, d State: A Treatise on Economic Principles,    1962. (21) 一, “Professor Hebert on Entrepreneurship,” Pmper Prese?zted at the Cantillon    Tricentennial Conference, Liberty Fund and the lnsiitute for Human Studies,    1980. 〔22〕Samuelson, p. A., Economics,11th ed.,1980,都留重人訳『経済学』岩波書店,昭    和56年。

(22)

 22 彦根論叢 第231号 (23) Schultz, T. W., “The Value of the Ability to Deal with Disequilibria,” Joarnag    of Economic Literature, Vol. 13, 1975. (24) 一, “lnvestment in Entrepreneurial Ability,” Scandinavian Journal of Econ−    omics Vol. 82, 1980. ⊂25〕Schumpeter, J. A., History ofEconomic Analysis,1954.東畑精一訳『経済分析の    歴史』岩波書店,昭和30年。 (26) Shand, A. H., The CaPitalist Alternative: An lntroduction to Neo−Austrian    Economics, 1984. (27) White, L. H,, “Entrepreneurship, lmagination and the Question of Equilibration,”    ManmscriPt, 1976. (28) 一, Methodology of Austrian School, 1977. 〔29〕Tawney, R. H., Religion and the Rise of CaPitalism,1938,出口勇蔵・越智武臣    訳『宗数と資本主義の興隆』岩波文庫,全2冊,昭和31年一一34年。

参照

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