シュナムルティの思想に依拠して(2)
著者
石井 薫
雑誌名
経営論集
巻
-号
79
ページ
35-46
発行年
2012-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003655/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.jaホリスティック・マネジメントの哲学探究
―クリシュナムルティの思想に依拠して―(2)
A Philosophy of Holistic Management (2)
石 井 薫 はじめに ―地球環境時代におけるマネジメントと哲学の共進化に向けて― 1 “マネジメントの哲学”と“哲学のマネジメント” 2 ホリスティック・マネジメントと哲学実践 3 ホリスティック・マネジメントの哲学を示唆するクリシュナムルティの思想 (以上77号) 4 クリシュナムルティの思想と自由の哲学 (以下本号) 結びに ―自由の哲学とホリスティック・マネジメントの哲学―
4 クリシュナムルティの思想と自由の哲学
4.1 あらゆる条件づけからの自由 私は、自由に関して、シュタイナーの『自由の哲学』などを取りあげたことがある (石井、2003、269~275頁)。自由に関して種々議論がみられるが、クリシュナムル ティの自由に対する見方は、他に比類なく深遠なもので、まさに自由の極地を提示し ているように思われる。クリシュナムルティのメッセージは、今日の危機的状況に陥 っている人類を救う鍵となるほど貴重なものといえる。私たち一人ひとりがクリシュ ナムルティの世界に触れて、自由の境地に辿り着くことができれば、その時、愛溢れ 平和な社会を実現することになろう。そこで以下では、クリシュナムルティに依拠し ながら、自由の哲学を探究しよう。それは究極的に、ホリスティック・マネジメント の哲学でもあるからである。 私たちが自由であること、それは人間にとって、また人類にとって、究極の課題の ように思われる。私たちが真に自由であるためには、あらゆる条件づけから解き放た れ、全的に自由でなければならない。真に自由であってはじめて、愛があり平和があ る。真に自由でなければ、そこには愛も平和もない。クリシュナムルティのいう自由 とは、そんな深遠な境地を意味している。 4.2 万有権力からの自由 自由に関しては、法や規則それに宗教や政治権力などによって守られたり侵害され たりするという意味での自由が議論されることが多い。法や規則、それに政治権力は 私たちを条件づけている最たるものであり、それらからの自由が先ず論じられるのは 至極当然なこととみられる。 モノの世界では、モノとモノとの関係は万有引力の法則が妥当する。しかし人間の 世界では、万有引力の法則は通用せず、私の造語である“万有権力の法則”こそが妥 当しよう。ここで“万有権力”とは、法や規則、それに政治権力だけでなく、言語や 記号、宗教や科学や道徳など、人間に権力として作用する諸々のものを指している。私たちが真に自由であるためには、私たちはあらゆる条件づけから自由でなければ ならない。私は、モノやお金や権力、それに言語や記号、さらに時間など、いわば“万 有権力”を超える必要を強調してきた(石井、2003、192~195頁)。 しかし、クリシュナムルティは、知識や科学や宗教などの条件づけから自由になる だけでなく、信念や習慣や伝統等の条件づけから自由になること、そして時間や意識 の条件づけを超えること、それとともに次にみるように、「私」の条件づけを超える ことを教示している。 4.3 「私」からの自由(“超私自由”) クリシュナムルティは、「私たちの精神は、時間や意識それに“私”に条件づけら れており、そのように条件づけられた精神は怠慢になる。あなたが条件づけられ、縛 りつけられていれば、あなたの精神は(そのロープの半径内を歩き回るだけの)木に つながれているロバのようなもの」という(クリシュナムルティ、2008、67頁)。す なわち、私たちの一人ひとりが全的に問題を見つめるのを妨害しているのは、「私」 の状態である精神とされる(クリシュナムルティ、2007a、29頁)。それゆえ私を条件 づけている「私」という観念からも自由でなければならない。「私」を超えて自由で あることを、私は“超私自由”と名づけた(石井、2009b)。私たちに、「私の・・・」 という観念や意識がある限り、私たちは私の所有という条件づけから自由でありえな い。 クリシュナムルティは、戦争を防止する唯一のものは、「私の神、私の国、私の家 族、私の家」というこの病気から、自由になることである」という(クリシュナムル ティ、2005d、469頁)。つまり、私たちが「私の・・・」という条件づけから自由に なることが、平和にとって不可欠といえよう。 4.4 思考や意識からの自由 上述のように「私」から自由であるためには、「私」をつくる思考や意識そのもの からも自由でなければならない。これは既成の価値観をすべて破壊するので、容易に 理解し難いのではないかと思われる。それゆえ以下のことは、直ぐに受け入れるか否 かでなく、一人ひとり、自らに問うことが大事といえる。 クリシュナムルティは、「条件づけからの自由は、思考からの自由とともに生ずる。 精神が静まりかえっているとき、そのときにのみ真実なるものがあるための自由があ る」(クリシュナムルティ、2005a、70頁)という。「あなたは、あなたの性質、思考 から別個にあるのではない。あなたは、即あなたの思考なのだ。思考が「あなた」と いう、想像上別個の実体を作り出すのだ。思考なしには、思考者はいない」(クリシ ュナムルティ、2005a、165頁)というクリシュナムルティの指摘は、自由に向きあう 上で、極めて重要なメッセージと思われる。 私たちは、過去や未来に対する私たちの観念や意識から自由であるためには、伝統 や理想や目標、それに努力や経験や知識など私たちを条件づけているものから解き放 たれることが必要となる。これらは私たちにとって、これ迄良いものとされていたの であるから、それらを否定することは、全体的な価値転換を意味している。
実は私たちが健康や生活の不安、それに死の恐怖などのストレスにさいなまれるの は、すべて過去の知識や経験にもとづいて自分の未来を想像する観念によるものとみ られる。過去も未来も人間の想像上の観念にすぎず、あるのは今のこの瞬間だけであ る。この瞬間が流れている、まさにその今あるがままのうちに、真理も流れている。 (このような真理観は、いみじくも石尾イルカの詩にみられるので、「石井薫のホー ムページ」を参照されたい。) それゆえ、私たちは思考や意識から自由でなければ、真理にも手が届かない。また 思考や意識から自由になって、その流れと一体になれば、あらゆる不安や恐怖から解 き放たれて自由になり、愛と平和の世界を見い出すことができよう。 4.5 愛と平和と一体としての自由 私たちはあらゆる条件づけから自由になってはじめて愛や平和の世界を実現でき るであろう。逆にみると、愛や平和の世界を実現するのは、いかに困難なことかと推 察される。私たちが愛と平和の社会を実現するには、漸次的、前進的な改革をめざし ても無駄である。ある一つの問題を解決すると同時にその反作用で、次々と新たな問 題が現出するからである。私たちは漸次的な改革でなく、全部ひっくるめての改革す なわち私たち一人ひとりの全的な意識転換をしない限り、人類の未来に光明は見えな い。 自由の見方に対する正解というものはどこにもない。私たち一人ひとりが、自由の 哲学に向きあい、条件づけられている「私」に気づき、「私」を条件づけているあら ゆるものに疑問を持つことが、人間の精神によってつくられる幻想の壁を壊す一撃と なるであろう。壁の中で守られたり、網から逃れて自由が得られるのでなく、壁や網 など何もない状態こそが、真に自由であり、その境地に至ってはじめて愛と平和の世 界が訪れるのではないだろうか。 4.6 真理と自由 クリシュナムルティは、「あるがままの真理を見ることの中にのみ自由があり、そ して知恵は、その真理の知覚である。あるがままは決して静止的でなく、そしてそれ を受動的に注視するためには、あらゆる蓄積からの自由がなければならない」(クリ シュナムルティ、2005a、9頁)という。すなわち、「真実は連続性を持たない。それ は刻々であり、永遠にして、測り知れない」(クリシュナムルティ、2005a、333頁) のである。 クリシュナムルティは精神が囚われてしまう網を作るのは思考だとして、「思考そ れ自体が、網の作り手である。思考は網なのだ。思考は束縛的である」(クリシュナ ムルティ、2005a、352頁)という。そしてこの思考の網では真理はとらえられないと、 次のように指摘している。 「真理は不思議なものである。それをあなたが追い求めれば求めるほど、それだけ それはあなたの目をかすめることだろう。あなたは、いかなる手段によっても、いか にそれが微妙で巧妙でも、それによって真理を捕えることはできない。あなたはそれ を、あなたの思考の網にかけることはできないのである。どうかこのことを悟りなさ
い。そして一切をその成り行きに任せなさい。生と死の旅においては、あなたはただ ひとりで歩まねばならない。この旅においては、知識や経験や記憶を慰めとすること はできないのである。精神は、その安心しようとする衝動のうちに蓄積してきた一切 のものを一掃しなければならない。その神々や諸々の美徳を、それらの生みの親であ る社会に返さなければならないのである。完全な、無垢なる単独性がなければならな い」(クリシュナムルティ、2005b、231頁)。つまり、真理をみるためには、それ自身 の条件づけに囚われていない精神が必要となる。「真実と虚偽は、いかに賢明で古か ろうと、意見や判断にもとづいたものではない。虚偽の中の真実に、そして真実であ ると言われているものの中の虚偽に気づき、そして真理を真理として見るためには、 それ自身の条件づけに囚われていない精神が必要である。もし人の精神が偏見をいだ き、それ自身の、または他人の結論や経験の枠組みに囚われていたら、いかにしてあ る陳述が真実か、または虚偽かどうかを見抜きうるだろうか? そのような精神にと って重要なことは、それ自身の限界に気づくことである」(クリシュナムルティ、2005b、 298頁)。 ここで自由に関して、「自由は束縛への反発ではない。そうであるときには、その 自由はもう一つの束縛になる」(クリシュナムルティ、2005c、119頁)こと、また真 理に関して、「真理は固定した居場所を持たない。それは生きたものであり、精神が 思い及びうるいかなるものよりもはるかに生き生きし、はるかに動的であって、それ ゆえそれに至る道はありえない」(クリシュナムルティ、2005c、152頁)のである。 それゆえ、「この真理の知覚が、精神を解放する。因果の枠組内には何の自由もない。 自由は網から自由であることではなく、それは網がないときにある。何かから..の自由 は自由ではない。それは単なる反応、束縛の反対物ではないのである。自由は、束縛 が理解されるときにある。真理は、何か永続的なもの、固定したものではなく、それ ゆえそれは追求できない。真理は生きたものであり、それは探究の状態なのである」 といわれる(クリシュナムルティ、2005c、180~181頁))。 4.7 生と死と幸福と自由 クリシュナムルティは、幸福に関して、「幸福は、過去または未来にではなく、現 在の運動の中にのみある」(クリシュナムルティ、2005a、30頁)とか、「自由である 者にのみ幸福がある。そして自由は、あるがままの真理とともに生まれ出る」(クリ シュナムルティ、2005a、52頁)という。また、「世界はあなた自身の投影なのである。 世界は、あなたが受容しないかぎり変容させることはできない。幸福は変容のうちに ある、獲得のうちにではなく」(クリシュナムルティ、2005a、182頁)ともいう。 生の意義について尋ねられると、クリシュナムルティは、「生は、初めも終わりも 持たない。それは、生でありそして死である。それは緑の葉であり、そして風に吹き やられる枯れ葉である。それは、愛であり、そしてその測り知れない美である。それ は、孤独の悲嘆であり、そしてただひとりあることの至福である。それは測りがたく、 また精神には、それを発見することはできない」(クリシュナムルティ、2005a、279 頁)と答えている。 クリシュナムルティは、生と死に関して、「生とは何かを知らなければ、われわれ
は果たして、死とは何かを知ることができるだろうか? 生と死とは同じものかもし れないのであり、そしてわれわれがそれらを分離してしまったことが、大きな悲嘆の もとかもしれない」(クリシュナムルティ、2005b、228頁)という。そして、生の意 味に関して、次のようにも述べている。 「生は美であり、悲しみであり、喜びであり、そして混乱である。それは木であり、 鳥であり、そして水面の月の光である。それは仕事であり、苦痛であり、そして希望 である。それは死であり、不死の追求であり、至高者への信念であり、そしてその否 定である。それは優しさであり、憎悪であり、そして羨望である。それは貪欲であり、 そして野心である。それは愛であり、そしてその欠如である。それは独創性であり、 そして機械を開発する力である。それは計り知れない恍惚である。それは精神であり、 瞑想者であり、そして瞑想である。それはすべてのものである。しかし、われわれの 卑小な、混乱した精神は、どのように生に取り組むだろうか? それ..こそが重要なの だ、生とは何かについて述べることではなく、生へのわれわれの取組み方にこそ、す べての質問と答えとがかかっているのである」(クリシュナムルティ、2005b、312~ 313頁)。 生と死の問題にどのように向き合えばいいかという問いに、クリシュナムルティは、 「われわれの生き方の全部に対して、少しずつではなく、全的に死になさい! 努力 し、苦闘し、理想や方式を持ち、徳を養うことによって果てしなく自己改善を行なっ ているのは狭量な精神である。徳は、それが養われるときには、徳ではなくなる。・・・ 死後に何があるかを知りたがっている狭量な精神は、それ自身のちっぽけな答えを見 出すことだろう。未知なるものがあるためには、君は既知なるものすべてに対して死 なねばならない」(クリシュナムルティ、2005b、314~315頁)と答えている。 このことに関連して、「人は、自分の日常生活をどんなふうに生きるべきか」との 問いに、クリシュナムルティは、「あたかも人がその一日、その一時間だけをいきて いるかのように。・・・外面的に必要なもの、私事、あなたの意志等々を整頓なさる のではないだろうか?あなたの家族や友人を一堂に招いて、あなたがかれらに加えた かもしれない危害に対してかれらの許しを求め、そしてかれらがあなたに加えたかも しれない危害に対してかれらを許すかもしれない。あなたは、精神のものごとに対し て、願望に対して、そして世の中に対して、完全に死ぬのではないだろうか? そし てもしそれが一時間の間できれば、そのときにはまた、残りの数日、および数年の間 もそうできるのである」(クリシュナムルティ、2005c、341頁)。 4.8 教育と人生と自由 クリシュナムルティは、教育に関して、「自己認識が教育である。教育においては、 教える者も教えられる者もなく、あるのはただ学びだけである。教育者も、学生がそ うであるように学んでいるのだ。自由には、初めも終りもない。これを理解すること が教育である」(クリシュナムルティ、2005b、197頁)として、次のように述べてい る。 「教育とは、行為が自己中心的にならないように精神を陶冶することである。それ は、安泰になるために精神が築き上げる壁――そしてそこから恐怖が、そのすべての
複雑さとともに生じるのだが――を打破すべく、一生涯学ぶことである。正しく教育 されるためには、君たちは、怠けていないで一生懸命学ばねばならない。遊戯に上達 するようにしなさい。しかし他人を負かそうとせず、楽しく遊ぶようにしなさい。適 切な食物を摂り、健康を維持するようにしなさい。精神を機敏にさせ、そしてヒンド ゥー教徒、共産主義者、あるいはキリスト教徒としてではなく、一人の人間として、 生の諸問題に取り組めるようにしなさい。正しく教育されるためには、君たちは自分 自身を理解しなければならない。君たちは、自分自身について学び続けるようにしな ければならない。学ぶことをやめるとき、生は醜悪で、悲しいものになる。優しさと 愛なしには、君たちは正しく教育されることはない」(クリシュナムルティ、2005b、 326頁)。 教育と人生に関して、クリシュナムルティは、「人生を理解することはわれわれ自 身を理解することであり、それが教育の始まりであり終わりである。教育とは単に知 識を身につけ、事実を収集して、それらの相互関係を明らかにすることではない。教 育とは、一個の全体としての人生の意義を見抜くことなのだ」(クリシュナムルティ、 2003、234頁)という。 クリシュナムルティは、教育と自由に関して、教えられることと学ぶべく自由であ ることは全く別のことだと、次のように述べている。 「教えられることの中には、常に知っているところの教師、グルと、知らない弟子 とがいる。かくして、かれらの間に絶えず区別が維持される。これは、本質的に権威 主義的、階級組織的な、何の愛も存在しない見地である。教師は愛について語り、そ して弟子はかれの献身を主張するかもしれないが、かれらの関係は非霊的で、深く不 道徳であって、その行き着く先は、甚大なる混乱や苦しみである。・・・われわれが、 特定の誰かからではなく、自分が生きていくうちにあらゆるものから絶えず学んでい るときには、教導の必要があるだろうか? 然り、われわれは、自分が安全、確実、 安楽であることを欲するときにのみ、教導を求める。もしわれわれが学ぶべく自由で あるなら、われわれは落葉から、あらゆる種類の関係から、われわれ自身の精神の諸々 の活動に気づくことから、学ぶことだろう。しかしわれわれのほとんどは、学ぶべく 自由ではない、なぜならわれわれは、あまりにも教えられることに慣れているからで ある。われわれは、書物によって、両親によって、社会によって、何を考えるべきか を教えこまれ、そして蓄音機のように、われわれはレコードの上に記録されたものを 反復するのである。・・・教えられることは、人を反復的、凡庸にしてきた。教導さ れようとする衝動は、権威、服従、恐怖、愛の欠如等々の複雑さとともに、単に無明 の闇に行き着きうるにすぎない。学ぶべく自由であることは、全く別問題である。そ して、すでに結論、仮定があるときには、学ぶための自由があるだろうか? あるい は、人の見地が知識としての経験にもとづいているとき、あるいは精神が伝統に囚わ れ信念に縛りつけられているとき、あるいは安心確実であろう特定の目的を達成しよ うという願いがあるとき、学ぶための自由があるだろうか?」(クリシュナムルティ、 2005c、228~230頁)。このように、教えこまれる精神は学ぶことができないなら、私 たちは一体どうしたらよいのかとの問いに、クリシュナムルティは次のように答えて いる。
「精神はそれ自身の束縛に気づくことができる。そしてまさにその気づきにおいて、 それは学んでいる。しかしまず何よりも、教えこまれたことに盲目的に囚われている 精神は学ぶことができないということが、われわれにとって明白になっているだろう か?・・・どうか、そう急がないように。精神の蓄積物は、学ぶための自由を妨げる。 学ぶためには、知識の蓄積、過去としての経験の積み重ねがあってはならない。あな たは、自分でこれの真理を見ておられるだろうか? それはあなたにとって一個の事 実だろうか、それとも単に、あなたが賛成または反対するであろうところの私が言っ た何かにすぎないだろうか?・・・学ぶことは一つの運動であるが、しかしある固定 点から別のそれへのではない。そしてこの運動は、もし精神が過去、結論、伝統、信 念の蓄積物を背負っていれば不可能である。この蓄積物は、アートマン、霊魂、より 高い自我等々と呼ばれるかもしれないが、しかし「私」、エゴ、自我である。自我と その維持は、刻々の学びの運動を妨げる」(クリシュナムルティ、2005c、230~231頁)。 そして最後に、自由になるためにはどうしたらいいかという問いには、次のように 答えている。 「それは間違った質問ではないだろうか? 自由になるための方法はない。まさに 学びうることの緊急性と重要性そのものが、精神を結論から、言葉、記憶によって作 り上げられた自我から解放することだろう。方法、“いかにして”とその規律の実行 は、別種の蓄積である。それは決して精神を自由にせず、ただ単にそれを異なったパ ターンにはめこむだけである。・・・教えこまれる精神、あるいは教導されることを 願っている精神は学ぶことができない。・・・あなたは多くを切望しておられる。そ してこの貪欲が、刻々の学びの運動を妨げているのである。あなたが、御自分が感じ、 そして言われたことの意義に気づいておられたら、それはその運動へのドアを開いた ことだろう。“よりいっそうの”学びはなく、あるのはただ、あなたが進み行くにつ れての学びだけである。蓄積があるときにのみ、比較が起こる。あなたが学んだすべ てのことに対して死ぬことが、学ぶことである。この死にゆくことは、最終的行為で はない。それは刻々に死ぬことなのである」((クリシュナムルティ、2005c、232~233 頁)。 4.9 精神と瞑想と自由 前節の最後で、切望が刻々の学びの運動を妨げているというクリシュナムルティの 指摘をとりあげた。クリシュナムルティは、「切望は記憶である。既知なるもの、す なわちあったものの記憶なしには切望はない。そして「私」、自己、エゴを維持する のは、この切望なのである。さて精神は既知なるもの――永続化されることを要求し ている既知なるもの――に対して死ぬことができるだろうか? これが真の問題な のではないだろうか?」(クリシュナムルティ、2005c、248頁)と問いかけ、次のよ うに述べている。 「既知なるものに対して死ぬことは、昨日の連続性を持たないことである。連続性 を持つものは、単なる記憶にすぎない。連続性を持つものは、永続的でも、一時的で もない。永続性または連続性は、はかなさへの恐怖があるときにのみ生まれ出る。連 続性としての意識の終焉、まさに死にゆく行為それ自体に再び集中することなしに、
何かになりゆくという気持全部に対しての死がありうるだろうか? あったもの、お よびあるべきものについての記憶があるときにのみ、この、何かになりゆくという気 持がある。そしてそのときには、現在は、その両者の間の通路として用いられる。既 知なるものに対して死ぬことは、精神の完全な静謐である。切望の圧迫を受けている 思考は、決して静謐ではありえない。・・・終りを持つところのもののみが、新たな るもの、愛、あるいは至高のものに気づくことができる。連続性、「永続性」を持つ ものは、あったものごとの記憶である。精神は過去に対して死なねばならない、精神 は過去によって作り上げられるのだが。精神の全体が、過去からのいかなる圧迫、影 響あるいは運動もなしに、完全に静謐でなければならない。そのときにのみ、ほかな... るもの...がありうる」(クリシュナムルティ、2005c、249頁)。 クリシュナムルティは、「何かでいっぱいの精神は、鈍感な、型にはまった精神で ある。本質的に、それは凡庸なのである」(クリシュナムルティ、2005c、273頁)と して、精神の全的な沈黙こそが瞑想なのだと、次のように述べている。 「瞑想は、優しさの開花である。それは、優しさを培うことではない。培われるも のは、決して持続しない。それは去り、そして再び始められねばならない。瞑想は、 瞑想者のためのものではない。瞑想者は、瞑想の仕方を知っている。彼は実行し、制 御し、形作り、苦闘するが、しかし精神のこの活動は、瞑想の光ではない。瞑想は、 精神によって作り上げられるものではない。それは、その中に経験、知識、思考の中 心のない、精神の全的な沈黙である。瞑想は、思考の熱中する対象のない、完全なる 注意である。瞑想者は、決して瞑想の美質を知ることができない」(クリシュナムル ティ、2005c、284~285頁)。 このようにクリシュナムルティは、「瞑想は自由な精神の状態」だというとともに、 「瞑想は日常生活の中に、あなたの微笑の仕方、あなたが他の人〔物〕を見る、その 見方の中にあります。それは思いやり、優しさ、寛容さの中にあるのです。それはげ んにある怒り、野蛮さ、暴力、攻撃性に気づいていることです。そこに瞑想する精神 がある」(クリシュナムルティ、2006、192頁)と述べている。 さらにクリシュナムルティは、次のように述べている。「私たちは人生の意味と意 義は何かと、そこにはそもそも意味があるのかどうかということを問うています。も しもあなたがあると言えば、あなたはすでに何かに与したことになり、だからあなた は吟味できなくなるのです。あなたはもう歪曲から事を始めたことになるのです。同 様に、もしもあなたが人生に意味などないと言えば、それもまた別種の歪曲です。で すから、人は積極的な主張からも否定的な主張からも、どちらからも完全に自由でな ければならないのです。そしてこれが、瞑想の真の始まりです」(クリシュナムルテ ィ、2006、264~265頁)。なお、このように瞑想をみるクリシュナムルティは、超越 瞑想を批判していることを付言しておこう。
結びに ―自由の哲学とホリスティック・マネジメントの哲学―
Ⅰ 私たちは、地球環境問題のみならず、様々の社会問題に日々直面し、頭を悩ませて いる。そして、社会的また政治的な改革のために、議論に議論を重ね、試行錯誤を繰り返している。このような改革のための活動に対して、クリシュナムルティは、「改 革は、いかに必要であっても、単によりいっそうの改革を生むもとになるにすぎず、 そして、それには果てしがない。なくてはならないことは人間の考え方それ自体の革 命であって、つぎはぎ細工のような改革ではなく、人間の精神と心における根源的な 変化」であると述べている(クリシュナムルティ、2005b、131頁)。同様に、「政治的、 経済的および社会的改革は明らかに必要である。しかしわれわれが、人間の全体性と 彼の全的行為というより大きな問題を理解しはじめないかぎり、そのような改革は単 によりいっそうの災いのもとになり、さらにより多くの改革を必要とするだけであっ て、そして人間をその果てしない連鎖に巻き込み続けていくことだろう」(クリシュ ナムルティ、2005c、202頁)とも述べている。 ここで全的行為に関する問いに、クリシュナムルティは、「明らかに人は、部分、 断片、すなわち集団、国家、イデオロギーを放棄しなければならない。これらのもの にすがりつきながら、人は全体を理解することを望むのだが、しかしそれは不可能で ある。それは、愛しようと努めている野心家のようなものである。愛するためには、 成功、権勢および地位への願望がやまねばならない。人は両方を持つことはできない。 同様に、まさにその思考自体が断片的であるところの精神には、この全的行為を発見 することはできない」と答えている(クリシュナムルティ、2005c、287頁)。 このようなことは、クリシュナムルティは、社会と個人、また個人と世界の関係を つぎのようにみていることと関連する。すなわち、クリシュナムルティは、「伝統は、 大衆、全体、集団が正しいまたは間違っているとみなすものの枠内に個人を閉じ込め ておくために考え出されたもの」として、「生の目的は、私によれば、いかなる伝統 にも、いかなる形の思考にも捕らわれず、完全に、全面的に、優雅に自由になること、 依存せず、自足することです。これを、思考の腐敗に他ならない自己満足と混同しな いでください。生の目的は全面的、完全に自由になり、そして無私になることです。 もしあなた方が生をその観点から見れば、伝統が無価値であることがわかるでしょ う。・・・個人の自由は最高度のスピリチュアリティであり、そしてスピリチュアリ ティは、制度――古代のものであれ現代のものであれ――とは無関係です。個人の真 の進歩は、彼を自足的に、完全に自立的にさせ、いかなるものにもいかなる人にも依 存しないようにさせるべきであり、そしてみずからをみずからに対する厳格な法にさ せ、他人の顔に影を投じない、自分自身への灯明にさせるべきです。現代の進歩はあ まりにも機械化しているので、個人は単に歯車の歯になっています。個人に何が起こ っているか誰も気にかけません。全ての組織、娯楽、誘惑物、仕事、活動、サービス はますます個性を否定し、個人を脇に押しやり、そして全体を偏重する傾向を示して います。全体は個人である、あるいは個人から成っているということが忘れ去られて いるのです。全世界を構成しているのはあなた方個々人なのです。もし個人としての あなた方の問題が解決されなければ、全世界の問題は解決されないままであるでしょ う。個人の問題は世界の問題になるのです」と述べている(クリシュナムルティ、2003、 126~129頁)。 要するに、「個人対社会の関係はどうあるべきなのか? 明らかに社会が個人のた めに存在するのであって、その逆ではない。社会は、人間の結実のためにある。それ
は、個人に自由を与えることによって、彼が最高度の英知を目覚めさせる機会を持つ ことができるようにするためにあるのだ。この英知は、技術または知識の単なる養成 ではない・・・。英知は自由において見出されるべきものなのだ」ということになる (クリシュナムルティ、2003、195頁)。 このような個人と世界の関係、私たちと社会との関係の見方は重要なところなので、 さらにクリシュナムルティの言葉に耳を傾けよう。クリシュナムルティは、「個人の 問題はまた世界の問題でもあり、両者は、二つの離れた、別個の過程ではない。然り、 われわれは人間の問題に関心を持っているのである。その人間が東洋にいようと、あ るいは西洋にいようと――洋の東西は、勝手な、地理的区別なのだ――人間の全意識 は、神、死、正しい、幸福な生活に、子供たちとかれらの教育に、戦争と平和に関心 がある。このすべてを理解せずには、人間の治療はありえない」と述べている(クリ シュナムルティ、2005a、358頁)。 また、クリシュナムルティは「私たちが社会なのですよ。私たちが社会を作ってき たのです。社会が私たちなのであり、世界が私たちなのです。世界は私たちと別の何 かなのではありません。私は世界の、社会の、文化、宗教の、私が暮らしてきた環境 の結果なのです」(クリシュナムルティ、2006、91頁)とか、「もし私たちが真剣に人 間の精神と心の変容に関心を抱くなら、自分の問題を解決することに全身全霊を傾け ねばなりません。なぜなら、私たちの意識の中身が世界の中身だからです。違いはあ っても、私たち一人ひとりの意識は残余の世界の意識です。だからもしもその意識に 根底的な変化があれば、その意識は残りの世界に影響を及ぼすのです。それは明白な 事実です」(クリシュナムルティ、2006、242頁)と述べている。 Ⅱ クリシュナムルティは、進歩は幻想であって、何か光輝あるものになっていく「私」 という観念は、偉大になろうとする切望の単純な欺瞞であると指摘している(クリシ ュナムルティ、2005a、85頁)。また「肝要なことは、人が蓄積してきたあらゆるもの に対して死ぬことである。なぜならこの蓄積が自己、エゴ、「私」であるからだ。こ の蓄積の終焉なしには、確実であろうとする願望の連続がある。なぜならそこには過 去の連続があるからである」(クリシュナムルティ、2005c、38頁)とも述べている。 これらのことを理解するには、クリシュナムルティの思考や知識や意識に関する次の 見方を知ることが役立つであろう。 クリシュナムルティは、「思考は常に条件づけられている。思考の自由といったも のはないのである」(クリシュナムルティ、2005b、72頁)といい、また「思考が思考 者を作り出す。思考者を生み出すのは、思考過程なのである。まず思考が現われ、然 る後に思考者が現われる。その逆ではないのだ。もしわれわれが、これを事実だと分 からなければ、われわれはあらゆる種類の混乱に陥ってしまうことだろう」(クリシ ュナムルティ、2005b、207頁)とも述べている。 さらにクリシュナムルティは、知識や意識に対しても、「知識、意識は、常に過去 のものである」(クリシュナムルティ、2005a、5頁)といい、「知識は生のごく一部な のであって、その全体ではない。然るにその部分が、現在そうなりつつあるように、 全てを呑み尽くすような重要性を帯びると、そのときには生は浅薄になり、単調な日
課――人があらゆる種類の気晴らしや迷信によってそれから逃避しようと努めると ころの――になってしまい、それとともに破滅的な結果がもたらされるようになる。 単なる知識は、いかに広大で、また巧妙に組み上げられていようと、われわれ人間の 諸問題を解決することはないだろう。間違いなく解決するだろうと思うことは、挫折 と不幸とを招くもとである。何かもっとはるかに深遠なものが必要である。憎悪は無 益だということを人は知ることはできるかもしれないが、しかし憎悪から自由である ことは全く別問題である。愛は知識の問題ではない」と述べている(クリシュナムル ティ、2005b、113~114頁)。 ◆ 以上、「自由」を中心に、クリシュナムルティの世界に触れながら、哲学が答える べき重要な論点を提起してきた。要するに、究極的な自由とはあらゆる条件づけから の自由であること、それは、万有権力からの自由を超え、「私」からの自由(超私自 由)、さらに思考や意識からの自由に至ってはじめて到達できるものであること、そ してそれは愛と平和と一体としての自由であることを明らかにした。私たちは、この ような究極的な自由の境地に到ってはじめて、真理に触れることができる。言い換え れば、真理に近づくためには、私たちは究極的な自由の境地に辿りつかなければなら ないということである。 このような真理の見方に拠ると、科学的真理や宗教的真理などは限定的で真理の名 に値しない。私たちが究極的な真理に近づくこと、あらゆる条件づけから自由である こと、そして愛と平和の世界に到達することは、同一のものを別の言葉で表現したに すぎないのである。それゆえ、私たちが愛と平和の世界を望むなら、また真理を探究 するというのであれば、クリシュナムルティが示唆するように、私たち一人ひとりが あらゆる条件づけから自由になる、そのような全的な意識転換が不可避であることに 気づかなければならない。 以上のようなクリシュナムルティの自由の哲学こそ、まさにホリスティック・マネ ジメントの哲学の核心といえるであろう。 【参考文献】 石井薫(2003)『環境マネジメント―地球環境時代を生きる哲学―』創成社.。 石井薫(2009a)「環境監査と環境マネジメントの統合に向けての研究―スーパーISOとホリ スティック・マネジメントを視座として―(1)」『経営論集』(東洋大学経営学部)第73 号。 石井薫(2009b)「人類の危機を乗り越える鍵は“超私自由”(私を超えて自由になること)(1)(2) ―クリシュナムルティの秘学思想とホリスティックな意識マネジメント―」『地球マネジ メント学会通信』第86号・第87号、2009年4・6月。 石井薫(2010)「環境監査と環境マネジメントの統合に向けての研究 ―スーパーISOとホリ スティック・マネジメントを視座として―(2)」『経営論集』(東洋大学経営学部)第75 号。 石井薫(2011)「ホリスティック・マネジメントの哲学探究―クリシュナムルティの思想に依拠
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Educational and the Significance of Life )。
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クリシュナムルティ、J.(2008)、柳川晃緒訳・大野純一監訳『変化への挑戦:クリシュナム ルティの生涯と教え』㈲コスモス・ライブラリー発行、㈱星雲社(Krishnamurti, J.(2007)
Challenge of Change, Krishnamurti Foundation of America)。 石井薫のホームページ:http://homepage3.nifty.com/ishii2004/