〈翻 訳〉
T.グラタン著「ワーズワース,ドe・・一・・ラ,コウル
リッジのベルギー一とドイツの旅」(1828)(1)
原
田
俊
孝
Wordsworthと彼の娘DQra,そしてColeridgeの三人は,1828年6月21日から8月7 日までの約50日間,ベルギー,ドイツ,オランダを旅した。この時の彼らの様子はThom− as C. Grattanの旅行記とJulian C, Youngの日記によってその一部を知ることができ る。ここに取り上げたGrattanの旅行記はわずか三日間の記録にすぎないが,ライン川 下りの直前まで彼らと行を共にした様子が詳細に描かれている。 もともと,WordsworthとColeridgeがはじめて一緒に旅したのは!798年のドイツ旅 行,次に1803年のスコットランド旅行だが,そのどちらも途中で別れた。しかし今回は終 始行動を共にし,最後まで愉快な旅を楽しんでいる。帰国後,Coleridgeは「精神的にも 肉体的にも生気を取り戻した」とDaniel Stuartに述べている(10月14日)。一方Words− worthも「こんな愉快な仲間と再訪することは大きな喜びであった」とSir Walter Scott に書ぎ送っている(8月28日)。両詩人は昔日の気まずさを忘れ,再び若き日の友躊を取 り戻して旅したが,すでにWordsworthは58才, Coleridgeは56才の老境にあった(ただ し,Doraは23才)。 この旅行記については,わが国では外国の研究老が参考文献として引用したものを一部 紹介している程度で,原書から引用されたことはこれまでなかった。従って,この拙訳は 両詩人を知る貴重な資料となろう。 なお,固有名詞は初出のみ()で原名を記した(ただし脚注は除く)。底本にはThom・ as Colley Grattan, Beaten Patlts; And Those Who Trod Them (London: Chapman and Hall,1862),2vols.を使った(第4章の翻訳である)。 1828年6月25日,その頃私はブリュッセル(Brussels)に住んでいたのだが,近所のメ188 イヤー一 ■プライス・ゴードン(Major Pryce Gordon)から私に,今晩コウルリッジ(Cole・ ridge)とワーズワース(Wordsworth)の二人の詩人に会いに来ませんか,この二人はミ ューズ川(the Meuse)やライン川(the Rhine)へ旅している時,偶然知り合ったので すが,というメモをもらった。私は約束の時間きっかりに訪ねたが,詩人たちは私より先 に応接間に来ており,しかもワーズワース氏の娘もいた。 誰でもふと誰か有名人を思い浮かべる,ほとんど似ていないが。私はコウルリッジの彫 像を以前見たことがあるが,それは実物とはまるで違っていた,太陽の光線のあたり具合 によってはごくありふれたことであるが。しかし写真はへつらいや妥協のない真実を語っ ていた。 私はワーズワースの顔かたちを心眼に描いてみたが,実際には見たことがなかった。彼 については,肖像画家か彫刻家が彼の同僚である詩人に関っていたのに比べて幸福でない と思っていた。コウルリッジを顔つきはうぬぼれ強く,陰気で,独断的だと想像してい ヘロイツクカプレツト た。というのも,そのように肖像画が表わしていたからだ一英雄二行連句の詩人が英雄 的態度を想像させるといった具合で,それに会話も相手を圧倒するのではないかと想像し ていた。彼の雄弁さについていろいろと聞いていたし,リー・ハント(Leigh Hunt)氏の書 i) いた本の中で彼の「並はずれた大ぎな額」のことを読んだことがあった。全く彼は大男に 見え,話は強圧的だと心に描いていた。しかしコウルリッジはそのどちらでもなかった。 彼の身長は約163・cmで,ふっくらとゆったりした風貌であるが,実際には太っていない。 彼は黒い服を着,短いズボンをはき,膝の所をボタンで締め,黒い絹の長靴下をはいてい た。このいでたちで(彼は1798年にはじめて海を渡って旅をした時に着ていたと言ってい るのと同じ服装で),彼は乗合馬車でも遊覧船でも動き回った。それは彼の最初の職業で ある巡回牧師を思わせるものであった。彼の顔はとてもハンサムで,その表情は穏やかで 情深かった。口は特に好ましく,大きくも突き出してもいない灰色の目は知的な柔らかさ に満ちていた。豊かな髪は真っ白だった。額や頬にはしわはなく,またその頬は健康そう で血色がよかった。とにかく私はほとんどの人が彼を名士と見るだろうと思った。 1) リー・ハントは「回想」の中で,クライスト ホスピタル校の厳格な校長ボイヤーはコウルリ ッジを「センシブル フール」 (賢い馬鹿者)と呼び,彼の名前を長短短調でコーウルリッジと 発音した,と述べている。コウルリッジはr文学評伝』第一章で老校長の教えと教育方法にかな ケルピム りの敬意を表わしているが,彼の死を聞いた時,「天国へ彼を連れて行った智天使たちは顔と翼 が残っていたのは幸運だよ。征だったらその途中で天使たちをむち打ったことだろうよ」と言っ 牝9
リッジのベルギーとドイツの旅」 (!828) (1) 189 ワーズワースについては.彼の詩を読んだがまだ一度も彼に会ったことのない人たちが 想像するのとは,もしかすると,かなり違っていたかもしれない。彼はコウルリッジと全 く正反対で,背が高く,やせていて,厳しい目鼻立ちで,無格好で,品のない顔つきだっ た。彼は無雑作に長い茶色の外套を着,縞の木綿のズボンをはき,コールテンのゲートル を巻き,厚手の靴をはいていた。彼は「湖畔詩人」というより田舎の百姓といった感じだ った。彼の全体の風貌は洗練されておらず,人を引き付けるようなものでもなかった。 こういつた点が,私だけでなく明らかにみんなが受け’た第一印象であった。しかし後で 観察したり,ちょっと考えてみると,ワーズワースの欠点だと思われた数々のものが,実 は彼の長所でもあると思われてならなかった。気どったり,うぬぼれたりするところは全 くなく,また何かを見せびらかそうとしたり,喜んで譲歩しようとする人々に対して優越 感を示したりすることも全くなかった。彼は友人で旅の道連れでもある人の意のままにな って満足しているようであり,そして文学的名声では彼よりもはるかに劣った人にはほと んど見られぬうぬぼれのない態度であった。一方,彼の娘に対する態度にはつつましやか なやさしさがあった。 数人の紳士の一団がいた。コウルリッジは彼の回りの人たちと誰かれとなく大いに話し た。彼は目的のために話すのでなくJ本当に話好きで話しているように見えた。彼は話す ことに生き甲斐を感じているように思えた。ワーズワースはたまには流暢だったが,いつ もは平凡だった。批評をよくしたが観察はあまりしなかった。その見解に関する限り,風 景のことを話したが,精神的美との連想に入らなかった。彼は確かに口数が少なかった。 しかし実際には話し相手がなかった。彼には聞き手がほとんどいなかったので,心の中に いやけがさしたのでないかと思われるのは,コウルリッジのすばらしい魅力とは感にさわ るほどの対照に主によったのであろう。彼の言葉は穏やかでよどみない流暢さで,その途 中にあるものをすべてゆっくり運ぶ広い,深い小川のようではあるが,渦巻きへ引き込み, つかまえるすべてのものを吸い込む渦巻きのようではなかった。彼が話すほとんどすべて は,大変な雄弁さと正確さをもった講義の題目になった。例えば,基本原理とその体系に関 する彼の批評。化学や色彩の説明がここでごく自然にでて彼を導くが,色,プリズム効 果,光の理論の性質に関して完結した,やや複雑とも言うべき論文に突然なるようなこと は決してなかった。彼はゲーテ(Goethe)の学説とか色彩論を確かによく知っていた,ま た私も彼の聞き手も誰でも何気なく聞く程度であったがSアリストテレス(Aristotle) の論文のイタリア語訳を多分よく知っていたのであろう。というのは,ゲーテが反発して
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書いたニュートン(Newton)の理論に触れた時,(光を閉ざした扇にたとえて,すべての 色を混ぜると白になる等々と言いながら)彼はその理論を「自然科学のお荷物」だと言っ た。それから,彼の主要なテーマからそれ,自然の基本原理と色彩との間の類似を探ろう とした。そのすべてはどうみても分かりやすいものではなかったが,彼は大変興味深い 2) ものにした。しかし,その独創性に関して評価する資格は私にはない。このすべてが即興 か,大変入念な準備も全くなしに表現されたとは信じ難い。思想や言葉が次々に決まり交 句のように出てきた。また想像力説においては,彼のすべての論文に見られるように, カント的超越主義と神秘性が強くにじみ出ていた。 しかし,コウルリッジが触れたいろんな話題について,彼は記憶されなければならない と言った。忠実なボズウェル(Boswell)だったら,記録の豊富な材料を見い出したであ ろう。彼の批評を少し抜き書きしてみよう。彼はオレンジ王子(the Prince of Orange)の ディオニソス集めたルーペンス(RubenS)の「いのしし狩り」の絵について,「これは完全なる酒神 賛歌の絵だ一それぞれの部分がそれぞれの美を表わしている」と言った。 「私は旅行中に時々ひなびた風景を見るのが好きだ」と言った。「こんな光景は旅を一 層すばらしくする」 彼が非常によく知っているドイツ語の話になると, 〔ヴァージルの〕『農耕詩』のドイ ツ語訳を読むと,単語を発音しなくても原書を読んでいると信じることができると言っ て,その豊かさと実力を証明した。シラー(Schiller)について,「彼は『バレンシュタィ ン』の中で彼の才能をいかんなく発揮した。それより前の作品は荒削りで,それより後の 作品は堅苦しすぎた。彼は道徳美に対して深い感受性をもった人なので,6つの大史劇を 書くべきであった」と言った。フレデリック・シュレーゲル(Frederick Schlegel)は,(つ いでに言うと.全くのだて男だと言った)『バレンシュタイン』の彼の翻訳は原書よりも 良かった,とコウルリッジにすでに告げていたことを述べた。「もしそうだとすれば」と コウルリッジは言った。「ほとんど各行から一語を削除したからである。私は音節を省け るところはすべて省いた,それに不用なものをできうる限り取り除いた」こういう過程 の中に,良い作品の大いなる秘訣があるという私自身の意見をここに付け加えておきた 2)その時私がメモした次の言葉はその理論の一端である。「基本原理の第一部の同一は赤色に, リ コ ロ コ コ 第二部の命題は青色に,第三部の論題は黄色に,第四部の対照法は緑色に,第五部の綜合は全く 別の緑色にそれぞれ類似する。黒檀のようなつやのある黒色は堅固さを最もよく示すが,つやの ない黒色は洞窟の入口のように,あいまいさを示す。それは同時に色の最高と最底となる。赤色 と黒色は絵画では常に混ざり,黒色は常に堅実さを示す場合に使われる。リッジのベルギーとドイツの旅」 (1828)(1) 191 い。しかし作者は自作にそれを十分目実行することはほとんどできない。それは血肉を切 り刻むようなものだからだ。 エゴテイ その夜,コウルリッジが言ったほとんどすべての話に深い哲学がにじみ出て 自己中 ズム 心癖のみられる言葉でも一全体を説明してはじめて分かる特徴であった。要約すれば, 静かな調子よい流暢さですらすら出る,彼の享楽的で怠けたような話しぶりが私に与えた 印象は,今まで聞いたうちでずば抜けて一番相手を:喜ばせる話し家だが,一番力強い話し 家であるという訳では決してなかった。彼は説得力のある上手な言葉使いによってそばの 人をどんどん導いたが,議論を強烈に推し進めて人を引っ張って行こうとは決してしなか った。バーネット司教(Bishop Burnet)がウィリアム・ペソ(William Penn)について 語った時,「彼は愛想をつかしただろうが,人間の理性に打ち勝とうとしない退屈な,甘っ たるいやり方をした」と言った。しかし,コウルリッジの話はただ多少眠けを誘うが,絶 対に飽きがこなかった。情報や柔和な思想に富んだ彼の会話のほとばしり出るような美し い調べで眠りにつくことは喜ばしいことだと思った。しかし,あまりに夢のようで,あま りに実体のないものだったので,彼が言ったことを詳しく調べようという気にはなれなか った。確かに論理はあったが,雲に包まれていた。だから,すべてのものを至極当然と思 った。というのも,とても魅惑的な色や形をしていたから,それは確信を抱かせるように 思えた。 私は,ミューズ川のふもとに滞在中のその一行に合流しようとすぐに決めた。というの も,その方面へ数日の旅をしたいと前々から思っていたからだ。その夜このことをよく考 えて,翌日一行に追いつこうと決めた。そして,私はバァーターロー(Waterloo)の村で 一行に追いついた(私はこの記念すべぎあたりをよく知っていた),そしてナミュー(Na− mur)へと一緒に向かった。彼らは朝の駅馬車でブリュッセルを立っていたが,私は数時 間後,心付き一頭立て二輪馬車で後を追った。その一行の一員となりきるためにその馬車 をブリュッセルに帰した。 バァーターローとカートゥルブラ(Quatrebras)で,ワーズワースは戦場すなわち石碑 や将校たち(ブルンズウイック公the・Duke・of・Brunswick,ピクトンPicton,ポソゾンビ ーPonsonby等)が倒れた跡を飽くなき好奇心で念入りに調べた。一方,コゥルリッジは 記念すべき場所であっても,そこにいくらかでも自然美がない限り,自分の興味をかき立 てるほどの記念すべき場所とは丁々言えない,と私に言った。彼はこの点が欠点だと言っ た。私もその通りだと思った。また大いなる功績のあった記念すべき場所で精神的興趣を
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詩的心に非常に豊かに連想せしめるように思われる,このような人に不可思議を感じた。 コウルリッジは田園風景に明らかな喜びを示した。私たちが通りかかった時,畑で干し草 を作っている人々にうっとり見とれていた。柄の方を地面に置き,熊手を持って立ってい る小さな少女たちは「幼ない聖女のように見えた」と彼は言った。頭にバラの花輪をかざ し,道端を行くほこりまみれの6人の子供たちを見て,彼は有頂点になった。彼は「それ ヴインヨン は申し分のない幻視だよ」とつぶやいた。批評家か風刺家がそれを「たわごと」だとか, とても恥ずべぎ形容だと呼んで,こういつたすべてを冷やかすことは容易だろう。そうい ったあらゆる小さな出来事か平凡な風景をちらっと見ても同じ効果を生み出した。しかし その中には気取りもロソドソなまりも全くなかった。それは明らかに自然との深い共感に 刺激されたものだった。それはごく自然に流れ そしてとても気持よくおさまった。 ナミ=一で私たちはすばらしい満月の中を歩いた。狭い道を抜け,サーンブル川(the Sambre)の橋,それからミューズ川の橋へと行った。ワーズワースは娘の面倒をみて いたが,私たちを先導しながら,会う人ごとに道を尋ねて駆け回った。一方,コウルリッ ジは私の腕によりかかって歩ぎ,思想や感情に全く放心したようになり,右へ行こうが左 へ行こうがおかまいなしだった。しかし月光や影のもたらす効果をちらっと見ては感心 したり,彼自身の心の中から湧き出る豊かな源を易い出した。彼はいろんなテーマについ て話しながら過ごした。ついに私たちが桟橋に通じる薄暗い道から出て来ると,広い川, 丘の高い峰,たくさんの森が眼前に突然ばっと輝いた。 コウルリヅジは自分の周囲の美しさに対する喜びを静かに表わしながら,川の方へと進 んで行った。ワーズワースはす速く進んで来て,私たちに対するよりも自分自身に語りか けるように,大声で言った。「ああ,あそこに橋がある1 いくつアーチがあるか調べよ う一一っ,二つ,三つ,四つ...」と,ついに彼は全部数えた,石工のような正確さと 厳しさで。 みずも 水面に映る橋の影は,それぞれの開いているアーチに小川にはっきりした陰影をなして いた。水路の一つ一つを真ん丸くさせたので,とても大きな,澄んだ月が連なっているよ うに,また,たまたま私が気付いたのだが,その実体のない姿を暗示して「非常にたくさ んの月の幻影」のように見えた。この表現がコウルリッジに気に入った。「とても上手だ」 と彼は前に進みながら言った。「これはすばらしい観察だ それが詩だ。え一と,え一 と」 それから彼は立ち止まったが,私が再び加わると,私の腕をつかんで,低い声で暗唱すリッジのベルギーとドイツの旅」 (1828)(1) 193 .るように,彼は二,三度詩を繰り返し,ついに語った。彼が言った数行の詩を私は彼に思 い出させた。それがいまだ公表されていない詩の一部となった。彼は私の求めに応じてそ の詩を繰り返してくれたJそして私はそのばらばらな文をできるだけうまくとらえると, すぐ後にそれを次のように鉛筆で書き留めた。 一しばしば私は彼がさまようのを見た 彼の手にジギタリスの鈴をのせ一 そして雑草の中に茂る その強い草を時々彼は耳もとにやる すると,それは微妙な音楽を奏で そよ風の幻影のように 薄暗い世界の巾でか細い声で歌う この暗唱が続いている間,ワーズワースは自分の娘を橋の欄干のそばへ連れて行ってい た。しかし私たちはみんな1司時に立ち止まり,川の向こうから聞こえてくる女1生の実に楽 しそうな歌声を聞いた。茶色のリンネルの日よけを付けた遊覧馬車がすぐにやって来て, ゆっくりと橋を横切った。その町のブルジョワである数名の着飾った若い女性が乗ってい た。田舎へ行くか,ピクニヅクの帰りであることに間違いなかった。私たちの聞いた限 り,彼女らはややドイツ調で歌い,とても上手だった。それはその風景や時刻にぴったり 調和していた。バスかバリトンの助けがあったらもっと良かったであろうが,その必要も なかった。もし少し後から歩いて来るように思われた若者たちが,その恋人と一緒にその 馬車に乗っていたとしたら,別の調和が私たちをとても楽しませてくれたあの「.甘い響 き」を妨げたことであろう。 私たちはしばらく何も話さずについて行った,いつものようにワーズワースが先頭だっ た。コウルリッジはその歌声が聞こえなくなるとJ再び詩とその原理に関する彼の詩の一 節を歌いはじめた。私の感じでは,それが韻律をうまく止めたので,彼の耳にもう達しな くなった後もしばらくの間私の耳に届いた。 彼が私にほんのちょっとしかかじっていないドイツ語を勉強するように強く勧めたのは この旅の聞であった。彼は文法を編集したが出版は決してしないと言い,また10ページの 中に頭のよい人にはほとんど役立たないものまで含んでいるとも言った。これは彼のお気
194 に入りの話題である基本原理へと導いた。そのテーマに関する会話のすべてが,その体 系,その構成,その価値についての概論となった。その後しばしば私は彼が言及したその 小論交が欲しかった。というのは,それがあったらコウルリッジの忠告に従い,私がネッ カール川(the Neckar)の土手やスリァーバッハ(Slierbach)の森の中で,更に一層や さしい,優れたガイドで,その恐るべきドイツ語の困難さへとまさに歩みはじめた時,そ れが大いに役立ったであろうから。 私たちが再びその古い町の中心に戻ったのは11時だった。ワーズワースは突然私たちの 所へやって来て,全く月並みな質問をもち,とても平凡な方法で,翌朝ディナーン(Dinant) へ行く乗り物について聞いてみませんかと言った。コウルリッジは,彼の心の中では心地 よい調べがまだ続いていたが,彼はワーズワースの娘をホテルにエスコートしている間 (私はこのようなガイドで彼女の無事な到着を祈っていた),ワーズワースと私自身は非 常に型通りに交渉に行った。彼は受付から受付へと時間,距離,特に値段について根気よ く尋ね回った。ついに彼は乗り合い馬車で行くことを全くあきらめ,私たちだけで幌付き 軽装馬車を借りようという私の最初の提案に同意した。こう決まるとすぐ,私は宿の主人 に命令した,そして私たちはベッドに入った。それはウールのマットレスをほどいて.打 ち直し,一年位して再製する風習から,フランス製やベルギー製のベッドのようにすばら しかった。不思議なことだが,これはイギリス人にはまだあまり知られていない小さな文 明の利点なのだ。 私はワーズワースのフランス語があまり上手でないと言ったのは,駅で尋ねる間と,ホ テルの門衛にかぎたばこを買って来てもらう指図をしている時だった。そして彼は25年前 フランス語をよく理解し,話したが,革命の激しさに対する憎悪がその言葉をできれば全 く忘れようと決めさせたことや,長い間一語も読んだり,話したりしたことがなかった, と私に説明したのはその時だった。私は狭量なこの告白を聞いてなんと不愉快なほど驚い たことか。コウルリッジは全くフランス語は分からなかった。