社会科古代史教育における古代中国思想の位置づけ
14
0
0
全文
(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第42巻 第2号 l ionI C i ion(Sec t ) Vo ty ofEducat lof Hokkaido Univers jouma ‐2 ‐42 , No. 平成 4年2月 Febma ly,1992. 社会科古代史教育における 古代中国思想の位置づけ. 遠. 藤. 芳. 信. 本稿は, 社会科日本古代史教育における古代中国思想 (特に道教思想) の位置 づけを考察するも の で ある.. 1. 今日の日本史学習における古代の位置づけ. ) 古代史学習と古代天皇制研究 ( 1 1 989年3月の小学校中学校高等学校の学習指導要領改訂は, 戦後日本の政治・経済の大きな転換 期の中で行われたものである. 同学習指導要領の重要な特徴の一つは, 特に社会科の改編としてあ らわれている(特に, 高校では社会科廃止, 地理歴史と公民の新設, 世界史の必修等) . そして、 社 会科歴史学習では, すでに, 多くの人がその問題点を指摘してきたように, たとえば, 小学校学習 指導要領では 「我が国の歴史や伝統を大切にする心情を育てる」 ことが強調された (下点は遠藤) . これは, 臨時教育審議会な どにおける日本の文化の国有性等をことさらに強調する「日本文化」 「日 本学一 等の議論をふまえたものである. しかし, ある心情が育てられたとか, 育てられなかっ たと いうことは, 何を基準にして判断し, 評価するのだろうか. また, 文部省が法的拘束力を持つと強 調するところの学習指導要領という行政上の文書に, 極めて微妙な人間の心情を育てるな どと記述 してよいものだろうか. これらのいわゆる教育活動における 「心情主義」 「心マ清指導」 に関する批判 的分析は, 多くの研究者によっ てなされてきた. 筆者も, 道徳教育や, 教科・授業を通しての生活 指導・訓育の問題点をテーマにした諸論稿で批判してきた. ここでは, 日本の歴史や伝統および後 述する天皇の存在を知的思考の対象にする重要性のみを強調しておく. 1 9 80年代以降, 世界有数の, あるいは世界で一, 二位を争う 「経済大国」 になった日本が, その 経済力とともに歴史・文化・思想等が他国から注目されるのは当然であろう. また, 「国際化社会」 のもとで, 国際的な人的・文化的交流が盛行するにおよんで, 文部行政当局者側に, 日本の文化の 固有性なるものの希薄化に対する危倶が生まれることも当然であろう‐ しかし, 筆者が問題にする のは, そもそも, 日本に固有な独自な文化 が存在したのだろうかということである. この疑いを解 明するには, 筆者は, 天皇制にかかわる文化・信仰・宗教・風俗等の固有性 ・独自性をテーマにし た研究が必要であると考える. 天皇制とは天皇を頂点にした官僚制度 (または官僚機構) である. 日本史の中で天皇制の特質が 鋭くあらわれるのは古代と近代であり, 官僚制度を基盤にした統治支配構造をシン プルな形で抽出 することができる. ただし, 近代天皇制をめぐる文化・信仰・宗教等は, 古代のそれを一部含みつ つ展開されているので, 古代天皇制にかかわる文化・信仰・ 宗教等を深めることが天皇制をめぐる 文化・信仰・宗教および思想の原形を鋭く抽出できる. なお, 小学校学習指導要領社会科第六学年 217.
(3) . 遠 藤 芳 信. の内容の取扱いにおいては(公民的分野) , 歴史に関する学習との関連を図りつつ, 天皇についての 理解と敬愛の念を深めることが記述されているが, 古代・近代の特定の天皇個々人に対する客観的 な人物認識をまず形成する必要があろう. また, 古代史学習における史資料の使用 に関して, 同学 習指導要領は, 特に 「神話・伝説」 について, 古事記・日本書紀・風土記などを示しているが, こ れらの記紀神話等は, 戦後, 多様な学問分野からの研究が急速に進められてきた. すなわち, 民俗 学, 文化人類学, 神話学 (比較神話学) , 宗教学, 考古学, 思想史, 地域史, 経済史, 等々の研究, およびこれらの学際的領域からの研究が特 に発展した. このような研究状況をう け, 文部省 『中学 校指導書. 社会編』 ( 1 989年)は, 日本人の生活や生活に根ざした文化に関しては, 民俗学や文化人 類学, 考古学その他の学問, 地域史の研究な どの成果を生かすことが必要であることを指摘してい る. この指摘は, たんに日本人の生活史・生活文化の学習にとって必要であるだけでなく, 古代天. 皇制の学習にも必要である.. 2 ( ) 古代史学習における国家主導の大陸文化摂取の問題点 次に, 古代天皇制成立の文化的・思想的・宗教的条件や環境は学習指導要領に どのように位置づ けられているだろうか. 六~八世紀 (古墳文化末から天平文化) を中心にした日本古代史学習に関して, 小学校学習指導 要領は,「大陸文化の摂取や大化の改新, 大仏造営などの様子について調べて, 天皇を中心とした政 治が確立していったことを理解すること」と指摘している. また中学校学習指導要領は, 「国の統 一 が進み, 大陸の文物・制度を積極的に取り入れて古代国家が形成されたことを, 当時の東アジアの 動きと関連させながら理解させるとともに, 仏教文化が栄えたことや当時の文化に見られる国際的 な要素に着目させる」「古墳文化と大和朝廷による国の統一を扱い、 国家の形成過程を理解させると ともに, 当時の人々の信仰, 中国や朝鮮の情勢, 大陸から移住してきた人々 が日本の社会の発展に 果たした役割に着目させる」と指摘している. なお, 高校学習指導要領地理歴史の日本史Bは, 「国 家の形成と大陸文化の摂取」という項目を立て, 「古墳文化の特色や大陸文化の摂取と日本 に渡来し た人々の果たした役割な どに着目して, 日本における国家の形成過程を理解させる」 と指摘してい る. これらの小学校・中学校・高校の古代学習の着目点に共通しているのは, 大和朝廷の国家統一 が東アジアを中心にした国際的環境の中で進められたが, その場合の大陸文化の摂取が国家主導に よってなされたことの強調である. それはそれとしてよいのではあるが, 上述のように近年の日本 古代史研究が他の多くの学問分野から多様な視角で進められている状況を見ると, 非常に不十分な 着目点である. すなわち, 以上の学習指導要領の着目点で進むならば, 大陸文化の摂取では, 特に 古代の中国文化・中国思想に関しては, 中国を経由した仏教 (鎮護国家の呪術) や, 儒教思想 (律 令体制の政治思想背景) がクローズア ッ プさ れるのみである. しか し, 本稿 で問題 にする道教 i (Tao sm) は, 後述のように世界史 (古代中国史) で扱われるのみで, 日本古代史では位置づけら れることはない. すなわち近年, 道教が古代天皇制に重要な影響を与えたことの研究が非常に発展 してきたが, そうした道教を中心にした古代中国思想を日本古代史学習に位置づけられることはな い の で ある.. ) 高校日本史教科書における陰陽五行説と陰陽道の記述と宗教教育の視角 ( 3 ただし, 高校教科書では, 道教の構成部門としてカテゴリー化してよい陰陽五行説が平安時代の 貴族生活の説明注記として紹介されている. たとえば, 俗にいえば 「大学受験用」 的高校教科書と して, 比較的に詳しく日本史を叙述している井上光貞・笠原一男・児玉幸多他編 『詳説 日本史』 21 8.
(4) . 社会科古代史教育における古代中国思想の位置づけ. 989年, 山川出版社)の次のような記述である. すなわち, 「貴族の生活は, 優雅ではあ (改訂版, 1 ったがたくましさに欠け, そのうえ, 地位の高下や貧富の差も, 個人の能力 よりもむしろ家柄とか 外戚関係とかいう運できまることが多かっ たから, 彼らは運命や吉凶を気にする迷信家であった. そしてなにかといえ ば祈磯によっ て災をさけ, 福をまねくことにつ とめ、 日常の行動にも吉凶にも とづく多く の制約 が設けられていた.」 という本文がある. そして, この貴族の吉凶・運命・祈蔵の 特徴の注記として,「とくに中国から伝来した陰陽五行説にもとづく陰陽道の影響が大きかった. 天 体現象や暦法もすべて吉凶に関連するものとして 解釈され, 日柄によって行動が制限された. また うらない, 物忌みと称 してひきこもってつつしんだり, 方違 少しかわったことがあるとその吉凶を・ 7 4一7 5ページ). といっ て凶の方角をさけて吉の 方へ移ったり した.」 と記述されている ( これらの記述をみると, 平安貴族の吉凶のう らないや祈鷲に影響を与えた陰陽五行説や陰陽道自 体が迷信として 把握されかねない. たしかに, 近代科学の世界からみれ ば迷信であることにちがい ないが, 重視すべきことは日本人の生活の中に一定の影響を与えているこ とである. たとえば, 江 戸時代までは, 陰陽思想は日本の 思想界 (特に思弁的自然解釈の世界) を大きく支配していた. す なわち, 自然哲学の体系性と論理性を本格的に確 立したとされる安藤昌益や三浦梅園も陰陽論から 2 )と 1ま た 五行説などは十千十二支等の暦法や庚申信仰( 脱することはできなかったとされている.{ , 結 びついている. さらに, 陰陽五行説や陰陽道や吉凶のうらない, 祈蔵, 方違いな どを一種の信仰と見る場合, そ れらは歴史教育だけでなく, 宗教教育の視角から考察されなければならないだろう. そもそも, 宗 教には, その教義・儀 式・儀礼等の中に呪術やうらない・祈蔵および神秘的体験論・神霊現象論等 を含んでいる. ただし, 問題なのは, その呪術・祈蔵・う らないが どのレベルで行われるかという ことの歴史的特質 を把握することが歴史教育では重視すべきである. 前掲教科書の文脈においては, 平安中期の貴族の精神生活上の祈礁・うらないは, 奈良仏教における 鎮護国家のための呪術という 国家的レベルの呪術から, 天台宗・真言宗を代表する仏教の密教化 (台密, 真密) への変化に対応 したと見た方がよい. すなわち, 陰陽道自体は, 大宝律令では太政官の省庁の一つとしての中務省 における陰陽寮として, いわ ば公事や国家的レベルでの呪術等として位置 づけられていたが, しだ 3 )他方 以上の陰陽五 いに個人的なレベルにかかわる呪術に変化 したことに注目させるべきだろう.( , 行説や陰陽道を宗教教育の視角から考 察する場合には, いうまでもなく教育基本法第9条 (宗教教 育) の規定をふまえなけれ ばならない. 同第9条第1項は, 宗教に関する寛容の態度及 び宗教の社 会生活における地位は, 教育上これを尊 重しなければならないと規定している. この場合の 「寛容 の態度」 の意味について は, すでに拙稿でも述べておいたが, 後半の文脈の宗教の社 会生活におけ 4 )宗教がこれまでの社会生活において,否定的にせよ肯定的に る地位の教育上の尊重は重要である.( せよ, 一定の地位や役割を果してきたこ とは事実であるので, その事実は事実として教育上は客観 的に尊重される必要 がある. さらに,1949年10月文部次官通達「社会科その他初等および中等教育 における 宗教の取扱について」 には, 国公立学校における 宗教に関する教材の選択や取扱を述べた 項目がある. それによれ ば, 各教科の教育目標に照して必 要な場合には, 各種宗教の教祖・慣行・ 制度・宗教団体の物的施設・厚生および教育活動・種々の宗教史上の事件な どに関する事実を含ん でよいとされる が, ①特定の宗教や教派のみを高く (あるいは低く) 評価してはならず, ②科学と 宗教は両立しないもの と仮定してはならない (このことは, 自然現象を自然的原因に帰することを 妨げるものではない) とされている. 以上のようにみると, 古代史学習において, 古代天皇制成立 にかかわる文化・思想・宗教 的環境を大陸文化摂取とのかかわりで指導する場合, 呪術・祈蒔・う らないや宗教は, 知的思考の対象とする とともに, 思想・良心・宗教の自由を特に重視して展開さ 219.
(5) . 遠 藤 芳 信. れる必要がある.. 1 1 日本古代史学習の計画について これまで述べてきたように, 日本古代史学習を国際的環境や条件に注目して展開するためには, 特にア ジア全体の国際的関係を重視する必要がある. この点では, かつて, 加藤文三が中学校歴史 教育において, いわゆる 「サンドウイ ッチ式」 (日本史と世界史とを適当におり込みつつ学習する) を批判し, 世界史を独立させる学習を強調した 際の世界史の時代区分の主旨にも若干注目する必要 5 }たとえば 加藤は 中学校における世界史の時代区分として ①農耕民族が文明をつくり がある.( , , , あげた時代 (原始→古代), ②中央アジアの諸民族が活躍した時代 (古代-中世) , ③ヨーロッパが 大きな変化をとげた時代 (中世→近代) 以下省略 (遠藤) , を示している. ここで注目したいのは, 世界史を独立させるか否かの議論自体ではなく, 古代から中世における世界史展開 において中央ア ジア諸民族が大きな役割を果したことに対する指摘である. ただし, すでに, 1960年高校学習指導 要領社会の世界史Bでは, 中央アジアの民族が 「活躍」 したとまでは記述していないが, 古代から 中世における中国社会やイスラム世界を突出させた 世界史学習が区分されている.その区分は,1989 年高校学習指導要領にも基本的にひきつながれ, 古代から中世にかけては 「東アジア文化圏の形成 と発展」 「西ア ジア・南アジア文化圏と東西交流」 と構成されている. いずれにせよ, 日本古代史学 習も, そのような中央アジアや東アジアの世界史的展開の中に位置づけられ, その特質が明確にさ れるべきであると考えるのである. そして, 日本古代史学習を以上のように中央 アジアや東ア ジア の国際的環境から位置づける場合, 特に, 古代天皇制の成立に関して, 今日までの古代史研究, 考 古学, 民俗学, 神話学, 文化人類学, 宗教史, 等々の研究発展の成果との関係では, 従来の教材で は登場しなかたっ 文化・思想・宗教あるいは風俗の条件としては (あるいは, 従来の教材でも国際 的・対外的関係として位置づけられていたものを整理するならば), 次の三つのテーマがとりあえず 重要である. すなわち, ①弥生式時代において, 「倭国」 と称された日本と南朝鮮および中国江南・華南地方や イ ンドシナ半島との関係であり, 特に稲作農耕文化にかかわるテーマ, ②古墳時代における巨大古 墳造成と北西アジアの騎馬民族・遊牧民族 の文化的影響のテーマ, ③飛鳥・奈良時代における古代 中国思想 (特に道教思想) の文化的影響のテーマ, である. この中で, ①②のテーマは他日の機会 にゆずり, 本稿では冒頭で述べたように③のテーマを特に深めるものである.. m 今日における道教思想研究 ( 1 ) 高校世界史教科書における道教の記述について 道教は, 高校世界史教科書で, 中国古代史の後漢の時代の華北にお 84年)との関 1 ,ける黄中の乱( 係で記述されてきた. たとえば, 高等学校 『新世界史』 (三訂版198 2年, 帝国書院) では, 「後漢の 中に, 道教教団の萌芽とされる太平道・五斗米道な どの宗教集団があらわれたが, 黄中の乱は太平 「 道の徒がおこしたもの」と記述されている( 46ページ) . また, その道教が南北朝時代に発展し, 仏 教の流行に刺激されて, 道教が組織ある教団として確立した」という本文の注記として, 道教を「不 老長寿を説く現世的な宗教, 神仙思想や民間のいろいろな信仰 に道家の説が加わり, 仏教の影響を う けて成立した. その成立に力があ っ たのは北難の冠謙之 である.」 と記述されている ( 56ペー 『 ジ). また, 新世界史』 (三訂版, 1 9 81年, 三省堂)は, 南北朝から唐代にかけての政治制度と文化 2 20.
(6) . 社会科古代史教育における古代中国思想の位置づけ. の記述において,「この時代には, イ ンドから渡来 した仏教が勢力を得たのに刺激されて, 北醜時代 の冠謙 之は五斗米道な どの民間教団の伝統を継 ぎつつ, 老子を教祖に仕立て, 道教教団を組織して 皇帝の信任を獲得した. 以後, 唐代になっ ても, 道教教団は皇帝の支持を得ようとして, 国家鎮護 62ページ). 三省 の立場をとる仏教教団との間に, しばしば対立 をひきおこした」と説明している( 「 堂の記述は, 道教と仏教との対立を述べている が, 帝国書院の記述は信仰内容をさらに 道教も唐 59ペー ジ) 廟の保護をう けて民間にひろまった」 と説明している ( . 帝国書院の記述 は簡潔である が, 唐の第二代太 宗以降の皇帝 (特に玄宗) に保護された道教をよく説明 していると考えられる. いずれにせよ, 道教は高校世界史の教科書で位置 づけられてきた. また, 前掲の高校世界史の教科 書の記述によっ て, 道教の性格や歴史的概略が把握される. 本稿では, さらに, その概略と信仰内 容を補説しておきたい. 近年, 日本における宗教史・文 化史・文化人類学・考古学・民俗学・神話学等の分野で, 古代史 を中国の道教との 関係で解明する研究が急速に発展してきた. そして, 日本古代 史で, これまでの 諸学問分野からの視角では容易に説明 ・解釈できなかっ た諸事実等 が, 特に古代天皇制にかかわる 文化・思想・宗教・風俗等が, 道教思想の視点を入れる ことによって論理整合的に説明できるよう になっ た. また, 道教自体の研究も発展 した. 日本における1980年代前半 までの道教の総括 的研究 1 98 3年, 平河出版社) が としては, 福井康順・山崎宏・木村英一・酒井忠夫監修 『道教』 全三巻 ( 「 ジウム 道教研究の現状と問題 6 )また 日本道教学会 ( 1950年創 立) の第36回大会のシンポ ある.( , 86年, 平河出版社)も, 日本における 19 点」 をまとめたもの が, 秋月観嘆編 『道教研究のすすめ』 ( 1 980年代前半 までの道教の総括研究の到達点を示すものとして重要である. 道教は, キリスト教・仏教・イスラム教のような世界 宗教ではない. 道教は古代中国社会から生 まれた民族宗教, 民衆宗教, 民間信仰である. そして, 道教の 「道」 とは, 万物を成立させる根元 とか, 人生と世界の根 源的真理を意味する. 道教は, キリスト教・仏 教・イスラム教の ように, 特 定の教祖がはじめた創唱宗教ではない. また, 信仰対象の神はヒエラルキーをもっ て数多く存在 し, 後述のように特定の神 を最高神とする が, いわ ば汎神論的な多神教である. 古代中国社会から生ま れたもう 一つの宗教あるいは政治・倫 理・哲学としての儒 教や儒学の数説や, キリス ト教の教説が, いわ ば人間の禁欲的精神を推奨するのに対して, 道教は人間の欲求や要求を素直に承認し, 特に不 老長寿の願いを重視する特質がある. また, キリスト教や仏教などが来世を強く信仰するのに対し て, 道教は現世を信仰する. さらに, 中国の老荘思想 が無為自然を説くのに対して, 道教は老荘思 想を一部 吸収しつつも, 人為的な人力的な営みによって, 上述の不老長寿の願い が実現できること を説く. 道教は, 発生史 的にみると, 中国古来のシャ ーマニ ズム, 誠緯説 (予言とう らない) , 陰陽五行 説, 老荘思想, 神仙思想 (不老長寿を願う) な どが雑多に寄りあつ まった信仰である. 道教の発生 7 }日本の研究者の中では「原始道教教団」とも称されている 五斗米 をさらに社会経済史的にみる と,{ 道や太平道などは, 中国民族の歴史とともにあらわれ, 先秦時代・漢代にも普遍的に存在 していた とされる村落共同体の信仰対象としての 「社」 の解体を背景にしている. 「社」 は春秋2回の祭を挙 行し, 村落共同体の共同祭記の対象であり, 地縁集団員の共同神 であっ た. しかし, 農業生産 が春 秋時代末から急速に増進し, 農村の階層分化が進み, 新しい私的大土 地所有者としての豪族 が発生. し, 従来の自作農を中心にした地縁的な村落共同体が解体し, 村落共同体の精神的拠点や共同祭記 8ま た 後漢末の中央政治 の対象としての「社」の存在価値 はうすれ, その宗教的権威も低下した.( , 界の抗争や自然災害・疾病蔓延に苦しむ貧窮農民の恐怖と苦痛の増加もあった. すなわち, 中国民 衆の間に, 精神的拠点 と苦悩救済を目 ざした共同神から個人神への転換が発生し, ここに, 原始道. 221.
(7) . 遠 藤 芳 信. 教教団と称される太平道や五斗米道がそのような個人神信仰者をいわ ば横断的に組織したと みてよ . 古代中国では儒教が哲学・教義体系を早くから整えてきた. しかし, 儒教の哲学・教義の基本は 政治・国家統治と倫理方面にあり, 主に国家・王朝の官僚や知識人の立場からの教学になっ ている. これに対して, 道教は現世に生きる農民や民衆一般の信仰を基本にして成立し, 儒教・仏教等と- 部交渉し, また, 中国への仏教伝来とともに教学・信仰体系がしだいに整備された. ただし, 民衆 宗教といっ ても, 北醜の冠謙之が開いたとされる道教の-教派としての新天師道は, 放牧民族鮮卑 による征服王朝としての北醜政権下においては国家宗教としての位置を占めている. また, 上述の ように唐王朝の保護をう けるとともに, 王室の永命と国家安泰を祈願するように, 国家的統制に従 属した面もある. 窪徳忠によれば, 道教は, 教学部門 (宇宙生成説, 天地の万物の根元である 「道」 の起源と展開 等の教説) , 方術部門 (ト盤, 星うらない, おふだ, 予言, おはらい, 祈蔵の儀式や儀礼), 医術的 養生部門 (群穀, 服餌, 調息, 導引, 房中) , 倫理思想部門 (勧善な ど) に大別される. この中で特 に重要なのは, 教学部門に位置づけられる星辰信仰であり, 北極星や北斗七星の神格化である. ま た, 医術的養生部門に位置づけられる神仙思想である. 特に, 4世紀晋代の葛洪は 『抱朴子』 を著 し, 主に自力思想的な養生術を基本 にして神仙 (不老不死の仙人) を目標にした生命の保全と長寿 の信仰・体得の教義としての神仙説を大成した. 道教の教義内容のわかりやすさという点では神仙 思想が中軸になっている. 特に, 秦の始皇帝が神仙マニアであったことは有名である. なお, 日本の道教研究者の中では, 特に道観 (道教の寺院) や道士 (道教の教職者・僧侶) をも つ教団的組織形態を整えた道教を, 教団道教・教会道教・成立道教 (王朝の政策として成立した道 教) と称することもある. 他方, そう した教団的組織形態を整えていない道教を, 通俗道教・民衆 道教と称することもある. 教団的組織形態を整えた道教や教派は, 古代では上述の太平道や張陵が 統率した五斗米道があり, 五斗米道から3世紀初期に天師道が形成された. 天師道は晋政権の南下 (東晋) にともなって江南地方にも拡張され, 他方, 華北には上述の冠謙之の新天師道が出現した. そして, さらに, 江南の地域で, 陸修静の茅山派・茅山道が発展した. その後, 梁代に茅山派を継 承し, 『上清経』 などの経典を集大成し, 『真語』 を校訂・編纂したのが上清派・上清道の陶弘景で ある. その後, 唐代では, 茅山派, 上清派の総帥の王 達知らが唐王朝との結 びつきを強めつつ, 南 北の道教の統合を図ろうとした. 以後, 上清派は, 上清道として新天師道と並び, 中国道教界の主 流を占めるに至った.. 第二次世界大戦後, 中華人民共和国が成立したが, 朝鮮戦争勃発によって宗教者の生産労働従事 が奨励された. この結果, 道教の僧侶・道士も還俗し, 帰農することが増えた. その後, 中国政府は19 51年に中 国道教協会を設立し, 本部を北京の白雲観におき, 政府の方針に協力する道士の生活を保障するこ とにした. しかし, 1 960年代中盤からの文化大革命によっ て, 各地の道教施設は兵舎等に転用さ れ, 神像は破壊され, 道士たちの存在も認められなくなっ た. その後, 文化大革命が批判されるに 9 ) 至り, 政府は宗教の保護育成方針を強め, 道教は他の宗教と並んで復興し, 現在に至っ ている.( ( 2 ) 道教の日本伝来・流伝に関する学説 以上の道教が日本の文化・思想・宗教・風俗に どのような影響をおよ ぼし, また, 伝来・流伝し たのか否かに関しては, 肯定的・否定的な議論がつ づいて いる. 戦前では, 津田左右吉は, 道教は知識としては日本人に受け入れられたが, 宗教や信仰の対象と 222.
(8) . 社会科古代史教育における古代中国思想の位置づけ. しては流入しなかっ たと述べている. また, 神仙思想は, 古代貴族の文学上の 「遊戯」 の世界 (優 美性・耽美性追求) にあらわれたにすぎないと述べている. これに対して, 「教団道教」 「成立道教」 としての 道教は流伝しなかったが, いわゆる 「民衆道教」 「通俗道教」 の部分 が日本の文化・思想・宗教・風俗等に重要な影響をおよぼしたことを重視する 学説がある. これは, 近年, 特に強くなっ ている. このような学説としては, 第一に, 窪徳忠の庚 『 195 6年, 山川出版社) 申信仰を中心にした 一連 の業績 がある. たとえば, 『庚申信仰』 ( , 道教史』 『 1979年, 山 (世界宗教史叢書9, 1977年, 山川出版社) , 中国宗教における 受容・変容・行容』 ( 『 道教の庚申信仰 近年 窪は しかし などである ) 7年 学生社 98 , 1 川出版社) , , , . , , 道教の世界』 ( 『中国文化と南島』1981年 第一書房). 第 に対する影響に対してはやや消極 的な評価をしている ( , 二に, 日本古代の常世思想・神仙思想の展開 を中心にした下出積与の一連の業績がある. たとえば, 『 『 『神仙思想』 ( 1 971年, 評論社) その行動と思想』 ( 19 68年, 吉川弘文館) , 日本古代の , 道教 1975年, 講談社現代新書), 『古代神仙思想 1 97 2年, 吉川弘文館), 『道教と日本人』 ( 神砥と道教』 ( との関連 1 98 6年, 吉川弘文館) の研究』 ( , などである. 下出はこれらの著作の中で, 特に神紙信仰 解消してしま っ たと では, 日本に伝来した道教信仰は結果的には日本の神低信仰の中に吸収され, 述べている. 第三に, マ ジックや呪術の手段としての陰陽道や神秘思想と道教との関係重視がある‘ この点に関しては,「日本では, 道教が体系化して入っ てくるのは受け入 れないけれども, マ ジック の手段としての天文・遁甲・陰陽道は入っ てきているという問題があります.」 (岡田精司) の指摘 1 0に のマ ジック・呪術 を中心にした道教の文化的・思想的影響を明らかに したものとして がある.( 1987年, 大阪書籍) 19 82年, 塙書房) と 『日本陰陽道史話』 ( は, 村山修一の 『日本陰陽史総説』 ( 1 983年, 大正大学出版部)がある. さら がある. また, 安井香山『中国神秘思想の日本への 展開』 ( に, 陰陽五行説が日本の祭肥o宗教に与えた影響を研究した ものとしては, 後述する吉野格子の 一 連の業績がある. 第四に, 以上の第一から第三までの研究もふくめて, 古代天皇制にかかわる文化・ 0年代以降まと 思想・宗教全体との関係で道教の影響を重視する研究 が特に福永光司らによっ て197 『 1982年, 人文書院) められている. 福永光司の著作としては, 『道教と日本文化』 ( , 道教と日本思 『 1987年, 987年, 人文書院), 『道教思想史研究』 ( 1 想』 ( 1 98 5年, 徳間書店) , 道教と古代 日本』 ( 「 『 1 988年, 人文書院) 岩波書店) , 中国宗教思想史」 (岩波講座東洋思 , 中国の哲学・宗教・芸術』 ( 990年) がある. さらに, 福永の編著・共著関係としては, 福永光司・ 想1 3巻, 中国宗教思想1, 1 『 道教と古代の天皇制 1978年, 徳間書店) 上田正昭・上山春平著 』( , 福永光司編東ア ジア基層文化 9年, 人文書院), 千田稔編東ア ジア基層文化研究会 『環シナ海文 198 研究会 『道教と東アジア』 ( 1 990年, 人文書院)がある. その他に, 松田智弘『古代日 化と古代日本÷÷道教とその周辺--』 ( 1988年, 人間生態学談話会), 広畑輔雄 『記紀神話の研究--その成立におけ 本道教受容史研究』 ( 『 198 5年, 吉川弘文館) な 1977年, 風間書房) る中国思想の役割』 ( , 重松明久 古代国家と道教』 ( どがある. 第五に, 以上の研究をふ まえて, 日本における 「道教遺跡」 を研究したもの がある. た 1987年, 朝日新聞社) や, 千田稔・高橋 とえば, 福永光司・千田稔・高橋徹著 『日本の 道教遺跡』 ( 『歴史読本』1 2月臨時増刊, 新人物往来社) がある. なお後者 988年1 徹 「日本道教遺跡探訪辞典」 ( の 『歴史読本』 は, 「古代天皇家と宗教の謎」 を特集している. しかし, 以上のように道教が日本の文化・思想・宗教・風俗等に与えた影響の肯定的評価の学説 に対して, 道教自体のオーソドックスな研究者側からは否定的なきびしい批判 が提出されている. 196 4年, 平楽寺書店)は, 老荘の思想は儒教 たとえ ば, 第一に, 宮川尚志『六朝史研究 宗教篇』 ( 研究には劣っ ても漢学の -部門として日本の学者によっ て考究された が, 道教的信仰や祭儀は日中 知識人の交渉の初期には若干の影響 を神道思想に及 ぼしたけれども, その後は仏教の交流の盛況に 223.
(9) . 遠 藤 芳 信. 比して全く物の数でなかったと述べている. また, 修験道や庚申特の俗信において多少の道教的影 響が日本の民間信仰 に跡づけられるとはいえ, それは本国における道教の体系から遊離し, 日本に おいて通俗化された神道の要素に取り入れられたにすぎないと強調している( 30ペー ジ) . さらに宮 川尚志『中国宗教史研究 第一』( 1 983年, 同朋舎出版)は, 近年, 道教の日本への影響について麗々 しく過大に考える者が, 老荘・神仙説はじめ大陸から主と して書物を通じて伝来した占 ト等の方術 をも一緒にして論じているのは不可解であるとした. また, 道教の起源を論じたり, わが国への影 響を与えることが道教の性格を明らかにし, われわれに親近なものにすると期待されているが 事 , 実はこれに反し, 却っ て中国の長い歴史を通じて政治・社会や思想・文化 に相当の勢力を振っ てき た五斗米道統率者の張陵以後の道教の理解を暖昧にさせていると述べている そして 今なすべき . , ことは道教史の有効な序説として, 道教成立の前史をとりあげることが重要であると強調した (2 ページ) . 第二に, 以上の宮川の指摘 に近いのが, 中村庫八や野口鍛郎・松本浩一, 福井文雅な ど の, 道教の日本伝播に関する研究の問題点指摘であろう. すなわち, 中村は, ①日本史や日本文化 の研究者には, 中国の道教の発生・歴史的変遷等 を正確に理解することなく, また, 道教研究者の 学説を鵜呑みにして, 漠然とした道教観から, 日本の道教 (道教の影響) を論ずるものが多く そ , れらが混乱を生じていること, ②道教には中国の思想・科学・信仰 の各種の要素が含まれているが, 特に思想・科学の要素は道教の中に解消されないものがあるので, 正確に区別する必要があること , ③日本の歴史や文化は漢字表記であるが, もともと文化の背景や実態が中国とは異なるので, 当該 の漢字表記が中国のものと同一であることをもっ て, 中国からの文化や道教の伝播流入にはならな 1 1 )さらに 福井文雅は 中国の道教史研究は日本史と比 いことに留意すべきことを強調している.{ , , 較できるほどには進展していないと述べ, 日中両国の比較研究の問題点を述 べている すなわち , . ①日本古代史において, 道教が日本文化 に及 ぼした確実な影響などは, まだ確認できて いないし , 今後も望み薄であること, ②両方の 「接触」 が実 際にあっ た は たはあり得た)ことを 時期・地理 , 1 2 } の上から実証することなしに安易に ”影響” という言葉は使うべきでないと強調している ( . 以上のように, 道教自体を本格的に研究してきた研究者側からは, 道教の日本 への伝来・流伝に 対しては否定的・消極的見解が出されている. ただし, 道教の日本 への伝来・流伝や 古代日本の , 文化・思想・宗教への 道教の影響を重視する見解に対する批判者側の反論や消極的見解には 古代 , 日本の個々の 「道教的影響」・「道教的現 象」 に対 して, 逐一具体的に反論するこ とがやや欠けてい るような印象をうける. 古代日本の個々の 「道教的影響」 や 「道教的現象」 を強調する見解に対し て, 道教研究者側から逐一 具体的に批判が展開されるならば, 道教研究全体 にとっ て大きな利益に なると考えられる. なお, 筆者としては, 道教は 「成立道教」 「教団道教J のような形で体系的・政 策的に伝来・流伝 しなかったが, 古代中国思想・文化全体の日本への流入の中で, 道教の思想も混 合付着しつつ流入したものと考えている. そして, 古代日本の宗教がオカル トやマジックを競うな かで, それらを比較的に整備し体系化させていた道教が注目されたも のと考えている また その , . うよな視点で日本古代史をみた方が, 今日まで解 明しにくい部分がよりよく解釈できると考えるの である. また, 道教に関しては概論以上のことを知らない筆者にとっ ては, 道教の日本伝来・流伝 や, 道教の古代日本の文化・思想・宗教等 への影響をテーマにした福永光司らの研究が いわゆる , 研究のための研究という のではなく, 日本人が外国 (宗教史) 研究をなぜやるのかというもう一つ の研究自体の意義・目的を比較的鮮明に含んでいると考えられ, そこに魅力を感ずるのである .. 22 4.
(10) . 社会科古代史教育における古代中国思想の位置づけ. N 伊勢神宮をめぐる道教思想 ( ) 高校日本史教科書における伊勢神宮の記述について 1 上述のように, 福永光司らによっ て強調された 古代天皇制下の文化・思想・宗教等の個々の現象・ 事実と道教との関係重視の見解は非常に興味深いものがある. しかし, 本稿では, まず, 道教の日 本への流伝の見 解をふまえ, 古代天皇制確立における文化・思想・宗教の環境整備にとっ て重要な 3 1 ) 役割を果した伊勢神宮をめぐる道教思想(特に陰陽五行思想)の位置づけを考察するものである.( 一般民 伊勢神宮は, 天皇家の皇祖神としての天照大神を祭るものとされている が, 近世末期には 衆の気軽な信仰対象になっている. まず, 高校日本史教科書 (前掲 『詳説 日本史』 においては, 伊勢神宮・伊勢神道に関しては次のように記述されている. 第一に, 「古墳時代の生活と信仰」 にお ける自然神や氏の 祖先神を祭っ た社の注記として,「朝廷による地方の統 一が進むにつれて, 各地の 社はそれぞれの特定の性格や由緒をもつ神として, 朝廷の神話のなかに位置 づけられていっ た. 皇 室の祖先神である天照大神をまつる伊勢神宮, 大国主神をまつる出雲大社, 海神をまつる住吉大社, 31ペー ジ). 大和の三輪山を礼拝する 大神神社などが古くか ら知られている.」 と記述されている ( 「 第二は, 南北朝時代における北 畠親房の人物注記として, 親房は, 鎌倉末期に伊勢外宮の渡会家行 134 によっ て形成された伊勢神道とよ ばれる神道理論の影響を強くうけていた.」という記述である( 庶民の湯治や物見遊山の旅行の説明と ページ) . 第三は, 江戸時代化政文化期の生活と信仰の中で, 「 が伊勢神宮に参詣す なり 爆発的に多数の民衆 どの寺社参詣もさかんに ・ 善光寺な して, 伊勢神宮 , 0 (天保元) 年には約400万人に達したといわ る御蔭参りも, 江戸時代をつう じて数回おこり, 183 211 ペ ー ジ). れ て い る.」 と 記 述 さ れ て い る (. 以上の高校日本史教科書の記述からみれ ば, 伊勢神宮は天皇家と庶民の信仰対象として位置づけ られてきたことがおおよそわかるが, 重視すべきことは, 伊勢神宮 と皇室との関係であり, 伊勢神 宮に外国の文化や 思想がどのようにとり入れられているかということである.. 2 ( ) 伊勢神宮の祭記・儀礼をめぐる古代中国文化 伊勢神宮は天皇家の皇祖神であり, 太陽神とされる天照大神を祭っ ている. しかし, 小島理薩の 研究によると, ①伊勢神宮は何の神 を祭っ ている社として信仰されていたかに関 してはあいまいな 点が多いこと, ②伊勢神宮の信仰は天照大神を祭るといいな がら, 常識的な意味で太陽神の信仰と 1 4 )小島と同様な指摘として, 熊田亮介の 「一般にい 思われる部分は見あたりにくいとされている.( 1 5 }すなわ われている太陽神 ないし日の神としての天照大神のイメージが薄い」 という見解がある.( ち, 伊勢神宮の祭記・儀礼には, 太陽神としての天照大神の信仰部分 が希薄とされている. この希 薄さを推進したもの が, 古代中国文化の影響であると考えられる. もともと, 「神社」 「神宮」 「神道一等の用語は, 道教を中心にした古代中国の文献にあらわれたも のである が, 純日本式・国粋 的な宗教・信仰と思われやすい伊勢神 宮の祭肥・儀礼には古代中国文 化 (特に唐文化) の影響 が強くあらわれている. これらを指摘したものとしては, 近年では, 上山 「 1975年, 中公新書) 春平 『続・神々の体系』 ( , 同 天皇制と祭肥」 (福永光司・上田正昭・上山春平 『道教と古代の天皇制』所収)がある 上山は前者の著作において, 9世紀はじめにつくられた『皇 . 804年)に示された20年毎におこなわれる遷宮祭の儀式の中で, 神体を旧殿から新 大神宮儀式帳』( 殿に移す遷御の行列は, 唐代の宮廷貴人の行列を小型化したものになっ ていると指摘している. そ こうしよう の場合, 特に行列に使用される 「行 障」 (神体をとりかこむ純白の絹の カーテンで, 横木にたらさ れ, 柄をつけて従者が持ち歩く. 神体の露顕をは ばかり前後左右に囲む道具) は, 唐の玄宗皇帝の 225.
(11) . 遠 藤 芳 信. 時代にできた 『大唐開元礼』 ,に規定されている唐朝の皇太后・皇后などの函簿における貴婦人専用 の道具に準拠していることを述べている. 次に, 上山は, 遷御儀礼に先立つ遷宮関係の祭事として. の, 山口祭 (新殿建築用材の伐採儀式) , 鎮地祭 (地鎮祭) , 木本祭 (本殿の心御柱用材伐採儀式) では, 鉄製の人形や鏡や鉾などの呪物が地中に埋められ, 鶏が犠牲 (いけにえ) としてささ げられ たらしいと指摘している. ここで, 鉄製人形や鉾を呪物化することは, 『延喜式』 ( 905年)に記述さ 「捧以銀人 請除禍災 捧以金刀 請延帝詐」 )からみても れている旧暦6月と1 2月の大成の祝詞 ( , , , 道教系の呪儀である. すなわち, この大成は, 天皇をはじめとする朝廷の官僚が÷ しらずしらずの うちにおかした罪やけがれをはらい, 皇帝の在位が長くつづくことを祈るために, 漠人系渡来氏族 の束文部と西文部が中国語で, 金属製の人形と太刀を捧げる朝廷の重要な儀式であっ た. さらに, 上山は, 鶏のいけにえの風習は, 中国古来の祭肥を伝えている 『周礼』 に記述されていると述べ, 宗廟新築の時は, 「舞」 (きん) といっ ていけにえの生血を新築の廟や門などに塗ることは神明と交 わる道であることを紹介している. また, 遷御儀式の行列の発進をつげる鶏鳴 (その役目に当った 神 官 が 「カ ケコ ウ, カ ケ コ ウ, カ ケ コ ウ」 と 三 度 さ け ぶ) の 起 源 は, 鶏 の い け に え に ま で さ か の ぼ. らせることができると推測している. すなわち, 上山は, 伊勢神宮の祭記・儀礼には, 今日の日本 神道に対する常識では考えられないような, ゆゆしい, グロテスクな儀式が古代の文化先進国の唐 1 6 }いずれにせよ 純日本式として考えられ の影響をうけつつ施行されていたことを強調している.( , やすい伊勢神宮の祭肥・儀礼の起源には, 「国際色」 が強くあらわれていることに注目しなけれ ばな ら ない だ ろう.. ) 伊勢神宮と陰陽五行説 ( 3 白河法皇は111 331(元弘1) 年の倒幕挙兵に失 3(天永4) 年に 「北辰祭」 を実施した. また, 1 「誠 敗した後醍醐天皇は隠岐に流されたが(元弘の変) この隠岐の島における御醍醐天皇の日常は , に暁ごとの御勤め, 北辰の御拝を慨らず」 と記録されているように, 北辰 (北極星) 礼拝をおろそ かにしなかったとされている. 天皇の星辰信仰の厚さは, 正月の寅の刻 (午前4時) の四方拝によ くあらわれている. すなわち, 四方拝では, 天皇は北に向っ て (北は北極星の不動の位置方角であ る) , 天地, 北斗七星, その年を支配するとされる星 (たとえば, 子の年は貧狼星) を礼拝する. 天 皇は皇祖神としての天照大神を信仰しているが, なぜ, 同時に北極星も信仰し, 礼拝の対象にする のだろうか. これらに関して, 古代中国の陰陽五行説の視点にもと づき解明したのが, 上述で紹介 1 7 } した吉野格子の一連の諸力作である.( 吉野は, 道教の最高神の太一神 (北極星の神霊化で, 天皇大帝と称されている) は同時に陰陽五 行説における陰陽の 「大極」 (天地未分化の混沌, 宇宙の唯一絶対の存在)の神格化であるとし, 北 極星の神霊化と大極の神格化としての太一神が天武朝期に天照大神と習合したと強調する. 吉野の 指摘は伊勢神宮をつらぬく陰陽五行思想を多方面から考察したものであるが, ここでは, 伊勢神宮 の内宮と荒祭宮, および内宮と外宮との関係をつらぬく陰陽五行思想, すなわち, 天照大神と古代 中国の太一神とのひそかな習合に関する吉野の学説を紹介しておこう. 伊勢神宮は, 内宮と称される皇大神宮と, 豊受大神を祭る外宮から構成されている. 内宮は北を 基準にして正宮が建てられている. そして, 正宮のさらに真北の谷底の湿地に荒祭宮 (正宮の背後 から石段を5 6段下り, また1 5段上っ たところ) がある. 荒祭宮は皇大神宮第一の別宮とされ, そ の祭儀は正宮につづいておこなわれる. 荒祭宮は北の低湿地に建てられているが, 北は十二支では ね. 子, 十干では壬・奏, 九星気学上は-白水気の次宮 (太一神の居所) である. 壬奨と一目次宮が象 徴するものは, 陰・暗・次 (穴)・水・妊 (み ごもり) などであるので, 荒祭宮は, 北-白水気の次 226.
(12) . 社会科古代史教育における古代中国思想の位置づけ. 宮の象徴化に他な らないとしている. 他方, 正宮がつ まる天皇大神は日神・太陽神であり, 十二支 気の離宮である. 丙丁と九紫火気が象徴するも では午 (南) , 十千では丙・丁, 九星気学上は九紫火 首 のは陽.火である. ところで, 大和の 長が北極星の神 霊化としての天皇大帝 を名乗り, 自己を宇 宙神にまで昇格させた時, 当然, そこに一つの反省があったとされる. すなわち, 首長自身の宇宙 神への昇格は, その祖先神をも同時に宇宙神の位置にまで引きあげることによっ て完成されるとい うわけである. そこで考え出されたのが古代中国 思想における北極星の神霊化と大極の神格化とし ての太一神と, 天照大神との習合 であったが, この習合は最初から無理であった‐ なぜなら, 天照 大神は太陽神であり, 太一神の本質は星神であり, これらの習合 を表面に持ち出すこ とはできない からである. それ故, これらの習合 は陰密に行 なわれ, 太一神は正宮の背後の谷の奥に秘かにまつ られたとされる. これが荒祭宮である. すなわち, 水が火と結合すれ ば (水が火によっ てあたため が発生するように, 天照大神 が象徴する陽・火と, 荒祭宮が られる) , 新たなエネ ルギー (水蒸気) 象徴する陰・水とが結合すれ ば新たな宇宙の世界 が誕生すると考えたのであろう. かくして, 荒祭宮に太一神が秘かにまつられた 時, 外宮は当然, 北斗七星をまつる北辰の宮にな っ た. 外宮は内宮から見 えて, 方位的にも西北の 地にあり, この西北の 方向とは北極星 を守護する 北斗七星の位置としても比定される. すなわち, 古代中国では, 北斗七星は北極星の神霊化 として のりくるま の太一神 (天皇大帝) の集 車であり, 太一神は北斗七星という車に乗って宇宙を支配するとされて さしくるま いる. ちなみに, 外宮の神体を蔽う錦の紋様は刺 車とされ, 内宮のそれは屋 形紋であるとされる. ここからも, 内宮は太 一神・天皇大帝 が住む紫宮を, 外宮は太一神・天皇大帝が乗る車を暗示し象 徴していることがわかる. ここで, 紫宮の 「紫」 は, 皇居の 「紫震殿」 の名称にも用いられ, 紫の 色は道教でも最高の色として重視されていた(儒教では, 紫は反価値の色とされている). この紫の 色が太一神や天皇大帝を象徴する色であったという理由は, 吉野は, 陰陽五行思想における五行の 火の赤 (陽) と水の黒 (陰) とをあわせた陰陽統合の 色であることにもとづくと推測している. す なわち, 紫の色の背後には, 赤と黒→火 と水→陽と陰→陰陽統合体→大極 (太一) →紫という筋 道 があり, 宇宙の中心を象徴する色で, これ以上の尊貴の 色はないとされる. そう した紫色を, 中国 の皇帝も日本の 天皇も好んで用いたのである. 「 さ ら に, 吉 野 は, 荒 祭 宮 の 「ア ラ マ ツ リ」 は 「生 し ア ツ リ」 顕 レ ア ツ リ」 の 意 味 を も ち (転 くうち かみくら. 誰), 神の生れるべき凹地・神座が, 窪地における荒祭宮の原初の意味であったと推測している. す かく あらわ が必要である. 荒祭官はそ なわち, 神が顕れてくるためには, その前提として神 が幽れていた場所 みあれ の所在地が正宮の北, 子の方, 穴, 幽所である が故に, 顕現の宮になりうるの である. このような 荒祭宮は, 日本の古代信仰における幽と顕の交代 (こもっ ては出て, 出てはこもる. たとえば, 天 照大神の岩戸がくれ) の原理を示 していると述べている. か くして, 吉野は, 古代日本における信仰軸が太陽の運行から類推された東西軸から, 陰陽五行 思想導入によっ て南北の子午軸にその神聖軸をゆ ずることになると指摘するに至る. 4 ( ) まとめにかえて--陰陽五行思想と太陽信仰-- 以上の吉野格子の研究は非常に説得的である. 筆者は’ 伊勢神宮が古代中国思想(特に道教思想) の影響のも とに整備されたこ との吉野の見解に同意するものである. ところで, 吉野の見解は, 天照大神 が太陽神・日の神と比定することをふまえてみち びきだされ たことに特徴 がある. ただし, その場合, 天照大神の太陽神 ・日の神の比定 が, 陰陽五行思想にお けるものなのか, あるいは陰陽五行思想流入前の古代日本固有の太陽信仰 からみち びきだされたも のなのか, ということ整合関係がやや不鮮明のように考えられる. それは吉野の見解の責任範囲で 227.
(13) . 遠 藤 芳 信. はないが, 古代日本における太陽信仰に関しては評価がわかれて いる問題がある また 天照大神 , . 自体が太陽神であることの確証についても否定的見解がある . たとえば, 伊勢神宮の禰宜職を勤められた桜井勝之進は, 天照大神がなぜ伊勢の地にまつられて いたかということの理由として, 太陽信仰があったことを強調する見解を次のように批判して いる . すなわち, ①太陽そのものを祭るという習 俗 が古代日本にあったことを積極的に肯定する 材料はど こからも出ていないこと (まして, 伊勢地方には, そのような仮説を裏づけるような事実はみられ ないこと) , ②天子の徳を日月に比らべるような例は中国の古文献にみられ, それを根拠にして天照 大神を日神とする記述があるが, それはあくまで天照大神をたた える 「御名」 であっ ても 太陽そ , 1 8 )また 原田敏明は ①古代日 のものを神として祭蔵したという論拠 にはなりえないことである.{ , , 本人の精神生活 において, 天体の諸現象に対して どれだけ宗教的対象としたか は疑わ しく 神話の , 上でも天体諸現象が重要な位置を占めていない, ②天照大神が日の神であるという記述があるが , 天照大神自体の原形が はたして直接に太陽を指したものであったかということについては問題があ 1 9 ) る と 指 摘 して いる. (. 以上のよう にみてくると, 古代中国思想 (特に道教思想) が古代天皇制下の文化・思想・宗教等 に重要な影響を与えたことを積極的に肯定しつつも, 陰陽五行思想が古代日本に影響を与える以前 の太陽祭記・祭天思想などの位置づけを, 社会科古代史教育においてさらに明確にする必要がある .. (注) ( ) 三枝博音著作集第5巻, 3 1 27ページ, 1 97 2年, 中央公論社‐ ( 2 ) 窪徳忠 『庚申信仰』 ( 1 95 6年, 山川出版社) は, 庚申信仰を 「三F説」 (人間の身体のなかにいる三Fという三匹 の虫が, 庚申の夜に人がねている間に天から上ってきて天の神に人の罪過をつげるという道教の教説の一つ) から 説明している. 江戸時代までの研究者は, 庚申信仰は道教から出ていると述べているものが圧倒的に多い しかし , ‐ 柳田国男を中心にする民俗学者の一部は, 庚申信仰は日本固有のものであるとしている もともと 柳田国男を中 , . 心にする民俗学は, 民間信仰や民族宗教が外来の文化や宗教の強い影響をうけてきたにもかかわ らず 土着的伝統 , 的信仰は破壊されることばなかったとして, 荒木美智雄が指摘するように庚申信仰や陰陽道的呪術信仰などを民俗 学の学問的対象から大きく脱落させてきた (荒木美智雄 「陰陽道」 岩波講座東洋思想1 6巻 『日本思想2』31 8ペー ジ, 1 98 9年) . 日本の民俗学は, 政治史(特に天皇家を中心にした中央政府の歴史を対象)を基本にした文献史料中 心の歴史学からみれば, 無名の民衆を学問的対象にすえたことによって, いわば 「異端」 の学問として成立した側 面がある‐ しかし, そのような民衆を学問的対象にすえた柳田民俗学の視野からも脱落させられた民間信仰・民間 風俗があったことは, 学問研究全体のヒエラルキーを如実に示している . ( ) なお, 呪術自体は, かって, 文部省編 『高等学校学習指導要領解説 社会編』 ( 3 1 97 9年) の 「日本史」 では, 「水 稲農業の開始と社会生活の進展」に関する解説として, 「農耕儀礼などを通して当時の人々の生活にとって呪術や信 仰が大きな意味をもっていたことに気付かせる‐一 と記述されている ( 35ページ) ‐ これらの呪術自体の歴史的性格 や構造を明確にすることの重要性はいうまでもないが, 今日のオカルトブームなどを背景にして, 子どもの思想・ 人格形成に非常に関連するものがあるので, 学校教育における呪術をふくむ宗教・信仰の思想的・哲学的追求に関 しては独自に考察される必要がある. 同時に, 呪術の解明には, 形而上学的な思想・精神的側面だけでなく 形而 , 下学的な化学上の薬物もともなっていたことに注目すべきだろう‐ たとえば, ペルシャ・インドなどの中近東の世 界から仏教等とともにいわゆる 「幻術」 が入ってきたが, その 「幻術」 には病薬も付属していた すなわち 若干 , , . 時代がさかのぼるが, 聖武天皇を生んだ藤原宮子 (文武天皇妃で, 不比等の長女) は, 産後の肥だちがよくなかっ たために3 6年間にわたってうっ病の病床にあった. そこに, 唐の留学していた僧の玄防が73 5年に帰国し,7 37年 1 2月にまもなく宮子の看護にあたったところ, たちまちにして快癒させたとされている. このうつ病快癒に関して は, 日本史学者の中には催眠術的な呪力を発揮 したという指摘もあり, 松本清張は, 睡眠薬のようなものが玄防に よって用いられたものと推測している. そして, この睡眠薬は, 玄防が留唐中に長安 (当時, 西域地方との交易が 盛んで, イラン系人が多数流入し, ハオマ・アッサシン~イ ンド大麻~を使用していた) から得たものだろうと述 べている (松本清張 『古代の終鴛』 清張通史⑥, 26 2ページ, 1 98 9年, 講談社文庫) . また, 聖武天皇は舶来品の愛 228.
(14) . 社会科古代史教育における古代中国思想の位置づけ 好者・収集者であり,7 36年にペルシャ人が中国人にひきいられて拝朝している‐ 同時に聖武天皇はノイローゼとし ても有名であった‐ 聖武天皇のノイローゼに関しては天皇家の近親婚姻による劣性遺伝とする推測もあるが, 松本 清張は, 聖武天皇のノイローゼは玄防帰国後の5年後に始り, 不老長寿の薬物使用にもとづいていると推測してい 0代の短命であったこと る. すなわち, 聖武天皇の祖父 (草壁皇子は28才で没) や父 (文武天皇は25才で没) が2 により, 長寿を望み, 玄防がすすめた不老長寿の薬の中に麻薬性のものがふくまれていたとする‐ そして, その麻 薬性の薬を常用し, 中毒の後遺症としてノイローゼになったと推測している‐ そのことがさらに聖武天皇をして仏 29 96ページ) 教に救済を求めるという悪循環になったと指摘している( 5-2 ‐ いずれにせよ, 呪術は形而上学的世界 での営みであるが, 医術や薬物とともに混合的におこなわれたことに注目すべきだろう. 1ページ, 明治図書‐ 991年2月号, 6 ( 4 ) 拙稿 「社会科と道徳教育」 『生活指導』1 4ページ, 197 3年, 新日本出版社‐ ( 5 ) 加藤文三 『歴史教育論の展開』 3 「 「 ( 6 ) 第一巻は 「道教とは何か」 , である‐ , 第三巻は 道教の伝播」 , 第二巻は 道教の展開」 4- 64年. 同 「道教の形成」 窪徳忠・西順蔵編 『中国文化叢書6宗教』 4 ( 7 ) 大淵忍爾 『道教史の研究』4 4ページ, 19 45ページ, 19 67年, 大修館書店. 2ページ, 1 98 3年, 平河出版 ( 8 ) 秋日観瑛 「道教史」 福井康順・山崎宏・木村英一・酒井忠夫監修 『道教』 第一巻, 4 社. ( 9 ) 窪徳忠『道教百話』19 89年, 講談社学術文庫参照‐ 現在の道教については, 蜂屋邦夫編『中国道教の現状』 (東京 大学東洋文化研究所研究報告)1 99 0年, 汲古書院‐ 20ページ, 1 98 回 伊藤幹治編 『講座日本の古代信仰3』 対談/呪ないと祭り (岡田精司, 松前健)2 0年, 学生社‐ 「最近日本の道教研究」 (注( 『道教』 第三巻所 野口鍛郎・松本浩一 回 中村庫八 「日本の道教」 8 ) の福井康順他監修 , 収) ‐ 3ページ, 1 9 86年, 平河出版社‐ 1 2 ( ) 福井文雅 「道教思想の研究と問題点」 秋月観嘆編 『道教研究のすすめ』 7 ( 991年, 新日本出版社. 1 3 ) 藤谷俊雄・直木孝次郎 『伊勢神宮』1 9年, 弘文堂‐ 側 小島理薩 「自然崇拝と神一 五来重也編・講座日本民族宗教3 『神観念と民族』28-29ページ, 197 8年1 2月臨時増刊95ページ, 新人物往来社‐ ) 熊田亮介 「天皇家の氏神 伊勢神宮の起源」 『歴史読本』198 Q 5 Q 6 ) 上山春平 『続・神々の体系』1 48一15 9ページ, 1 9 75年, 中公新書. 197 4年, 大和書 Q 7 ) 吉野格子の陰陽五行思想を基本とする日本の祭記・信仰の研究としては, 『日本古代呪術』 ( 『 『 『 房) 197 8年, 弘文堂) 197 9 197 5年, 講談社新書) , 陰陽五行思想からみた日本の祭』 ( , 蛇』 ( , 隠された神々』 ( 『 『 『 年, 法政大学出版局) 19 80年, 法政大学出版局) 1 9 8 2年, 講談社新書) , 狐』( , 日本人の死生観』( , 陰陽五行と 『 『 9 日本の民俗』( 19 8 3年, 人文書院) 1 84年, 人文書院) 19 84年, 人文書院‐ 初刊は19 7 0 , 易と日本の祭記』( , 扇』( 『 『 『陰陽五行と童児祭記』( 持統天皇 人文書院 人文書院 大嘗祭 年) 1 9 6年 ) ( 1 9 8 7年 弘文堂 ) ( 1 9 8 7年 ) 8 』 』 , , , , , , 『神々の誕生』 ( 9 0年, 岩波書店) 19 , などがある. 本稿における吉野格子の伊勢神宮をめぐる陰陽五行思想の位置 づけの紹介は, 主に, 『隠された神々』 と 『易と日本の祭記』 にもとづいている‐ ( 88年重版, 学生社‐ 1 8 ) 桜井勝之進 『伊勢神宮』10 0-101ページ, 19 8-59ページ, 1 97 0年, 中央公論社‐ ( 1 の 原田敏明 『日本古代宗教』 増補改訂版5 (本 学助 教授 函 館 分 校). 229.
(15)
関連したドキュメント
欧米におけるヒンドゥー教の密教(タントリズム)の近代的な研究のほうは、 1950 年代 以前にすでに Sir John
瓜生坂―入山峠を結ぶ古墳時代のルートを律令期に整
音楽は古くから親しまれ,私たちの生活に密着したも
トルコ石がいつの頃から人々の装飾品とし て利用され始めたのかはよく分かっていない が、考古資料をみると、古代中国では
[r]
社会教育は、 1949 (昭和 24