生涯学習からみた義務教育改革の陥穿
住 岡 英 毅
はじめに
周知のように、近年、わが国の義務教育改革が矢継ぎ早に行われている。あるいは、行われよう としている。 まず、学力低下論争に端を発した、「ゆとり教育j の見直しとしての学校五日制の弾力化、少人 数・習熟度別授業の奨励、留年制の導入、全国学力テストの実施、などが挙げられる。 また、六・三・三制の再編など地方の決定による義務教育制度の弾力化、地方教育行政・教育委 員会制度の在り方の検討や義務教育費国庫負担金の廃止・一般財源化など、国と地方との役割・権 限関係の見直しが挙げられる。学校選択制や構造改革特区における特色ある学校の創出、またコミ ュニティ・スクールの設置なども、広くはこの範鴎に入る。 さらに、教員免許更新制や教員の人事考課制度の導入なども、これからの義務教育の在り方に深 い影響を及ぼすであろう。 こうした義務教育に関わる様々な改革の動きを、肯定的に見るか否定的に見るか。巷の教育談義 から専門家による分析・評価に至るまで、今、多くの議論が展開されている。そして、こうした議 論の多くは、個別の改革が内包するそれぞれ固有の問題を一つ一つ取り出し、その顕在的もしくは 潜在的な機能や逆機能を評価する方向で行われている。もちろん、そうした個別改革をめぐる議論 の重要性を否定するものではないが、それとともに、今日の義務改革全体の根底に流れているコン セプトを分析、検討することはさらに重要である。もっと言えば、前者は後者との関連で考察され るべきであり、そうして初めて、わが国の義務教育改革の行く末を展望しながら個別改革の是非を 把握することができる。つまり、木は森を見なければ本当の姿を把握することはできない。 このように考えると、近年の義務教育改革のなかに新自由主義とそれがもたらす階層差の拡大や エリート主義の弊害を摘出する教育社会学からのアプローチは、注目すべき内容を含んでいる(1)。 だが、そうしたアプローチも、伝統的な学校教育中心の枠組のなかで行われており、人々の生涯各 時期の学習や教育、また社会教育との関連など、広い文脈のなかに位置づけて考察されているわけ ではない。じつは、そこに、近年の義務教育改革全体を術轍する視点としての、またこれからの義 務教育の在り方を展望する際の、一つの陥穿があるように思われる。 本稿では、このような問題意識をもって、生涯学習からみた近年の義務教育改革の陥穿について 考察する。①学力低下への対応、②地方分権への移行、③特色ある学校づくりへの動き、④教師の 生涯発達と教員研修、⑤生涯学習社会のなかの学校づくり、といった五つの観点から考察を進めた い。それは、混迷する今日の教育状況の中に身をおきながら、 1980年代から一貫して日本の教育 改革をリードしてきた生涯学習の理念に、もう一度光をあてなおす作業でもある。1 学力低下への対応
(1)問われる二つの学力 学力の低下は、一般に、次のような二つの方向から問題にされるのが常である。 一1-一つは、大学に入学してくる若者の知識の保有量が格段に落ちている。それは、とりわけ数学や 理科など理系分野において著しい。それらの分野では、時に授業が成り立たなくなることもめずら しくない。その原因は、元をたどれば高校教育、さらには義務教育の段階にあると主張される。つ まり、この教育段階での学習内容の著しい削減、端的に「ゆとり教育Jが学力の低下をもたらして いると言うのである。この方向からの議論は、日本の子どもたちの学力が少しずつ落ちてきている という、
OECD
による国際学習到達度調査の結果を見てにわかに激しさを増してきた。文部科学省 が打ち出した「学びのすすめ」や「確かな学力Jへの志向、それに先に述べた学力にまつわる一連 の改革志向は、この方向から出たものである。 二つは、近年、子どもや若者たちの「生きる力Jが劣化しているという方向から、生活能力を含 むより広い文脈のなかで学力を見ょうとするものである。それは、考える力、探求する力、必要な 知識や技術をねばり強く獲得していく力、端的に学習力に焦点をあてようとする。そして、このよ うな意味での学習力が今の子どもや若者の問で落ちてきているのは、生活のなかでの主体的な体験 の不足や困難体験の欠知にあると主張される。つまり、めぐまれた生活環境のもとでの過保護・過 干渉による子どもへの甘やかしが、子どもや若者の「生きる力」を奪い続けてきたと言う。そして、 このことこそ知識の保有量としての学力の低下以上に問題にされるべきであり、そうした意味での 「生きる力」を広く学力として捉える。それは、これまでの教育改革や教育施策を導いてきた主要 な学力観でもあった。生涯学習の推進施策や社会教育、それに子どもの体験を育てる地域の様々な 活動の動き、もっと言えば、「ゆとり」や「総合的な学習の時間」など文部科学省のこれまでの教 育改革や教育施策は、すべてこの方向から出たものと言ってよいであろう。 ところが、以上二つの学力論ないし学力低下論のはざまで、義務教育の現場は大いに揺れている。 いずれかが正しくあるいは間違っているのか。それとも、それぞれに一理あるととを認めつつ、言 わばどちらの方向をとるかという選択の問題なのか。また、いずれも文部科学省の政策課題として 提出されているとすれば、近年の義務教育改革はこれまでの政策の何をどのように反省し修正しよ うとしているのか。そのような事を不問にしたままで改革が進みつつある。これでは、教育現場は 戸惑うばかりである。 敢えて言おう。二つの学力論ないし学力低下論は、いずれかが正しくあるいは間違っているとい う問題ではない。「生きる力」を培う子どもの学びは、そもそも二つの方向から為される。一つは、 大人が教え授けてくれることを受容し身につける学びであり、もう一つは、子どもが生活のなかで 自発的な体験を通してあれこれの知識や知恵を獲得する学びである。学校の中心的役割は、前者の うち基礎的・基本的な内容を系統化して教えることにあるが、学校は、それとともに家庭教育や社 会教育、それに様々な地域活動と連動しながら、意図的・計画的に後者の学びをも育てようとする。 要は、両者のバランスをどのように図るか。その舵取りこそ重要であり、義務教育改革の要諦はそ こにあると言ってよい。このような学力の形成と関わって、学校で教える教科内容の 3割削減が何 をもたらしたかについては、実証的なデータに基づく慎重な議論が必要であろう。だが、学力の低 下をめぐって右往左往する昨今の義務教育改革は、百害あって一利なしである。 こうして、学力の低下への危機感から始まった義務教育の諸改革について、生涯学習の視点から は次のようなことが問題になる。 ( 2 )生涯学習力からみて何が問題となるか 言うまでもなく、生涯学習の援助システムという教育枠組みからすると、学校教育で身につける-2-学力は、その後の生涯学習の出発点となる学習力である。それは、池田秀男が指摘しているように、 「読み書き計算の能力にかかわる学習の結果としての『基礎学力 (basics)~と区別して、生涯学習 活動の『基礎 (foundations)~と呼ばれる J ものであり、それには「その『基礎』として自ら意欲 的に学ぶ能力や習慣、創造的に学習に取り組む力や学習を計画発展させる技能」などが含まれる。 言い換えれば、「生涯学習においては一定の学力を基礎として新たな知識や技能や価値を学習して いくので、学力は入力と出力の両方の文脈で語られることになる。前者の場合の学習への着手・始 動する能力は学校で達成された『学力』すなわち『基礎学力』と重なり合うが、それを基に新しく 学ぶ力、すなわち学習能力をも意味しているので、学校教育の枠組に閉ざされた学力とは意味を異 にするJ(2)のである。 このように考えると、近年の義務教育改革が内包する学力観は、「教育は人生初期の青少年期に 完結するものであり、学校教育はその中心的な担い手である」とする、古い教育枠組を一歩も出て おらず、言わば「閉ざされた学力観」のなかで展開されている。したがって、学力低下を克服する ための諸改革もその延長線上にあり、生涯学習からみて多くの問題を苧んでいると言わねばならな い。 まず、少人数による授業や習熟度別授業は、基礎学力を定着させる点で首肯できるものではある が、多様な能力や個性をもっ者が相互に鍛えあうことで身につける力も生涯学習の基礎としては重 要である。その点では、今、主張され、実践されている少人数、習熟度別授業は、個々の子どもの 学習到達度に力点をおく指導だけでなく、多様な子どもたちの集合力に着目した集団学習の指導と のバランスの上で展開されねばならない。すなわち、習熟度別授業は、学習内容や学習場面によっ て限定的に行われるべきであり、それは、多様な能力や個性の集まりである学級集団の指導を損な うものであってはならない。 また、「生涯学習の基礎jは、先にも述べたように広い意味での学習能力であるが、それは、物 事や他者の行動のなかに学ぶべき本質を的確に読み取ったり、自らの学習行動を長期的なスパンの なかでシミュレーションすることのできる力、すなわち、斉藤孝の言う「コメント力J
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段取り力」 「まねる盗む力J(3)に集約されると言ってもよいであろう。そうした力の獲得は、特別活動や総合 的な学習の時間における自発的な学習活動や地域の子どもの体験活動に負うところが大きい。その ことを軽視する昨今の「閉ざされた学力」への拘泥は、生涯学習からみて大いに問題とされるべき である。 さらに、留年制と学力テストについては、 一層の配慮がいる。基礎学力の不足を補うことを目的 とする留年制は、教育実践に携わる者の大方が指摘するように、その効果が薄いだけでなく将来へ の学習意欲を奪うことに繋がりかねない。生涯学習の観点からは、最も避けるべき制度と言ってよ い。また、学力テストの本来の目的は、学習のつまずき箇所を明らかにし、それをもとに指導方法 の改善を促すところにある。だが、全国学力テストは、そうした目的を離れて単なる学力競争への 道を開くことは、過去の実例からも明らかである は)。 もちろん、競争に依存した学習動機の喚起 は、生涯学習の考えに最も馴染まないものである。 (3)フィンランドが目指しているもの 最後に、 OECDの学習到達度調査の総合点で世界トップの位置にあるフィンランドについて触れ ておきたい。今、日本から多くの調査団がこの国を訪れている。日本の子どもの学力アップのため に、フィンランドの教育から学ぶものは何か。調査団の訪問動機はそこにあるが、どちらかという -3-とピントがずれている。よく知られているように、フィンランドを含む北欧諸国は、生涯学習の体 制整備が進んでいることで世界でも有数の国々である。学校教育は卒業後もやり直しがきくように 制度化されているし、リカレント教育も充実している。教会、労働組合、大学などの諸機関が開設 する成人のための学習機会は、多種多様に存在する。しかも、それは、無料もしくはきわめて低廉 な授業料で開放されている。フィンランドの学校教育は、こうした生涯学習体制と連動しており、 そこでは、子どもたち一人ひとりの学習への興味、関心それに学習方法の獲得といったことへの十 分な配慮がなされている。むろん、調査・視察のためにフィンランド詣でをする日本の教育政策・ 行政に携わる人たちが考えるような学力競争とは無縁な教育が行われている。 ついでに述べておこう。フィンランドが総合点で一位になり、日本の学力低下が取りざたされる もととなった
OECD
の学習到達度調査(
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I
S
A
)
は、「学校の教科で扱われているようなある一定範 囲の知識の習得を超えた部分まで評価しようとするものであり、生徒がそれぞ、れ持っている知識や 経験をもとに、自らの将来の生活に関係する課題を積極的に考え、知識や技能を活用する能力があ るかをみるものであるJ(5)02
地方分権への移行
(1)義務教育費国庫負担制度の廃止は何をもたらすか これまでの日本の義務教育は、文部科学省→都道府県教委→市町村教委→学校といった、いわば 中央集権的な流れのなかで運営されてきた。こうした中央からの伝達に基づく義務教育のありょう が、今、少しずつ変化し始めている。地教委の裁量の幅や学校長の権限が拡大し、学校選択制の導 入、構造改革特区を中心とする特色ある学校の創出などが相次いでいる。地方教育行政・教育委員 会制度の見直しも中教審で検討されている。これらは、義務教育を中央集権から地方分権へと徐々 にシフトしていく動きとして捉えられる。 だが、そうした地方分権への移行を最も直載に示しているのは、なんと言っても、義務教育費の 国庫負担金の廃止・ 一般財源化の動きであろう。現行では、義務教育費のうち教員給与の二分のー を国が、残りの二分のーを都道府県が負担している。この制度によって、全国のいかなる地域にお いても安定した教員配置が可能となり、教育の機会均等を旗印とする日本の公教育の命脈を保つこ とができる。ところが、この制度を廃止し、国庫負担金を一般財源のなかに組み込んで配分するこ とで、義務教育運営を地方の裁量でおこなうことができるようにするというのが、現在進んでいる 改革の趣旨である。実際には、今のところ、中教審・文部科学省の抵抗もあって、国庫負担金を三 分のーに減額するという政治的妥協の結果をみている。全額一般財源化への一里塚とも見えるこの ような結果を、われわれは、どのように考えたらよいか。論者たちの問でも、賛否両論、 二つに分 かれる。 一つは、義務教育費国庫負担制度を維持・存続させることを主張する論である。文部科学省や日 本PTA
全国協議会、日本教職員組合などの教育団体の主張は、これに属する。それによると、この 制度が廃止されれば財政力の強い都道府県と弱い都道府県の問で教育に投入する予算に差が生じ、 本来平等であるべき義務教育の均等性が失われるという。財政力が弱く、しかも山問、僻地、離島 を多く抱える都道府県ではとりわけ深刻になる。そこでは、子どもが少なくても一定数の教員を配 置するというこれまでの制度がくずれてくる恐れがある、というのである。そして、憲法26
条は 「すべて国民は(中略)ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定している。また、教育基本法 4-はその第
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条で「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなけれ ばならない」としている。義務教育国庫負担法はこうした理念に基づいている。ちなみに、フラン ス、イタリア、韓国、シンガポールでは全額国が負担している、と主張する (6)。 もう一つは、義務教育費国庫負担金を一般財源化し地方に税源移譲することで、教育における地 方の自立性が高まると主張する。全国知事会など地方 6団体の主張がこれである。それによると、 「これまでの教育行政はあまりにも中央集権的である」、「国庫負担制度を廃止して自治体の裁量を 大きくすることが必要である J という。同様の考えとして、 rw 国が義務教育に責任をもっ~w
どこ に住もうと義務教育を保障する』ことと財源調達の仕方は別問題である。例えば、イギリスやスウ エーデ、ンでは国庫負担金を廃止して、地方のお金で義務教育を実施している。地方の財政力のアン バランスを調整し、行政サービスを保証する地方交付税交付金のような制度があればよいのである。 義務教育の財源を国と地方のどちらに求めるかを判断する場合、①現場の創意工夫をどちらが生か せるか②学力の質をどちらが確保・向上できるかーとの視点がポイントになるJ(7)といった意見 もある。(
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)社会教育存亡の危機 本稿では、義務教育国庫負担制度を維持・存続させたいとする前者の意見に賛成するが、その理 由として、義務教育国庫負担制度が廃止されることによって、義務教育の地域間格差への懸念もさ ることながら、現状ですでにあらわになり深刻化しつつある社会教育の地域間格差にさらなる拍車 がかかることを挙げねばならない。じつは、そのことこそ、「生涯学習からみた義務教育改革の陥 穿」となる点であり、多くの論者たちが見過ごしている重大事項なのである。 言うまでもなく、今、国や自治体の財源不足は深刻である。そのしわ寄せは、様々な行政施策の なかのどの領域に現れているか。詳しい資料がないので即断はできないが、少なくとも教育の領域 について言えば、それは、学校教育よりも社会教育において顕著である。公民館、図書館、博物館、 青少年施設などの活動、それに自治体教育委員会主催の各種社会教育事業の多くは、国や都道府県 からの補助金の削減で年々縮小している。縮小どころかその存続すら危うい状況にある。今や公的 社会教育は、瀕死の状態に置かれていると言っても過言ではない。財源不足の矛先が学校教育なか でも義務教育に向かうのは、その深刻さの度合いがよほど増してからである。一般の常識から言っ て、義務教育は、最後まで守るべき聖域の性格を帯びている。だが、社会教育は、縮小しでもその 痛みはなかなか見えにくい。そのため社会教育は、必然的に、財源不足の犠牲になりがちである。 こうして、社会教育においては、受益者負担の原則がまかり通り、住民の自発的参加による総合 型スポーツ施設や社会教育施設の指定管理者制度が奨励される。近年の社会教育においては、公的 資金をできるだけ使わない安上がりの教育への傾斜が急速に進みつつある。社会教育は、学校教育 とともに、国力の基礎を培う車の両輪の一つであるが、その社会教育が、今このような有様なので ある。そして、社会教育をめぐるこのような現実は、義務教育費国庫負担制度のゆくえに関わって 次のようなことを予想させる。 すなわち、義務教育費の国庫負担制度の廃止がもたらす教育の地域問格差は、学校教育において 現れるのではなく、強力な存在理由を主張しにくい社会教育においてまず現れる。このことは、生 涯学習体系のなかで教育を整備するというこれまでの教育政策課題からみて、また、そのような教 育と社会を目指す国際的動向からみて、憂慮すべき事態である。日本の公教育の長期的展望が、根 底から揺らぎつつあるとも言えるのである。 53
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特色ある学校」づくりへの動き
(1)生涯学習からみた「特色ある学校」の問題点 中高一貫教育を目指す中等教育学校の設置から始まって、カリキュラム構成に柔軟性をもたせる 小中一貫の義務教育学校の創設や特定の教育分野に重点的に取り組む小学校など、構造改革特区制 度を活用した特色ある学校づくりが各地で進んでいる。なんらかの学校選択制を取り入れている自 治体も数多く存在する。義務教育の多様化が進みつつある、といってよい。このような動きを、わ れわれはどう評価するか。その答えは簡単ではないが、生涯学習の視点から少なくとも次のような ことが言えるのではないか。 まず、義務教育の多様化がなぜ必要であるのか。この間いに対する納得のいく回答は、見出しに くい。よく聞かされる答えは、「義務教育制度の画一性に問題がある」、「現状はあまりにも単線型、 多様化を求めてしかるべき」、「地方分権と言いながら地方の考えが生かせないでいる、規制緩和の 時代の当然の動き」、「多様化への競争が教育現場に緊張と活性化をもたらすJ、といったものであ る。いずれも、幾分かの説得性を含んではいるが、教育論としては不十分と言わねばならない。 生涯学習の理念に照らして、敢えて反論を加えたい。義務教育の多様化を進めるに際しての、教 育論からみた積極的な理由は存在しない。 先の1でも述べたように、義務教育は、生涯学習の基礎を培うという点で、生涯学習体系のなか で重要な位置を占めている。それは、生涯の学習に向けた基礎的・基本的知識の習得に加えて学習 への意欲、態度、方法の獲得を含む、いわば生涯学習力を培うことを期待されている。そうした生 涯学習ガはすべての人々が共通にもつべきであり、それを培う義務教育の内容は、必然的に、「共 通、平等、画一Jの性格を帯びている。多様化を目指すなかで、新しい教育内容を付け加えたり、 小中一貫の義務教育体制を組んだ、りといったことが、生涯学習力の形成にとって本当に必要なもの ならば、それを実証するとともに全国のすべての義務教育に適用すべきであろう。だが、地方分権 のなかで進められている多様化は、現状では恋意的に行われている。このままいくと、義務教育は しっかりした根幹をもたない性格の不分明なものに変質していくであろう。生涯学習の基礎を万人 に培うという点で、またそれを万人が享受できるという点で、「共通、平等、画一」は、義務教育 の旨とするところである。それを否定し自由な創意に基づく教育を推進していくことによって、逆 に生涯学習力の基礎を見失うことになりはしないか。そこに、今日の義務教育改革の陥穿があるよ うに思われる。 (2 )生涯学習が求める「学びの個性化・多様化」 さて、このように論を進めてきたからには、誤解を避けるために、生涯学習が追求する「学びの 個性化・多様化」についても触れておかねばならない。 その前に、まず、「特色ある学校」それ自体は、それが教育実践の結果として生まれる限り、好 ましいもの、推奨されるべきものと言ってよいであろう。「共通、平等、画一」のなかにある義務 教育においても、現状では多くの特色ある学校が存在する。教育実践は、対象となる子どもによっ て、また地域によって、さらには教師集団によって、いつも多様なヴァリエーションを描く。「特 色ある学校」は、そのなかから生まれるはずであるし、現に生まれている。全国各地で催されてい る教育実践の研究会は、そうした「特色ある学校」から学ぼうとする教師たちの集まりであると言-6-ってよい。そこで讃えられている特色は、教育実践の成果として生まれる言わば「結果としての特 色」と呼んでよい。それは、今日進められている先に述べたような特色、つまり、共通性や画一性 に対抗する「目標として掲げる特色」とは考え方を根本的に異にしている。 生涯学習力を培う教育実践は、「共通、平等、画一J を旨とする義務教育のなかにおいて、 一人 ひとりの能力、興味、関心を最大限に大切にしながら進められる。なぜなら、その後に続く生涯学 習は、あくまでも個人の営みであり、多様に枝分かれするものだからである。しかも、その生涯学 習の大部分は、個人に帰着するものだからである。そうであるなら、子ども一人ひとりの学びを個 性的に覚醒し育成することが生涯学習力の形成にとって最も重要になる。こうして、将来の学びの 基礎となる「共通、平等、画一」を目標に掲げながらも、その学びに多様な個性化を促すという考 えが、生涯学習力を培う教育実践の主眼とするととろである。それは、目標としての多様化や特色 を掲げながら、じつはその実践過程における個性化や多様化には論及していない昨今の義務教育改 革とは、逆の考え方をもつものと言ってよいであろう。 少し具体的に述べてみよう。義務教育の内容は、何度も繰り返すようだが、すべての子どもにと って共通であり画一的な性格をもつものである。だが、 一人ひとりの子どもの学習過程は、決して 画一的ではない。その子どもの能力や興味・関心の向き具合、またその子どもの生活体験などによ って、子ども一人ひとりの内面で進行している学習行動は、多様で個性的である。それは、教師に は見えにくい水面下にあるものだが、教師はそれを様々な方法でキャッチすることで、子どものリ アリティに結びつく授業を展開することができる。そうした授業は、何かを教えるというよりは、 子どもの学びに寄り添い、子どもの学びを創るといった色彩が濃い。それは、「教授から学習へ」 の転換を主張した木下竹次(1872-1946)の学習指導法に近いものであり、その伝統を引き継い だ奈良女子大学附属小学校の実践に学ぶところは多いように思われる (8)。 ともあれ、「登る頂上は一つだが、そこに至る道はいろいろある」。その多様な道を、子どもたち にどのようにして見つけ出させるか。生涯学習からみた義務教育実践の目標は、そこにあると言っ てよいであろう。
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教師の生涯発達と教員研修
(1)教員免許更新制の要点 義務教育改革と深く関わり、したがってこれからの義務教育に多大な影響を及ぽすことが予想さ れる改革として、教員の人事考課と教員免許の更新制といった、教員評価と教員研修に関わる改革 が挙げられる。前者については平成18年4月からの実施が決まっているが、後者については中教審 で目下検討中であり、最近その中間報告が出された(平成17年12月8日)。じつは、これらの改革 は、教師の生涯発達を考える上で重要な意味をもっ。ここでは、教員免許更新制に焦点をあてて考 察していきたい。 まず、教員免許更新制の要点について、中教審の中間報告をもとに簡単に整理すると、次のよう になる (9)。 教員免許更新制を導入する基本的な考え方は、「近年の学校教育をめぐる状況の変化が、教員に 必要とされる資質能力に絶えず変化をもたらしていること、そして、そうした変化する資質能力の 確実な確保を図るためには、教員免許状の在り方を根本的に見直す必要があり、その具体的方策と して教員免許更新制を導入することが必要である」というところにある。したがって、教員免許更-
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新制のねらいは、簡単に言って、「その時々で求められる教員として必要な資質能力が保持される よう、定期的に必要な刷新(リニューアル)を図るための制度J ということができる。 このような考え方から、教員免許更新制の意義は、「すべての教員が、社会状況や学校教育が抱 える課題、子どもの変化等に対応して、その時々で必要とされる最新の知識・技能等を確実に修得 することが可能となる」、また、「現に教職についていない免許状保有者も対象とする更新制を導入 することは、教員採用全体の質を維持することにも寄与するJ、さらに、「これを契機に、教員の自 己研舗が促進されるなど、教員としての専門性向上への動機づけとなることが期待できるJといっ た点にある。 そして、その具体的な制度設計としては、教員免許状の有効期限を一律に10年間とする。更新の 要件として、教員免許状の有効期限内に、課程認定大学もしくは都道府県教育委員会等が開設する 一定の講習(免許更新講習)を受講し、修了認定を受けることとする。その講習は、いずれの場合 も、 一定水準以上にあることを国が認定するとともに、認定後も講習が適切に運営されているかど うかを定期的にチェックするなど、講習の質の確保に留意する必要がある、とされる。 中間報告は、この他にも、免許更新講習の内容や受講時期、講習時問、免許状の失効や再授与、 免許状の種類ごとの取扱い、複数免許状の保有者や現職教員を含む現に教員免許状を有する者など についても触れているが、ここでは煩雑になるので省略したい。 さて、このような教員免許更新制は、教師の生涯発達からみて、どのように評価されるか。問題 点も含めて考察してみよう。 ( 2 )教師の生涯発達と生涯学習 言うまでもないことだが、教師は、教師としての力量を、教育現場で教師をしながら鍛え身につ けていく。その点では、「教師は、教師をしながら教師になっていくjのである。すなわち、教師 は、生涯にわたって教師になり続けることを運命づけられている。教師の生涯発達が研究テーマに なり、また教育実践上の課題になるのは、教師のこうした職業的特性からきている。したがって、 教員免許状を所有していること自体は、教師を仕事にすることの資格要件を備えているに過ぎない のであって、そのことが教師の力量を保障するものでないことは、誰しも認めるところである。も っとも、そのような事情は、専門職としての資格をもっ医師や看護士のような職業についても当て はまるし、もっと言えば、資格とは無縁のあらゆる職業についても同様である。仕事をしながら職 業人としての自己をつくっていくことは、あらゆる職業において共通に言えることだからである。 だが、教師においては、このことが特に際立つている。人を育てる技術や方法は、実践のなかで 学ばなければ本物にならない。にもかかわらず、新任教師は、最初から一人前として教壇に立ち、 保護者の要望や次々と頻発する教育病理にも適切に対応することを求められる。新任教師がおかれ たこのような立場は、責任ある仕事を免除され、少しずつ仕事に慣れていくことを期待されている 他の職業とは、比べものにならないくらい過酷である。こうして、教師は、赴任したその日から、 教師への厳しい自己研舗の日々をスタートさせるのである。学校や子どもをとりまく環境はたえず 変化するから、自己研鑓は生涯にわたって続けられる。 そうした教師の自己研績に最も有効な力を発揮するのは、教育現場における上司や同僚からの励 ましゃ指導など多くの支援であり、教師相互の切瑳琢磨の機会である。また、地域や全国レベルで 展開されている教育実践の研究会やサークル活動への参加、さらに教育委員会が提供する研修機会 への参加など、自己研績の機会は多様に存在する。自らの教師力を鍛えていく過程、すなわち教師 -8
-の生涯発達は、日々の教育実践のなかで子どもや親から学び、またこのような多様な学習機会を活 用しながらの、生涯学習を通して達成されていく。すなわち、教師の生涯発達にとっては、教師と いう職業に特有の生涯学習機会が必要なわけである。 (3)教員免許更新制の陥穿 このように考えると、「その時々で求められる教員としての資質能力が保持されるよう定期的に 必要な刷新(リニューアル)を図るための制度」である教員免許更新制は、教師の生涯学習に格好 の機会を提供するかに見える。だが、同時にそれは、教師の生涯学習にとって、次のような限界を 苧んでいる。 一つは、学習の動機づけが外部から強制的になされる。すなわち、内発的な動機づけを欠いてい るために、その効果に多少の疑問が残る。教師の日々の自己研績の機会との連動、言い換えれば、 教師の自発的な生涯学習のなかでの位置づけが明確でない点に、この制度の陥穿がみられる。 二つは、免許更新講習は、官による教員の研修機会という性格が強い。とすれば、教育委員会等 による他の研修機会のなかでの位置づけ、言い換えれば、教師の生涯学習を援助するための研修体 系の確立こそ重要である。この制度は、その点への配慮が不十分であり、そこに制度上の陥穿が見 られる。 三つは、免許更新講習の実効性に疑問が残る。講習を担うのは課程認定大学もしくは教育委員会 等が予定されているが、そのような講習を開くことが、多忙を極める今の課程認定大学や教育委員 会に果たして可能であろうか。しかも講習の適切性について国がチェックすることになっているが、 その実効性にいたってはなおさらに疑問である。その点で、おざなりの講習に終始する危険性は十 分にあり、これも制度上の陥葬のーっと言えよう。 以上から、教員免許更新制は、教員の生涯発達という視点から、様々な研修を含む教師の生涯学 習機会との関連で再検討される必要がある。
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生涯学習社会のなかの学校づくり
(1)生涯学習社会のなかの学校 生涯学習社会は、「いつでも、どこでも、誰でも、どんなことでも学ぶことができ、学んだこと が適切に生かされる社会」であり、学歴社会に対置されるものである。そのような生涯学習社会を 目指し、教育を生涯学習体系のなかで構築しようとする考えは、 1987年臨教審以来の日本の教育 改革を導いてきた基本理念であった。この理念からすれば、学校教育は、人生の各時期に存在する 様々な学習や教育機会のなかのーっとして相対化される。相対化された学校には、学校にしかでき ない教育を行うことで自己の存在理由と価値を鮮明に打ち出しつつ、学校以外の教育機会と連動し ていくことが求められる。 こうした生涯学習体系における学校教育、なかでも義務教育の役割を考えてみると、それは、 「音楽にたとえれば序曲の役割J(10)である。つまり、将来の学びの基礎となる知識を伝達するとと もに、知的好奇心や探究する力を育てることによって、生涯学習の基礎を培うことが義務教育の主 要な役割になる。ジェサップも言うように、「もしも、生涯学習が大多数の人々にとって現実味を 帯びてくるなら、学校はそれ自体、一連の教育のなかの部分となる。そして、個々の生徒が成人生 活に入って(また成人生活を通して)教育を受けるかどうかは、学校で培われた態度に依存する部-9-分が大きいJ(]I)からである。 今日の義務教育改革は、これまで考察してきたように、「閉じられた学力」に拘泥し、生涯学習 基盤の充実に深くかかわる社会教育予算削減への道をひらき、特色ある学校を標梼することで生涯 学習体系のなかの義務教育の在り方に混乱をもちこんでいる。また、教員免許更新制の導入は、教 師の生涯発達と教員研修の在り方との関連が十分に検討されていないという点で、多くの問題を残 すものである。それはすべて、「生涯学習社会のなかの学校J という視点の欠知からきている。
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)コミュニティ・スクールへの期待 だが、地方分権化の動きと密接にかかわる義務教育改革のーっとして、文部科学省が提唱するコ ミュニティ・スクールは、生涯学習社会のなかの学校づくりという視点から注目すべき内容を含ん でいるように思われる。 平成16年6月、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律Jが改正され、教育委員会の判断に より、保護者や地域の住民が、合議制の機関である学校運営協議会を通じて、一定の権限を持って 学校運営に参画することが可能となった。この制度は地域住民、保護者等が、教育委員会、校長と 責任を分かち合いながら、学校運営に携わっていくことで、地域に聞かれ、地域に支えられる学校 づくりを実現することを目指すものである。コミュニティ・スクールとは、こうした学校運営協議 会を設置する学校のことであり、地域運営学校と呼ばれることもある。 学校運営協議会の構成は、保護者や地域の住民、その学校の校長や教諭、大学教授等教育行政や 学校教育に識見を有する有識者、社会教育関係者などから成る。そして、学校運営協議会には、法 律に基づいて次のような権限が与えられている。 ①コミュニティ・スクールの運営に関して、教育課程の編成その他教育委員会規則で定める事 項について、校長が作成する基本的な方針の承認を行う。 ②コミュニティ・スクールの運営に関する事項について、教育委員会又は校長に対して意見を 述べる。 ③コミュニティ・スクールの教職員の採用その他の任用に関する事項について、任命権者に対 して直接意見を述べることができ、その意見は任命権者に尊重される。 このように、コミュニティ・スクールにおいては、学校運営の基盤である教育課程や教職員配置 について、保護者や地域住民が責任と権限を持って意見を述べることが制度的に保障され、その意 見を踏まえた学校運営が進められることになる 1(2)0 こうしたコミュニティ・スクールの土壌ともなる試みは、これまでにも各地で展開されてきてい る。生涯学習社会のなかの学校づくりとして知られる、学社連携・融合の実践がそれである。そこ では、学校の教育資源を地域の生涯学習資源として開放する、また、地域の生涯学習資源を学校教 育に導入する、さらには、学校と地域とが協働して、子どもや成人のための新しい学習・教育領域 を開発する、などの試みが盛んに行われきた (3)。コミュニティ・スクールは、そうした学社連 携・融合の試みを制度的な保障のなかでレベルアップした姿として捉えることができる。したがっ て、それは、生涯学習社会のなかの学校づくりに豊かな展望を切り開く可能性を秘めている。 その具体的な展望は、 一つには生涯学習システムの活用の方向から、 二つには生涯学習資源の活 用の方向から見出すことができょう。 佐藤晴雄によると、学校で活用できる生涯学習システムには、「行政機関が職員を派遣する出前 n u-講座や公民館の学級・講座、生涯学習ボランティアバンク、社会教育・生涯学習施設、生涯学習セ ンターの情報検索機能と相談機能などがあるJ。こうした生涯学習システムは、学校教育で大いに 活用可能であり、そのことによって、学校教育は、地域の生涯学習システムのなかで重要な一角を 占めながら同時にシステムの利用者でもあるという、まさに生涯学習のなかの学校づくりの展望が 聞かれる。 また、生涯学習資源には、「社会教育団体、スポーツ団体、社会教育指導者、ボランティア組織、 資源・情報ネットワークなどがある。これはシステムというよりも実態としての資源であるため、 どのような場合にも活用できるわけではないが、学校の条件やアプローチの仕方によって十分活用 可能なものであるJ(14)。地域には、これまでの閉鎖的な学校教育の実践からは見えにくかった豊か な学習資源が存在するのである。 さて、コミュニティ・スクールは、地域の様々な人たちを構成員とする学校運営協議会の活動を 通して、上記のような地域の生涯学習システムや学習資源にアクセスすることがきわめて容易にな る。そのことは、生涯学習のなかの学校づくりへの展望を切り開く出発点になるだろう。その場合、 学校と地域とのこれまでの結びつきの実績、地域の社会教育や生涯学習団体等の協働・ネットワー クの実績(15)などが大いにものを言う。コミュニティ・スクールの成否は、そこにかかっている。 (注) (1)藤田英典『義務教育を問いなおす』ちくま新書、 2005年は、そうした観点から21世紀の義務 教育問題について論じたもので、公教育・義務教育の意義と役割について、今日の教育状況 のなかに身をおきながら丁寧に分析・検討している。また、苅谷剛彦『教育改革の幻想』ち くま新書、 2002年、および『なぜ教育論争は不毛なのか』中公新書ラクレ、 2003年も、今 日の教育改革のなかにみられる、改革の理念と現実とのギャップについて指摘している点で 興味深い。
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)池田秀男「学力問題へ生涯学習論からアブローチJ~学力問題と生涯学習~ (日本生涯教育学 会年報第23号)2002年.p.70 (3 )斉藤孝『子どもに伝えたい<三つの力>~ NHKブ、ツクス、 2001年 (4) 1960年代に、教育現場の反発のもとに行われた文部省の学力テストは、教育観の違いにより、 学力そのものの定義の論争をよび起こすに至った(日本教育社会学会編『新教育社会学辞典』 東洋館出版社、 1986年、 p.81)。また、この学力テストは、「学テ日本一」を目指す競争を各 地で激化させ、学校教育現場に多くの弊害をもたらした。 (5 )国立教育政策研究所、 PISA2000調査結果報告書、 2002年、 p.2(
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)自民党文教制度調査会長である保利耕輔氏は、このような観点から、教育の機会均等を確保 するためには国の保障が必要であると述べている。(朝日新聞2004年[平成16年J9月3日(金) 朝刊)。 (7)地方財政審議会委員の木村陽子氏は、このような立場にたって、財源と教育水準は別問題で あると述べる(朝日新聞 2004年[平成16年J9月3日(金)朝刊)。 (8)長岡文雄『考えあう授業』繋明書房、 1872年など。 (9 )中央教育審議会「今後の教員養成・免許制度の在り方についてJ(中間報告)、平成17年12月 8日。 - E ム 3 i(10)ポール・ラングラン、波多野完治訳「生涯教育とは」、持田栄一、森隆夫、諸岡和房編『生涯 学習事典、資料・文献』、ぎょうせい、 1979年、 p.31
(11)F爪T.Jessup,The Idea of Lifelong Leaming, edited by F.W.Jessup, Lifelong Learning, A Symposium on Continuing Education, 1969, p.31
(12)文部科学省、初等中等教育局初等中等教育企画課、教育制度改革室「コミュニティ・スクー ル設置の手引き」平成16年 9月 (13)栃木県鹿沼市教育委員会編『学校をつくる 地域をつくる』草土文化、 2000年は、そうした 学社融合の理論と豊富な実践事例を詳しく紹介している。 (14)佐藤晴雄「新しいコミュニティスクールをめざす学社協働J 白石克己・佐藤晴雄・田中雅文/ 編『学校と地域でつくる学びの未来』ぎょうせい、 2001年、 p.49 (15) この点で、滋賀県における「しが子どもの世紀 3か年プロジェクト」の試みは、参考にすべ き貴重な実績の一つである。詳しくは、滋賀県教育委員会『しが子どもの世紀 3か年プロジ ェクト推進事業総括~実践事例と成果並びに今後の課題,,-,(平成 16 年度)~ 円 4 1 i