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「植民地責任」論をめぐって

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﹁植民地責任﹂論をめぐって

清水正義

はじめに

水 清 ︵ て つ ぐ め を 論 ヨ 任 責 地 民 植 ﹁ 一五世紀末以降のヨーロッパ諸列強による非ヨーロッパ諸地域に対する植民地支配と諸地域の脱植民地化過程を﹁責 任﹂という概念をキーワードに捉え直そうとする研究がある。永原陽子氏らが進めている﹁脱植民地化の双方向的歴史 過程における﹃植民地責任﹄の研究﹂がそれであり、すでに中間的研究成果として﹃﹁植民地責任﹂論脱植民地化の 比較史﹄︵以下﹁本書﹂と呼ぶ︶という一書を上梓している。私自身もこの研究に参加し、本書に一論文を寄稿してい る。従って私は本書の紹介ないし評価にあたり第三者的な態度をとることは本来慎まなければならないはずであるが 他方、本書に寄稿したそれぞれの研究者が﹁植民地責任﹂論とはどのような﹁論﹂なのかについて統一した見解を持っ て各章を分担執筆したわけでないことも事実である。本稿ではそうした点も踏まえ、敢えて本書および本書に対する書 評を対象として取り上げ、場合によっては自己批判も含め、﹁植民地責任﹂論の問題点や今後の課題について考えてい きたい。 1

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2 ︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白

第一章﹁植民地責任﹂を考えるということ

二〇〇一年八月二八日から九月八日まで南アフリカのダーバンで一五〇ヶ国八千人が参加する﹁人種主義・人種差 別・外国人排斥・関連する不寛容に反対する世界会議﹂が開催された。会議では奴隷制度や植民地化に対する謝罪や補 償を要求するアフリカ諸国などに対して西側諸国が強く抵抗し、結局、政府間会議では奴隷制を﹁人道に対する罪﹂と 認定したものの補償論議については物別れに終わった。ただ、政府問会議と並行して開催された﹁反人種主義・差別撤 廃世界会議NGOフォーラム﹂は九月三日に﹁フォーラム宣言﹂を発表し、奴隷制度と奴隷貿易を﹁人道に対する罪﹂ と認定するとともに、被害損害に対する賠償を請求した。また、ダーバン会議と前後して、ここ十数年のあいだにアフ リカ諸国、カリブ海諸国などから旧宗主国に対して植民地政策に伴う負の遺産を弁済するよう求める動きが出てきてい る。こうした旧植民地の側からの植民地主義、奴隷制、奴隷貿易に対する告発と損害回復請求の動きについては本書編 者の永原氏が﹁序﹂において縷々解説しており、また本書の各論文がその一つ一つの事例研究でもあるので、詳細はそ ちらに譲る。本稿ではむしろ、それらの動きを﹁植民地責任﹂論として総括し、論じることの意味は何かという点に 絞って考えてみたい。 永原氏によれば、本書は﹁植民地主義および奴隷貿易・奴隷制の﹃罪﹄と﹃責任﹄を問う動きとそれをめぐる議論を ﹃植民地責任﹄論と名づけ、それが現代史のなかでもつ意味を問おうと﹂したものである。その関心は﹁特定の﹃補償﹄ を実現したり﹃責任﹄を追及したりするためにその論拠となる史実を解明することではなく、世界の各地で﹃補償﹄や ﹃回復﹄の要求として顕在化しているものの根底にある、植民地主義の歴史をめぐる人々の理解や認識の変化を探り、

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水 清 ︵ て つ ぐ め を 論 ヨ 任 責 地 民 植 ﹁

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それを現代史のなかに位置づけて捉えること﹂にある。その意味で﹁植民地責任﹂論は﹁脱植民地化過程をさまざまな 主体の歴史認識の面から分析する、歴史学的な脱植民地化研究の新たな方法﹂であるとされる。 永原氏の総括的叙述は﹁植民地責任﹂論の内容、性格、意義を示したものであり、それ自体について私は何の異論も ない。ただ、それでは﹁植民地責任﹂論とは植民地支配にともなうさまざまな否定的側面を告発し損害回復を主張する 世界諸地域の活動を分析の対象にする歴史社会学的研究の一ジャンルなのかというと、それだけでは捉えきれない影響 範囲をこの議論は持っているのではないかとも思えるのである。 ﹁植民地責任﹂という用語はそれ自体一種の告発的性格を持つ。﹁責任を問う﹂という能動的契機がこの用語には含 まれる。敢えてこの用語を用いて近代植民地体制とそこからの諸地域の脱却過程を分析しようとする以上、論者自身が 内面に有している心情的ないし道義的な価値判断を分析結果に投影しようとする積極的意図をそこに読み取ったとして も不思議ではない。そう読み取ったからこそ、以下に示すように、本書は歴史研究を進める研究者にある種の共感を呼

パレ

び起こすものとなったのだと思う。 歴史を分析する研究者の立場からは、自身の価値基準を直接に分析対象や分析結果にあてはめることに慎重な態度を とることが普通であり、また望ましくもある。そこで﹁植民地責任﹂を論じる研究者個々人は、この用語を採用する背 景にある一種の価値判断からひとたびは身を離し、近代植民地主義や植民地体制についてどのような立場をとるもので あれ、現代世界における﹁植民地責任﹂を問う動きをどのように評価するかという一点を議論の姐上にのせようとす る。個人的感慨をこのような文章に載せることは慎まなければならないだろうが、ひとつだけ許していただくとすれ ば、前記の研究会で議論をするときに参加者の胸に去来するある種の留保、あるいはある範囲を超えてこの問題に踏み

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︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白 入ることを無意識的に回避しようとする慎重な思いは数年にわたる研究会を貫く雰囲気ではなかったかと私は思ってい る。 ﹁植民地責任﹂論という刺激的な書名をもつ本書は近代植民地支配体制について批判的視点から研究を進めてきた歴 史研究者に一定のインパクトを与えないではおかなかった。二〇〇九年七月には東京外国語大学において本書をめぐる 書評会が開催され、三名の専門家による書評とそれをめぐる討議が交わされた。﹃歴史学研究﹄誌はこの書物に対する 専門家の受け止め方を﹁批判と反省﹂欄に二回にわたり掲載している。また、先の書評会でも報告した矢野久氏は別に

パルロ

書評を発表している。 それらの書評のいくつかを見ることで、﹁植民地責任﹂論の持つ意味をさらに考えてみたい。

ハねロ

まず、南塚信吾氏の評を見てみよう。氏は﹁植民地責任﹂という問題提起をきわめて積極的に受け止め、これを現代 史、さらに世界史一般に広げてその意味を探ろうとする。その際、﹁植民地責任﹂であれ﹁植民地犯罪﹂であれ、そう した概念でどの時点までの歴史を扱うことができるのかという問題を提示する。例えば﹁人道に対する罪﹂の射程に入 る﹁植民地犯罪﹂がいつの時点まで遡るのかと問題を設定し、﹁おそらくは、今日の﹃国民国家﹄に罪を間いうる限り の過去へ遡る﹂と氏は述べる。その点の当否は別として、﹁植民地責任﹂を含め過去の否定的事態を総括する観点から 現代史をどう描くかが今後問われると氏は見通すのである。氏によれば﹁植民地責任﹂論とは﹁きわめて二一世紀的な 歴史学の営み﹂であり、﹁歴史の発展についての人々の自覚が高まり、歴史の進むべき基本的な合意ができつつある時 代の産物﹂であり、そういう時代の世界史を描く課題こそ問われているとするのである。 もちろん南塚氏は﹁植民地責任﹂論の課題を無限定に広げるわけではない。﹁責任﹂の問い方にある限界があること

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水 清 ︵ て つ ぐ め を 論 ヨ 任 責 地 民 植 ﹁ 5 は当然である。﹁歴史学は何をするか。もちろん法的な裁きをするわけではない﹂と氏は明快に指摘する。ただ、その 一方で﹁奴隷貿易の時代について、﹃人道に対する罪﹄が承認される可能性があるわけである。だが、それへの﹃償い﹄ は法的には支持されない。しかし、道義的責任は問うことができる。そこに歴史学の課題もあるということになる﹂と し、﹁法的責任﹂に限定されない歴史学の課題としての﹁責任の問い方﹂を問題にする。 さらに氏は﹁﹃植民地責任﹄論を組み込んだ歴史は世界史にならざるを得ない。それは一国史ではないばかりか、一 国と一植民地の一対一の関係でもない。同時期の植民地支配とそれへの抵抗に共通する要素が見逃せないからである﹂ と述べる。しかも氏は、そうした全体像を描くひとつのモデルであるウォーラーステインの世界システム論が﹁﹃あっ たものはしかたがない﹄として議論されている﹂と指摘し、世界システム論には﹁そこから生ずる﹃非人道的﹄な行為 の責任を問うことはない﹂とする。そして﹁民衆は、あらゆる支配権力の行為︵暴力︶に対してその﹃責任﹄を問うよ うになったのである﹂として、問題を植民地主義にとどめず、権力一般にともなう責任論へと拡充させるのである。こ れはいわば﹁植民地責任﹂論から発しての権力作用・暴力作用一般に対する﹁責任﹂の視覚からの歴史の見直しである。 いずれにせよこのようにある種の否定的事態から生ずる結果についての﹁責任﹂を問題にする場合、﹁責任を問うこ と﹂と、﹁責任を問うことを間題にすること﹂との両者が分かちがたく結びついており、その両者を切り離して考える ことがはなはだ難しいことが分かる。﹁植民地責任﹂論を研究することの難しさはここにある。植民地主義に伴うさま ざまな否定的事態、欺隔的対応などに対する憤りを一人の人間として内面に宿しながら、学問的営為として﹁植民地責 任﹂を問題にするときに、自らが持つ人問的感情をどのように制御するかは微妙で繊細な問題である。 この点で同じく﹃歴史学研究﹄誌上で書評を寄せた板垣雄三氏の感覚は率直なものであった。氏は﹁現在を行き未来

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︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白 に向かって生きる人間の倫理・同義の再確認を、それと媒介しあうかたちで、歴史研究において方法化しなければなら ないという責任の自覚である﹂と本書を高く評価し、自らの数十年にわたる学問的営為とそれを重ね合わせている。た だし、他方で氏の本書に対するひとつの批判は、本書成立のひとつのきっかけともなった二〇〇一年九月のダーバン会 議で扱ったイスラエルに対する批判について本書で何も扱われていないことに置かれる。またその関連で﹁人道に対す る罪﹂がホロコーストに対する批判と反省から生まれた概念であることを了解したうえで、しかしそれでも戦後ドイツ のイスラエルに対する姿勢がもうひとつのジェノサイドを生む条件であった以上、﹁ドイツの﹃過去の克服﹄の根本的 な再吟味が植民地責任論の不可避的な課題となる﹂と﹁植民地責任﹂論が旧植民地諸地域の事例研究だけでは済まない という重要な問題を提起している。 ﹁責任﹂を問うことにともなう緊張感を感じさせるこれらの論評に比して、同じく﹃歴史学研究﹄誌上で書評を展開

ハおレ

した秋田茂氏の議論はやや異なるものである。秋田氏の書評は永原氏編の著作を﹁斬新で刺激的な問題提起﹂と認めつ つ、他方、次のように批判的論点を提示する。第一に、﹁植民地責任﹂論の分析枠組が旧宗主国と旧植民地相互の二国 間関係にとどまっており、世界システム論点な観点、相互連関性の観点がほとんど見られず、旧来からの一国史的な枠 にとどまっていること、第二に、脱植民地化過程において旧植民地内﹁協力者﹂︵コラボレーター︶が旧宗主国の﹁責 任﹂を必ずしも追及していない事実があり、植民地支配とその後の脱植民地化過程をイデオロギー的断罪だけで済ませ ることはできないこと、第三に、各論文の分析対象がアフリカ、ラテンアメリカの諸地域にほぼ限定されており、近年 急速に経済発展を遂げているアジア地域の問題を﹁責任﹂論の視覚からどうとらえることができるのかについて検討が 必要であること、以上の三点である。

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水 清

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て つ ぐ め を 論 ヨ 任 責 地 民 植 ﹁ 7 氏の指摘は一般に植民地支配と脱植民地化過程の歴史分析に際して留意すべき重要な論点を提起しており、三点とも に本書に対する重要で有益な批判であると思う。だが同時に、氏の批判的指摘は歴史分析に﹁責任﹂という概念を導入 することの意味を正面からとらえるものにはなっていない。氏の批判的論点は、それ自体としては適切なものであって も、﹁植民地責任﹂という用語を敢えて用いて歴史過程を分析することの積極的意味を必ずしも評価するものにはなっ ていない。仮に本書が﹃脱植民地化の比較史﹄という副題だけの内容の書物であったとしても、秋田氏の本書に対する 評価はそのまま通用するであろう。言い換えれば秋田氏は、脱植民地化過程において表面化する旧宗主国に対する、あ るいは一般に近代ヨーロッパ植民地列強に対する﹁責任﹂の告発を、脱植民地化過程に内在する論理のなかに組み入れ て解釈するだけであり、結果として﹁責任を問う﹂こと自体の意味を相対化している。本書が﹁植民地責任﹂を問うも のであることをむろん秋田氏も意識し、その﹁責任﹂を問う視点が一国史的な旧来の枠組から出ない本書の限界を問題 にしているのであり、その限り﹁責任﹂論への言及は見られるが、しかし、他ならぬ﹁責任を問う﹂ことの学問的意味 合いや、それを論じる場合の論者と分析対象との緊張関係などについて氏の議論は素通りしているようにも私には感じ られる。 この点は植民地支配に伴うさまざまな事態とそこからの脱却過程をどのように評価するかという肝心な問題そのもの と関係する。﹁植民地責任﹂を間う間い方が、旧植民地による旧宗主国に対する告発という形をとることは他ならぬ本 書各論文が明らかにしているが、実は﹁責任﹂のあり方がこうした﹁ナショナル・ヒストリー﹂的枠組では十分に理解 されないというのが秋田氏の議論である。本書中では前川一郎氏の論文が、おそらくは秋田氏と同質の問題意識を持っ て、イギリス植民地帝国の解体要因を植民地の側からの圧力よりもむしろ国際連合を中心とする﹁国際的要因﹂の中に

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︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白 認めようとする議論を展開しており、この議論は﹁責任﹂を問う側と﹁問われる﹂側との関係としてだけでは﹁植民地 責任﹂論は必ずしも捉えきれないという次の議論に結びつく可能性を持つ。﹁問う﹂側と﹁問われる﹂側という二項的 議論を相対化し多面化しようとする議論は、もう一人の書評者である粟屋利枝氏の議論にも見られる。ここで粟屋氏は インド植民地におけるコラボレーターの位置を重視し、植民地支配にともなうこうしたいわば﹁中間ゾーン﹂の人々の 存在の意味を問うている。 こうした指摘は植民地体制とそこからの脱却過程の分析を多面的に検証し、歴史過程のより具体的な分析に資するも のであり、貴重なものである。しかし同時に、そうした多面的分析を加えれば加えるほど、他方でそうした多面的分析 の視点と﹁責任﹂の視点とはどのように重なり、また重ならないのかという間題が改めて出てくる。秋田氏、前川氏、 粟屋氏の三氏がいずれもイギリス帝国史に関わる研究者であることがこの場合どのような意味を持つのかは私には分か らないが、いずれにしても脱植民地化過程における﹁責任﹂の所在についての複合性と、他方での﹁問うもの﹂と﹁問 われるもの﹂との二項対立との関連性については今後とも検討していかなければならない課題であろう。

第二章﹁植民地責任﹂

と﹁戦争責任﹂ 歴史研究において﹁責任﹂を問う、問題にするということは何を意味するだろうか。旧植民地地域の歴史研究におい て植民地主義に対する批判的視点は当然にあったし、そうした視点を原点として研究に取り組み始めた研究者も多いと 思う。しかし同時に、研究の過程で旧宗主国の植民地政策の問題点なり疑問点なりを取り上げることはあっても、それ

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水 清

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らの﹁責任﹂を問うということには慎重な留保が必要であったろう。﹁責任﹂を問うということは別言すれば何らかの 意味で否定的な事態に対する修復なり弁済なり、場合によっては制裁なり罰則なりを要求することにつながる。これは 具体的な政治過程に置き換えた場合には法的ないし政治的な何らかの具体的な強制力の行使を意味する場合があり得 る。ところが学問はそのようなカの行使をする場ではない。せいぜいのところ、そのような修復なり制裁を国家なり他 の機関なりが決定する際の説得力を増すための知的貢献にとどまる。そのような場合、その種のカの行使を肯定ないし 否定することは学問研究の場において慎重な態度を余儀なくされるのが通常であろう。そこに﹁責任﹂と向き合うこと の困難さがある。 ﹁植民地責任﹂とよく似た用語に﹁戦争責任﹂がある。というよりも﹁植民地責任﹂という用語は、少なくとも日本 においては、﹁戦争責任﹂の一種のアナロジーとして意識される用語と考えるべきかも知れない。この場合﹁戦争責任﹂ 論の方は、先に述べた学問研究と現実政治との関わりという点では、﹁植民地責任﹂論に比べはるかに密接な関わりを 持っている。しかしながら他方、﹁戦争責任﹂という用語およびその実際上の意味合いと﹁植民地責任﹂とは非常な相 違点があり、両者の類似性に注目するとともに、その相違性に目をやることも﹁植民地責任﹂論の検討には必要である

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かも知れない。 第一のもっとも重要な相違点は、﹁戦争責任﹂という概念が元来は国際政治の優勢な論理に依存しながら成立したも のであり、交戦諸国間の戦後処理の枠組として提起されたものであるということである。第一次世界大戦後のドイツ の﹁戦争責任﹂にせよ、第二次世界大戦後の日本の﹁戦争責任﹂にせよ、いずれも開戦原因がドイツないし日本にある ことが戦勝国によって認定され、従って戦後処理のその他の側面がそれとの関係で組み立てられていく。これに対し

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︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白 て﹁植民地責任﹂はダーバン会議に見られるように旧植民地地域の人々、奴隷制や奴隷貿易によって過去に負担を負わ されたと感じる人々の側からの告発という形で始まっており、国際政治のいわば劣勢な論理に依拠しながら成立してい る。﹁植民地責任﹂はこれを了承する国際的枠組が存在せず、今のところあくまでも﹁弱者﹂の﹁強者﹂に対する告発 にとどまっている。 いま、開戦原因がその他の戦後処理の枠組の問題として提起されたと指摘したが、より正確にいえば、戦後処理の枠 組を形成するための条件として開戦原因を認定したという方がいいかも知れない。 よく知られているように﹁戦争責任﹂︵名舘σq⊆岸寄一詔。 。8ゴ一α︶という用語は第一次世界大戦におけるドイツの﹁戦 争責任﹂認定から始まる。ヴェルサイユ講和条約第≡二一条は開戦の責任がドイッにあることを認定し、ドイッもこれ

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を承認したということになっている。ところが、この壬二一条の文言の出方を見ると、これがドイツからの賠償取り立 てをめぐる英仏などのヨーロッパ同盟国とアメリカとの対立を架橋するものとして、いわば出会い頭に出てきた概念で あることが分かる。パリ講和会議での実質的な討議であった米英仏伊四者会談の速記録者ポール・マントゥによれば、 ドイッに開戦の全責任を負わせるかのような文言は、賠償の対象を民間人被害損害に限定するか、軍事費全体に広げる かの主として米と英仏との対立を架橋する便宜的なものとして条約に挿入されたものであった。 言い換えれば﹁戦争責任﹂の認定とは、生じた被害や損害を誰がどの程度弁済するべきかという議論の経緯の中で出 されたものであり、戦後処理、とりわけ戦後賠償の実現という問題と関連して提起されたのである。第一次世界大戦後 のパリ講和条約において、大戦の原因がドイッ側にありとする議論は戦勝国の側では普通にあり、その意味では﹁戦争 責任﹂という間題はやはりどちらの側に開戦の責任があったかという間題としてあったことは事実であろうが、しか

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水 清 ︵ て つ ぐ め を 論 ヨ 任 責 地 民 植 ﹁ 11 し、この問題が賠償条項の中に組み込まれたことでも分かるとおり、開戦責任の認定は戦後経済の立て直しのための不 可欠な前提として生じたものであった。その意味で﹁戦争責任﹂とは言葉の普通の意味での﹁戦争﹂を起こしてしまっ た﹁責任﹂というのではなく、あるいはまた﹁責任追及﹂という目的のための﹁責任﹂の認定であったのではない。第 一次世界大戦時の戦争責任問題とは国際政治の産物であり、賠償受け取りをめぐるとりわけ英仏などの最大限要求派と 分別ある程度に収めようとするアメリカとの対立の産物であったと言わなければならない。 第二の相違点は、﹁戦争責任﹂は終戦時の彼我の力関係の中で決定され、その彼我の力関係は戦勝と敗戦という絶対 的な力関係に依存しているということである。﹁責任﹂の認定は戦勝国の特権であり、敗戦国は戦勝国側の判定の前に 立たされることになる。それに対し﹁植民地責任﹂は国際世論動向や旧宗主国側の旧植民地地域との経済関係の維持と いった利害考慮は別として、基本的には近代世界におけるヨーロッパと非ヨーロッパ地域とのあいだの歴史的な関係を 総括したうえで判定されたものであり、戦争の勝敗といった明白な勢力関係を前提にするものではない。﹁戦争責任﹂ とはヨーロッパ列強間の戦争での勝敗が前提にあり、勝った側は勝ったが故に敗者に認定を迫るものであり、ある意味 では非常に原始的な﹁責任﹂認定である。政治的決めつけと言ってもいい。認定する側が認定される側を決めつけ、認 定される側はもっぱら糾弾の対象となる。当時の戦勝国と敗戦国との国力の格差をそのまま違う形で表現したものとも 言える。 戦争という複雑な事象が発生するメカニズムは個人の犯罪のような原因と結果の単純な議論ではとても説明のつくも のではない。戦争状態が発生する原因は複合的であり、交戦諸国のいずれかの側だけに開戦の原因を認定することは通 常はできない。第一次世界大戦や第二次世界大戦のような大規模な戦争になればなるほどこの事象の複雑性は明らか

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︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白 で、その複合性、複雑性を疑うことはできない。にもかかわらず戦争の﹁責任﹂を問題にしたとたん、その複合性や断 定不可能性を前提とすることはできなくなる。なぜなら﹁責任﹂とは断定的に認定するものだからである。﹁戦争責任﹂ もまた、複雑な事象の単純化、一方的断定という形でしか現れてこない。 ここで﹁責任﹂という言葉の意味を確認しておこう。この言葉は通常、二種類の意味に使われる。すなわち、何らか の価値的に否定的な状況が生じた場合にその状況を生じさせた原因となる事態に状況発生責任が生じるという場合であ る。もうひとつは、権力的力量的その他の落差がある場合により強力な側が弱い側に対して保護し防衛する道義的義務 が生じるような場合である。法哲学の立場から責任という言葉の意味や用法を概念的に論じた瀧川裕英氏は責任の状況 の二種類として、ある行為がなされた結果、何らかの問題が生じたような状況︵第一類型︶と、何らかの果たされるべ き課題が生じているような状況︵第二類型︶を区別し、例えば前者には自動車事故で歩行者が傷害を負う場合や過去に 関する責任状況を、後者には子の養育に関する親の責任や未来に関する責任状況があてはまるとする。この瀧川氏の議 論も上記の二種類とほぼ軌を一にする。 瀧川氏がこれら二つの類型を概念的に区別する際に、前者は過去に関する責任状況、後者は未来に関する責任状況と している点は示唆的である。すなわち前者の場合、すでに発生している何かの状況があり、その状況の発生原因を構成 する一因子として責任を負うべき対象を限定するのに対して、後者の場合、責任を負うべき何かの対象がまだ現時点で 発生しておらず、将来の問題となる。言い換えれば対象が明示的な過去に対する責任と対象が明示されない未来に対す る責任との二類型があることになる。 ﹁戦争責任﹂であれ﹁植民地責任﹂であれ、具体的にイメージされるのがこの第一類型、すなわち過去に対する﹁責

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水 清 ︵ て つ ぐ め を 論 ヨ 任 責 地 民 植 ﹁ 13 任﹂の問題であることは明白である。しかし同時に﹁植民地責任﹂の場合、旧植民地地域、とりわけアフリカ諸地域の ような政治的経済的に困難な状況が存在する地域の将来についてどのような立場があり得るかという問題がある。戦争 は人災であり、これを防止すること、あるいは言い方を変えれば、これを人間の制御の範囲に封じ込めることは、簡単 ではないが不可能とは言えない。しかし植民地問題とそこからの脱却の課題はいわば現在完了進行形の形で進んでいる 問題であり、現在と将来にわたりどのように対処するかが現在問われつつある問題である。﹁戦争責任﹂が戦争防止と いう未来の問題をうちに含みながら提起されている側面は否定できないものの、それでもやはり、もっぱら過去の起き てしまった戦争をどう清算するかという問題であるのに対して、﹁植民地責任﹂の方は、行われた植民地支配の問題と ともに、ある意味ではそれ以上に、旧植民地地域の未来をどう構想するかということに関係する。植民地主義から受け 継いだ負の遺産をどう払拭するかという問題とともに、それと絡み合いながら、旧植民地地域の現在と将来をどのよう に形成するのかという問題がここには含まれているのである。 ﹁責任﹂とは﹁責任をとれ﹂という命題に対する応答であって、あらかじめ﹁責任﹂なるものが存在するのではな ハれレ い。﹁責任をとれ﹂と発するのはある事象によって被害損害を受けたもの、あるいは受けたと主張するものであって、 この場合、受けたと主張するには相応の根拠がなければならない。﹁戦争責任﹂の場合、戦後賠償をはじめとする戦後 処理の国際的枠組が一応存在し、また、戦争に伴う被害損害を訴える被害者があり、その被害者からの訴えが前提とし てある。こうした被害者による﹁責任を問う﹂声がなければ﹁責任﹂という概念は出てこない。戦争であれ他のいずれ の事象であれ、そうした事象に批判的であるというだけでは﹁責任﹂という概念は出てこない。だから﹁責任﹂論の本 質は﹁責任を問うこと﹂であり、﹁責任を間う﹂とは何らかの意味で問われる側からの応答を期待することである。そ

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2 ︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白 れを前提としないで﹁責任﹂だけ問うという行為は無意味である。ただ批判的に扱うという意味でのみ﹁責任﹂という 概念を持ちだしたならば﹁責任﹂という概念の意義は無限に小さくなる。ところがしかし、﹁植民地責任﹂に関しては この前提がはなはだ不分明であらざるを得ない。 本来、歴史上の事象の原因、因果連関は複合的なものであり、断定することはできない。歴史過程というものはすべ からく複合的で断定できないものである。ところがその複合性、断定不可能性を前提としては﹁責任﹂論はできない。 従って﹁責任﹂を問う場合には歴史の複雑な過程そのもののある一面を断面として取り出し、その限りで一定の因果関 係を立証し、その立証に基づいて何らかの形での制裁ないし弁済といった過程をとらざるを得ない。その過程が﹁植民 地責任﹂の場合には﹁戦争責任﹂とは比較にならないほど複雑で、もつれ合った糸をほどくことが困難であると言わな ければならない。

第三章委任統治制度と植民地に対する﹁責任﹂

先に﹁責任﹂とは二つの類型があると述べた。﹁戦争責任﹂にしろ﹁植民地責任﹂にしろ、感覚的に理解されるの は、このうち前者、すなわち過去の否定的事象に対する回復、弁済、制裁といったことである。しかしながら、植民地 に対する﹁責任﹂論のもうひとつの、そして最初に出てきた現れ方は、むしろ後者、すなわち未来への責務としてのそ れであった。 例えば、第一次世界大戦後の新しい植民地政策とでも言うべき委任統治制度について考えてみる。ヴェルサイユ講和

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水 清 ︵ て つ ぐ め を 論 ヨ 任 責 地 民 植 ﹁ 15 条約第一一九条は﹁ドイツは海外資産に関するすべての権利と資格を同盟及び連合諸国に譲渡する﹂としてドイツの海

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外領土、つまりは旧植民地を戦勝国に譲渡している。この旧ドイツ領植民地の統治をいかにするかについて、いわゆる 委任統治制度が採用されることになる。その概要は同講和条約の第一編にあたる国際連盟規約第二二条に示されている。 連盟規約第二二条によれば、ドイツないしオスマン帝国の主権から離れた地域においては﹁未だ自立することができ ない諸人民﹂の﹁安寧と開発が文明の聖なる使命であ﹂るから、﹁そうした諸人民に対する後見が、資源、経済、地理 的位置の故にその責任をもっともよく果たせ、またその責任を受け入れる意思を持つ先進諸国に委託され﹂、﹁連盟に代 わる委任統治諸国として、それら諸国により﹂後見が行われることになる、とされる。 後に連盟事務局がまとめた委任統治制度の趣旨説明によれば、﹁後進地域の資源を文明に開放する際に虐待が行われ たり、現地人と先進国民との間で不幸な関係が生じたりする﹂ことがあり、また﹁保護領や併合というやり方は時に応 じて戦争の原因となり、多くの場合、植民地諸国間での対立を生んだ﹂のであり、委任統治体制は、﹁後進諸人民の統 治が過去にそうであったような不幸の原因とならないようにするための新しい試み﹂であった。 こうした言い方を前世紀以来のヨーロッパ諸列強による﹁文明の使命﹂観と同質のものと批判することはたやすい。 しかし同時に、奪い取った旧ドイッ領植民地、旧オスマン帝国の﹁非ヨーロッパ﹂部分の処理をどうするかという場 合、この地域を旧来型の宗主国による植民地支配としなかったのは、これらの地域の統治に一定の国際的枠組を設定す ることによって植民地獲得競争の結果生じた第一次世界大戦にいたる国際紛争を封じ込めようとする意図があったこと は確認してよい。 パリ講和会議とは何よりもまず﹁ドイツ問題の解決と安定した国際システムの構築﹂こそ使命としており、大戦を招

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︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白 いた要因である﹁ドイツ問題﹂を主たる議題にしていたことは当然である。敗戦国ドイツから海外植民地を奪還するこ とがドイツ弱体化のひとつの政策であったが、一方で、旧ドイツ領植民地をめぐる列強間の利害対立が国際紛争に発展 することに対する警戒心がそこにはあった。 旧ドイッ領植民地からドイッ支配を排除するならば、その後を継いで同地域をどのように統治するかという問題が生 じる。そのときに、現地に住む住民自身による統治という選択肢は将来の問題として考えるとして、当面は考えない。 しかしいずれにせよ、こうした地域の﹁安定﹂的な統治、住民の﹁安寧と開発﹂は戦勝国によって担われなければなら ない、その意味での﹁文明国﹂のある種の﹁責任﹂と意識された。 戦勝国はアフリカなどの旧ドイッ領植民地における住民の安寧と開発を自らの﹁聖なる使命﹂と考えて、この地域の 統治に﹁責任﹂を負ったのである。﹁植民地責任﹂とはこの場合、第二の類型、つまり未来に対する責任であった。 委任統治問題に関するある書物に編者として序言を寄せたケンブリッジ大学の国際法学者で、後のハーグ国際司法裁 判所所長、初代欧州人権裁判所所長を歴任したアーノルド・マクネアはこう言う。 一九一九年に委任統治制度にしぶしぶ同意した政治家たちは、委任統治制度が公衆の良心への必要な譲歩であり、行 政的観点からは問題があるが、結果的には敗戦国から植民地を奪取するという﹁良き古き計画﹂とそれほど変わるとこ ろはないと考えていた。だが、このような見方は誤っていた。なぜなら、委任統治とは﹁植民地宗主国と植民地住民と の関係を律する新しい法と道義﹂に基づくからであり、しかもそれは﹁従属諸人民の独立を準備するもの﹂でもあるか

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らだ、と。 マクネアがこれを書いたのは一九三〇年である。彼は委任統治制度の美点を口を極めて称揚する。曰く、﹁世界の大

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水 清 ︵ て つ ぐ め を 論 ヨ 任 責 地 民 植 ﹁ 17 きな部分を占める人々が肌の色の違いや政治経験の未熟さでいつまでも他者に従属しているのは考えられない。委任統 治というのは彼らの究極的な解放への道を示すもので、﹃後進﹄と見なされていた諸民族が急速に発展してきているか ら、この目標は考えられている以上に早く達成されるかも知れない﹂、と。 委任統治領に指定された旧ドイッ領植民地の政治的独立の方向性についてどれほど明瞭な見通しを持っていたのかは 慎重に判断すべきであろうが、しかし、そうした方向が一九三〇年の時点で展望され、委任統治制度がそうした方向を 促進するものと考えられていたことは確認してよいだろう。 ここにはさらに次のような問題がある。すなわち、植民地地域の政治的独立を宗主国の側が展望する、あるいは予想 するという場合、地球上のあらゆる地域がいずれは主権国家によって統治されるであろうことを予測し、またおそらく はそれを望んでいたということである。秩序がないのは誤った秩序よりも悪いという政治的立場はヘゲモニー国家イギ リスにふさわしい見方だが、なぜに秩序が必要か。それは、経済的利益の観点とともに、政治的軍事的観点からも説明 される。通商、開発、交流を進めるために秩序が必要であること、秩序さえあれば、秩序維持者とのあいだで一定の妥 協、政治的取り決めが期待できる。それは宗主国側にとっても望ましいことである。この秩序こそ主権国家の樹立であ り、主権国家が安定して樹立されていることが確保されるならば、その秩序を維持する統治者が誰であるかは決定的な 重要性を持っていない。 大英帝国の政治家、南アフリカ連邦首相でもあったヤン・スマッツは国際連盟の提唱者としても知られるが、こう 言う。文明は常に諸民族の同盟︵需品斥亀乞器o霧︶を志向してきたのであり、一民族を基盤とする国民国家は例外的 で、民族が権力を掌握する過程でしばしばその民族的境界を越えてきた。民族原理が喧伝されているが民族性が成長し

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2 ︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白 すぎると帝国主義になり、諸民族の自由の破壊のうえに帝国は成り立つ。こうした抑圧的な帝国は結局滅び、今日イギ リス連邦だけが残っているのは、それのみが民族の自由と政治的非中央集権性に則っているからだ、と。いささか手前 勝手な論理のようにも見えるけれども、民族原理が圧倒していた当時の空気のなかで、スマッッの議論はむしろ冷静な 議論と言えるかも知れない。彼が委任統治を提案するという場合も、もともとはロシア、オーストリア、オスマン帝国 から分離された地域の一部について構想していたが、それは民族原理を承認したとしても、自立的な統治が望めないか らであり、その点ではいわゆる植民地も、また旧帝国の被支配地も同類なのであった。 委任統治制度の設計者にとって、その制度は植民地支配にともなう悪弊を除去する﹁新しい法と道義﹂に基づくもの であった。この意味で制度設計者には第二類型としての﹁責任﹂意識は、少なくとも自意識の世界においては、あり余 るほどあったことになる。

おわりに

﹁戦争責任﹂問題をめぐるわが国での議論の最大の難点は、戦時中の被害損害についての発生﹁責任﹂の認定が問わ れている問題であるにも関わらず、そうした議論に対してもっぱら﹁開戦の原因﹂をめぐる議論で応酬したり、あるい は被害損害そのものの事実性を頭から否定してしまうような議論を対峙したりしてきたことにあると私は考えている。 戦争の原因、開戦の発端などを歴史学的に分析することの重要性は言うまでもないところであるが、わが国で問われて いる﹁戦争責任﹂問題は開戦の経緯をめぐる歴史分析によって明らかにされるものとは少し違うレベルの問題である。

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﹁植民地責任﹂論がちょうど﹁戦争責任﹂論と同じように、﹁責任﹂を告発することの緊張感から遠ざかり、植民地 支配と脱植民地化過程をめぐる歴史分析に収敏していくのなら﹁責任﹂と銘打ったことの意味は半減するであろう。 ﹁責任﹂を問題にするということは﹁責任を問うこと﹂そのものに近づくことであり、﹁問う﹂人々や﹁問い﹂の仕方に ついて分析する研究者自身の評価がやはり問われることになる。その意味で﹁植民地責任﹂論には分析対象に対する価 値判断が伴わざるを得ない。学問的議論をする場合に注意しなければならない価値判断からの﹁中立﹂性に抵触する微 妙な領域に﹁植民地責任﹂論は入り込もうとしたのであり、ならばこそ、本書に対する注目もあったのだと私は思って いる。この諸刃の刃に近い議論の緊張感をぬきに﹁植民地責任﹂は論じられないであろう。 水 清 ︵ て つ ぐ め を 論 ヨ 任 責 地 民 植 ﹁ 19 注 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ この研究は二〇〇四年度以降七年越しで続けられている研究プロジェクトであり、三〇名余りの研究者が参加し、これまでに二〇回以 上の研究会、シンポジウムなどを開催している。 永原陽子編﹃﹁植民地責任﹂論脱植民地化の比較史﹄青木書店、二〇〇八年。 本書第−部第一章﹁戦争責任と植民地責任もしくは戦争犯罪と植民地犯罪﹂。 本書﹁序﹃植民地責任﹄論とは何か﹂。 同、一一頁。 同、二八∼二九頁。 同、二九頁。 ﹁責任﹂という用語は法律用語としては﹁刑事責任﹂﹁民事責任﹂あるいは訴訟法上の﹁証明責任﹂といった形で確立した意味内容を有 しているが、歴史学の用語としてはそこまで定着していない。法学の世界に比べて歴史学でこの用語があまり使われないのは何故かは興 味深い問題だが、ここでは措いておく。

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︵ 号 35 第 巻 通 ︵ 号 巻 17 第 学 法 鴎 白 ︵9︶ ︵10︶ ︵U︶ ︵12︶ ︵13︶ ︵14︶ ︵15︶ ︵16︶ ︵17︶ ︵18︶ ︵19︶ ︵20︶ ︵21︶ ﹃歴史学研究﹄二〇一〇年一月号、同年四月号。 矢野久﹁戦争責任論から植民地責任論へ永原陽子﹃﹁植民地責任﹂論脱植民地化の比較史﹄︵青木書店、二〇〇九年︶に寄せて﹂ ﹃三田学会雑誌﹄一〇二巻三号︵二〇〇九年一〇月︶。本稿では矢野氏の議論そのものは扱わないが、氏は﹁人道に対する罪﹂の戦後の展 開や戦後国際裁判の評価について貴重な批判点を提示している。とくに﹁人道に対する罪﹂について第二次世界大戦以降ドイツにおいて それが軽視された点を批判的に検証し、この罪が﹁実際にどのように実践されたかを考察することなしに、この精神のその後の展開だけ を追跡することは、問題を含みかねない﹂と述べている点は、本書、とくに拙稿に対する批判として貴重な指摘と思う。今後の課題とし たい。 南塚信吾﹁﹁植民地責任﹂論と世界史について﹂﹃歴史学研究﹄二〇一〇年一月。 板垣雄三﹁︿植民地責任﹀論の﹃これから﹄への希望﹂﹃歴史学研究﹄二〇一〇年一月。 秋田茂﹁グローバルヒストリ!研究から見た﹃植民地責任﹄論の問題点﹂﹃歴史学研究﹄二〇一〇年四月号。 本書第皿部第九章﹁イギリス植民地問題終焉論と脱植民地化﹂。 粟屋利江﹁インド近代史研究と﹃植民地責任﹄論﹂﹃歴史学研究﹄二〇一〇年四月号。 この点はある意味では拙稿に対する自己批判でもある。拙稿は﹁植民地責任﹂の解釈にあたり﹁戦争責任﹂との類似性を追求しすぎた きらいがある。両者の意義を対比的に検討することは必要であるが、その際には類似点とともに相違点もまたおさえる必要があろう。 ヴェルサイユ条約と戦争責任問題については拙稿﹁戦争責任と植民地責任﹂四三∼四七頁を参照されたい。 §恥ミ§ミ§帖§働黛導鳴9§匙黛きミ︵匡貰3鱒土巨島o 。口O一。︶・Zo奮o︷9ΦOBo芭H筥Φ6聾段評三三き叶o泰・80跨ΦUΦ一一<oq8浮Φ OΦ§き∪の屠駐。p。Pぽギ呂巨o蝕Φの。宅窪。ρω唇℃一Φ幕o聾網<。ピ§8浮亀四℃Φあ9蓼。魯。≦詣Hω呂ギ節琶四邑きα国鼻&ξ貯浮ξψ =鼻&浮慈①︾路ω琶8。︷匡帥轟9南ゆ。①馨犀①㌔匿88pZ霜旨霧畠勺旨8叶。od馨Φ邑蔓零Φωω“一8Pう善身* 誤解を受けないように一言すれば、ここでの﹁戦争責任﹂とは開戦責任という意味でのそれである。他の場所でも指摘したように、 日本における戦争責任間題とはこのような意味での開戦責任の問題であるべきではないと私は思っており︵参照、拙稿﹃戦争責任とは何 か﹄かもがわ出版、二〇〇八年︶、従って、戦争責任の単純化、一方的断定などといった形容は、本来の戦争責任問題︵と私が考えてい るところの戦時残虐行為の被害損害に対する弁済の問題︶には当てはまらない。 瀧川裕英﹃責任の意味と制度負担から応答へ﹄勤草書房、二〇〇三年、一八∼一九頁。 責任という概念を﹁応答可能性﹂の問題として論じた高橋哲也氏の議論を参照されたい︵高橋哲也﹃戦後責任論﹄講談社、一九九九 年︶。

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︵22︶§偽§蓉耐黛忘誘&§切§織転禽﹄§ミ蕊噺§。。黛齢ミ寄試馬外ミSミQ愚︵妻器窪p讐oP一〇囑y戸ミ9なお、同条項に明らかなように委任統治 領となる旧ドイツ領植民地は戦勝国に譲渡されたのであって、国際連盟に対してではない。 ︵23︶§鳴§ミ耐黛忍爲ミ§ω黛ミ駄転塁℃マ⑩o oめ ︵24︶冨茜斥。⊇豊9ωω。R窒計江鼠。§呂。pωΦ&。p臣。雅四讐Φ。毫呂。口ωき巳≦き鐘βoの器く餌藁旨合亭舞 ︵25︶パリ講和会議とヴェルサイユ講和条約について近年の研究集約として、ζ帥眸のαωoΦ旨①犀ρO①邑α曽窄匡ヨ帥Pきα雲器訂夢9器R ︵①留.y§恥§ミ耐魚忍お匙§勲毎肉ミ鴇婁ミ鳴ミ蕊ミ覗寄9義︵多霧匡p讐oP一80 。︶、があり、とりわけその﹁序論﹂に今日までの同問題のと らえ方がまとまって提示されている。O妙ζ㊤轟亀ω8日爵ρOo邑α∪■零匡匿きる&国房四訂浮9器9=ぎ#o身&8=﹂昌二げ準もや旨ρ ︵26︶≧8箆U■ζ。Z畳一、臣ぎ號.ωギΦ鼠8=㍉笹Zo目日きゆΦ口三。ぜ§鳴ミ§“駐禽畠。う妹§︵ぎ&oP2睾ぎ蒔葛08旨o口㊤し 。O︶も℃ヤ≦ ︵27︶寒02帥F..国岳8h.の零Φ富8.、も℃●≦ ︵28︶いρω日暮ρ§鳴忠凝ミ馬さぎ虜︵ぎ注oP808募ρZΦ≦ぎ最お一〇 。︶も■雪 ︵29︶この問題については拙稿﹃戦争責任とは何か﹄を参照されたい。

︵本学法学部教授︶

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