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哲学的制作論 : 空間流と空間形成, とくに舞台芸術における

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(1)Title. 哲学的制作論 : 空間流と空間形成, とくに舞台芸術における. Author(s). 野辺地, 東洋. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 9(1): 11-19. Issue Date. 1958-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3658. Rights. Hokkaido University of Education.

(2)  . 第9巻. 第1号. 昭和33年9月. 北海道学芸大学紀要{第一部). 哲. 学. 的. 制. 作. 論. ) (V工. ÷÷‐空間流と空間形成, とくに舞台芸術における −−. 野 辺 地 東 洋 北海道学芸大学岩見沢分校哲学教室 T6y6 NOBEcHI: Ph i l I Theory of Maki osophi ng (VI ) ca. は し が き 筆者は空間・時間に関する観念について高橋里美博士の諸著書によって教えられるところが甚だ多い。 そして その考えかたにもとづいて, 筆者は “空間流“ な る造 語 を 思 い つ き, こ れ を と き お り用 い て い た。 た ま た ま 筆 者 は ’{流れる空間)という言葉を190 l 配i l i iが ”F1 l agy i 1年の著書 s er の哲学辞典に よ って, Me orpa ch eBenderRaum’ のぅらに使っていることを知った。 しかし筆者はこの書をかの地に注文して得られず, わが国の詰所の図書館に求 めて容易に発見しえず, ついに最近にいたってこれが京都大学図書館にあることを, わが分校図書館の努力によっ l agy iの1 4年の著書を東京大学哲学研 て知りえ, これを借覧する便宜をえた。 これと殆ど時を同じぅして, Pa 91 究室で発見 し, これをも借覧す. ることができた。 これらの著書にあらわれた役の思考は, 筆者の理解しえたかぎり, だいたいわが意をえたものであったので, それの要旨の必要な部分をここに再現しつつ, 筆者の ”空間流” の概念 を 整 理 した く 思 った の で あ る。 そ れ に 続 き あ わ せ て ”空間流” の制作論における典型的なものについて筆者の考 ,. え を述 べ る こ と を 意図 した。. ここに上記の図書を貸与きれた京大図書館と東大哲学研究室とに深甚の謝意を表し, あわせて前者にたいする 交渉の労をとってくれたわが分校図書館の諸君の好意を謝する。 また Minkowski の著書については, 東北大学哲 学研究室によって同大学図書館のものが貸与された。 同研究室にたいしてもまた同様に深謝しなければならない。 I ミ ソ コ フ ス キ ー は 1908 年 に 或 る 会 合 の 席 で 次 の よ う に 述 べ た こ と は 周 知 の こ と で あ る。 “こ れ. よりさき, 独立の空間や独立の時間というものは, まったく陰影の姿に転落して, ただこの両者に ) こ れに たい して ハ ンガ リ ー の哲 よ る 一 種 の 統 合 体 の み が自 主 性 を 保 つ こ と と な ろ う と して い る”1 。 学 者 パラ ← ジ ー は, ミ ンコ ス キ ー の 考 え を も っ て, 時 間 と 空 間 の あ い 異 な っ た 性 格 を 抹 殺 し, 互 に. ‘空−時“ 概念という統合体に没落せしめる も 他にたいする自立性を止揚し, 両者を1個の新しい ‘ ) パ ラ ー ジ ー の 考 えに よ れ ば 空 間・時 間 の そ れ ぞ れ 対極 的 な 性 格 は 現 象 界 の の, と な して い る2 , 。 ,. 統一的二重秩 序へと両者を総合的に把握する必要を感ずれば感ずるほど, ますます鋭く強調されな ければならないものである。 そして彼はこのことを男女両性の対極的区別と関係とになぞらえてい る。 われわれはここで右の2人の立論の相違にたちいって, それぞれを評価することの必要を認め ない。 われわれはわれわれ自身の論述の途次において, 右の両者から適当な示唆をうけるだけ でこ ●るからである ただあい反する立言を同時に受容するかのごとき安易な総合観を生ずるとい と ・たり 。 う点を警戒するならば, 両者の空時観はわれわれにたいするかぎり, いいかえれば空時の一体観に 関するかぎり, 決して矛盾するものではなく, 根本において一致しているという楽天観のうえに わ れ わ れ は 立 つ こ と が で き る の で あ る。 そ れ は 以下 の ど と く で あ る。 ‘空 間 は 時 間 流 と と も に 流 れ る・ ’ と い っ て い る3 ) こ れ は どの よ うなこ と で あ る か パラ ー ジーは‘ 。 l i bs tを ts chse というと, 空 間は時間の経過のなかでたえず更新されつつ, 自己合同 kongruent mi.

(3)  . 野辺地東洋 保 つ の だ, と い う こ と で あ る。 こ れ を 記 号 で 示 す な ら ば, 継 起 す る 時 間 点t ,tp t2 ,t … … に た い し o て, 継 起 す る 空 間 Ro , R. , R2 , R3… … をあてがうことになる。 そしてまた任意の空間形態 G oを仮. 定するならば, 継起する空間にあっては Gぃ Gの G3…… が相応し, それらは総じて相互に合同とな る。 す な わ ち G。塾 G,基 G 茎 G …‐ ‐ である。 いま任意の空間形態を問題とするかわりに簡潔ない いかたをするならば, すべて時間流のうちに継起する諸空間は相互に合同であるということができ. ) これらの諸空間の系列はいわば時間流の諸瞬間の横 る。 す な わ ち R,墓 R,竺 R2茎 R3… … である4 。 断 面 を あ ら わ して い る。 し た が っ て わ れ わ れ は こ れ ら の 諸 空 間 の そ れ ぞ れ を 横 断 空 間‐Quer−raum とよぶことができる. ところで時間は流動である。 それはこれらすべての横断空間を垂直の方向に 貫流するものであり, そのさいそれは質料的な世界全体を自己に引受けている。 その結果この世界 ) かくて時間は空間の第4 はそれぞれの横断空間にあって1個の形態をあらわしているのである5 。 次 元 と も い え る し, よ り 正 確 に い う な ら ば, こ の 第 4 次 元 に お い て 時 間 が 流 れ て い る の だ と わ れ わ こ の 考 え は パ ラ ー ジ ー が み ず か ら い う と こ ろ に よ れ ば, す で に 1901 年 ) そ して そ れ は 彼 に よ れ ば の ち の ミ ソ コ フ ス キ ← の 考 え と に 彼 に よ っ て 展 開 さえ た も の で あ る6 , 。 完 全 に 一 致 す る も の で あ る。 と こ ろ が 一 致 し な い 点 は, 横 断 空 間 Ro , R, , R, R3… … の時間的系 れ は 考 え て い る の で あ る。. 列 と い う 考 えを 精.成 す る こ と を ミ ン コ フ ス キ ー は 必 要 と 考 え な か っ た こ と で あ る, と す る。 した が っ て ま た瞬 間 の 質 料 的 な 世 界 形 態 の。 , の2 , の. , の3… … の 概 念 を も 見 逃 して い る, と い う の で あ る。 “ ” ) そ れ は と も かく なお パ こ れ が さ き の 批 判 点, 陰影 の 姿 に 転 落 す る に 関 係 して く る の で あ る7 , 。. ラ←ジーの考えかたをたどってみよう。 直線は の の諸点を含み, 平面は の2の諸直線を含み, 空間 は 節3の諸平面を含んでいる。 さらに 4 次元的空間は の4の3 次元的諸空間を含んでいなければなら ない。 また点は平面のなかで の の諸方向へ, 空間のなかで の2の諸方向へ, さらに 4 次元 的空間の な か で の3 の 諸 方 向 へ 運 動 す る こ と が で き る。 そ して こ の の3 の 諸 方 向 は の3 の さ ま ざ ま な 時間 軸 を. あらわすことができる。 4次元的空間のなかではしたがって の3の時間が考えられる。 それらはす べてべりべりの記号を伴なった方向をもち, また互に記号を伴なった角度をかたちづくっている。 われわれの場合, 時間と空間とは緊密に関係しあっているから, 時間はある方向を, つまりある記 号的なベクトルをもつのである。 普通の漢とした時間概念でも方向性が全くないというわけではな い。 われわれはその場合, 後方と前方とに過去と将来という記号方向を区別するからである。 最も 素朴な人間悟性ですらこのように時間を空間と類比的に関係させ, 空間概念からえられた方向概念 を記号的な仕方で時間流に引移している。 この素朴な悟性が時間と空間とをただ何となく関係づけ ており, したがってただ一つの時間流の観念しかもっていないのに引きくらべて, 数学的に組立て ら れ て い る 悟 性 は, 空 時 の 関 係 を こ の う え も な く 緊 密 に 定 め て い る。 そ して か く す る こ と に よ っ て, の3の さ ま ざ ま な 時 間 流 を 考 え る と こ ろ に ま で 至 っ て い る。 そ れ ら は 記 号 的 な 角 度 を な して 互 に ぶ つ か り あ っ て い る。 こ の よ う な 悟 性 は, 時 間 概 念 を 相 対 的 な も の と し, こ の 世 界 の 時 間 流 を, の3 の さ ま ざま な 時 間 流 な い し は 時 間 ベ ク ト ル の う ち の 一 つ の 特 殊 な 場 合 と し て の み, 理 解 す る の ) で あ る8 。 さ て そ れ ぞ れ の 時 間 ベ ク トル に た い し て は, そ れ ぞ れ の 世 界 が 相 応 し て い る。 そ こ で 4 次 元 的 空 間 の う ち に は, 異 な っ た 実 質 的 世 界 が 三通 り 考 え ら れ る こ と に な る。 そ し て こ れ ら の 世 界 は そ の. 時間流の性格によって互に区別されるのである。 ひとが構想しうる物理白守世界があるだけ, それだ ) ここでわれわ けの数のさまざまの種類の時間流をひとはそれらの基礎におかなければならない9 。 ” l o )という れは, 高橋里美博士のいわれる 時間的生成はその横断面においてす でに空間的である” 言葉を想いあわすことができるであろう。 時間的生成とはいうまでもなく時間流のことであり, 横 断面はすなわち 一 つの横断空間を形成している。 流れる時間が断たれることによって, そのつ どそ − 12 −.

(4)  . VD 哲 学 的 制 作 論 ( の っ ど作 ら れ た 空 間が 生 じ, ま た こ れ ら が 流 れ る 時 間 に よ っ て 貫 ぬ か れ て い る の で あ る。 な お ま た tdem Zeits[rom パ ラ ー ジー の 表 現 で 注 目 す べ きは, “空 間 は 時 間 流 と と も に 流 れる der Raum mi tai mi eaざ と, さ き に も 掲 げ た ごと く 言 っ て い る こ と で あ る。 流 れ る も の は 時 間 ば か り で は な い。 空 間 も 流 れ る の で あ る。 も っ ともそ れ は 時 間 の 流 れ と と も に で は あ る が。 否, 空 間 が 流 れ て い る と い う こ と が 時 間 の 流 れ で は あ る が。 彼 は 1914 年 の 論 文 で 断 わ っ て い る よ う に そ の 表 現 は す で に 1901 年 の 論 文 に あ ら わ れ て い る の で あ る。 そ こ で は た と え ば 次 の よ う に い っ て い る。 ”‘流 れ る 空 間’ と いう考えかたのみが正しい。 この考えかただと空間は時間のなかでつねに更新するものと解され る i l ins i i t igi tnurd se chin der Ze eldee vom ,負ie金enden Raum‘ の だ。 Ri cht s ,in der der Raum a ’ 1 1 ) R i i d f ig erneuern erau fge aBt wi at の考えからすれば, 時間 rd 。 時 間 と 空 間 と の 相 関 ezprozt stet. の流れは空間の流れである。 したがって流れる時間はただちに “流れる空間” である。 われわれは こ れ を ”空 間 流” と い っ て も い い か も し れ な い。. た し か に 時 間 流 はま た, “作 ら れ た 空譜r の 側 か. ら み れ ば 空 間 流 と い える も の な の で あ る。 パラ ー ジ ー は 空 間 が 時 間 の 流 れ の う ち に あ っ て つ ね に 自. 己合同でありつつ持続することをもって 空間恒存 と名づけ, この原則を “空間恒存の公理 Axiom l tunご と 称 して, こ れ を 物 理 学 に お け る エ ネ ル ギー 恒 存 の 原 理 に な ぞ ら え て い von de rRaumerha. 2 ) 人間の活動を含めての 空間内部のもろもろの運動も, この空間 の恒存的持続が前 るほどである1 。 提 な の で あ る。 こ の 空 間 流 は, ひ と た び 形 づ く ら れ た 空 間 が 静 止 の ま ま, つ ま り そ こ に あ る 実 質 的. 内部構成が不変のま ま,′時間流によって流される場合があり, またたえず内部構成に変化を生じな がら流される場合がありうる。 前者の場合はたとえ相対的であるとはいえ一応の静止状態がみられ るから, 時間的経過の基本的な面がともすれば忘れられがちであるが, 後者の場合は時間の流動は あたかも空間の内部に浸透してその秩序をかき乱すがごとくであり, したがって空間そのものの流 動状態が露骨に観取される。 もちろん流動はいずれの場合にあっても, 実際, 空間のいずれの部分 に も 浸 透 し ゆ き わ た っ て い る の で あ り, そ の 点 両 者 に お い て 異 な る と こ ろ は な い の であ る が, 一 方. ではあらゆる空間部分にたいして流動は均等であり, その結果, 構成的秩序を変更する結果とはな らないのであるのにたいして, 他方にあっては流動は不均等であり, 流動の結果は重複して “流動 の流動り となって現出する。 ことにそのなかに人間の断っ働き, すなわち行動があらたに生ずると きは, 流動はふたたび切断される。 それは “切断の切断“ である。 われわれはこれのよき例を舞台 芸 術 に お い て み る こ と が で き る であろ う。 ひ と た び 切 断 さ れ て 作 ら れ た 空 間 と して の 舞 台 空 間 は,. そのなかで演技者がふたたび切断しつつその空間を流動的に継続してゆくのである。 われわれはこ こ に 空 間 流 の 典 型的 な 実 例 を み る の で あ る。 こ れ に つ い て は さ ら に 後 述 す る で あ ろ う。 1 ) H, Minkowsk▲: Raum und Zeit .1 . 公刊 は 講演 の 翌 年 に な さ れ て い る。 ,S ,1939 ik i i i d i l i h l i D R t t t nodemen Phys 2 ) M,Paagy : e eatv a s eore n er・ .9 . ,S ,1914 i d 3 ) ib . . ,14 ,S S id 4 b ) i , , , .15 id 5 ) ib .18 , . ,S 1 l鯖y i: Neue Theorie des Raumes und der Zeit 6 ) M.Pa . ,190 i S i R 1 i i h D t 1 9 1 t t a 七 i 7 s eore ) Pa 窄y : e ea v , . ・ i d 8 ) ib . .75 . ,S d S 9 ) ibi , , , ,76. 5 2頁. 10 ) 高橋里美博士: 包弁証法, 昭17 ,1 ie 目gy i: Neuer rheor 11 ) Pa1 . vnl . ,S. 12 ) Pal乳gyi: Die RelatiVit欲stheorie,S.13 .. − 13 一.

(5)  . 野辺地東洋. 2. “流動の流動” は一般に運動 すなわち空間における位置の変化として考えられるが それがと , , くに人間の行為 としての運動, すなわち行動として考えら れる場合は ”切 断 の 切 断” と な る。 こ れ が複雑な空間流をかたちづくるのであるが, その事情をやや詳細に分析 してみたいとおもう やは 。 り そ の さ い パ ラ ー ジー が わ れ わ れ に と っ て ょ き 手 が か り と な る で あ ろ う い ま 彼 の 最 初 の 著 作 す , 。 な わ ち, 前 掲 の 1901 年 の 書 を ふ た た び 顧 み る こ と と す る。. この書物はまず空一時概念の相関について説き起し, 流れる空間について語り, 運動の問題に いたって いる。 この道筋は空間流における運 動をみよ うとするわれわれの場合にも, そのままあて はまるものとおもわれる。 彼はまず空間概念へ の時間概念の関与ということから始めている。 空間 は部分から成りたっており, その部分は同時存在である。 部分が同時に存在しない空間は考えられ ない。 もしかりに, 空間の部分が時間的に継起するとすれば, 空間概念が時間概念の導きで成りた っ て い る と い う こ と が, そ れ だ け ま す ま す 確 か だ と い う こ と に な る。 い ず れ に して も 空 間 概 念 は 時. 間概念が働きこ んでいることなしには構成されることができない。 逆にまた時間概念の形成に空間 概念が参与する点をみよう。 われわれは空間のうちのどの点をとるに しても, 時間のすべての部分 はこの一つの空間点を通って流れているものと考える。 時間のある部分はA という空間点を通り, 他の部分はB という空間点を通るというようには, 考えない。 もしかりに, 一つの時間の流れが或 る と き に は こ こ, 或 る と き に は か し こ と, と こ,ろ を 変 え て 現 わ れ る と す る な ら ば, ま す ま す も っ て. 空間概念が時間概念を構成していることになろう。 われわれは, 時間概念の援助なしに空間概念を 構成することが全く不可能であることを示すために, 次の命題を立てる ことができる。 すべての空 間点は時間点というものによって結合して 一つの全体になるものであるし, また逆に, 時間点はす べての空間点で拡がり, 無限 の世界空間になるものである, と。 時間点t oは世界空間の統一である し, 逆に世界空間は一つの時間点が無限に拡がったものであるとい える。 これを幾何学のたとえで 考 えてみよう。 この場合, 一点を通るすべての直線が考えられる。 するとすべての空間点は共通な 一時間点で交 ることになる。・いいかえればす べての空間点は一 時間点の放射ないしは投影というこ とになる。 またこれを論理学的形式でいうならば, そこではあるものを主語とし, それの諸性質を 述語とした判断が形成される。 主語は多様の統一である。 そのように時間点は主語, 世界空間は述 ) 語 の 役 を つ と め る こ と に な る。 そ こ で “時 間 点 は 世 界 空 間 で あ る” と い う 命 題 α が 成 り た っ1 。. さて次に, 空間概念が時間概念 の構成にあずかる場合の命題は, 上の場合と正反対となって次 のようにいいあらわされる。 すべての時間点は空間点というものによって結合 して一つの全体にな るものであるし, また逆に, 空間点はすべての時間点で拡がり, 無限の時間流に なるものである, と。 空 間 に お け る ”こ こ ‐ 点 Hi ‐punkビ’ を 0 と す れ ば, 時 間 の す べ て の 点 が 空 間 点 ○ を 通 っ て er 流 れ る。 t o , 2 ,t ,t ,t 3… … が ○ を通って流れるのである。 0 そのものは, それを通って流れゆく時. 間流のすべての点を超 えて持続する。 ここで空間点を主語とし, 時間流を述語とすれば, “空間点 ) は時間流である” という命題βをうることができる2 。 さ て 命 題 q か ら 次 の よ う に 論 ず る こ と が で き る で あ ろ う。 す べ て の 空 間 点 は 時 間 の “い ま − 点 Jet t ) に お い て 総 括 さ れ て い る。 そ こ で t。 に相応する世界空間を “いま‐空間 J ‐Punkr ( zt t t e z ‐ 。 Raum“(Ro ) と 名 づ け よ う。 こ の 場 合, t R t R R ぃ ゎ t 3… … に 応 じ て ぃ の 3… … が 考 え ら れ る。 か. く し て諸空間の恒常的系列 と い う 概念に到達す る。 これを 総体として “流れる空間 F 1 i eBende r. ‘ ” Raum” と 名 づ け る ‘ 。 い ま − 空 間 の 任 意 の 点 を Aoと す る な ら ば, RD Rの R3… … に応 じて A, , “ ” A“ A3… … が え ら れ る 。 そ こ で 流 れ る 空 間 に お け る 点 は, そ れ を 通 っ て 引 か れ た 時 間 線 に ほ − 14 一.

(6)    . 哲 学 的 制 作 論 (虹) か な ら な い, とい う こ と が で き る。 こ れ は 命 題 β の や や 変 形 し た 表 現 に ほ か な ら な い。 そ して こ の. “流れる空間” の概念は dとβなる二つの基本関係をひとしく満足させるものなのである 従来考 , 。 えられていた固定した空間も, t , R3… … で あ る, , R. , R2 o 3… … と い う 瞬 間 に お け る Ro , tD tか t と い う わ け で あ る。 こ こ で わ れ わ れ は こ の “流 れ る 空 間” を, 次 の よ う に 特 質 づけ る こ と が で き る. ‘ ‘ ) Q で あろ う。 ”それぞれの時間点に一つの世界空間が相応する”( , および それぞれの空間点に一. 3 ) β ) つの時間線が相応する”( 。. パラ ー ジ ー は す で に 1901 年 の こ の 書 に お い て 4 次 元 の 世 界 を 論 じて い る こ と は,. 以上 のこと. に よ っ て 知 れ る が, こ れ が の ち に ア イ ン シ ュ タイ ン や ミ ソ コ フ ス キ ー に 接 続 す る も の と お も わ れ る。. さらになお彼は, 心理現象に空間3 次元の原理を適用し, 感覚作用をもって 1次元的, 表象作用を 2 次元的, 意志作用を3 次元的としているが, いまは心理学上の問題に立ち入る場合ではない。 し .の書のうちに提出された最後の問題, すなわち “流れる空間” における たがってわれわれは次にこ Ro t 運 動 の 問 題 を 一瞥 す る こ と と しよ う。 ”い ま ‐ 点“( ) に 相 応 す る “い ま −空間“( )のうえに, 任 o ‐ を 定 め る な ら ば, “い ま ‐ 空 間” が t 意 の諸 点 Aの Bの Cの D,…‐ . 3… … と 推 移 す る の に 応 , tの t B A A A B B B A C D ぞ … … ‐ の 諸 点 は, そ れ れ . じて の o . o…‐ , , , 2 , 3 , 2 , 3… …, CD , C … … , o , D. , D2 , D3… … と 推 移す る。 す な わ ち そ こ に 空 間 流 が み ら れ る わ け で あ る。 こ の 空 間 流 に お い て, も し或 る も の が A な る “い ま −空 間” に静止しているならば, それは絶対的な流動たる時間に乗っ て A① A, , A3… … と 流 さ れ て ゆく で あ ろ う。 こ の 場 合, 或 る も の の 静 止 は 空 間 流 の 内 部 に お , A2 Bo co oo ける相対的な ものであるにすぎないo さ て’ こ の 或 る も の が t , や R. 空間流の内部にあって運動するものであるならば, その運動 の典型的な場合を考えるに’ それは Am−BD Cの D3. − と. 、 \. t −. い う 具 合 に傾 斜 し た 線 を 描 い て 進 む で あ ろ う。 こ の 線 が 直 線 で あ る な ら ば, そ れ は 等 速 運 動 を 示 す も の で あ り, 角 度 夢 の “ 大 小 は 速 度 の 大 小 を あ ら わ す も の と な る (図 を 参 照) 。 以 上 のよ う に パラ ー ジ ー に よ っ て 明 瞭 に 示 しだ さ れ た 空. , t≧ t 3. A−E、\BI CI D − RI ミ \ 、 \ \ ‘ 、 \ A2 、 B2 \ C2 D2 R 、c 2 \、 \ \ 、 A9 Bヲ 8 Cう \、 \Dヲ.R ヲ. 間流の観念のもつ意味は, その後の相対性原理論とあいまって歴史的意義のうえで大きなものであ ろう。 しかしながらわれわれは 空時の観念をあくまで哲学的に 扱っているのであり, 単に個別科学 の 分 野, し か も自 然 科 学 と して の 物 理 学 の 領 域 に 限 っ て こ れを 扱 う も の で は な い, パ ラ ー ジ ー に お. ける空時論も哲学的見地からみて, われわれを稗益するところすこぶる大なるものがあると, おも われるのである。 彼の “流れる空間” は絶対的静止である根本 空間をその内面に立ち入って具体的 にみたものにほかならない。 空間流は全体空間の具体的な姿 であり, 時間流はその抽象的な姿であ る。 空間流における運動は自然の物体そのものである場合があるが, 勝義においてはわれわれ人間 の行為であり, 制作 の働きである。 これによりて時間の流れは相対的ないみにおいて切断され, し かもこの働きが根本流動によって流されているのである。 これをまた逆 ・に働きの側からみるならば, たえずあらたに空間を形成しつつある, ということもできる。 たえず切断がおこなわれるときに, たえずあらたなる空間が形成され, しかもこれがたえまなくおこなわれることによって, 全体とし ‘空 間 流” と は こ の て 空 間 の 流 動 が 形 成さ れて い る と い う こ と に な る。 “流 れ る 空 間” あ る い は ‘ , よ う な も の で あ る。 ie 1 ) Paiagyi: Neue Theor ,3 ff , ,S ib i d . , ,8f ,S ibi d S , , , .1lff ib i d , .44 , ,S. − 15 一.

(7)  . 野辺地東洋. ‘作 ら れ た 空 間” に お い て み る こ と と しよ う わ れ わ れ は 原 次にわれわれは “流れる空譜r を ‘ 。 始行為の切断によって, 全体空間のうちから部分空間を切りとるのである。 その場合, 全体空間の 内面は “流れる空間” であるから, 切りとられた部分空間も “流れる空間” であることに は変りな い。 部分のもつ性質は, この場合, 全体の性質とま ったく同 一である。 ところで “作られた空間” は, その内部についてみるに, われわれの存在と無関係のものと, われわれがそれの内部に あって ′ さらに切断 の働きがおこなわれているものとがある。 前者はわれわれによってわれわれの外部}こす E られたすべての作品である。 われわれがその物体空間の内部にもはやまったく触れないものとして,. そのものは存在する。 後者はわれわれをその内部に包容する。 もとよりわれわれ人間が存在すると い う こ と は, 何 ら か の 切 断 が わ れ わ れ に よ っ て た え ず な さ れ て い る こ と で あ る。 働 く こ と も行 為 で あ り, 止 ま る こ と も 行 為 で あ る。 語 る こ と も 切 断 で あ り, 黙 す る こ と も 切 断 で あ る。 存 在 す る と い う こ と す ら 行 為 で あ り, 切 断 で あ る。 こ の よ う な わ れ わ れ が そ の 内 部 に あ る と こ ろ の 部 分 空 間 は,. この空間をわれわれがあらかじめ切断したともいえるし, またわれわれが行為しつつかかる空間を 形成したともいうことができる。 すなわちわれわれの活動の限界線が部分空間の輪郭 となってあら われるわけである。 部分空間内部のわれわれの活動を中心として考えるみかたからすれば, このよ う に い う こ と の 方 が 事 態 に 即 し て い る で あ ろ う。. さきの空間制作を外部的空間形成とよび, のちのものを内部 的空間形成と名づけるならば, 外 部的空間形成はそのもっとも純粋なるもの, すなわち作られた空間が何らかの他の目的の手段とは な ら な い も の, い い か え れ ば 作 ら れ た 空 間 自 体 が 目 的 で あ る よ う な も の は, . 彫 刻 で あ る。 そ して 内. 部的空間形成のもっとも純粋なるものは, 舞台芸術である。 もちろん現在われわれは, 芸術的価値 においてこれらのジャンルが最高のものであるか否かを, 論じているわけではない。 ただ空間形成 という見地から考えているので ある。 ところで外部的空間形成にあっては, 作られたものは制作者 である人間の手を離れて, 人間の外に, それ独自で, 存在しているのである。 その物体の内部は何 らかの物質によって充たされて いるのであり, それは人間の行為とは関係のな いものである。 もっ ともその物体が人間によ って動かされるとき, それの内部もともに動かされるのである から, 内部 が人間の行為とま ったく無関係だとはいえないが, 内部の構成に人間の行為があずかっていないこ とは確かである。 その物体は全体として, 流れる空間のうちにあって流れている。 その物体空間は 全体空間の単なる一部であるにすぎない。 ただその物体を人間が移動するときにだけ, 前節に述べ た空間流における運動の現象がみられるが, それはその物体の存在にとって少しも本質的な関係を もつものではありえない。 これに反して内部的空間形成にあっては, その部分空間内部における人 間のたえざる働きがその部分空間を形成しており, その働きが終るときその空間は消滅するのであ る。 こ の 場 合, 空 間 流 は も っ と も 充 実 し た か た ち で あ ら わ れ る。 さ き の 空 間 に あっ て は, そ の 内 部. を構成 しているものは, その空間形成とは本質的に関係のないものであった。 空間形成 はすでに終 っ て い る の で あ っ た。 内 部 の 物 質 は ど の よ う な も の で あ っ て も, どの よ う な あ り か た で あ っ て も , い い の で あ り, も し絶 対 の 真 空 と い う こ と が あ り う る の な ら ば, そ う で あ っ て も さ しつ か え な い の. である。 また, なるほど物体を構成している物質はたえず分子運動をっずけているでし まあろうが, それはその物体の空間形成とは何ら関係がない。 しかるにのちの空間に あっては, その形成はたえ ず人間によっておこなわれていなければな らないのである。 内部にある人間の活動のみがその空間 形成を保っているのである。 前者の空間形成は過去であるのに たいし, 後者のそれは現在 である。 もっともこの現在は, そのうちにいくぶんか の過去を含み, いくぶんかの将来を苧む現在である 。 − 16 −.

(8)  . 哲 学 的 制 作 論 (虹) で あ る か ら こ そ こ の 空 間 は 本 来 の い み で 流 動 して い る の で あ る ・前者にあっては形成さえ た空間の. 流動であり, 後者にあっては形成さえ つ つ あ る 空 間 の 流 動 で あ る。 こ こ に お い て 空 間 流 は も っ と も 典 型 的 な 姿 に お い て み ら れ る の で あ る。 こ れ が 制 作 さ れ つ つ あ る も の と して の 舞 台 芸 術 で あ る。 も. とより空間流という根本性格は前者と後者とにおいて変りはないが, 空間形成ということとの連関 において, 後者は上に述べたような典型的な状況を呈するのである。 4. しからば次にかくのごとき舞台芸術のもつ空間, すなわち舞台空間と もいうべきものについて 考えてみよう。 もっとも人間がそれの内部に存在して行為をするところの空間は, 舞台芸術のほか に も 存 す る の で あ る。 ま ず 何 よ り も わ れ わ れ は こ れ を日 常 の 生 活 に お い て 住 居 と し て も っ て い る。. すなわち家屋ならびにこれを含めていわれるところの建築一般 のもつ内部空間である。 それは人間 の生存にとっての空間であり, いわゆる生活の場である。 それはいわば人間にとっての世界である。 それの全体的なるものは社会といわれている世界であるが, 個々の住居あるい はそれぞれの建築の 内部に限られた空間は, 個々の人間あるいは限られた集団のための世界, いわばミクロコスモスで あ る。 こ の 場 合, コ ス モ ス と して の 社 会 に れ に つ い て は や が て 述 べ な け れ ば な ら な い が)も や は り 一 つ の 空 間 で あ る が, ミ ク ロ コス モ ス と して の 空 間 を 人 間 に 与 え る と こ ろ の 建 築 の も つ 意 義 は きわ. めて大きい。 かかる建築の内部空間は人間の行為をうちに含むものであり, その空間 の流動は人間 の空間形成的な働きによる空間流である。 その空間形成の働きによって制作されたものはまさに流 動する人間生活であり, それは個人的なものから集団的なものまでの一切を含むのである。 そして 比較的固定したものとしては, 個人的から社会的にいたる生活様式というものを作, りだす。 建築の もつ内部空間はかかる空間形成に適応した枠である。 かかる枠の必要でない場合は, 人間生活は戸 外 でお こ な わ れ る こ と も あ ろ う し, まず こ枠 と 戸 外 と の 関 係 に お い て お こ な わ れ る 場 合 も あ る で あ ろ う。 あ る い は ま た 枠 の 集 団 で あ る 都 市 と い う も の に おい て お こ な わ れ る こ と も あ る で あ ろ う。 し か. しながらいずれにしても, かかる生活としての空間形成は, その働き自体が作品ではない。 食衣住 の日常生活のいとなみにしても, 文化的なさまざまのいとなみにしても, 個人的であると集団的で あるとを問わず, その働き自体は作品ではない。 たとえ効用財の制作のみならず音楽や絵画や彫刻 のような芸術作品の制作がおこなわれる 場合にしても, そのいとなみ自体 は作品ではない。 しかる に人間の空間 形成作用それ自体が作品であるもの, つまり空間形成の働きと作品とが一つであるも の, こ れ が 舞 台 芸 術 に ほ か な ら な い。. 建築はいうまでもなく, 目的とされた内部空間をもっている。 目的とされた内部空間を もつも のに, このほか 器具や 家具があ ・る。 しかし建築のもつ内部空間は器具や家具のそれとは異なって, 人間の生活そのものをいれるものである。 この点, 建築は他の種類の諸制作のもたない特質をもっ ている。 それは外部的空間形成すなわちいわゆる立体形成によるところの彫刻とも異なっているの は, この種の目 的とされた内部空間をもっという点によることが決定的である。 乾き 泰造による塑像 のごときものや鋳造による金銅像のごときものは, 内部空間をもたないわけではないが, この場合 のそれは目 的とされたものではなく, 彫刻の立体形成にとって何ら必然的なものではないのである 。 さて, 建築は一面において立体形成的な点もあるが, それの本質的な効用財 的性格からみて, さら に本質的な他の一面は, それがミクロコスモスとして人間世界をいれる内部空間を 形成するという 点 で あ るり 。. い い か え れ ば 建 築 は こ のよ う な 内 部 空 間 の 限 界 で あ る。 さ き に 枠 と い っ た の は こ の こ. とである。 しかしながらこの限界ない し境界は, たとえ内部における人間の空間 形成に相応してい るとはいえ, つまり人間が活動しやすいように作られているとはい え, 人間の空間形成そのものの − 17 −.

(9)  . 野辺地東洋 限界ではない。 それはあくまで人間の空間形成の枠として, 空間形成とは別に, そのものとして, あらかじめ作られて存するものである。 かりに内部に人間が存在しない場合でも, それはそのもの と し て 残 っ て い る。 枠 と は こ の よ う な も の で あ る。 で あ る か ら わ れ わ れ は こ の 枠 で あ る 建 築 を, 人. 間自身による 空間形成とは別に制作 しなければならない (もちろん人間自身の空間 形成に相応させ てではあるが) 。 これが建築自体の内部 空間形成の問題である。 この作られた内部空間の枠は, 効用 のためであるとともに, 美的表現として 芸術的な評価の対象となる。 しかしながら人間の空間形成作用そのものが作品であり, しかもそのためにもはや効用からま ったく離れたところの制作は, 舞台芸術のそれにほかならない。 それにあっては, 人間の空間切断 が連続的におこなわれる。 そのとき どきに空間が形成されつつ, それが連続的に進行する。 空間は 流動するのである。 もとよりすべての空間は本来のいみにおいて 流動している。 それはそれ自身絶 対の静止であるところの 全体空間のうちにおける部分空間として流れている。 したがってさきに述 である。 しかしなが べたごとく彫刻も ・空間流をもつのである。 それは運命時間につながる根本流動 ら相対的にみるときは, 彫刻のような物体はそれとしては空間的に固定しているのであり, 静止の 状態にある。 しかるに舞台芸術にあっては, 空間形成の連続的進行が作品 である。 それは相対的な いみにおいても空間流そのものである。 つまり根本空間流が状態のす べてである。 さきに空間流が 典 型 的 に み ら れ る と い っ た の は, こ の い み で あ る。 と こ ろ で 問 題 の 舞 台 芸 術 で あ る が, こ の も の に あ っ て は, 空 間 は も ち ろ ん 舞 台 を 中 心 と して 制. 作される。 舞台はその極端な場合は自然そのものであってもさしつかえない。 それにしても自然の ど の よ う な 状 況 で も か ま わ な い と い う の で は な く, 特 定 の 自 然 状 況 が 選 ば れ る こ と に よ っ て, 人 間. による自然にたいする切断がおこなわれる。 切断されたかぎりが舞台空間である。 しかしながら普 通は舞台上の働きがより効果的におこなわれ, またこれを観賞するもののよりよ き便宜のために, 舞台は建築の内部に設けられる。 完全に限定された内部空間としての劇場にいたるまでには, 青天 井の円形劇場のごときものもあり, また屋根のある舞台が観賞者の位置する 空間から分離して存す るようなものもあるが, 現在では演技者も観賞 者も一つの劇場の内部空間に包接され, とくに演技 者がさらにそのなかに特定の舞台空間をもつというのが一般である。 また舞台の構造についていえ ば, さきの極端な場合の野外劇にあっては, 大地そのものが舞台であるが, 人手によって作られた ものにおいては, 単に平板なもの,‘上方に向って立体化するもの, 下方へと立体 化するもの,.廻転 す る も の, 方 形 な る も の, 円 形 な る も の, 橋 掛 り ・ 花 道 の ごと き・ , ま た名 乗 り 舞台 ・ エ プロ ンース テ ← ジ の ご と き, い わ ば 副 舞 台 を も っ た も の な ど, 各 種 の も の が あ る。 しか し こ れ ら の 事 情 は, 現. 在のわれわれの問題にとっては, 本質的なことがらではない。 いずれにして も舞台を中心とした空間においていとなまれる人間 の働きは, いずれのいみにお いても空間流として流動したひろがりを形成するものである。 しかもかかる 空間を制作すること自 体が作品である。 それは劇場を建築するさい舞台を設備するというこ とではない。 ただ建築上の舞 台という空間を制作するだけのことならば, それはただ建築上の問題につきる。 建築の制作におい ては, 制作することそれ自体は作品ではない。 制作されたものとしての建築が作品 である。 いまの われわれの場合は制作する ことと制作されたものとは一つである。 舞台空間を制作すること, すな わち建築上の舞台において働きを演ずること, そのものが作品 である。 それは典型的な空間流とな って流動する。 舞台空間の制作がおこなわれている ということは, 必ずしもそこで運動のみがおこ なわれているということではない。 静止もまた制作である。 世阿弥は運動 の停止時を “せぬひま“ と い っ た が, こ れ を 説 明 して 次 の よ う に い っ て い る。 “ま づ, 二 曲 を は じ め と して, 立 は た ら き, 物 ま ね の 色 々, こ と ご と く み な 身 に な す 態 (わ ざ) 也。 せ ぬ 所 と 申 は, そ の ひ ま な り。 こ の せ ぬ ひま −− 1 8−.

(10)    . 哲 学 的 制 作 論 (狐) は な に と て お も しろ き ぞ と 見 る 所, 是 は ゆ だ ん な く, 心 を つ な ぐしや う ね 也。 舞 を ま ひ やむ ひ ま, 音 曲 を う た ひ や む と こ ろ, そ の ほ か, こ と葉, 物 ま ね, あ ら ゆ る しな じ な の, ひ ま ぴ ま に 心 を す て ず し て, 用 心 を も つ 内 心 也。 こ の 内 心 の 感, 外 にむ こ階 ひ て を も しろ き 也。 か や う な れ 共, 此 内 心 あ り と, よ そ に 見 え て は わ る か る べ し。 も し み え ば, そ れ は 態 に な る べ し。 せ ぬ に て は あ る べ か ら ず。. 無心の位にて, 我心をわれにもかくす安心にて, せぬひまの前後をつな ぐべし。 是即菌能を一心に 2 ’ ) 制 作 中 の 静 止 も 制 作 で あ る そ れ を “せ ぬ に て は あ る べ か ら ず” と い っ た の で て つ な ぐ感 力 也’ 。 。 あ る。 舞 台 の 上 で 静 止 して い る の と 楽 屋 で 休 息 して い る の と は, 違 う の で あ る。. このような制作は, 舞踊から様式的演劇をへて写実的演劇にいたるまで, さまざまの種類のも の が あ り う る。 そ れ ら は 空 間 を 切 断 す る 仕 方 に 応 ず る も の で あ る。 こ の 点 に つ い て は 他 の と こ ろ で 触 れ た の で, い ま は 述 べ な い こ と と す る。 た だ 一 言 を も っ て, 以 上 述 べ た こ と を 要 約 す る な ら ば ,. 彫刻の制作は外部空間形成(立体形成)であり, 建築の制作は外部および内部空間形成であるが, 舞 台芸術の制作は, 内外の問題を離れた空間形成, 最も内実的な形成作用そのものであり, いわば空 間流形成であるということである。 ’ の序文で 建築は平面処理の2次元的絵画や立体処 1 ) ニ コラ ウ ス ・ ペ ヴス ナ ー は そ の 著 ”ヨーロッパ建築概論’ , 理の3次元的彫刻と違って, 同じく3次元的ではあるが空間の処理に関係したものであるといい, 建築を “空 間を形成する こ と shaping space” と い っ て い る。 こ の 場 合 の space は内部空間のいみでの空間と解せられ る。 なお彼は建築をもって絵画的および彫刻的要素をも含む包括的なものとしているうえに, 生活地盤に結び つく社会的優越性をももつものとなしている。 これらは建築の特性をよくあらわした見解といえよう。 l 1 ine of 蹴uropean Arch i Niko )ut tecture aus Pevsner:An ( . , 23f , 5th ed ’1957 , ,p. 2 ) 世阿弥元満: 花鏡, 菌能館一心の事。 能勢朝次, 世阿弥十六部集評釈, 上, 375頁, 岩波書店版, 昭24 , 第2 刷による。 ただし本文は能勢氏による考異を伴せ用いた。. − 19 −.

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参照

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