明治初年・解放令反対一揆 : いわゆる「播但一揆」を中心に
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(2) 次 目. 目 次. はじめに. 七. 7. 第一章 維新政府と﹁解放令﹂. 第一節”賎民廃止“論議の始まり. 14. /4. 一へRV. 2つ匂. 4Q 43 49. 40. “の政策化 −. 第二節 維新政府の動向と大江卓・建議 一 公議所における建議 二 官制改革に内包されるもの 三 大江卓・建議と”賎称廃止 第三節 廃藩置県と﹁解放令﹂布告 一 廃藩置県の意義. 二 ﹁解放令﹂ はどのようにしてだされたか一田中光顕の役割と先行研究 三 ﹁解放令﹂の再把握. 卜◎9. 63 70. ::::・::::::・::・::・:::・::・:: 59. 第二章 明治初年民政と播但地域 −⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮−⋮⋮⋮⋮・⋮⋮ 五九. 第一節維新政府の民政 . 一 廃藩置県以前の兵庫県・行政区 −⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−−−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−. 二 ﹁全国統一戸籍編成規則案﹂と地域社会の変動 ⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮−⋮. 三 ﹁全国統一戸籍法﹂ ⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮−⋮−−⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮−⋮−.
(3) 次 目. 第二節 播但地域の民政動向 ::::::::::::::::・::・:・:・ 82. 一 廃藩置県と兵庫県 −−−−−⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−−−−−⋮⋮⋮−⋮. 二 ﹁戸長・戸籍区﹂と民政 −⋮⋮⋮−−−−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮−:⋮⋮−. 三 ﹃藤本留書﹄と﹃大庄屋日誌﹄1生野県と姫路藩︵県︶ ⋮−⋮−⋮. 8斜く. 87. QU∩乙. 9Aく. ︵ア︶久美浜県から生野県へ ⋮−iiii−−一−−i−−⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−⋮−−. 100. ︵イ︶大庄屋・三木武八郎の悩み −−−−i−一−・−−⋮⋮iii−−i−−iii−−ii−−−. 第三章 いわゆる﹁播但一揆﹂の再構築 ⋮⋮⋮−⋮⋮⋮・⋮⋮−⋮⋮⋮・ =一四. 第一節 ﹁解放令反対一揆﹂の意義 ::・:・:・:・:・:::・:・:::・:: 124. 第二節 一揆の始まりと二つの一揆 ::::::::::・:::::・::: 133. 一 再び﹃大庄屋日誌﹄から 姫路県一揆の始まり ⋮:⋮⋮⋮⋮⋮ 133. 二 見えかくれするものlI生野県一揆の始まり ⋮−⋮⋮−:−−⋮−−−−−ーー /45. 第三節 一揆の展開 :::::::::・:・::::・::・:::::::: 167. 一 姫路県一揆の方向 ⋮⋮⋮−−⋮⋮⋮−−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮−⋮⋮⋮ /67. 二 生野県一揆の展開 ⋮−⋮−⋮−⋮−⋮−−⋮⋮一−一⋮⋮−−−−−⋮−⋮⋮−⋮ 174. 第四節 一揆の収拾 :::::::::・::::・:・::・::・:::・:: 199. 一 姫路県一揆その後 ⋮−−一−−−⋮−−−一−⋮:⋮⋮⋮⋮⋮−一⋮⋮:⋮:: 199. 二 ﹁十月十六日﹂以後 −−⋮⋮⋮⋮⋮−−−−−−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−−⋮⋮⋮⋮ 2/2. 二三三. 三 両県庁の﹁一揆のまとめ﹂ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−−⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮−1−⋮ 221 おわりに.
(4) に. め じ は. はじめに. ﹁解放令反対一揆﹂ということばに最初に出会ったのは、愛知県から転勤することになった兵庫県内・県立高校での﹁同和H. ・R﹂においてであった。 ﹃人権の歴史﹂壁をテキストに使った授業で、 ﹁解放令反対﹂の主旨をおさえつつ、民衆が維新政. 府に反対した一揆という設定だったと思う。部落史に踏み込もうとしながら、ブレーキがかかり宙づりにされたような印象が妙. に残っていた。二度目は市川親治績の場註二でうかがった、上杉聰氏による﹁北条県血税一揆﹂註三の報告においてであった。そ. の報告において引用された農民︵貧農クラス︶の自供調書に、自ら持った竹槍で被差別部落の民衆を、抵抗するすべなく逃げま. どう婦人等の胸・腹を、突き刺す一節があった。史料の生々しさと土ハに、胸が悪くなるほど強烈な印象を持たされたように思う。. すでに﹁差別戒名﹂の問題が明らかになっており、差別意識を死後の世界まで拡張させるおぞましさはわかっていたつもりであ. った。だが、自らの手で意識的・積極的に殺人行為をしなければならぬこの世の差別とは何か、を考えずにはおれなかった。こ. と部落問題でいえば自ら立つところは差別する側にあり、かくのおぞましい行為は決して他人事ですまされないように思えた。. いきおい兵庫県下でおこった、いわゆる﹁播但一揆﹂に目をむけることになった。そして自らの能力も顧みず﹁解放令﹂にまつ わるさまざまなことを検証できれば、と思い至った。. さて先の﹃人権の歴史﹄によると、 ﹁播但一揆﹂の特色の一つとして﹁この一揆が﹃解放令反対﹂をかかげているにもかかわ. らず、部落が襲撃されていないこと﹂註四があげられていた。またこのことに関連して、 ﹁群衆はすべて大庄屋、庄屋づたいに. 行動を起しており、その通路に経皮多村があっても襲撃していない。それのみか各種史料によると多く元皮多村農民がこの一揆. に参加し行動を共にしている﹂とされ、 ﹁まったく維新政府権力に対する反抗であり、その末端権力、悪徳地主商人に対する珠. 伐であって、解放令に反対する農民の姿などどこにも見当たらない﹂註五とする先行研究にも出会うことになる。そしてかくの. 一. 一. 1.
(5) に. め じ は. の中で、 ﹁播但一揆﹂を叔父・叔母から聞いた. 一揆は民衆の﹁やむにやまれぬ抵抗﹂ 註六である、という結論に繋がってくる。. そしで和辻哲郎も﹃自叙伝の試み﹄ 次のようにふれている。. ﹁明治四年十月に勃発した暴動﹂として、. −⋮直接の原因は、その八月末に出た太政官布告、 ﹁臓多非人の称を廃し、すべて平民に編入する﹂という処置に対し. ての、憤慨であったと言われている。その勃発の時期からいうと、廃藩置県が実現される直前のことである。廃藩置県. の詔が発せられたのはこの年の七月であったが、それが実施されて姫路藩が廃され姫路県︵数日後に飾磨県︶が置かれ. たのは、十︼月の初めであった。暴動が起こったのはその半月前であるから、廃藩ということが引き起こした不安の現 われとも見られよう。. 暴動のきっかけとなったのは、わたくしの村より二里半ほど上流にある山崎という村の庄屋が、人別改めのためその. 近くの辻川という村まで出張して来た藩の役人に対して、一般の農民を臓多非人と平等に扱うという新制度への不平を. 訴えたことであった。これに火をつけられて市川の谷の農民が一揆を起こした。それが北は生野地方へ、南は姫路周辺. の地方へ伝染した。あちこちの庄屋や大庄屋が焼き討ちに逢った。わたくしの村の庄屋は焼かれなかったのであるから、. たぶん一揆に参加したのであろう。一揆の連中は姫路を目ざして行進したと見えて、わたくしの村をも通ったのである. が、それが夜中だか暁方だかで、女子供は急に起こされて、大急ぎで西の山の方へ逃げたという。⋮⋮註七. 和辻は﹁播但一揆﹂を﹁この暴動は、稜多非人の問題についての意志表示というよりも、むしろ維新政府に対する不信頼の感情. の勃発というべきもの﹂と評価している。また青墨の連中は姫路を目ざして行進したと見えて、わたくしの村︵仁豊野︶をも通. に ぶ の. った﹂と、当該一揆の異なった経路をも伝承している。. どうやら﹁播但一揆﹂には微妙な問題が内包されており、典型的な﹁解放令反対一揆﹂としての評価を拒んでいるようにみえ. る。かくの見方があることを銘記しつつ、史料の精読等によって納得しうる﹁播但一揆﹂を構築したいと考えた。. 一. 一. 2.
(6) め じ は. に. そして当大学院に在籍するにあたり﹁解放令反対一揆・播但一揆は研究されつくされている可能性がある﹂との助言をいただ. き、もしや論文として自己満足的なものに終わるかもしれぬ危惧を感じながら取り組むことになった。しかし当初感じたものを. それなりに切開したいと考え、アプローチする側面を変えるべく近代政治史・藤井徳行教授の指導を仰ぎ、本テーマでのぞむこ. とになった。毎週の演習における﹁先行研究と史料﹂レポートを積み重ねるなか、 ﹁解放令反対一揆﹂の枠組みがいくらかみえ てきたつもりである。. そもそも﹁解放令﹂を一揆の原因とするか契機とするかはさておいて、当時の政治状況の中で﹁解放令﹂がどのようにしてだ. されたかを、まず把握しなければならないだろう。そのことを﹁第一章 維新政府と﹃解放令﹂﹂において展開するつもりであ. る。明治初年の維新政治の一端についてふれることになるのだが、維新史の膨大な先行研究に言及することは”志学“かけだし. のわが身にはおよそ不可能である。したがって、 ﹁解放令﹂布告過程を官制改革の視点に限って考察するつもりである。. また﹁解放令﹂布告は大蔵省・民部省の管掌するところであり、府県を通じ各村に周知されている。そして﹁解放令﹂布告と. 関連して、府県が戸籍調べに直接着手せねばならないことになる。またこのことを含め当時の民政状況を知ることは、当該一揆. の原因を探る上において必須であろう。これらのことを﹁第二章 明治初年民政と播但地域﹂において展開したつもりである。. この章において、ほとんどの先行研究が史料として利用できえなかった﹃福崎町史 第四巻﹄註八を、姫路県の民政状況を解明. する史料として利用させていただく。また生野県の民政状況については、 ﹃藤本市兵衛留書﹂註九を利用させていただいて展開 するつもりである。. 以上をふまえて最後に、 ﹁第三章 いわゆる﹃播但一揆﹄の再構築﹂を展開したい。先の両史料と共に、従来から援用されて ち いた﹃太政類典﹄・﹃府県史料﹄、とくに後者を緻密に検討するつもりである。そして一揆前の状況とあわせて当該一揆の性格. を明らかにし、さらにその性格および一揆の経路から、 ﹁播但一揆﹂が姫路県一揆・生野県一揆の二つに分節化註+されねばな. らないことを論ずるつもりである。なお本論文の趣旨から、本章に全力を注ぐつもりである。. 一. 一. 3.
(7) め じ. に. は. □几 捌捌. ①なお本文中、”解放令・賎民廃止・賎称廃止“等の用語について、厳密な検討を加えていない。布告時期前後や反対一揆の. 際には慣例的に使用されていることから﹁解放令﹂を使用し、それ以外にところでは意味・語感にしたがって使い分けつも りである。. また行政区域において旧兵庫県に相当するものは”兵庫縣“と表記し、現兵庫県を”兵庫県“として区別している。 ︿一太郎︿①﹃・5のフォントの関係から﹁焔﹂を﹁焔﹂と表示してしまっている﹀. ②年号について、年は西暦.︵ ︶内に元号を併記し年層によっている。また月日については、明治五年十二月二日までが旧 暦による表記である。. ③また本文中の︿ ﹀内は筆者挿入文であり、文章の展開上・体裁上そういう形式をとらせていただく。. 本文及び引用史料中の﹁ . ﹂は、すべて強調のための筆者傍点である。同じく﹁ふりがな﹂も、適宜に筆者のつけたもの である。. ④各史料の表記にあたり、できるだけ原史料に近い表記につとめたが、助詞などについてはひらがな表記としている。 ︵例え. ば、 ﹁而←て・者←は・江←へ﹂など。またすでに活字化されている﹃大庄屋日誌﹄も、同様の基準で表記させていただい. たことをおことわりしておかねばならない︶。. ⑤引用史料中の、全角︵︶内は当該史料の編者等が加筆訂正されたものであり、半角︵︶内は明らかな誤りと思われるものを筆. 者が訂正した箇所、および”筆者註“に相当する箇所である。. なお引用史料中の、 ﹁◆﹂は筆者が読みえなかった文字であり、 ﹁⋮⋮﹂は中略した部分である。また史料﹃大庄屋日誌﹂. および﹃近代部落史資料集成﹄における﹁□・■﹂は、編者等が加筆訂正されたものである。. 一. ︻. 4.
(8) は. に め じ. 福崎町史編集専門委員会編﹃福崎町史 第四巻 資料編H﹂ ︵福崎町 平成三年︶ ﹁二 姫路藩山崎重大庄屋日誌 三木進氏所蔵﹂︿以. 但一揆﹂が確実に伝承されていたことは銘記しておきたい。. なお引用文砂中の廃藩置県の事実誤認・一揆の評価などは後の展開に譲るとしても、当時の﹁播但地域﹂に住んでいた次世代の人達に﹁播. 井真教授の﹁第三回公民系修士論文中間発表会﹂におけるご教示による。. ﹃和辻哲郎全集 第十八巻﹄ ︵岩波書店 昭和三八年︶ ﹁わたくしの生まれた家﹂。 この論考の所在を知りえたのは、本学公民系・河. 葉として引用されている。. ﹁ひょうご地域史最前線 人と研究マップ ニ○﹂ ︵﹃神戸新聞﹄・文化欄 一九八八年十月一五日︶に、紹介された安藤礼二郎氏の言. 期待した維新政府にはつぎつぎと裏切られてその憤満が爆発した﹂とされており、②を第一要因として一揆を構築されているといえる。. ﹁実際の行動からみても、それらの行為は殆んど﹃世直し一揆﹂のそれに似ており、農民は幕藩体制以来引き続いて苛酷な年貢にあえぎ、. 要因﹂として、 ﹁①解放令への不満 ②苛酷な年貢減免要求 ③明治新政府への不信 ⋮⋮﹂とされている。しかし﹁一揆の本質﹂として、. 安藤礼二郎著﹃西播民衆運動史︵明治大正︶﹂ ︵姫路文人会議 一九八二年︶。もっとも同氏は、 同書のなかでコ揆発生の幾つかの. ﹃人権の歴史 下 −同和教育資料1﹂ ﹁第四章 解放令発布と解放への動き 第一節 解放令とその波紋﹂. ﹁血税﹂と異なった側面を知ることにもなった。. ﹁北条県一揆﹂は日本史の授業でいわゆる﹁血税一揆﹂としてふれていた。恥ずかしながら、現地見学会に参加させていただいて初めて. 神崎郡市川町西田中 光明寺・玉光順正氏が主宰されており、そこで催されていた講演会のひとつである。. への動き 第一節 解放令とその波紋﹂. 兵庫県部落史研究委員会編﹁人権の歴史 下 −同和教育資料1﹄ ︵兵庫県同和教育協議会 昭和四八年︶﹁第四章 解放令発布と解放. ⑥註記については各節ごとを原則としている。. 註一. 註二. 註三. 註四 二五. 註六. 註七. 註八. 下﹃大庄屋日誌﹄と略す﹀。 現在のところ、この﹃大庄屋日誌﹄についてふれた先行研究は、臼井寿光編著﹃兵庫の部落史 第三巻﹄ ︵神戸新聞総合出版センター 一九九一年︶が一冊ある。. 一. 一. 5.
(9) じ. に. は. 註九. 註十. 生野町所蔵の手書き写本で、全五冊ある。その内﹁第五分冊﹂︿以下﹃藤本留書﹂と略す﹀を利用させていただいたが、原本との照合は で き , て いない。. 分類・分化ではなく、分節化が適切な表現だと思われる。井筒俊彦著﹃意識と本質﹄ ﹁意識と本質 1﹂ ︵岩波文庫 一九九一年︶にあ. る﹁絶対無分節の﹃存在﹂と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り 出して行く⋮⋮﹂に負っている。. 一. 一. 6.
(10) 節 −. ●. ”. 賎民廃止“論議のはじまり. 一八六八︵聖慮四︶年十二月九日王政復古と共に、統治形態は﹁三職・太政官﹂制註五が指向されていた。また外交面の施策と. られ、いずれふれることなるのでここでは割愛する。. では別村運動等の﹁かわたの闘争﹂註四がとりあげられている。これらはいずれも明治初年と内容的に連続性をもっていると考え. 江戸末期における”蛮民廃止“に関係する事象をあげるならば、政治的にはすでに幕府によって臓多頭・弾左衛門とその﹁手下 せんず の者﹂を﹁平人﹂註二に引き上げていることがあげられる。また思想的には加賀藩士・千秋藤篤の﹁治臓詮議﹂註三が、部落史の上. 第一 節. おいて、 ﹁解放令﹂布告とその経過について考察するつもりである。. で維新政府および官制改革の動向と﹁解放令﹂政策化の可能性を考察する。そして﹁第三節 廃藩置県と﹁解放令﹄布告﹂に. まず﹁第一節”賎民廃止“論議のはじまり﹂で公議所の議論を中心にふれ、﹁第二節維新政府の動向と大江卓・建議﹂. 考察の対象とする。. るものではないので部分的な関わりに限定した。時代的にも維新以後の時期に限定し、 ﹁解放令﹂に関すると思われる事象を. 定過程を考察する。この過程は膨大・多岐にわたる明治維新史の先行研究に関連してくるのであるが、本稿が直接の対象とす. 本章では﹁解放令反対︼揆﹂の重要な契機と推定される、︼八七一︵明治四︶年の太政官布告垂、つまり﹁解放令﹂の制. 第 章 維新政府と﹁解放令﹂. 第. 章 第. −. 一. 一. 7.
(11) 節 1. ■. 第 章 1. 第. しては、 ﹁接夷﹂を打ち出さずに前政権の﹁開国﹂策を踏襲註嘱していた。そういう状況下で”騰民廃止“ひいては﹁国のかたち﹂ はどのよケに表われたのだろうか。. 王政復古といわれる如くたぶんに復古的な側面註七、いいかえれば”賎民廃止“に否定的な側面をもっていたことは否めないだ. ろう。一八六八︵慶七四︶年三月・五箇条の御誓文ーー四月・江戸開城lI閏四月・政体書i五月・上野彰義隊鎮圧と続く、九 月・天皇東行に先だって次のような指示が出されている。. 一 、 ⋮⋮ 一、往還筋見へ掛り之石塔・仏像之類等、総テ取隠シ可申事 一、臓多村ハ莚・葭覧等有合之品ニテ取隠シ、戸外不致可申付凶事註八. と、天皇の聖性と対比されるものを﹁取隠﹂すことが求められている。被差別部落に対して﹁莚・葭篭等﹂で隠せという次第であ. むしろ よしず. る。このような側面は、 ﹁服制﹂として一般行政事務にも反映されている。一八七〇︵明治三︶年二月註九、 ﹁大学﹂が﹁産ニテ. 引入二言候処﹂の﹁鈴木少博士﹂の﹁男爵免早々出頭﹂を上申した時、 ﹁弁官﹂は﹁産稼別勅ヲ以テ免シ難キ旨ヲ令ス﹂註+とし. さしめんぜられ ている。. とするならば、”賎民廃止“論議はどういう側面からはじまるのだろうか。原田伴彦氏は、公議所における福知山藩・中野斎提 案﹁里数改定﹂の議論にはじまる註+一とされている。この点を中心に考察したい。 まず﹁公議所﹂とは何か。 ﹁五箇条御誓文﹂草案には、 ﹁會盟︵議事之体大意︶﹂註+二として、. 一︵貢︶徴士期限を以て賢才に譲るへし、 一列侯會議を興し、萬機公論に決すべし、. 一. 一. 8.
(12) −. 節 第 ●. 章 第. 1. という箇条があげられ、 ﹁貢士﹂が書き込まれている。そして同年閏四月の﹁政禮書﹂註+三構想・﹁太政官百官﹂制下において、. ﹁貢士﹂が﹁太政官・議政官・下局﹂における﹁下局﹂議員となり、 ﹁議員承上局命密議画工﹂の任務が与えられている。今日で. いう国会を構想したものであろうが、江戸期に模していえば”列藩江戸詰家老会議“であろう。かかる﹁下局﹂が同年五月二十八. 日﹁貢士対策所﹂と名称変更され、公務人に志士があたるとされていた註+四。そして同年十月十八日の﹁藩治職制﹂註+五によって、. つぎのようなかたちをとる。 ﹁公議人﹂は﹁掌奉承 朝命代國論備﹂ることを任務とし、 ﹁一公二人ハ、執政・参政中ヨリ出スヘ. 註十七. ︵同年四月二日︶に、. シ﹂と選出基盤を明確にされ、︼八六九︵明治二︶年三月七日目公議所﹂が開院註+六されたのである。. そして﹁公議所日誌 第六﹂. 里 数御改定ノ議. 福智山議員 中 野 斎. 諸道ノ内朱印地稼多等、醤幕府ヨリ諸役免除ノ故ヲ以テ、路程町敏ノ高二身ラザル者、往々有之、且土地古来ヨリノ沿襲. ニョリ、五十町一里と稻スルモノアリ。是等ノ類、里数平等ナラズ、人馬ノ労ヲ掠ムルコト少ナカラズ。依テ以来都テ 皇国従来ノ里程三十六丁一二定仕度奉存候。. という提案のもとに評論が行われている。提案主旨は、 ﹁諸役免除﹂の土地をなくして律令の一里11三十六丁に統一し、駅逓役を. 等しく負担すべきである、という経済的な問題として提出されている。これに対し四十二名の評論が記録されている。評論は、同. 論十九名、徐々にあるいは政体基礎確立後に実施等の条件付き同論二十一名、反対二名に分類することができる。問題は﹁里数改. 定﹂によって駅逓役を勤める範囲を拡張していけば、 ﹁人外の者﹂が﹁平民﹂扱いされる論理につきあたることにある。いわば本. 論から少しズレたところで”賎称廃止“論議がはじまったといえる。実際に﹁臓多ノ構ヲ廃シ﹂等のことばを使って評論した者、 九名をあげることができる。. 一. 一. 9.
(13) 1. 節 第 ●. 章 −. 第. その中で注目すべき評論、はじめに”賎称廃止“にふれたもの、次に﹁里数改定﹂反対のものをあげておく。. 稲 津 濟. 附議尤妙。社寺画工ヲ丁数二入ル\上ハ、之二丁スル者モ、駅逓ノ役ヲ勤ムベシ。稼多モ同シク人類ナリ、以来人ト歯セ. シメ、駅逓ノ役ヲ勤メシムベシ。且諸侯ノ朱印ヲ賜ル者、従来諸役ヲ免除セズ、故二社寺ノ朱印アル者モ、諸役ヲ勤ムベ シ。. 熊 谷 貞 蔵. 朱印地臓多十王云々允当二二タレトモ、役人馬丁差出スニ、械多地等ハ不都合ナラン。且五十丁一里ハ荒蕪ノ地ニシテ、. 民家少ナク役人馬ヲ務ムルカナキ故、一里ヲ五十丁二君バシテ、務ムルナリ。今之ヲ改ムルハ、御仁樋二重ズ。 よわい. 稲津の﹁臓多モ同シク人類ナリ、以来人ト歯セシメ﹂という評論註+八は、千秋の﹁安有人膿而獣性親芋。西土既無導者くどうし. て人の躰をなしている︵臓多を︶畜生だといえよう、西洋では既にこのようなものは廃止されているv﹂註+九に連なる論理が内包. されている。だが民衆の生活基盤を考慮することなく、はじめに﹁駅逓ノ役ヲ勤ムベシ﹂という経済的な原則に制約されている。. それに対して、熊谷は﹁役人馬ヲ務ムルカナキ故﹂に反対評論している。生活基盤を考慮するがため﹁仁加﹂を主張し、江戸期と. じんじゅつ. 同様な現実的政策を肯定し﹁役人馬等差出スニ、臓卜地墨ハ不都合ナラン﹂という”差別に無意識な感覚“註二+を温存させている、 とみることができる。. この公議所の論議から、. ①﹁里数改定﹂はほとんど経済的な観点で評論されており、直接”賎民廃止“にむかう論理ではない。だが、租税負担の平. 等を求める過程、いわば中央集権体制確立過程の延長線上において、 ﹁解放令﹂と交錯することが予測できる。. ②間接的な評論とはいえ八名の議員が”騰民廃止“に言及したことは、一粒内・一建議のレベルにとどまらず維新の方向性. を暗示するものである。しかし、政策として実施される可能性のある論議ではありえなかった。. 一. [. 10.
(14) −. 節 第. 章 第. 1. ということができるだろう。また維新政府の機関である公議所でこの論議が行われたことによって、 報伝達註二士される可能性があったこともっけくわえておかねばならない。. なんらかのかたちで民衆へ情. 註一 上杉聰著﹁明治維新と騰民廃止令﹄ ︵解放出版社 一八九〇年︶﹁はじめに﹂。 ﹁太政官布告第六一号﹂︿﹁太政官布告第四四八号﹂の呼び名. 等も﹀は、 ﹁﹃太政官日誌﹄の冊子の号数が布告番号と誤解され﹂た結果だとして退けられ、さらに﹁賎民廃止令﹂とすべきことをのべられてい. る..浅学の身ゆえ知らないことが多く、意識化させられた。部落史に新鮮な感覚で切り込まれている同氏の同著を、本研究にあたり﹁最終到達点﹂ の判断指標とするべく読ませていただいた。. 註二 谷川健一編﹃日本庶民生活史料集成 第十四巻 部落﹄ ︵=二書房 一九七一年︶ ﹁弾内記身分引上一件﹂。 同書によると、弾左衛門の平人引. き上げが慶朦四年正月十二B、 ﹁手下の者・六拾五人﹂が同年二月五日︵以降︶となっており、ほとんど維新期と重なっている。また改名した弾内. 記は被差別民の解放にむけて内干している。内藤の制約上からか、 ﹁人の支配﹂的な解放論にみえる。だが根底には、 ﹁是迄数百年の流弊にて、. も︵、て 平瓦と申名目より境界相成居候事、天地間に生を血道人種に替りは無智庭、人論︵倫力︶の交不相成は誠に以歎ヶ敷の極に御座候﹂とあり、天賦 人権思想をみることができる。. 註三 同右﹁治樵多議﹂。 同書は、 ﹁鳴呼、國巌窟四海為家、以三民為子。一視同仁、論及禽獣。﹂を以て解放論の二二とされているが、 ﹁宜復於民. 籍 ..一朝復胃癌、民亦不遜容之、山豆不違格耶。面面為之制。返書其長、選其愚直而勇者・義者、年抜其葦、以復民籍、授之田慮、課以農桑﹂と. 選別的側面を持ち、 ﹁既化為良民、則其下五。増藩論、一也。二百口、二也。倍租税、三也。昨則彼、以西為 仇僻、葦葺以南為父母。服労供職、. 四也。昨則丁目為醜類、今則彼岸孝子順孫。民之視之、亦将奮励興起、五重﹂と経済的な効用を中心にのべているように、ストレートに解放論と はいえない側面も持っている。. 註四 原田京子著﹃丹波国被差別部落﹁別村﹂闘争の研究﹄ ︵兵庫教育大修士論文 平成五年度︶。 ﹃日本庶民生活史料集成 第十四巻 部落﹄に当 該史料が掲載されていたが、前著を参考にさせていただいた。. 註五 東京大学史料編纂所編﹃明治維新史料選集 下・明治編﹄ ︵東京大学出版会 ︸九七二年︶︿以下﹃明治維新史料選集﹄と略す﹀﹁三 王政復古. 一. . 11.
(15) 節 −. ●. 第 章 1. 第. 大号令関係史料之三 〇首罪三年十二月九日 中山忠能履歴資料﹂に、 コ太政官始追々可被為興下間、其旨可心得居候事﹂とある。 註六 同右﹁九 諸外国使節に王政復古通告関係史料 ○明治元年正月十五日 外務省記戊辰中立顛末﹂. 忌門 日本史籍協会編﹁岩倉具視関係文書 一﹄ ︵東京大学出版会 昭和二年︶ ﹁國禮昭明政膿確立意見書 明治三年八月力﹂。 岩倉はここで﹁建國. 之体裁﹂について、 ﹁皇統﹁系ノ國体立テ於是乎大政ノ其根﹂は﹁陛下 天神二奉スル所以ノ務ニシテ億兆蒼生各自ラ其壷ス所ノ公理ヲ墨﹂すこ. とで可能だといっている。要するに﹁祭政一致之旨II神明ノ億兆蒼生ヲ換済シ玉フモ 至尊ノ億兆蒼生ヲ極済シ玉フモ其寺詣唯一是故二祭リ事. ハ政リコトナリ政リコトハ即チ祭りコトナリ﹂と、神道政治を展開せんとしている。だが彼は同時に、下位概念である﹁経論之基本﹂によって柔. 軟に現実と向き合う回路をも持っていたように思われる。 その論理と交錯するところに、大久保のいう﹁政府ノ根軸﹂ ︵日本史籍協会編﹃大久. 保利通文書 三﹄ ︵東京大学出版会 昭和三年︶ ﹁二九〇 政府の艦裁に関する建言書 明治二年正月﹂﹀や、木戸のいうコ定之目的﹂ ︵日本. 史籍協会編﹃木戸孝允文書 四﹄ ︵東京大学出版会 昭和五年︶﹁七九 三條讃美宛書翰 明治三年八月廿日﹂︶があると思われる。. 註八 原田伴第二編﹁近代部落史資料集成 第一巻﹁解放令﹂の成立﹄ ︵三一書房 一九八四年中︿以下﹃近代部落史資料集成 1﹄と略す﹀﹁五 天 皇東行のため樵多村の取隠し等を指示 慶応四・八・一 ︵﹃法令全書﹄ 第一巻︶﹂. 出雲 圓城寺清著﹃明治史資料 大隈伯昔日諜﹄ ︵冨山房百科文庫 昭和十三年︶八以下﹃大隈伯昔日潭﹄と略すv﹁一七 進歩主義と保守主義の消長﹂。. いずく 同書によれば、この時期を﹁⋮⋮其の極端に走り、絶頂に達したる進歩主義の勢焔、亦た焉んぞ能く此の理数を免かる㌧を得んや。其の反動は、 明治二年に至り勃如として起れり﹂と、”復古主義“が強まったとしている。. 註+ ﹃近代部落史資料集成 1﹄ ﹁二七 出産の櫨により出勤を不許可 明治三・二・一 ︵﹁太政類典﹄第一編第=二巻︶﹂。 ただこの件につい. ては、同右﹁二八 制度局から服忌について改定案 明治三・三・一﹂にあるように、改正の方向が出されている。. 註+一 原田伴彦著﹃被差別部落の歴史﹄ ︵朝日選書 一九八○年︶ ﹁第五章 明治維新と解放令前夜 解放令の発布﹂に、 ﹁この公議所の意見がのち. の賎民解放令へのひとつの踏み台となったことは否定できません﹂とある。 註+二 ﹁明治維新史料選集﹄ ﹁一六 五箇條の御誓文関係史料之一 ︵り明治元年正月 國是五章草案﹂. 註+三 同右﹁三四 政艦書関係史料之︸ ○明治元年閨四月二十一日 政早書﹂. 註+四 明治文化研究會編﹃明治文化全集 第一巻 憲政編﹄ ︵日本評論社 昭和三年︶八以下﹃明治文化全集 1﹄と略す﹀﹁公議所日誌 前篇上﹂ 註+五 ﹃明治維新史料選集﹄ ﹁四六 藩治職制関係史料 ○明治元年十月二十八日 行政官達﹂. 一. 一. 12.
(16) −. 節. ●. 第. 章 1. 第. 註+六 ﹃明治文化全集 1﹄ ﹁公議所日誌 第一﹂ 註+七 同右. 註+八 この評論だけで彼の考え方を断定するには問題があるので、参考までに他の議案での評論をみる。 同右﹁公議所日誌 第十﹂ ﹁第九號議案撮. 略天主教ヲ駆ノ議﹂によれば、稲津は﹁三筋二神教館ヲ設ケ、⋮⋮型置ヲ奉ゼザレバ、平人二三スルヲ船固シメズ、⋮⋮異教ヲ奉ズル者アラバ、. 罪ヲ此教館町帰セン、此教ヲ設ケズ、二二謙除スルハ不可ナリ﹂と評論している。また、同輩﹁公議所日誌 第十六上﹂ ﹁第十號 切腹禁止可然 リナへじょノヒ ノ議﹂よれば、彼は﹁士二割腹ヲ命ズルハ、斬二庭セントスレバ、情団長テ憐ムベク、死ヲ宥メントスレバ、法一婦テ赦ス可ラズ..鐵 辱セズシ. テ、自裁セシムルナリ。⋮⋮此刑決シテ廃ス可ラズ﹂と評論している。そして森金之丞︵有禮︶提案の 同罪﹁公議所日誌 第十七﹂ ﹁第十二號議﹂. 案﹂、いわゆる廃刀論については、 ﹁皆否ノ事﹂なのである。以上のことから、基底にある士族意識は変わらないが、稲津は.やや柔らかい崩発 想をしているといえるだろう。 註+九 ﹁日本庶民生活史料集成 第十四巻 部落﹄ ﹁治樵多議﹂. 註二+ ﹃明治維新と賎民廃止令﹄ ﹁第三章 賎民廃止令の成立過程 二 明治二年公議所における﹁評論﹄と議案録にみられる﹃建議﹄﹂。 同書で. 氏は、 ﹁⋮⋮熊谷は、 ﹃臓多地等は不都合ならん﹄の言葉によって公議所唯一の﹁解放反対論者﹄にされている。しかし前後の文脈からすれば、. 右のか所は﹃御仁櫨に非ず﹄にかかるとも取れるのである﹂とされている。だが、後段は﹁荒蕪ノ地﹂観点から述べているだけであり、旧来の差. 別意識を問い直すことなく仁政を施すべきだ、としていると思われる。彼の公議所における四つの発言︿﹁同論﹂を除いて﹀を検討してみると、. ﹁先ヅ新調約ヲ立、交際上信義ヲ主トシ、彼我互二害物無蓋様説明シ、名教ヲ明ニセバ、文化行ハレ、邪誕ノ説自ラ廃センカ。然うザレバ、徒二. 人命ヲ損シテ⋮⋮﹂ ︵﹃明治文化全集 1﹄ ﹁公議所日誌 第十五﹂﹁第九號議案 天主教ヲ駆ノ議﹂︶が彼の考えをよく示していると思われる, したがって結論的には、 ﹁唯一の﹁解放反対論者﹂﹂ではないことに同意できる。. 註二+一 ﹃明治維新と賎民廃止令﹄ ﹁第一章 維新の内乱と被差別部落 六 維新の内乱と被差別部落﹂で、松山藩・関東・兵庫でその情報伝達があ つたことを示されている。. 一. 一. 13.
(17) 節 第. 2 ●. 章 −. 第. 第二節 維新政府の動向と大江卓・建議 公議所のその後の建議. 公議所の議案提出は議員のみに限られたものではなく、今日の”請願権“的なもの註一も認められていたようである。. ﹃議案録﹄註二から、それらも含めて”賎称廃止“に関連するものをあげていくと次のようである。 刑法官権判事・津田眞︸郎の﹁第十 人ヲ責買スル事ヲ、禁スヘキ議﹂ ︵春三月︶ 會計官権判事・加藤弘蔵の﹁第十三 非人稼多言廃止ノ議﹂ ︵夏四月︶. 日出議員・帆足龍吉の﹁第十八 稼多ヲ平人トシ、蝦夷地二二スベキノ議﹂ ︵夏四月︶ 福知山議員・中野斎の﹁第二十一 戸ロノ権ハ、官二有ヘキノ議﹂ ︵夏四月︶ 外國交際課の﹁第三十一 外國人二被雇候者規則案二條﹂ ︵夏四月︶ 制度寮准撰脩・神田孝平の﹁第三十九 税法改革ノ議﹂ ︵夏四月︶ 江右賎民・是洞比古太郎の﹁第五十 禁洋服ノ議﹂ ︵夏四月︶. 公議所書記・大岡玄蔵の﹁第五十五 生殺ノ権ヲ樵多頭稲妻スヘカラスノ議﹂ ︵五月︶ 松本藩・内山総助の﹁第五十八 臓多非人ノ身分御改正ノ議﹂ ︵五月︶ 常陸國羽生村・生島更作の﹁第六十六 貴賎ノ別ヲ軽スル事﹂ ︵五月︶. 公議所の. 前節・公議所の議論をこれら﹁議案﹂はどう引き継いでいるのだろうか。外國交際課の﹁第三十一 外國人阻塞雇回者規則案二. 條﹂︿以下﹁第三十=と略す、他の項目も同様vの評論中に、 ﹁既二其官職ヲ受クレバ、内國ニテモソレ丈ノ取扱アルベシ。然. 一. 一. 14.
(18) 節 2 ●. 第 章 −. 第. とも. レ滝、其者ノ元籍稼多非人ナレバ、甚ダ不都合ナランカ﹂註三と、差別的取り扱いにつきあたっている。また﹁第五十﹂の﹁江右 いろあい 賎民﹂は、、﹁皇國衣服ノ制度大二石山セリ、是ヲ以テ軸上卑下ノ名分直立サルニ至レリ﹂と復古的な色相を押し出しており、旧思 想を超えていくものではない。. それに対して、津田の﹁第十﹂・加藤の﹁第十三﹂・大岡の﹁第五十五﹂には”賎民廃止“に連なる論理が明確に示されている。 天賦人権思想や法の支配に連なる考え方に裏付けられている。ちなみに加藤の建議を引用すると、. 非人械多之儀、其縁由確説分リ兼候得土ハ、到底人類二相違無偉者ヲ、人外ノ御取扱二相成候ハ、甚以天理二背キ候儀、且 あた ハ方今外国交際ノ時二方リテ、右様ノ事二黒二被成置候テハ、第一御国辱此上モ無之儀ト奉存候。何卒此御一新二方リ、. 右非人臓多ノ称被廃止庶人二白幡へ相成候様仕度、已二三幕府ニテ、昨春弾内記支配下ノ者臓多ノ称廃候儀有之候処、御. 一新二方リ、猶右様ノ監獄御心付無之候ハ、乍恐王政ノ大御敏典ト奉雪靴間、右此度改テ庶民工御加へ有之度、奉存候。. と、 ﹁︵非人臓多は︶人類二相違無煙﹂の天賦人権思想だけではなく、外交上の﹁国辱﹂・江戸幕府の﹁身分引上﹂にも言及し、”. 賎民廃止“の状況をまとめている。多くの先行研究の評価されている通り、維新期にあって正面から”賎民廃止た対峙した思想 であるといえる。. だがまた、その思想がどの程度現実化されるのか、どういう制度・施策に具体化されるのかという問題も考えなくてはならない。. これについては﹁改テ庶民工御忌へ有之度﹂いとあるだけで具体的評論がない以上、前節・公議所の評論の域をでるものではない. だろう。帆足の﹁第十八﹂・内山の﹁第五十八﹂は、ある意味では施策に関する建議とみることができる。帆足の建議を引用する と、. 方今蝦夷之賊追々御平蕩ノ上ハ、同所御開拓ノ儀索然ト前歴候和蘭、同所ハ人口寡少ニテ、⋮⋮。蜜蝋、當時繊多ト申ス. 一種アリ、古奥羽二二セシ一種夷人ノ窩ニテ、上古蝦夷ノ俘ヲ、伊勢廟一献シ給ヒシニ、牛馬ヲ食ヒ、⋮⋮。此度御一新、. 非常ノ大赦被 仰出候廉ヲ以テ、宜シク蓋ク召集メ、伊勢 太神祠二詣リ、祓除シテ平人トナシ、之ヲ蝦夷地二移シ、金. 一. ︸. 15.
(19) 節 2 ●. 第. 章 −. 第. 坑材木捕動天ノ利ヲ興シ、耕種畜牧ノ業ヲ開毛シメハ、臓多モ亦平人トナルヲ喜ヒ、遷従ノ労ヲ忘レ守内、此至當ノ御庭 置ト奉存候。. と﹁平人トナシ﹂とあるものの、 ﹁伊勢 太神祠二毛リ、祓除シテ平人トナシ、之ヲ蝦夷地二移シ﹂とあるように、解放にほど遠. い論理がみえている。一ヶ月後の内山の議案になると、 ﹁當節世上風評ノ如ク蝦夷地等へ御移シ﹂ということばがみられる。”騰. 称廃止“でさえ困難な当時の情況をみることができるのではないだろうかく後にふれる大江卓・建議にもでてくる、強制移住とい う発想はいったいどこからやってくるのだろうか﹀。. そして公議所は廃止註四され、かわって集議院が設置帳〆されることになる。組織内容として集議院は、公議所と大きくかわるも. のでない註六。集議院で取り扱われた議事・建議は一〇七と多くなっているが、ほとんどを﹁贋金﹂・﹁大饗校規則﹂・﹁海陸二. 軍拡張﹂・﹁宣教師設置﹂・﹁冠服制度﹂・﹁藩治規則﹂・﹁度量衡﹂の議事に費やしている。また一〇〇ある建議の題目に、直 接”賎民廃止“に関わるものがみあたらないのも特徴の一つである。. 二 官制改革に内包されるもの. そもそも集議院は官制改革のなかでうまれてきている。”富民廃止“の施策過程も維新政府の統治組織の変遷と何らかの関係が あるのではないか註七、と推定される。. 前項でのべたように、維新政府は﹁三軸・太政官﹂制の統治形態と﹁開国﹂の外交政策註八をとっていた。一八六八︵慶鷹四︶. 年十二月九日、暫定的に﹁三態﹂制で政府を樹立する。この段階では三職のほとんどを親王・公卿・諸侯が占め、藩士は参與に十. 二名が予定註九されている。 ﹁三面分課﹂については、同年正月十七日に﹁神祇・内國・外國・海陸軍・會計・刑法・制度﹂註+の. 一. 一. 16.
(20) 節 2 ■. 第. −. 章. 第. 七科となっている。各課の﹁総督﹂には公卿・諸侯が、 ﹁掛﹂には参與となった藩士があてられている。さらに﹁徴士・貢士﹂が. 制度化され、人材登用の急務が明確化されていた。統治形態を具体的に考察するため、さきの推定を次のような視点でみていぎだ い。. ①統治組織を支える思想の傾向として、復古的な側面と進歩的な側面という二つの軸が想定できる。. ②統治組織の職制・人的配置として、公卿・諸侯と﹁中等以下の藩士﹂註+一の力関係も想定できる。. ③そして諸事件が外部的・偶然的に統治組織に影響を与えることを考慮しておく。. ⊃二号・七科﹂制︿内閣に相当する﹁総裁局﹂が明確化された同年二月の﹁屋職八局﹂制は、この延長上にある﹀は、 ﹁総督﹂. に公卿・諸侯があてられていた職制・人的配置から推定できるように、復古的な傾向を読みとることができる。かくの職制の﹁階. 級格差﹂の存在註+二にもかかわらず、政務の中心的担い手の逆転化現象註+三は、統治組織の変化を余儀なくさせたと考えられる。. 人材登用はその表現であり、大隈重信のいう﹁進歩主義﹂・,田中光顕のいう﹁階級打破﹂のスローガンもかくの状況において理解 しなければならない。. わずか ども かいこう. そして同年閏四月、 ﹁皇政維新纏二一二職ヲ置キ、綾テ八局ヲ設ケ事務ヲ分課スト三二、兵卒倉卒之間事業未ダ恢弘﹂しないの. で、第一次﹁太政官・七官制﹂註+四が発足する。律令制・太政官という復古的イメージに三権分立の新思想が盛り込まれたもので あり、進歩的な側面が確実に反映されたものである。曰く、. 一天下ノ権力総テコレヲ太政官二二ス、則政令二途二士ルノ患無ラシム、太政官ノ権力ヲ分ツテ、立法・行政・司法ノ三 権 トス 一立法官ハ行法官ヲ兼ヌルヲ得ズ、行法官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ズ 一:. 一各府・各藩・各縣皆将士ヲ出シ議員トス、議事ノ制ヲ立ツルハ輿論公議ヲ執ル所以ナリ 一 ⋮ ⋮⋮. 一. 一. 17.
(21) 節 2. 第 ●. 章 −. 第. 一諸官四年ヲ以テ交代ス、公選入札之法ヲ用ユベシ註+五. 行政各官の職制として﹁知官事・副知官事・判官事・翌翌官事﹂がおかれ、その人的配置は﹁三職制科﹂と様相を異にしている。. 議政官・議定あるいは副官・知事に﹁公卿・諸侯﹂が配置されていることは変わらないが、各面・副知事に各藩空士が登用註+六さ. れている。つまり政府の中枢実務に﹁中等以下の藩士﹂が進出しているのである。さらに五稜郭開城前の一八六九︵明治二︶年五. 月十三日には政府中枢そのものに変化がおこっている。 ﹁公選入札之法﹂の実施註+七がそれであり、唐突に・ただ一回だけ﹁三等. 官以上で選挙﹂註+過している。部分的とはいえ進歩的な側面が政府中枢にも影響を与えていたことをうかがいうる。. だが、同年六月十七日﹁版籍奉還﹂︿同年五月十八日間﹁五稜郭開城﹂をうけて﹀を契機に変化がおこる。 ﹁根側﹂を希求する. 大久保利通註+九等と﹁百事の改革﹂をめざした大隈重信註二+等との対立であり、いわゆる﹁漸進主義﹂と﹁急進主義﹂との相違が. 綱二日ク、博愛ノ心二基キ、人命ヲ重ジ、萬民ヲ視ルニ上下ノ別ヲ以テ軽重ス可ラズ、人々ヲシテ自在自由ノ権. 二浴セント欲スレバ、唯全土ノ政治ヲシテ﹁斉二云云シムルニ若ク者ナシ。⋮⋮. 目二日ク、海外諸國ト並立シテ文明開化ノ政治ヲ致サシメ、天性同着ノ人民賢其所ヲ得、上下均シク聖明ノ徳澤. セシム可シ。. 綱二日ク 酒石政治兵馬ノ大権ヲ朝廷二重セシムルヲ目的トシテ、勉テ転々偏頗ノ制ヲ除キ、萬民ノ方智ヲ一定. 表面化するに至る。ここでは特に後者の論陣をはった伊藤博文・﹁國是綱目﹂風潮+一に注目したい。 第二條. 第四心. ヲ得セシム可シ。. 目二日差、衆庶ノ世郷在ル、貴賎賢愚皆異殊アリト難モ、天地ノ通義ヲ保チ、其生命ヲ重ンズルニ至ッテハ固ヨ. リ差別アルコトナク、政府モ亦之ヲ恣ニスルノ権ヲ執ル可ラズ。是ヲ以テ貴モ賎ヲ奪フ能ハズ、賢モ愚ヲ侮ラズ、. 各自天命二安ジ、人職ヲ勤メ、士農工商悉ク其所ヲ得セシメ、士ヨリ農トナリ、農ヨリ商工トナルモ亦妨グ可ラ. 一. 一. 18.
(22) 節. ●. 第. 2. 章 −. 第. ズ。況ンや貴地ノ民此地墨移住シ、此ノ地ノ民畑地二往来スル等総テ自由適意ニシテ之ヲ束縛セシム可ラズ。. へんぱ ﹁海外諸國ト並立シテ文明開化ノ政治﹂をせんがための国権主義的立場にあっても、 ﹁隠々偏頗ノ制ヲ除﹂かんとし﹁政府モ亦之. ヲ恣 ニスルノ権ヲ執ル可ラズ﹂の﹁天地ノ通義﹂を保障すべきだ、というのだ。しかも﹁士ヨリ農トナリ、農ヨリ商工トナル. ほしいまま. モ亦妨﹂げずく職業選択の自由﹀、 ﹁此ノ地ノ民笛音二往来スル素意テ自由適意ニシテ之ヲ束縛セシム可ラズ﹂︿居住移転の自由 ﹀といいきっている。当時の進歩的な側面の雰囲気を髪髭とさせる﹁建議﹂と思われる。. ほうふつ. しかし結果的には、かくの政治意識をもった大隈・伊藤等が積極的に活動できるような体制ではなく、大久保のいう﹁根軸﹂が. 同年七月八日の第二次﹁太政官・上官六省﹂制として結実したのである。 ﹃副島種亡児﹄によれば、 ﹁更に官制は改革せられたが、. これは堂上公卿や國忍者の不平緩和策である。復古的色彩を濃厚化したもので主なる立案者は蒼海先生であった﹂註二+二と伝えて. いる。政治的状況は復古的な側面に移行したのである。しかしその一方、職制・人的配置ではむしろ﹁中等以下の藩士﹂が政府中. 枢に確実に進出している。各省・卿こそ﹁公卿・諸侯﹂であるが、各省・大輔はすべて﹁中等以下の藩士﹂で占められているので ある。依然として人材登用の必要にせまられていた状況を察することができる。. かくの状況下で、”賎民廃止“施策はどこに求めることができるのだろうか。さきの﹁國是綱目﹂にみられるような進歩的な側. 面を代表する勢力に潜在しているはずである。大隈は第二次﹁太政官・二官六省﹂制について、次のように述べている註二士二。. およ 明治二年、保守主義の反動起るに追んで、同志朋友の間に於て、衝突軋礫の形 を現出するに至りしも、亦た此の理数に. 外ならざるなり。余が同藩の親友大木副島の諸氏と政治上の主義に於て相敵視するに至りたるは、實に此の時より始まる。. 蓋し余は奮物を破壊し百事を改革して、久しく懐抱したる壮大の希望を成し遂げんと欲し、即ち﹃王政維新﹄の精神を以. て盛んに進歩主義を唱道し、急激なる改革論者を以て自ら︵任︶ぜり。副島も急激なる進歩主義が浴天の勢を以て天下に奔. 流する時に生りては、固より身を其の渦瀾中に投じて熱心に惚れを唱道し、明治元年の官制改正などには湿りて力ありし. に、一旦、保守主義の反動勃起して、明治二年更に官制改正を墨行せんとするの時には、翻って其の反動に連れ﹃王政復. ︸. 一. 19.
(23) 古﹂の説を唱へて、進歩主義に反抗するに至れり。⋮⋮. 強なる同志とは、曰く伊藤博文なり、曰く井上馨なり、曰く前島密なり、渋澤栄一なり、山口尚芳なり、五代友厚なり。. 是等の人々は、何れも年少気鋭にして余と其の志を同じうし、余を援けて外交、内治、及び財政の三大難局に、急激なる 改革を施さしめたりき。・⋮. 而して奮物の破壊と云ぴ、百事の改革といふが如き急激なる進歩的施設は、全く余等の企書より出で、⋮⋮事情此の如く. なりしを以て、世人は築地を指して進歩的施設の出つる所と為し、且つ稻するに梁山泊を以てしたる程なりき。. ﹁奮物を破壊し百事を改革﹂すると、なかなか意気軒昂註二+四である。そして大久保等と大隈等が正面から衝突したのは、民治行. 政に関する﹁民蔵分離﹂問題︿大蔵省を民部省と大蔵省に分離すること﹀と称される事件においてである。同年七月十一日に﹁民. 蔵併合﹂註二+五されていたものが、翌↓八七〇︵明治三︶年七月十日﹁民部・大蔵両省に分離﹂される過程の中に如実にみること ができる。この間の事情を大隈重信は、. ひんしゅく 殊に三條、岩倉両氏の如きは、余等が 事を企書し、一案を提出する毎に、必ず﹁潤たしても﹂と蟹正して憂慮する様 すこぶ は、其の言色に見えたり。濁り山内容堂は﹁イや何でも面白し、やるちゃ、やるべし﹂とて、頗る急激なる改革論を喜 びたりき。. いおう と述懐註二+値している。これに対して大久保利通は、 ﹁兼て御配慮被為在大蔵省記事是非都合克御引助ケ無之ては 以往之大事顕. 然いたし候 今日二ては其令する庭一として人心二適シ候事無之 意外に背キ候有様に御坐候﹂割田+七からはじまってついに、. ⋮⋮此節ハ両様判然と御確定無御坐重てハ 所詮丸形こてハ前途奏功之見留相重盗申 尤昨日も民部卿始参朝段々建議之. ﹁民蔵人撰分離両様判然決定之事﹂註二+八と建議している議了+九。かかる事態に、 2. 節. 趣有之旨趣 氷炭相反シいずれ之筋根本政府之御目的と言者が確乎不抜 是が千載迄も動かぬと申居り相盛候て 一方二. 御片付無御坐候ては 連も曖昧こて此末蛇行れ候事六薬舗 射ては両様之庭右府公始へ篤と御爺申上眞二軸安心被為在候. とて むずかしく. 第 ●. 章 第. 1. 一. [. 20.
(24) 節 2. 第 ■. 章 1. 第. て 是ならハ愈御貫徹被為出来候庭二御治定願上候筈二御坐候− ..註三十. と、岩倉具視が決断しえない状況にたち至っている。併合された大蔵省のままでいくのか、それとも﹁民蔵人撰分離﹂するのかに. ついて﹁氷炭相反シ﹂ている。大久保は、岩倉にどちらが﹁根本政府之御目的﹂か決断する必要を迫っている、 ﹁因循二陥﹂るな. らば﹁終二不可救﹂とつけ加えて。大蔵省の組織形態の適否はさておいて、ここでは大隈等の勢力が政府中枢にとって無視しえな いものであったこと註三+一を押さえておきたい。. 裏を返していえば、復古的な色彩あるいは﹁漸進主義﹂状況下にあっても、進歩的な側面に連なる”開明派官僚“の政治・政策. 行動はやむことがなかったと考えられる。一八七〇︵明治三︶年九月十九日﹁平民苗字ヲ許ス﹂註三+二・翌年三月十九日民部省伺. に﹁発牛馬其獣類ノ死屍共所有主ノ随意二庭以下シム﹂註三+三・同年四月一七日﹁平民乗馬ヲ許ス﹂註三+四・同年六月﹁諸官員礼. へいぎけロりば. 式ノ 外廃刀ヲ許ス﹂註三+五の布告がだされている。また産業経済施策でも一八七一︵明治四︶年三月﹁東京ヨリ長崎マテ電信架. 設二付英公使往復書﹂註三+六とあるように、近代的・開明的施策が着実に実施されようとしている。. もちろん、一九七一︵明治四︶年二月大津県の﹁奉上ト交ル坐卓多ト密通スル男女ノ三分﹂註三+七伺いに対して、耕官は﹁臓多. ノ素性押隠シ良人ト交ル者京浜ト乍知交ル者⋮⋮知テ姦通スル男女各凡姦罪二一等ヲ加フ⋮⋮﹂という回答を出しているような状. 況はまだ続いている。だがこの状況は、同年八月九日﹁散髪制服略服脱刀可為勝手事 量地服ノ節ハ帯刀可致事﹂註三+八・同年八. 月一八日﹁平民棺割羽織著曲弾為勝手事﹂註三+九・同年八月二三日大蔵省伺に﹁華族平民墨型婚姻ヲ許ス﹂註四+と急激に変化し、. まち. その直後に﹁解放令﹂が布告されるのである。かくの背景におそらくさきの大隈等に連なる”開明派官僚“の営為があったのでは ないだろうか。. ︸. 一. 21.
(25) 節 2 第 ■. 章 −. 第. 三 大江卓・建議と”賎称廃止“の政策化. つぎにさきの﹁民蔵分離﹂された民部省に人材登用された大江卓についてふれてみたい。 ﹁解放令﹂布告に果たした大江卓の役. 割は、先行研究でも肯定的に評価註群群されていることが多い。ここでは”賎称廃止“の施策立案過程の観点を中心にしてみてい ぎだい。. ﹁中等以下の藩士﹂の中で最年少といわれる片岡健吉・田中光顕が維新当時で二十六才であるから、大江卓の二十一才はあまり. にも若い部類である。 ﹃大江天也伝記﹄によれば、その若さで長崎遊学中に中島信行−後藤象二郎という人脈から﹁海援隊﹂と関. わり二四+二をもち、 コ局野山の勤皇運動﹂を通して陸奥宗光の知己註四+三をえている。維新後には、その人脈を通じて﹁兵庫縣判. 事﹂の職註四+四に就いている。そして﹁兵庫縣判事﹂期に﹁理財の才﹂を磨いたように思われる註四+五。だが帰藩命令により一八. 七〇︵明治三︶年辞職して]旦高知に帰るが、再び兵庫縣・神戸に移り住んでいる。大江は、この神戸在住での体験が﹁賎民解放﹂ への動機であると回想註四+六している。. ⋮湊川から賢く近い宇治川在にフロノ谷といふ所がある。町外れではあるが、他の町人とは丸るで生活が違って居り、. 随分みじめな暮しをしてみる。種々様子を聞いて始めで賎民部落であることが判明した。 此部落の人々は多く花責で、. 神戸の町に花費に出る者は、大概此の部落の人である。何うしてフロノ谷の住民が花萱を専業としてみるかには一つの故. 事がある。 ⋮⋮楠公の由縁を知る人もない田園の中に奇特な人もあるものだと段々調べて見ると、それは此のフロノ谷. の部落民が毎日楠公の墓を貧するのであることが知れた。︵水戸︶西山公はいたくその忠志に感じ、江戸に帰ってから幕府 に申立て\、此の近在の三士買りの権利を此の部落民に與へられたのである。・. じ同胞ではないか。それが何故に、平等なる社會生活を営むことが出来ないのであらうか。⋮⋮戊辰三月の五事の誓文中. 随分悲惨な暮しをしてみたが、私は其の様子を見て、深く慨嘆せざるを得なかった。彼等とても同じ人間ではないか、同. には﹃奮来の随習を破り天地の公道に基くべし﹄とあるにも關はらず、依然として四民平等の實がないのは、旧来の随習. 一. 一. 22.
(26) 節 2 ●. 第. 章 1. 第. が破られてみないのではないか。か\る賎民を解放して自由とするのが陛下の大御心ではないか。 で承れは一つ賎民の. 為めに光輝ある生活を営ましめねばならぬ。斯様に考へて私は弦に始めて部落状態の調査に掛かったのである。時に明治 三年八月で翌年の一月に意見書を呈出したのである。⋮・. だが、大江が﹁部落状態の調査﹂から民部省に出仕するまでの経過は曖昧註四+七である。エピソードとして語られるのは、 ﹁大木. が民部入を勧誘するので、大江も短気になり、も一度位は役人を仕てもよいが、自分と一緒に弾直樹を任用して民部省の役人にし. て貰ひ度いと申し出た。⋮⋮流石大木も弱っ︵た︶が、遂に我を折って直ぐ役人にするのも攣だからといふので、御用掛とし、大江. は地理寮出仕、権大整準席といふことで就任した﹂註四+八ということである。それによれば﹁人脈﹂は民部大輔・大木喬任となる。. が、さらにたどっていくと﹃特殊部落の解放﹄で、 ﹁汚名廃止の論は明治三年の春頃から熱時の民部省にも起こってみたといふこ. とである。自分は之を知らないで三年の冬夫隈重信0紹介で大木民部大輔に廃止のことを建議した﹂註四+九と語っている。つまり. 大隈註五+人脈、大久保のいう﹁築地連﹂の系譜に連なっていることをうかがわせる。また人材登用も、︸月建議←五月登用という. 遅延した期間上の疑問が残るものの、 ﹁汚名廃止の論は明治三年の春頃から當時の民部省にも起こってみた﹂流れにあることを示 唆している。. いずれにしても﹁時期・人脈﹂以上に明確になっていることは、”賎称廃止“の意見書に関する人材登用を民部省が欲していた、. ﹁大江卓・第一次建議﹂、. ということである。少なくとも民部省は、”賎称廃止“を唱えかつ実行する人物を受け入れることが可能な組織であったことを見 逃してはならない。. つぎに、大江卓の建議が政策としてとりあげられる推移を検討したい。一九七一︵明治四︶年正月の. 稜多非人廃止建白書 第一次註五±. 同年三月の﹁大江卓・第二次建議﹂、同年三月の﹁民部省案﹂をそれぞれおおまかにしめしておきたい。 ︻大江卓・第一次建議︼. 一. 一. 23.
(27) ●. 2. 節 第 章 第. −. 方今平民一途戸籍取調の折柄、異種殊類の俗有之候ては自然文明の教化を障碍するは必然の勢にして、之を一途に帰さし. むること最要の儀と奉存候。第一臓多等の名目を廃せられ之を平民一途の戸籍に編入致候様御仕法被為立直、依て見込の 廉 々 建言仕候。⋮⋮. 辛未 正月 大江卓造 恐憧謹白 民部大輔 大木 喬任殿 稼多非人咽亡を平民となすの議. 生民ありてより歳月を経過する久きに従ひ益々繁生し、従て貴賎尊卑の別を生じ、種類も亦自ら別て皇神蕃の三類となり、. 又一種の別類を生ぜり。之を臓多と云ふ。其来歴を繹するに葉音の説のみ多くして蓋く信用するに足らずと錐ども、−. 方今皇神種にして士族平民となり、蕃種にして華族となるもの不少、稼多非人皇宮といへども亦此の皇神蕃の三種類に出. でず。山繭に平民と歯するを得ざるの理あらんや。然らば則ち天地の通義に基き、平民同[の権利を與へ同﹁の民法に従は. しむべき当然たり。亙りと錐も、因襲の轟き弊習以て俄に愛じ易からず。若し之を攣ずるも其実尊皇はれざる所あり。故. に此の弊習を除かんには漸を以てせずんばあるべからず。其々果して如何ぞや、曰く仁多非人咽亡等の名目を廃して適宜. の名を付し、従来の課役を免じ、全権の管轄官を設け、勧業の事を掌らしめ、任意自由の商権を與へ、大牧畜等を開き、. 各自家産の大小に従ひ、若干の金を出さしめ、之を勧業資金となし、先づ東京大阪の両府に勧業局を建立し、海外の工者. を雇入れ諸工作の業を壁面せしむ。⋮⋮然して年月を歴るに従ひ、又漸次に二三の権利を與へ、遂に平民一途の域に至ら しむべし。以上三三概略を論ずるのみ、設法の如きは左に血目を記載す。. 一管知合は民部の大嶺丞より之を兼ね各地方のものをして其法律に従事せしめ勧業資金を出さしめ勧業一般の事務を掌 るべし。. 一勧業の為め先づ政府より金若干両を管轄に貸し與へ毎歳若干両を返納せしむべし。 一死飛人取扱等其他従来の課役を免じ平民一般の國役を廉くべし。. 一最壮健なる者を精選し之を各地方の消防夫及び﹁ポリース﹂警戒兵等に編成し適宜の給金を與ふべし。. 一. 一. 24.
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