E・M・フォースターのサイエンス・フィクション
著者
石和田 昌利
著者別名
Masashi Ishiwada
雑誌名
白山英米文学
号
38
ページ
1-27
発行年
2013
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00004435/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja﹁機械が止まる﹂︵一九○九年︶は、E・M・フォース ターが一九○九年に﹃オックスフォード.アンド・ケ ンブリッジ・レヴュー﹄に発表した短編小説である。こ の作品は﹃天使も踏むを恐れるところ﹄︵一九○五年︶、 ﹃最も長い旅﹄︵一九○七年︶、﹃眺めのいい部屋﹄︵一九 ○八年︶、﹃ハワーズ・エンド﹄︵一九一○年︶、﹃インド への道﹄︵一九二四年︶、﹃モーリス﹄︵一九一四年執筆・ 一九七一年出版︶というフォースターの六作の長編小 説や、﹁アルベルゴ・エンペドクレ﹂︵一九○三年︶、﹁パ ニックの話﹂︵一九○四年︶、﹁コロノスからの道﹂︵一九 ○四年︶、﹁永遠の瞬間﹂︵一九○五年︶、﹁セイレーンの
E・M・フォースターのサイエンス・フィクション
E・M・フォースターのサイエンス・フィクション 話﹂︵一九○四年執筆・一九二○年出版︶などのフォー スターの主要な短編小説で繰り返し使用される技法、 つまり、イギリス人の来訪者が、旅行で訪れた場所の異 文化に出会い、対立する価値観との衝突を経験する形 式を取らない。﹁機械が止まる﹂は、フォースターの唯一 のサイエンス・フィクションであり、未来の生活を描 くディストピア小説である・フォースターが現実世界 において超自然的な異界や出来事に出会う登場人物を 描くことは珍しいことではない。フォースターは、ファ ンタジーと呼ぶ短編小説においては、登場人物の超自 然的な異界や出来事との出会いを扱い、登場人物が異石和田昌
一利
文化との出会いによって心の中に眠っていた本性を覚 醒させるという作品の構造を何度も用いている。しか し、登場人物は、﹁天国行きの乗合馬車﹂︵一九○八年︶ や﹁アザー・キングダム﹂︵一九○九年︶のような作品に おいて、フォースターが生きていた同時代の現実世界 で超自然的な異界や出来事との出会いを経験するが、 ﹁機械が止まる﹂は、作品の設定そのものが根本的に違 い、未来の生活に設定されている。﹁機械が止まる﹂にお いて扱われるものは、超自然的な異界や出来事ではな く、未来の生活の科学であり、機械が止まる時に人類が 滅亡するというディストピア・ヴィジョンである。サ イエンス・フィクションは現在ポピュラーなジャンル であり、小説がサイエンス・フィクションとして書か れることは現在では一般的であることは言うまでもな い。この作品は、列挙した作品の発表年からも明らかな ように、他の作品と著しく異なる時期に、執筆され、発 表されたわけではない。しかし、﹃来たるべき世界の姿﹄ ︵一九三二年︶にやがてまとめられる科学の発達に人間 の未来をかけるH・G・ウェルズが考える未来の生活 もすべてがユートピア的な世界というわけではない が、﹁機械が止まる﹂がウェルズの楽観主義に対する反 論として書かれた独特のトーンを持った作品になって いることは否定できない。フォースターがこの作品を サイエンス・フィクションにする必然性はこの点にあ る・小論においては、﹁機械が止まる﹂を未来の生活が描 かれたイギリス文学の代表的なディストピア小説であ るウェルズの﹁タイム・マシン﹂︵一八九五年︶、オール ダス・ハックスリーの﹃すばらしい新世界﹄︵一九三二 年︶、ジョージ・オーウェルの﹃一九八四年﹄︵一九四九 年︶と比較しながら、考察していくことにしたい。﹁タイ ム・マシン﹂は﹁機械が止まる﹂よりも一四年前に発表 され、﹃すばらしい新世界﹄は﹁機械が止まる﹂よりも三 三年後に発表され、﹃一九八四年﹄は﹁機械が止まる﹂よ りも四○年後に発表されたことも考慮しなければなら 二
ない。また、二度にわたる世界大戦と社会主義の革命や 全体主義体制の台頭も﹃すばらしい新世界﹄と﹃一九八 四年﹄の発表に前後して生じたことも忘れてはならな い。しかし、﹁機械が止まる﹂についての古い時代の批評 を概観してみると、J・B・ビアのように、﹁機械が止ま ︵1︶ ろ﹂と﹁タイム・マシン﹂を比較したり、ウィルフレッ ド・ストーンのように、﹁機械が止まる﹂を﹁タイム・マ シン﹂への反動と﹃すばらしい新世界﹄や﹃一九八四年﹄ ︵2︶ の系譜となるサイエンス・フィクションと捉えたり、 S・K・ランドのように、﹁機械が止まる﹂を﹃すばらし い新世界﹄や﹃一九八四年﹄と共通点を持つサイエンス. ︵3︶ フィクションと考えるという方法で一九六○年代以来 伝統的に論じられている・小論もこの方法を踏襲した い。A・C・クラークの﹃幼年期の終わり﹄︵一九五三年︶ やネビル・シュートの﹃渚にて﹄︵一九五七年︶など一九 五○年代だけでも著名なディストピァ小説がいくつも あり、その後の時代のディストピア小説を挙げていつ E・M・フォースターのサイエンス・フィクション たら切りがないが、小論においては比較の対象として 取り上げない・この作品においても人間に影響を与え る﹁土地の霊﹂や対立する価値観の衝突をフォースター の主題として考えられるのであろうか。むしろ、この問 題に小論の考察の焦点を絞りたい・小論は、これらの ディストピア小説を引き合いに出しながら、﹁機械が止 まる﹂の設定、展開、結末の特徴を考察し、二つの対立す る価値観の衝突が人間に与える影響を中心に、この作 品における人間と場所の関係を考えていきたい。 この作品の構成は﹃インドへの道﹄や﹁パニックの話﹂ にも用いられている三部構成が用いられる・各部分は、 ﹁飛行船﹂、﹁修理装置﹂、﹁ホームレス﹂という題名まで 付されているが、実際にはこの作品の設定、展開、結末 になっている。最初に、作品の冒頭における作品の設定 1 一一一
を考察してみよう・次のように、語り手は、この作品の 登場人物と生活環境を語ることによって、この作品を 語り始める。 できるものならば、蜂の巣の穴のような形をした 六角形の小さな部屋を想像してもらいたい。その部 屋は、窓も電燈もないのに明るく、柔らかな明かりに 満たされていた・換気孔もないが、空気は新鮮であ る・楽器もないのに、私の瞑想が始まるとすぐに、美 しい音楽がこの部屋に流れる。アームチェアーが中 央にあり、読書机がその椅子の傍らにある・家具はこ れしかない。そして、一つの肉の塊、つまり、身長は約 五フィートで、きのこのように白い顔をした女がそ のアームチェァーにくるまれて腰掛けている。この ︵4︶ 小さな部屋はこの女のものである。︵八七︶ アレクサンドラ・オルドリッチはハックスリーの﹃す ぱらしい新世界﹄とともに﹁機械が止まる﹂を代表的な イギリスのディストピァ小説として一九七○年代に指 ︵5︶ 摘しているが、この作品に設定されている未来の生活 は、すべてがディストピァではなく、ユートピア的な側 面も描かれている。ロレンス・ブランダーやデニス・ ゴドフリーは一九六○年代にこの作品のユートピア的 ︵6︶ な側面を強調する解釈さえしているほどである・ブラ ンダーやゴドフリーが考えるように、ヴァシュティの 生活環境は一九六○年代にはユートピアであったと言 えよう・フォースターがこの作品を執筆した時からど れくらい未来の生活を描いているのかは書かれていな いが、語り手は読者に一九○九年のイギリスよりもは るか未来の生活を想像することを求める・この女の名 前はヴァシュティであり、この女はこの作品の中心的 な登場人物である・ヴァシュティにはクーノーという 息子がいる。この作品がヴァシュティとクーノーとい う母親と息子を中心に展開していくことは、すでに指 四
︵7︶ 摘されてきたとおりであり、反論の余地はない・電話や 電燈の科学技術の進歩や鉄道等の交通機関の発達が フォースターの作品に描かれていることは周知のこと ではある。窓からの日差しや頻繁に取り替えることが 必要な白熱電球ではなく快適で安定した明るさが約束 されている照明設備、扇風機やストーブに頼らなくて も快適で安定した室温と新鮮な空気を供給してくれる 空調設備、蓄音機をマニュアル操作しなくても快適で 安定したBGMを流してくれるヴァシュティの部屋は 当時の読者には実現の困難な理想の生活に思えたと言 えよう。そして、これらが現在すべて実現されているこ とは驚くべきことである。人類の未来の生活を予想す るフォースターの想像力を賞賛せざるをえない作品の 設定である。この作品の生活環境の設定についての描 写は詳しい。次のように、語り手はヴァシュティの生活 環境を更に詳細に紹介する。 E・M・フォースターのサイエンス・フィクション それから、ヴァシュティは明かりを点けた。する と、ヴァシュティは明るさに溢れた電気のボタンが 散りぱめられた部屋の光景に元気を取り戻した。至 る所にボタンとスイッチがあった。食料、音楽、衣類 を求めるボタンがあった。熱いバスに入浴できるボ タンがあった・そのボタンを押すと、人造の大理石の 浴槽が、床からせり上がり、温かい無臭の液体で浴槽 の縁までいっぱいになった。冷たいバスに入浴でき るボタンもあった。文学作品を創作するボタンも あった。そして、もちろん、友人と通信するボタンも あった・その部屋は、何もないが、ヴァシュティが世 界じゅうに望むあらゆるものに接触することができ た。 ヴァシュティの次の動作は孤絶のスイッチを切る ことだった。すると、この三分間溜まっていたものが ヴァシュティに向かって勢い良く発せられた・部屋 はベルとスピーキング・チューブの音声で満たされ 五
た・新開発の食料品はどんなものですか・ヴァシュ ティさんはその食料品を推薦することはできます か・ヴァシュティさんは最近何か着想をお持ちです か。ヴァシュティに着想を聞いていただけますか・ ヴァシュティさんは近いうちに公共の保育園の訪問 を約束なさいますか。来月の今日はいかがでしょう か。 ヴァシュティはこれらの問い合わせの大部分に対 してその加速する時代に増大する性質であるいらだ ちを込めて返事をした・ヴァシュティは新開発の食 料品はひどい味だと言った・ヴァシュティは約束が 殺到しているので公共の保育園を訪問することはで きないと言った。ヴァシュティは、自分の着想はない が、中央の四つの星と三つの星は人間の姿に似てい るという着想を聞かされたところだと言った・ヴァ シュティは、その着想が重要であるかどうかを疑っ た・それから、ヴァシュティは通信のスイッチを切っ 部屋の中でボタンを押すだけでなんでも手に入る未 来の生活が読者に語られている・人間が物質のところ に移動するのではなく、物質が人間のところに移動す る究極の個人生活が、この作品では、実現され、作品の 舞台に設定されている・このような生活はまだ実現さ れていない。しかし、生涯外出しなくて済む在宅生活は 理想の生活であるかどうかは意見の分かれるところで た。なぜならば、オーストラリアの音楽について講義 をする時間だったからだった。 聴衆に集まってもらう気がきかないシステムは ずっと前に廃止されていた・ヴァシュティも聴衆も 部屋から動かなかった・ヴァシュティは、アームチェ ァーに座ったまま、話した。聴衆も、アームチェアー に座ったまま、ヴァシュティの声がかなり良く聞こ えたし、ヴァシュティの姿がかなり良く見えた。︵九 ○︲九二 一ハ
あろう。更に、この作品に設定されている未来の生活は 現在以上に進歩したネットワーク社会である・この作 ︵8︶ 品のネットワーク社会に注目した研究もあるほどであ る・人間は、この作品の中に想定されている通信手段の 発達した社会においては、﹁淡く青い光が、円形のプ レートをよぎり、ぼんやりとして紫色になった。まもな く、ヴァシュティは地球の反対側に住んでいる息子の 顔を見ることができた。そして、クーノーも自分の母親 の顔を見ることができた﹂︵八八︶と語られているよう に、テレビ電話のような映像機能を持つ円形のプレー トを使用し、受信者と送信者の相互の映像を映し、会話 をすることができ、自分の知識や情報を地球上のすべ ての人間に講義することもでき、地球上のすべての視 聴したい講義から知識や情報を獲得することもでき、 受信者と送信者は自分の意志で自由に通信機能の接続 と解除ができる・ヴァシュティは、更に、スピーキング・ チューブを使用して音声のみの受信と送信をすること E・M・フォースターのサイエンス・フィクション もでき、気送郵便を使用して文書の受信と送信をする こともできる・電燈と電話がかろうじて普及しつつ あった時代のフォースターが、現在のテレビ、ラジオ、 電話、ファックス等の放送機器や通信機器の電気器具 とシステムの普及ばかりではなく、コンピュータの端 末となるパソコン、携帯電話、タブレット、スマート フォン等を所持しているだけでメーラーやインター ネットの機能によって、人間と人間の連絡や知識と情 報の受信と送信を可能にするネットワーク社会の到来 も予想していたことは驚くべきことである。そして、 フォースターが予想したネットワーク社会の多くの技 術は現在実現している・フォースターが、多くの作品で 馬や馬車に替わって、自動車や鉄道が交通手段の中心 となっていく時代の移り変わりを描いていることは、 フオースターが、科学の進歩に興味を持ち、新しい技術 の普及に注目していたことを窺わせる。しかし、フォー スターが﹁機械が止まる﹂においてネットワーク社会の 七
良い面しか描かなかったならば、この作品はユートピ ア小説である。しかし、更に驚かされる点は、フォース ターが、この作品においてネットワーク社会の問題点 も指摘し、この作品をディストピア小説にしているこ とである・それは、﹃ハワーズ・エンド﹄の終結部におい て、鉄道の発達による田園の都市化の問題を匂わせて いるのと同様である。フォースターは﹁僕はお母さんに 僕に会いに来て欲しいんだ﹂︵八八︶や﹁僕は機械を通さ ずにお母さんに会いたいんだ﹂︵八八︶というクーノー の言葉によってネットワーク社会の問題点を匂わせ る。クーノーは﹁機械が止まる﹂の円形のプレートに浮 かぶ映像がヴァーチャル・リアリティに過ぎないこと がわかっているのである。確かに、人間が物質のところ に移動するのではなく、物質が人間のところに移動す る究極の個人生活がこの作品では実現されてはいる が、そのような社会は人間や社会との人間の直接の接 触、つまり、直接経験を失わせていくからである・人間 の心は、時には、話し相手に顔を合わせ、話さないと、伝 わらないのである・直接経験は、直接経験から遠ざかっ てしまった人間にとっては、話し手の心を聞き手に直 接突きつけてきたり、見知らぬ人間と直接会話をした り、ヴァーチャル・リアリティとして見てきたものに 予想外の驚嘆や失望を感じるために、この作品におい ては不安や恐怖を引き起こしていく・ヴァシュティが 飛行船を利用してクーノーに会いに行く時に感じる不 安は直接経験への不安にほかならない・ネットワーク 社会は直接経験を回避する間接経験の社会でもあるの である・亡くなった人間の意志や知識がメール、ホーム ペイジ、ファイルの中で存在し続けていることは珍し いことではない・ネットワーク社会が死者にも永遠の 生命を与えられることは周知のことであろう・クー ノーは、この作品の終結部に語られるように、母親の ヴァシュティの生命のぬくもりを感じたく、ヴァシュ ティという他者の生命によって、自分の生命を感じた 八
いのである・ネットワーク社会のデータは生きている 人間から送信されたものとは限らないのである。 更に、ネットワーク社会が人間の自己中心性を助長 していることも明白であろう。﹁急いで、クーノー﹂︵八 七︶というクーノーの通信機器の操作を急がせるヴァ シュティの言葉や﹁時間がないわ﹂︵九二というヴァ シュティの思いはマイペースの生活を妨害されたくな いヴァシュティのエゴイズムの現われにさえ思える。 ヴァシュティの日常生活は在宅のままの瞑想と通信機 器を使用しての知識と情報の受信と送信だけである。 しかし、この作品のネットワーク社会は﹃一九八四年﹄ の中に設定されたネットワーク社会ほどのディストピ アではない。﹃一九八四年﹄の中の市民は、常に、映像の 受信と送信が可能な不断のテレスクリーンによって監 視され、音声も隠しマイクによって盗聴され、ビッグ・ ブラザーに指導される全体主義体制の政府に管理され ている。そして、市民は、反政府的な思想や言動が露見 E・M・フォースターのサイエンス・フィクション すると、思想警察に逮捕され、拷問され、処刑され、存在 していた記録さえも抹消されていくのである。﹃すばら しい新世界﹄や﹃一九八四年﹄に見られる社会主義によ る全体主義体制の影は﹁機械が止まる﹂には見られな い。このように考えると、この作品の未来の生活は、﹃す ばらしい新世界﹄や﹃一九八四年﹄のように、個人の利益 よりも社会の利益に重点が置かれた社会ではなく、ス トーンが指摘しているように、社会の利益よりも個人 ︵9︶ の利益に重点が置かれた社会であり、﹃すばらしい新世 界﹄や﹃一九八四年﹄のような過酷な全体主義体制の社 会の読者から見れば、ユートピアであるかもしれない。 ﹁機械が止まる﹂には、あまりにも説明不足の事柄が 多く、作品の設定があまりにも暖昧である・作品の展開 と結末を考察する前に、問題がある設定を考察してみ 2 九
ょう・技術的な語り手の問題と内容的な人間類型と社 会構造の問題を列挙していくことにする。最初に、技術 的な語り手の問題に注目してみたい・技術的な語り手 の問題は﹁私﹂という一人称の登場人物として登場する 語り手の位置にある・語り手は、何度も命令形を用いて 読者に呼びかけ、最初の引用の描写のように読者に想 像力を掻き立て、読者に作者と同じ未来の地球を覗か せる・作者が想定している読者はフォースターの同時 代人であるが、﹁私﹂という登場人物の語り手は暖昧な 存在である。﹁私﹂という語り手は、この作品の世界の傍 観者であり、ヴァシュティとクーノーが知覚した事象 や言葉を読者に伝えてくれる。しかし、この作品の語り 手を作品の外部から作品の世界を語る全知の語り手に 設定せず、この作品の語り手をあえて﹁私﹂という登場 人物に設定する必要性はあったのであろうか。﹁私﹂と いう語り手の一人称は読者を混乱させるだけである。 次に、内容的な人間類型の問題に注目してみたい・生 活環境の詳しい描写に対して、人間類型や社会構造の 設定も暖昧である。﹁ヴァシュティには歯と髪がないこ とを想像してもらいたい﹂︵九二︶という語り手の語り によって、ヴァシュティとクーノーという未来の人類 の外見は読者に伝えられる・ヴァシュティとクーノー に与えられている外見は現在の人類とは異なるもので ある。﹃すばらしい新世界﹄や﹃一九八四年﹄に描かれて いる未来の人類は現在の人類と同じ外見をしている が、﹁タイム・マシン﹂に描かれている未来の人類、つま り、ドレスデンの陶器のように美しい小柄なエロイと 白い猿のような凶暴な食人種のモーロックは現在の人 類とは同じ外見とは言えない。作者は、未来の人類に現 在の人類と同一あるいは類似した外見を必ずしも与え なければならないことはないが、現在の人類と異なる 外見にする場合、何らかの必要性がなければならない。 未来の人類の外見がどうしてこのようになったのか、 つまり、ヴァシュティとクーノーは、何故歯と髪がな 十
く、きのこのように白いのかは何も説明されていない。 ﹁タイム・マシン﹂において未来の地球にタイム・マシ ンによって時間旅行をする時間旅行者は、エロイと モーロックという二つの種族の外見の理由をエロイと モーロックの関係から知り、読者は時間旅行者の視点 からエロイとモーロックという二つの種族の外見を読 者に納得させる・周知のように、エロイは、モーロック が食料として地表で養殖している人間であり、モー ロックに食べられる人間であるが、モーロックは、地下 に住み、エロイを食べる人間である・エロイがモーロッ クよりも大きく強く凶暴ならば、モーロックはエロイ を食べることはできない.そのために、エロイはモー ロックよりも小さく弱くおとなしいのである。そして、 モーロックの体毛が白いのは地下に住んでいるためで ある。﹁機械が止まる﹂の地表への逃亡者と地下に住む 一般市民の構図やヴァシュティとクーノーの白い皮層 にはウェルズの影響を推測することはできるが、ウェ E・M・フォースターのサイエンス・フィクション ルズの作品によって﹁機械が止まる﹂の人間類型を説明 することができるわけではない。ヴァシュティとクー ︵、︶ ノーを人工の子宮の中の胎児として捉えた解釈もある が、オーソドックスに考えれば、フォースターは読者に ヴァシュティとクーノーを蜂の巣の穴の中の幼虫のよ うな存在として捉えてもらいたいと考えているのでは ないだろうか・子宮の中の胎児あるいは蜂の巣の穴の 中の幼虫のどちらにしても自立性の欠如した存在のイ メージを読者に与えていることに違いはない・ヴァ シュティとクーノーの外見は様々な解釈を可能にする が、これほど説明不足ではこのような外見に設定され ている理由を断定することはできない。 最後に、内容的な社会構造に注目してみたい・社会構 造の問題は多数あるので問題別に順次指摘していく。 第一に、居住空間を見てみよう・次のヴァシュティと クーノーの会話はヴァシュティとクーノーの居住空間 を明らかにしてくれる。 十 一
人間は、この作品においては、地上で生活することが できず、地下で生活しているのである・人間がそれぞれ 蜂の巣の穴を連想させる面積、形状、設備の同じ部屋で 生活しているとすれば、人間の居住空間は地下に作ら れた蜂の巣、あるいは、蟻の巣のような巨大な集合住宅 であると想定される。﹁タイム・マシン﹂は、人間を地上 に住むエロイと地下に住むモーロックに分けてはいる ﹁お母さん、地表に行くのがどんなに良くないかを 説明するためだけにでも、来てよ﹂ ﹁良くないことはないわ﹂とヴァシュティは、自分 の気持ちを抑えて、返事をした。﹁でも、良いことはな いわね。地表は俟と泥しかないわ・生物は地表にはい ないのよ・それに、人工呼吸装置が必要ね・それがな いと、クーノーは冷たい外気に当たって死んじゃう かられ・人間は外気に当たったら即死よ﹂︵八九︶ が、地上を人間の住めない場所にはしていない。﹁機械 が止まる﹂より後に発表された﹃すばらしい新世界﹄や ﹃一九八四年﹄の人間は、地表に住み、地下には住んでい ない。﹁機械が止まる﹂は地表が核戦争や大気汚染で住 めなくなるサイエンス・フィクションの設定を先取り していると言えよう。しかし、人間が地上に住めなく なった理由は、説明されていなく、説明不足である。し かし、地上と地下こそが、ランドによっても指摘されて いるように、この作品において対置されている場所で ︵皿︶ あり、対照的な属性が与えられている世界である。そし て、機械を利用した仮想経験の世界に生きていたヴァ シュティとクーノーは地上に出ることによって機械を 利用しない直接経験の世界を経験するのである・機械 を利用した仮想経験の世界の価値観と機械を利用しな い直接経験の世界の価値観がこの作品では衝突する。 第二に、社会組織を見てみよう。この作品は、国家、人 種、民族、言語という概念は登場しない・国家は、すでに 十 二
存在せず、地球全体が一つの国家のように扱われてい る・人種、民族、言語も統一されているようである・これ らは、話題に出てこないから、存在していないのだろう と大まかに考えるしかない。このように設定された未 来の生活がリアリティを持つかどうかは意見の分かれ るところであるかもしれない・階級が統一された世界 であるという点は疑問を残す・人間はすべて地下の蜂 の巣の穴を連想させる面積、形状、設備の同じ部屋で生 活しているようにこの作品には語られているが、ヴァ シュティやクーノーとは異なり、来る日も来る日も地 表の上空を飛ぶ飛行船で直接経験による仕事をしてい る飛行船の乗客係という人間が登場する。ヴァシュ ティとクーノーは、瞑想と通信の在宅生活をしている だけであり、何の労働もしていない・一方、飛行船の乗 客係は明白な労働者である・すべての人間が機械を通 した仮想経験の世界に生きている社会を描こうとした フォースターは機械を通した仮想経験の世界に生きて E・M・フォースターのサイエンス・フィクション いない登場人物を登場させたことにより作品の中の社 会組織に矛盾を持たせてしまっているのである。更に、 公共の保育園の職員や人工果物の生産業者の存在は ヴァシュティとクーノーのような瞑想と通信の在宅生 活に明け暮れる市民を支える下層の労働者の存在を明 らかにしてしまう。この作品の無階級社会の幻想はこ の点で崩壊している。更に、この作品の無階級社会の幻 想を崩壊させるのはこの作品における神である機械の 存在である・次のヴァシュティとクーノーの会話を見 てもらいたい。 ﹁お黙り﹂とクーノーの母親は、なんとなく衝撃を 受けて、言った。﹁機械を悪く言ってはいけません﹂ ﹁何故いけないの﹂ ﹁いけないのよ﹂ ﹁お母さんは神様が機械を作ったみたいに話すね﹂ と相手は大きな声で言った。﹁お母さんは、落ち込む 十
機械の全能を信じるヴァシュティと機械の全能を疑 うクーノーの会話である。そして、各部屋の機械の操作 説明書である﹃機械の書﹄がヴァシュティの部屋の唯一 の書籍であり、ヴァシュティは、﹃機械の書﹄を感嘆の声 をあげて崇め、﹃機械の書﹄を撫でて心を落ち着かせる のである・機械が神に替わり、﹃機械の害﹄がキリスト教 の﹃聖書﹄やイスラム教の﹃コーラン﹄のような聖典に替 わっているのは明白であろう。それでは、﹃機械の書﹄を 出版している中央委員会とは何者なのであろうか・中 央委員会は、﹃一九八四年﹄のビッグ・プラザーのよう に、具体的な人間として作品に登場しない。しかし、 ヴァシュティは﹃機械の書﹄に書かれているとおりに行 動する。﹃機械の書﹄がヴァシュティとクーノーのよう なこの作品の中間層の市民の心を支配しているとすれ と、機械にお祈りするんだろう・人間が機械を作った んだ・それを忘れちゃいけないよ。・・・﹂︵八八︶ ぱ、﹃機械の書﹄で中間層の市民を精神的に支配する中 央委員会こそが社会上層を形成する支配者である。﹃機 械の書﹄によって中間層の市民を支配する中央委員会 という上層の支配者、中央委員会の﹃機械の書﹄によっ て支配される仮想経験の中に生きて労働をしない一般 の市民、上層の支配者と中間層の市民を直接経験の労 働で支える下層の労働者が﹁機械が止まる﹂の中には存 在しているのである・フォースターは、未来の生活を無 階級社会にしようと試みながら、いつのまにか作品の 中の世界に階級を作り出してしまっている・階級社会 はこの作品の後に発表された﹃すばらしい新世界﹄や ﹃一九八四年﹄においては厳密に規定されている。﹃すば らしい新世界﹄は、世界総統の支配する世界統一国家に なっているのに、人工孵化・条件反射育成所のガラス 容器は、人工授精した卵子に酸素を決められたとおり に供給し、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、エプシロ ンの各階級の人間を作り出し、各階級の人間に定めら 十四
れた労働で社会を維持する。﹃一九八四年﹄は、オセアニ ア、ユーラシア、イースタシアの三国の均衡状態の世界 を想定し、オセアニアにおいては、ビッグ・ブラザーと して社会を支配する局内員、全体主義体制での絶対服 従を強いられる局外員、絶対服従の労働を強いられる 社会の下層を形成するプロレタリアの三層構造の社会 である。フォースターは、イギリスの階級問題を作品の 中で扱いながらも、中産階級の登場人物しか描いてい ない作品も多く、上流階級と労働者階級の登場人物が 大きな意味を持つフォースターの長編小説は﹃モーリ ス﹄ぐらいであろう。そのように考えると、フォース ターは、ヴァシュティとクーノーを未来の社会の中産 階級の人間として設定しているように推測することは できる。しかし、﹁機械が止まる﹂の未来の生活における 社会組織、特に、階級は暖昧である。この作品における ヴァシュティとクーノー以外の人間の機械に対する意 識は民衆の声として次のように要約されている。 E・M・フォースターのサイエンス・フィクション このように、この作品の中産階級の人間は、機械が与 えてくれる恩恵に安住し、機械が創造した世界を永遠 と信じ、機械に逆らわずに生きているのである・この作 ﹁機械は私たちに食料、衣類、住居を与えてくれる。 私たちは、機械を通して互いに話し、機械を通して互 いの姿を見て、機械の中に存在している。機械は、着 想の友人となり、迷信の敵になる・機械は、全能であ り、永遠であり、祝福されている﹂と民衆は叫ぶ。そし て、まもなく、この公式演説は﹃機械の書﹄の最初の ページに印刷された。やがて、この慣例は以後の版で は複雑なシステムの祈祷と賛辞に高められた。﹁宗 教﹂という言葉は慎重に排除された。そして、機械は 理論上まだ人間の作り出した道具だった。しかし、実 際には、少数の反動主義者を除き、誰もが機械を神と して崇拝した・二一○︲一一二 十五
品においては、機械が神なのである・ヴァシュティはこ のような機械を神と考える宗教を盲信する人間の代表 であり、クーノーはこのような機械を神と考える宗教 に反逆する人間の代表である。クーノーが拘る星座を ︵皿︶ 異神の暗示と捉えている解釈もあり、ヴァシュティの 機械への信仰とクーノーの機械への不信は衝突してい る。この作品の未来の宗教はヴァシュティとクーノー の対立する価値観も衝突させるのである。 第三に、家族関係を見てみよう。この作品の未来の生 活はフォースターが生きていたイギリスとは大きく異 なる世界であるはずである。しかしながら、母親と息子 の親子関係は存続している・フォースターは父親不在 の家庭や両親不在の家庭を作品の設定とすることを得 意としているが、この作品も母親と息子の親子関係を 強調している。次のように、ヴァシュティは、クーノー との親子関係を回想し、﹃機械の書﹄に書かれている両 親の義務を思い出す。 ヴァシュティは母親の義務をすでに果たしている。 クーノーの父親もいるのであろうが、この作品には登 場しない・ヴァシュティは﹃機械の害﹄に書かれている しかし、ヴァシュティは、新生児のクーノー、クー ノーの誕生、公共の保育園へのクーノーの移動、公共 の保育園に一度だけクーノーに会いに行ったこと、 クーノーが何度も会いに来てくれたこと、機械が クーノーに地球の反対側の部屋を割り当てた時に終 わったクーノーの訪問を思い出した。﹃機械の害﹄に よると、﹁両親の義務は誕生の瞬間に終わる・四二二 三二七四八三ページ﹂そのとおりなのだが、クーノー には特別なところがあった・実際、ヴァシュティの子 供たちには悉く特別なところがあった・だから、結 局、クーノーが望むならば、ヴァシュティは旅に勇敢 に立ち向かわなければならなかった。︵九三︶ 十 六
義務以上のことをしようとしているのである・これほ ど強固な親子関係は﹁タイム・マシン﹂はもちろん﹃す ばらしい新世界﹄や﹃一九八四年﹄にも描かれていない・ クーノーがヴァシュティに求めていることは、ヴァ シュティと機械を利用せずに話し、地表に行くことを 相談することである。地球の反対側へ飛行機で移動す ることは、経済的な事情さえ許せば、現在大したことで はない。しかし、ヴァシュティにとっては、機械に守ら れた蜂の巣の穴のような住居の外へ出ることが冒険な のである。ヴァシュティを地球の反対側に住むクー ノーに会いに行かせる感情に母親の愛情を感じずには いられない。この作品の家族関係には矛盾や説明不足 の部分はない。しかし、この作品の家族関係は価値観を 衝突させる母親と息子の強い愛情を描き出している。 E・M・フォースターのサイエンス・フィクション 3 次に作品の展開を考察してみよう・展開は第一部の ﹁飛行船﹂の途中からすでに始まっている・展開はヴァ シュティの地球の反対側に住むクーノーの部屋への往 復の旅とクーノーがヴァシュティに話す地表への違法 な外出である。ヴァシュティはクーノーの部屋へ向か う旅によって直接経験という未知の出来事を経験す る・次のように、ヴァシュティの旅は始まる。 それでは、ヴァシュティは意気揚々と旅に出発した のであろうか。﹁ヴァシュティは直接経験の恐怖に襲わ ヴァシュティは、まもなく、椅子を壁に向け、不慣 れなボタンを押した・壁はゆっくり開いた・ヴァシュ ティは、開いた壁から、かすかに曲がり、先が見えな くなっているトンネルを見た・ヴァシュティは、自分 の息子に会いに行くつもりならば、ここが旅の始ま りだった。︵九二︶ 十七
れた・ヴァシュティは部屋の中へ後退した。すると、壁 は再び閉じた﹂︵九二︶と語られているように、ヴァシュ ティがその時に感じたものは未知の出来事に対する恐 怖にほかならない・ヴァシュティは、異文化との出会い によって自分を高められる人間ではなく、異文化に恐 怖を感じ、既存の価値観の世界に後退してしまう人間 に設定されている。ヴァシュティに直接経験の恐怖を 乗り越えさせたものは息子に対する愛情である。ヴァ シュティは、壁を再び開け、壁の外のプラットホームか ら地下鉄に乗り、エレベーターの地表への出入口の穴 の底にある飛行船の乗降場に向かう。フォースターが 想像した未来の生活の交通機関はほぼ実現していると 言っても良い。ただし、飛行船が航空交通の主流になら なかったことは周知のことであろう。﹁しかし、ヴァ シュティは外気にさらされて汚れた飛行船の巨大な側 面を見ると、直接経験の恐怖が戻ってきた・実際の飛行 船は映写スクリーンの飛行船と必ずしも同じではな かつた﹂︵九四︶と描かれているように、ヴァシュティは 飛行船を見た時に再び直接経験の恐怖に襲われる・仮 想経験が直接経験と必ずしも一致しないのは当然であ る。そして、﹁一つには、飛行船は、臭いがし、強くなく、 不快ではなかったが、本当に臭いがした・そして、ヴァ シュティは、眼を閉じても、新しいものが近くにあるこ とがわかっただろう﹂︵九四︶と語られているように、 ヴァシュティは直接経験によって飛行船の臭いを嗅ぐ のである・現在においてもパソコンのディスプレイや テレビのモニターで匂いを伝えることはできない・ フォースターは芳香も悪臭も直接経験でないと知覚す ることができないことも予想していたようである。 ヴァシュティが蜂の巣の穴のような住居で経験する仮 想経験は知覚と聴覚に作用するものであり、嗅覚と触 覚に作用する経験は直接経験が必要なのである・ヴァ シュティの旅における直接経験のクライマックスは飛 行船の乗客係に身体を触られたことである・次のよう 十八
場面は語られる。 に、ヴァシュティが飛行船の乗客係に身体を触られるで、廃れてしまっていた。︵九六’九七︶ 世界中の人間がほとんどまったく同じようになっ ていたが、飛行船の乗客係は、恐らく例外的な業務の ため、少し違っていた・飛行船の乗客係はしばしば直 接の言葉で乗客に話しかけなければならなかった・ だから、飛行船の乗客係はこのために態度がいくら か乱暴で変わっていた・ヴァシュティが大きな声を あげて日差しから顔を背けた時、飛行船の乗客係は 野蛮な行動をした・飛行船の乗客係はヴァシュティ を支えようとして手を差し伸べた。 ﹁失礼ね﹂と乗客は大きな声で言った。﹁身の程をわ きまえなさい﹂ その女は、困ってしまい、その乗客を倒れさせな かったことを詫びた・人間は決して互いに身体を触 れ合わなかった・身体を触れ合う慣習は、機械のせい E・M・フォースターのサイエンス・フィクション フォースターは当時の読者がわざと奇妙に思えるよ うに書いたのであろう・肉体の接触が失われてしまっ た世界が描かれている・ヴァシュティは飛行船の乗客 係によって接触という直接経験をするが、その直接経 験は、飛行船の臭いとは異なり、不快なものである。こ のように、ヴァシュティの旅は直接経験の恐怖との苦 闘である。それにしても、フォースターは、例外的な業 務のための飛行船の乗客係という登場人物をこの作品 に登場させたことによって、未来の人類をすべて蜂の 巣の穴の中の幼虫のような人間、つまり、機械を利用し た仮想経験のみの世界に住む人間にすることができな かったことが、階級差別とも解釈することができる人 間の差異を作り出し、未来の生活の姿を弱めている。し かし、この作品の発表時の読者はスマトラ島、ヒマラヤ 山脈、コーカサス山脈、エーゲ海を上空から優雅に見下 十九
ろしながら飛ぶヴァシュティの飛行船の旅に未来の生 活の夢を託したに違いない・ ヴァシュティはこのようにしてクーノーの部屋に到 着するが、クーノーが第二部の﹁修理装置﹂において ヴァシュティに話す直接経験は、機械が支配する世界 からの脱出を図ったクーノーの体験談であり、ヴァ シュティを驚悟させる・クーノーは機械から外出許可 をもらわず、人工呼吸装置、衛生服、栄養剤を持ち、この 地下世界が築かれた時に建設の工事人夫が使用した換 気用の縦穴を登って地表に出てしまい、長くて白い虫 のような修理装置に絡み取られ、自分の部屋に連れ戻 されたのである・クーノーは機械が支配する世界から の脱出を図っているのである・クーノーの試みはこの 作品を人間と場所の関係の問題に向ける。なぜならば、 クーノーは空間の感覚を取り戻すことから機械に反逆 するからである・クーノーは自分の部屋の外のプラッ トホームの目的地へ自分の足で歩く時間で遠近感を取 り戻す。そして、クーノーはヴァシュティに﹁人間が尺 度である﹂︵一○○︶という教訓に辿り着いたことを話 すのである。しかし、クーノーはこの時点では機械が支 配する世界からの脱出を図ってはいない・これは、誰に でも許される散歩であり、クーノーにとっても準備運 動に過ぎない。機械が支配する世界からの脱出を図っ たクーノーの最初の場面の体験談に注目してみよう。 次のように、クーノーはヴァシュティに地下鉄のタイ ルの隙間から機械が支配する世界からの脱出をしたこ とを話す。 ﹁トンネルはもちろん明るかった・すべてが、明る く、人工的に明るい・暗闇は例外である・だから、僕 は、タイルに黒い隙間を見つけた時、これは例外だと わかり、喜んだ・僕は腕を入れた・僕は最初それ以上 入らなかった。そして、僕は無我夢中になって腕をぐ るぐる回した・僕は、別のタイルをゆるめ、頭を入れ、 二 ○
クーノーは、ヴァシュティとは異なり、異文化との出 会いによって自分を高められる人間であり、異文化に 恐怖を感じず、既存の価値観の世界から脱出すること ができる人間に設定されている。クーノーを励まして くれるものはその場所に宿る﹁土地の霊﹂にほかならな い。クーノーは﹁土地の霊﹂に励まされて地表に向かう のである。クーノーの行動は、機械を神と考える宗教に 対する反逆であり、機械が支配する世界からの脱出で ある・機械が支配する世界の外部の世界において、クー ﹃行くぞ・これからやってやるぞ﹄と暗闇の中へ叫ん だ。すると、僕の声が果てしない穴の中に響き渡っ た・僕は毎晩星明りと妻のところに戻った今は亡ぎ 工事人夫や地表で生活してきた幾世代にもわたるあ らゆる人間の霊魂が﹃これからやってくれるんだな。 来てくれよ﹄と僕に言い返してくれたように思えた﹂ ︵一○二 E・M・フォースターのサイエンス・フィクション ノーの視覚を支配したものは暗闇であり、クーノーの 聴覚を支配したものは沈黙である。光と音は機械が支 配する世界を暗示しているならば、暗闇と沈黙こそが 機械が支配する世界の外部の世界を暗示している。 クーノーは、直接経験を経験するどころか、暗闇と沈黙 を経験したのである・機械が支配する世界からの脱出 を図ったクーノーの最後の場面の体験談に注目してみ よう・次のように、ヴァシュティに話すクーノーの体験 談は地表での人間の目撃によって終わる。 ﹁何を見たの﹂ ﹁だって、僕は黄昏の中にその娘を見たんだ・だっ て、僕が呼んだ時、その娘は僕を助けに来てくれたん だ・だって、その娘も、虫に絡まれて、僕よりも幸運な ことに、虫の一匹に喉を食い破られて死んだんだ﹂ クーノーは狂っていた・ヴァシュティは、出て行 き、トラブルは続いたが、クーノーの顔を決して再び 一一一
クーノーは、機械が支配する世界の外部の世界を経 験したばかりではなく、機械が支配する世界の外部の 世界の人間の存在をヴァシュティに話したのである。 フォースターによって読者に信じ込まされていた未来 の社会構造は崩壊していく。機械が支配する世界がす べてであると盲信しているヴァシュティには機械が支 配する世界の外部の世界の人間の存在は信じられな い。そして、ヴァシュティはこのようなクーノーを発狂 していると判断する・ヴァシュティはクーノーが死刑 を意味するホームレスの刑罰、つまり、蜂の巣の穴のよ うな住居から追い出される刑罰を中央委員会から受け てもやむをえないと思うのである。クーノーに対する ヴァシュティの愛情を打ち負かしているものは機械に 対するヴァシュティの忠誠である・機械が支配する世 界の外部の世界と人間の存在を信じるクーノーは、 見ることはなかった。︵一○八︶ 最後に作品の結末を考察してみよう・結末は第三部 の﹁ホームレス﹂の冒頭から始まる・クーノーが事件を 起こしてから数年後の機械崇拝がもっと進んだ時代が 作品の舞台に設定されている・機械が支配する世界の 終焉は機械の故障から始まる・ヴァシュティはある日 ﹁機械が止まりかけている。僕にはわかる・僕には兆候 がわかるんだ﹂︵一二一︶というクーノーからの言葉を 受信する。機械崇拝は増強していくのに、機械の性能は 下落している・ヴァシュティは、その時すでに、音楽の トラブルに見舞われ、機械の故障に困惑しているので ある・ヴァシュティは中央委員会の下部組織である修 理装置委員会に苦情を申し立てるが、機械の故障は修 すべき犯罪者なのである。 ヴァシュティにとっても、追放すべき狂人であり、処刑 4 一一一一
理されないのである・人間が機械を作り出したのに、人 間は機械を修理することができなくなっているのであ る・次のように、機械が故障し始めた時の人間の姿は語 られる。 時が過ぎた。すると、人間は機械の欠陥にもはや腹 をたてなくなった・機械の欠陥は修理されてはいな かったが、人間の神経組織は、とても追従的になって いたので、人間は機械に起こるあらゆる不測の事態 に容易に順応した。ヴァシュティはブリスベイン派 の交響曲のクライマックスの溜息のような音にもは やいらいらしなかった・ヴァシュティはその溜息の ような音を旋律の一部として受け入れた・ヴァシュ ティの友人は、頭の中であろうと壁の中であろうと、 軋むような音にもはや腹を立てなかった。そして、徽 臭い人工果物に対しても、悪臭を放ち始めた浴槽の 水に対しても、詩の機械が発しがちな脚韻の誤りに E・M・フォースターのサイエンス・フィクション 機械を修理することのできない人間は機械が支配す る世界においてはあまりにも無力である。機械が止ま ることは機械が支配する世界の滅亡を意味することは 誰にも推測することができるであろう。機械が支配す る世界の住人の愚かで哀れな点は、誰も機械の修理に 取り組まず、故障した機械の世界に迎合して生きてい る点である。直接経験の喪失が人間の実行力を奪って いるのである・神と化した機械への忠誠が人間に故障 した機械への我慢を生み出しているのである。この作 品は読者に作品の終結部で決定的なディストピァの ヴィジョンを提供する。それは、機械が止まる場面であ り、文明の終焉、地球の崩壊、人類の滅亡である。﹁それ から、予想していなかった恐怖である沈黙が機械の活 対しても、同じだった・すべて、最初はひどく苦情が 出たが、やがて、黙認され、忘却された・事態は変わる ことなく悪化した・二一三︲一一四︶ 一一一一一
動の停止とともに訪れたので、ヴァシュティは取り乱 した﹂︵一三一︶と語られているように、ヴァシュテイは 機械の音がしない沈黙によって機械の停止を知るので ある・クーノーが体験したように、暗闇と沈黙こそが、 機械の停止を意味し、機械が支配する世界を包み込ん でいる外部の世界の存在を暗示しているのである・暗 闇と沈黙は機械が支配する世界に安住してきた人間に とっては恐怖でしかない。しかし、フォースターはこの 作品を完全な絶望で終わらせてはいない・次のように、 人類の希望は死亡する直前のヴァシュティとクーノー の言動に灰めかされている。 ﹁もっと急いで﹂とクーノーは息を切らしながら 言った。﹁僕は死にそうだけど、僕たちは、触れ合い、 機械を通さずに話しているんだ﹂ クーノーはヴァシュティにキスをした。 ﹁僕たちは自分自身に戻ったんだ・僕たちは死ぬけ 蜂の巣の穴のような部屋から外に逃げたヴァシュ ティは機械によってヴァシュティの部屋の近くに転居 させられたクーノーに巡り合うのである・ヴァシュ ティとクーノーはこの直後に地表への出入口の穴の底 にある飛行船の乗降場に墜落してきた飛行船の爆発に よって死亡する。このようにして、この作品は終わる が、死亡する直前のヴァシュティとクーノーの言動が この作品における人間の変質を表現しているのは明白 であろう。クーノーの言葉は機械の支配から脱出した 人間の自立宣言である・クーノーのキスは直接経験の 極みとも言える肉体の接触である・フォースターは未 来の生活の機械文明の崩壊というディストピアのヴィ れども、アルフレッドがデーン人を屈服させた時の ウェセックスのように、生命を取り戻したんだ・僕た ちは真珠色の雲の中に住んでいる人間が地表の外で 知ったものを知ったんだ﹂二一八︶ 二 四
ジョンに人間の生命、自立、肉体の回復という人間の希 望を託しているのである。 このように、この作品は、作品の結末から判断する と、人類への警鐘であり、人間の未来の生活を描くディ ストピア小説である。しかし、この作品の中に描かれて いる世界の機械や設備は、ユートピア的なものもあり、 現在実現しているものもある・サイエンス・フィクショ ンは、必ずしも、未来の生活を描く必要もなく、ディス トピア小説である必要もない。この作品は、人間の未来 の生活を描くサイエンス・フィクションではあるが、 ﹃すばらしい新世界﹄と﹃一九八四年﹄のような徹底した ディストピア小説ではなく、実現して欲しいユートピ アのヴィジョンとディストピアからの救済の希望を残 存させている。そして、ディストピァからの救済の希望 E・M・フォースターのサイエンス・フィクション 5 は人間に影響を与える﹁土地の霊﹂や対立する価値観の 衝突というフォースターの作品に一貫する主題に関係 する・人間は、国家、人種、民族、言語、階級、宗教の統一 された社会において、異文化に出会うことがないよう に思えるが、この作品の異文化は機械が支配する世界 の外部の世界に存在する・機械が支配する世界である 地下と機械が支配する世界の外部の世界である地上と いう場所がこの作品では対置されているのである。こ の世界における神は機械である・機械を神と考える宗 教を盲信する人間の代表のヴァシュティと機械を神と 考える宗教に反逆する人間の代表のクーノーが対照的 に描かれている・ヴァシュティは、機械が作り出す光と 音に安住し、機械が動いていない世界の暗闇と沈黙に 恐怖を感じるが、クーノーは、機械が作り出す光と音に 満足することができず、機械が動いていない世界の暗 闇と沈黙に歓喜を感じるのである・クーノーは、人間が 支配する世界を求めているのではなく、人間が機械を 二 五
道具として利用する世界を求めているのである。対置 されている世界は機械が主体となる世界と人間が主体 となる世界である・ヴァシュティは、対立する価値観か ら後退し、既存の価値観に逃げ込んでしまうが、クー ノーは、対立する価値観を受け入れ、自分を高めるので ある・フォースターの一貫した対立する価値観の衝突 の図式がこの作品にも用いられている。対立する価値 観の衝突という主題はこの作品においても強く描かれ ているが、人間に影響を与える﹁土地の霊﹂という主題 は従属的なものに甘んじている・クーノーは、空間の感 覚を取り戻すことから人間の主体性を取り戻すことを 始め、人間と場所の関係は空間の感覚を取り戻すきっ かけに過ぎない。﹁土地の霊﹂は、暗闇と沈黙の中の死者 の声として登場し、機械が支配する世界の脱出を図る クーノーを励ます役割を演じるだけである。この作品 は、人間に影響を与える﹁土地の霊﹂によって過去の価 値観を伝え、未来の世界における対立する価値観の衝 突を描き出している。惜しむべきことは、フォースター はこの作品しかサイエンス・フィクションを書かな かったことである。なぜならば、フォースターが描く未 来の生活のヴィジョンはかなり的中しているからであ る。フォースターは、サイエンス・フィクションにユー トピアを描いてもディストピアを描いても、サイエン ス・フィクションで人類への希望と警鐘を描き出せた 作家でもあると思えるからである。 ︹注︺ ︵11︶]・国・国①①門・自害免込G萱偽ご範ミ価雪﹃。、画.二戸、。昌蔚﹃ ︵両昌邑ご冒侭言○面目ざ騨雲旨・色Pらひご.己uP ︵2︶こく邑坤①Q、︽◎目①廼自琴⑲○画ご殉画冨昼耳呑め﹄亀。震琶一国雪牝壁 画ミミヒ。、国.﹄芦、。﹃買価、宙国邑さR骨要色目昏崗ロロヨぐ. 宅吋①いい︾]C③。︶ゆで﹄吻画. ︵3︶い︻︽F“ごso寄負重殉琶函⑯国電昼○○苫ご恥琶迂。琶負園こぎ 尋偽、言ごo葛。、国.廷..、。昌馬﹃︵z①言昌。︻汽少三m 一一一ハ
勺爲①のい︾一℃cc︶︺己﹄凶司. ︵ん坐︶国・三島.詞。Rい︽①扉余目面①二目四○声一己①由弄○壱屯・一宮自害ゐ ご邑国o壹琶恥函ざ、堕負冨包○碁⑲﹃画きご価鈩シ三回、①門田三︲ ︽ざ邑司P○三○胃シ邑胃①ロ①貝の号.乞君︶以下、テ クストからの引用は引用文の末尾にページ数を示 す。引用はしなかったが、国.①・君①匡吻の鈴弓言ヨョ① 三四o三邑屯ゞは国.Q・君巴房。画亀恥G尉旦函寄。ご函ご︲ 討員偽堕・勺①邑函臣一目目葛①邑三①骨壷︲の①邑弄臣﹃]○一四のの一○の ︵困四目巨○国Qの君。員胃弓①国、巨言国。◎穴の︺﹄C司巴、少匡○二の 国巨三①亘の画討画ご甸乏毎二﹀ミ。、ミはシ匡○巨切国巨堂①雰 酌﹃Qご命乏ゐこ︾弓。﹃三︵こい鰐呂戸Pop・oRo彦胃8群 室三自己冒碗.一cmJ︶、①①。﹃、①○﹃言①匡のz言⑮﹃ぬ⑯苫 画狩實宇、o置司は①①。侭①○コ弩①二︾ミミミ範偽琶固狩雪宇 、。置意つ@や桿烏でずPCロロ。旨の①。穴①崗騨暑言画禺ウ巨吋宇 乞a︶をテクストとして使用した。 ︵5︶シ一①×画邑QR四シ宣門篦、①.﹃琴n画g⑱弓員ごn言○ミミョ命ミ ミロ豈貿。、旨︵シ回国少尉弓◎弓ご三国宛①碗①國島。匿瑁門①賂. E・M・フォースターのサイエンス・フィクション ﹄@﹃唖︶四壱・℃。 ︵6︶F画巨吋①ロ。①国︻四邑口①H︺岡.二戸、。﹃員殉尋﹄、﹃ご言p一 画耳謹包建cCa騨爲も言FopQo邑唖困巨で①員国四目︲己画く房暫 二℃﹃e・で画一要己①邑厨QoQ津①ざ国.一員、。﹃員⑮﹃﹄堕 ○忌飼﹃穴言函旦。ミ︵両昌邑ず巨烏、言○屋ぐ①舜騨国。]具 ﹄Cam︶ゆで。﹄い・ ︵7︶国①①伊己いP、︽。p①︺己で﹄いい︲]いいF画ロニ嘩己﹄凶〆 ︵8︶村田幸範﹁人工子宮を生み出すものlE・M・フォー スター﹁機械が止まる﹂に見るネットワーク社会と自 己l﹂、﹃︿異界﹀を想像するl英米文学におけるジャ ンルの変奏l﹄玉井障・新野緑共編所収、阪大英文学 会叢書3︵東京亜英宝社、二○○六年︶、九○頁。 ︵nコ︶ぬ︽。p①︺壱・一吻国・ ︵Ⅲ︶村田、九四頁。 ︵Ⅱ︶F四自負で国〆 ︵旧︶]・塑困①﹃N・目琴命吻琴。ミ翼国司﹃ミご曾具⑳国宝.、。、︲ 園﹃ぬ﹃︵F○国・◎ご“シ自画○房目筥一色目。﹄C四四︶・で己剴つ︲ヨ]. 二 七