高田瞽女に関する研究 : その地域伝承と教材としての杉本キクエ像 利用統計を見る
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(2) Ⅱ.高田瞽女,杉本キクエ(1898‐1983)の生涯. 1.高田瞽女の組織 瞽女とは ,“目明きの手引に連れられて,三味線をたずさえて僻陬の村々を唄をもって 渡り歩いた盲目の女旅芸人である”と佐久間(1985)はいう。盲人の女性のみが集団の一 員になることができた点に特徴がある。全国的な組織はなく,各地方で「瞽女仲間」と呼 ばれる組織を作っていた。 高田瞽女は「高田瞽女仲間」と呼ばれ,自治的な組織を形成していたという。自治的な 組織と呼ばれる理由は,芸能職業集団として,高田に全ての瞽女が居住しながら共同生活 を営んでいたことに由来すると考える。高田瞽女の場合,市内に瞽女親方の家が何軒かあっ て,弟子はその親方の家へ養女として入る。親方は,自分の家を所有している者に限られ る。親方の家が何軒か集まると「組」を形成することになる。組の形成は,気の合った親 方同士で組むことが一般的だったようである。市川(1975)によれば,明治時代末に親方 の家が17軒あったが,どの家も,経済的,または具体的な保護がなかったという。 瞽女は,相互の関係を保つために掟に従って生活をしていた。掟は,「瞽女式目」と呼 ばれ,相互間の呼称,師弟関係,修業年数について定めている。さらに,高田瞽女の場合 は, 「高田瞽女仲間規約書」によって強固な組織を形成し,厳然な秩序の維持や統制を図っ ていたのである。内容は,師弟関係を重視するものがほとんどで,弟子は親方の考えに背 くことはできず,親方の考えに従うように定められていた。. 2.杉本キクエ(1898‐1983)の生涯から見える高田瞽女の社会生活 1964(昭和39)年,高田瞽女は最後の旅をし,瞽女としての稼業を終えた。1814(江戸 時代文化11)年に記された仲間議定証文之事(市川信夫による写し)には,56人の高田瞽 女の名が記録されている。1901(明治34)年には89人もの高田瞽女が存在していたという が,巡業活動を終えた1964(昭和39)年には3人だけとなる。この3人の名は,杉本キクエ, 杉本シズ,難波コトミである。 杉本キクエは,高田瞽女最後の親方である。彼女は,1898(明治31)年3月5日に新潟県 中頸城郡諏訪村東中島(現在の上越市東中島)の青木久治と小梅の長女として生まれる。 家は富農であった。6歳のときに麻疹を患うが,医者の誤診で赤痢の薬を飲まされ,一晩 で目が見えなくなってしまう。彼女は,目が見えなくなったことによって,高田瞽女とし て生きることとなる。 なお,文中で現代的に見て不適切な表現が出てくるが,杉本キクエを取り巻く会話をそ のまま引用した。 (1)杉本キクエの弟子入り 1904(明治37)年3月9日,キクエは7歳で杉本家に弟子入りした。弟子入りした日には 本名と別の名をもらうことになっており,キクエは ,「ハル」という芸名を親方から与え - 18 -.
(3) られた。 キクエが生まれた1898(明治31)年には,すでに高田に盲学校が設立されていたが,入 学者のほとんどが富農の家の男性に限られ,キクエに学校へ行くという選択肢はなかった のである。当時,盲人の子どもの親は,子どもに早く一人前の職業,つまり自活の道を与 えることが親の悲願,責任であったと佐久間(1985)はいう。キクエは,父親から按摩か 瞽女という選択肢を与えられ,瞽女になることを決心する。 キクエは,盲人が職に就くことについて,「やっぱりね,どんなにかわいくったって家 の事情で瞽女さにさせなきゃなんないことだってあんもの。そりゃ,親心ってものは他人 に自分のかわいい子をくれてやるなんて気はないさ。ただ,目の不自由なもんが一生自分 一人で生きていけるわけないでしょ。食べさしていけないことはないけど,親がこの世を 去ってからどうしるの。兄妹があっても,憎まれて,仲間はずれにされるのがおちさね。 それではあまりにもせつないよ。」と語る。 (2)厳しい修業 瞽女仲間には,入門後の修業年数に基づく階級序列があった。瞽女では,弟子としての 修業期間のことを「年季期間」と呼ぶ。高田瞽女の年季期間は,おおよそ10年と決められ ていた。 瞽女の修業では,三味線と唄の稽古をしなければならない。キクエは,弟子入りした頃 の稽古は厳しいものだったと語る。稽古は,唄の歌詞を覚えることから始まる。唄の稽古 は,親方の後について反復する方法で行われた。親方は,瞽女唄の七五調の文句を一節ず つ区切って教える。全て口伝で行われるため,覚えるのが大変であったという。唄を覚え るために,歩きながらでも,風呂に入りながらでも,お経を唱えるように暗唱した。特に キクエは,他の高田瞽女に比べて覚えが早かったといわれている。 三味線の稽古は,親方が弟子の背後に回り,棹を持つ弟子の左手の指に自分の指を添え て糸の押さえ方を示す。右手は撥を一緒に持って弾き鳴らす方法を教わる。目が見えない ため,三味線の押さえる場所がわからなかったという。キクエは,三味線の稽古について, 「わたしは三味線なかなか覚えらんなくてね。親方によく撥で手をはたかれたりしたよ。」 と語る。 (3)巡業の様子 高田瞽女は,1年の300日以上,巡業をしていたことがキクエによって語られている。キ クエは,巡業を「旅」と呼んでいたことから,高田瞽女の場合は巡業に出向くことを「旅」 と呼んでいたと推察する。 高田瞽女は,毎年一定の時期に決められた地域への旅を繰り返し,旅先で唄を聴かせる ことで,米や金を貰い報酬を得ていた。自分たちの住んでいる家の周辺を回る場合と,遠 くの地域を旅する場合が主である。旅先へは,重い荷物を背負い歩いて向かう 。「手引」 と呼ばれる全盲でない女性が先頭となり,右手に杖を突き,左手を前の者の荷物に軽く添 えるか,荷物や腰に付いている細紐につかまって一列になって歩いて行くのである。当時 - 19 -.
(4) は,草履を履き,整備されていない道路を歩いたため,転んだり,がけから落ちそうになっ たりすることがあったという。また,豪雪や雷雨のような悪天候であっても旅を続けてい た。旅先の人々と瞽女との間に長年の慣行が築かれたことによって,毎年訪れる義務があっ たと佐久間(1985)は述べる。 旅先では ,「瞽女宿」と呼ばれる地主の家に泊まる。夜になると,瞽女宿に地域の人々 が年齢や性別に関係なく集まり,瞽女唄を聴きながら宴会を楽しむ。巡業先では,キクエ たちのことを慕ってくれたり,温かく迎えてくれたり,一緒に唄を歌って楽しんでくれた りする地域の人々が多くいた。しかし一方で,苦労して得た米を盗んだり ,「汚い」と悪 口を言ったり,冷たい態度で接したりする人々もいた。 (4)高田瞽女の廃業 1945(昭和20)年8月1日,長岡に爆弾が落とされた。戦争の時代は,炭も米も配給制で あった。炭を買いに出かけると,巡査に見つかり取り上げられてしまうような時代であっ た。高田の冬は,炭がないと暮らしていけない。配給もされない炭のない家が近所にたく さんあったが,キクエたちは苦労して買いに行ったおかげで炭に困ることはなかった。ま た,キクエたちは,唄を歌うことで米を貰うという商売をしていたため,他の人々よりも 米を多く持っていたという。 戦争によって,瞽女をやめる人は多かった。旅に出ても,昔のように米を貰えなくなっ たためである。しかし,キクエは,2人の弟子と一緒に旅を続けた。戦後,高田瞽女とし て残された親方の家は,キクエの家だけとなった。戦後も旅を続けたキクエであったが, 1964(昭和39)年,高田瞽女は最後の旅を終えた。 高田瞽女が衰退した原因について,上越市文化財調査審議会(1960)は次の6点を挙げ ている 。“①戦時中の経済統制によって,米がもらえなくなった。②目明きの手引が勤労 動員で徴用された。③年寄りが多かったが,戦時中にはほとんど死んでしまった。④手引 が収入不足で解散した。⑤衛生思想が発達して,盲人が少なくなった。⑥社会制度が変わ り , 特に戦後盲人の義務教育制実施のため,瞽女のなりてがなくなった。” 一 方 , 大 山 (1982)は,ラジオを中心とするマス・メディアの発達によって,瞽女に娯楽を求めなく なったことも挙げている。 旅に出なくなったキクエたちは,東京の舞台での演奏を頼まれることがあった。何度か 東京まで演奏に行くことはあったが,昔のような気持ちで演奏することはできなかったと いう。瞽女宿では,唄を聴きに来てくれる人々の気持ちを読み取りながら歌っていたキク エにとって,客の反応のない東京の舞台での演奏は心苦しいものであった。1975( 昭和50) 年頃までは,東京での演奏を引き受けていたが,それ以降の演奏の依頼は全て断っていた といわれている。気力だけでなく,体力もなくなってしまったためである。しかし,近所 の人々から声が掛かると喜んで演奏を披露したという。 (5)国の無形文化財に指定されたキクエ 戦後,瞽女の姿は全国的に知れわたることとなる。1976(昭和51)年6月7日の新潟日報 - 20 -.
(5) に ,“ここ2,3年「瞽女ブーム」ともみられるほどあちこちで騒がれている”と記されて いる。昭和50年前後は,瞽女唄のレコードや絵,瞽女ワッペンが売れるほどであったとい う。 瞽女ブームのきっかけは,キクエが1970(昭和45)年に国の無形文化財に指定されたこ とであった。さらに,その2年後には黄綬褒賞を受賞した。数々の栄誉について,市川 (1975)は“この相次ぐ栄誉は,本人ひとりのものでなく,300年にわたる長い伝統の歳 月の中に息づいて,盲目なるがゆえに不幸だった高田瞽女仲間の,一切の死者にも供える べき鎮魂の手向けだった”と考察する。 キクエは,85歳で亡くなるまで唄の稽古を続けていた。キクエは,亡くなる2年程前か ら,脳梗塞の発作や片麻痺などの老化現象が見られた。入院してからのキクエは,体力の 回復が見られることがあったため,このまま元気になり,杉本家に帰れるのではないかと 思われていた。しかし,老化の症状は悪化するばかりであった。 「唄の文句を忘れてしまっ た。もう生きているかいがない。」と最後に言い残して亡くなったといわれている。1983 (昭和58)年3月30日のことであった。. 3.杉本キクエが語る瞽女としての生涯 「わたしは瞽女。もう70年以上もこの商売やってきたさね。でもさ,けして好きではじ めた商売ではなかったね。旅はそりゃきついもんさ。ただわたしらの唄を聞きたいと待っ てくれる人が大勢いたからそれに元気づけられて出かけていったんだろうね。わたしのよ うなつたない芸でも親方さまのおかげで人さまにも待っていただけるそんな身分になった んだと,ありがたく思っているのさね。こうして静かにまわりを見渡してみると,歯が抜 けていくみたいにひとりひとりいなくなって,気がついたらとうとうわたしら3人だけに なってしまった。もしも,もう一度生まれかわれるんなら,目あきの普通の娘になって毎 日おくりたいと思うね。そして,あの椿の赤い花や,げんぼしの青い葉っぱ,それになつ かしい瞽女宿の人々の顔をこの目で見てみたい。これもすべては因縁さ,諦めているよ。」 これは,キクエが語った言葉として ,『わたしは瞽女-杉本キクエ口伝-』の中に記さ れている。キクエは,瞽女として生きることに生きがいを感じながらも,目が見えるよう になってほしいという思いを抱き続けていたのである。. 4.高田瞽女としての杉本キクエ (1)瞽女という職業への思い キクエは,目が見えなくなってしまったことへの抵抗や晴眼に対する願いを抱きつつも, 自分の置かれている境遇を否応なしに理解した上で,瞽女として生きていた。キクエの生 涯について,市川(1975)は,「盲目なるがゆえに不幸だった」と述べるが,瞽女として 生きる道が不幸であったとは言い切れない。キクエは,生まれ変わるとしたら晴眼として 生きることを願う一方で,瞽女として旅先の人々に唄を聴かせることに生きがいを感じて - 21 -.
(6) いたに違いない 。「唄の文句を忘れてしまった。もう生きているかいがない 。」と亡くな る直前に言い残したことからも推察することができる。キクエにとって,瞽女という職業 は,自立を図るための手段としてだけでなく,自分自身が生きていることを社会に認めて もらうため,または人とのかかわりを深める手段であったと考える。 (2)高田瞽女としての自覚 キクエは,親方の教えや掟を忠実に守り抜いた。マセ親方の遺言は,「芸は一生,死ぬ まで稽古忘れんな」であった。まさに,亡くなる直前まで親方の遺言を貫き通したのであ る。キクエは,瞽女稼業を終えてからも,毎日欠かさず稽古をしていた。瞽女は,瞽女唄 を口伝によって覚えていたのだが,キクエは熱心に稽古を繰り返し行っていたため,記憶 している瞽女唄の数が非常に多かった。瞽女唄を多く歌えるキクエだったからこそ,旅先 の人々に温かく迎えられていたと考える。また,キクエが掟を守り抜いたことは,親方だ からという理由だけではなく高田瞽女の一人としての自覚をしっかり持っていたためだと 考える。 (3)旅先の人々への感謝の気持ち キクエは,自分の生涯について, 「人さまの情で生きている」と語っている。キクエは, 旅先の人々とのかかわりを大事にし,キクエたちが来ることを心待ちにしている人々のた めに,瞽女唄を歌い続けたのである。瞽女唄を歌い続けたキクエは,「人さまのおかげ」 で唄を歌えることを嬉しく思うと同時に,旅先の人々への感謝の気持ちを常にもっていた のである。 (4)旅先の人々とのかかわりを大事にする姿 キクエにとって,旅は厳しいものであった。重い荷物を背負って長い道のりを歩くこと は非常に大変なことであった。しかし,キクエたちを温かく迎えてくれたり,宴会を楽し んでくれたり,キクエに手を貸してくれたりする人々が待っていてくれた。だからこそ, 旅を続けることができたのである。しかし,目が見えないことを理由に,米を盗まれたり, 夜這いをされたりすることもあった。服装を見て「汚い」と言われることもあった。瞽女 としての生涯で,不愉快な思いをすることは多々あったが,そのようなキクエの姿を見て 助けてくれる人々もいたのであった。キクエは,旅先で出会った人々との思い出について, 詳細に語っている。出会った人々がどのような人であっても,キクエは旅先の人々とかか わる場を大事にしていたと考える。. Ⅲ.現代の学校教育で取り上げられた高田瞽女. 以下では,地域伝承と学校教育での高田瞽女について取り上げる。高田瞽女が生活して いた上越市には,高田瞽女を題材とした学習活動に取り組んだことのある中学校が存在す る。何に基づいて学習内容が設定されているのか,何が伝承されているのかを聴き取り調 査や瞽女唄公演会への参加によって明らかにする。 - 22 -.
(7) 1.学校教育での実践事例 表1. 高田瞽女を題材とした学習活動. S中学校 時. 間. 単元名. O中学校. J中学校. 総合的な学習の時間. 特別活動. 特別活動. 生き方を探求しよう~人権に関する. 瞽女唄公演会. 瞽女唄公演会. 1~3年生. 1年生. 創作劇の取り組みを通して~ 対. 象. 3年生. 74人. 日. 時. 平成15年4~11月. 48人. 166人. 平成17年10月20日(木) 平成18年12月21日(木) 14:00~15:00. 14:45~15:45. (1)S中学校での総合的な学習の時間 ①学習内容 S中学校では ,「生き方を探求しよう」という単元を設定し,人権と自らの生き方を結 びつけて総合的な学習の時間に取り組む。高田瞽女を取り上げた目的は,障害者への差別 について考えること,かつて高田瞽女が巡業活動をしていた地域で,瞽女宿を引き受けて いた家が数軒あったことから地域の文化を知ること,視覚障害のある人や,その家族の気 持ちを理解することが目的である。 学習内容は ,「瞽女」という漢字の意味の理解 ,「瞽女とは 」,「瞽女宿の分布 」,「門付 の旅路 」,「瞽女唄の現代語訳」についての調査学習,実際に瞽女に会ったことのある人 への聴き取り,高田瞽女展の見学,瞽女をテーマとした創作劇である。 瞽女の学習を通しての感想を,S中学校が作成した資料から引用する。生徒Aは ,“瞽女 はどんな人なのか,どのような生活をしているのかなどとてもたくさんのことを知り,同 時に瞽女と接している人たちの様子も分かってきました 。”と述べる。生徒Bは ,“今まで 知らなかった瞽女への差別も分かり ”,“様々な差別にも負けず,たくましく生き,唄を 通して人々の心に感動を与えた瞽女たちは,その分陰では誰よりも努力をしました。自分 たちのやっていることにもっと誇りをもってもいいと思います。”と述べる。 ②小考察 一部の生徒の感想により,生徒が瞽女についてどのようなことを学んだのかが明らかに なってくる。生徒Aの感想から,瞽女の存在や生活について知ることができた様子が読み 取れる。生徒Aは,創作劇で役者としてかかわってきたため,瞽女の気持ちに近づくこと ができたようである。生徒Aのように,創作劇を通して瞽女の気持ちを少しでも理解する ことができた生徒は,多少なりともいたのではないかと考える。しかし,創作劇を観る人 々に感動を与えたいという思いが述べられていることから,瞽女の生き方を美化しようと する気持ちが生じてしまったと示唆する。 生徒Bの感想からは,差別に負けることなくたくましく生きていた瞽女の姿を感じ取っ たことがわかる。生徒Bは,瞽女の素晴らしさを多くの人に伝えたいという思いを強くも. - 23 -.
(8) ち,創作劇に取り組んだようである。しかし,創作劇を観るだけでは,瞽女の生き方につ いて理解することは難しい。創作劇は,瞽女の生き方を矮小化している部分があるためだ。 創作劇を通して,瞽女の気持ちを理解させることが目的だったのにも関わらず,観ている 人々に感動を与えることを目標にする生徒がいることに疑問を感じる。 S中学校での実践は,題材設定の目的となっていた障害者の気持ちに寄り添い,障害者 の気持ちを理解するという点では,教員の意図したことが生徒に伝わった可能性が高い。 ただし,74人全員の感想はわからないため,各生徒にどのように理解されたかは見出せな い。しかし,この総合的な学習の時間を通して,人権問題へ意識を向けるきっかけになっ た生徒は多かったのではないかと考察する。 (2)O中学校での瞽女唄公演会 ①学習内容 O中学校での瞽女唄公演会は,上越市役所が開催の機会を提供する 。「障害のある人は マイナスのイメージを持たれがちであるが,瞽女として生きた人々のたくましく生きてい た姿を伝えたかった。また,高田にあった歴史ある文化を紹介したかった 。」とO中学校 の教頭は瞽女唄公演会を依頼した目的を述べる。 生徒は,写真を見ながら,瞽女の歴史,組織,暮らし,芸,旅の姿,瞽女唄の種類等に ついて学ぶ。また,三味線奏者による瞽女唄の演奏を聴く。 瞽女唄公演会終了後,48人の生徒が,上越市役所によって作成されたアンケートに答え る。上越市役所が集計したアンケート結果を基に,生徒の感想を整理する。感想について は,3つの観点に分類することができる。分類の観点は,瞽女の説明に対して,演奏に対 して,その他の3点である。その他については,前者2つのいずれにも該当しないものと捉 えた。主な感想としては ,「迫力があり,おもしろかった 。」,「三味線にすごく感動し, よくあんなに弾けるなと思った 。」が挙げられる。その一方,瞽女に対しての感想として は,「瞽女がとてもすごい人だと知った。」,「瞽女唄のことがよく分かった 。」が挙げられ る。 ②小考察 生徒の感想は,瞽女に対する感想よりも,演奏に感動したことを示す感想が多く,O中 学校が設定した目的は,あまり生徒に伝わらなかったと考える。瞽女唄公演会を担当した 教員は ,「単に瞽女の説明や瞽女唄の演奏を聴くだけで,瞽女の生き方について伝えるこ とは難しかった 。」と述べる。さらに,目的としていたことがあまり伝わらなかった理由 について ,「瞽女唄を演奏してくれた方々は目が見える方だったため,瞽女についての説 明と,実際の瞽女の姿を重ねることができなかったのではないか。」と述べる。 しかし ,「貴重な体験ができた 。」,「瞽女についてもっと知りたい 。」というような感想 があったことから,瞽女について学んだことにより,瞽女についての関心が高まったもの と考える。. - 24 -.
(9) (3)J中学校での瞽女唄公演会 ①学習内容 J中学校は,1年生で太鼓,2年生で箏を演奏する機会があることから,三味線の音楽に 触れる機会を設けたいと考える。しかし,人数分の三味線を借りることは難しく,他の楽 器と比べた場合に三味線を弾くことを楽しめる生徒は少ないと考えた。そこで,生の三味 線の音を聴く機会を設けようとした。また,かつて杉本キクエが高田瞽女として暮らして いた家が校区内にあるため,ぜひ三味線による演奏の瞽女唄を取り上げたいと考えていた。 そこで,上越市役所に瞽女唄公演会の開催を依頼した。生徒には, 「厳しい掟がある中で, 高田瞽女による素晴らしい音楽が地元にあったことや,日本古来の楽器の音,生の音の素 晴らしさを知ってもらいたかった。」と,瞽女唄公演会を担当した教員は述べる。 瞽女唄公演会では,写真を見ながら,瞽女の歴史,組織,暮らし,芸,旅の姿,瞽女唄 の種類等について学ぶ。また,三味線奏者による瞽女唄の演奏を聴く。 瞽女唄公演会終了後,166人の生徒が,上越市役所によって作成されたアンケートに答 える。主な感想として,瞽女に対しては「瞽女の由来や,組織についてよくわかった。」, 演奏に対しては「演奏自体も迫力があったし,唄の歌詞にはおもしろい所があって,とて も感動した。」が最も多かった。 ②小考察 J中学校での瞽女唄公演会は,O中学校と同様,上越市が瞽女の存在を知ってもらうこと を目的とするものである。J中学校は,生の三味線の音を聴くことを通して,地元にあっ た素晴らしい音楽文化や日本古来の楽器の音について知ってほしいという願いのあったこ とが,聴き取り調査で明らかになった。このことから,上越市が公演会を開催する目的と, J中学校が実施を依頼した目的には差異のあることがわかる。 公演会の記録より,演奏者は,高田瞽女を「目の見えない女性の集団」と強調している。 女性だけの集団であったことにより,厳しい掟や階級があったと述べていた。また,高田 瞽女が暮らしていた家がJ中学校の学区内にあったことから,地元の文化として知ってお いてほしいと繰り返し述べていた。生徒の感想から,厳しい掟や階級があったことについ て印象に残った生徒はいたようである。地元にあった文化については,「高田にもこのよ うな素晴らしい文化があったことがわかって良かった。」という感想が多かったことから, J中学校の生徒にとって,高田瞽女は,身近な地域で育まれた文化の一つとして理解され たと考える。 J中学校が考えていた目的に関しては ,「演奏自体も迫力があったし,唄の歌詞にはお もしろい所があって,とても感動した。」,「三味線の演奏はあまり生で聴くことがないの で,楽しく聴くことができて良かった 。」といった生徒の感想が多いことから,目的と結 びついた内容の公演会になったと考察する。 J中学校の瞽女唄公演会に参加したのだが,公演会では高田瞽女が味わった辛い体験に ついて触れられることがなかった。辛い体験とは ,「汚い」と言われたり,米を盗まれた - 25 -.
(10) りしたことである。巡業先で温かく迎えられないこともあったことは,隠しきれない事実 である。J中学校の瞽女唄公演会担当の教員は ,「過酷な人生を伝えることは,瞽女唄自 身を知ることにはならない 。」と述べる。瞽女の存在を知ることは,差別に関わる人権問 題を学習することにつながらないという考えがあったのである。. Ⅳ.高田瞽女研究における教育学的考察. 1.当時の高田瞽女の社会的処遇 キクエを中心とした高田瞽女は,学校で教育を受ける権利を与えられることなく,限ら れた職業のもとで社会に認められるように生きていくことしかできなかったのである。共 同生活をすることで瞽女同士の結びつきを強め,自らの力を補い合って生活をしていた。 高田で,地域の一員として他の一般の家と変わりない自治生活を営んでいたというが,1 年間で高田の家にいる日数は僅かであったため,実質は地域社会から独立して生活してい たのである。また,瞽女式目や高田瞽女仲間規約書という厳しい掟があったことからも, 高田瞽女には一般社会とは別に瞽女社会が形成されていたことが考えられる。しかし,決 して高田に住む地域の人々とかかわりがなかったわけでなく,高田の人々の要望に応じて, 瞽女唄を聴かせる機会を設けていたのである。これらのことより,高田瞽女は,同じ地域 に住む人々と共存しながら暮らしていたと考える。 旅先での高田瞽女の処遇については,キクエが語る旅先での思い出より考察する。キク エは,瞽女の稼業について ,「わたしらの商売は人さまの情で食べさしてもらっているん だから,正直にさえしてれば,見捨てられることなんてないですからね。」と語る。高田 瞽女の旅先であった地域の人々の多くは,1年に一度だけ訪れる高田瞽女の演奏を心待ち にしていた。宴会では,年齢や性別に関係なく,多くの人々が集まってきたことより,高 田瞽女は娯楽を与える存在であったことがわかる。 高田瞽女の旅は,旅先の人々のおかげで成り立つものであったが,旅先の人々は,キク エをはじめとする高田瞽女を,単なる娯楽の対象としてだけで迎えていたのではないと考 える。キクエの場合は,旅先の人々とのかかわりの様子を見ると,旅先の人々に慕われる ことが多かったと読み取ることができる。誰からも信頼を受けるような人柄であり,その 上自分の身辺のことは全て自分でしていた姿そのものが受け入れられていたと考える。こ のことより,高田瞽女は娯楽の対象としてだけではなく,一個人としての人柄さえも受け 入れてもらえる処遇であったと考える。 しかし,高田瞽女の社会的処遇は,よいことばかりではなかったことを強調したい。旅 先で,知らぬ間に米を盗まれたり,夜這いを受けたり,「汚い」と悪口を言われたりする こともあったことは決して無視することはできない。盲人であるがために,女性であるが ために,辛い体験をすることもあった。軽蔑されたり,見下されたりする存在であったこ とは隠し切れない事実なのである。 - 26 -.
(11) 2.教材化に見る現代の瞽女観 今日では,特別な場がない限り,高田瞽女の存在を知る機会はないに等しい。公の場と しては,高田瞽女顕彰に関する催し,または上越市立総合博物館の展示を観覧することで しか高田瞽女を知る機会は得られない。まさに地域伝承の場は限られているのである。 地域伝承の場がある一方,現代の学校教育で高田瞽女を題材とした教材に取り組む学校 が存在するが,その実践事例は数少ない。本論文では,上越市内の中学校を対象とし,3 校での実践について取り上げた。現代の学校教育で高田瞽女が教材として取り上げられる ことや,各学校の学習内容によって,高田瞽女を教材として取り上げることによる功罪が 浮き彫りになる。利点としては,生徒が高田瞽女について関心を抱くようになったことが 挙げられる。かつて高田瞽女が上越市に存在していたことを知ることができた生徒は多く いたのである。生徒たちは,高田瞽女に対して多少なりとも関心を抱いたといえる。逆に, 欠点は2点ある。まず,高田瞽女についての一面的な評価によって,その存在が美化され てしまうことである 。「芸能に多大なる影響を与えた 」,「障害があってもたくましく生き ていた」というように過大評価をされて伝承されていることがある。高田瞽女に関する事 実を述べていることは確かではあるが,一面的な部分だけが美化されて伝承されていると 考える。さらには,盲人女性が瞽女としての道を歩まざるを得なかった生き方について, 問題視されることなく矮小化されてしまっていると考える。一部分が伝承されても,他の 一部分は伝承されないという傾向がある。 教材化から見えてくる現代の瞽女観については,あくまでも筆者が考える一つの見解で あり,教材として取り上げることを否定するものではない。高田瞽女を教材として取り上 げることによって,以上のような瞽女観が見えてくると考える。. 3.瞽女存在の現代的意味 今日では,瞽女として実際に生活している人々の姿を見ることはない。高田瞽女が最後 の旅を終えてから,40年以上もの年月が経過した。高田瞽女が存在していた長い年月の中 で,瞽女として生きていた人々は,自らの芸能を受け継いできた。親方から弟子へ,弟子 が一人前になるとその弟子から新弟子へと,何世代にも渡る芸能の伝承があったのである。 高田瞽女の保持してきた瞽女唄が一般的に認められたのは,国の無形文化財に指定された 1970(昭和45)年のことであった。歴史上,及び芸能上,価値の高いものとして国から 認定されたのである。これを契機に,世間では瞽女への関心が高まりを見せたのである。 1970(昭和45)年以前,瞽女は世間に知れることのない存在であったのだが,瞽女は民俗 芸能や地域文化の一つとしてその実態は概観され始めた。また,実際の瞽女が歌う瞽女唄 を記録に残しておくという動きも見られた。 しかし,今日,かつての瞽女の存在を伝承しようとする動きは数少ない。瞽女が注目さ れていたのは,瞽女ブームが起こったといわれる1975(昭和50)年前後であり,今日では 瞽女の存在が軽視されているのではないかと考える。もはや陰に隠れた存在になってし - 27 -.
(12) まっているのではないだろうかと懸念する。 今日,高田瞽女が長い年月を経て築き上げてきた芸能そのものを引き継いでいくことは 難しい。芸能そのものとは,かつての瞽女のように6,7歳で弟子入りし,厳しい修業をし ながら民衆に瞽女唄を聴かせて旅をすることを意味する。今日では,瞽女唄を保持してい くことしかできない。しかし,高田瞽女として生きていた人々の姿を伝承していくことは 可能である。高田瞽女は,わが国の芸能を支え,地域文化の担い手として活躍したことは これまでも語られてきた。今後も語られていく価値のある,民俗芸能や地域文化の発達過 程の一部である。 しかし,瞽女の存在を芸能や地域文化の一部としてのみで捉えるだけでいいのだろうか と疑問を抱く。かつての高田瞽女の存在は他にも重要な意味を持つのではないかと考える。 そこで,筆者は,高田瞽女の生き方に注目する。高田瞽女として生きた人々は,自ら望ん で瞽女として生きる道を選択したわけではない。学校に行くという選択肢は与えられず, 瞽女にならざるを得なかった盲人女性のみに与えられた道なのである。厳しい掟,稽古, 師弟関係の下で,瞽女として生き抜いた彼女たちの生き方は,高田瞽女を伝承する際に語 られるべきである。瞽女にも,一人の人間としての生き方があった。わが国の芸能に携わっ た点だけに注目されるのでは,瞽女の生き方そのものが美化されたまま理解されてしまう。 高田瞽女が生きた姿と社会的処遇については,これまでに研究されてきた資料を風化さ せることなく,高田瞽女の存在を捉え直すことが必要になってくる。杉本キクエを中心と した高田瞽女が,与えられた環境の中でしか生きることのできなかった事実は,地域伝承 および教材化される際に伝承するべき点だと考える。かつての高田瞽女の存在を消極的な ものとして捉えるのではなく,困難に耐えながら高田瞽女としての人生を生き抜いた人々 の姿としてありのまま伝承することに,瞽女存在の現代的意味があると考える。. 文献. 1)市川信次(1975)高田瞽女について.戸田正誠先生米寿祝賀記念誌,181-188. 2)市川信夫(1991)瞽女唄.上越市教育委員会,1-6. 3)磯貝みほ子(1990)高田瞽女唄の特徴.群馬女子短期大学紀要,17,47-53. 4)上越市文化財調査審議会(1960)高田のごぜ.上越市文化財調査報告書第Ⅱ集. 5)加藤康昭(1974)日本盲人社会史研究.未来社. 6)中村太郎(1965)日本盲人史.矢木書店. 7)大山真人(1983)高田瞽女最後.音楽之友社. 8)大山真人(1982)わたしは瞽女-杉本キクエ口伝-.音楽之友社. 9)佐久間惇一(1985)瞽女の民俗.岩崎美術社. 10)鈴木昭英(1996)瞽女. 信仰と芸能.高志書院,3-57,95-99.. 11)谷合侑(1983)古代(院政期)における盲人の生活と職業 - 28 -. -『今昔物語』に現れた.
(13) 七人の盲人を中心に-.視覚障害,63,45-55. 12)谷合侑(1983)中世前期(鎌倉~南北朝時代)における盲人の生活と職業. -「平家. 物語」をめぐって-.視覚障害,64,45-55. 13)谷合侑(1983)中世末期から近世初期にかけての盲人の生活と職業. -戦国時代を乗. り越えた職人たち-.視覚障害,66,39-50. 14)谷合侑(1983)江戸時代後半期の盲人の生活と職業. -座の弱体化と盲人たちの苦. 悩-.視覚障害,67,38,49. 15)横田全治(2004)世界盲人百科事典.日本図書センター,24-42. 16)新潟日報(1976.5.31~6.7)高田瞽女その風土<1>~<6>. 17)新潟日報(1977.8.12~9.3)瞽女さ50年の旅<1>~<15>.. - 29 -.
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